聖書と翻訳 ア・レ・コレト

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(000)ルカによる福音書16章-8

2018年05月21日 | ルカによる福音書

ἔλαιον エライオン オリーブ油


この記事は、ルカによる福音書16章1~14節『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


この記事は、以下の内容を記述します。

・解釈文(原文放棄をしていない訳文になる前の状態)
・私訳
・ウラの解釈
・神学の偶像化
・くさやのテイスト



~解釈文~

これは律法学者たちが理解した、表(おもて)の解釈です。原文放棄をしていないのでまだ訳文ではありません。

ルカによる福音書16章1~14節 

『イカサマ会計士』

1)イエスさまは弟子たちに次の話しをします。「ある金持ちのところで働く会計責任者がいました。ところが、この会計士を陥れようと企てる者がいて『ご主人様。あの会計士は、ご主人様の資産を無駄づかいしています。それも湯水のように使っているんですよ』と告げ口をしたのです。
2)あるじは大声で会計士を呼びつけると『君について聞き捨てならなぬ噂(うわさ)を聞いているぞ。とんでもないことをしてくれたな。会計帳簿を提出しなさい。もう仕事は任せない』と言い渡しました。
3)会計士は『困ったなあ。クビになったらどうしよう。力仕事は自信がないし、ホームレスは恥ずかしい。
4)そうだ。こうしておけば、顧客の誰かが面倒を見てくれるに違いない』と、あるゴマカシを思いつきます。
5)会計士は、取引先の中からあるじに負債がある顧客を選び、一人ずつ呼び出した。初めの顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると
6)『オリーブ油100樽です』との返事です。会計士は『では、椅子に腰かけこの受領書に50樽で記入してくれ。手早くやってくれよ』と命じます。
7)次の顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると『小麦10トンです』との返事。『では、この受領書に8トンで記入してくれ』と会計士は命じました。
8)神を敬う信仰者より、世俗に生きる人の方が一枚上手(うわて)なのです。ところで、このイカサマ会計士を讃えたのは、何とあのあるじであったのです。
9)いいですか、お金の偶像マモンさまのイカサマ術を使い仲間をつくること、ここが大切なところです。一文無しになった時、この仲間がうやうやしくあなたを出迎え、とこしえにその家に住まわせてくれるでしょう。
10)始めは取るに足らない信仰であっても、やがて敬虔な信仰者に育つ。そのように、始めはウブなイカサマ師でも、やがて一人前のイカサマ師になります。
11)本物のイカサマ師として認めて欲しければ、いかさまマモンの忠実な家来になることです。
12)マモンは他国の宗教ですが、イカサマを伝授して欲しいのであれば、これを熱心に信仰するほかありません。
13)一人の家来が二人の主君に仕えることはできません。一方を大切にすると一方を嫌います。一方に熱心になるともう一方を軽んじます。そのように主なる神とマモンの両方に仕えることはできないのです』
14)私有財産を増やすことが大好きなパリサイ人は興味津々聞き入っていたが、話しが終わると馬鹿にしたように笑い声をあげた。




~私訳~

解釈文に原文放棄という処理をし訳文を作ります。

ルカによる福音書16章1~14節 

『イカサマ会計士』

1)イエスは弟子たちに次のたとえ話しをされた。「ある金持ちのところで働く会計責任者がいた。ところが、この会計士を陥れようとする者がいて『ご主人様。あの会計士は、ご主人様の私有財産を湯水のように使っています』と告げ口されてしまったのです。
2)あるじは大声で会計士を呼びつけると『君について聞き捨てならなぬ噂(うわさ)を聞いているが、とんでもないことをしてくれたな。会計帳簿を提出しなさい。もう仕事は任せない』と言い渡しました。
3)会計士は『困ったな。クビになったらどうしよう。力仕事は自信がないし、ホームレスは恥ずかしい。
4)そうだ。こうしておけば、顧客の誰かが面倒を見てくれるに違いない』と、あるゴマカシを思いつきます。
5)会計士は、取引先の中から負債を抱える顧客を選び、一人ずつ呼び出します。初めの顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると
6)『オリーブ油100樽です』との返事。『では、椅子に腰かけこの受領書に50樽で記入してくれ。手早くやってくれよ』と命じます。
7)次の顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると『小麦10トンです』との返事。『では、この受領書に8トンで記入してくれ』このように会計士は命じたのです。
8)神を敬う信仰者より、世俗の人間が一枚上手(うわて)ではありませんか。ところで、このイカサマ会計士を讃えたのは、何とあのあるじであったのです。
9)いいですか、マモンさまが教えるイカサマ術、それを使って仲間をつくることが大事な点です。もし一文無しになったなら、その連中がうやうやしくあなたを出迎えて、いつまでもその家に住まわせてくれるでしょう。
10)始めは幼い信仰でも、やがて敬虔な信仰者に育ちます。そのように、始めはウブなイカサマ師でも、やがて一人前のイカサマ師になるのです。
11)本物のイカサマ師として認めて欲しければ、いかさまマモンの忠実な家来になることです。
12)これは他民族の宗教ですが、イカサマ稼業を身に付けたいのであれば忠実に従いなさい。
13)一人の家来が二人の主君に仕えることはできません。一方を大切にすると一方を嫌います。一方に熱心になるともう一方を軽んじます。イスラエルの神とマモンさま、その両方に仕えることはできません』
14)私有財産を増やすことに余念がないパリサイ人は興味津々聞き入っていたが、話しが終わるとあざけるように笑い出した。



~ウラの解釈~

上記の訳文は表の解釈になっています。このお話しは終始一貫アイロニー表現で書かれているので、その真意も示さないと、翻訳作業が終わったことになりません。ウラの意味は律法学者たちへの痛烈な批判です。

ルカによる福音書16章1~14節

『イカサマ会計士』

1)イエスは弟子たちに次のたとえ話しをされた。「ある金持ちのところで働く会計責任者がいた。ところが、この会計士を陥れようとする者がいて『ご主人様。あの会計士は、ご主人様の私有財産を湯水のように使っています』と告げ口されてしまったのです。

金持ち:父なる神
会計士:イエスさま
告げ口した人:律法学者たち
私有財産:神の国を受け継ぐ権利

律法学者たちは、取税人、売春婦たちを同じユダヤ民族とは見做さなかったので、イエスさまが取税人たちに福音を伝えることを、無駄な伝道だと馬鹿にしていました。管理人があるじの財産を無駄遣いしているというのは、イエスさまが神の救いを取税人たちに教えていることを自虐的に語ったことばです。

『イカサマ会計士』は、律法学者のひねくれた視点で綴られています。違う言い方をすれば、イエスさまが自虐的な語り口で語ったともいえるでしょう。実際には自虐を通り越し、とんでもない自己破壊的な表現(9~13節)になっているのですが。

しかしこの話しに秘められた真意は、アブラハムの子孫である取税人たちへの愛と、律法学者たちへの痛烈な批判です。『不正な管理人』はアイロニー表現となっていて、始めから最後まで表とウラの二重構造になっています。なぜこんな面倒な話し方をしたのでしょうか?それは、イエスさまがユダヤ人として生まれ、ユダヤ文化を身に付けていたからです。ユダヤ人はこうしたアイロニー表現を使うことがあります。



2)あるじは大声で会計士を呼びつけると『君について聞き捨てならなぬ噂(うわさ)を聞いているが、とんでもないことをしてくれたな。会計帳簿を提出しなさい。もう仕事は任せない』と言い渡しました。
3)会計士は『困ったな。クビになったらどうしよう。力仕事は自信がないし、ホームレスは恥ずかしい。

会計士が退職に追い込まれるということの真意は、律法学者たちの策略でイエスさまが受難に追い込まれるという意味です。力仕事をする人やホームレスというのは、こうした人たちを律法学者たちが見下していたということで、イエスさまがそのように思っていたということではありません。


4)そうだ。こうしておけば、顧客の誰かが面倒を見てくれるに違いない』と、あるゴマカシを思いつきます。
5)会計士は、取引先の中から負債を抱える顧客を選び、一人ずつ呼び出した。初めの顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると

負債を抱えた顧客というのは、自らの罪に打ちひしがれる取税人や売春婦たちを意味します。受難を目前にした日々、イエスさまが熱心に取り組んだのは、取税人たちへの宣教であったということです。


6)『オリーブ油100樽です』との返事。『では、椅子に腰かけこの受領書に50樽で記入してくれ。手早くやってくれよ』と命じます。
7)次の顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると『小麦10トンです』との返事。『では、この受領書に8トンで記入してくれ』このように会計士は命じたのです。

オリーブ油100樽、小麦10トン分の未払いというのは、個人では払いきれないほど大きな負債だという意味です。オリーブ油は高貴さを象徴し、小麦(パンの原料)は世俗を意味します。ある人は神に対する大きな罪を犯し、ある人は社会生活で大きな罪を犯していることを表しています。『オリーブ油100樽、小麦10トンの負債』なぜか心に浸み入る表現です。

律法学者たちから見れば、罪深い取税人が天国に入るというのは納得できないことでした。しかし、大きな負債を抱えた人を罪から開放することが神さまのみ心だという意味になっています。



8)神を敬う信仰者より、世俗の人間が一枚上手(うわて)ではありませんか。ところで、このイカサマ会計士を讃えたのは、何とあのあるじであったのです。

イエスさまが取税人たちに宣教する姿を見て、律法学者たちは『イエスは庶民を食い物にする下心があるに違いない。何とずる賢い奴だ』と見ていました。ところがここ8節で初めて、イカサマ会計士とあるじが同じ穴のムジナであったことが分かります。この真意は、律法学者たちにはずる賢く見えたイエスさまの宣教活動こそ、父なる神が喜ぶことであるという意味です。

あるじがイカサマ会計士を讃えたというくだりは、律法学者たちの常識を覆(くつがえ)すどんでん返しが起こったぞということです。『放蕩息子』でも帰宅した息子を父親が大歓迎しますが、これもどんでん返しになっています。律法学者から排斥されたイエスさまですが、地上の働きを終えたあと父なる神から栄誉をお受けになります。『放蕩息子』と『不正な管理人』は共にアイロニー表現で書かれた並行記事で、つながりがあるということが分かるでしょう。



9)いいですか、マモンさまが教えるイカサマ術、それを使って仲間をつくることが大事な点です。もし一文無しになったなら、その連中がうやうやしくあなたを出迎え、いつまでもその家に住まわせてくれるでしょう。

清廉潔白を装い大衆のハートをガッチリ掴んだイカサマ伝道師イエス。そして、お金を騙し取るテクニックにかけては天下一品の取税人。この両者が手を組んだからには、何かやらかすだろう。多くの民衆からお金を巻き上げる荒稼ぎを企(たくら)んでいるのではないか。こうした律法学者たちの見方を逆手に取った表現になっています。

9~13節にイエスさまの爆弾発言が書かれています。何と『宗教法人マモン教』の旗揚げを宣言されたのです。イエスさまが『マモン』といういかがわしいことばを使ったのには理由があります。当時ユダヤはローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国は支配下の国から税金を取り立てる代役を、現地のユダヤ人におこなわせます。取税人は自分の生活費や遊興費を得るため、不正に上乗せした金額を取り立てていて、こうした詐欺行為が横行していました。そのため取税人に『お金に汚い非国民』というレッテルが貼られます。『金銭欲、非国民』というイメージに重ねて『外国の宗教、マモン』ということばが使われているのです。ですから、マモナースを『富』と意訳してはダメな理由が分かりますよね。マモナースは文字通り『偶像神マモン』と訳出しなければなりません。

イカサマ宗教を使い、どんどん信徒を増やしなさいと命じる辺りは、新手(あらて)の宗教活動そのものです。こんにちでも、新興宗教の幹部が神様のように崇められるように、イカサマ宣教師が失職した日には、忠実な信徒がうやうやしく面倒をみてくれるだろうと語ります。ここの真意は、取税人たちへの宣教に取り組むことへの奨励と、宣教者が地上での働きを終え天国に入る時、先に救われた取税人たちが感謝をもって出迎えてくれるという意味になります。



10)始めは幼い信仰でも、やがて敬虔な信仰者に育ちます。そのように、始めはウブなイカサマ師でも、やがて一人前のイカサマ師になるのです。

『律法学者たちをご覧なさい。始めは幼い信仰でもあのように立派な信仰者に育つではありませんか』と、表面上は褒めていますが、その真意は律法学者の偽善に対する皮肉です。また、イカサマ伝道師の成長というのは、イエスさまにならう福音伝道者の成長を自虐的に表現したものです。


11)本物のイカサマ師として認めて欲しければ、いかさまマモンの忠実な家来になることです。
12)これは他民族の宗教ですが、イカサマ稼業を身に付けたいのであれば忠実に従いなさい。

イエスさまの戒めを忘れることなく、取税人たちの宣教にまい進しなさいという意味になります。


13)一人の家来が二人の主君に仕えることはできません。一方を大切にすると一方を嫌います。一方に熱心になるともう一方を軽んじます。イスラエルの神とマモンさま、その両方に仕えることはできません」

弟子に向かって『君たちはユダヤ人として生きてきたが、イスラエルの神と外国のマモンどっちを選ぶんだ。(当然マモンだよね)』と選択を迫っています。イスラエルの神というのは、律法学者たちの偽善的信仰を意味し、マモンは新しい契約に基づく信仰という意味になります。律法学者たちは形式上ユダヤ教の教師ですが、その心はマモンの奴隷になっているという批判も込められています。

マタイ福音書は、不正な管理人のお話しからこの1節だけを残し記述しています(マタイ6:24)。



14)私有財産を増やすことに余念がないパリサイ人は興味津々聞き入っていたが、話しが終わるとあざけるように笑い出した。

14節はアイロニー表現ではないので、文字通りの解釈になります。ルカ16章では『フーパルホー 私有財産』ということばが、1節と14節で繰り返し使われています。1節では、イエスさまが『あるじの財産=神の福音 フーパルホー』を取税人たちに惜しみなく与えている様子を表現し、14節では、律法学者たちが『この世の財産 フーパルホー』の奴隷になっていることを表現しています。『フーパルホー』を繰り返し使い、クスッと笑えるオチを与えて文末を締めくくる、そういう表現技巧です。イエスさまは、イカサマの奨励、イカサマを駆使した信徒拡大、新興宗教マモン教の設立を公に宣言したのですから、律法学者たちがあざ笑うのも無理ありません。ウラの意味までは理解していなかったのですから。



~神学の偶像化~

ある神学者は『8節以降は後世の人が加筆したお話しだ』と主張しています。既存の聖書翻訳では1~7節の内容と、8節以降の内容に文脈のつながりが見られなかったためです。しかし、この『聖書と翻訳』で示したように『不正な管理人』の文章は計算されつくした構成になっていて、前後関係も密接につながっています。1~14節はまとまった一つのお話しであって、8節以降が後世の加筆だというのは、神学者の見たて違いです。

8節以降が正しく翻訳されてこなかった理由を説明させていただきます。英訳聖書は現在40以上の翻訳がありますが、英訳、日本語訳のいずれを見ても、8~13節の翻訳を間違えており、同じ内容で訳されていました。ギリシャ語を見ると、イエスさまが『イカサマ伝道を奨励し、マモン教を信仰しなさい』という内容なのでびっくりします。私もギリシャ語を見て、一瞬頭が真っ白になりました。

神学者がこの箇所を読んだ場合『イエスさまが、イカサマを奨励したり、マモン教を信仰しろなどと言うはずがない。このようなことばは神学的解釈と矛盾するから、原文はほかの意味で解釈しなくてはならないはずだ』と考え、原文とは異なる訳文が作られます。それはあたかも『主よ、そんな大それたことを発言してはいけません』と神学者がイエスさまを叱責する行為です(マタイ16:22)。神学者は自分が持つ知識を動員し、間違った解釈を正当化することもできるので更に厄介になります。

いずれにせよ、実際の原文が『マモン教を信仰しろ』と語っているのであれば、素直にその通り訳出することが翻訳者のつとめであって、自分の先入観に合わせて解釈をねじ曲げるなら、それは翻訳ではなく創作です。

本来、神さまと人間の関係というのは、神さまが主で人間は従です。そうであれば、聖書の原文が主であって、神学上の解釈は従であるはずです。ところが神学者が翻訳をすると、神学に適合するよう神のことばをコントロールすることが起こり、神学が主となり神さまのことばが従となります。これは神学の偶像化ではないでしょうか?この神学の偶像化がイザヤ書8章8節の翻訳でも起こっていて、新改訳は次のように翻訳しています。

8)ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。

新改訳では、『インマヌエル』を人名として解釈し、『広げた翼』を神がイスラエルを保護する象徴として解釈しています。これが誤りであることは『イザヤ書8章-5』 『イザヤ書8章-7』で詳しく書かせていただきました。翻訳者がなまじっか神学的知識を持っていると、『インマヌエルはイエス・キリストの意味だ』『翼とは神の保護だ』と誤訳したくなるのです。

インマヌエルがイエス・キリストを暗示するのは、イザヤ書7:14この箇所だけです。イザヤ書8章8節のインマヌエルまでイエス・キリストを示すように解釈をするのは過剰な拡大解釈になります。イザヤ書8章8節とルカ16章は、キリスト教神学者が原文解釈をコントロールし、原文の意味を大きく変えた創作文です。

あのイチロー選手が、次の動画でうまいことを言ってるので引用させていただきます。野球選手が氾濫する情報に踊らされていることへの警告です。『トラやライオンはウエイトトレーニングをしない。今の野球選手は、過度なウエイトトレーニングをやっているが、筋肉を大きくすることが却って体の故障につながっている。今の時代、情報が多すぎるので頭でっかちになりがちだ』という内容です。


該当箇所は、6:53~10:00にあります。

情報が豊富になることが却って、翻訳を混乱させている面があります。ルカ16章6,7節で、管理人はオリーブ油と小麦の負債を減額しますが、ある神学者は『元の売値には利息分が上乗せされており、管理人が減額したのはこの利息分だけなので何ら不正には当たらない』と合理的な解釈をしています。しかし、これを裏付ける記述は聖書のどこにも書かれていません。神学者が自分の知識を寄せ集め、屁理屈で原文解釈をねじ曲げているのです。

翻訳者であるなら原文に対し『しもべは聞きます。お話しください(サムエル上3:10 )』という姿勢を貫かなくてはなりません。原文解釈に自分の先入観を持ち込むということは『しもべが語ります。お黙りください』と言っているのと同じです。聖書翻訳には神学上の知識や考古学の知識が必要だと思われているようですが、敢えて言わせていただきますが、こうした専門知識がかえって原文解釈をねじ曲げる原因にもなる。そういう危険性をはらんでいるという認識も必要です。

不正な管理人を解釈する上で、ルカがこの福音書を書いた目的、ルカの人物像、ルカのイエス像から理解しなくてはならないのですが、ほとんどの翻訳者はこうした原文の輪郭を把握する作業をおこなっておらず、単語や文法といった表面的な目に見えるところでしか解釈していないようです。『放蕩息子』のお話しもアイロニー表現で書かれていて、放蕩息子はイエスさまを暗示しているのですが(ルカによる福音書16章-2)、こうしたことを理解している神学者はいないようです。『放蕩息子』がアイロニー表現であることが理解できないのであれば、『不正な管理人』もアイロニー表現であることが理解できないでしょう。

スポーツ選手にとって人体を理解しているかどうかが、パフォーマンスに大きな差が付くように、翻訳者が言語の本質を理解しているかどうかは、訳文の品質に大きな差となり現れます。イチロー選手も言っているように『見えるところではなく、見えないところに注目する(第二コリント4:18)』というのは、どんな仕事においても大切なことであるはずです。

一語一訳主義や直訳主義に言語の本質はありません。言語には恣意性があるという理解が言語の本質になります。原文解釈をするには、言語学、異文化コミュニケーション、心理学などの知識と、翻訳スキルが必要になります。こうした土台なしに、小手先の神学的知識に頼って原文解釈をしてはいけないのです。



~くさやのテイスト~

日本では、みそ、醤油、納豆、漬け物など発酵させた食品がよく使われますが、その中でも、くさや、ふなずし、なれずしは、格別の臭さと旨さで知られています。強烈な悪臭は食べる気を失わせますが、一度食べたらやみつきになるそうです。『不正な管理人』は表面上の解釈は、悪臭放つお話しですが、ウラの意味では、取税人たちへの愛が生き生きと描写されています。原文には、神さまの愛、自らの罪深さに対する悔い改め、地上でどのように生きていけばよいかの指針を読む人に訴えるものがあって、これが『不正な管理人』が書かれた意義だと思うのです。翻訳を通しこれらのものを日本人に伝えることができるかどうかが、原文に忠実な翻訳かどうかの判断基準になるべきです。新改訳のように『直訳、ぎこちない訳文』という愚かな理念を掲げるようでは、原文の意図を日本人に伝えることなどできませんよ。

一度『不正な管理人』の味を知ってしまうと、やみつきになることでしょう。







(000)ルカによる福音書16章-7

2018年05月20日 | ルカによる福音書

ἐκμυκτηρίζω エクムクテリゾー あざ笑う


この記事は、ルカによる福音書16章13~14節『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。



~ルカによる福音書16章13~14節~

新改訳
13)しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
14)さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。


一般的に不正な管理人のお話しは1~13節までで区切られていますが『不正な管理人』の原文解釈をしてみると、14節が果たす役割が非常に大きく、14節は『不正な管理人』と強く結びついていることが分かります。段落分けをするのであれば、14節は『不正な管理人』に含めるべきだと思います。


13~14節で検討すべき箇所が4つあります。

・しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません
・富
・さて、金の好きなパリサイ人たちが
・一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた



~しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません~

16章13節



κυριοσ(2962) kurios クリオス 名詞
神、主なる神、主人、雇い主、メシア

οικετεσ(3610) oiketes オイケテス 名詞
雇い主と同じ屋根の下で暮らしている下男。雇い主とその家族に対し誠意と真心をもって働く男子。

新改訳は『しもべ、主人』と訳出していて、これでも構わないと思います。ギリシャ語には『しもべ』を意味することばがたくさんあります。一般的に、身分、職位の解釈は難易度が高いので慎重な解釈が必要だということは申し上げておきます。



~富~

9、11、13節で『富』ということばが出てきますが、これはギリシャ語の『マモナース』ということばです。これは『偶像神マモン』という意味で、『富』と意訳するのは間違いです。新改訳がどうして直訳理念を守らないのか理解できません。詳しくは『ルカによる福音書16章-5 ~富~』の記事を参照願います。



~さて、金の好きなパリサイ人たちが~

16章14節



φιλάργυρος(5366) philarguros フィラルグロス 形容詞
お金を愛する、お金に目がない、貪欲な

ὑπάρχω(5225) huparcho フーパルホー 動詞
所有する



フィラルグロス

『フィラルグロス』は『フィロス 愛する』+『アルギロス 銀』ということばの組み合わせになっていて、『お金を愛する、私腹を肥やす』という意味になります。

話は逸れますが、ルカ福音書を執筆した『ルカ』とパウロ書簡に登場する『ルカ』が同一人物かどうか議論されることがありますが、ギリシャ語の語彙に着目するなら答えが出ると思います。新約聖書で『フィラルグロス お金を愛する』という形容詞が使われるのは、ルカ16:14と第二テモテ3:2の2箇所だけです。

第二テモテ3: 2
そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者(フィラルグロス)、大言壮語する者・・・

また名詞『フィラルグリア』が使われているのは、第一テモテ6:10だけになります。

第一テモテ6:10
金銭を愛すること(フィラルグリア)が、あらゆる悪の根だからです・・・

滅多に使われないことばがルカ福音書とパウロ書簡に集まっているのですから、同一人物が書いた可能性が極めて高いと言えるでしょう。

第二テモテ4:11 
ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください・・・



フーパルホー

ルカ16章の中で『フーパルホー 私有財産』ということばが、1節と14節で繰り返し使われています。1節で、イエスさまが『あるじの財産=神の福音 フーパルホー』を取税人たちに惜しげもなく与えていると表現し、14節では律法学者たちが『この世の財産 フーパルホー』の奴隷になっていることを皮肉って表現しています。『フーパルホー』を繰り返し使いクスッと笑えるオチを与えて文末を締めくくる、そういう表現技巧です。これは14節を『不正な管理人』に含めるべき理由の一つになります。

フーパルホーはお話しを締めくくる重要な表現なので、1節と14節は同じ訳語を与えた方が良いのです。新改訳は、Van Leeuwen(ヴァン・ルーエン)博士のレポートを引用し『直訳、トランスペアレント訳』が良いのだと主張していますが、1節と14節で同じ『フーパルホー』が使われているにも関わらず、違う訳語を与えるのは翻訳理念と矛盾しています。看板倒れの翻訳に名前を引用されては、ヴァン・ルーエン博士もさぞご迷惑でしょう。新改訳は翻訳理念に反して訳出された箇所が沢山あります。

次のように同じことばで訳出しておけば、原文の技巧を訳文で再現することができます。



『放蕩息子』では兄と弟に父の財産(ουσια(3776) ウーシア)が分配されます。これは神さまのみことば(父の財産)が、律法学者(兄)とイエスさま(弟)に平等に与えられていたのですが、イエスさまが取税人たち(遊女)に福音を伝道することを財産の無駄遣いだと、律法学者は悪しざまに非難したという意味になっています。放蕩息子もアイロニー表現で書かれていて、二つのお話しは並行関係にあります。



~一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた~

16章14節

『あざ笑っていた』と訳されたのは『エクムクテリゾー』というギリシャ語です。
εκμυκτεριζο(1592) ekmuktérizó エクムクテリゾー 動詞
鼻先を上げてあざ笑う、嘲笑する、見下したように笑う

新約聖書で2回しか使われておらず、2回ともルカ福音書で使われています。もう1か所は十字架の場面です。

ルカ23:35 新改訳
・・・指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った・・・

『エクムクテリゾー』とほぼ同じことばに『ムクテリゾー』ということばがあるのですが、このことばが使われているのはガラテヤ6:7の1か所だけです。

μυκτηρίζω(3456) muktérizó ムクテリゾー 動詞
意味は『エクムクテリゾー』と同じです。

ガラテヤ6:7
・・・神は侮られるような方ではありません。・・・
ここガラテヤ書簡にも、ルカの筆跡が見え隠れします。


ところで『あざ笑う』という意味で一般的に使われるギリシャ語は『エンパイゾー』で、新約聖書では13回使われています。

εμπαιζο(1702) empaizo エンパイゾー 動詞
からかう、あざける、茶化す

四福音書の中ではマタイ、マルコ、ルカの三人が『エンパイゾー』を使っているのに対し、『エクムクテリゾー』を使っているのはルカだけです。二つのことばを使い分ける語彙と表現力がルカにはありました。ルカ福音書を見ると、ルカしか使っていないことばというのが至る所にあり、ルカはギリシャ語の表現力が抜きんでていたことが分かります。ルカの文章力なくして『不正な管理人』を書きあげることはできなかったのです。



~16章13~14節 解釈文~

以上を踏まえ解釈文を作ります。原文放棄をしていないのでまだ訳文ではありません。

13)一人の家来が二人の主君に仕えることはできません。一方を大切にすると一方を嫌います。一方に熱心になるともう一方を軽んじます。そのように主なる神とマモンの両方に仕えることはできないのです』
14)私有財産を増やすことが大好きなパリサイ人は興味津々聞き入っていたが、話しが終わると馬鹿にしたように笑い声をあげた。



~関連語句の分類~

次の図のように原文に表れる関連語句を整理しておけば、原文と訳文が大きく逸れることがありません。





~100年経っても変わらない~

聖書が日本語に翻訳され、一般向けに出版されたのは明治時代のことで、当時はヘブライ語やギリシャ語を理解できる日本人が一人もいない時代でした。それから100年の年月が経ちましたが、聖書の翻訳、原文解釈は進んでいるのでしょうか?残念ながら、誤った訳文が訂正されることなく、ずるずると引き継がれています。ルカ16章10~12節をご覧ください。

文語訳 1887年+1917年
10)小事に忠なる者は大事にも忠なり。小事に不忠なる者は大事にも不忠なり。
11)さらば汝等もし不義の富に忠ならずば、誰か眞の富を汝らに任すべき。
12)また汝等もし人のものに忠ならずば、誰か汝等のものを汝らに與ふべき。

口語訳 1955年
10)小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。
11)だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。
12)また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。


新共同訳 1987年
10)ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
11)だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
12)また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。


新改訳 1970年、2003年
10)小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
11)ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
12)また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。


私訳(解釈文)
10)始めは取るに足らない信仰であっても、やがて敬虔な信仰者に育つ。そのように、始めはウブなイカサマ師でも、やがて一人前のイカサマ師になります。
11)本物のイカサマ師として認めて欲しければ、いかさまマモンの忠実な家来になることです。
12)マモンは他国の宗教ですが、イカサマを伝授して欲しいのであれば、これを熱心に信仰するほかありません。


従来の日本語訳はいずれも解釈を間違えており、また読んでも意味が分かりません。訳文も日本語の言いまわしをちょっと変えてるだけです。この程度の仕事しかしていない翻訳者に、お金を払って欲しくないですね。このありさまでは手抜き作業だと言われても仕方ないでしょう。というのも、10~12節のギリシャ語は、ごくごくシンプルな文法しか使われていないので、ギリシャ語初心者でも解釈できるレベルだからです。一つ一つの単語の解釈にしても、全て辞書に載ってる定義から選べば済みます。ギリシャ語を読める方がいたら試していただきたいのですが、原文を素直に読めば私訳と同じ解釈になるはずです。私はひねった解釈は一つもしていません。原文解釈をねじ曲げているのは既存の日本語訳聖書です。

明治の先人たちはベストを尽くして翻訳したことと思いますが、自分たちの作った訳文が100%正しいとうぬぼれる翻訳者はいなかったでしょう。自分たちが解釈しきれなかったところは、次の世代にひも解いてもらいたい、そういう思いであったと思います。過去の聖書翻訳の間違いを訂正することは気が引けるとか、過去の翻訳者に対し失礼にあたるのではないかといった身内への遠慮があるようですが、もし、神学者コミュニティーのメンツを守ることが優先されているとするなら、いつまで経っても原文に忠実な翻訳などできるはずがありません。翻訳に間違いがあることを知りながら訂正をしないということは、テキストの執筆者や神に対し失礼なこと、また読者に対し失礼なことです。

こんにち誰が聖書の翻訳をおこなっているのかが、次の記事に書かれています。

Christian Today『新しい訳は・・・4年後の完成』より引用
『同協会の大宮溥理事長は、新訳を急ぐ理由について、聖書翻訳に携わる神学者や聖書学者といった人材が今後減少するかもしれないという懸念を語った。戦後の日本では、聖書翻訳に携わることができる人材の豊かな蓄積があった。だが、こうした人材の高齢化により今後その蓄積が乏しくなっていく可能性がある・・・』

聖書翻訳を実際に担当しているのは『神学者や聖書学者』で、今後もその方針は変わらないのだと記事に書いてあります。言い換えるとプロの翻訳者は今までも使っていないしこれからも使う予定がないという意味です。果たして『神学者や聖書学者』がプロとして翻訳をする能力があるのでしょうか?それが無理だというのは、100年経って何も訂正されない訳文が示すところです。

更に誤訳された例を挙げさせていただきましょう。出エジプト記の『女預言者ミリアム』です。『ミリアムは女預言者であった』『聖書に登場する最初の女預言者はミリアムである』と解説されていますが、この誤りは聖書の誤訳から発生しています。

新改訳 出エジプト15:20
アロンの姉、女預言者ミリヤムはタンバリンを手に取り、女たちもみなタンバリンを持って、踊りながら彼女について出て来た。

『女預言者ミリアム』と翻訳する聖書が多いのですが、ミリアムは女預言者ではありません。出エジプト記を注意して読めば分かるはずですが、エジプトを脱出する時、預言者として任命されたのはモーセだけです。アロンは代弁者として任命されていますが、ミリアムに関する召命はありません。

新改訳 出エジプト7:1
主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。

出エジプト15:20は次のように解釈しなければならないのです。



私訳 出エジプト15:20
アロンの姉ミリアムに主の霊が下った。ミリアムがタンバリンを打ち鳴らすと、女たち全員がタンバリンを打ち鳴らしミリアムに続いて踊り始めた。

ある神学者は『ミリアムは弟モーセが生まれたとき、知恵を働かせモーセの命を救ったので女預言者という称号が与えられた』と解説していますが、これは苦し紛れの解釈で、遊女ラハブはイスラエルから来た偵察者をかくまったことで、イスラエルの勝利に貢献しました。しかし、女預言者という称号は与えられていません(ヨシュア2章、6章、ヤコブ2:25)。女預言者という称号は、民族救済に貢献したとか、タンバリンを叩いたという理由で与えられるものではないことが分かります。

この文脈では『主の霊を受けた女、ミリアム』という意味で記述されています。『ネビーアー』の解釈について『ヘブライ語 qarab nebiah ことばの解釈』に詳しく書かせていただいたので参照願います。神学者が『聖書に登場する最初の女預言者はミリアムだ』という先入観を持って翻訳をしているから、このか所が誤訳だとは気が付かないのです。この誤りも100年間訂正されていませんよ。

更に誤訳された例を挙げさせていただきましょう。イザヤ書8章1~10節も大きな誤訳になっています。どこが違うかピックアップできないくらい間違いが沢山あります。『イザヤ書8章-1~9』に書かせていただいたので参照願います。この誤りも100年間訂正されていません。

翻訳者の方が公の場で『ヘブライ語は難しい。コイネー・ギリシャ語は難しい』という発言をされていますが、原文解釈が進まないのはヘブライ語やコイネー・ギリシャ語が難しいからでしょうか?ご自分の翻訳する能力の低さを棚に投げ、原文のせいにするというのは不謹慎じゃないでしょうか?もし『難しい』と思うのであれば、プロとして翻訳を引き受けるべきではありません。委員会は、スキルのない人を翻訳者として採用していると告白しているようなものです。

翻訳スキルを持たない『神学者や聖書学者』が翻訳をおこなうから誤訳が起こり、誤訳が訂正されないまま放置されているのです。『神学者や聖書学者』は担当分野において、専門家であるということは間違いないでしょう。しかし、翻訳の分野においては素人だという認識を謙虚に受け入れるべきではないでしょうか?

『神学者や聖書学者』が10年20年と年月をかけその専門性を深めていくように、『通訳、翻訳』という仕事も10年20年をかけその専門性を深めています。大学でコイネー・ギリシャ語やヘブライ語を勉強したから、翻訳ができるとお考えのようですが、そうだとしたら考えが甘いのです。100年経っても誤訳が訂正されず放置されたまま。小学生以下の日本語文。これでは素人の仕事です。

通訳や翻訳をするには、言語学、異文化コミュニケーション、心理学などの専門知識も必要です。こうした知識のほかに、翻訳スキルを身に付けないと、通訳も翻訳もできません。通訳者や翻訳者はこのスキルを身に付けるため何年もの年月を費やしています。これを身に付けることなく終わってしまう人が多く、習得困難なスキルでもあります。こうした基礎的な学習をおこなっていれば『直訳主義』『ぎこちない訳文が良い』という愚かな翻訳理念は生まれないのです。

正しい翻訳スキルを身に付けていれば、正しい言語観を持つことができます。正しい言語観を身に付けていれば、どの民族の言語でも習得することができ、どの言語でも正しく翻訳することができます。残念ながら日本の英語教育は大学受験という枠組みの中では役立ちますが、通訳や翻訳の実務では使いものになりません。受験英語で教えている言語観が偽りの言語観だからです。直訳主義、一語一訳主義は、誤った言語観を象徴するものです。誤った言語観が土台になっていれば、ヘブライ語やギリシャ語を勉強しても、誤った翻訳しかできません。新改訳は『直訳主義』だそうですが、誤った言語観に立脚していると公言しているようなものですよ。

翻訳が改定されるたび多額の費用が使われます。100年という長い時間と多額の費用をかけても、誤訳が訂正されないのはなぜでしょう?組織の要職に就いている人物が翻訳に関して素人だということ。また『ヘブライ語は難しい』『コイネー・ギリシャ語は難しい』と嘆く、青色吐息の翻訳者に翻訳をやらせているからではありませんか?翻訳委員会のメンバーがどのようにして選考されているのかも不透明です。委員会が掲げる翻訳理論、ニュースレターでの発言、実際の聖書の訳文を見る限り、プロの仕事ではなく素人の仕事だという印象を受けています。

今から30年前、ギリシャ語のテキストを買い独学しようとしましたが、分からなくてすぐ投げ出しました。それ以来ギリシャ語を勉強したことはありません。『聖書と翻訳』の記事で『不正な管理人』を取り上げることに決めたのが4か月前のことで、ギリシャ語学習歴は現在4か月です。ギリシャ語学習歴4か月の人間に、このような指摘を受けるようでは、恥ずかしいですよね。

翻訳委員会と出版社は、捧げられた多くの献金、販売される聖書の価格を思い起こしてもらいたいのですが、こんなお粗末な仕事で、献金を捧げた人、聖書を購入する人に対し、申し訳ないと思わないのでしょうか?重要なのは、正しい言語観、正しい学習法、正しい翻訳スキルを身に付けているかどうかというところにあるのです。100年という長い時間、そして多くの費用をかけても誤訳が訂正されない聖書翻訳なんて、笑いもの(エクムクテリゾー)ですよ。



~利用したウエブサイト~

以下のウエブサイトを使い原文解釈をさせていただきました。

英-ギリシャ語対訳サイト
Bible.org
Bible Hub
Study Bible

70人訳 英-ギリシャ語対訳サイト 旧約
Study Bible

ギリシャ語発音機能付きサイト
StudyLight.org
StudyLight.org
FORVO

コイネー・ギリシャ語聖書音読サイト
Koine Greek New Testament

用語検索
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品詞活用
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(000)ルカによる福音書16章-6

2018年05月19日 | ルカによる福音書

αδικοσ アディコス いかさま


この記事は、ルカによる福音書16章10~12節『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。



~ルカによる福音書16章10~12節~

新改訳
10)小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
11)ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
12)また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。


10~12節は、全文を検討することにします。



~10節の文法構造~

10節前半の構造を図で表します。

ο πιστός εν ελαχίστω 
ホー ピストス エン エラヒストーイ

και εν πολλώ πιστός εστιν
カイ エン ポロ―イ ピストス エスティン



『小さな信仰は、大きな信仰になる』というシンプルな文法構造です。10節後半もこの図と同じ解釈になります。



~小さい事に忠実な人は~

16章10節



πιστος (4103) pistos ピストス 形容詞
忠実な、信頼できる、信仰が(篤い)

ελαχιστος(1646) elakhistos エラヒストス 形容詞
最も小さい、(身分が)低い、つまらない

『ホー ピストス』が『信仰、信仰を持つ人』という名詞、主部になっています。『エン エラヒストーイ』は従属部で形容句です。『ホー ピストス エン エラヒストーイ』は『小さな信仰⇒幼い信仰』という意味になります。これは『名詞+形容句』といった至ってシンプルな文法、入門レベルの知識ですが、新改訳は入門レベルの解釈でつまづいています。大学では何を教えているのでしょう?これでは素人の仕事ですよ。

『ホー ピストス』は『冠詞+形容詞』の形ですが、コイネー・ギリシャ語では名詞化する場合が多々あり、『ホー ピストス』が名詞化している例が、黙示録3:14にあります。





~小さな事~

新改訳が解釈を間違えた理由を説明させていただきます。ルカ19章17節でよく似た表現が使われていて、新改訳では『・・・あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい』と訳されています。



γινομαι(εγένου)(1096) ginomai ギノマーイ(エゲノウ) 動詞
to happen、to become、 ~になる、~が生じる

新改訳の翻訳者は19章『小さな事』という訳し方を、そのまま16章に持ち込みます。



19章の解釈を16章に持ち込むことによって、16章の解釈が原文から大きく逸れることになります。

新改訳 ルカ16:10
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。

私訳 ルカ16:10 原文放棄をしていないので訳文ではありません。
始めは取るに足らない信仰であっても、やがて敬虔な信仰者に育つ。そのように、始めはウブなイカサマ師でも、やがては一人前のイカサマ師になります。

19章の『小さな事』という解釈がそもそも間違いだったのですが、新改訳の翻訳者はそれに気付かないまま16章に当てはめたと思われます。19章での意味は『小さな従順』で、16章での意味は『小さな信仰』となります。『からし種のような小さな忠実さでいいからそれを保ちなさい』というお話しと重なるところがあります(マタイ13:31、マタイ17:20、マルコ4:31、ルカ13:19、ルカ17:6)。



~大きい事にも忠実であり~

16章10節



ギリシャ語では『小さな信仰は、大きな信仰になる』と表現されていますが、これを直訳しても日本人には意味が分かりません。これは『始めは小さな信仰であっても、やがて立派な信仰者に育つ。律法学者たちが良いお手本だ』という意味です。

ここ10節は『信仰の成長』について記述していますが、これは8節『神を敬う信仰者(光の子ら)』を受けたことばで、『神を敬う信仰者』を展開させた表現になっています。8節と10節はつながっています。

新改訳10~13節を読むとチグハグな文脈になっています。文脈に合わせた解釈が全くできていません。新改訳は『ぎこちない日本語が良い』と愚かなことを公言していますが、自分の作った訳文が文脈に合おうが合うまいが知ったことじゃありません、手抜きで翻訳しますというのが、新改訳聖書なのです。

πολύς(4183) polus ポルース 形容詞
(人、物が)多い、(期間、日数が)長い、(信仰、恐れが)増し加わる

『エスティン』の基本形は『エミー』になります。
ειμι(1510) eimí エミー 動詞
to be, to exist, to happen(~になる)



~『エミー』の解釈~

新改訳 10節
小さい事に忠実な人、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人、大きい事にも不忠実です

ギリシャ語では『エミー』という動詞が使われていて、新改訳は『AはBと同じだ。CはDと同じだ』という訳文にしていますが、間違っています。ここは『AはやがてBになる』『CはやがてDになる』という意味です。



10節のエミーは『~になる』という意味で使われていて、英訳聖書でも『can be』『will be』と訳されています。

例)Common English Bible
Anyone who can be trusted in little matters can also be trusted in important matters. But anyone who is dishonest in little matters will be dishonest in important matters.

同様の解釈をする英訳聖書はたくさんあります。
Easy-to-Read Version
GOD'S WORD Translation
Good News Translation
International Children’s Bible
Living Bible
New Century Version
New International Version
New International Reader's Version
Names of God Bible



~小さい事に不忠実な人は~

16章10節



αδικοσ(94) adikos アディコス 形容詞
不当な、よこしまな、罪深い

9節まで、会計士のイカサマ行為が書かれていますが『アディコス』はそれを受けた『イカサマ』という意味です。文脈を見れば分かることです。



~大きい事にも不忠実です~

16章10節



ギリシャ語では『小さなイカサマは、大きなイカサマになる』と表現されていますが、これを直訳しても日本人には意味が分かりません。これは『始めはウブなイカサマ伝道師でも、やがて一人前のイカサマ伝道師になる』ということです。

8節『世俗に生きる人(この世の子ら)』を受けたことばで、『世俗に生きる人は・・・一人前のイカサマ伝道師になる』という意味になっています。8節と10節はつながっています。

新改訳は『大きい事にも不忠実です』と訳し、全然違う意味になっていますが、新改訳のどこが原文に忠実なのでしょうね。



~ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら~

16章11節



9、11、13節に出てくる『富』ということばは、ギリシャ語の『マモナース』で、『偶像神マモン』という意味です。

πιστος (4103) pistos ピストス 形容詞
忠実な、信頼できる、信仰が篤い

ουκ(3756) ou、ouk ウー、ウーク 否定詞
no、not

γινομαι(εγένεσθε)(1096) ginomai ギノマーイ 動詞
to happen、to become、 ~になる、~が生じる



~だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう~

16章11節



αλετηινοσ(228) alethinos アレーテノース 形容詞
本当の、忠実な、誤りがない、真理の、本物の

πιστευο(4100) pisteuo ピスチュオー 動詞
本物だと認める、信用する、納得する

το αληθινόν 冠詞+形容詞
ト アレーシノン 名詞化
本物⇒本物のイカサマ師


新改訳は『富を任せる』と訳出しました。原語を見ていただけると分かりますが、『富』『任せる』というギリシャ語は使われていません。新改訳はここで超意訳をやっています。もし直訳で訳すのであれば、原文には『富』ということばがないのですから、勝手に付け足してはいけないはずです。また『ピスチュオー』は『人を信用する、人を認める』という意味ですから、『(富を)任せる(与える)』と訳すのは、デタラメではありませんか?どうしてここで直訳理念から逸れた訳し方をするのでしょう?

『ピスチュオー』はよく使われる動詞ですが、十字架の場面でも使われています。『(富を)任せる(与える)』という意味があるかどうか、ご覧いただきましょう。

マタイ27:42 新改訳
「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから(ピスチュオー)。

新改訳はここでも間違いを犯しています。一般の日本人がこの訳文を読んだ場合『十字架から降りることができたら、神として信じてやろう』という理解をします。しかし、原文では『十字架から降りることができたら、王様として認めてやる』という意味になっています。新改訳は訳語の選択を誤っているのです。英訳でも『we will believe in Him イエスを王様として認めてやってもいいぞ』と訳していますよ。

New American Standard Bible
“He saved others; He cannot save Himself. He is the King of Israel; let Him now come down from the cross, and we will believe in Him.

『believe in him』の『him』は『the King of Israel』を指しています。英訳では『王様として認めてやってもいいんだぜ』という意味です。新改訳を調べれば調べるほどデタラメな訳がボロボロと出てくるので、嫌気がさします。『ピスチュオー』は『本物の王様として認める』という意味で使われているのですから、『ピスチュオー』に『(富を)任せる(与える)』という意味はないということが分かるでしょう。ルカ16:11とマタイ27:42では『ピスチュオー』が『本物だとみなす、認める』という意味で使われています。これを見て、新改訳が原文に忠実な翻訳だといえますか?



~また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら~

16章12節



αλλοτριος(245) allotrios アロットリオス 形容詞
他人の(もの)、自分以外の、外国の、見知らぬ

γινομαι(εγένεσθε)(1096) ginomai ギノマーイ(エゲネステ) 動詞
to happen、to become、 ~になる、~が生じる

ここでの『アロットリオス』は『外国のもの』という意味で、11節の偶像マモンを受けた表現です。文脈を見れば分かることです。

ルカ16章9~13節は、同じようなフレーズを繰り返し、表現を展開させています(反復表現)。これと似たような表現が、イザヤ書8章4~6節にも見られました(ヘブライ語 masows ことばの解釈参照)。ルカ16章の反復表現は、ヘブライ語の影響を感じさせます。



~だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう~

16章12節



11、12節は否定詞『ウ-ク not』、疑問詞『ティス who』が使われており、反語表現になっています。コイネー・ギリシャ語では、違和感なく理解できる文体なのでしょうが、これを直訳されても意味が分かりません。12節を例に説明させていただきます。

解釈文(1)反語表現を残した解釈
自分はユダヤ人だから外国の宗教であるマモンなんかまともに信仰できない、そういう人がいたらどうなるだろう。あなたにイカサマを伝授する人がどこかにいるのですか?どこにもいません。

ギリシャ語テキストでは、ハイコンテクスト(ことばが省略された表現)になっているため、日本人に理解できる訳文を作ろうとすると、消された多くのことばを再生しないと訳文が成立しません。そのため冗長な文になってしまいます。日本語として相応しい表現に変えるため、解釈文(1)に原文放棄という処理をおこない解釈文(2)を作ります。

解釈文(2)
偶像マモンは外国の宗教ですが、イカサマを伝授して欲しいのであれば、これを熱心に信仰することです。

通訳や翻訳において、原文の文体(表現形式)を、目的言語に持ち込むことはできないというのが基本です。このことを理解していない翻訳者が多いと思います。言語には恣意性があるのですから、基本的にギリシャ語の文法や修辞技法を、訳文に持ち込もうなどと考えてはいけないのです。

日本語に翻訳された聖書を読む人の99%は、聖書には一体何が書かれているのか、聖書に書かれている意味を知りたくて読むはずです。ギリシャ語の文法を知りたくて読むのではありません。ギリシャ語の文法通りに訳すことにこだわった直訳というのは、必然的に意味不明な訳文になります。新改訳ルカ16章が典型的な例です。翻訳という仕事は、日本人が読んで理解できる訳文を作って初めて、翻訳の目的を達成することができます。新改訳は『ぎこちない日本語が良い』と愚かなことを言っていますが、ぎこちなさを通り越し意味不明な訳文におとしめているではありませんか。

デタラメに翻訳された聖書を元にして、牧師が正しく説教を作ることができるでしょうか?神学者が正しく聖書解釈ができるでしょうか?デタラメな聖書を読んで信徒が神さまのみ心を正しく理解できるでしょうか?もし信仰の拠りどころが聖書であるとするなら、翻訳が正しくおこなわれているかどうかということは重要なことだと思うのです。単なる批判であれば誰にでもできますが、日本では聖書の訳文が建設的に批判されたということがほとんどなかったと思います。より正しい日本語訳のため、更に建設的な批判がおこなわれることを望みます。



~16章10~12節 解釈文~

以上を踏まえ解釈文を作ります。原文放棄をしていないのでまだ訳文ではありません。

10)始めは取るに足らない信仰であっても、やがて敬虔な信仰者に育つ。そのように、始めはウブなイカサマ師でも、やがて一人前のイカサマ師になります。
11)本物のイカサマ師として認めて欲しければ、いかさまマモンの忠実な家来になることです。
12)マモンは他国の宗教ですが、イカサマを伝授して欲しいのであれば、これを熱心に信仰するほかありません。






(000)ルカによる福音書16章-5

2018年05月18日 | ルカによる福音書

μαμμονασ マモナース 偶像神マモン


この記事は、ルカによる福音書16章8~9節『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。



~アイロニー表現と二重構造~

1~7節は原文解釈にさほど難しいところはないと思います。ところが、新改訳では8節から読んでも意味が分からない訳文になります。それは、原文の輪郭を把握せず、ギリシャ語の単語をただ直訳しているからです。

8節以降の解釈をする前に、アイロニー表現の仕組みと翻訳の仕方を確認させていただきます。ギリシャ語原文を見ると、字義通り解釈できる表(おもて)の意味と、秘められた裏の意味とがあります。表の意味というのは、律法学者たちが理解した内容で、イエスさまが語ったことば通りの解釈になります。一方、ウラの意味というのは、弟子たちに伝えたかったイエスさまの真意になります。ユダヤ人のようなアイロニー表現を理解できる文化を持っていないと、ウラの解釈はかなり難しいと思います。

『不正な管理人』がどのようなお話しなのか、それを知る重要な手がかりが14節にあります。
14)さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。

ルカは『このお話しは、お金に関する内容ですよ。笑えるお話しですよ。パリサイ人はそのように理解しましたよ』というヒントを与えています。これは輪郭を把握する上で、重要な情報です。つまり、表(おもて)のストーリーは、笑えるお金のお話しだということです。一方ウラの解釈、イエスさまの真意は、律法学者たちへの痛烈な批判です。しかし、律法学者たちはウラの意味までは理解していなかったということになります。

『不正な管理人』は表と裏の二重構造になっています。ユダヤ人のようにアイロニー表現を理解できる文化を持っていれば、一つのテキストから表の解釈とウラの解釈、両方の解釈が可能です。




日本人にはユダヤ人の強烈なアイロニー表現を理解する文化がありません。日本語に訳出する場合、表の訳文を作るのかウラの訳文を作るのかで、原文解釈の仕方が違ってきます。どっちで訳すか決めて取り掛からなければなりません。新改訳が意味不明な訳文になったのは、原文の構造を理解せずただ直訳したからです。



14節に『金の好きなパリサイ人たちがあざ笑った』というくだりがあるので、表の解釈で訳出せざるを得ません。もし、ウラの解釈で訳出すると『パリサイ人たちが、あざ笑った』というくだりとつじつまが合わなくなります。

プロの翻訳者であれば、原文の構造を把握できたはずです。また、アイロニー表現の訳出の仕方も分かっていたはずですが、新改訳の翻訳委員会にはプロの翻訳者がいなかったのでしょう。新改訳は、理論武装をし立派な肩書を持つ学者で脇を固めていますが、翻訳の良し悪しというのは訳文の品質で評価されます。翻訳の仕事で一番大切にしなければならないのは訳文の品質です。優先順位からすると、翻訳理念や学者の肩書というのは、二の次三の次になります。訳文の品質から目を背け、翻訳理論やメンバーの肩書ばかりを吹聴するようでは本末転倒です。読んで意味が分からない訳文、小学生以下の文体、この程度の翻訳者にお金を払う必要はないでしょう。


『ヘボ将棋、王より飛車を可愛がる』




~ルカによる福音書16章8~9節~

ルカによる福音書16章8~9節 新改訳

8)この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
9)そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正ので、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。


8~9節で検討すべき箇所が4つあります。

・この世の子ら
・光の子ら
・わたしはあなたがたに言います
・富



~この世の子ら~

『この世の子ら』と訳されたのは、ギリシャ語の『フイオイ トウ アイオーノス トウトウ』です。
υιοί του αιώνος τούτου
フイオイ トウ アイオーノス トウトウ
世俗の人間、地上の人間

ηυιοσ(5207) huios フイオース(フイオイ)
息子、子孫、末裔(まつえい)、人間

ルカ20章でも同じフレーズが使われています。
新改訳 ルカ20:34
・・・「この世の子らは、めとったり、とついだりするが

ここは、次のように訳出しないと日本人読者に理解できません。
私訳 
・・・「地上の人間は、めとったり、とついだりするが

新改訳は16章も20章も『この世の子ら』と直訳していますが、ギリシャ語『フイオース』は『子ども』を意味しているのではありません。『フイオース』は『息子、子孫、末裔(まつえい)、人間・・・』という意味があり、文脈に合わせて訳語を選択しなければならないのです。ここでは『地上の人間、世俗の人間』という意味で使われています。現代訳では『この世の人たち』、リビング・バイブルでは『この世の人々』と考慮された訳になっていました。

16章8節で『この世の子ら』と『光の子ら』という表現が出てきますが、これは『不信仰な世俗の輩(やから)イエスたち』と『清廉潔白な律法学者たち』を対比しています。律法学者たちのひねくれた見方を引用した、アイロニー表現です。



~光の子ら~

『光の子ら』と訳されたのは、ギリシャ語の『フイオース トウ フォートス』です。

υιούς του φωτός
フイオース トウ フォートス
神のしもべ、神の子とされた人

πηοσ(5457) phos フォース(フォートス)
光、神の栄光、普遍性、聖なるきよさ、ともしび

『光の子ら』と直訳したのでは、日本人には意味が分かりません。現代訳では『信者たち』、リビング・バイブルでは『神を信じる者たち』と日本人が理解できることばに訳出しています。訳文の品質はこうしたところに表れます。この様な配慮ができないとすれば、プロとして翻訳をする資格はありません。

8節の文脈に当てはめると、表の意味は、神に従う者、この文脈では律法学者たちになります。ウラの意味は、偽善の律法学者たちということです。



~わたしはあなたがたに言います~

福音書の中で『私はあなたがたに言います』という表現がしょっちゅう出てきますが、日本語ネイティブの会話でそんな言い方はしませんよね。記憶をたどってみても、生まれてからこのかた、家庭での会話、友人との会話、職場での会話で『私はあなたがたに言います』と、自分が言ったことがなければ、誰かが言ったのを聞いたこともありません。

マタイ 5:44 弟子と群衆への語りかけ 山上の垂訓
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

マタイ 12:31 律法学者たちへの反論 ベルゼブル論争
だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし・・・

新改訳ではマタイ5章も12章も『わたしはあなたがたに言います』と全く同じことば遣いにしています。不自然に感じないでしょうか?同じ表現では、感情を持たないロボットが語っているような印象を受けるのですが、イエス・キリストという人物は、ロボットのように感情を持たなかったのでしょうか?山の中腹に腰かけ群衆に語った時の語り口と、律法学者に反論する時の語り口では、それぞれ違っていただろうと解釈するのは常識です。

聖書の中に『イエスは笑った』という表現はありませんが、イエスさまはニヒルな方で笑うことをしなかったのでしょうか?そうではないと思います。対人関係において、微笑んだり、愉快に笑うことができない人物だとしたら、他人に自己開示できない人物、つまり他者と信頼関係を築くことができない人物だったということになります。他人に対し笑うことができないというのは、心のどこかに深い傷を負っていることの表れだと思います。感情のコントロールができず、感情の起伏が激し過ぎるというのも問題ですが、人前で笑うことができない人物だとしたら心に大きな問題を抱えていたといえます。

イエスさまは『傷のない子羊』として十字架に架かってくださったのですから、情緒面も健全に発達しており、喜怒哀楽を適切に表現していたはずです。もし、感情を適切に表現できない人物であったとしたら『心に傷を持つ子羊=供え物不適合』となるので、十字架に架かり罪をあがなうことはできなかったはずです。また、笑うことができないロボットのような人物のもとに、庶民は集まってこなかったと思います。新改訳を読むとイエスさまがロボットのように無表情であったという印象を受けますが、『傷のない子羊』イエスさまは笑うこともできるお方で、ロボットの様に無表情であったとは考えられません。神学上もイエスさまは100%人間で、かつ100%神であったといいますよね。



新改訳の訳文は全体的に無機質で、人の暖かさ、冷酷さなど感情のひだを消し去った訳文にしています。直訳をすることによって、原文の意味やニュアンスを殺し、無機質な日本語にしているのです。原文が語ってないことを、ドラマチックに飾りたてる必要はありませんが、原文解釈をすれば読み取れるはずの心理描写というものもあります。それを読み取る力量がないとすれば、原文に忠実な翻訳はできないですよね。直訳のどこが原文に忠実な翻訳なのか、全く理解できません。

弟子の中には漁師を生業(なりわい)としていた人もいます。イエスさまの周りには社会の底辺で生きる人や女性たちがいました。そうした人たちに向かって『私はあなたがたに言います』と冷たい口調で語ったのでしょうか?違うと思います。イエスさまは、聖書を学んだことがない人にも分かるよう配慮をして語っていたはずです。だからこそ、イエスさまを慕い庶民が集まって来たのではないでしょうか?こころに傷を負って生きてきた人たちというのは、自分を見下す人、見下したことばにとても敏感です。イエスさまが『私はあなたがたに言います』と冷やかな口調で言ったとしたら、こうした人は集まってこなかったと思います。直訳をするから原文と違う意味になるのです。どのような言語の翻訳、通訳でも言えることですが、プロがする仕事として直訳というのは絶対にあり得ない翻訳のやり方です。

話しが逸れてしまいましたが、『わたしはあなたがたに言います』と訳されたのは、『υμίν λέγω フミン レゴー』『λέγω υμίν レゴー フミン』というギリシャ語で、『これから大切なことを言いますよ』『よく注意をして聞きなさい』『結論を言いますよ』『話しの内容が変わりますよ』と、これから言うことを強調する時に使うことばです。

新改訳 16章9節
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。

次のように訳出しないと、日本語になりません。

私訳  16章9節
いいですか、不正の富を使い友をつくること、これが大切です。

文脈によって訳語は変わりますが、こういう訳出になるはずです。



~富~

9、11、13節で『富』ということばが出てきますが、これはギリシャ語の『マモナース』ということばです。マモナースを『富』と訳出するのは間違いです。

μαμμονασ(3126) mammonas マモナース
金銭を支配する偶像神マモン

偶像神マモンが、いつどこで生まれたのか明らかではありませんが、マモンが金銭を象徴する偶像神だということは当時の共通認識だったようです。マモーナスということばは、新約聖書で4回しか使われないのですが、そのうち3回が『不正な管理人』で使われています。ルカ16章9、11、13節で使われ、残りの1回はマタイ6:24です。

マタイ6:24 新改訳
だれも、ふたりの主人に仕えることはできません・・・あなたがたは神にも仕え、また富(マモナース)にも仕えるということはできません。

ルカ16章 新改訳 3箇所
9)・・・不正の富(マモナース)で、自分のために友をつくりなさい。・・・
11)ですから、あなたがたが不正の富(マモナース)に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富(富ということばは原文にない。真実)を任せるでしょう。
13)しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません・・・あなたがたは、神(セオス)にも仕え、また富(マモナース)にも仕えるということはできません。」

マモナースを解釈するヒントは13節にあります。13節の中に『セオス(イスラエルの神)』『マモナース(偶像神マモン)』ということばが対比されています。

θεός(2316) theos セオス
神、イスラエルの神

また、ギリシャ語で『富』を意味する一般的なことばは『プルートス』になります。
πλουτοσ(4149) ploutos プルートス
富、財

ルカ8:14 新改訳
・・・この世の心づかいや、富(プルートス)や、快楽によってふさがれて・・・

ルカ福音書の中を見ると『マモナース』と『プルートス』両方のことばが使われており、ルカは『マモナース 偶像神マモン』と『プルートス 富、財産』と、二つのことばをきちんと使い分けているのです。

もし、16章で『富』という意味を示したかったのであれば『プルートス』が使われていたはずです。ルカが『マモナース』を使った理由は、『偶像神マモン』という意味を表したかったからです。マモナースを『富』と異訳することは間違いです。従って、13節は『ふたりの神に仕えることはできないぞ。イスラエルの神か、偶像神マモンか、どっちなんだ』という内容になります。9、11、13節の『マモナース』は『偶像神マモン』という意味であって、『富』という意味で使われていません。

もし『トランスペアレント訳』にするのであれば、『マモナース』と『プルートス』は別の訳語になるはずですが、新改訳は『マモナース』も『プルートス』も『富』ということばでくくっています。このように、新改訳の翻訳者はやってることがアベコベです。


~富は2回、マモナースは1回?~

新改訳の9節訳文を見ると、『』ということばが2回出てきます。ところが、ギリシャ語テキストでは『マモナース』が1回しか使われていません。もし直訳で訳すのであれば、ギリシャ語テキストで『マモナース』が1回しか使われていないのですから、訳文も『富』が1回だけになるのではないのでしょうか?新改訳は翻訳理念の中で『ヘブル語及びギリシャ語本文への安易な修正を避ける』と言っていますが、9節の訳文は原文に安易な修正を加えています。11節もこれとまったく同じです。

ルカ16:9 新改訳 富×2回
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正ので、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

ルカ16:11 新改訳 富×2回
ですから、あなたがたが不正のに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことのを任せるでしょう。




組織で翻訳するということは、チェック体制があるということだと思うのですが、それが機能していなかったことが露呈されています。原文に『マモナース』が1回しか使われていないのに、訳文で『富』を2回使うというのは目立つので、どうしてこのような訳文を作ったのか指摘を受けるはずです。そうであれば9、11節の訳し方がおかしいとチェックをする者が気が付かなくてはなりません。チェック体制があったにも関わらず誤訳が通ってしまったとしたら、仕事に対する誠実さがないのか、能力がないのかのどちらかでしょう。

『聖書翻訳は委員会訳が良い。個人訳は不正確だ』と言われてきましたが、実際に訳文を検討してみるとその逆で、委員会訳に多くの間違いが含まれていること、個人訳でも品質の高い訳文になっているということがお分かりになるでしょう。『組織で翻訳するから正しい翻訳ができる。個人訳は不正確だ』というのは、根拠のない誤った先入観です。豊洲市場の盛土問題に見られるように、係長、課長、部長のハンコが押されていながら『どうして盛土がなくなったのか分かりません。誰が原因なのか分かりません』という結論です。組織による行動は往々にして無責任な結果を招くということを、わきまえておくべきでしょう。

新改訳は『直訳が良い。トランスペアレント訳が良い。これが原文に忠実な翻訳方法だ。原文に安易な修正を加えてはいけない』と言っていますが、ふたを開けてみると、言ってることとやってることが違う。デタラメだということです。新改訳は翻訳の『手抜き』を正当化したいがため、後付けで『直訳が良い。トランスペアレント訳が良い。ぎこちない日本語が良い』と言ってるに過ぎません。理念と実際の訳文に整合性がないということが、お分かりいただけたでしょうか。


~16章8~9節 解釈文~

以上を踏まえ解釈文を作ります。原文放棄をしていないのでまだ訳文ではありません。

8)神を敬う信仰者より、世俗に生きる人の方が一枚上手(うわて)なのです。ところで、このイカサマ会計士を讃えたのは、何とあのあるじだったというのです。
9)いいですか、お金の偶像マモンさまのイカサマ術を使い仲間をつくること、ここが大切なところです。一文無しになった日には、この仲間がうやうやしくあなたを出迎え、とこしえにその家に住まわせてくれるでしょう。







(000)ルカによる福音書16章-4

2018年05月17日 | ルカによる福音書

γραμμα グラマー 帳簿


この記事は、ルカによる福音書16章5~7節『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。



~ルカによる福音書16章5~7節~

ルカによる福音書16章5~7節 新改訳

5)そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと
6)その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
7)それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った




5~7節で検討すべき箇所が5つあります。

・彼、あなた、その人
・(ひとりひとり)呼んで
・言う、言った
・小麦百コル、油百バテ
・証文



~彼、あなた、その人~



『私、あなた、彼、彼女』といった人称代名詞を多用しないというのは日本語の大きな特徴ですが、小学2年生でも理解していることが分かります。英語の文では、人称代名詞『 I, you, he, she 』が多用されます。しかし、日本語で人称代名詞を使うのは、そこに特別な意味がある時だけです。翻訳者はこうした言語構造の違いを理解し、誤解なく両者が通じ合える訳文を作らなければなりません。因みにギリシャ語の場合、動詞の語尾を変化させることで人称の区別をするので、英語のように『 I, you, he, she 』と独立した単語として現れない場合が多々あります。

例えば、ギリシャ語で『私は言う λέγω レゴー』と言うことばは『彼は言う λέγει レゲイ』と、語尾を変えることで、人称の区別をします。ギリシャ語の『λέγει レゲイ』を日本語に翻訳する場合『イエスさまが言った』や『ペテロが言った』と文脈に合わせて訳語を変えなければなりません。具体例を挙げてみます。





ギリシャ語ではどれも『レゲイ』ですが、日本語では基本的に人称代名詞を使わないので『主人は言った、管理人は言った、ヨハネは言った』と訳出しなければならないはずです。

なぜ新改訳は『私、あなた、彼、彼女』を多用し、わざわざおかしな日本語にするのでしょう?それは『主人は言った、管理人は言った』といちいち訳語を変えるのは面倒なので、基本的に『彼は言った』でいいじゃないか。聖書がおかしな日本語になったって関係ないよと、委員会の中で身勝手な取り決めをしているからです。

委員会は、こうした手抜き作業を正当化するため『直訳が良い、トランスペアレント訳が良い。ぎこちない日本語のほうが良い』と、事あるごとに詭弁(きべん)を弄(ろう)している、そうとしか思えません。

小学生のお子さんをお持ちの方であればお分かりだと思いますが、子どもが作文の中で『私、あなた、彼、彼女』という代名詞を繰り返し使うでしょうか?そのようなことはないはずです。日本語では人称代名詞を多用しないということは、小学校低学年でも理解しています。聖書の中で人称代名詞が多用されているということは、聖書のことばが、小学生以下の日本語で書かれているということです。






~(ひとりひとり)呼んで~

『(ひとりひとり)呼んで』と訳されたことばは、コイネー・ギリシャ語の『プロスカレオマイ』という動詞です。

προσκαλεομαι(4341) proskaleomai プロスカレオマイ
(上位の者が下位の者を)呼ぶ。呼び寄せる。
(上位の者がグループの中から)幾人かを選ぶ。召し寄せる。

5節の文脈で理解すると『プロスカレオマイ』というのは、管理人が帳簿を開き、債務者リストの中から目ぼしい人物を選んで呼び寄せたということです。詳しくは『ルカによる福音書16章-3 ~(主人は、彼を)呼んで~』の記事で記述しています。興味のある方はご参照ください。



~言う、言った~

5~7節の間で『言う』ということばが6回使われていますが、小学生でもこんなおかしな書き方はしません。

5)そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
6)その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った
7)それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った



『言う』が何度も繰り返されているので、幼稚な日本語になっています。ギリシャ語も幼稚な表現になっているということなのでしょうか?そうではありません。『言う』と訳されたのはコイネー・ギリシャ語の『レゴー』『エポー』二つのことばが使われていて、それぞれ次のような意味があります。

λεγο(3004) lego レゴー
言う、語る、説明する、述べる、教える、告げる、呼ぶ、名付ける、申しつける、命じる


επο(2036) epo エポー
答える、返事をする、命じる、呼ぶ、話す、告げる


『レゴー』『エポー』それぞれ幅広い意味があり、日本語に訳出する場合、文脈に合わせて適切な訳語を選択するという作業をしなければならないのですが、新改訳では両方とも『言う』という訳語に限定していることが分かります。そのため『言った』を繰り返す幼児文になったのです。新改訳がトランスペアレント訳が理念だというのであれば、少なくとも、レゴーとエポーは違う訳語になるはずですよね。新改訳は、理念に反することをやっているのです。

新改訳がこうした愚かな訳文を作るのは、前述した通り『文脈によってどの訳語を選択するかを考えるのは面倒なので、機械的に訳語を決めてしまおう。そのため聖書の訳文がぎこちない訳になったって仕方ないじゃないか』そのような取り決めがなされているからです。

これは『彼、彼女』『言う』に限ったことではなく、聖書全体がこうした訳しかたになっています。これが専門家がやる仕事でしょうか?通訳業務の一翼を担ってきた者として申し上げますが、このような手抜き作業は、聖書を読む人への裏切り、そして執筆者への侮辱にほかなりません。

日本人であれば、少なくとも次のように言い換えるはずです。

5)そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と尋ねると、
6)その人は、『油百バテ。』と答えた。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と命じた
7)それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と尋ねると、『小麦百コル。』と答えた。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と命じた


『・・・言った。・・・言った。・・・言った』と、おかしな日本語聖書を一般の日本人が読んだとしたら『聖書って味気ない文章の本だな。ルカっておかしな文を書くんだな』という誤解を与えることになります。これでは素人の仕事です。何故こんなことになったのでしょう?

『この様な翻訳じゃまずいんじゃないですか?翻訳理念など根本的なところに問題がありますよ』といった周囲の助言に、委員会は耳を傾けてこなかったのではありませんか?委員会の中で、お粗末な翻訳をしていることを黙認し翻訳者としてお金をもらっていた人もいたはずです。

また、長い間この翻訳委員会をお膳立てし、担ぎあげてきた周りの人にも問題があります。実際の訳文を具体的に検討することなく『直訳こそが原典に忠実な翻訳方法です』『新改訳は原典に忠実な翻訳です』との発言が繰り返されてきました。翻訳者が拠りどころとするのは言語学と心理学の理論ですが、直訳を正当化する方が、何の理論を根拠に直訳を正しいとするのか、根拠となる理論の提示を見たことがありません。また、新改訳訳文の間違いを指摘することに対し、それがあたかも神への冒涜であるかの様な目つきで見る、そうした雰囲気を周りの人が作ってきたように感じます。

教会の祈り、奉仕者、献金が集中すると、いつの間にか組織そのものが神格化されるということがあります。やがて組織の頂点に立つ人物のことばが絶対視され、周囲の人が盲目的に服従する、そういうことが起こるのです。イエスさまは律法学者の過ちを厳しく批判されましたが、サンヘドリンにも組織の神格化と退廃がありました。十字軍の遠征、贖罪符の販売、教会のカルト化・・・これらは共通して組織の神格化、代表者の絶対化、盲目的服従が起こっています。教会やクリスチャンは、こうした過去の過ちから教訓を得ているでしょうか?

オーバーだと思われるかもしれませんが、聖書の翻訳委員会にも同じような匂いを感じるのです。翻訳をやる人もただの人間なのですから、翻訳委員会も人間の集まりに過ぎません。人間がやることですから、翻訳に間違いがあって当然のことです。

ところが、翻訳委員会に神聖不可侵さを与え、その翻訳理念『直訳』を絶対視し、周囲の人がこれに盲目的に追従している、そのように感じるのです。新改訳も一翻訳に過ぎないのですが、新改訳に神のことばと同格の地位を与え、訳文の誤りを指摘することがタブー視されている。そのような臭いがプンプンしています。

教会やクリスチャンが犯してきた『組織の神格化』という過ちが克服されない限り、『宗教って怖い面があるよね』『キリスト教って残酷なことをしてきたよね』という世間の見かたは、いつまでたっても変わらないでしょう。

困ったことですが、一度できあがった『裸の王様』は、簡単に王座を明け渡しません。周りの人も『王様は何て素敵な翻訳をされるのでしょう!直訳こそ忠実な翻訳方法だわ!』と、自分でも見えていない衣装をほめそやします。もし『王様!裸ですよ』と指摘をしようものなら、袋叩きの目に合います。偉くなった王様は、下々のことばなど全く耳を貸さなくなる、そういうものです。



~カノジョのたんじょう日~




新改訳の翻訳委員会の先生は、次の規定をご存知でしょうか?
日本翻訳協会『翻訳者の倫理綱領』
(5) 手に負えないものを引受けない責任
プロフェッショナル・トランスレーターは、自身の力量にあまる翻訳サービスを引受けてはならない。

委員会は『私、あなた、彼』『・・・言った。・・・言った』という『もっとがんばりましょう』レベルの日本語、これを改めることから着手しなければなりません。ギリシャ語の知識とか翻訳スキルとかそういった高度な知識が議論できるレベルに至ってないのです。新改訳訳文のレベルから判断すると、とてもじゃありませんがプロの翻訳者を名乗ってはいけません。このような組織が聖書翻訳を引き受けること自体、倫理規定にもとるのです。



~油百バテ、小麦百コル~

各日本語訳聖書の表記をまとめてみました。



新改訳は『百パテ、百コル』と表記しましたが、日本にはパテ、コルという度量衡はありません。ユダヤの度量衡表記を読んでパッと理解できるのは、牧師や神学者の中でも1%もいないと思います。文語訳、口語訳は『樽、石』と日本人に分かる単位に置き換え訳出しています。プロの翻訳者として当然の仕事です。先輩方が良いお手本を示しているにも関わらず、新改訳は『パテ、コル』と直訳し意味の分からない訳文にしてしまいました。これでは新改聖書です。

イザヤ書8章-2』の記事で、新改訳は『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』とヘブライ語読みのまま表記し、日本語の解説を入れることも怠っていることを指摘させていただきました。それと同じ過ちをここで繰り返しているのです。一般の読者には理解できない、翻訳者がヘブライ語の知識をひけらかすような訳文は、翻訳者の自己陶酔を見せつけられるようで不愉快です。



~板前になったやく君~

小学生だったやく君も社会人となり、憧れだった板前さんになりました。かつての恩師は、独立したやく君の晴れ姿を一目見ようとお店に行きました。そこでアナゴを注文したのですが・・・(;O;)



『先生、僕は小さい頃から新改訳を読んできたんですが、ある時、直訳こそ真理だって悟ったんです。寿司っていうのはネタが命なんですが、生きたまんま、一切手を加えないネタをお客さんに提供すること、これが原材料に忠実な仕事だって気が付いたんです。よその店じゃ、アナゴを下処理し、焼いてタレまで塗ったくるじゃないですか。あんな細かい作業、手間のかかる仕事ってのは、言うなれば意訳なんです。意訳はやってはいけない邪道なんですよ。だからうちは、タコ、サンマ、ホタテ、カニ、ウニ・・・一切下処理なし、生きたまんま提供してるんです』

『やく君、君の熱意には感心するけど、君はお客さんのことを考えているだろうか。お寿司を食べに来る客というのは、君の講釈にお金を払うんじゃなく、プロが握るおいしいお寿司に対しお金を払うんじゃないかな。生きたタコを丸ごとカウンターに出されたって客は食べられないだろう。このアナゴだって生きたまんま出されても食べられないよ。お客がおいしく食べられるよう包丁を入れ、調理をする、それがプロの仕事だろ。生で出せるネタ、火を通さないとダメなネタ、酢で絞めた方が良いネタなど、素材に合わせた処理法や調理法があるんだよね。お客さんのことに気を配れない、独りよがりなお店じゃまずいんじゃないかな。そんな商売だったら素人にもできるよ』

『先生、新改訳の理念というのは、ひとりぼっちで聖書を読むことは聖書的じゃあない。牧師や注解者のところに行ってみんなと一緒に学ぶものだっていうことなんです。だから生きたアナゴが食べられなければ、持ち帰って捌(さば)ける職人を見つけ捌いてもらえばいいんですよ。途中腐って食えなくなるかも知れませんが、それはうちの責任じゃないですから。誰かに捌いてもらうことで、人と人との交わりだってできます、大切なのは交わりなんです。あくまでうちは直訳で出す。あとのことは一切知りません。うちボッタクリじゃありませんよ。直訳がポリシーというだけです』  翻訳としての『新改訳聖書』の立場参照


ヘブライ語の『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』『パテ、コル』を直訳で訳文に載せるというのは、生きてるアナゴをそのままお客に出すようなものです。



~証文~

証文と訳されたのは、ギリシャ語の『グラマー』という名詞で、幅広い意味があります。

γραμμα(1121) gramma グラマー
文字、手紙、記録、報告書、メモ書き、会計帳簿、伝票、本

各日本語訳聖書の表記をまとめてみました。



『証書、証文』ということばが使われたのは、古い時代背景に合うことばが良いだろうという考えがあったからでしょう。そういう訳出もあると思います。しかし、聖書が現代語に翻訳され出版されるというのは一般の人に読まれるという訳ですから『受領書、受取書』あたりの訳語が読者にとって読みやすく親切だと思います。


6,7節で、管理人はオリーブ油と小麦の負債を減額します。ある神学者は『管理人は不当に利息を上乗せしていた分を減額したのである。従って管理人が顧客の負債を減らしたことは不正に当たらない』と合理的な解釈をしています。しかし、これは何とも身勝手な解釈で、これを裏付ける記述はどこにも書かれていません。管理人はイカサマをおこない、あるじはそのことを褒めたと原文に書かれているのですから、そのまま受け入れたら良いのです。神学者であれば、人間の知恵を加えて聖書解釈をねじ曲げることが許されるのでしょうか?神学者が人間的知識を駆使し原文解釈をすることは、訳文を歪める危険があるという認識を持っていただきたいものです。

オリーブ油は高貴さの象徴で、ある人は神に対し大きな罪を負っているということを意味し、小麦はパンの原材料ですから世俗社会を象徴し、ある人は社会生活の中で大きな罪を抱えているという意味を表しています。不正な管理人がアイロニー表現で書かれていることが分かれば、人間の知恵で聖書解釈をねじ曲げなくともきちんと理解できます。ウラの意味は『ルカによる福音書16章-8』にまとめて書かせていただきました。



~16章5~7節 解釈文~

以上を踏まえ解釈文を作ります。原文放棄をしていないのでまだ訳文ではありません。

5)会計士は、取引先の中からあるじに負債がある顧客を選び、一人ずつ呼び出した。初めの顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると
6)『オリーブ油100樽です』との返事です。会計士は『では、椅子に腰かけこの受領書に50樽で記入してくれ。手早くやってくれよ』と命じます。
7)次の顧客に『お宅はうちにいくらの負債があったかな』と尋ねると『小麦10トンです』との返事。『では、この受領書に8トンで記入してくれ』と会計士は命じました。





(000)ルカによる福音書16章-3

2018年05月16日 | ルカによる福音書

διασκορπίζω ディアスコルピッゾ お金を湯水の如く使う


この記事は、ルカによる福音書16章1~4節『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。



~ルカによる福音書16章1~4節~

輪郭の設定が終わったので、細部の解釈に入ります。

ルカによる福音書16章1~4節 新改訳

1)イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された
2)主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』
3)管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。
4)ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』



1~4節で検討すべき箇所が6つあります。

・管理人
・(財産を)乱費している
・訴えが出された
・(主人は、彼を)呼んで
・土を掘るには力がないし
・こじきをするのは恥ずかしいし



~管理人~

『管理人』と訳されたことばは、コイネー・ギリシャ語の『オイコノモス』という名詞です。
οικονομοσ(3623) oikonomos オイコノモス
管理者、会計士、執事

このお話しを見ると、『管理人』が勤めていた職場は、小麦やオリーブ油の仕入れ、卸し問屋を営む商家で、そこで店の帳簿を預かる『大番頭』として働いていたことが分かります。こんにち一部の業界で『番頭』ということばもまだ使われていますが、一般の人に『番頭』は馴染みがないことばになったので、現代語としては『会計責任者』あたりのことばが適当かと思われます。

日本語訳では次のように訳されています。
文語訳  支配人
口語訳  家令
新共同訳 管理人
現代訳  管理人
リビング 計理士

冷静に考えていただきたいのですが、農産物を商う問屋業に『支配人、家令、管理人』という職位があるでしょうか?ないですよね。現代の人が『支配人』と聞くと、蝶ネクタイをしたホテルの支配人というイメージになるでしょう。『家令』と聞くと、貴族のお屋敷にいる執事というイメージになるのではないでしょうか。『管理人』と聞くと、マンションの管理人というイメージになると思うのです。そもそも農産物を商う問屋に『支配人、家令、管理人』という職位がないのですから、従来の訳語はふさわしくないのです。





こうしたことを念頭にリビングバイブルでは『計理士』という訳語を選択したようです。『農産物問屋で働く計理士』であれば、違和感なく理解できます。リビングバイブル訳文の品質は優れているほうだと思います。通訳や翻訳において、職業、地位、身分をどう翻訳するかというのは、意外と難しいものなのですが、こうした細かなところに翻訳者のスキル、訳文の品質が表れるのです。

訳語を決めるのに、辞書の中から単語を選ぶだけでは中学生がやることと変わりありません。プロの翻訳者であれば、辞書に記載されてない別の定義がないかを検討することも必要です。また、選択した訳語が読者にどのようなイメージを与えるのかを考え、読者が読んで理解に困るような訳語、違和感を与える訳語を選択しないということも、忘れてはなりません。

オイコノモスの訳出についていえば、リビングバイブルは合格、ほかは不合格です。



~(財産を)乱費している~

『(財産を)乱費している』と訳されたことばは、コイネー・ギリシャ語の『ディアスコルピッゾ』という動詞です。
ギリシャ語 διασκορπίζω(1287) diaskorpizo ディアスコルピッゾ

・(手で握った種を)まき散らす
・(元いた場所から人、羊が)散り散りにされる
・(手元にあるお金を)湯水の如く使う

ディアスコルピッゾは、新約聖書全体で9回しか使われていないことばです。滅多に使われないことばですが、放蕩息子のお話しと、続く不正な管理人のお話しで使われています。新改訳は次のように訳出しています。

ルカ15:13 新改訳 放蕩息子
・・・弟は・・・湯水のように財産を使ってしまった。

ルカ16: 1 新改訳 不正な管理人
・・・管理人が主人の財産を乱費している・・・

『ディアスコルピッゾ』を、15章では『湯水のように・・・使った』と訳出し、16章では『乱費している』と訳語を変えています。新改訳の翻訳理念は『直訳、トランスペアレント訳』だということですが、おかしくないでしょうか?新改訳の理念通り翻訳するなら、15章も16章も同じ訳語にならなくてはならないはずです。自ら掲げる理念と違うことをやっているのです。

放蕩息子と不正な管理人は、並行関係にあるたとえ話しになっています。そのことを読者に示唆する目的で『ディアスコルピッゾ』が繰り返し使われているのです。執筆者ルカは『放蕩息子と不正な管理人は同じ人物を意味しているからね』というヒントを読者に送っているのですから、次のように訳出しなければならないでしょう。

ルカ15:3 放蕩息子
弟は・・・父の遺産を湯水のごとく使った

ルカ16:1 不正な管理人
管理人があるじの財産を湯水のごとく使っている

『湯水のごとく使う』と同じ訳語を与えておけば、ギリシャ語で読んだ時と同じように『放蕩息子と不正な管理人は関連があるんだよ』というヒントを、日本語読者にも与えることができます。

ルカが気を利かせわざわざ『ディアスコルピッゾ』を繰り返しているのですから、こういう箇所こそ『トランスペアレント訳』にしなくてはなりません。新改訳は『トランスペアレント訳』をやってはいけないところでトランスペアレント訳にし、トランスペアレント訳で訳出すべきところでやっていないのです。新改訳は、やってることがアベコベです。



~訴えが出された~

ギリシャ語で『訴える』という時に使う一般的な動詞は『カテゴレーオー』です。

κατηγορεω(2723) kategoreo カテゴレーオー
(裁判のような場で相手の罪状を)訴える
例)ルカ23:2 (祭司長たちはピラトに)イエスについて訴え始めた。


ところがルカ16:1で『訴えが出された』と訳出されたことばは『διαβαλλο(1225) ディアバロー』というギリシャ語で、新約聖書の中ではここでしか現れない動詞です。ディアバローは、その意味を調べる客観的データが極めて乏しいのですが、翻訳辞書に依存する翻訳ではダメです。翻訳辞書を見ただけでは50%しか意味が把握できないからです。ディアバローの意味を輪郭を捉える方法で解釈します。

情報源として『70人訳聖書』と『ヘブライ語聖書』に当たります。70人訳を見ると、ダニエル3:8とダニエル6:24の2か所で『ディアバロー』が使われています。参考までに日本語訳を引用させていただきますが、新改訳より新共同訳の方が適切な訳出になっているので、新共同訳で引用させていただきます。

ダニエル3:8 参考 新共同訳
さてこのとき、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、

ダニエル6:24 参考 新共同訳
・・・ダニエルを陥れようとした者たちを引き出させ、妻子もろとも獅子の洞窟に投げ込ませた・・・

新共同訳で『中傷する』『陥れる』と訳出されたのはギリシャ語の『ディアバロー』で、アラム語をたどると『akal qerats アカール ケラーツ』ということばになっています。ダニエル書はヘブライ語とアラム語で書かれています。



『ディアバロー』も『アカール ケラーツ』も、ほぼ同じ意味になっていることが分かります。ここで導き出されたことばの定義を、実際にダニエル書3章の文脈に当てはめ再確認します。ダニエル書3章は次のようなお話しです。


ネブカドネツァル王は法律で『国民は、王が造った金の偶像を拝まなければならない。拝まないものは死刑に処す』と定めていたのですが、ユダヤ人は拝むことをしませんでした。以前からユダヤ人を憎んでいたカルデヤ人は、待ってましたと言わんばかりに王様に告発をします。

ダニエル書3章 新共同訳
8)さてこのとき、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、
9)ネブカドネツァル王にこう言った。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。
10)御命令によりますと、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえたなら、だれでも金の像にひれ伏して拝め、ということでした。
11)そうしなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるはずです。
12)バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」
13)これを聞いたネブカドネツァル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。



この文脈から判断すると、ギリシャ語『ディアバロー』とアラム語『アカール ケラーツ』の意味は、『告げ口をして人を陥れる』という場面で使われることばだと分かります。

これをルカ16章1節に当てはめてみると『あの管理人は資産を湯水のごとく使っていると告げ口し、管理人を陥れようとする者がいた』という内容になり、ピッタリと文脈に合います。

新改訳は『カテゴレーオー』と『ディアバロー』のどちらも、『訴える』と同じことばに訳出していますが、これも新改訳の翻訳理念『直訳、トランスペアレント訳』から逸脱した訳し方です。新改訳の理念通りに訳出するのであれば『カテゴレーオー』と『ディアバロー』はそれぞれ異なる意味を持つのですから訳語も異なるはずです。

新改訳は『トランスペアレント訳』をやってはいけないところでトランスペアレント訳にし、トランスペアレント訳で訳出すべきところでやっていないのです。これでは有名無実の翻訳理念で、看板倒れではないでしょうか。新改訳はやってることがデタラメです。


余談になりますが、70人訳聖書はルカが生きていた時代には完訳されていました。ギリシャ語に通じているルカは、70人訳聖書を読んでいたことも考えられます。『聖書』といえば当時は『旧約聖書』しかなかった時代です。旧約聖書の中でもダニエル書の『燃える炉』のお話しは、強い印象を与えるところだったはずです。

カルデヤ人がユダヤ人を陥れる崖っぷちの場面と、管理人が退職を余儀なくされる場面、この二つの場面を、ルカはダブらせながら書いたのではなかろうか。そのような気がします。『ディアバロー(陥れる)』が使われているのは、ダニエル書とルカ福音書だけなのです。



~(主人は、彼を)呼んで~

新改訳を見ると、2節と5節で『呼ぶ』ということばが使われています。

新改訳 16:2 (主人は、彼を)呼んで(言った)
新改訳 16:5 (管理人は)主人の債務者たちをひとりひとり呼んで・・・

ところが、原文では違うギリシャ語が使われているのです。

新改訳 16:2 (主人は、彼を)呼んで(言った)
πηονεο(5455) phone フォネオー
声を出す、はっきりと声を出す、泣き叫ぶ。

新改訳 16:5 (管理人は)主人の債務者たちをひとりひとり呼んで・・・
προσκαλεομαι(4341) proskaleomai プロスカレオマイ
(上位の者が下位の者を)呼ぶ。呼び寄せる。
(上位の者がグループの中から)幾人かを選ぶ。召し寄せる。

ギリシャ語で違う単語なんだから、訳文も違うことばで訳すべきだということを言いたいのではありません。そうした言語観は間違っています。しかし、原文が何らかの理由があってことばを使い分けているのであれば、その意図を訳文に反映させなければならなりません。そうした検討を怠っているということを指摘したいのです。

2節で使われた『フォネオー』というのは、主人が大きな声で『お~い○○君、ちょっと来てくれえ!』と管理人を呼び寄せたということです。

一方5節で使われた『プロスカレオマイ』というのは、管理人が帳簿を開き、債務者リストの中から目ぼしい人物を選んで呼び寄せたということです。

新改訳の翻訳理念『直訳、トランスペアレント訳』通りに訳出するのであれば『フォネオー』と『プロスカレオマイ』はそれぞれ異なる訳語になるはずですが、理念が看板倒れになっているのです。なぜ理念に反する訳出をしたかというと新改訳にとって『直訳、トランスペアレント訳』が大切な理念なのではなく、本音は翻訳作業の単純化、手抜きで、これが新改訳の本当の翻訳理念だからです。

『フォネオー』も『プロスカレオマイ』も訳し分けるのが面倒だから『呼ぶ』に統一しておこうよ。その方が簡単でしょ。聖書の訳文が読みにくくなったって構わないさ。別に銘文を作る必要なんかないんだから、手抜きをしないとやってられないよ。委員会はそのように考えていたのでしょう。



~土を掘るには力がないし~

現代の日本人が『土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし』という文を読んだ場合、土木工事の土方作業をイメージすると思います。しかし、ルカはここで土方作業ということを言いたかったのではないはずです。

『土を掘る』と直訳されたのはギリシャ語のスカプトーということばで、新約聖書の中では3回しか使われないことばですが、その3回ともルカ福音書で使われています。

σκαπτω(4626) skapto スカプトー
土を掘る、地面を掘り下げる、地面に穴を掘る、

ルカ6:48 新改訳
・・・地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて・・・

ルカ13:8 新改訳
・・・木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。

スカプトーは、土方作業という意味でなく、土を掘り起こすという動作を表し、畑や農園で土を耕すという意味でも使われます。不正な管理人のお話しの中で、オリーブ油と小麦に関する記述があるので、この金持ちは農産物の取引をしていたことが分かります。

このお話しを聞いた当時の人は『スカプトー(土を掘る)というのは、農作業のことだな』と理解したのではないでしょうか?つまり管理人は『今まで取引先であった農園に雇ってもらうことも考えたけど、そんな体力ないしなあ・・・』と考えた。そのように理解した方が文脈に合っています。

そうだとすると『土を掘るには力がないし・・・』と直訳するのではなく、『農作業をするほどの力もないし・・・』又は『力仕事をするだけの体力はないし・・・』と訳出した方が誤解の起きない訳文になります。こうした細かい配慮を積み重ねることが、訳文全体の品質を上げることなのです。

参考までに現代訳では『肉体労働をするほど体力は無いし・・・』と訳出しています。現代訳は細かなところまで配慮して翻訳されていることが分かります。ところが、このように細やかな配慮をした翻訳をすると『意訳をしている!原典に忠実でない!』と直訳主義者が騒ぎ出します。これこそディアバローする(人を陥れる)ことです。



~こじきをするのは恥ずかしいし~

『こじきをする』と訳されたのは、ギリシャ語の『エパイテーオー』という動詞で、新約聖書の中で使われているのは2箇所だけで、2箇所ともルカ福音書の中にあります。

ルカ 18:35 新改訳
イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた

επαιτεο(1871) epaiteo エパイテーオー
こじきをする、物乞いをする

放送業界や出版業界では、差別や侮辱をすることばをリストアップし、リストに挙げられたことばがタブー視されているということがあります。本来『こじき』は侮蔑を意味することばではなかったのですが、ことばが大衆化される過程で、いつしか元来の意味が薄れて行き、侮蔑的な意味あいが強くなりました。ことばは時間と共に意味を変える、そのような側面があります。

こんにち見られる差別用語の自粛を見ると行き過ぎた『言葉狩り』になっているのではないかとも感じられますが、こうした風潮は今後も続くでしょう。行き過ぎた配慮、過敏な対応をする必要はないと思いますが、10年後、社会が『こじき』をどのように認識しているかを考えると・・・聖書の訳語として『こじき』は避けた方が賢明ではないかと思われます。聖書翻訳の改定作業には、時代を反映した訳語の変更もすべきでしょう。



~16章1~4節 解釈文~

以上を踏まえ解釈文を作ります。原文放棄をしていないのでまだ訳文ではありません。

『イカサマ会計士』

1)イエスさまは弟子たちに次の話しをします。「ある金持ちのところで働く会計責任者がいました。ところが、この会計士を陥れようと企てる者がいて『ご主人様。あの会計士は、ご主人様の資産を無駄づかいしています。それも湯水のように使っているんですよ』と告げ口をしたのです。
2)あるじは大声で会計士を呼びつけると『君について聞き捨てならなぬ噂(うわさ)を聞いているぞ。とんでもないことをしてくれたな。会計帳簿を提出しなさい。もう仕事は任せない』と言い渡しました。
3)会計士は『困ったなあ。クビになったらどうしよう。力仕事は自信がないし、ホームレスは恥ずかしい。
4)そうだ。こうしておけば、顧客の誰かが面倒を見てくれるに違いない』と、あるゴマカシを思いつきます。





(000)ルカによる福音書16章-2

2018年05月15日 | ルカによる福音書



この記事は、ルカによる福音書『不正な管理人』(一部放蕩息子に関する記述もあります)の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。



~背景を理解する(つづき)~

ユダヤ教主流派との対立とイエス像

律法学者たちは、イエスさまに付きまとい鵜の目鷹の目であら探しをし、大げさに騒ぎ立てては敵対心をあらわにします。

ルカ6章 新改訳
1)ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。
2)すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがた(イエスの弟子たち)は、安息日にしてはならないことをするのですか。」


ルカ7章 新改訳
34)人の子(イエス)が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。

ルカ11章 新改訳
15)しかし、彼ら(律法学者)のうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言う者もいた。


イエスさまも黙ったままではいません。辛辣(しんらつ)なことばで反論します。ルカ11章後半を見ると痛烈なイエスさまのことばがとうとうと書かれていますが、これはルカ福音書の特徴でそこにルカのイエス像を見ることができます。

ルカ11章 新改訳
38)そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。
39)すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。
40)愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。
41)とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。
42)だが、わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もなおざりにしてはいけません。
43)わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。
44)わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」
45)すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」
46)しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。
47)わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てている。しかし、おまえたちの父祖たちが彼らを殺しました
48)したがって、おまえたちは父祖たちがしたことの証人となり、同意しているのです。彼らが預言者たちを殺し、おまえたちが墓を建てているのだから。
49)だから、神の知恵もこう言いました。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。
50)それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる。』
51、52)わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げたのです。」
53)イエスがそこを出て行かれると、律法学者、パリサイ人たちのイエスに対する激しい敵対と、いろいろのことについてのしつこい質問攻めとが始まった。
54)彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと、ひそかに計った。


イエスさまが持つ辛辣な一面をありのまま表現したところがルカ福音書の特徴で、これは『不正な管理人』を解釈するカギとなります。ルカがことさらイエスさまの辛辣さを強調したというよりは、他の福音書執筆者はイエスさまのこうした一面をちょっとばかり削り落として書いたと思われます。



15章から理解する

15章の終わりが『放蕩息子』で、16章が『不正な管理人』と、章が分かれているので読者はここでテーマが変わっているという印象を受けてしまいます。困ったことですが、聖書に付けられた章節の区切りは、ストーリーの区切りと一致しておらず、古い時代の印刷技術、レイアウト技術に合わせる格好で、文脈とは無関係に章節が割り当てられたという経緯があります。イエスさまが『不正な管理人』を語ることになったきっかけを知るには、15章冒頭を見なければなりません。

ルカ15章 新改訳
1)さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
2)すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人(イエス)は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。
3)そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。


15章4節からイエスさまの反論が始まります。失われた羊、失われた銀貨、放蕩息子、不正な管理人の内容は、律法学者たちへの反論です。『不正な管理人』の解釈が混乱を招き『小さなことに忠実であれ』 『お金を上手に使いなさい』 『この世の手段を使ってでも仲間を増やしなさい』と様々ですが、そうではなく律法学者たちへの反論として『不正な管理人』のお話しが配置されており、内容も律法学者たちへの反論になります。

失われた羊と失われた銀貨は、誰が読んでも理解できる内容ですが、放蕩息子と不正な管理人はアイロニー表現になっているので、アイロニーを考慮した解釈をしなければ理解できません。





~15章放蕩息子とアイロニー表現~

ルカ15章 新改訳 放蕩息子
11)またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
12)弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
13)それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
14)何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15)それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
16)彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
17)しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
18)立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
19)もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
20)こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
21)息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
22)ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
23)そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
24)この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
25)ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。
26)それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
27)しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
28)すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
29)しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
30)それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
31)父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
32)だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」



ユダヤ人(ヘブライ語)には並行表現といって、同じようなフレーズを繰り返す表現方法が多用されます。そのように『放蕩息子』と『不正な管理人』も並行関係にあるお話しになっていて、別々に解釈するのではなくセットにして解釈しないと理解できません。先ず『放蕩息子』をささっと解釈します。

福音書には多くのたとえ話しがありますが『ぶどう園のあるじと、殺された息子』 『ぶどう園のあるじと、いちじくを守る園丁』というたとえ話しがあります。ぶどう園のあるじというのは父なる神を意味し、殺された息子、ぶどう園の園丁というのはイエスさまを意味します。

これはお決まりのパターンなのです。このパターンを放蕩息子のお話しに当てはめてみます。すると、裕福な父というのは父なる神を意味し、放蕩息子(弟)というのはイエスさまを意味すると分かります。

『ええっ?放蕩息子は外国で女遊びをした遊び人として描かれているんだから、イエスさまじゃないだろ』と感じることでしょう。そう思ってしまうのは誤った先入観があるからです。先入観を捨て、このお話しがアイロニー表現であることに気がつくことができれば、矛盾なく理解できます。



~放蕩息子 ストーリーの把握~

律法学者たちは『イエスは罪深い者どもの仲間になってるじゃないか。イエスという奴は何て薄汚いやつなんだ』と侮辱します(15:2)。律法学者たちの腹の内をお見通しのイエスさまは、自虐的な語り口(アイロニー)で、『放蕩息子』のお話しを始めます。


イエスさまは律法学者たちに向かってお話しになりました。「あなたがたはこのように言っている。『我々律法の教師は、取税人や売春婦たちを同じユダヤ人とは認めない。そのような輩(やから)に神の国を教えるなんて全くの無駄。遊女に金を散財するようなものだ。イエス、そのうちお前が伝道できなくなるよう追い込んでやるから待っていろ。食いぶちをなくしたお前は、取税人の家にもぐりこみ、おまんまを頂戴するのさ。ブタの餌を食うようなもんだぜ。身をやつしたお前は『お父さん私が間違っていました』って泣いて後悔するのさ。まったく愉快だぜ、ガッハッハ』

ところで次のことが分かるだろうか?この放蕩息子の帰りを待っていたのは、ほかでもないあの父親だということを。父親は「お前の帰りを待っていた。死んでいたと思っていたが、生きかえったではないか。お前に私の家督(かとく)すべてを継がせよう」といい抱きしめた。

死んで復活した息子。更に父親が持つ天国の家督権を全て受け継いだ息子というのは、誰のことでしょうか?イエスさましかいません。『でも、イエスさまが父親の財産を外国の女遊びに使ったというのはおかしいじゃないか!』という疑問が出てきます。この疑問に突き当たると回れ右をし、もと来た道を戻って帰る方が多いと思いますが、勿体ないことです。

イエスさまは『そうだよね、おかしいよね。でもどうしてだと思う?』と尋ねているように思います。ユダヤ人であれば『そっか!律法学者たちのひねくれた見かたを引用した言い方にしているんだ。アイロニー表現だったのか。俺たちいつも使ってるもんな!』と気が付くはずです。

対立する律法学者とイエスさまの関係を、真面目な兄と不真面目な弟になぞらえアイロニー表現でお話しになったものなのです。『放蕩息子=イエスさま』という解釈をすれば、ストーリー全体のつじつまが合います。『放蕩息子』のお話しは、罪びとが改心し父親と和解する感動ストーリーとして解釈されてきましたが、そうではなく律法学者に対する痛烈な反論です。もし、この放蕩息子の解釈でつまづくようであれば、続く不正な管理人の解釈もできません。言い換えると、不正な管理人の解釈ができなかったのは、放蕩息子の解釈ができていなかったからです。



『放蕩息子』の次に『不正な管理人』の話しが続くのですが、意図的にこの順番で構成されています。『放蕩息子』を先に読ませることで、読者に対し『アイロニー表現で書かれてるけど、これくらいのアイロニーなら理解できるよね』というメッセージを送り、読者にアイロニー表現に対するウオーミングアップをさせているのです。続く『不正な管理人』に入ると、アイロニー表現が雨あられと降り注ぎます。



~不正な管理人 登場人物と比喩の解釈~

『不正な管理人』の中で登場する人物と、それが何を意味するか検討します。

先にも書きましたが『ぶどう園のあるじと、殺された息子』というたとえ話しで、ぶどう園のあるじというのは父なる神を意味し、殺された息子や園丁というのはイエスさま意味します。15章で放蕩息子(弟)というのは、イエスさまを意味していました。

従って16章『金持ち、イカサマ管理人、密告者』の関係は『父なる神、イエスさま、律法学者』を意味し、不正な管理人とは、イエスさまのことだと分かります。ストーリー後半『この世の子、光の子』は『いかがわしいイエスたち、清廉潔白な律法学者たち』を意味します。『ええっ?イエスさまが不正な管理人?』と驚かれるかもしれませんが、素直に解釈することが肝心です。

放蕩息子も不正な管理人も、律法学者たちが『イエスは罪深い輩(やから)の仲間になっている』という侮蔑に対する反論として配置されています。イエスさまは『なるほど。清廉潔白な神のしもべ律法学者さまと、いかがわしい目で見られる私たちと、果たしてどちらが父なる神のみ心に適うのだろうか?』と、二つのたとえ話しの中で問いかけているのです。

放蕩息子のお話しでは、真面目な兄=律法学者で、不真面目な弟=イエスさまでした。不正な管理人のお話しでは、密告者=律法学者で、不正な管理人=イエスさまを意味しています。どちらのお話しも不真面目な方が称賛を得るという内容です。律法学者にはイエスさまの宣教がいかがわしく見えたのですが、イエスさまの宣教こそ父なる神のみ心だと、律法学者に反論をしています。

鏡をのぞくと、左右が反転した画像になりますが、アイロニー表現の解釈というのは、歯科医が歯鏡に映った反転画像を見るような感じでおこないます。



・ある金持ち
父なる神さま

・資産管理者(不正な管理人)
イエスさま

・財産の乱費
主人の大切な財産を無駄づかいしているということですが、その真意は『取税人のように社会からつま弾きされた人たちへの伝道』を意味します。アイロニー表現です。

・財産乱費の密告者
正義感あふれた告発者ということですが、その真意は偽善の律法学者たちを意味します。アイロニー表現です。

・主人の債務者
神さまから離れて生きる罪深い人のことですが、その真意は神に愛される取税人や売春婦たちを意味します。アイロニー表現です。

・この世の子ら
俗世で生きるずる賢い人のことですが、その真意は福音を委ねられたイエスさまと弟子たちを意味します。アイロニー表現です。

・光の子ら
神に従う正しい人のことですが、その真意は偽善の律法学者たちを意味します。アイロニー表現です。


執筆者ルカは『放蕩息子のお話しがアイロニーだって気がついたよね。じゃあ『不正な管理人=イエスさま』というのもすぐ分かるでしょ。この話しもアイロニー表現になってるから、そういう風に理解するんだよ』と含みを持たせた構成になっているのです。ルカの執筆力はこうしたところに発揮されています。

『放蕩息子』と『不正な管理人』は並行関係にあるお話しです。それぞれの比喩、アイロニー表現を下の表にまとめました。





~不正な管理人 ストーリーの把握~

律法学者たちは『イエスは罪深い者どもの仲間になってるじゃないか。イエスという奴は何て薄汚いやつなんだ』と侮辱します(15:2)。律法学者たちの腹の内をお見通しのイエスさまは、自虐的な語り口(アイロニー)で、『不正な管理人』の話しを始めます。強烈なアイロニー表現です。


イエスさまは弟子たちに向かってお話しになります。「律法学者たちは次のように言っている。『我々律法の教師は、取税人や売春婦たちを同じユダヤ人とは認めない。そのような輩(やから)に神の国を教えるなんて全くの無駄。財産を浪費するようなものだ。イエス、お前は神の国を説き取税人たちと親しくしているが、きっと下心があるに違いない。そのうちお前が伝道できなくなるよう追い込んでやるから待っていろ。食いぶちをなくしたお前は、取税人の家でずっと世話になるのさ。実のところ自分の食いぶちつなぎで取税人と親しくしているだけだろ。お前はとんでもない悪知恵のかたまりだ。イエス、おぬしもワルよのう。ガッハッハ』。

ところで次のことが分かるだろうか?この不正な管理者をほめたのは、ほかでもないあの金持ちだということを。

弟子たちよ聞きなさい。私の宣教活動を不正呼ばわりする奴らにはそうさせておけば良い。私にならい、不正と揶揄(やゆ)される宣教活動をおこないなさい。ユダヤ社会から疎外された罪人の友となり福音を語ること、彼らはそれを不正呼ばわりするのだから」。



不正な管理人の話しは強烈なアイロニー表現で書かれています。マタイ、マルコ、ヨハネがこれを書かなかったのは、『良い子には読ませたくないお話し』だったからです。ルカがあえて不正な管理人を書いたのは、この話しの中にルカが伝えたかったイエス像、福音観があったからでしょう。

ここまで輪郭を作る作業をしてきましたが、これで80%は理解できるようになったと思います。一応コイネー・ギリシャ語で原文を調べる作業もしていますが、ここまではコイネー・ギリシャ語の語学知識に頼ることなく、輪郭を作ることができます。

翻訳者にとって輪郭を作るという作業がとても重要なんだということを理解し、翻訳作業に活かしていただけると幸いです。但しこれができるようになるには訓練が必要です。通訳の現場経験を重ねることが一番役立ちます。机の上で翻訳をしていたのでは身に付けることができないものです。

新約聖書の翻訳をする上で、勿論ギリシャ語を勉強することは必要ですが、通訳や翻訳という仕事は、ギリシャ語を勉強すればできるというものではないのです。語学知識とは全く異なる翻訳(通訳)スキルというものがあるのですが、これを身に付けずして通訳や翻訳はできません。多くの人がこのことに気がついていないのです。

従来『放蕩息子=不正な管理人=イエスさま』という解釈はされてこなかったので『そんな筈ないだろ』と思われている方がいると思います。原文をコイネー・ギリシャ語で見るなら、更に有力な情報があるのでその一つを紹介させていただきます。

ルカ15:13 新改訳 放蕩息子
・・・弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった

ルカ16: 1 新改訳 不正な管理人
・・・ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。


『湯水のように財産を使う』『財産を乱費する』と訳されたのは、ギリシャ語の動詞 διασκορπίζω diaskorpizo(ディアスコルピッゾ)で、実は同じ動詞が使われていたのです。ディアスコルピッゾには、以下の意味があります。

・(手に掴んだ種を)まき散らす
・(元いた場所から人、羊が)散り散りにされる
・(手元にあるお金を)湯水の如く使う

細やかな配慮ができる翻訳者であれば、次のように訳出するでしょう。
15:3)弟は・・・父の遺産を湯水のごとく使った
16:1)管理人があるじの財産を湯水のごとく使っている

このように同じことばで訳出すれば、ルカがギリシャ語に込めた意図を、日本語の訳文で再現できます。『ディアスコルピッゾ』は新約聖書全体で9回しか使われていないことばです。滅多に使われないことばが、放蕩息子で使われ続く不正な管理人で使われているのです。ギリシャ語で読んだ読者は『放蕩息子と不正な管理人はつながりがあるかもしれないな』とピンと来るよう仕組まれています。

ルカはこうした意図を持って『ディアスコルピッゾ』という動詞を繰り返し使ったのです。それは、放蕩息子=不正な管理人=イエスさまと、理解できるようにしてあげようという読者への配慮で、同じ動詞が繰り返し使われているのは偶然ではありません。

イエスさまや弟子たちが使う日常のことばはアラム語(ヘブライ語に近いことば)だったと言われています。ところが福音書を始めとする新約聖書は、コイネー・ギリシャ語で書かれています。つまり、ルカはアラム語→コイネー・ギリシャ語に翻訳をして執筆したことになります。ギリシャ語に翻訳しつつ、それぞれの文に『ディアスコルピッゾ』を繰り返し使ったところに、ルカの秀でた文章構成力が表れています。

新改訳の先生にお願いしたいのですが、ルカが気を利かせわざわざ『ディアスコルピッゾ』を繰り返しているのですから、こういう箇所こそ『トランスペアレント訳』にするべきです。新改訳は『トランスペアレント訳』をやってはいけないところでトランスペアレント訳にし、トランスペアレント訳で訳出すべきところでやっていません。やってることがアベコベなんです。

原文に忠実に翻訳するというのはどういうことなのでしょうか?単にギリシャ語の単語を日本語の単語に置き換えること、直訳やトランスペアレント訳をすることでしょうか?そうであれば、中学一年生の語学力で十分できます。

今から2000年前、イエスさまが語った不正な管理人のお話しを聞いた人が、何を感じ何を思ったのか。ルカが書いた記事を読んだ当時のクリスチャンが、そこから何を感じ何を思ったのか。当時の人が受けた心理的影響を、翻訳を通し同じ心理的影響を現代日本人に与えること。これが原文に忠実に翻訳するということです。

『直訳やトランスペアレント訳が良いのだ』『ぎこちない訳文でいいのだ』と公言されると、世間の人に『どうせ翻訳者なんてその程度のレベルだよな』という誤解を与えることになります。高い技術を身に付け通訳や翻訳をしている人の迷惑なので、そうしたご発言は止めていただきたいものです。




(000)ルカによる福音書16章-1

2018年05月14日 | ルカによる福音書


この記事は、ルカによる福音書16章『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


『不正な管理人』は難解なたとえ話だと言われてきました。ところがこの箇所も『輪郭を捉える』方法を使うと、簡単に紐とくことができます。イザヤ書8章の翻訳記事で繰り返し申し上げたことですが、原文解釈をする時大切なことは、原文の輪郭を把握することです。



~ルカによる福音書16章1~14節 新改訳~

不正な管理人

1)イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
2)主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』
3)管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。
4)ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』
5)そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
6)その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
7)それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。
8)この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
9)そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
10)小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
11)ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
12)また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。
13)しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
14)さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。






新改訳の訳文を読んでも何がいいたいのか、私にはさっぱり理解できません。『不正な管理人』は、イエスさまが難解なたとえ話しを語ったのだと言われてきましたが、そうではありません。私はコイネー・ギリシャ語を習ったことはありませんが、この箇所を原文で読むと、きちんと理解できるストーリーになっていることが分かりました。『不正な管理人』が難解なのは、翻訳者(翻訳団体)の原文解釈をする能力が極めて低く、誤訳されていることが原因です。

翻訳や通訳というのは異なる民族の仲立ちをし、両者が理解しあえる関係をつくることです。『私はコイネー・ギリシャ語の専門家であって、日本語の専門家ではないから、おかしな訳文でも仕方ないのだ』と言えるでしょうか?もし、そのようにお考えの翻訳者がおられたら、ご自分のギリシャ語研究に専念なさっていただき、翻訳に関わるべきではないと思います。厳しい言いかたに聞こえるかも知れませんが、当たり前のことを申し上げてるだけです。

聖書翻訳に携わる方が『ヘブライ語は難しい』『コイネー・ギリシャ語は難しい』と口にされますが、プロとして仕事を引き受けた方がこのようなことを公の場で言われるのは考え物です。一般の学習者が『ヘブライ語は難しい』『コイネー・ギリシャ語は難しい』と嘆くのは一向に構いません。しかし、プロとして仕事を引き受けた方が『コイネー・ギリシャ語は難しい』ということばを言われると、言い訳がましく聞こえてしまいます。翻訳団体は、翻訳スキルのない翻訳者にお金を払い仕事をさせているということになりますがどうなのでしょうね。



~輪郭を描くポイント~

イザヤ書8章では、単語の解釈の間違い(普通の文字、書け、女預言者、近づいた、インマヌエル・・・)、文法解釈の間違い(忌避の規則、コンテクスト・・・)など難易度がやや高い箇所もありました。このことは『聖書と翻訳2~10』『ヘブライ語 masows ことばの解釈』『ヘブライ語 qarab nebiah ことばの解釈』で書かせていただいたので興味のある方はお読みください。

それに比べ『不正な管理人』では、単語や文法解釈をするうえで難しいところはないようです。にも関わらず意味不明な訳文になっているのは、直訳で訳文を作るからです。最近は『直訳』ということばが使いにくくなったのか『トランスペアレント』と言い換える先生もいるようです。

余談ですが、ヘブライ語の言語構造と英語の言語構造を比較した場合、忌避の規則、コンテクスト、ことばの運用で似通ってるところがあり、学者向けの聖書翻訳であれば、トランスペアレント訳も可能かもしれないな?といった感じはします。その一方、ヘブライ語の言語構造と日本語の言語構造を比較した場合、忌避の規則、コンテクスト、ことばの運用で違いが大きいため、トランスペアレント訳は不可能です。

ヘブライ語テクスト→英語訳の関係と、ヘブライ語テクスト→日本語訳の関係とは同じではないので『英訳でトランスペアレント訳が可能なんだから、日本語訳でも可能なんだ』という理屈は成り立たないのです。新改訳の先生はVan Leeuwen(ヴァン・ルーエン)博士のレポートを引用し『直訳やトランスペアレント訳が良い』と言っていますが、こうした言語構造の違いを理解されていないようで、言語というものを理解していないということが分かります。


原文解釈をする場合、単語の解釈と文法解釈で終わってる翻訳者が多いのですが、それではダメです。単語と文法の解釈では、原文解釈は50%しかできません。コイネー・ギリシャ語のテキストが読めなくても、きちんと輪郭を設定することができれば、不正な管理人は80%解釈できます。今回輪郭を描くのに、次の3点を検討します。

・背景を理解する
  執筆者ルカとは何者か
  下僕に転落したテオピロ?
  ルカ福音書の独自性とアイロニー表現
  ルカが見たイエス像
  15章から理解する

・登場人物と比喩の把握
・ストーリーの把握



~背景を理解する~

執筆者ルカとは何者か

パウロが書いた手紙の中に『ルカ』に関する記述が現れます。このルカとルカ福音書を書いたルカは、同一人物だと言われています。

コロサイ4:14 
愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。

第二テモテ4:11 
ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください・・・

ピレモン24節 
私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。

パウロの伝道旅行には、医者ルカが同行していました。デマス、マルコ、アリスタルコがどのような仕事についていたのか記述されていませんが、ルカだけ医者という職業が書かれています。なぜルカだけ『医者ルカ』と書かれたのでしょう?

パウロは目の病気にかかっていたと言われています。そのため自分の手で文字を書くことが困難で、パウロが話したことばをほかの者が筆記していたようです。『ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています(ガラテヤ6:11)』。目の悪い人が、自分の手で文字を書くとどうしても『大きな字』になります。

・・・私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした・・・あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで・・・私を迎えてくれました・・・あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか(ガラテヤ4:13~15)』。ガラテヤでの伝道は、パウロの目の病気が悪化した時期であったことをうかがわせます。

・・・ステパノの血が流されたとき・・・彼を殺した者たちの着物の番をしていた・・・(使徒22:20)』。パウロが石を手に取ることをしなかったのは、目が悪く、ステパノ目がけ石を投げることができなかったためで、それで上着番をすることになったのではないかとも言われています。

(パウロ)は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった(使徒9:9)』。このように新約聖書で、パウロの目に関する記述があちこちで見られます。

パウロのアシスタントとして、目の治療ができ、かつ執筆力に長けた人物がいたとしたら、伝道旅行の随行者としてうってつけの人物ではないでしょうか?『医者ルカ』と、敢えてルカの職業を明らかにしたところに、目を治療してくれるルカに感謝を表したのだと思います。

イエス・キリストの生涯(福音書)を書いた執筆者が4人いた(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)のに対し、使徒行伝を書いたのはルカひとりです。なぜでしょう。イエスさまの周りには12弟子がいたので、複数の人が福音書を書くことができました。しかし、使徒行伝のほとんどはパウロの伝道旅行に関する内容で、旅先におけるパウロの言動を知る人物は一人か二人しかいなかったはずです。使徒行伝を執筆した『ルカ』と、パウロに同行した『医者ルカ』は同一人物である可能性が高いといえます。

そうであれば、パウロ書簡の幾つかはルカが代筆していたことも考えられます。新約聖書27巻のうち、ルカの手で書かれた書簡は2つ(ルカ福音書、使徒行伝)だけではなく、もっと多かったのかもしれません。ルカには執筆の賜物があったということがうかがえます。


下僕に転落したテオピロ?

ルカ福音書と使徒行伝は『テオピロ』という人物に捧げられたものだというのが従来の解釈です。『テオピロ』に関する記述が、ルカ福音書と使徒行伝の2か所に現れます。『テオピロ』とは何者なのでしょう。

ルカ1章 新改訳
2、3)私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿

使徒1章 新改訳
1)テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて・・・

読んで違和感を感じないでしょうか?福音書では『尊敬するテオピロ殿』とうやうやしく訳出し、使徒1章では『テオピロよ』と呼び捨てです。これでは、身分の高かったテオピロが、いつの間にか下僕に転落したという表現になります。もしくは、執筆者ルカは社会常識がない尊大な人物だという訳出になっています。

ルカは『尊敬するテオピロ殿』とテオピロを持ち上げていますが、その一方『あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います』と生意気な口の利き方をしているという訳文です。新改訳は、ルカは生意気で嫌味っぽい人だという印象を読者に与えていますが、このような解釈には根拠がなく、翻訳者(翻訳団体)の翻訳技術が低いため、執筆者ルカの人格を傷つける訳文におとしめているのです。

日本文化の中で育った人間として申し上げますが、初めの書簡(福音書)で『尊敬する○○殿』とうやうやしく書いた相手に対し、二番目の書簡(使徒行伝)で『○○よ』と呼び捨てをする、こういう無礼な感覚を理解できません。これはギリシャ語の知識があるかないかといった問題ではありません。翻訳者が日本人としての社会常識を身に付けているかどうかといったレベルの問題だと思います。自分の愛読する聖書が、乱雑に翻訳されてることを見ると本当にがっかりします。

テオピロ(Θεόφιλος Theophilos)は、ギリシャ語の名詞で『神に愛された人』『神のしもべ』という意味があり、人名として解釈できることばです。『尊敬する・・・殿』と訳されたのはギリシャ語の『κράτιστε kratiste クラティステ』ということばで、これは『気高い、親愛なる、閣下』という意味があります。ちなみに口語訳では『テオピロ閣下』と訳出しています。原文を見ると確かに福音書では『kratiste 気高い、親愛なる』が記載されているのに対し、使徒行伝では『kratiste』が書かれていません。なぜなのでしょう?

この問題を解決し訳文に反映させるのは翻訳者の仕事です。ところが、新改訳の翻訳者はこの問題解決を放棄しているのです。一般の日本人が読んだら『ルカっておかしな書き方するんだな。常識がない人だな』と受け取ってしまいます。このようなおかしな訳文を出版することは、執筆者ルカを侮辱することです。通訳や翻訳で絶対やってはいけない誤訳というのは、発言者(著者)の人格を棄損する通訳(翻訳)をすることです。このような翻訳者は翻訳に関わってはいけないと思いますし、組織で翻訳されているのであれば、チェック機能を働かせない組織のリーダーにも責任があります。国語の専門家がいるのであれば、その専門家がきちんと仕事をしていないということになります。翻訳委員会は、立派な肩書を持つ先生を集めたのかも知れませんが、それにしては訳文の品質が低く、申し訳ありませんが見掛け倒しの委員会という印象を受けます。

使徒1章の『テオピロ』は、日本語訳では次のように訳されています。

文語訳 テオピロよ
口語訳 テオピロよ
新改訳 テオピロよ
新共同訳 テオフィロさま
現代訳 テオピロ閣下
リビング 神を愛する親愛な友へ

日本人が手紙を書く場合、相手を『○○よ』と呼び捨てにするということは、普通はありません。家族、友人であってもそうです。文語訳、口語訳、新改訳は直訳をしたようですが、このことからも直訳は原文の意図を歪めるということが、お分かりになると思います。新改訳は『直訳やトランスペアレント訳が正しい翻訳法だ』と言っていますが、これは言語学的根拠のないことで、言語には恣意性があるという前提で翻訳にあたらなければならないのです。

コイネー・ギリシャ語の名詞には、男性、女性、中性の区別がありますが、この性の区別をどうやって日本語に直訳するのでしょうね?名詞一つとっても言語というものは直訳できないもので、異なる構造を持つ二つの言語間で、直訳をすればいいんだという考えはナンセンスなのです。

また新改訳は翻訳理念の中で『多少ぎこちない訳文のほうがいいのだ』と言っていますが、プロの仕事というものをご存じないようです。プロの通訳や翻訳の仕事と言うのは『的確な原文解釈をする』というのは当たり前のことですが、その上で『いかに聞きやすい(読みやすい)日本語に訳出するか』『いかに誤解を生じない表現にするか』を日々追及しています。これはプロの翻訳者として当たり前のことです。新改訳の先生がおっしゃる『多少ぎこちない訳文のほうがいいのだ』というご発言は、素人翻訳者の開き直りとしか聞こえません。

話しを戻しますが、ある解説書では、テオピロは個人名ではなく『神に愛された兄弟姉妹たち』という意味で、ルカ福音書の『クラティステ テオピロ』は『神に愛された兄弟姉妹たち』をうやうやしく言った表現である。使徒行伝の『テオピロ』は『神に愛された兄弟姉妹たち』という意味で、ルカは教会の兄姉のために書簡を書いたという解釈をしていました。こうした解釈も可能だということです。これ以上書くと一つの記事で納まりきらなくなるので深入りしないでおきますが『テオピロ』の解釈には以下のものがあります。

・個人名:一般のローマ市民
・個人名:アレクサンドリア出身のユダヤ人
・個人名:ローマ帝国の高官
・個人名:パウロの法律顧問
・個人名:サドカイ派の高位の祭司  Theophilus ben Ananus 
・クリスチャン、教会への敬称表現:『神に愛された兄弟姉妹たち』

『クラティステ』は、ギリシャ語で手紙を書く時の敬称語ですから、『拝啓』と訳出をすればしっくりとした日本語になります。

ルカ1章 私訳
拝啓。・・・・テオピロ様・・・

使徒1章 私訳
テオピロ様・・・

日本人の感覚として、手紙を受け取る相手に対し『テオピロよ』と呼び捨てをするというのは、不適切です。一方『閣下』と訳出するものもありますが、テオピロなる人物がどのような身分の人か分かっていないのですから、『閣下』という訳語は、早計に過ぎます。



ルカ福音書の独自性とアイロニー表現

ルカ1章1~3節を見ると『多くの人がすでに福音書を書いていますが、すべてのことを詳しく洗い直し、順序立てて書きました』とルカが述べています。イエスさまの公生涯がほかの人によって既に書かれていたにも関わらず、敢えて福音書執筆を決意したというくだりに、ルカが自分の記事の中に他の福音書にはない独自性を与えているということがうかがえます。

ルカ福音書の『放蕩息子』『不正な管理人』は、ほかの福音書にはないお話しです。マタイ、マルコ、ヨハネは『放蕩息子』『不正な管理人』の話しを知らなかったのでしょうか?そうではないはずです。この話しは、律法学者たちがイエスさまと卑しい身分の人たちを愚弄したことを受け、イエスさまが反論するという場面を表したものです。イエスさまのそばには侮辱を受けた取税人たちもいます。その場の空気は張りつめていたことでしょう。ドラマチックな場面というのは、記憶として鮮明に残るものです。その場に弟子たちもいたのですから、弟子たちがこの話しを知らなかったとか、忘れたというのは考えにくいことです。

マタイは『不正な管理人』の1節だけを切り取って書き残しています。『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません(マタイ6:24、ルカ16:13)』。マタイは『不正な管理人』のお話しを知っていたようです。

ルカ以外の福音書執筆者もこの話の存在を知っていたにも関わらず、あえて記述しなかった理由があったのです。それは、このお話が非常に強烈なアイロニー表現(皮肉を込めた痛烈な表現)であるため、記録として残すことをためらったからでしょう。

執筆者の心には『強烈なアイロニー表現を読んだ読者は、イエスさまは陰険な人物だと誤解するのではないか』との不安があったはずです。また『不正な管理人』を執筆する者には、読者に誤解を与えないよう書きあげる表現力が要求されます。ルカにとっても『不正な管理人』の執筆はリスクが伴うことでしたが、裏を返せば、そこまでして書いた『不正な管理人』の話しに、ルカが持つイエス像や福音観を見ることができるのです。

『不正な管理人』をギリシャ語で読んでみると、無駄のないことば使いにルカの文章力を感じ、同じことばを繰り返す変則技、豊富な語彙に、ルカの自信に満ちた筆跡を感じます。ルカは綿密な分析力があり、優れた文章構成力と表現力を持った人物だということが分かります。新改訳は『テオピロよ』とおかしな訳文で出版しましたが、ルカの執筆力はそのような低いレベルではないのです。翻訳委員会の質の低さがそのまま、訳文の質の低さとなって表れている。そのように思えてなりません。

※アイロニー
アイロニーというのは、相手をやり込めるための強烈な皮肉を交えた表現です。例えば、待ち合わせに遅刻をしたことに対し『君は時間に几帳面な人だねえ』と言われたらかなりこたえるのではないでしょうか?『遅刻するなよ』より『君は時間に几帳面な人だねえ』のほうがはるかに精神的ダメージが大きいですよね。言われた側は、ことばを額面通り理解するのでなく、その裏に隠された真意を詮索しなければなりません。

ユダヤ人と付き合ったことがある方であれば分かると思うのですが、ユダヤ人の会話には、時にビックリするほどの激しいやり取りがあります。それはことばの格闘技『ことばのK-1』です。激しいことばの応報の中に、皮肉たっぷりのアイロニー表現も使われます。アイロニーは変則技のようなもので、不意を突き相手の思考を撹乱する攻撃法です。アイロニーを言われた人はその真意を悟った瞬間、マットに崩れ落ちるのです。



『Irony and Meaning in the bible(聖書の中のアイロニー表現)』と検索をかければ、ものすごい数の英語の記事が出てきます。聖書の原文解釈をする上でユダヤ文化を理解することは欠かせません。日本人を含めた非ユダヤ人にとって、アイロニー表現は理解しづらい面があるようですが、聖書翻訳者にとってアイロニー表現を理解することはとても重要なことです。