聖書と翻訳 ア・レ・コレト

聖書の誤訳について書きます。 ヘブライ語 ヘブル語 ギリシャ語 コイネー・ギリシャ語 翻訳 通訳 誤訳

(000)イザヤ書34章11節後半

2018年05月13日 | イザヤ書



この記事は『聖書と翻訳 ヘブライ語の解釈 イザヤ34章11節前半』の続きで、11節後半の解釈をしてみます。

この記事の目次
・11節後半の解釈
・文法解釈の間違い
・巻尺と下げ振り
・トーフー ボーフーの間違った解釈
・旧約聖書の神は怒りっぽい神?
・感動ポルノと聖書翻訳


~11節後半の解釈~

新改訳は次のように翻訳しています。
新改訳 イザヤ34:11後半
・・・主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。

全く意味が分かりません。これを読んで理解できる日本人はいないと思います。11節前半は、表と裏、両方の解釈ができましたが、同じように後半も両方の解釈ができます。ヘブライ語が語る真意は、裏の解釈です。

וְנָטָ֥ה עָלֶ֛יהָ קַֽו־תֹ֖הוּ וְאַבְנֵי־בֹֽהוּ׃・・・
・・・ベナター アレハー カーイ・トーフー ベアブネー・ボーフー

私訳 表の解釈 イザヤ34:11後半
・・・巻尺も、下げ振り(さげふり)も使わずに。

私訳 裏の解釈 イザヤ34:11後半
・・・律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。




従来の日本語訳聖書は、間違った文法解釈をしていて、更に、ここが比喩として表現されていることを見落としています。


~文法解釈の間違い~

新改訳 イザヤ34:11後半
・・・主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。

新改訳は『直訳、トランスペアレント訳』が翻訳理念だと宣言しているにも関わらず、ここ11節は、原文の文法を無視して翻訳しています。主語が『主は・・・』となっていますが、ヘブライ語に『エロヒーム、ヤーウェー 神、主』といったことばはありません。次の図をご覧ください。



なぜ新改訳は、原文にない『主』ということばを主語にしたのでしょう?二つの理由が考えられます。一つ目の理由は、英訳聖書がそのような解釈をしているので、英訳の真似をしたということです。

New International Version 誤訳
・・・God will stretch out over Edom the measuring line of chaos and the plumb line of desolation.
・・・神は混乱の測りなわでエドムを測り、荒廃の下げ振りを伸ばす。??? ←意味不明、誤訳

二つ目の理由は、文法解釈の間違いです。文法的な話になるので、苦手な方は読み飛ばしていただいて結構です。11節の中に動詞は三つあります。11節前半の『ビレシューハー 所有する』と『イシュケヌー・バー 棲む』、11節後半の『ベナター アレハー 計測する、あてがう』です。『ビレシューハー 所有する』と『イシュケヌー・バー 棲む』の主部は『4つの鳥』で、これは異論がないでしょう(新改訳は誤訳しています。詳しくは、ヘブライ語の解釈 イザヤ書34章11節前半参照)。次『ベナター アレハー 計測する、あてがう』についてですが、この動詞の主部になれるのは、『4つの動物』か『巻尺、下げ振り』しかありません。ヘブライ語の語順は、基本的に『動詞+主語』ですから『ベナター アレハー 計測する、あてがう』が動詞で、主部は『巻尺、下げ振り』になります。基本通り素直に解釈すればいいんです。

さて、『וְנָטָ֥ה  wenatah ベナター(5186)計測する、あてがう』は『動詞、カル形、三人称、男性、単数』の形になっています。カル形は、一般的に能動態として解釈されるので、新改訳は、次のように考えたのでしょう。『三人称、男性、単数』が主語になるから、主語は・・・「He」じゃないかな?英訳もそう解釈している。「主が縄を張る・・・」できた!』

ところがです、この文脈の中で、ベナターは『受動態』に変化しています。『カル、三男単は、受動態に変化する場合がある』これは、ヘブライ語文法、入門レベルの知識です。新改訳のセンセイ!『聖書ヘブライ語』入門レベルのテキストを見返してください。載ってるはずですよ。主部は『巻尺と、下げ振り(否定名詞句)』。動詞は受動態なので、『巻尺も、下げ振りも使われない(無生物主語+動詞受動態否定)』となります。文法上、この解釈しかできないんです。意味だって文脈とピッタリ合っています。

『そんなはずないだろ。カル態は能動態だろ』と、納得できない方がいると思うので、説明させていただきす。聖書の中で『ベナター (カル、三男単)』が、どのように使われているか確認すればよいのです。ベナターが使われているのは、次の4か所になります。出エジプト33:7、イザヤ34:11、エレミヤ43:10、エゼキエル30:25。ヘブライ語をご覧ください、4か所ともベナターの主語は『もの(無生物)』で、動詞は『受動態、三男単』になっています。ところが、新改訳は、4か所ともぜ~んぶ誤訳してます。文字数の都合上、ここでは詳しく説明しませんが、入門レベルの文法知識があれば、理解できるはずです。

ヘブ-英インターリニアを見てみましょう。次のインターリニアは文法解釈を間違えています(He shall stretch out)。


King James Version 誤訳
・・・and he shall stretch out on it the line of confusion, and the stones of emptiness.
・・・彼(主)は、混乱の縄を伸ばし、空っぽの石を敷きつめる???

誤訳となっているのは、King James Versionだけではありません、ほとんどの英訳が、主語を『Lord, God, He(=Lord/God)』と誤訳しています。神学者がおこなう翻訳というのはこの程度だということです。辞書、文法書、インターリニアを、三種の神器の如くあがめる方がいますが、どれも鵜呑(うの)みにできる代物(しろもの)ではありません。はっきり言わせてもらうと、神学者や聖書学者が作った、辞書、文法書、インターリニアというのは、所詮、素人が作ったものなんです。素人がやることですから、間違った解説、不適切な説明、誤訳は、至るところに含まれています。

通訳翻訳を経験した方であれば分かると思いますが、辞書、文法書、インターリニアに書いてあることを、100%信用することはできないのです。信用できるのは、せいぜい50%程度です。ところが学校では、辞書や文法書を、絶対的基準のように扱い、辞書と文法書に依存させてしまうのです。もし、辞書、文法書、インターリニアを有効に使いたいのであれば、そこにかなりの不完全さがあることを弁(わきま)えておくことが大切です。

新改訳の翻訳理念は『ヘブル語及びギリシャ語本文への安易な修正を避け、原典に忠実な翻訳をする』『行き過ぎた意訳や敷衍(ふえん)訳ではなく、それぞれの文学類型(歴史、法律、預言、詩歌、ことわざ、書簡等)に相応しいものとする』このように述べています。ここ11節を見れば分かるように、新改訳は、原文にない『主は』ということばを創作し、主語をすり替え、原文とは異なる意味に変えています。新改訳は、原文に修正を加え、行き過ぎた敷衍訳をおこなっているのです。翻訳理念は、立派な文言で書かれていますが、実際の訳文は誤訳になっています。

中学一年生の英語のテストで、主語を間違えて翻訳したら不合格ですよね。動詞の能動態と受動態を間違えて翻訳したらバツになります。新改訳翻訳者の中には、考古学、言語学で、博士号を取得した優秀な方も中にはいるのかも知れません。ご専門の分野においては第一級の研究者かも知れませんが、だからといって、プロとして通訳や翻訳ができるというものではないのです。この記事で示した通り『主語がどれか理解できない。動詞の能動態、受動態の区別がつかない。仕方ないから英訳を真似て翻訳しちゃった』。神学者や聖書学者がおこなう聖書翻訳というのは、この程度。これが現実です。


~巻尺と下げ振り~

新改訳 イザヤ34:11後半
・・・主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。

これを読んで理解できる日本人は、いないと思います。一見して、日本語のように見えても、意味が成立していない文を『非文』といいます。新改訳の訳文は、非文です。いくら翻訳理念が『直訳(トランスペアレント訳)だ』といってもですね、こんな変なことば使いで出版するってあり得ないでしょ。新改訳は『その時代の日本語に相応しい訳出を目指す』という理念があるんですから、現代日本人が使うことばで翻訳するべきです。表の解釈で翻訳するのであれば、せめて『・・・巻尺も、下げ振りも使われない』と翻訳してもらいたものです。

巻尺、下げ振りは大工道具


『カーイ 巻尺』は、辞書で次のように解説されています。
קָו カーイ、カブ(6957)
縄、巻尺、規則、線、輪郭、楽器の弦

恐らくどの辞書にも載っていないと思いますが『カーイ 巻尺』は『律法』の比喩です(例、イザヤ28:10 但し従来の日本語訳聖書は誤訳になっています)。『巻尺⇒生活の基準となるもの⇒律法』ということです。『カーイ・トーフー』は、表の解釈をすると『巻尺がない』となり、裏の解釈をすると『律法を持たない(エドム人)』となります。


『ベアブネー 下げ振り』は、辞書で次のように解説されています。
אָ֫בֶן ベアブネー、エベン(68)
石で作られた物、石、おもり

昔、下げ振りのおもりは、石で造られていました。


恐らくどの辞書にも載っていないと思いますが『ベアブネー/エベン 石』は『神に選ばれた民イスラエル』の比喩です。『eben エベン 石』と『ben ベン 子孫』は発音が似ていることから、掛けことばとして使われています。『エベン 石』は『神の民イスラエル、神に従う者』を意味する比喩です。『ベアブネー・ボーフー』は、表の解釈をすると『下げ振りがない』。裏の解釈をすると『(エドムには)神に従う者がいない』となります。『カーイ・トーフー ベアブネー・ボーフー』は、裏の解釈をすると『律法を持たない(エドム人)、(エドムには)神に従う者がいない』という意味です。同義句反復になっていますね。



もし、現代の日本人が、古代イスラエル人と同じ文化、同じ価値観を持っているのであれば、表の解釈で翻訳された訳文から、裏の意味を推察することができるでしょう。しかし、現代日本人は、古代イスラエルの言語文化を持っていないのですから、表(おもて)の解釈で翻訳されても、その真意を理解することはできません。つまり、日本人が理解できる訳文を作るには、裏(うら)の解釈で翻訳しなければならないということです。神学者や聖書学者は『直訳が原文に忠実な翻訳方法だ。聖書は直訳で翻訳するのがよい』この様に言ってきましたが、これはウソです。

さて、以上検討してきた内容をまとめると、次のようになります。
11節後半のまとめ
・動詞『ベナター アレハー』は、『計測する、あてがう』という意味。
・ベナターは『カル、三男単、受動態』になっている。
・主部は『巻尺、下げ振り(無生物主語)』。『主』ではない。
・原文は比喩で表現されてるので『裏の解釈』で訳出する。
・カブ⇒縄⇒巻尺⇒律法(トーラー)
・エベン⇒石⇒下げ振り⇒神に従う者

11節後半は、次のように訳出しないと、日本人が理解できる訳文になりません。
私訳 イザヤ34:11後半
・・・律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。


11節全体は、次のようになります。
私訳 イザヤ34:11
不道徳と犯罪を繰り返す国エドム。律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。


新改訳は誤訳。読んでも意味が分かりません。
新改訳 イザヤ34:11
ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。


~トーフー ボーフーの間違った解釈~

『תֹּ֫הוּ בֹּ֫הוּ トーフー ボーフー』は熟語で、創世記1:2、イザヤ34:11、エレミヤ4:23の、3か所で使われています。『トーフー ボーフー』を、間違って解釈する方がとても多いので説明させていただきます。多くの方が、次のように解釈してます。『創世記1:2のトーフー バボーフーは、大地が混沌とした状態、茫漠としているという意味だ!従って、イザヤ34:11のトーフー ボーフーは、大地が混沌とした状態になるという意味だ!』これは間違いです。創世記の『トーフー バボーフー』を正しく解釈すると、『(大地はまだ)影も形もなかった(否定同義句反復)』となります(聖書と翻訳 地は茫漠としてた?参照)。『トーフー バボーフー』は『ないよないよ。何にもないよ(否定同義句反復)』という意味ですから、イザヤ書34章も『エドム王国に律法はない。神に従う者は一人もいない(否定同義句反復)』という意味を表しています(詩篇14篇、53篇、ローマ3:10)。創世記とエレミヤ書は、次のように解釈しなければなりません。

『トーフー バボーフー』正訳(私訳)



トーフー ボーフーの解釈を、新改訳は全部誤訳しています。



新改訳だけではありません。従来の日本語訳聖書はどれも誤訳になっています。誤訳となった原因は、創世記で『トーフー=茫漠』『ボーフー=虚無』と、単語の意味を絞り込み、これを、イザヤ書とエレミヤ書に、強引に適用したからです。直訳グセが染み付いていると、ことばの意味を一つに絞り込み、全ての個所に同じ定義を当てはめようとします。しかし、通訳翻訳において、訳語を固定することはできません(言語の恣意性)。ことばというものは、文脈が変われば、意味も変化するからです。新改訳聖書は、直訳(トランスペアレント訳)で翻訳されているので、聖書全体にわたり誤訳悪訳があるということです。


~旧約聖書の神は怒りっぽい神?~

『旧約聖書の神は怒りっぽい神。キレやすく、懲罰を与えることが好きな神』。一方『新約聖書の神は愛の神、赦しの神』。こういう解説をするセンセイがいます。本当でしょうか?創世記6章に、神の子が人間の美しい女と肉体関係を持ち、こどもを生ませた。これに立腹した神は、大洪水を起こし人類を滅ぼした。この様に書かれています。11章は、人間がバベルの塔(高層建築物)を立てたことに、神は立腹し人間の言語を混乱させた。この様に翻訳しています。従来の日本語訳聖書は、どれもこういう訳し方をしています。如何にも『怒りっぽい、キレやすい、懲罰を与えることが好きな神』という印象を読者に与えているのです。ところが、大洪水も、バベルの塔も、どちらも誤訳されています。ヘブライ語テキストには、神さまが、憤慨した理由がきちんと書いてあるんですが、間違った翻訳をしているので『怒りっぽい神、懲罰を与えることが好きな神』という印象を読者に与えているのです。詳しくは、別の記事で書かせていただきます。

さて、この記事で取り上げた、イザヤ書34章も同じことです。ヘブライ語を見ると、11節に、神さまがエドム王国を滅ぼした理由が書かれているのですが、従来の翻訳聖書は、ここを誤訳し、その理由が翻訳されていません。それで『どうして神さまはエドムを滅ぼしたのだろう???』読者は、こうした疑問を抱くのです。聖書が誤訳され、悪文が作られることで『旧約聖書の神は怒りっぽい神』という間違った印象が作られています。新改訳と私訳を読み比べてください。

新改訳 イザヤ34:11
ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。

私訳 イザヤ34:11
不道徳と犯罪を繰り返す国エドム。律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。


私訳の様に訳出してあれば『エドムは滅ぼされるに値することをやっていたんだな』ということが理解できるので、『旧約の神は怒りっぽい神』という印象は受けないはずです。『旧約の神は怒りっぽい神』という歪んだ印象は、誤訳が絡んでいるのです。


通訳翻訳という仕事の目的は『意味』を伝えることであって『原文の文法や表現形式』を伝えることではありません(Dynamic Equivalence、 Eugene A. Nida 意味的等価論 ユージン・ナイダ)。ですから、聖書翻訳も『意味』を伝えることが一番大切なんです。翻訳された聖書が『意味』を表現していれば、牧師が説教の準備をする時、非常に楽になります。

私訳 イザヤ34:11
不道徳と犯罪を繰り返す国エドム。律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。


この様に聖書本文が意味を表していれば、「ヘブライ語を見ると『ペリカン、サギ、フクロウ、カラスがエドムに来て棲家(すみか)を造った』と書いてあるなあ。これは『エドムが不道徳と犯罪に染まっていたこと』を象徴しているのか。なるほど。またヘブライ語には『巻尺も、下げ振り(さげふり)も使われない』とあるなあ。これは『エドムに主なる神に従う者がいないこと』を象徴しているということか。なるほど・・・」。この様に理解しやすくなるはずです。聖書が直訳文で書かれていたら、ヘブライ語を見ても、何を意味しているのか理解できないはずです。日本語で書かれたウエブサイト、英語で書かれたウエブサイトを調べましたが、ここ11節について、原文の意味を正しく説明しているものを見たことがありません。一つもないはずです。聖書が読んで理解できることばで翻訳されるということは、一般信徒、求道者、牧師、学者、誰にとってもありがたいはずです。代々、日本語訳聖書は『直訳』をおこない、意味不明な聖書を出版してきました。また、聖書刊行会も、聖書協会も『格調高いことば』を翻訳理念にかかげ、あたかも、聖書が文学作品であるかのように、アカデミックな脚色を施してきたのです。これは、ヘブライ語聖書本来の姿ではありません。偽りの姿です。


~感動ポルノと聖書翻訳~

さて『感動ポルノ Inspiration porn』ということばがあります。『障がい者はみんな、ハンディキャップを抱えながら勇敢に生きているに違いない』『障がい者はみんな、感動的な生き方をしているはずだ』。こうした間違った思い込みが、社会に広がっていると、ステラ・ヤング(Stella Young)氏は語ります。障がい者が、メディアに取り上げられる場合、決まって、健常者に感動を与える存在として描かれます。障がい者を聖人君子のように祭り上げることで、健常者が何らかの利益を得る仕組みになっている。『障がい者は、健常者の欲求を満たすための、道具(感動ポルノ)ではない』と語ります。



代々、日本の神学者や聖書学者は『聖書は文学作品であるから、文学に相応しい格調高い日本語で翻訳するべきだ。ヘブライ語は難解だ、聖書は難解だ。聖書を理解するためには、歴史、文化、翻訳の知識が必要だ』このように言ってきました。これは聖書を、知識ポルノ、学術ポルノ(inteligence porno、academic porno)に仕立て上げることです。聖書は、神学者の利益や知的好奇心を満たすために存在しているのではありません。『聖書は難解な文学作品である』ということで、聖書が神学者の利益のために利用されています。日本の神学者は、ヘブライ語の原文解釈ができていません。この記事で示したように、主語がどれか理解できない、動詞の能動と受動の区別ができていないのです。主語と動詞が理解できないような人物が『聖書は文学作品である』『聖書は難解だ』などと言えるのでしょうか?間違った翻訳理念を捨て、謙虚に一から翻訳を学ばなければならないのは、神学者や聖書学者です。それができないのであれば、原文解釈も聖書解釈もする資格がないでしょう。

ヘブライ語で書かれた聖書は、本来、ユダヤ人であれば誰もが口ずさむことができることば、身近なことばで書かれています聖書と翻訳 箴言-1参照。また、ヘブライ語が難解なのではありません。翻訳をおこなう人物が、文法と辞書に依存した翻訳方法しか知らず、直訳主義で翻訳しようとするから難解に感じるのです。直訳、トランスパレント訳という方法が間違っているのです。

『聖書を理解するためには、歴史、文化、翻訳の知識が必要です』と仰るセンセイが多くいますが、これは本来、大学で聖書を勉強する人に必要な知識であって、一般の信徒に対し言うべき言葉でないと思います。そのように語るセンセイのサイトを見ると、間違った原文解釈が載っていて『このセンセイ、本当に翻訳の知識があるのだろうか?』と疑問に思わざるを得ないものがあります。自分が翻訳について知識も経験もないのに、さも翻訳の専門家であるかのように装い、間違った解釈を公表している方がいるのです。こういうのを、羊頭狗肉(ようとうくにく)と言うのです。

神学者、牧師が大学で、専門教育を受けるのは、何のためですか?聖書の分かりにくいお話しを、一般の人が分かるよう教える為ではありませんか?分かりにくいお話しを、分かりにくいことばでしか説明できないというのは、自分自身が理解できていないということです。『聖書を理解するためには、歴史、文化、翻訳の知識が必要です』これは、専門教育を受けた人が自分自身を戒めるために使うことばであって、一般信徒、求道者に求めることではないはずです。



現代のキリスト教神学者は、律法学者が陥った間違いを繰り返し、同じ轍を踏むことになってはいけません。イエスさまは、律法学者を次のように叱っています。
マルコ7:6~8、7:13(マタイ15:7~9)
6 イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
7 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
8 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」
13 こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」



(000)イザヤ書34章11節前半

2018年05月12日 | イザヤ書


イザヤ書34:11を従来の日本語訳聖書は、次のように翻訳しています。どれも同じ内容です。

文語訳 イザヤ34:11
鵜(う)と 刺猬(はりねづみ)とそこを 己がものとなし 鷺(さぎ)と 鴉(からす)とそこにすまん ヱホバそのうへに 亂(みだれ)をおこす 繩(なは)をはり 空虛(むなしき)をきたらする 錘(おもし)をさげ 給(たま)ふべし

口語訳 イザヤ34:11
たかと、やまあらしとがそこをすみかとし、ふくろうと、からすがそこに住む。主はその上に荒廃をきたらせる測りなわを張り、尊い人々の上に混乱を起す下げ振りをさげられる。

新共同訳 イザヤ34:11
ふくろうと山あらしがその土地を奪い/みみずくと烏がそこに住む。主はその上に混乱を測り縄として張り/空虚を錘として下げられる。

新改訳 イザヤ34:11
ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。


読んでも意味が分かりません。ウエブサイトを見ると『イザヤ書34:11は、エドムが破壊されたあと、野鳥がやって来て棲むようになるという意味だ。ここ11節は創世記1:2で使われた「トーフー ボーフー」が使われている。これは「虚無、空虚」という意味で、エドムが荒涼たる荒野になるという意味だ』。この様な解説が多いようです。

11節前半の『ペリカンたち』と、後半『虚空の測りなわ、虚無のおもり』と、どのような関係があるのでしょう?全く意味不明で、文脈が支離滅裂です。そこで、ヘブライ語を調べてみると、日本語訳は誤訳されており、聖書注解も間違った説明をしていることが分かりました。ヘブライ語が語る意味は次のようになります。

私訳 イザヤ34:11
不道徳と犯罪を繰り返す国エドム。律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。



この記事の目次
・34章の輪郭
・ヘブライ語
・11節前半の解釈
・実は鳥(動物)の名前がよく分かっていない
・11節前半のまとめ


~34章の輪郭~

イザヤ書34章は、エドム王国の滅亡について書かれています。ここは、1~10節、11節、12~17節の3つに分けることができます。

1~10節
主の怒り、そして首都ボツラとエドム王国の滅亡が書かれています。ボツラはエドム王国の首都です。聖書註解書を見ると『恐らくボツラはエドムの首都であろう』と、曖昧な言い方になっているのですが、その理由がよく分かりません。『アモス1:12 わたしはテマンに火を送ろう。火はボツラの宮殿を焼き尽くす』つまり、ボツラに宮殿があると書かれているのですから、ボツラは首都ですよね。また、ヘブライ語聖書の中で『どこそこの国が亡びる』という場合、同時に首都名が併記される。そういう傾向があります。同じイザヤ書の8章をご覧ください。

イザヤ書8:4~6


シリヤの滅亡については首都ダマスコが代用語となり、北イスラエルの滅亡については首都サマリヤが代用語として表現されています。こうしたヘブライ語の特徴から、34章1~10節は、エドム王国の滅亡と、その首都ボツラの滅亡が書かれていることが分かります。


11節
主がエドム王国を破壊する理由が書かれています。34章の中で、エドムを滅ぼす理由が書かれているのは、ここ11節しかないので、意味上重要な節になります。エドムでどのような悪事がおこなわれていたか具体的な記述はありませんが、次のように理解することができます。

世界遺産に指定されたペトラ遺跡は、現在ヨルダン王国にありますが、ペトラは、かつてのエドム領内にあった街です。ペトラは陸の交易路に位置する街で、その当時、高価な香辛料が運ばれていたことが知られています。ペトラはかなりの経済力があり、野外劇場やプールを建設し、大規模な土木工事をおこない、水路が造られています。現代でいえば、さしずめ、アメリカのラスベガスといったところでしょう。ボツラがどのような街だったのかよく分かっていませんが、ペトラを参考にイメージしてみると良いでしょう。

ペトラ遺跡

netours.com Pool and Gardenより引用

荒野が広がる中東地域において、井戸があったり、水路があるところは特に貴重です。そこは集落になり、旅する人が足を休める宿場町になります。当時の輸送手段はラクダで、ラクダは一週間水なしで歩くことができます。カラカラに喉が渇いたラクダは、110~190ℓ(2ℓペットボトル55~95本)もの水を、10~15分で飲み干します※。
※英語のサイトから引用。喉が乾いたラクダが飲む水の量は、30~50 gallons(110~190ℓ)。

エドム国内には、飲料水が豊富に飲める街がいくつかあって、そこが宿場町となっていたのではないでしょうか。古今東西、宿場町に男性が集まると『飲む打つ買う』がおこなわれます。また、旅人のお金や、商隊が運ぶ高価な品物を狙った強盗も出没したことでしょう。性の乱れ、生まれた赤ん坊を捨てる、殺す。金銭欲と暴力。こうした不道徳と犯罪を肯定する価値観で造られたのがエドム王国であった。そのように推察します。解釈が飛躍しているように思われるかも知れませんが、この様に解釈する根拠は、ヘブライ語聖書と70人訳聖書の中にあるので後述いたします。

預言者エレミヤも、エドムの滅亡を次の様に書いています。
新改訳 エレミヤ49:7
エドムについて。万軍の主はこう仰せられた。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消えうせ、彼らの知恵は朽ちたのか。

エレミヤは、テマンの街を『知恵の街、賢い街』と皮肉を込めて表現しています。様々な国の人が行き交う宿場町であれば、世界中のうわさ話しや情報が集まります。政治、経済、学問の分野でも頭脳明晰な人材がいたことでしょう。テマンは『知恵の街、賢い街』でしたが、知恵や賢さは人を傲慢にします。エレミヤは、エドムの傲慢さを指摘しています。

エドム周辺地図

ボツラとテマンの位置については諸説あり。


12~17節
12節以降は、宮殿の破壊について書かれています。1~10節が、ボツラ、エドムに関する内容で、12節から宮殿に関することが書かれています。この様に表現されると、34章前半と後半は、違う場所のことを書いているという印象を日本人に与えます。こういう翻訳の仕方は、日本語として不適切です。『ボツラの破壊、エドムの破壊、宮殿の破壊』というのは、『エドム王国が破壊される』ことを、違うことばで言い換えてるだけです(忌避の規則によって代用語が使われている)。

以上検討してきた内容をまとめます。
34章の輪郭
・ボツラ、エドム王国、宮殿は、忌避の規則による代用語である。
・11節は、主がエドムを破壊する理由が書かれている。
・エドムは、かつて交易路にある国として栄えていた。
・エドムでは、不道徳と犯罪がおこなわれ、かつ傲慢であった。

世界遺産ペトラ遺跡
Esau Structures: Petra is Mount Seir



~ヘブライ語~

イザヤ34:11ヘブライ語の輪郭を描いてみます。何度も申し上げてることですが、細かく文法解釈をしてはいけません。誤訳になるからです。
Biblehub.com
aoal.org 発音



『鳥、巻尺、下げ振り』は比喩として表現されています。表(おもて)と裏(うら)両方の訳文を作ってみます。

表の解釈 私訳 イザヤ34:11
ペリカン、サギ、フクロウ、カラスがエドムに来て棲家(すみか)を造った。巻尺も、下げ振り(さげふり)も使わずに。

裏の解釈 私訳 イザヤ34:11
不道徳と犯罪を繰り返す国エドム。律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。


וִירֵשׁ֙וּהָ֙ ビレシューハー(3423)
所有する、手に入れる

קָאַ֣ת カアート(6893) qaath
ペリカン、サギ、フクロウ。不浄の動物、レビ11:18、申命記14:17。

וְקִפֹּ֔וד ベヒポード(7090) qippod、kippod
サギ、ハリネズミ。不浄の動物だと思われるがレビ記に記載なし。

וְיַנְשֹׁ֥וף ベヤンショープ(3244) yanshuph
オオフクロウ。不浄の動物、レビ11:17、申命記14:16。  

וְעֹרֵ֖ב ベオレーブ(6158) oreb
カラス。不浄の動物、レビ11:15、申命記14:14。

יִשְׁכְּנוּ־בָ֑הּ イシュケヌー・バー(7931、in)
住む、棲家(すみか)を造る 

וְנָטָ֥ה עָלֶ֛יהָ ベナター アレハー(5186、5921)
計測する、あてがう

קַֽו־תֹ֖הוּ カーイ・トーフー(6957、8414)
巻尺がない、律法を持たない。ヨブ38:5、イザヤ44:13、哀歌2:8参照。

וְאַבְנֵי־בֹֽהוּ׃ ベアブネー・ボーフー(68、922)
下げ振りがない、主なる神に従う者がいない。

11節を前半と後半の二つに分け、詳しく説明させていただきます。


~11節前半の解釈~

・・・וִירֵשׁ֙וּהָ֙ קָאַ֣ת וְקִפֹּ֔וד וְיַנְשֹׁ֥וף וְעֹרֵ֖ב יִשְׁכְּנוּ־בָ֑הּ
ビレシューハー カアート ベヒポード ベヤンショープ ベオレーブ イシュケヌー・バー・・・

表の解釈 私訳 イザヤ34:11前半
ペリカン、サギ、フクロウ、カラスがエドムに来て棲家(すみか)を造った。・・・

裏の解釈 私訳 イザヤ34:11前半
不道徳と犯罪を繰り返す国エドム。・・・


先ず、表(おもて)の解釈をしてみます。ヘブライ語の語順通り直訳すると『ペリカンとサギがエドムを手に入れ、フクロウとカラスがそこに棲んだ』となります。新改訳はこの様に翻訳しています。この直訳文は『先にペリカンとサギがエドムの所有権を得た。そのあとフクロウとカラスがやって来てエドムに棲んだ』という意味になります。これはダメな訳文です。何故なら『ビレシューハー 所有する』と『イシュケヌー 棲む』は、似ている意味を持つ動詞です。これは『所有する』、『棲む』別々の意味を表しているのではなく、忌避の規則によって、違うことばで言い換えてるだけです。主部(主語)は4つの鳥がワンセットになっていると解釈しなければならないので、表の解釈は『ペリカン、サギ、フクロウ、カラスがやって来て、エドムに家を建て棲みついた』という意味になります。この訳文は、次のようなイメージになります。

直訳文が語るイメージ


もし、表の解釈で事足りるのであれば、表の解釈で正解ですが、これはヘブライ語が語る本意とは違うものなので誤訳になります。

ユダヤ教徒のウエブサイトに『ラビに質問』というコーナーがあって、次のような投書がありました。
『Q 犬をペットとして飼って問題ないですか?』
『Q ある観光地で、ロバの背中に乗る、乗ロバ体験があるのですが、乗っても問題ないでしょうか?』

これは、実際に現代のユダヤ人が抱える悩みや疑問です。律法(トーラー)によると、犬は不浄の動物ですから、ペットとして犬を飼って良いのかどうか、躊躇(ちゅうちょ)するということです。もし、飼っていた犬が死んだ場合、死体にさわると自分がけがれてしまうので、死体の処理に困ります(レビ11章)。ロバについては、母ロバが生む最初の子ロバは、(とさつ)して神に捧げることになっています。もし、子ロバを生かしておくのであれば、身代わりに羊を犠牲として捧げなければなりません(出エジ13:13)。こうした手続きを経てない子ロバは、不浄な動物ですから、ロバの背中に乗ることができない、躊躇するということです。

動物に対し、日本人とは全く異なるものの見方、感じ方をしていますよね。ここから学んでいただきたいのは、ユダヤ人が動物を見る場合、真っ先に思い浮かべるのは、それが『清い動物か、清くない動物か』ということと、清くない動物に対する嫌悪感や恐怖心です。ユダヤ人は数千年にわたりこうした文化、価値観を受け継いでいます。不浄の動物に対しユダヤ人が抱くネガティブな感情を、日本人は全く持ち合わせていません。

さて、11節4つの鳥(動物)は、律法上不浄の動物ですから、イザヤはこの4つの鳥に、憎しみと嫌悪感を込めて書いたということが分かると思います。11節を読んだユダヤ人も、憎しみと嫌悪感を抱いて読んでいるのです。新改訳は『ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む』ですが、これは動物の名前を羅列しただけです。日本人がこれを読んでも、そこに憎しみや嫌悪感が含まれていることを理解することができません。日本人が理解できるよう、ちょっとばかり意味を膨らませて翻訳するなら『不道徳と犯罪に酔いしれたエドム人。連中は不浄のケモノだ。ペリカンのようにあらゆる悪事をむさぼる。サギのように人をだまし、フクロウのように夜な夜な獲物を探す。エドム人はカラスのように腹黒い』このようになるでしょうか。

ヘブライ語の中に、憎しみや嫌悪感を直接表現する単語がないのは事実です。しかし、ユダヤ人が嫌う鳥の名前(不浄の動物)を、4つ列挙したところに、憎しみや嫌悪感が込められてるのです。

4つの鳥に込められたイメージ 


一見して、筆者の感情を表現する単語がない文であっても、行間に感情が埋め込まれている、こういうことが、しばしばあります。この隠された感情表現を、モダリティといいます。同じ文化圏であれば、モダリティを理解することができますが、異なる文化の人に、モダリティを読み取ることは困難になります。翻訳をする場合、隠されたモダリティを言語化し補わなければならない、そういう場合がしばしばあります。これはヘブライ語に限ったことではありません、どの言語にもあることです。言語というものは、直訳できない仕組みになっています。これが、創世記11章の言語の混乱(バラル)です。

『不道徳と犯罪を肯定する価値観で造られたのがエドム王国であった』ということを『34章の輪郭』で書かせていただきました。その根拠の一つは『4つの鳥(不浄の動物)』にあります。


~実は鳥(動物)の名前がよく分かっていない~

11節は『カアート ベヒポード ベヤンショープ ベオレーブ』と4つの鳥(動物)の名前が並んでいます。中でも『カアート ベヒポード』は解釈が混乱していて、意味が確定されていません。一番困るのが『ベヒポード』です。ほかの3つの動物は、レビ記に不浄の動物として書かれているので、的を絞ることができますが、『ベヒポード』はレビ記に登場しないからです。



不道徳と犯罪がまん延するエドムは、滅ぼされる。この文脈で、不浄の鳥『カアート ベヤンショープ ベオレーブ』3つが列挙されているので、残る『ベヒポード』も不浄の鳥(動物)であろうと推測できます。英語のサイトを見ると『この4つの動物は渡り鳥である』と解説するものがありますが、そこまで深読みできる根拠はなく、そうする必要もないでしょう。大切なのは、4つとも『不浄の動物』だという理解です。


~11節前半のまとめ~

以上検討してきた内容をまとめます。
・11節は、主がエドムを破壊する理由が書かれている。
・4つの動物は、はっきりと意味が確定できないが、4つとも不浄の動物(鳥)だと思われる。
・不浄の動物は比喩になっていて、エドム国民が、不道徳と犯罪を繰り返してきたことを意味する。
・表の解釈で翻訳すると日本人に理解できない訳文になるので、裏の解釈で翻訳する。

11節前半は、次のように翻訳しなければなりません。

私訳 裏の解釈 イザヤ34:11前半
不道徳と犯罪を繰り返す国エドム。・・・



(000)イザヤ書8章-9

2018年05月04日 | イザヤ書


この記事は、イザヤ書8章9,10節について新改訳と英語訳との比較をしています。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


~イザヤ書8章9、10節 新改訳~

8章9、10節 新改訳

9)国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ。腰に帯をして、わななけ。 10)はかりごとを立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それは成らない。神が、私たちとともにおられるからだ。

ここもまた、読んでも意味が分かりません。『腰に帯をして、わななけ』とはどういう意味なのか、また『申し出をせよ』とは、誰が誰に何を申し出をするという意味なのか不明です。原典はこのように、訳のわからないことを言っているのでしょうか?そうではないようです。新改訳の翻訳者は『直訳だから訳文が読みにくくなる』と言っていますがどうなのでしょう?King James Versionは直訳で訳されたものだと、日本で言われていますが、KJVも意味が分からないような訳文になっているのでしょうか?

9 Associate yourselves, O ye people, and ye shall be broken in pieces ; and give ear , all ye of far countries: gird yourselves, and ye shall be broken in pieces ; gird yourselves, and ye shall be broken in pieces . 10 Take counsel together , and it shall come to nought ; speak the word, and it shall not stand : for God is with us.
King James Version

私訳 
9)  遠くの国々よ、連合するがよい。しかし、散り散りにされる。よく、覚えておけ。武装を固めろ、しかし大敗を喫する。武装を固めろ、しかし大敗を喫する。10) 謀議をはかれ。しかし、実現しない。その、ひとことたりとも、実現しない。神、我らと共にいるからだ。

私訳の通り、King James Versionは、きちんと意味が通る英文になっています。新改訳の訳文が読みにくいのは、翻訳スタイルが直訳だからという問題ではなく、訳文が日本語として未熟だからだということが分かると思います。

新改訳では『国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ』とありますが、『国々の民』と『遠く離れたすべての国々』が、同じ国のことをいってるのか、違う国のことをいってるのか分からないですよね。英訳の中では『ye people』と『far countries』は同じ国のことを意味しているようです。意味は同じですが、忌避の規則によってことばを言い換えていると解釈しているようです。ヘブライ語にも、英語と同じ忌避の規則があるようです。詳しくは『ヘブライ語 masows ことばの解釈』で記述しました。興味のある方はお読みください。

いずれにしろ『国々の民』と『遠く離れたすべての国々』が同じ意味であるなら、それが分かるような訳文にしなくてはなりません。違う意味だと解釈するのであるなら、それぞれがどういう解釈になるのか訳文の中で示さなくてはなりません。こうした忌避の規則を念頭に置き、翻訳をしているという形跡が新改訳に見られないのです。ヘブライ語の単語を日本語の単語に直訳するから、意味不明な訳文になるのです。

また『打ち破られて、わななけ』と訳された箇所は『raw-ah』というヘブライ語です。『raw-ah』を『打ち破られて、わななけ』と訳出することは、ふさわしいのでしょうか?


~9節冒頭の解釈~

raw-ahというヘブライ語の英訳が、いくつかに分かれています。次に、大きく3つの解釈に分類しました。

『Associate yourselves 連合せよ』に類する解釈

King James Version
Holman Christian Standard Bible
International Standard Version
American King James Version
Douay-Rheims Bible
Young's Literal Translation


『Make an uproar 悲鳴をあげる、騒ぎを起こす』に類する解釈

American Standard Version
Complete Jewish Bible
Hebrew Names Version


『Be broken 破壊される』に類する解釈

English Standard Version
GOD'S WORD Translation
Lexham English Bible
New American Standard
New Century Version


~ David Rubinさんの解釈~

David Rubinという80歳ユダヤ人の方が、ヘブライ語の聖書を、個人で英語に全訳したTanach The Hebrew Bibleという貴重なサイトがあり、そこから、イザヤ書の英訳文を引用させていただきます。9節冒頭の部分だけを引用したいのですが、ついでに9,10節を訳してみます。

9節 私訳
遠くの国々よ、悪事を企てろ。しかし、台なしになる。
さあ、覚えておくがよい。
武装を固めろ。しかし、惨敗する。
武装を固めろ。しかし、惨敗する。

10節 私訳
謀議をはかれ。しかし、実現しない。
ひとことたりとも、実現しない。
神、我らと共にいるからだ。

Isai. 8:9
Do evil, O peoples, and be crushed.
And give ear, all distant of the land.
Gird yourself, yet be crushed.
Gird yourself, yet be crushed.

Isai. 8:10
Counsel together,
but it will come to nothing.
Speak a word but it will not endure.
For God is with us.
http://www.rubinspace.org/html/isaiah_8.html

 raw-ah

ヘブライ語のraw-ahをヘブ-英辞書で見ると、幅広い意味を持つことが分かりますが、1) to be bad, be evil(悪さをする、悪事を行う)という意味が第一番目に定義されています。9節文頭が『(お前たち)悪事を企てよ』で、10節文頭が『(お前たち)謀議をはかれ』だということは、類似の意味を持つ言葉が繰り返す形になっています。これは、ヘブライ語によくある並行法といわれる表現形式です。

David Rubinさんのように『Do evil』と英訳する聖書はないようですが、Living Bibleが同じような解釈をしており『Do your worst 悪事をはたらけ』と訳されていました。『Do evil』『Do your worst』ともに、北イスラエルと、シリヤが連合を企てていることを、あざけった表現です。

余談ですが、日本ではリビングバイブルの翻訳に対する評価が低いのですが、ヘブライ語-英語のリビングバイブル訳についてみると、興味深い翻訳テクニックを至るところで使っており、翻訳をされる方にとっては良いお手本になると思います。言語や翻訳に関して高いスキルがあるからこそ、リビングバイブルとしてまとめ上げることができたんだろうなと感じます。リビングバイブルが、個人訳であり、通勤電車の中で訳されたとか、子ども向けに訳されたという背景から、誤った先入観を持たれていると感じます。

日本語であっても、おとなの話を、子どもに分かるように話すのは難しいことです。それを異なる言語同士の間に翻訳者として介入し、子どもに分かるように訳出するという作業は、簡単なものではないのです。日本で翻訳としてのリビングバイブルを高く評価する人は少ないようですが、私自身は翻訳としては高く評価しています。『ここの解釈は受け入れられないな』といった箇所はありますが、こうした問題はどの翻訳でもあることで、リビングバイブルが他の訳よりも劣っているからではありません。こどもたちが聖書に親しむことの必要性を感じ、聖書全文を翻訳した心ある翻訳者がいたということが素晴らしいと思います。『正しい』翻訳とは何なのでしょうか?翻訳理論が正しければ、自ずと正しい訳文ができるのでしょうか?翻訳は、それほど単純なものではありません。何とかして、聖書のことばを子どもたちの心に届けたいという熱い思いを持ち、通勤電車の時間までをも翻訳に捧げたことこそ、神さまの目に『正しい』と映ると信じます。

組織で訳されたものが学術的に正しく、個人で訳されたものだから信頼をおけないというのは、根拠のない先入観です。9節のraw-ahを『Do your worst』と訳出したのはリビングバイブルだけのようです。私は、見事だと思います。翻訳の良し悪しは、実際の訳文を具体的に検討してから言うべきで、先入観だけでいうべきではありません。イザヤ書8章1節から新改訳の訳文を検討してきました。新改訳は組織で訳されました。組織で訳されたから正しい訳文だとは言えないことがお分かりいただけたと思います。『聖書と翻訳』で指摘してきたことですが、翻訳チームの中に国語学者がいたからといって、正しい日本語の訳文になっているとは言えないことがお分かりいただけたことでしょう。同じように、考古学者がいて、言語学者がいたからといって、そうした専門家の知見が訳文に生かされるとは言えないのです。翻訳は、国語学、考古学、言語学といった、各分野のエキスパートを集めれば質の高い翻訳ができると思われているようですが、そのような単純なものではありません。翻訳を経験した方であれば分かることだと思いますが、そのような分業を進めるほど、訳文の質は低下する傾向があります。専門家を集め組織で翻訳することの短所は、本来、翻訳者が発揮すべき『統合力』をないがしろにしていることだと思います。

話を戻しますが、9,10節はどこの国が滅びることを預言したものか解釈が分かれています。『アッシリヤ帝国』とする説『北イスラエル、シリヤ連合国』とする説『アッシリヤ帝国、北イスラエル、シリヤ連合国を合わせている』とする説などです。

解釈の手掛かりは9節冒頭の『raw-ah』で、9節と10節が並行表現になっているということです。『悲鳴を上げる』『破壊される』と解釈するなら、どの国のことをいってるか分かりませんが、『連合せよ、悪事を企てろ』という解釈であれば『北イスラエル、シリヤ連合』の密談を語っていることが分かります。


~9,10節の私訳~

ここは、word-for-wordスタイルと、thought-for-thoughtスタイルに、分けることができるほどの内容はないので、同じ訳文になります。


9) 遠くの国々よ※1、悪事を企てろ※2。しかし、台なしになる。よく、覚えておけ。武装を固めろ、しかし大敗を喫する。武装を固めろ、しかし大敗を喫する。10) 謀議をはかれ。しかし、実現しない。その、ひとことたりとも、実現しない。神、我らと共にいる※3からだ。

※1 さまざまな解釈があるが、『悪事を企てろ』『謀議をはかれ』ということから『北イスラエル、シリヤ連合国』を指すと思われる。
※2 このヘブライ語raw-ahを、ほかに『連合せよ』『悲鳴をあげる』『破壊される』と訳すものもある。
※3 ヘブライ語でインマヌエル。『神われらと共に』という意味。選民イスラエル、救い主降誕、を意味することもある。


~5~10節の私訳~

word-for-word

5)また、主は言われた。 6)「ユダ族は、穏やかに流れるシロアハ※1水道の水に背を向け、王レツィン、及び王レマルヤの息子※2が向かう滅びの道に、自ら足を踏み入れた。 7)よく聞け。主は、ユーフラテス河に洪水を起こさせる。無敵と呼ばれる誇り高いアッシリヤの軍隊を。兵士らは、帝国内の川を渡り、川岸をのぼり現れる。 8)川の水かさが増し、あふれだし、ユダの領土は押し流され、頭を残し、全身が水に沈む※3。アッシリヤ軍はその翼を広げ、ユダの地を覆いつくす※4。神が共にいるといわれた※5、この土地を』

9)遠くの国々よ※6、悪事を企てろ※7。しかし、台なしになる。よく、覚えておけ。武装を固めろ、しかし大敗を喫する。武装を固めろ、しかし大敗を喫する。 10)謀議をはかれ。しかし、実現しない。その、ひとことたりとも、実現しない。神、我らと共にいる※5からだ。

脚注

※1 ヘブライ語で(ギホンから)送られてきた(水)という意味。
※2 イスラエルの王ペカのこと。
※3 ユダ族の全土が破壊されても、かろうじて首都エルサレムだけは残るという意味。
※4 翼はアッシリア王家の紋章を象徴する。アッシリア軍が、ユダ族の全領土を制圧するという意味。イザヤ書36章参照。
※5 ヘブライ語でインマヌエル。『神われらと共に』という意味。選民イスラエル、救い主降誕、を意味することもある。
※6 さまざまな解釈があるが、『悪事を企てろ』『謀議をはかれ』ということから『北イスラエル、シリヤ連合国』を指すと思われる。
※7 ここはヘブライ語のraw-ahであるが、ほかに『連合せよ』『悲鳴をあげる』『破壊される』と訳すものもある。


thought-for-thought

5)また、主は言われた。 6)「ユダ族は、今までエルサレムを潤してきたシロアハ※1水道の水、すなわち、主である私のことばに背を向けた。そして、シリヤの王レツィン、及びイスラエルの王ペカらが向かう滅びの道に、自ら足を踏み入れた。 7)よく聞け。主は、ユーフラテス河に洪水を起こさせる。無敵と呼ばれる誇り高いアッシリヤの軍隊を。兵士たちは、帝国内の川を渡り、川岸をのぼり現れる。 8)川の水かさが増し、あふれだすように、国境を越えユダの領土に攻めはいり、首都エルサレムをのぞき、ユダの全土を制圧する。神が共にいるといわれた※2、この土地を』

9)遠くの国々よ※3、悪事を企てろ※4。しかし、台なしになる。よく、覚えておけ。武装を固めろ、しかし大敗を喫する。武装を固めろ、しかし大敗を喫する。 10)謀議をはかれ。しかし、実現しない。その、ひとことたりとも、実現しない。神、我らと共にいる※2からだ。

脚注

※1 ヘブライ語で(ギホンから)送られてきた(水)という意味
※2 ヘブライ語でインマヌエル。『神われらと共に』という意味。選民イスラエル、救い主降誕、を意味することもある。
※3 さまざまな解釈があるが、『悪事を企てろ』『謀議をはかれ』ということから『北イスラエル、シリヤ連合国』を指すと思われる。
※4 ここはヘブライ語のraw-ahであるが、ほかに『連合せよ』『悲鳴をあげる』『破壊される』と訳すものもある。


8章1~4節の私訳は、別の記事、『イザヤ書8章-4』 ~イザヤ書8章1~4節 私訳全体~に載せています。 この訳文は、主に英語のテキストを解釈して作りました。


~一番大きな輪郭~

イザヤ書8章1~10節の箇所でイザヤが伝えたかったこと、神さまが伝えたかったことが何であったのかを考えたいと思います。新改訳は、8節後半を『インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる』と訳出しました。そのため、異教徒のならわしを真似、自分のこどもを焼いて捧げることまで行ったユダ族に対し、神は保護を与えたという文脈になりました。ユダの王、ユダの民は、悔い改めてその罪から離れたのでしょうか?そのようなことはありませんでした。罪を悔い改めない者でも、神は赦してくださるんだという文脈になっています。おかしくないでしょうか?

イスラエル近隣の国には子どもを生贄として捧げる宗教があったため、こうした幼児犠牲の儀式を神さまは固く禁じました(申命記18:9~14)。ですからイザヤ書8章が伝えるメッセージは、悪魔にこどもを捧げてきたイスラエルを神は受け入れない。その悪行は見過ごされず、神の裁きは必ず下されるということです。この神さまの正しさがあるからこそ、イエス・キリストのあがないが生きてくるのではないでしょうか?

次のように考える方がいるかもしれません。『神はインマヌエルの神なのだから、罪深い者であったとしても、神はその民を守るという解釈でいいのだ』と。一見すると筋の通った主張ですが、もし、この主張通りに原文解釈を進めるなら、創世記から黙示録までの聖書の訳文は、ヨハネ3章16節の聖句の繰り返しで構わないのだということになりはしませんか?これは、極端な言い方ですが、そういうことだと思います。先入観を抱いて翻訳にあたることは、訳文を歪める可能性が高いのです。そして、もし聖書という厚い本が始めから最後まで、神の愛、赦ししか記述していないとしたら、私にとっては、読んでつまらない本になることでしょう。

翻訳をする上でと、ことわっておきますが、翻訳をする上で『神はインマヌエルの神だから、私たちが罪深くても神は守ってくださる』という考え方を持つことは、誤った先入観を持つことだと思います。聖書は様々な時代の、様々な内容を持つ本です。聖書のある箇所で、神は正しいお方であると記してあるのであれば、素直にその通り訳出するべきです。神は罪を裁くお方であると記してあるのであれば、素直にそのように訳出するべきだと、私は思います。神は罪を裁くお方であると原文が語っているにも関わらず、神は赦しの神であると訳出したとしたら、原文に忠実な翻訳だといえるのでしょうか?そうでないことは誰にでも分かることだと思います。その様な訳文は聖書の翻訳ではなく、翻訳者の創作文です。

翻訳者によって、一つひとつの単語の解釈や文と文のつなぎ方にブレが生じるというのはやむを得ないことで、ある程度の許容範囲内であれば良しとしなければなりませんが、原文の大枠(趣旨)を取り違えるというのは、一番大きなエラーでありやってはいけないことでしょう。『聖書と翻訳』の記事で、1~10節の訳文を検討させていただきましたが、大預言者イザヤが不倫をしたかのような、誤解を与える訳文もありました。これはこれで問題だとは思いますが、それよりも更に大きなエラーがあるとすれば、神に背を向け罪深い行為から離れなかったユダ族。その罪を悔い改めることのなかったユダ族であっても、神の保護は与えられるという内容にしたことでしょう。新改訳イザヤ書8章の訳文でもっとも重大なエラーは、原文の輪郭を変えてしまったことです。もし、この箇所の真意が新改訳の訳文通りだとするなら、罪深い自分を捨て神に立ち返ることに何の意味があるのでしょうか?罪深い生き方を続けていても、神さまが守ってくださるんだ。ハメを外して楽しもうぜ!という生き方を奨励することになるのではありませんか?

インターネットで検索をしてみると、残念ながら新改訳の訳文を肯定する解釈しか見つかりませんが、新改訳の訳文に異議を唱える方もおられます。山岸登著『イザヤ書解説』エマオ出版の本では、日本語で『栄光』と訳された言葉は軍隊の意味である。『広げた翼』はインマヌエルの翼ではなく、アッシリヤを指すという解釈をされています。細かい部分では私と異なる解釈をされていますが、罪を悔い改めないユダ族に神は裁きを下すという大きな輪郭は同じようです。

尾山令仁訳『聖書現代訳』も同様の解釈をしており、8節『(アッシリアの王は)ユダに流れ込み、すべてを押し流して、ついには首にまで及ぶ。この国は神が共におられる国なのに、アッシリヤ軍はこの国の隅々までも侵略する』と訳出しています。現代訳では『翼』という比喩の意味をくみ取り『アッシリヤ軍』と訳出しています。ヘブライ語immanu-elは、救い主という意味ではなく『神が共におられる国』という訳出をしており、immanu-el(神は我らと共に)が、eretz(国土、領土)を修飾しているという解釈をしています。

聖書の翻訳に限ったことではありませんが『しもべは聞きます。お話しください』サムエル記上 3章10節 といった、静かに耳を傾けようとする態度、謙虚に聞くことに集中するということが、通訳者、翻訳者に必要な姿勢だと思います。原文解釈に、自分が持つ先入観を持ち込むということは『しもべが語ります。お黙りください』という不遜な態度で、それが無意識であったにせよ、通訳者、翻訳者として相応しくないことだと思います。

新改訳は、著名な学者を加え委員会という組織を作りました。『直訳でいく』『原文に忠実に訳す』とスローガンを掲げ、準備万端整った体制で翻訳にあたったことでしょう。ところで、実際にできあがった訳文はどうなのでしょうか?肝心なのは、どのような学者を揃えたのかではなく、どのような訳文を作ったのかということです。通訳、翻訳という作業は学者を揃え、もっともらしいスローガンを掲げ、組織を整えれば質の高い訳文ができる、そのような単純なものではないということです。

何年か前のことですが、英語で書かれた心理学の本を、翻訳チームを作り英語のネイティブを加え訳文が作られたということがありました。書店に行き、どんな訳文になっているものかと期待を寄せページをめくりましたが、脈絡のない日本語になっていたため、数行読んだだけで読む気を失ってしまいました。翻訳チームの中にネイティブを入れたからといって、質の高い訳文ができるというものではないんだなと実感したものです。

通訳や翻訳には、ものごとを分析する能力も必要ですが、それ以上に大切なのは『統合する力』だと思います。






(000)イザヤ書8章-8

2018年05月03日 | イザヤ書


この記事は、新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


~余計なお節介?~

私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。
申命記4章2節 新改訳

聖書の翻訳に限ったことではありませんが、原文テキストが意図していることと異なる、付けたし、削除、ねじ曲げなどを、通訳者や翻訳者はやってはいけないと思います。8章8節のインマヌエルについての解釈が、何通りかに分かれていることを紹介しましたが、様々な訳文を読んで、複雑な気持ちになりました。悪意があって解釈を曲げる翻訳者はいないとは思いますが、自分が持つ先入観に気が付かず、解釈を歪めてしまうということはあるでしょう。しかし、先入観を持ったまま原文解釈をするということは、悪意を持って解釈を曲げることと同じ結果をもたらすとも言えるでしょう。自分が持つ先入観に気付き、それを取り払うということも、翻訳者(通訳者)の大切な課題だと思います。

私は、イエス・キリストは、イザヤが預言したインマヌエルの神であると確信しています。しかし、だからといって旧約聖書で使われる全ての『インマヌエル God with us』を、イエス・キリストを示すように、創作をすることがよいとは思いません。翻訳に、こうした創作が加えられているとするなら、日本人は、日本語訳聖書に信頼を置けなくなります。それは、公正な翻訳作業に反することでしょうし、神さまも喜ばれないことだと思うのです。

仮に、イエス・キリスト誕生と、旧約のインマヌエル預言とを結びつける聖句が、たった1か所しかないとしても、それがみことばの成就を棄損することにはならないと考えます。むしろ、みことばに人間の知恵を加えてまでして、イエス・キリストとインマヌエルの結びつきを、こしらえることの方が、みことばを棄損する行為だと思うのです。神さまからしてみれば、余計なお節介になるのではないでしょうか?8章8節のインマヌエルは、複雑な気持ちを抱きながらではありますが、冷静に解釈をしてみました。キリストの受肉を否定するような思想があって、こうした解釈をしたのではありません。

トロント大学、聖書学のRaymond C. Van Leeuwen博士は『We Really Do Need Another Bible Translation』という記事で、文法解釈、言語学といった翻訳の基本的ルールを無視した聖書翻訳が増えていることを懸念しています。主語を入れ替え、意味を変えて翻訳することはもってのほかです。新改訳の翻訳者には、博士のレポートをよく読んでいただきたいものです。

新改訳の翻訳に関わった方が書いたのでしょうが、『翻訳としての『新改訳聖書』の立場』という記事の中で、このVan Leeuwen(ヴァン・ルーエン)博士のレポートを引用して、聖書の翻訳は直訳であるべきだと言っていますが、それは、レポートの曲解です。博士は聖書の翻訳は直訳であるべきだといった、単純な主張はしていません。一般信徒が読んでも理解できる聖書、日曜学校で使われるのに相応しい聖書があるべきだと配慮しつつも、聖書学を研究するような専門家(We)が必要とする聖書も別にあるべきだ。それぞれに違う翻訳手法があってもいいのではないかと言っているのです。研究者が使うように翻訳された聖書を、一般信徒も使うべきだなどとは言っていません。翻訳理論というものは未だ不完全なもので、どの理論にも長所短所があるとも言っています。直訳が優れた翻訳手法だということは言っていません。引用の仕方が不誠実です。

専門知識のない一般信徒や、ノンクリスチャンが読む聖書翻訳のあり方についてお話しさせていただきます。イザヤ書8章1節から新改訳の訳文を検討させていただきました。厳しい言い方になりますが、訳文が日本語として未熟であるため、読者にとって、意味が通らないものになっているということが見られます。先ずは、この辺りの問題から解消していかなくてはなりません。ヴァン・ルーエン博士は、訳文が未熟なものでいいとか、意味が通らない訳文でも良いのだということは言っていません。これは翻訳理論以前の問題です。翻訳論をかざす前に、訳文として最低限の品質を持たせること、日本語としての表現方法に気を使うべきです。日本語として意味の通らない訳文を作るようなレベルでは、いくら翻訳論を論じても無駄ではありませんか?

そもそも日本で議論される『直訳か意訳か』と言った内容と『word-for-word or thought-for-thought』の内容とは、似て非なるものです。博士は、thought-for-thoughtを翻訳スタイルとするNew Living Translationという聖書の翻訳に携わった経験がおありですが、そのことからも、単なるword-for-word至上主義者ではないことが分かるはずです。Van Leeuwen博士が述べていることを、自分に都合がいいように歪めて引用しているので、憤りすら感じます。博士のレポートが英語で書かれていて、多くの日本人がそれを読まないのをいいことに、そのレポートの趣旨を歪めて引用するというやり方は、汚いというほかありません。

レストランの食品偽装、原発による汚染、政治と、問題はあとを絶ちませんが『主を恐れることは知識の初めである』箴言1章7節 新改訳 このみことばを土台にしていなければ、企業も学問も政治も、真の問題解決から遠く離れていると思います。『みことば偽装事件』などということがないよう心して翻訳していただきたいものです。翻訳者に、主を恐れる気持ちがあれば、手を加え、主語を入れ替えて訳出するといったことはできないと思います。


~7,8節の私訳~

word-for-word

7)よく聞け。主は、ユーフラテス河に洪水を起こさせる。無敵と呼ばれる誇り高いアッシリヤの軍隊を。兵士らは、帝国内の川を渡り、川岸をのぼり現れる。 8)川の水かさが増し、あふれだし、ユダの領土は押し流され、頭を残し、全身が水に沈む※1。アッシリヤ軍はその翼を広げ、ユダの地を覆いつくす※2。神が共にいるといわれた※3、この土地を』

脚注
※1 ユダ族の全土が破壊されても、かろうじて首都エルサレムだけは残るという意味。
※2 翼はアッシリア王家の紋章を象徴する。アッシリア軍が、ユダ族の全領土を制圧するという意味。イザヤ書36章参照。
※3 ヘブライ語でインマヌエル。『神われらと共に』という意味。選民イスラエル、救い主降誕、を意味することもある。


thought-for-thought

7)よく聞け。主は、ユーフラテス河に洪水を起こさせる。無敵と呼ばれる誇り高いアッシリヤの軍隊を。兵士たちは、帝国内の川を渡り、川岸をのぼり現れる。 8)川の水かさが増し、あふれだすように、国境を越えユダの領土に攻めはいり、首都エルサレムをのぞき、ユダの全土を制圧する。神が共にいるといわれた※1、この土地を』

脚注
※1 ヘブライ語でインマヌエル。『神われらと共に』という意味。選民イスラエル、救い主降誕、を意味することもある。
















(000)イザヤ書8章-7

2018年05月02日 | イザヤ書


この記事は、イザヤ書8章7,8節について新改訳と英語訳との比較をしています。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


~イザヤ書8章7,8節 新改訳~

7、8節 新改訳

7)それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、8)ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」

この訳文を読んで、良いことが起こるのか、悪いことが起こるのか、どちらなのか理解に苦しみます。

『すべての栄光を、彼らの上にあふれさせる』と表現されているので、良いことがあふれるのだと読者は理解するでしょう。ところで『彼ら』とは誰を指すのでしょうか?直前にある『アッシリヤの王』なのか、もっとさかのぼって6節の『レツィンとレマルヤの子』のことなのか、さらにさかのぼって『この民』なのか分かりません。訳文の中で不用意に代名詞を使った、悪い例です。

そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる』とあるので、読者は救い主の祝福がユダの地に広がるという意味に理解すると思いますが、ヘブライ語が語る意味は全く反対で、災いが来ることを意味しています。英訳では『all his glory』とある箇所が、新改訳では『そのすべての栄光を』となっていますが、この『栄光』という訳語が誤解を招く原因になっています。

gloryの意味は、栄光であると学校で教わり、英和辞書にもそのように書いてあります。しかし、このhis gloryは、アッシリヤ帝国を象徴する『誉れ高い軍隊』という意味です。文脈によってgloryの意味が変化していることに気が付かなくてはなりません。gloryを、栄光と訳してしまうと、そのあとに続く意味が、ユダ族にとって祝福が訪れるという意味の文になり、原文の意図と反対の内容になってしまいます。ユダの地に広がるのは『栄光』ではなく『アッシリヤ軍』です。

この例に見られるように、ヘブライ語のラベルを、そのまま日本語の訳文に持ってくる直訳法は、原文が意図するものと異なる内容の訳文になります。この訳文は、直訳法では、原文に忠実に翻訳できないことを示す例であり、直訳が『原文に忠実な翻訳』であると考える翻訳者の自己矛盾を表しているのです。

英語の単語と日本語の単語というのは、決して一対一で対応しないのですが、得てして学校英語の教え方は、生徒を一語一訳主義に陥らせます。これが、直訳主義を生み出す元になっていると思います。言語というものは直訳できないんだよというのが、ソシュールの言語の恣意性です。

細かい話だと思われるかもしれませんが『水かさの多い』という表現ですが・・・言いたいことの意味はつかめますが、一般的な日本語の表現は『水かさが増す』です。これは翻訳以前の問題で、小学校の作文レベルの問題です。訳文を芸術的な銘文にしろと言っているのではありません。日本語の文として最低限の品質を備えてほしいのです。新改訳の翻訳チームの中には国語学者も参加していたようですが、どうしてこのような初歩的なエラーを訂正できなかったのでしょう。組織内での各々の役割が有効に機能していなかったということです。『組織で翻訳されているから信用できる』などと思ってはいけません。


以下、word for word の代表選手ともいえる、New King James Versionの訳文を参考に、解釈をしてみます。

7) Now therefore, behold, the Lord brings up over them The waters of the River, strong and mighty-- The king of Assyria and all his glory; He will go up over all his channels And go over all his banks.

7節を理解するうえで『and』の解釈に注意が必要です。英語で『A and B』という場合、AとBには密接な関連性があることをにおわせています。あるいは、一体性があると言ってもいいと思います。単なる羅列ではないというのが、日本語の『そして』と異なるところです。『A and B』『A or B』の使い分けを、学校では、『AそしてB』『AまたはB』と教えていると思いますが、そうではなく『AとBに類似性がある場合にandを使用』し『AとBに類似性がない場合にorを使用』すると覚えた方が現実的だと思います。英語の辞書を読む時に、このand,orが頻繁に出てくるので、and,orの使い分けを覚えておくと役に立つと思います。ここ7節では類似性よりも、更に強い一体性を意味する『bread and butter バターが塗ってあるパン』の使われ方と同じだと理解します。andの前後で訳語をぶつぶつと切らずに『strong and mighty』は、『無敵の(軍隊)』『The king of Assyria and all his glory』を『誉れ高いアッシリヤ軍』と合体させて解釈していいのです。英語の『and』と日本語の『と』には違った機能があるからです。


~8節 翼の解釈~

7節後半から8節にかけて、主語と動詞の関係を明らかにしてみたいと思います。

7) ・・・The king of Assyria and all his glory; He will go up over all his channels And go over all his banks.
8) He will pass through Judah, He will overflow and pass over, He will reach up to the neck; And the stretching out of his wings Will fill the breadth of Your land, O Immanuel.

7節後半の『The king of Assyria・・・』以降の英文を、文脈を追いながら、ぶつ切りにして訳します。

7節後半『アッシリヤ帝国の誉れ高い軍隊』『(軍隊は)帝国内の全ての川を渡る』『(軍隊は)川から土手をのぼる』 8節『(軍隊は)ユダの国を通過する』『(軍隊は)洪水のように流れゆく』『(軍隊は)ユダ王国の頭(首都)だけは残す』『(軍隊は)その翼を広げ全土を覆い尽くす インマヌエル』

ここで注目したいのは、7節後半から8節最後まで、主語となるものが全て『アッシリヤの軍隊』であるということです。New King James Versionの、この主語の解釈は、ヘブライ語を忠実に踏襲しています。ヘブライ語を読める方は確認をしてください。翼を広げたのはアッシリヤ軍であることを示す、文法上の根拠です。

文法上の結論が出た時点で『一本!それまで』の判定がでたようなものですが、更に、史実とのすり合わせをしてみます。ヘブライ語が理解できないとしても構いません。文脈から『翼はアッシリヤ軍を象徴している』ことが分かります。列王記第二18章、イザヤ書36章に、ヒゼキヤ王の第14年、アッシリヤの王セナケリブが、ユダの全地域を壊滅させ、エルサレムだけが生き残ったと記録されています。エルサレムはアッシリヤ軍に包囲され、絶体絶命の危機を迎えていましたが、ある夜、神さまの霊にアッシリヤの兵隊185,000人が殺されたため、アッシリヤ軍はエルサレムから撤退したというお話しです。

ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。
列王記第二18章13節 イザヤ書36章1節 新改訳

新改訳は『主の栄光と主の翼は国土いっぱいに広がる』と翻訳したので『主はアッシリヤの侵攻からユダの国土全体を守る』という内容になりました。しかし聖書に書かれている史実は、アッシリヤが、ユダのすべての町を攻め取ったという内容です(列王記第二18章13節、イザヤ書36章1節)。そうすると、預言と史実との間に矛盾が生じるので、預言が外れたということになります。万が一『翼がエルサレムを覆う』という表現になっていたら、聖書に記されている史実と合致するので、翼は、主の保護を意味するという解釈も可能だったかもしれません(文法上は、そのような解釈はできませんが)。しかし、実際の8節の文は『翼がユダの全土を覆った』とあるのです。文脈からも『全土を覆った翼』は、アッシリヤの軍隊だと導き出すことができます。原文の輪郭を設定せず翻訳を進めるから、こうしたエラーが生じるのです。

以上をまとめると、文法上、翼を広げた主体がアッシリヤ軍であるということ。次に、史実とのすり合わせからも、ユダの全土を覆った翼というのは、アッシリヤ軍の侵略行為であることが分かります。


~8節 インマヌエルの解釈~

『インマヌ・エル』の解釈について検討します。次の文は、イザヤ8章8節のヘブライ語の文です。ヘブライ語は、右から読み始めるので、日本語とは逆に読み進めます。青い色でアンダーラインをしたところが、文末にあたり『インマヌエル God with us』という言葉になります。

A Hebrew - English Bibleより引用
http://www.mechon-mamre.org/p/pt/pt1008.htm

文末にある記号 {ס} は、セタマといい、ここにスペースが挿入されているという記号で、8節の文末と、続く9節とは形式上(文脈上)、分かれているという意味です。

New King James Versionでは、『翼を広げた』のは『軍隊』であるという解釈をしています。ヘブライ語でも同じです。もし、翼を広げたのが『主』であるとするなら、8節の最後で、突然、主語が入れ替わるということになりますが、主語が入れ替わったことを示す手がかりは、ヘブライ語にはありません。

次に、Orthodox Jewish Bibleの訳文を引用します。8節の後半部分です。インマヌエルという言葉が、直前の『eretz ユダ族の領土』を修飾する関係にあることを示したいと思います。ヘブライ語の発音で書かれているところがあるので読みにくいですが、原文に近い表現になっているので使わせていただきます。

and the stretching out of his wings shall fill the breadth of Thy eretz, O Immanu-El. 

※Thy 英語のyourの古い言い回しで、特定2人称として使われる。
※eretz(エレツ) ヘブライ語で土地、領土、国土の意味。

『Immanu-El』を、元の意味である『God with us』に置き換えてみると、次のようになります。ただし、『O』という間投詞は、ヘブライ語聖書にはないので省きます。

・・・Thy eretz God with us.

これは『神が我らと共にいるといわれた、その国土が(アッシリア軍に滅ぼされる)』という意味になります。文末の『インマヌエル』は、救い主を意味する固有名詞として解釈する傾向が強いのですが、そうではなく、元々の意味である『God with us』だと見れば、直前のeretzを修飾して『神が我らと共にいるといわれた、その国土が(滅ぼされる)』と、一つの文としてつながります。

THE VOICEというサイトの、Immanuel in Isaiah and Matthewという記事では、インマヌエルは、直接的には選民イスラエルを指す、という解釈をしています。

私訳
8章8節のインマヌエルは、選民イスラエルを意味しており、過去、現在、未来において、神がイスラエルの民と共にいることを宣言しています。

In 8:8, "Immanuel" refers to the nation of Israel. It is a confession that these people are the people that God has been with and will be with.

この解釈は、次のような関係で理解できます。

・・・Thy eretz Immanu-El

『(アッシリヤ軍に破壊される)ユダ族の国土』『選民イスラエル(の国土が)』

つまり『選民と言われた我らの国土が(アッシリヤ軍に破壊される)』という意味になります。ここで注目すべきことは『インマヌエル』の意味を、救世主として捉えるのではなく、『God with us』または『選民イスラエル』という意味で見るなら、直前のeretz(土地)を修飾して、一つの文としてつながるということです。

『インマヌエル』について、これと違う解釈をする英訳聖書を挙げてみます。それぞれの解釈には、問題があります。次の英訳では、嘆きの間投詞という解釈をしています。

Darby's English Translation
and the stretching out of his wings shall fill the breadth of thy land, O Immanuel!
アッシリヤ軍はその翼を大きく広げ、ユダの国土を覆いつくす。『ああ、インマヌエル!』。

この訳文は、インマヌエルという語を、人名のように解釈し『ああ、救い主よ!』とイザヤが嘆いていると訳しています。ここで疑問となるのは、イザヤが預言を王(または国民)に語っている途中で、感極まって『ああ、救い主よ!』といった私情を挟むだろうか?ということと、この文脈の中でGod with us の意味が、救い主だという解釈に飛躍のしすぎを感じます。

イザヤ書全体を読んでみましたが、イザヤが、預言の途中で感極まり、自分の抑えきれない感情を口走るという箇所は、どこにも見あたらないのです。むしろ、私情を挟むことなく、淡々と神の預言を語り続けるような冷徹さがあり、自分の仕事に徹した人物という印象を受けます。『ああ、救い主よ!』は、ドラマチックな解釈ですが、自分の感情をコントロールできない、幼いキャラクター設定になります。イザヤ書全体から伺える、イザヤの人柄に似つかわしくない訳出の仕方です。

ヘブライ語にも感嘆詞を使う表現はありますが、8節の原文には、感嘆詞が使われていません。もし、8節のインマヌエルが感嘆句であれば、ヘブライ語『hoy ホイ』などの感嘆詞が使われているはずです。しかし、原文に感嘆詞がないのですから『ああ、インマヌエル』と訳すことは文法上も間違っています。

次に、もう一つ別の解釈を取り上げます。『インマヌエル』を、希望の象徴として解釈する訳文です。これも問題がある訳文で、新改訳はこれに近い解釈をしています。

Contemporary English Version
But God is with us. [a] He will spread his wings and protect our land.[b]
しかし、神は私たちと共にいる。神はその翼を広げ、ユダの国土を守ってくださる。

脚注
a.8.8 God is with us: Here and in verse 10 this translates the Hebrew word “Immanuel” (see 7.14).
b.8.8 But. . . land: One possible meaning for the difficult Hebrew text.

脚注b.8.8に『But. . . landの訳文は、解釈が困難な箇所で、これは数ある解釈の一例である』と、その解釈に自信がないことを言っています。

この訳文では『神は私たちと共にいる』と、希望の象徴という解釈をしています。また『翼』というのは、神の翼であるという解釈までしていますが、それでいいのでしょうか?New King James Versionで解釈されている通り、文法上、翼を広げたのは『アッシリヤ軍』です。7節後半から8節にかけての主語は全て『アッシリヤ軍』です。ここで、主語が『アッシリヤ軍』から『主』に変わっていることを示す何かが、原典にあるのでしょうか?文法上、ありえない解釈です。

He will spread his wings and protect our land.という訳文には意図的とも受け取れる改変がみられます。ヘブライ語のテキストでは
『מְלֹ֥א רֹֽחַב־אַרְצְךָ֖ メロー ロハーブ アルツェハー』『(翼が)ユダの国土いっぱいに(隅々にまで)広がる』と表現されているのですが、この英訳では『いっぱいに(隅々にまで)』という意味を消しているのです。消されたことば(意味)というのは、ヘブライ語の melo(4393)という名詞(名詞化された形容詞)で、これは to fill, be full ・・・(いっぱいにする、満たす)という意味のことばです。ヘブライ語では『翼はユダの国土いっぱいに広がる』となっているのですが、この英訳ではspread(広げる)ということばに置き換え、単に翼を広げたと訳出しています。そうすることで『主はエルサレムを守られたのだ』という意味に変えている。そのように見えます。この翻訳者は、そうしないと史実と矛盾することに気が付いていたようです。また、protect our landという表現はヘブライ語にはありません。翻訳者が付け加えた表現です。ヘブライ語では、翼はユダの国土いっぱいに(隅々にまで)広がったとあるのです。『いっぱいに(隅々にまで)』ということばは、解釈の要となるキーワードです。これをすり替え、原文の意味を変える訳出をしてはいけません。

5節以降の内容を確認すると、ユダのアハズ王が主のみことばに聞き従わなかったので、主は、アッシリア軍を使いユダの地を攻めさせるという内容でした。アッシリア軍がユダの地を侵略するのは、主の意思によるということです。にもかかわらず、そのアッシリアの攻撃を『主の翼』が防ぐのであれば、次のようにヘンテコなストーリーになります。

主は、アッシリア軍にユダの地を侵略させたが、主は突然心が変わり、その侵略からユダを守ろうと国土いっぱいに翼を広げた。しかし、アッシリヤ軍はユダの全ての町を攻略した。つまり、手ごわいアッシリア軍の攻撃で、主の翼はボロボロにされてしまった。新改訳はこういうトンチンカンな文脈になっているのです。

主はわけの分からない独り相撲を取り、完敗したという内容になるのですが、これでは、おかしな解釈だと私は思います。翼が主の保護であると翻訳する文は、主はナンセンスなコメディアンだと言っているのと同じではありませんか?単語の解釈に夢中で、全体像を見失っているのです。木を見て森を見ず。こうしたことにならないよう、翻訳にあたっては輪郭を設定し、確認する作業が重要なのです。『直訳が、原文に忠実な翻訳手法である』『聖書の個人訳は信頼をおけない。組織で行う委員会訳こそ信頼をおける翻訳だ』と言われてきましたが、根拠のない先入観であったということに気が付くべきでしょう。

歴史的事実と照らし合わせても『神がユダ族と共にいて、その国土全体を守ってくださった』という解釈は誤りであると分かります。

1) ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。イザヤ書36章1節 新改訳

かろうじてエルサレムだけは残りましたが、アッシリヤは、ユダの全土を滅ぼしたのです。主の翼が国土全体を守ったという解釈は、史実と異なるのです。

『いや、そうではなく、8節は未来における、イスラエル再興を預言する内容だ』というなら、これもおかしな解釈になります。なぜなら、8章1~4節で、北イスラエルとシリヤの滅亡が預言されているにも関わらず、ユダ族滅亡の預言が、抜け落ちることになるからです。

新改訳は『インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる』となっていますが、インマヌエルの意味が何であるのか、本文にも脚注にもその解説がありません。先の、THE VOICEで『インマヌエルは、選民イスラエルを指す』という解釈でしたが、ヘブライ語ネイティブ、ユダヤ文化において、8節の『インマヌエルの意味は、選民イスラエルを指す』という解釈が強いようです。こうした解釈も十分ありうると思います。この解釈を新改訳の訳文に当てはめると『選民イスラエルは翼を広げ、自分の国土に広がる』というキテレツな訳文になります。新改訳が如何におかしな訳文か、これでも分かるでしょう。

ヘブライ語では『インマヌエル』は8節最後に置かれています。新改訳は、インマヌエルをわざわざ前に移動させています。この移動は、翼を広げたのは『インマヌエル』であるという意味をこしらえるため、意図的におこなっているのです。

新改訳は『聖書翻訳の理念』の中で、次のように謳っています。
・ヘブル語及びギリシャ語本文への安易な修正を避け、原典に忠実な翻訳をする。
行き過ぎた意訳や敷衍(ふえん)訳ではなく、それぞれの文学類型(歴史、法律、預言、詩歌、ことわざ、書簡等)に相応しいものとする。

文末に配置された『インマヌエル』を移動させ、動詞の主体を入れ替えるような小細工は『ヘブライ語への修正で、かつ行き過ぎた意訳』をしているのではありませんか?これは、新改訳の翻訳理念と明らかに矛盾します。直訳スタイルで翻訳するのであれば、New King James Versionのように、インマヌエルを文末に置き、翼を広げたのは、アッシリヤ軍だとする訳文になるはずです。『インマヌエルが翼を広げた』という訳文を創作したため、8章の全体像を歪め『罪を悔い改めない者であっても神は保護を与える』という偽りのメッセージに変えました。新改訳の翻訳委員会は、リベラル神学がお好きなようです。

『翼』に対して、主の保護という先入観が強く、アッシリヤ王国の象徴であるということが、受け入れがたいようです。翻訳者であれば、このことばが語られた当時、イザヤはどのような意図で書いたのか、また、当時の国民は、これをどのように理解したのかに焦点をあてて解釈しなくてはなりません。

現代クリスチャンである、自分が持つ先入観を疑う姿勢も必要です。文法規則を度外視した解釈は、翻訳ではなく創作です。こうした強引な原文解釈は『神学者としての熱心さが、神さまを食い尽くす』ヨハネ2:17 ようなものです。

また、英語圏、ヨーロッパ圏では、Immanuel、Emanuelが個人の名前として使われています。Immanuelは個人名であるという感覚が強いため、ヘブライ語本来のGod with usという砕いた形を、イメージしにくいのかもしれません。いずれにせよ、原典で、誰が『翼』を広げたのかを調べれば、7節のThe king of Assyria(アッシリヤ軍)だと、答えが出るはずです。その主体を入れ替えることは創作ではありませんか?




(000)イザヤ書8章-6

2018年05月01日 | イザヤ書


この記事は、新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


~5,6節の解釈と私訳~

5、6節 新改訳
5)主はさらに、続けて私に仰せられた。 6)「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる

この訳文を読んで私がイメージすることは、この民というのは、誰のことか分からないけど、この民が、二人の子どもを喜んだというものです。二人のこどもに、何か、めでたいことがあったのでしょうか?何を言わんとしているのか、私には分かりません。本来、シロアハの水、レツィン、レマルヤの子が、どのような関係なのか、原文で示されているにも関わらず、それらの関係が訳文で失われているからです。

この5,6節を読んでどういう意味か、理解できる日本人は、いないのではないでしょうか。それは、日本語として意味が通らない訳文を作っているからで、訳文が日本語として未熟なのです。翻訳スタイルが直訳かどうかといった、翻訳理念の問題ではありません。もし、中学の英語で、このような訳文を作って提出したら不合格だと思います。読んで意味が分からない訳文は、目的言語に翻訳したとは言えません。翻訳(通訳)というものは、異なることば(民族)の間に入り、両者が通じ合えるよう仲立ちをすることだと思います。『私はヘブライ語の専門家であって、日本語は専門でないから、おかしな日本語でも仕方のないことだ』と言えるのでしょうか?そのような方は、ご自分のヘブライ語研究に専念なさって、翻訳に関わるべきではないと思います。私はこの5,6節の訳文を読んで、その投げやりさ、いい加減さに、情けなさと憤りを感じます。


~this peopleはこの民か?指示代名詞の嗅覚~

次にあげるのは、word for wordスタイルの、American Standard Versionの6節です。
6 Forasmuch as this people have refused the waters of Shiloah that go softly, and rejoice in Rezin and Remaliah's son;

『この民』の意味するものは、『ユダ族』であるということは前述しました。シロアハの水はエルサレムを育んできた母のような存在に譬えることができ、その育ての母の恩に、背を向けたと非難されているのは、シロアハ水道の恩恵を受けてきたユダ族だということです。新改訳では『この民』、英語では『this people』になっています。英語の『this』と日本語の『この』は、同じ指示代名詞ですが、その働きには、似て非なるものがあります。

英語では、代名詞(it you thisなど)がうるさく感じるほど頻繁に使われます。日本語では、こうした代名詞は頻繁には使われません。どうしてなのでしょうか?英語という言葉は、いちいち固有名詞を使わなくても、代名詞を代用してそれできちんとコミュニケーションできる仕組みになっているからです。一方、日本語は代名詞を多用したのでは、コミュニケーションが成り立たないので、固有名詞を使わなくてはならない、という仕組みになっています。外国語の中で多用される代名詞を直訳して、そのまま日本語に持ってくるとどうなるでしょう?必然的に、意味不明な訳文になります。ですから、外国語で代名詞で表現されているところは、日本語では固有名詞に置き換えて訳さなくてはならないという場合が多いのです。

日本語では、一人称を表す『わたし』、二人称を表す『あなた』、三人称を表す『彼、彼女』という表現を忌避します。学校では、英語の『you』は、日本語の『あなた』ですと教えますが、実際はそうではありません。日本語で、社員が社長に対し『あなたの明日の予定を教えていただけますか?』と言ったとしたら、近いうちにクビにされるでしょう。喧嘩を売ってる言いかたになるからです。『社長の明日の予定を教えていただけますか?』が普通の言い方です。英語の代名詞を直訳して、そのまま日本語に持ってきてはいけないのです。新改訳の翻訳理念は直訳だそうですが、この例にあるように、直訳スタイルでは原文の意図するものを正しく翻訳することができません。

英訳聖書の『this people』ということばを読んで、私は『この地の民は』というニュアンスを感じます。この地というと、すぐあとにシロアハの水のことが書かれていますから、シロアハがある地域を指すことが連想できます。『this people=シロアハのある地に住む住民=ユダ族』と、このように意味がつながります。これは日本語にはない、英語の指示代名詞が持つ強い嗅覚です。また、それをサポートするように、英語の文全体が、指示代名詞の嗅覚を助ける構成になっていると思われます。

日本語で『この民は』といっただけでは、なかなかシロアハにつながらないのではないでしょうか?日本語の『この』には、英語の『this』のような、強い嗅覚(はっきりと意味を指示する力)が備わっていないからだと思います。外国語と日本語の間に通訳者(翻訳者)が入って、両者の仲立ちをするということは、こうした、ことばの基本的な構造の違いもわきまえた上で、両者が通じあえる関係をつくることです。『通訳(翻訳)というものは、ただ、タテのもを、ヨコにする作業じゃない』といわれる所以です。

また、代名詞を固有名詞に置き換えて訳語を作ることは、代名詞が何を意味するか、はっきりと原文解釈をしなくてはなりません。翻訳者の解釈で、訳文の意味が左右されるので、そのプレッシャーから逃げるように、代名詞のまま訳すことが多いように感じます。代名詞が何を指しているかを解釈するのは通訳者、翻訳者の当然の仕事です。単に『この民は』ということばを日本語の訳文に持ち込むだけでは、翻訳者は仕事の手抜きをしているのと同じだと思います。

もしこの預言が、現代の日本語を使って語られたとしたら、主は『ユダ族は・・・』と固有名詞を使って言われたと思います。主は、ご自分の意思を伝える時、その表現方法にも気を配り、誤解を招くような、あやふやな言い方をされないと思います。


~rejoice inは喜ぶか?~

『・・・レツィン(シリヤの王)とレマルヤの子(北イスラエルの王)を喜んでいる』という文が、英訳では『・・・rejoice in Retzin and Remalyahu's son』となっています。これは『・・・レツィンとレマルヤの子を喜んでいる』と同じ意味なのでしょうか?

英和辞書で『rejoice』を調べると『喜ぶ,うれしがる,祝賀する』といった解説がされています。一見良さそうですが・・・英語のネイティブであれば、次のように理解すると思います。『・・・rejoice in Retzin and Remalyahu's son』というくだりを読む時は、すぐ前にある4節の『(滅亡の道を行く)ダマスコ(シリヤ)とサマリヤ(北イスラエル)』が、ちらちらと脳裏に浮かぶと思います。そして『rejoice in』の意味は、ただ、ダマスコ(シリヤ)とサマリヤ(北イスラエル)を喜んだのではなく『ユダ自らが、ダマスコ(シリヤ)とサマリヤ(北イスラエル)の滅びの道に喜んで入って行った』と皮肉っている意味だと理解するでしょう。このように前の文脈と重ねて、意味を理解しなくてはなりません。こうした前後の文脈も含めて解釈するというのは、機械翻訳や直訳主義の翻訳者にはできないことだと思います。ことばの意味というのは固定できるものではなく、文脈により自由に変化するのです。

The Free Dictionaryでは、rejoice inがイデオムとして定義されています。

原文
To have or possess
: rejoices in a keen mind.
http://www.thefreedictionary.com/rejoice+in

私訳
~の状態になる、~を身につける、~を持つ、~と同じ状態を保つ
例)常に感覚を研ぎ澄ませ(素早い判断力を身につけろ)

Rejoice in the Lord always』ピリピ4章4節、とても有名なみことばですが、これを訳すと『いつも主と共に歩め』という意味です。ピリピ3章17節以降をお読みください。パウロが語っているのは『信仰から離れるな。惑わされるな。最後まで信仰を持ち続けろ』ということですよね。こうしたことを締めくくり『Rejoice in the Lord always(いつも主と共に歩め)』といっています。英訳聖書では、きちんと文脈に筋が通っています。この英語の意味は『いつも主にあって喜びなさい』という意味ではありません。

二つ以上のことばがつながってイデオムとなった時、元の単語からは類推できない新たな意味を持つというのは、外国語学習の初歩的な知識です。『good morning』は『良い朝』ではなく『お早うございます』という意味だと、中学校一年の時に習っているはずです。これは、言語には恣意性があるということを理解する、とても大切な内容が含まれています。ところで、学校英語では英日の翻訳辞書で意味を検索することを重視しますが、翻訳辞書で言葉の意味を理解するのには限界があります。分かりやすく言うなら、翻訳辞書では、外国語の意味を50%しか理解できないのです。このことを承知の上で翻訳辞書を使うのであれば問題ないのですが、学校教育ではそのようなことは教えません。また『英語ではとにかく語彙を増やしなさい。語彙を増やせば英文が理解できます』と教えられてきたのではないでしょうか?語彙を増やすため、単語カードや単語帳が使われます。効率的に暗記できるよう、英単語一つに、日本語の意味が一つ、良くて二つがあてられます。この学習方法は必然的に、生徒を一語一訳主義、直訳主義に陥らせます。こうした学習を忠実に継続してきた方は、知ってる語彙は多くても、特に難易度の高くない、基本的な英文の解釈すらできないということが起こるのです。英文が理解できるようにと学習してきたことが、実際には英文理解を妨げているのです。決して、日本人が外国語学習に向いていないからではありません。学習の仕方が誤っており、誤った言語観を抱いているからだと思います。もし、通訳や翻訳を職業とするのであれば、根本的なところから学び直すことをお勧めいたします。一語一訳主義的感覚を抱いていたり、直訳主義を信条とするようでは、通訳や翻訳の仕事ができるはずがないからです。

『rejoice in 』はイデオムで『(誰かの)仲間入りをする』『(誰かと)つながる』という意味があります。新改訳では『いつも主にあって喜びなさい』と訳されていますが、これでは、ケ・セラ・セラとのん気さを勧めているように感じます。パウロはその様なことを言いたかったのでしょうか?

パウロは、幼いころから教育を受け、パリサイ派のガマリエルという高名な先生のもとで学んでいます。少なくともギリシャ語、アラム語、ヘブライ語の3か国語で会話ができる言語力があったようです。また、スピーチが得意で、論理的、説得力ある話ができる人物だということが聖書に記述されています。その様な人物が、3章17節以降の文に続き、4章4節で『いつも主にあって喜びなさい』と締めくくるのでは、ガクッと膝が抜けてしまいます。不自然な文脈になるからです。『ケ・セラ・セラで締めくくるのかよ。理路整然と語るパウロはどこに行ったんだ。これじゃ弁舌の人パウロが泣くぞ』と言いたくなるのです。ギリシャ語ではどういう意味かは分かりませんが、英訳の『Rejoice in the Lord always いつも主と共に歩め』のほうが文脈に合う解釈になるのではないでしょうか?

また、並立助詞『と』の使い方に注意が必要です。英語の『and』と、日本語の『と』が同じだと考えるのは間違っています。例えば『佐藤さん山田さんの子が遊びに来た』という文をよんで、どのようなことを思い浮かべるでしょうか?二つの解釈ができます。一つは、佐藤さんの子どもと、山田さんの子どもが遊びに来たという意味、もう一つは、大人である佐藤さんと、山田さんの子どもが遊びに来たという意味です。このように並立助詞『と』を使う場合、読者に二通りの解釈を与えるのです。

『レツィンレマルヤの子』というのも同じことです。読者に二通りの解釈をさせてしまいます。日本語に翻訳するときは『王レツィン、及び王レマルヤの息子』もしくは『王レツィン王ペカ』のように意味を明確にするべきです。これは難しい理論でもなんでもありません。

『なに!原文に王ということばがないんだから、訳文で勝手に付けちゃダメだろ』と学校英語の教師や、原文に忠実な翻訳者にお叱りを受けそうですが、こうした意見は、正しいのでしょうか?翻訳というのは、文字として目に見える単語を日本語に置き換えるだけで、原文と同じ意味の訳文ができるのでしょうか?私はそれはできないと思います。それができると考えているのが直訳主義で、ここに根本的な誤りがあるのです。

テレビのニュースで、よく『雅子さまは・・・』とアナウンサーが言いますが、これを英語にする時は、必ず『Princess Masako』と英訳されます。日本語では『皇太子妃雅子さま』ということもありますが、むしろTVでは『雅子さま』ということが多いと思います。日本語の『雅子さま』は、英語で『Masako』ではありません。アナウンサーのことばの中に、皇太子妃という称号がないからといって、英訳でPrincessの称号を付けてはダメだと言えるのでしょうか?間違っています。言語には恣意性があるので、直訳はできないのです。

また『レツィン』と『レマルヤの子』という人名も、文脈に合わせて意味が変化するということに気が付かなくてはなりません。これも言語の恣意性です。原文では『レツィン』ということばは『レツィン』を意図しています。当時の、ヘブライ語ネイティブが『レツィンの意味は、王レツィンである』と理解しているのであれば、訳文を読む現代日本人も『レツィン=王レツィン』と理解してもらわはなくては、翻訳になりません。ですから日本語の訳文を作る時は『レツィン』を選択するのではなく『王レツィン』としなくてはならないのです。日本語の『雅子さま』が英語で『Princess Masako』と訳されるのと同じことです。原文の意図をきちんと解釈できれば、『レツィン、及びレマルヤの息子』と訳出できるはずです。

直訳主義では、こうした付け足しはタブーとされていますが、通訳や翻訳の実務では、当たり前のように行われていることです。なぜ、こうした付け足しが行われるかというと、難しいことばを使って恐縮ですが、ハイ・コンテクストの文(文脈依存度が高く、ことばが省略された形で表現される文)というのは、コミュニケーションの中で、自動的に、ことばの省略が行われています。ですから、ハイ・コンテクストで表現されてる原文を、ロー・コンテクストの目的言語に訳出する場合、省略され見えなくなったことばを、再現する作業、再び言語化する作業が必要になります。ないものを勝手に付け加えているのではなく、本来あったものを再現しているだけのことです。

朝、上司が会社に入って来た時の会話です。
ベテラン社員『お早うございます』
上司『あれ、どうなった?』
少し間をおいて
ベテラン社員『A社とB社に、見積もり依頼をしておきました』

日本の会社の中で、こうした会話はよくあります。もし他人が聞いたら、何のことか分からないでしょうが、この社員と上司との間ではきちんとコミュニケーションが成立しています。この様に言葉が省略されても通じ合えるコミュニケーションをハイ・コンテクスト(文脈依存度が高い)といいます。ことの経緯を知らない新入社員が『すみません。今のはどういう話しなんですか?』とベテラン社員に尋ねるとベテラン社員は『昨日、最後のツメで、上司と顧客のところに伺ったんだが、もう少し値段を下げて欲しいと顧客から要望があり、仕入れ価格を下げてもらえないか交渉しろと上司に言われてたんだ。それで、下請けのA社とB社に至急再見積もりを依頼したということさ』と答えるでしょう。

上司の『あれ、どうなった?』ということばは『昨日君と一緒に行った顧客から、価格をもっとを下げて欲しいと要望のあった件。その後、どう処理したんだい?』ということを意味しています。これは勝手な付け足しではなく、本来あるはずの言葉が省略されていたので、他の人にも分かるように表現するとこのようになるのです。『あれ、どうなった?』という表現と、意味は全く同じであるということを理解してください。

ベテラン社員が新入社員に説明した内容も長いですが、上司とのやりとりを忠実に再現していますよね。ハイ・コンテクストの言語を、ロー・コンテクストの言語に翻訳するというのは、分かりやすく言うなら、こういうことです。ベテラン社員が新入社員に説明した時も、勝手な付け足しはしていないということは分かると思います。実務にあたる通訳者、翻訳者は、常にコンテクストの違いを考慮し仕事をしています。このように原文で短縮された表現になっている場合、見えなくなったことばを再現して長い文として訳出したり、反対に、詳しく表現されてるものから、ことばを省略して短く表現するということを、実際の通訳や翻訳でやっています。これは、勝手な付け足しや、勝手な削除ではないのです。それどころか、高度な通訳(翻訳)スキルがないとできないことです。こうしたコンテクストの違いを考慮しない通訳や、翻訳はあり得ません。直訳主義が、こうしたコンテクストの違いを考慮しないで訳文を作るということも、未熟な訳文、意味不明な訳文になる一つの原因です。

話しが脱線しましたが、6節『・・・rejoice in Retzin and Remalyahu's son』が意味するのは『(ユダ族は)・・・王レツィン、及び王レマルヤの息子が向かう滅びの道に、自ら足を踏み入れた』という意味だと解釈します。

この訳出も難しいテクニックを使っている訳ではありません。辞書を調べ、イデオムとしての意味を見つけるかどうかといった問題です。新改訳の翻訳者が、自分の訳文に違和感を感じることができ、英訳された聖書を読むことができれば、不自然な訳文のまま出版されることはなかったでしょう。

『~を喜んでいる』『rejoice in ~』と訳されたのは、ヘブライ語『masows マソース』ということばです。masowsの解釈の仕方について、別の記事『ヘブライ語 masows ことばの解釈』で記述しました。興味のある方はこちらもお読みください。


~5,6節の私訳~

word-for-wordスタイルと、thought-for-thoughtスタイル、それぞれの訳文を作ってみます。word-for-wordスタイルで訳すと言っても、一般の日本人が読んで理解できる訳文とするのが、訳文の最低限の品質ですから、その条件を満たしたうえでの訳文としています。最低の条件を満たさない、word-for-worseスタイルではいけませんから。

こうして、次のような訳文になりました。


word-for-word

5)また、主は言われた。 6)「ユダ族は、穏やかに流れるシロアハ※1水道の水に背を向け、王レツィン、及び王レマルヤの息子※2が向かう滅びの道に、自ら足を踏み入れた。

脚注
※1 ヘブライ語で(ギホンから)送られてきた(水)という意味
※2 イスラエルの王ペカのこと


thought-for-thought

5)また、主は言われた。 6)「ユダ族は、今までエルサレムを潤してきたシロアハ※1水道の水、すなわち、主である私のことばに背を向けた。そして、シリヤの王レツィン、及びイスラエルの王ペカらが向かう滅びの道に、自ら足を踏み入れた。

脚注
※1 ヘブライ語で(ギホンから)送られてきた(水)という意味




(000)イザヤ書8章-5

2018年04月30日 | イザヤ書


この記事は、新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


~イザヤ書8章5~10節 新改訳~

5)主はさらに、続けて私に仰せられた。 6)「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。 7)それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、8)ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」 9)国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ。腰に帯をして、わななけ。 10)はかりごとを立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それは成らない。神が、私たちとともにおられるからだ。

新改訳の訳文を読んでも、何がいいたいのか理解できません。直訳をすることで原文の意図を歪め、更に、意図的な変更を加えることで、原文の意図を歪めているからです。


~輪郭を描く~

今回は輪郭を描くのに、次の4点を検討します。『登場人物の把握』『地名、比喩の解釈』『先入観を疑う』『ストーリーの把握』

登場人物の把握


イザヤ
この民(誰のことか?)
レツィン(シリヤの王レツィン)
レマルヤの子(イスラエルの王ペカのこと)
アッシリヤの王(帝国軍) 7節
国々の民(遠く離れた国々)? 9節

6節の『この民は・・・』とは、だれのことを指しているのか、英語の聖書でも解釈が分かれていました。『エルサレムの住民』『ユダ族』『ユダ族と北イスラエル族』などです。解釈の鍵は『シロアハの水』のたとえにあると思います。シロアハの水というのは、ギホンで湧き出るきれいな水を、用水路を作りエルサレムに引いてきた飲料水です。

シロアハの水はエルサレムを育んできた母のような存在に譬えることができるでしょう。その育ての母の恩に、背を向けたと非難されているのは、誰のことでしょうか?そこで暮らしてきた人のことでしょうか?それとも、そこから離れて暮らしてきた人のことでしょうか?そこで暮らしてきた人のことですよね。直接的な意味は、エルサレムに住む王家のことだと思います。

列王記下25章4節に『王の園』とありますが、かつて、このシロアハの水を使った、王家の農場がありました。ギホンからエルサレムまでの水路整備工事、農場での灌漑(かんがい)設備工事は、国家の威信をかけた大事業だったことでしょう。シロアハ水道は、ユダ王国繁栄の象徴として引用されています。参考資料 Jerusalem - Water Systems of Biblical Times by Hillel Geva

また、前述の8章1~4節で、はっきりと北イスラエルとシリヤの滅亡を預言してあるわけですから、この箇所で、また北イスラエルの滅亡を預言するというのも、おかしな表現になります。続く7,8節は、ユダ族の国土が侵略されるという内容ですから、『この民』は、エルサレムを首都とする『ユダ族』を意味していると理解できます。

9、10節で『国々の民』『遠く離れたすべての国々』への預言ですが、これも誰を指しているのか、解釈が分かれています。『アッシリヤ帝国』とする説、『北イスラエル、シリヤ連合国』とする説、『アッシリヤ帝国、北イスラエル、シリヤ連合国を合わせている』とする説などです。8章1~8節では、北イスラエル族とシリヤの滅亡、そしてユダ族の滅亡が記述されています。9,10節では再び『北イスラエル、シリヤ連合国』へ警告を発しているという内容です。そう解釈する理由は、別の記事『イザヤ書8章-9』で申し上げます。


地名、比喩の解釈

シロアハの水
 
首都エルサレムと、王家を支えてきた水道水で、ユダ王国繁栄の象徴。英語では『the waters of Shiloah』などの表現ですが、the という冠詞があること、また、watersと複数形をしていることから、きれいな天然水といった意味になります。魚がすむような川ではありません。

シロアハは、動詞shalach(7971)シャラハから派生した名詞だと考えられます。動詞シャラハは、(人を)派遣する、(物を)送る、その他の意味があります。また、英文で書かれたシロアハ水道の解説を見ると『ギホンの泉から送られてきた水道水』とあります。『送られてきた』という言葉に『昔から自然にあったただの川ではないぞ。我々が持てる技術を駆使し作った人工の水道だぞ』という誇らしいニュアンスを感じるのです。

シロアハは、ヨハネ福音書9章に出てくるシロアムと同じ水道水を意味しています。ヘブライ語でShiloah、アラム語でSilwanですから、Siloamはアラム語が変化したことばでしょう。新改訳ヨハネ福音書9章の文中にシロアムとは『遣わされた者』という解説が挿入されていますが、これでは意味をなしていません。Shiloahは、英語でもsendと訳されています。sendは『(人を)派遣する、(物を)送る』という意味があるのですから、新改訳が『遣わされた者』と、人に限定した解釈をするのは間違っています。

イザヤ7:3~4を見ると、イザヤは神からの預言を携え、シロアハ水道上の池でアハズ王に会います。そして『恐れてはならない・・・』と、アハズを励ますのですが、馬の耳に念仏、アハズは忠告に従うことはしませんでした。この出来事と、8章6節の表現はつながっています。神さまは『私は、シロアハ水道へイザヤを遣わし(シャラハ)、お前に忠告した。ところが、お前は私の忠告に背を向けた』と、シロアハを掛けことばとして使っています。7章3節と8章6節は、内容を反復させ表現を展開しています。ヘブライ語に見られる、特徴的な表現技法です。

ことばの意味というのは、文脈によって変化をします。翻訳者はその変化に気が付かなくてはなりません。言語には恣意性があるのですから、『Shiloah=遣わされた者』という固定された関係はあり得ないのです。創世記11章のバラルのみわざのことを、よく考えていただきたいのです。翻訳者は、一語一訳主義に陥ってはなりません。

また、ユダ族の王ヒゼキヤがシロアハ水道を作ったかのように解説されることがありますが、そうではありません。次の箇所は、そのことについて述べているところです。

このヒゼキヤこそ、ギホンの上流の水の源をふさいで、これをダビデの町の西側に向けて、まっすぐに流した人である。こうして、ヒゼキヤはそのすべての仕事をみごとに成し遂げた。歴代誌第2 32章30節 新改訳

この箇所は、ヒゼキヤがそれまであったシロアハ水道とは別に、新しいルートで引き直したということを言っているのです。

新聖書辞典より引用

また、古代から都市が建設される土地の選定には、飲料水の確保は絶対条件でした。王宮の調理、入浴、洗濯、掃除で使われる水、神殿の祭儀で使われる水を合わせると、かなりの量になります。この大量に使われる水を供給する水源が、ヒゼキヤ以前からあったはずです。また、次の箇所は、当時エブス人が住んでいたエルサレムをダビデが攻略した時の様子が書かれています。ダビデがエルサレムを攻略する前から地下水脈があったこと、そこにトンネルがあったことがうかがえます。

そのとき、ダビデは言った。「エブス人を討とうとする者は皆、水くみのトンネルを通って町に入り、ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て。」 サムエル記下 5章8節 新共同訳

エルサレムには天然水が流れるトンネルがすでにあり、ダビデ軍はそれを通ってエルサレムに侵入し攻め取ったと書かれています。ヒゼキヤのトンネル工事以前から、地下水脈は存在していました。これは、ギホンから流れてきたシロアハ水脈だったようです。

ダビデからソロモンの時代にかけて、王宮と神殿建設の大工事がありました。こうした時期に既存のシロアハ水脈に手を加え、宮殿用、神殿用、農場用として給水できるよう整備したはずです。この給水設備工事がなければ、宮殿、神殿、農場は機能しないからです。

ユーフラテス河がアッシリヤの繁栄を象徴したように、シロアハ水道もユダ王国の繁栄を象徴する誇らしいものだったと思うのです。シロアハの水が、ユーフラテスの大河と比較されているので、あたかもチョロチョロと裏庭に流れる地味な小川のように解釈する方もいますが、シロアハ水道が機能していた当時は、エルサレムを支える飲料水であり、大きな農場を支える灌漑用水だったと思います。そうでなければ、アッシリヤを象徴するユーフラテス川との対比が、滑稽すぎるのではないでしょうか?

シロアハ水道がエルサレム市民ののどを潤す清らかな水であるのに対し、ユーフラテス河は、現在のトルコを源流にスタートし、シリア、イラク、イラン、クウェートといった異教の国々の間を流れる国際河川として存在していました。過去、この運河を支配した国が繁栄を築いており、その利権をめぐり争いが繰り広げられてきました。イザヤの時代、このユーフラテス河を支配したのはアッシリヤ帝国でした。

ユダ族の王アハズについて次のように記述されています。『主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて、自分の子どもに火の中をくぐらせることまでした。列王記下16:3新改訳』。アハズは、このようなふとどき者で、更に、北イスラエル、シリヤ連合軍を打ち負かすためアッシリヤに支援を求め、それと引き換えに、代々伝わる神殿の宝物を提供しました。加えて、アッシリヤにある異教の祭壇を詳細に図面にし、エルサレムでこの異教の祭壇を再現し礼拝したとあるので、アハズは、やりたい放題だったということでしょう。

本文の中で、アッシリヤの『栄光(ヘブライ語でkabowd)』がユダの全地を滅ぼすということですから、直接的には誉れ高いアッシリヤ軍がユダの地を滅ぼしたということに違いはないのですが、『kabowd(栄光、権力、富などの意味)』というヘブライ語が示すもう一つの意味は、異教徒の繁栄だったと思います。ユダ王国は、異教徒の繁栄、異教の神を求めたが、その異教の神はやがて手のひらを返し、牙をむいて襲いかかってくるだろうという意味を、kabowdということばを使い表現しているようです。しかし、日本語には、kabowdが持つ『誉れ高いアッシリヤ軍』と『異教徒の繁栄』といったこれらの意味を、一言で表現できることばがありません。これは通訳や翻訳という仕事の限界だと思います。この限界を作られたのが、主のバラルのみわざで、ソシュールが言語の恣意性で述べたことだと思います。

話しが逸れましたが、シロアハ水道とユーフラテス河の対比が意味するのは、まことの神への信仰と異教の神への信仰で、大小といったサイズの比較をしているのではないと思います。


ユーフラテス川
 
アッシリヤ帝国の首都ニネベが、この川沿いにあった。アッシリヤ帝国繁栄の象徴であり、また、異教徒の繁栄をも象徴する。

8節『川の水は・・・首にまで達する』
これは、頭(エルサレム)だけを残しそれ以外は全て滅ぼされる。かろうじてエルサレムだけが生き残るという意味です。


先入観を疑ってみる

『インマヌエル』と『翼』という言葉は、聖書の中で強く象徴性を表す場合がありますが、その先入観が原文解釈に支障を与えています。翻訳者は、一度その先入観を取り払わなくては、原文が意図するものを正確に理解することができないでしょう。

インマヌ・エルはヘブライ語で『神われらと共に』という意味です。マタイ1:23で、イエスさまの誕生はイザヤ7:14で預言されていたインマヌ・エル誕生の成就であることを解き明かしています。旧約聖書の中でインマヌ・エルということばは3か所ありますが、マタイが引用したのはイザヤ7:14だけであって、イザヤ書8:8、8:10のインマヌ・エルについては、それがイエス・キリストの誕生を暗示しているとは言っていません。インマヌ・エルがイエス・キリストを暗示するのは、イザヤ書7:14この箇所だけです。イザヤ書8章8節のインマヌ・エルまでイエス・キリストを示すように解釈をするのは過剰な拡大解釈になります。

インマヌエルという言葉の意味を英語で見ると
from Hebrew immanu-el, literally: God with us
ヘブライ語で immanu-el。文字通りには『神われらと共に』(文脈によっては『われらと共にいる神』という意味にも変化するでしょう)『選民イスラエル』などを意味します。

『神われらと共に』という意味に、常に救い主降誕をイメージさせるようなニュアンスが、あるかどうかという疑問を感じます。『Immanu-el』といえば、イザヤ書のインマヌエル預言、そして福音書のインマヌエル降誕を思い浮かべますが、第一列王記、ソロモンが神殿を奉献する時の祈りを見てみます。

『私たちの神、主は、私たちの先祖とともにおられたように、私たちとともにいて、私たちを見放さず、私たちを見捨てられませんように』 第一列王記8章57節 新改訳

『Hashem Eloheinu be immanu (with us), as He was with Avoteinu; let Him not leave us, nor forsake us』 Melachim Alef 8:57 Orthodox Jewish Bible

Immanu-elという一語ではありませんが、『神われらと共にいたまえ』という表現になっています。このソロモンの祈りでは、『どうか私たちを見捨てないでください。共にいてください』という切実な気持ちを言い表しているのであって、希望に満ちた、救い主降誕の意味で使われていないということに、注目すべきでしょう。イザヤも、このソロモンの祈りを知っていたのではないでしょうか?そのように考えると、イザヤ書のインマヌエルの解釈も違ってくるかも知れません。キリスト教神学者は『インマヌ・エル=イエス・キリスト』と短絡的な解釈をしがちですが、インマヌ・エルが使われる3か所全てがイエス・キリストを意味しているのではありません。自分が持つ先入観に気づき、それを取り払うことが必要です。

新改訳8節『インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる』とありますが、『翼』と聞いて思い浮かべるのは、次のような、みことばだと思います。

『主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける・・・』詩篇91編4節 にあるように、神がその民を守る象徴としてイメージすると思うのですが、これも誤った先入観になる可能性があります。

イザヤの預言は、アッシリヤがこの地を滅ぼしにやって来るという内容です。『国いっぱいに広がった翼』が意味するものは、神がユダの全地を守ったことの象徴なのか、反対に、アッシリヤがユダの全地を滅ぼしたことの象徴なのか?解釈が分かれています。別の記事で詳しく説明させていただきますが、結論を申し上げると『翼』は『アッシリヤ軍の侵略行為』を象徴しています。その文法上の根拠と文脈上の根拠についても、後述させていただきます。下の図の翼を持つ兵士はアッシリヤ王家のシンボルで、イザヤは、この翼がユダの地を覆いつくすと言ったのです。『神がユダの全地を守った』と誤訳した原因は『翼=神がその民を守る象徴』という誤った先入観を持っていたためです。


写真リンク先 Bible History The Assyrian Symbol of Asshur


ストーリーの把握

ユダ族のアハズ王は、主への信仰を捨て去り異教の神を拝む。また、迫りくる北イスラエル、シリヤ連合軍に対抗するため、アッシリヤ王に助けを求めた。異教の神を拝むユダ族は、やがてアッシリヤ軍により、ユダの全土を滅ぼされる。しかし、首都エルサレムだけが、かろうじて生き残ることになる。これは主がなさることである。9,10節で再び、北イスラエル、シリヤ連合国への警告を記す。神を離れたイスラエルは、自ら破滅を招くことになった。

以上4つの項目について検討し、翻訳の輪郭が掴めたら、80%はできたようなものです。ここまでを作るのに、一通り翻訳をしています。一つだけではなく、いくつかの英訳聖書を訳し比べています。解釈をする中で不明な個所があったとしても構いません。輪郭の設定→細部の解釈→輪郭の再設定→細部の再解釈といった作業を繰り返し、不明な個所を潰していきます。その過程を全部書き表すことができないので、要点だけを書いています。ご了承ください。



(000)イザヤ書8章-4

2018年04月29日 | イザヤ書


この記事は、イザヤ書8章4節について新改訳と英語訳との比較をしています。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


~4節の解釈と私訳~

4節 新改訳 
それは、この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである。」

この訳文を読んでも、意味がよく分かりません。ヘブライ語では、こどもの成長と略奪が起きる時期の関係が書かれています。新改訳では訳語の選択を誤っており『この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことも知らないうちに・・・』と訳出しましたが、そうではなく「赤ん坊が『パパ、ママ』としゃべり始めるその前に・・・」と表現するべきでした。新改訳の翻訳者は原文の意図を理解していなかったようです。

4節では『お父さん。お母さん』『サマリヤの分捕り物』の解釈について検討してみます。


~お父さんか?パパか?~

次は、New King James Versionの4節前半部分です。
4 ・・・ the child shall have knowledge to cry 'My father' and 'My mother,・・・

直訳調に訳すると、次のようになります。
・・・その子に知恵がつき、泣いて『お父さん、お母さん』とことばにするようになる・・・

New King James Versionの文脈からも、赤ん坊が最初に、ことばを話し始める時期のことを言っていることが分かります。赤ん坊はだいたい1歳頃から『パパ、ママ』などの発語が始まります。『パパ、ママ』などは一音節繰り返し語といって、赤ちゃんが喃語(なんご)の次に話すことばです。『お父さん、お母さん』という複雑な発音スキルを、初めから持っている赤ちゃんはいません。古今東西そうです。この箇所を『パパ、ママ』と訳せば、赤ちゃんは1歳前後だろうというイメージを与えます。もし『お父さん。お母さん』と訳せば、もっと年齢が上だろういうイメージを与えます。訳語が違うと、読者がイメージする子どもの年齢が違ってきます。

次の解説では、アラム語のabbaは、赤ん坊が喃語として使い始めるということを述べています。OZARK CHRISTIAN COLLEGEというサイトの、Greek Word Study - abbaという記事です。

私訳
『abba』はアラム語で、家族のような親しい間柄でしか使われません。アラム語はヘブライ語の兄弟言語で、1世紀、ユダヤ人が日常使うことばとして使われていました。赤ん坊が初めに話す喃語は、いくつかありますが、abba(パパ)もその一つです。しかし、abbaは大人になっても使われる言葉です。それは、喃語としての使用ではなく、父への愛着を示すabbaへ意味が変わります。全能の神をabbaと呼ぶときは、親しみのある響きがあります。神をこの名で呼んだのは、主イエスが初めてでした。

原文
abba is an Aramaic word which came out of the intimacy of the family circle. (Aramaic is closely related to the Hebrew language, and was the everyday language of Jews in the first century.) When a baby was learning to talk, one of the first words he could say was abba (“Daddy”). The term later lost its childishness, but always kept its intimate and loving character. It was much too personal a word for any man to use in addressing Almighty God. So Jesus was the first.
http://occ.edu/Alumni/default.aspx?id=2223

abbaはアラム語で、イザヤ書が書かれたヘブライ語ではありません。ヘブライ語では、ab(アブ)です。残念ながら、今から2700年前ユダ族の赤ちゃんが、どんな喃語を話したか調べる手だてはありませんが、abbaが喃語として使われていたように、abも同じように使われていたと予想できます。ヘブ-英辞書にも、そういう解説があるようです。

発声器官の未発達な赤ん坊が初めに獲得する発声は、洋の東西を問わずほぼ同じです。母音では口やのどの筋肉がリラックスした状態の『a』、子音では両唇音(上下の唇を閉じて作る音)の『m,b,p』が、最初に獲得する発音だといわれています。アラム語の『abba』、ヘブライ語の『ab』共に赤ん坊が喃語として発音しやすい音韻構造を持っています。『papa』『mama』も同様です。『最初の一語』増田 桂子/中央大学商学部准教授より引用

また、赤ん坊に付けられた名前にも、そのヒントがあります。Orthodox Jewish Bibleの8章1節の訳文中に、次のような、分かりやすいコメントが挿入されています。

私訳
・・・Maher Shalal Chash Baz(略奪の日は、迫っている。はく奪の日は、すぐにも訪れる、という意味。アッシリヤが、シリヤとイスラエルを滅ぼしに来る時期が緊迫し、イザヤのこどもの成長が、その預言成就を示す生き時計となった。4節参照)

原文 1節後半
・・・Maher Shalal Chash Baz (The Spoil Speeds, the Booty Hastens [i.e., the coming Assyrian defeat of Syria and Israel is imminent and the life of this son of Isaiah is a prophetic time line. See verse 4 below]).
http://www.biblegateway.com/passage/?search=Isaiah+8&version=OJB

つまり、のんびりと構えていられる状況ではない、ということです。こうした見方からも、赤ん坊が『パパ、ママ』と発語する、1歳(前後)になるまでに災いが起こるぞ!と解釈できることが分かります。このような意味を表す文脈の中で『お父さん、お母さん』という訳語を選択するのは、不自然だということが分かると思います。

『お父さん。お母さん』という訳語を選択するか『パパ、ママ』という訳語を選択するかといったことは、全体から見れば、大ごとになるような問題ではないかも知れません。しかし、こうした細かな個所まで、理にかなった解釈ができる翻訳者か、また読者の立場になって考えられる翻訳者かを見定める一つの指標になる箇所です。

英語の聖書でも『お父さん。お母さん』と表現するもの『パパ、ママ』と表現するもの、両方あります。『パパ、ママ』表記をしている英語の聖書は以下の通りです。

Complete Jewish Bible では、‘abba!’ and ‘Eema!
Good News Translationでは、‘Mamma’ and ‘Daddy,’
Living Bible では、‘Daddy’ or ‘Mommy,’
New Living Translationでは、‘Papa’ or ‘Mama,’


~サマリヤに分捕り物があったのか?~

・・・ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである。  4節後半 新改訳

・・・the riches of Damascus and the spoil of Samaria will be taken away before the king of Assyria."  4節後半 New King James Version

New King James Versionは、word-for-word スタイルで訳された代表的な訳文です。word-for-wordとは、直訳法、逐語的翻訳法などと言われる、古くから行われてきた翻訳方法で、できるだけ原文のスタイルを崩さないよう、逐語的に訳す方法です。しかし、この翻訳法で作られた訳文は、分かりにくい訳文となる傾向があるので、それを補う別の解説書と合わせて読む必要があります。

それに対しthought-for-thoughtスタイルの訳文は、現代英語としてほぼ意味が完結した訳文で、ほとんど解説がなくても読み進められる、新しい翻訳手法です。しかし、文法解釈など最低限の解釈ルールをも無視する、荒っぽい訳文も見受けられます。

新改訳の訳文は『アッシリヤ王がユダの地にやって来る前、既にダマスコから財宝が奪われ、サマリヤから過去蓄えられてきた分捕り物が持ち去られていた』という意味に見えます。ところが、英文の解釈は新改訳とは違っています。

ここで新改訳がおかした誤りは『分捕り物』という訳語を選択したことです。これも、直訳主義がおかす典型的なエラーで、付け加えるなら、忌避の規則をも見落としているという、二重のエラーがあるといえます。


~忌避の規則~

どのような言語にも忌避の規則というものがあります。例えば、日本語では、文末を締めくくることばが『・・・です』で終わった場合、次の文の文末に再び『・・・です』を繰り返すことを嫌います。また、同じ文中で、同じ助詞(てにをは)が繰り返し使われることを嫌うという、忌避の規則が存在します。

英語の場合、同じ単語を直近の文で繰り返し使うことをとても嫌います。英語のネイティブであっても、英文を作る時に、類語辞典(Thesaurus)を引きながら作文をすることもあるほどです。同じ単語の繰り返しを、『毛嫌い』するほどの強い感覚というのは、日本語にはないようです。それゆえに、英語での忌避規則というものを理解しづらいのだと思います。日本人が英語の学習で必ずつまづくところで、つまづいていることすら気がつかないことが多いと思います。

これと同じ忌避の規則がヘブライ語にもあります。この規則を理解しているかしていないかで、翻訳が大きく違ってきます。従来の日本語訳聖書を見ると、この規則はほとんど理解されていないようです。ヘブライ語聖書には、同じような意味を再び繰り返しているところが至るところで見られます。反復表現といわれるものですが、これが多用される一因は、忌避の規則によって同じことばを繰り返して使えないという制約があるためです。

この忌避の規則を念頭に置きながら英語、ヘブライ語を読めるなら、間違いなく解釈する力がワンランク上がることでしょう。次の文は、New King James Versionの4節後半です。

・・・the riches of Damascus and the spoil of Samaria will be taken away before the king of Assyria."

やや長いですが『the riches of Damascus and the spoil of Samaria』が主語にあたる箇所です。『ダマスコのthe riches and サマリヤのthe spoil』という形になっています。このような形が見えた瞬間、忌避規則の可能性90%ありと踏んでいいと思います。ダマスコ・・・とサマリヤ・・・がandでつながれています。英語の『A and B』は、ただ『AとB』を並べているのではなく、AとBは似たもの同士ですよ、というニュアンスがあるので『ダマスコのthe riches と サマリヤのthe spoil』は同じ内容の繰り返しだろうと予想できます。

本来、英文でいいたいことは『ダマスコの財産(the riches)と、サマリヤの財産(the riches)が奪われる』ということなんですが、忌避の規則によって、the richesを重ねて使うことができません。それで『ダマスコのthe richesと、サマリヤのthe spoil』と言い換えているのです。ヘブライ語にも、同じ単語の繰り返しを嫌う忌避の規則があります。『ヘブライ語 masows ことばの解釈』の記事でこのことを記述しました。

しかし、まだ疑問が残るという方がいるかもしれません。『the richesは財産の意味だと分かるけど、the spoilは財産じゃなく、分捕り物という意味だろ。同じ意味のことばを繰り返しているとは、言えないんじゃないの?』。この疑問にはとても大切なものが含まれているので、以下説明いたします。

翻訳徒然草-1で説明した『functionと機能』の違いと、この『spoilと分捕り物』の違いが類似しています。『Function』の場合、主語になれるのは、もの、体の臓器そして人ですが、日本語の『機能』ということばで、主語になれるのは、もの、体の臓器などで、人が主語になることはできないという話をしました。分捕り物とspoilは、意味が似ていますが、使われ方(運用)に違いがあります。次の表をご覧ください。



『分捕り物』と『spoil』では運用の仕方に違いがあるので『分捕り物=spoil』と直訳はできないのです。この表で見たことを念頭に、Spoilの意味を英英辞書で確認してみてください。なるほどと、納得できると思います。言語には恣意性があるのですから、spoil=分捕り物という関係は成り立ちません。全ての名詞、全ての品詞がそうです。学校英語が、英和辞書での検索を重視することにも問題があり、英英辞書で、ことばの意味を調べることをさせるべきでしょう。日頃、英英辞書で検索していれば、英語ネイティブの考え方が、より理解できるようになります。

『分捕り物』はヘブライ語『シャラール』から訳されたことばです。ヘブライ語『シャラール』と英語の『spoil』を比較すると、運用のされ方が同じで、分捕り物という意味があるほか、奪われた財産という使われ方もします。『シャラール』と『分捕り物(日本語)』では意味に大きなずれがあるのに対し、『シャラール』と『spoil(英語)』では、ほぼ意味が重なっていることが分かります。

このように直訳をする翻訳は多くのエラーを含むことになるのですが、いつまでも直訳から離れられない聖書翻訳は問題があります。誤解をされないよう付け加えておきますが、意訳であるべきだといっているのでもありません。煙に巻くような言い方に聞こえるかもしれませんが、そもそも、通訳(翻訳)というものが、直訳であるべきか?それとも、意訳であるべきかといった議論自体が不適切で、こうした議論は『地球上の生物にとって北極が適した生存環境か?南極が適した生存環境か?』といった二者択一の議論をしているようなものです。その問い自体がナンセンスなのです。


~史実と照らし合わせる~

聖書の中で、北イスラエルがユダに勝利したという記事はありますが、サマリヤの富の象徴は、分捕り物であるといえるほどのものは、なかったと思います。北イスラエルが栄えた時期はそう長くはなく、せいぜい、ヤロブアム2世の時代くらいでしょう。北イスラエルが強力な軍事力を維持し、隣国から財産を奪い、多くの戦利品で潤っていたというのは、歴史的になかったと思うのです。

自分の原文解釈と、史実に食い違いが生じたら、再度、史実を調べ、次に自分の原文解釈に誤りがないか調べます。そうすれば、the spoil ofの解釈が鍵となることが分かると思います。

輪郭を正しく設定することは、原文解釈のエラーを見つける手がかりになります。輪郭の設定がないと、エラーが見つけにくくなります。翻訳者が、自分の訳文と北イスラエルの歴史を見比べ確認していれば『分捕り物』という訳語を選択することはなかったでしょう。


~shalalの意味~

 ヘブライ語で、シャラール

英語で『spoil』と訳されたことばは、ヘブライ語でshalal(シャラール)という名詞で、ヘブ-英辞書に次のように解説されています。分捕り物以外に、財産という意味もあります。

私訳
1)戦利品、略奪品など 1a)獲物、犠牲など 1b)略奪品、戦利品 1c)家財や個人の持ち物を奪うこと 1d)(不正を疑わせる)儲け、財産

原文 Hebrew Dictionary (Lexicon-Concordance)を引用
1) prey, plunder, spoil, booty 1a) prey 1b) booty, spoil, plunder (of war) 1c) plunder (private) 1d) gain (meaning dubious)
http://lexiconcordance.com/hebrew/7998.html

翻訳辞書で言葉の意味を調べても、運用の仕方に違いがあるということまで解説していません。翻訳辞書で言葉の意味を理解することには落とし穴があるということを知っておくべきです。

シャラールを、口語訳では『戦利品』新共同訳では『ぶんどり品』新改訳では『分捕り物』と訳されています。いずれも『過去、サマリヤが蓄えてきた戦利品(が奪われる)』という意味になっています。ところが、文語訳では『財寳(たから)』と訳されています。

・・・ダマスコのとサマリヤの財寳(たから)はうばはれてアツスリヤ王のまへに到るべければなり イザヤ書8章4節 文語訳

文語訳の翻訳者は『忌避の規則』を念頭に入れて解釈していることがうかがえます。『シャラール』を適切に理解しているのは、文語訳だけです。


~奪ったのは王か?軍か?~

次に、ダマスコとサマリヤの財産は『誰が』奪ったのかについて検討します。英語では『the king of Assyria』となっていますが、これを『アッシリアの』と翻訳することに、待った!をかけたいのです。次に、例文をつくりました。内容は架空で、事実とは関係ありません。

なお、読者は次の情報を得ているものと仮定します。イラクの王は自国の軍を持ち、クウェートとは長い間犬猿の仲であったということです。

A)クウェート国の貴重な美術品は、イラクの王が略奪していった。

B)クウェート国の貴重な美術品は、イラク軍が略奪していった。

AとBでは、読者が受けるイメージが若干違います。Bの文は、すんなりと読むことができますが、Aの表現は、文法的に間違ってるところはないのですが、ややストレスを感じると思います。それは、イラクの王が一人でクウェートにやってきて、美術品を奪ったとは思えないので、どうやって略奪したのかを、必然的に読者に考えさせるからです。その答えはどこにも書いていません。文法的には問題がない文であっても、意味的に未完結であるということです。一方Bの文は、意味的に完結しているのでストレスなく読むことができます。これがAとBの違いです。

Aの文は、次のように書かないと意味的に完結していません。

A)クウェート国の貴重な美術品は、イラクの王の命令で、軍が略奪をしていった。

では、次の文はどうでしょう。

C)『・・・財産は、アッシリヤのによって奪われた』

D)『・・・財産は、アッシリヤによって奪われた』

Dは、意味的にも完結しているので、すんなりと読むことができますが、Cの文は、Aのときと同様、ストレスを感じるのではないでしょうか?意味的に完結していないからです。同じ文でも訳語を、王とするのか、軍とするのかで、読者のストレスが違ってくるということでした。

ところで、そもそも『the king of Assyria』が意味するものは、アッシリヤの王様『個人』を指しているのではなく、アッシリヤの王が所有する『軍隊』です。しかし、日本の英語教育では、訳文を作るときに『王』と訳することが正しいと教えます。同じように『原文(原語)に忠実な翻訳』を信条とする方たちも『王』と訳することが正しいと考えています。そうした一語一訳主義的感覚がしみついているなら『the king of』という英語が、文脈によって『王様(個人)』から『(王の)軍隊』と、その意味が変化していることに気が付きません。

このように、ことばというものは、文脈によって様々に変化する、不思議な性質があります。創世記11章で、神さまが人々のことばを混乱させたと書かれていますが、まるで生き物のように、ことばの意味が様々に変化していくのを見ると、そこに神さまのバラル(混乱)のみわざを見つけた!といった気持ちになります。また、このことを『言語の恣意性』の中で、ソシュールは指摘したのだと思うのです。

こうして、次のような訳文になりました。

4節の私訳
赤ん坊が『パパ、ママ』としゃべり始める前に、ダマスコとサマリヤの財産は、アッシリヤ軍によってことごとく奪われるだろう。


~イザヤ書8章1~4節 私訳全体~

1)主は私にお命じになった。「大きな石の板一枚と砥いだノミを用意し『マヘル・シャラル・ハシ・バズ(略奪の日は迫っている。はく奪の日はすぐにも訪れる)』と刻め」。 2)私は、この作業の立会人として、誠実な人物である、祭司ウリヤと、エベレキヤの息子であるゼカリヤの二人を呼んだ。 3)その後、私は妻と枕をともにした。主の霊を受けた妻は、のちに男の子を産んだ。主は私に言われた。「その赤ん坊をマヘル・シャラル・ハシ・バズと名付けよ。 4)赤ん坊が『パパ、ママ』としゃべり始める前に、ダマスコとサマリヤの財産は、アッシリヤ軍によってことごとく奪われるだろう。

この訳文は、主に英語のテキストを解釈して作りました。


~あとがき~

『聖書は誤りなき神のことばである』と私は信じていますが、そのことと、日本語に訳された聖書の訳文が適切かどうかということは、同じレベルで語ることができないと思うのです。

私にとっては翻訳スタイルが『word-for-word』でも『thought-for-thought』でもどちらでも構わないと思います。そうした論議に参加するつもりはありませんし、いくら議論を重ねても無益なものに終わることが多いと思うからです。ただひとつ願うのは、訳文が一般の日本人が読んで理解できるものにしてほしいということです。これはあまりにも基本的なことなのですが、このことが、ないがしろにされてきたのではないでしょうか?

聖書を出版するにあたり、どのような人を対象にするかということも検討されていると思います。学者や、牧師のように専門の教育を受けた人を対象に出版を企画するということもあるでしょう。そのような専門的な内容の、聖書翻訳があってもいいと思います。ところで、そうした専門知識のない一般の信徒や、98.5%もいるといわれるノンクリスチャンが、読んで理解できる聖書翻訳というのが、考慮されてこなかったのではないかということを、この記事で表してみました。ただし、個人訳として出版されてる聖書がいくつかあり、読ませていただいていますが、読みやすい日本語となっていて、配慮がされているものもあります。

英語訳では『thought-for-thought』という翻訳の考え方ができてから、非常に多くの翻訳がされてきました。言語学や翻訳理論の発達や、それまでの聖書の翻訳が、一般の人が読んでも理解しにくいものであったという、反省から多くの翻訳が生まれてきたのだと思います。

私は素人ですが、境界性パーソナリティ障害について英語の資料を読んでいて、薄々感じていたのですが、日本では、新しいことを取り入れることへの抵抗が非常に強く、変化を嫌う体質があるようです。その原因の一つに、権威ある学者が支配する悪しきアカデミズムの風潮も、関わっているのではないかと思うのです。同じようなことが、聖書翻訳の分野にもあるのではないかと、懸念しています。

「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
ローマ人への手紙10章8節 新改訳

神さまは、みことばが人の身近にあることを願っておられます。聖書の翻訳にあたっては『どうやったら、みことばをもっと身近にできるのか』を大切な課題にしてほしいものです。





(000)イザヤ書8章-3

2018年04月28日 | イザヤ書


この記事は、イザヤ書8章2~3節について新改訳と英語訳との比較をしています。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


2節 新改訳
そうすれば、わたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤをわたしの確かな証人として証言させる。」

この訳文は、板に文字を書き終えれば・・・証言させる。言い換えると、板に文字を書き終えるまでは・・・証言させないとも取れます。何のためにこの条件付けがあったのでしょうか?イザヤが板に『マヘル・・・』と書き終えたあと、ウリヤとゼカリヤが登場し、何かの証言をしたのだと、読者は受け取ります。また、二人の証言の内容が何だったのか、どこにも書かれていません。新改訳の訳文は、イザヤが板に書く作業と、証言者との関係が無関係になっています。

この2節が何を言いたいのか、私には全く分かりません。新改訳は組織を作り翻訳にあたりました。委員の中から『こうした訳文では、読者は意味が分からない』と、指摘する人は誰もいなかったのでしょうか?新改訳の組織がどのようなものであったのか、私には分かりませんが、この訳文を作った方以外で、訳文のできを吟味する人がいたのではないでしょうか?組織で訳されているにもかかわらず、チェック体制が機能していません。出版社の担当者は、このような意味の分からない訳文に目を通し、何も指摘できなかったのでしょうか?

2節では、わざわざ証人?を呼び寄せていますが、記録方法と証人とに密接な関係があると思うのです。もし、イザヤがペンとインクで書いたとしたら、時間にして1分で終わったことでしょう。証人は何のために必要なのでしょうか?しかし、もし石の板に彫り込んだとしたらどうでしょう?手書きのメモに文字を書き、大きな石の板に文字を下書きし、ゲンノウとノミを使い、トンカントンカンと、大きな字を彫り込み終わるまで、半日以上かかったと思います。石に文字を彫り込む作業中、ちょっとした力加減で、予期しない箇所が欠け、字形が崩れることもあります。そうなると、新しい板に取り換え、やり直しです。完成したあと、イザヤは、手書きのメモと石を差し出し『メモ通りに文字を彫り込んであるよな。見やすいようにはっきりと彫れたよな』と証人に仕上がりを確認してもらったのではないでしょうか?このように、記録方法と証人?とは、密接な関係があるように思います。同時に、預言の証人という意味もあったでしょう。

ところで、新改訳では『ウリヤとゼカリヤ』を呼んだのは、主であるという解釈ですが、口語訳、新共同訳では『ウリヤとゼカリヤ』を呼んだのは、イザヤであるという解釈です。証人を呼んだのは主か?イザヤか?といった違いが生じています。これは、主が語られた言葉が1節だけだとする解釈と、1,2節だとする解釈の違いから来ています。

現代の文章表記では、話した内容は日本語では『 』、英語では“ ”といった引用符で表記されますが、古典ではこうした引用符がありません。かつてのヘブライ語も同じです。それで、どこからどこまでが主が語った内容なのか、解釈によって、範囲が違ってきます。次の青い字が主が語ったと解釈している部分です。

主が語ったことばは1節だけだ(イザヤが証人を呼んだ)とする訳文

1) Then the Lord said to me, “Make a large signboard and clearly write this name on it: Maher-shalal-hash-baz.” 2) I asked Uriah the priest and Zechariah son of Jeberekiah, both known as honest men, to witness my doing this. New Living Translation

New Living Translation
Complete Jewish Bible
Orthodox Jewish Bible


主が語ったことばが1,2節だ(主が証人を呼んだ)とする訳文

1) Moreover the Lord said to me, “Take a large scroll, and write on it with a man’s pen concerning Maher-Shalal-Hash-Baz. 2) And I will take for Myself faithful witnesses to record, Uriah the priest and Zechariah the son of Jeberechiah.” New King James Version

Common English Bible
New King James Version
New American Standard Bible

ユダヤ人のDavid Rubinさんという方が、ヘブライ語の聖書を、個人で英語に全訳したTanach The Hebrew Bibleという貴重なサイトがあり、2節の『ウリヤとゼカリヤ』を呼んだのは、『イザヤ』であり『(石の)板に文字を彫り込んだ』と解釈しています。良い解釈だと思います。

8:1 And the Lord said to me, “Take for yourself a large tablet and inscribe on it with a common engraving tool concerning Maher-shalal-hash-baz.”
8:2 And I took trusted witnesses to testify for me, namely Uriah, the priest, and Zechariah son of Jebe-rechiah,
http://www.rubinspace.org/html/isaiah_8.html

ここでは2節冒頭部の解釈が鍵となります。ヘブライ語聖書で、1,2,3,5節の主語と動詞を見比べれば、自ずと答えが出るように思います。

ヘブライ語、ギリシャ語とも、『主が言った』と言う箇所は、『主 Yah·weh κύριος』という主語が明示されている(1,3,5節)ことに注目しなければなりません。ヘブライ語を見ると2節は『~を立ち会わせなさい』と、主がイザヤに命じているという表現になっています。一方、ギリシャ語では『~をこの作業の立会人とした』と、イザヤが立会人を呼び寄せたという表現です。ヘブライ語とギリシャ語では、使われてる動詞(話法)は違いますが『イザヤが立会人を呼び寄せた』、そのように解釈するべきでしょう。

ヘブライ語
8:1 way·yō·mer Yah·weh ワイヨメル アドナーイ 主は言われた
8:2 wə-’ā-‘î-ḏāh ベアイダー そして、~を立ち会わせなさい
8:3 way·yō·mer Yah·weh ワイヨメル アドナーイ 主は言われた
8:5 Yah-weh dab-bêr アドナーイ ダッベーレ 主は言われた

コイネー・ギリシャ語(70人訳)
8:1 είπε κύριος エイペ クーリオス 主は言われた
8:2 μάρτυράς μοι ποίησον マルトゥラス モイ ポイエーソン ~をこの作業の立会人とした
8:3 είπε κύριος エイペ クーリオス 主は言われた
8:5 κύριος λαλήσαί クーリオス ラレーサイ 主は言われた

立会人を呼んだのはイザヤであると理解します。新改訳で『証人に~証言させる』と訳されたヘブライ語は『ed』という語で『witness、testimony、reminder』などと訳されています。証人という意味以外に『見物者、立会人、証言、勧告』などの意味があります。文脈から判断すると、イザヤが呼び寄せたのは『証人』ではなく、石の板に文字を彫り込む作業の『立会人』であったと解釈する方が素直だと思います。また『証言させる』は、新改訳の翻訳者が勝手に付け足したことばです。ウリヤとゼカリヤが『証言をした』ことを裏付ける記述は、イザヤ書のどこにもありません。

こうして、次のような訳文になりました。

2節の私訳
私は、この作業の立会人として、誠実な人物である、祭司ウリヤと、エベレキヤの息子であるゼカリヤの二人を呼んだ。


~3節の解釈と私訳~

3節 新改訳 
そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。すると、主は私に仰せられた。「その名を、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と呼べ

イザヤは女預言者に『近づいた』と書かれていますが、このことが女の妊娠とどういう関係があるのでしょうか?預言者だけに、奇跡的な力で妊娠させたということにも受け取れます。ところで、預言者イザヤは妻帯者ですから、新改訳の訳文は『イザヤは、妻以外の女性と体の関係を持ち子どもを生ませた』という意味になります。新改訳はイザヤ不倫説を支持する訳文になっています。

英語の聖書を見ると『妻とからだの関係を持った』という表現になっているものがあります。イザヤとその妻が通常の夫婦生活の中で、妊娠したという意味です。これが正しい訳です。



新改訳は『qarab カラブ=近づく』『nebiah ネビーアー=女預言者』と直訳していますが、直訳をすると誤訳になります。ヘブライ語『qarab カラブ』は『近づく、近寄る』という意味で使われることが多いのですが、この文脈では『性的な関係を持った』ことを意味する婉曲表現になっています。

ヘブライ語『nebiah ネビーアー』は、『女預言者』という意味のほか『主の霊を受けた女』という意味もあり、この文脈では『主の霊を受けた女』という意味です。『naba  ナーバー』は、神の霊を受け預言するという動詞です。この動詞が男性名詞となったものが『nabi ナビー』で、女性名詞となったのが『nebiah ネビーアー』になります。イザヤ書における、nebiah ネビーアーは、解釈困難な箇所だと言われてきましたが、ヘブライ語辞書に『主の霊を受けた女』という定義がちゃんと書かれています。若しくは、ヘブライ語の名詞は動詞から派生して作られるのですから、動詞ナーバーが『主の霊を受ける』という意味だと分かれば『ネビーアー 主の霊を受けた女』という解釈にたどり着くこともできます。難しい解釈ではありません。

『新改訳聖書の特長』というサイトを見ると、『ヘブル語およびギリシャ語本文の修正を避け、原典に忠実に翻訳していること。パラフレーズ訳ではなく、リテラルな翻訳であるが、各書の文学類型にふさわしい日本語の文体を用いていること』とあります。ヨコ文字を使っているので分かりにくいですが、平たく言えば『直訳で翻訳します』ということを言っているのです。

新改訳は『私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ』と、イザヤ不倫説に立った訳出をしました。この訳文は『新改訳聖書の特長』にのっとり、きちんと『直訳』で訳されたものです。果たして直訳をすれば、正しい翻訳ができるのでしょうか?事実は正反対です。直訳をするから誤訳になるのです。

もし、イザヤ不倫説が正しいのであれば、不貞行為に対する処罰が、8章以降のどこかに書かれているはずです。しかし、どこにもありません。ダビデはバテシェバとの不貞行為で神の処罰を受けました。にもかかわらず、イザヤの不貞行為はお咎めなしということになります。イザヤは、王様や国民の面前では聖職者を装い、カゲでは女遊びをするウハウハ坊主だったということになります。

信徒には正しい生活を送るよう指導しておきながら、自分は性犯罪で逮捕されるウハウハ聖職者が現代にもいますが、イザヤ8:3はこのウハウハ行為にお墨付きを与える内容になっています。新改訳の翻訳委員会は、プロテスタント教会を、リベラル神学へ誘惑しようという意図でもあるのでしょうか?

英訳聖書を見ると『イザヤは妻との間に子をもうけた』と解釈されているものがいくつもあります。

Complete Jewish Bible (CJB)
Then I had sexual relations with my wife; she became pregnant and gave birth to a son

Contemporary English Version (CEV)
Sometime later, my wife and I had a son,

Good News Translation (GNT)
Some time later my wife became pregnant. When our son was born,

Living Bible (TLB)
Then I had sexual intercourse with my wife and she conceived and bore me a son.

New Living Translation (NLT)
Then I slept with my wife, and she became pregnant and gave birth to a son.

Amplified Bible (AMP)
So I approached [my wife] the prophetess, and she conceived and gave birth to a son.

Amplified Bible, Classic Edition (AMPC)
And I approached [my wife] the prophetess, and when she had conceived and borne a son,

New International Reader's Version (NIRV)
Then I went and slept with my wife, who was a prophet. She became pregnant and had a baby boy.

以上の英訳があることは、新改訳の翻訳委員会は知っていたはずです。にもかかわらず、新改訳は敢えてイザヤ不倫説を選択します。並々ならぬ執着です。

新改訳の翻訳理念をご覧ください。

『聖書翻訳の理念』
特定の神学的立場を反映する訳出を避け、言語的な妥当性を尊重する委員会訳である。
・ヘブル語及びギリシャ語本文への安易な修正を避け、原典に忠実な翻訳をする。

『新改訳聖書の特長』
・聖書を『誤りなき神のみことば』と告白する福音主義の立場に立つ委員会訳であること。
特定の神学的立場に傾かないで,言語的に妥当であるかを尊重すること。

この理念からすると『イザヤ不倫説』は、一部の神学的立場ではなく、広く福音主義に見られる神学的解釈で、聖書原典に忠実な訳文である、ということになりますよね。本当にそうですか?新改訳が掲げる翻訳理念は『看板に偽りあり』です。『特定の神学的立場を反映する訳出を避ける・・・特定の神学的立場に傾かない・・・』と唱えていますが、委員会は『イザヤ不倫説』が、福音主義各教派の共通認識であるという、確認作業をおこなったのでしょうか?おこなっていないはずです。これができないのであれば、見掛け倒しの翻訳理念など作らないことです。

信じられなことですが、イザヤ不倫説を正当化するインチキ神学者が、実際に日本や海外にいるのです。何故こんなことが起こるのでしょうか?その原因は『直訳主義、一語一訳主義』による誤訳です。日本人の多くは、中学高校で英語を必修科目として学びます。学校では『語彙を増やしなさい。語彙を増やせば英語が理解できるようになります』と教えますが、こうした詰め込み学習は外国語習得にとって弊害で、学校の単語詰め込み教育と文法主義が、直訳を生み出す元凶になっています。詳しくは『直訳は誤訳-1~3 オバマ大統領広島演説より』に書かせていただいたので、興味のある方はお読みください。

不思議なことですが、『妻(wife)』を表わす単語がヘブライ語にはありません。日本語話者には想像しにくいかもしれませんが、ヘブライ語の『ishshah イッシャー』は、『女、妻』両方の意味があり、イッシャーは『女と妻』を区別しません。単語で区別しない代わりに、表現形式で『女か妻』かを区別できる仕組みになっています。ヘブライ語の文で次の内容が表現されていれば、夫婦の間に子どもが生まれたという意味になります。

・男性(夫)
・めとる、体の関係を持つ(動詞 yada laqach qarab bowなど)
・女性(妻)
・妊娠し、出産する

イザヤ書8:3も同じ表現形式になっていることがお分かりになると思います。ユダヤ教の考え方からすると、その男女間で妊娠し出産をしたというのは、夫婦に神の祝福が与えられた(創世記1:27、28)という意味です。ですから『イザヤは妻と体の関係を持ち、妻が身ごもって男の子を生んだ』という解釈になります。もし、イザヤが不倫をしていたとしたら『妊娠し、出産した』という表現は使われません。ヘブライ語の原文解釈をする場合、単語一つひとつの解釈にこだわるのではなく、表現形式、文体に着目しなければなりません。当たり前のことですが、ヘブライ語は、日本語とは全く違う言語構造で成り立っています。直訳はできません。

ある翻訳では『ネビーアー=預言者の妻』という解釈をしていますが、これは苦し紛れの超意訳で、残念ながら、ネビーアーに預言者の妻という意味はありません。更に詳しいことは『ヘブライ語 qarab nebiah ことばの解釈』で書かせていただきました。興味がある方はお読みください。

文語訳、口語訳、新共同訳、新改訳、いずれも『イザヤ不倫説』を支持する解釈をしています。『イザヤは妻との間に子をもうけた』と正しく訳出するものは、日本語訳聖書では、リビングバイブルしかありません。日本ではリビングバイブルに対する偏見があるようですが、リビングバイブル訳文の品質は高いということが分かると思います。


次に3節後半に入ります。『その名を・・・と呼べ』というのは、どういう意味でしょう。生まれたばかりの赤ん坊の名前を声に出して呼ぶと、何かが起こったのでしょうか?New King James Versionの訳文は、次の通りです。3節後半です。

3 ・・・Then the Lord said to me, "Call his name Maher-Shalal-Hash-Baz;

callの意味は、この文脈では、息子に~と名付けたという意味です。説明するほどの内容ではないと思いますが、念のため、Merriam-Webster から call の定義を紹介します。

私訳
2 a : 名前を呼んで、他人ではなく、本人を特定すること。名付けること。例)ネコをキティーと名付けた。

2 a : to speak of or address by a specified name : give a name to (call her Kitty)
http://www.merriam-webster.com/dictionary/call

英語の聖書では、子どもの名前を・・・名付けさせたと表現されています。これは3番目となる預言の保全対策です。新改訳では『その名を・・・と呼べ』とありますが、これでは、名前を声に出して呼べという意味だと読者は受け取ります。英訳聖書では『名付ける』という意味です。

こうして、次のような訳文になりました。

3節の私訳
その後、私は妻と枕をともにした。主の霊を受けた妻は、のちに男の子を産んだ。主は私に言われた。「その赤ん坊をマヘル・シャラル・ハシ・バズと名付けよ。




(000)イザヤ書8章-2

2018年04月27日 | イザヤ書


この記事は、イザヤ書8章1節について新改訳と英語訳との比較をしています。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


~普通の文字で・・・書け?~

新改訳では『普通の文字で・・・書け』と訳されています。なぜ主は、普通の文字で書けと言ったのだろうか?普通の字とは・・・小さい字はダメ、大きい字もダメ。普通の大きさの文字で書きなさいということですよね。なぜでしょう?折角、大きな板を用意したのだから、文字も大きく書けばいいんじゃないのでしょうか?新改訳の訳文は、日本語として意味の通らないものになっています。

新改訳で『普通の文字で』となっているところは、英語の聖書では『ordinary letters』となっています。『だったら普通の文字でと訳して正解じゃないか』と、思われるでしょうか?学校では『ordinaryは、普通という意味です』と教え、辞書にもそう書いてあります。ところがordinaryには、それ以外の意味もあり『特に問題がない状態、特に異常がない状態』という意味もあります。ですから、ordinary lettersの意味するのは『読みにくい文字はダメだぞ。おかしな文字で書くなよ』ということです。

フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)は言語の恣意性について述べましたが、この内容を知った時、衝撃を受けました。言語の恣意性とは『その言葉の文字、発音が言語によって違うというだけではなく、その意味する内容も、バラバラである』というものです。言われてみれば当たり前のことなのですが、当たり前すぎて気が付かないのです。翻訳徒然草-1にも書かせていただきましたが『waterと水』『appleとりんご』『functionと機能』など、一見すると英語と日本語が対応しているように見えますが、その意味するものは互いにズレがあるのです。

ことばの持つ意味というのは水のようなもので、器の形が変われば、それに合わせて水も変化するように、文脈が変わればそれに合わせて、単語の意味も自由に変化します。waterの意味は、文脈によって水、海水、雨水、お湯、羊水と変化していきます。通訳者、翻訳者はその意味の変化を読み取っていかなくてはなりません。『water=水』であると学校では教え、『原文に忠実な翻訳』を信条とする人たちも、そのように訳語を固定してしまっています。これは言語の恣意性に反する教育法であり、翻訳法です。新改訳が掲げる直訳法というのは、言語そのものが持つ仕組みと相いれない翻訳手法なのです。

創世記11章のバベルの話では、神さまが言葉を混乱させたという記事がありますが、その混乱というのは表面的なものにとどまらず、言語構造の深い部分まで手を入れバラバラにされたんだなということを感じます。ソシュールの理論は、そのことを教えてくれました。

話を戻します。『読みやすい文字で書け』という解釈で、一件落着したかと思いきや、そうではありませんでした。新改訳の『普通の文字で』となっているところは、ヘブライ語の『cheret enowsh ハイレット エノーシュ』ということばで、英訳聖書では、その解釈が大混乱しています。

ハイレットを筆記具『pen ペン』と訳したもの
例)write in it with a man’s pen
例)人のペンで書け
21st Century King James Version
American Standard Version
King James Version
ほか

ハイレットを彫り込む道具『stylus ノミ』と訳したもの
例)inscribe on it with an ordinary stylus
Amplified Bible
New English Translation
New American Bible (Revised Edition)
ほか

ハイレットを『letters 文字』と訳したもの
例)write on it in ordinary letters
例)見やすい文字で記せ
English Standard Version
Living Bible
New American Standard Bible
新改訳
ほか


ハイレットの訳出で、そんな訳し方ができるの???と思う訳を二つ挙げます。

write upon it with a graving tool and in ordinary characters [which the humblest man can read]
ノミを使い、見やすい文字(教育を受けていない人にも読める文字)を刻め
Amplified Bible

ハイレットという一つのヘブライ語に対し、一つの訳文の中で『ノミ』『文字』と二つの訳語に増やしています。将棋の禁じ手『二歩』打ちのようなものです。下手な鉄砲数撃ちゃ当たる式の訳し方は反則行為です。また、教育を受けていない人にも分かるよう、絵で表せならまだ分かりますが、文字を習ったことのない人でも、読める文字で書けといいますが、これでは禅問答です。どんな文字で書けばいいものか、板の前でイザヤが悩んでしまうのではないですか?


write in indelible ink
消えないインクで書け
The Message

そんな魔法のようなインク、現代にもありませんよ!


次の訳文は、解釈の方向性が良いと思います。

Take thee a gillayon gadol (great slab), and write on it with cheret enosh
厚く大きな(石の)板を用意し、cheret enoshでしるせ
Orthodox Jewish Bible
※cheret enoshの解釈が困難であるため、ヘブライ語のまま表記しているところが難点。

Take to thee a great tablet, and write upon it with a graving tool of man,
大きな(石の)板を用意し、人が使うノミで文字を彫り込め
Young's Literal Translation
※ヘブライ語の解釈が困難であるため、tool of manと英訳してあるが、意味をなしていないところが難点。

Take for yourself a large tablet and inscribe on it with a common engraving tool
大きな(石の)板を用意し、石を刻むノミを使い文字を彫り込め
David Rubin
※Rubinさんの解釈が参考になります。ヘブライ語のenoshに対し、英語のcommonという訳語を選択していますが、この文脈におけるcommonの意味は『普通の』ではなく『作業に相応しい、専用の』という意味になります。

新改訳で『文字で』となっている箇所が、英訳では『ペン』『ノミ』『文字』『インク』とバラバラの解釈になっています。これでは判断のしようがないのでヘブライ語の意味を調べてみます。

ヘブライ語cheretの意味
an engraving tool, stylus, chisel, graving tool
物を刻むための道具、鉄筆、タガネ、ノミ、彫り込むために使う道具

ヘブライ語テキストでcheretが使われているのは、出エジプト32:4とイザヤ書8:1の2か所です。

出エジプト32:4 King James Version
And he received them at their hand, and fashioned it with a graving tool, after he had made it a molten calf・・・
アロンは、人々の手から金のイヤリングを受け取った。それを溶かし子牛の形にしたあと、タガネで掘り込みを入れた・・・

上の文では、ヘブライ語cheretが英語のa graving tool(彫り込むための道具)と訳出されています。ところがイザヤ書8:1で現れるcheretについては、『pen(で書く)』と訳が変わります。

イザヤ書8:1 King James Version
Moreover the LORD said unto me, Take thee a great roll, and write in it with a man's pen・・・
また主は言われた。『大きな巻物を用意し、人のペンで・・・書け

出エジプト32:4で『タガネ(で掘り込みを入れた)』と訳されたものが、イザヤ書8:1では『ペン(で書く)』と訳が変わっています。そこにはKing James Versionなど従来の英訳聖書が抱えている問題があり、tomonというギリシャ語を『本、巻物』と誤って解釈をしてきたことが原因ではないかと思うのです。詳しくは『イザヤ書8章-1 ~大きな板?~』をご参照ください。

もし、イザヤがこの箇所で『ペン(で書く)』ということを言いたかったのであれば、et(エイト)ということばを使っていたはずです。ヘブライ語 et は、鉄筆、ペンと訳されることばで、旧約聖書の4か所に使われています。

・・・わたしの舌はすみやかに物書く人の筆のようだ。詩篇45:1 
鉄の筆と鉛とをもって・・・ヨブ記19:24
・・・まことに書記の偽りの筆が・・・エレミヤ8:8
「ユダの罪は、鉄の筆、金剛石のとがりをもってしるされ・・・エレミヤ17:1

イザヤ書8:1で、イザヤが用意したものは石の板材(ギリヨーン)だということは先に書きましたが、石に文字を記すということは、石に彫り込むということだと思うのです。もし、石の表面にインクで書いたとしたら、こすれたらすぐ落ちて消えてしまいます。石にインクで文字を書くというのは、記録として残すことを考えると、有効な方法ではありません。石に彫り込むことが、記録として残すのに有効な手段です。石という材料に対し、一番合理的な記録方法は、ノミを使って彫り込むことです。ハイレットの基本的な意味が『ノミ』であること。また、先に述べたように、ギリシャ語の底本にも『grafidi ノミ』ということばがあることに注目したいのです。

ヘブライ語enowshの意味
1) man, mortal man, person, mankind 1a) of an individual 1b) men (collective) 1c) man,
2) soldiers, husband, leaders, warriors

1節の原文解釈で最大の難関は、このenowshエノーシュの解釈で、どの英訳聖書もその解釈で手こずっているようです。この解釈ができれば、1節における解釈が50%できたと言っても過言ではないと思います。なぜなら、enowshエノーシュの意味が分かれば、heretハイレット(ノミ)の意味が明らかになり、heretハイレット(ノミ)の意味が明らかになれば、gillayown ギリヨーン(石の板)の意味が明らかになるからです。

enowshの定義2)に注目したいと思います。ここでは、軍人、夫、リーダー、兵士といった意味が並べられており、言い換えると、社会人として一人前の職責を果たせる大人といえるでしょう。

この定義を読んで思いだしたことがあります。アイヌ語の『アイヌ』ということばです。その意味は、人間、大人という意味です。カムイ(神)の対義語としての『人間』、未成年者の対義語としての『一人前の大人』、怠け者ではない『社会で働く人』といった意味があったと思います。

enowsh、アイヌ共に『一人前の仕事ができる』大人という意味が共通していますよね。enowshエノーシュという語が、cheretハイレット(ノミ)を修飾しているというのは、多くの英訳聖書が認める解釈です。『enowsh+ノミ』を『熟練した職人が使うノミ』と解釈する英語の解説がありました。解釈の方向は悪くはないと思いますが、次のように解釈した方が素直だと思います。この文脈におけるenowshの解釈は『きちんと仕事ができる状態の+ノミ』→『刃先を研いだ切れるノミ』になります。

石工のような職人であれば、毎日のように石を刻むに違いありませんが、預言者が石工のように、毎日石を刻む仕事をしていたということは、なかったと思います。一度、石を刻む作業をしたとしても、しばらくの間、ノミは使われることなくしまわれます。そのうちノミは錆びつくでしょうし、前の作業で刃先がこぼれ切れなくなっています。こうした状況を主はご存じであったので『ハイレット・エノーシュ ノミを研ぎ(文字を刻め)』と言われたように思います。私の勝手な想像ですが『ハイレット・エノーシュ』と主が言われたことばは、あたかも、朝家を出るこどもに『忘れ物はない?○○持っていくんだよ』と、親がこどもを気遣うさまを連想させます。『しまってあるノミは錆びついて刃先もこぼれてるだろ。石を刻む前に、ノミを研ぐのを忘れるなよ』といった、主の気づかいを感じます。

従って1節でいいたいのは、大きな石の板を用意しろ。ノミを研ぎ、文字を彫り込めということでしょう。


~マヘル・シャラル・ハシ・バズ?~


マヘル・シャラル・ハシ・バズ(上図)の意味は『分捕り物は素早く、略奪は速やかに』であると解説されることが多いようですが、それだと、アッシリヤはテキパキと略奪をする、略奪する行為が迅速だという意味になります。それでは、意味をなしていないのではないでしょうか?こうした解釈は違うと思います。

『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』の意味を、Orthodox Jewish Bibleでは、8章1節の訳文の中で、次のコメントを挿入しています。

私訳
・・・Maher Shalal Chash Baz(略奪の日は、迫っている。はく奪の日は、すぐにも訪れる、という意味。アッシリヤが、シリヤとイスラエルを滅ぼしに来る時期が緊迫し、イザヤのこどもの成長が、その預言成就を示す生き時計となった。4節参照)

原文 1節後半
・・・Maher Shalal Chash Baz (The Spoil Speeds, the Booty Hastens [i.e., the coming Assyrian defeat of Syria and Israel is imminent and the life of this son of Isaiah is a prophetic time line. See verse 4 below]).
http://www.biblegateway.com/passage/?search=Isaiah+8&version=OJB

『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』とは、略奪行為が迅速だという意味ではなく、略奪の日が近いことを意味しています。また、それがイザヤの息子の成長と関係しているぞといっているのです。手元にある新改訳では『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』の解説が、本文中にも欄外にもありません。このことばはヘブライ語ですから、一般の日本人が読んでも意味が分かりません。読者への配慮がなく、不親切です。意味を付け加えるべきでしょう。欄外に注記して、それを参照させるのも一つの方法ですが、わざわざ本文から目を移動させ、欄外を探すのは読者にストレスを与えます。短い解説で済む場合であれば、本文中に(略奪の日は迫っている。はく奪の日はすぐにも訪れる)と挿入した方が、読者に親切で読みやすいと思います。

こうして、次のような訳文になりました。

1節の私訳
主は私にお命じになった。「大きな石の板一枚と砥いだノミを用意し『マヘル・シャラル・ハシ・バズ(略奪の日は迫っている。はく奪の日はすぐにも訪れる)』と刻め」。





(000)イザヤ書8章-1

2018年04月26日 | イザヤ書


この記事は、イザヤ書8章1~4節について新改訳と英語訳との比較をしています。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


~イザヤ書8章1~4節 新改訳~

1)主は私に仰せられた。「一つの大きな板を取り、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため』と書け。 2)そうすれば、わたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤをわたしの確かな証人として証言させる。」 3)そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。すると、主は私に仰せられた。「その名を、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と呼べ。 4)それは、この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである。」

新改訳の訳文を読んでも、何が言いたいのか、私にはさっぱり分かりません。


~参考にした英語のテキスト~

残念ながら私は、聖書をヘブライ語やコイネー・ギリシャ語などの原語で読むことができません。それで、英語の複数のテキストを参考に解釈をしました。

40以上の英訳を並べて閲覧できるサイト
Bible Gateway

英訳-ヘブライ語の対訳を、閲覧できるサイト
The NET Bible
Bible Apps.com by Biblos
Parallel Hebrew Old Testament

ギリシャ語、ヘブライ語のオリジナル・テキストを閲覧できるサイト
academic-bible.com


~原文解釈二つのアプローチ~

原文解釈には、二つのアプローチがあると思います。一つは、中学校、高校で教わった方法で、初めに、原文の文法の分析や、個々の単語の分析から始め、一度英文をばらばらに分解したあとで、それらを再度構築していく方法です。

もう一つは、我流ではありますが、原文が何を伝えようとしているのかその意図(何を言わんとしているのか)を捉える方法で、初めに輪郭を設定します。次に、輪郭の中を埋めていきます。そこで、設定した輪郭が不適切であったと分かった場合、輪郭を再設定します。次に、再度輪郭の中を埋めるといった作業を繰り返します。

後者の方法で解釈していきます。


~輪郭を描く~

複数の英語のテキストを読んで共通している解釈、違いがあるところを拾い出します。必要と思われるか所は、ヘブライ語の底本を調べ輪郭を作ります。イザヤ書8章1~4節では、輪郭を作る二つのポイントがあると思います。 登場人物を把握することと、ストーリーを把握することです。

登場人物

英語のテキストから、主、イザヤ、二人の証人、女預言者、女預言者が産んだこども、アッシリヤ王が登場人物だと分かります。ここですでに問題発生です。新改訳の3節では『私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった』と書かれています。また口語訳では『わたしが預言者の妻に近づくと、彼女はみごもって・・・』とあります。従来の日本語訳聖書ではいずれも、イザヤ不倫説を支持する解釈になっていますが、女預言者とは、実は『イザヤの妻』をさしており、ヘブライ語では、夫婦の間に子どもが生まれたという表現になっています。イザヤ不倫説を取る従来の日本語訳は誤訳です。

ストーリー

将来、ダマスコと、サマリヤに戦禍が起こると主は宣告する。この主の預言を前もって記録しておき、預言が確かに成就することを証明する必要があります。預言の保存には、三重の保全策を講じた。板にしるすこと。預言の記録に二人の証人を立てること。イザヤに生まれたこどもの名前として残すことの、三重の対策です。ただし、二人の証人を立てたのは、主ではなくイザヤです。これは預言の証人という役割以外に、ほかの意味合いもあったようです。詳しくはあとで記述します。ダマスコ(シリヤ)と、サマリヤ(北イスラエル)の陥落は、イザヤに生まれた赤ん坊が、ことばを話し始める前に起こると主はいわれた。

以上で、輪郭ができました。この輪郭を作るため、いくつかの英訳聖書を下訳し比較しています。輪郭ができたあと、細部の検討に入りますが、そこで新たな問題が見つかった場合、再度輪郭を設定しなおします。輪郭の設定→細部の解釈→輪郭の再設定→細部の再解釈という作業を繰り返し、解釈を練るので、その全過程を記述することができません。ここで書いているのは要点です。

輪郭ができれば、8割がた翻訳ができたようなものです。次から、輪郭の内部を埋める、細かい解釈に入ります。


~1節の解釈と私訳~

1節 新改訳 
主は私に仰せられた。「一つの大きな板を取り、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため』と書け。

1節で検討すべきところが3つあります。
・大きな板
・普通の文字で・・・書け
・マヘル・シャラル・ハシュ・バズ


~大きな板?~

新改訳では大きな『板』という解釈ですが、新共同訳では『羊皮紙』となっています。この違いは底本にしているテキストの違いで、マソラ・テキスト(Masoretic ヘブライ語)を底本とした場合、『gillayown ギリヨーン』ということばで『板材』と訳出されるようです。一方、七十人訳(Septuagint ギリシャ語訳)を底本とした場合『τομον tomon』というギリシャ語を『パピルス、巻物』と解釈してきました。板か羊皮紙か、どちらの解釈が正しいのか調べてみましょう。

始めに、七十人訳(ギリシャ語)から見てみます。2003年に出版された英訳聖書に、Apostolic Bible Polyglot(ABP)という聖書があります。このABPのイザヤ8:1を見ると『τομον tomon』というギリシャ語を『roll of papyrus new a great 新しく大きなパピルスの巻物』と英訳されています。『tomon』は聖書の中で、ここイザヤ書8:1でしか現れないので、その意味を定義する客観的データが極めて乏しいことばです。七十人訳聖書を見ると、tomonということばに対し、正式なストロングナンバー(Strong Numbers)が与えられていません。これは、tomonの意味が解明できていないということです。

tomonの解釈を一度脇に置いておき、別の視点からアプローチします。同じ1節の中で使われる『γραφίδι grafidi』ということばに注目します。『grafidi』ということばは、イザヤ書以外で4回使われていますが、いずれも『ノミ、タガネ(で刻む)』という意味です。

以下の英文はApostolic Bible Polyglotからの引用です。

出エジプト32:4
And he took them from out of their hands, and he shaped them with the stylus. ・・・
アロンは、人々の手から金のイヤリングを受け取り、それにタガネをあて(金の子牛)像を作った

1列王記6:29
And all the walls of the house round about [sculptures he depicted] with a stylus – cherubim・・・
神殿内全ての壁面はノミで彫刻をほどこされ、ケルビム・・・

エレミヤ17:1
Thus says the lord . The sin of Judah is being written with [stylus an iron] with clawed adamantine being carved upon the tablet of their heart,・・・
主は次のように言われた。ユダ族が犯してきた罪は、鉄のノミ、鋼鉄の刃先でユダ族の記憶に刻まれる

エゼキエル23:14
And she added unto her harlotry, and she saw men having been portrayed upon the wall, images of Chaldeans having been portrayed with a stylus
あの淫らな女、ユダ族が、姦淫の罪を繰り返していた時、ノミで壁に彫り込まれた男の像を目にした。その姿はカルデヤ人のようであった

このようにすべて『stylus ノミ、タガネ』と訳されていますが、イザヤ書8:1だけ『ペン、筆』という解釈に変わります。

イザヤ書8:1
And the lord said to me, Take to yourself [roll of papyrus new a great], and write on it with the pen of a man・・・
主は次のように言われた。『新しく大きなパピルスの巻物を用意し、そこに人のペンで記せ・・・

イザヤ書だけ『ペン(で書く)』と訳された原因は、従来の聖書がtomonを『book,roll 本、巻物』と訳してきたため、『巻物にノミで刻む』では、おかしな訳文なので『巻物にペンで書く』と、強引な変更を加えたことに因るのです。ラテン語訳ウルガタ聖書の段階で『librum(liber) 書物』と誤訳されています。

ラテン語ウルガタ聖書 Latin Vulgate 382年 
・・・Sume tibi librum grandem, et scribe in eo stylo hominis・・・
私訳 大きな書物(本、巻物)に人のペンで書き記せ
※ラテン語styloは『先の尖ったもの』という意味で、ノミという意味も含まれています。

Wycliffe Bible 1390年
And the Lord said to me, Take to thee a great book, and write therein with the pointel of man ・・・

The Douay–Rheims Bible 1582年
And the Lord said to me: Take thee a great book, and write in it with a man' s pen ・・・』

Geneva Bible 1599年
Moreover the Lord said unto me, Take thee a great roll, and write it with a man's pen ・・・

King James Version 1611年
Moreover the Lord said unto me, Take thee a great roll, and write in it with a man's pen ・・・

ウルガタ聖書はtomonを『librum 書物』と解釈したため、中世以降の翻訳で『本、巻物、羊皮紙』と訳されることになりました。そして『本に・・・ノミ(で刻む)』ではおかしいので『ノミ(で刻む)→ペン(で書く)』と強引な変更を加えたのです。先に述べたように、ギリシャ語『grafidi』は4か所で使われていて『ノミ、タガネ』という意味に絞られています。そうであれば『ノミ(で刻む)』という解釈が妥当で『本(巻物)』という解釈に疑いを向けるべきなのです。ギリシャ語『トモン』の意味を調べてみると、トモンには『板』という意味があることが分かります。

イザヤ8:1抜粋
τόμον καινόν μέγαν
トモン カイノン メガーン
(ABP)roll of papyrus new a great
(ABP)新しく大きなパピルスの巻物

・τόμον tomon(5113.4?) tomeは切る、切断するという意味。tomnは(木、石などの)切り取られたものという意味。  tomosは、切り取られたもの、板状のものという意味。 ギリシャ語tomonに(木や石の)板という意味があると考えて問題ないでしょう。
・καινός カイノス(2537) 新しい、使ったことのない
・μέγας メガス(3173) 大きい、広い、重い

τόμον καινόν μέγαν 
トモン カイノン メガーン 
(私訳)新たに大きな(石の)板を切り出し

ギリシャ語tomonには(木や石の)板という意味があることが分かりました。次に、ヘブライ語のマソラ・テキストではどうなっているのかを見てみます。新改訳で『板』と訳されたのは、『gillayown ギリヨーン』という語で、その意味は、table, tablet, mirror, flat shiny ornament(机、板材、鏡、鏡面仕上げの板材)とあります。ヘブライ語もギリヨーンは『板』に関する意味を持つことが分かります。主がイザヤに用意をさせた『ギリヨーン』とは、『木の板』だったのでしょうか?『石の板』だったのでしょうか?ほかの材料だったのでしょうか?このギリヨーンが何を指すのかについて、もう少し掘り下げて検討をしたいのです。何故なら、このギリヨーンの解釈と、後に続く『普通の文字で・・・書け』の解釈が密接に関係してくるからです。

現代は、ホームセンターに行けば、大きな金属板、大きな木の板などを、いつでも買うことができます。しかし、今から2,700年前に、ビバホームやカインズはありません。大きな金属板を手に入れることは容易なことではなかったはずです。金、銀、銅であれば、1,100度の加熱ができれば溶融できますが、鉄は1,600度必要です。技術的に金属板を作ることはできたでしょうが、時間、手間、燃料などが掛かる貴重品だったことでしょう。

同じように、木の板にしても、大きなものを用意するのは簡単ではなかったはずです。ソロモンは神殿、王宮建設で使った木材を、隣国ツロから調達したということですから、イスラエルには建築用の木材が、なかったということです。現代は、合板、集成材といった工業的に作られた板材があるので、大きな板を簡単に入手できます。イザヤの時代にはこうした工業製品はありません。木の板といえば、天然の一枚ものの板しかないのです。イスラエルの地で、大きな木の板が簡単に入手できたとは思えません。仮に、幹の太い大きな立ち木を見つけたとしても、切り倒したあと、すぐには加工できません。樹液を抜き乾燥させるのに最低でも1年は要します。含水率を15%程度まで下げておかないと、干割れを起こします。もしかしたら、大きな板材が、エルサレムの材木問屋にストックされていたかもしれません。あったとしても、王家の家具や建築材で使うような高価な贅沢品だったはずです。現代イスラエルでも、木材は貴重品として取引されています。

日本人が『板』という言葉を聞くと、どうしても木の板をイメージするのではないでしょうか。それは、日本には木材が豊かにあり、木の文化に親しんできたからです。『板』という文字自体既に『木ヘン』で表記されているのですから、『板』と聞けば木の板をイメージするのが当然だと思います。日本人には、こうした文化的背景があります。しかし、翻訳をする上で、自分には日本人としての先入観があるということに、気づく必要があります。難しいことばでは『母語干渉、自文化の干渉』と言われるものです。

たとえば、日本語では『水』と『お湯』を別のことばで区別します。『水』には『冷たい』という温度の概念が含まれています。ところが、英語の『water』には、水、お湯両方の意味があり、『water』には『冷たい』という温度の概念が含まれていません。日本人が『water=(冷たい)水』と誤った理解をする原因は、『母語干渉』が働くからです。外国語学習で肝に銘じておかなければならいのは『直訳できない』ということです。通訳者、翻訳者は原文解釈をする時『母語干渉、自文化の干渉』が起きていないか、常に自分自身をチェックしなければなりません。こうしたことは学校英語では教えません。直訳英語を教える学校にとって、都合が悪いからです。

『板』の話しに戻します。大きな金属板、若しくは大きな木の板にしても、高価な貴重品だったはずですから、そのような高価な材料は、入手できなかったことでしょう。また、神さまが、入手困難な金属の板や大きな木の板を用意させる、不合理なことをイザヤに命じたとも思えません。

1節のヘブライ語テキストでは、ギリヨーンということば以外に、材質を指し示すことばがありません。材質を指し示すことばがないということに注目すべきです。神さまがイザヤに『私のことばをギリヨーンに記せ』といえば、預言者は『あっ、いつものものだな』と理解できたので、わざわざ材質を指示していないのだと思います。

旧約聖書の中では、出エジプト記 24、31、34章に、十戒が石の板にしるされたことが記述されています。申命記27章には、イスラエル一族がヨルダン川を渡ったのち、神さまが命じられたことを大きな石に記しています。次に新約聖書の中では、コリント人への手紙第二3章に、石の板にではなく、人の心の板に書かれたもの・・・もし石に彫りつけた文字による死の務・・・と記述されてるように、新約時代に生きたパウロも、石、石の板が、みことばを記す代表的な材料だと認識していたことがうかがえます。ユダヤ人にとって、石の板はみことばを記す定番の材料です。


シロアムの石碑 JERUSALEM 101より引用
エルサレムの地下を流れるシロアム水道は、水下にあるシロアムの池に注ぐ。この暗渠(あんきょ)の壁面にフェニキア文字で6行の文言が記されていた。列王記第二20章20節と似た内容が記されている。1880年 C Schick氏が発見。実物はイスタンブール考古学博物館が所蔵。

イエスさまを象徴する譬えとして『隅の親石、躓きの石、神に選ばれた尊い生ける石』という表現がされています。また旧約聖書の中で『岩』は神の象徴として記述され、『石』は選民イスラエルや神のことばを象徴しているようです。マタイ4:3を見ると、断食を続け空腹だったイエスさまのところに、サタンがあらわれ『石をパンに変えてみたらどうか?』と勧めますが、イエスさまは『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と答えています。イエスさまは『武士は食わねど高楊枝!腹なんかちっとも空いてねえぜえ』と、やせ我慢をしたのでしょうか?違いますよね。

サタンが言った『パン、』に対し、イエスさまは『パン、神のことば』と対比させているところに注目してみます。この断食の場面は、イエスさまがこれからメシアとして公に活動を始める、出だしにあたるところです。サタンは『断食なんかやっても、腹がすくだけだろ。神に従う生き方なんて、もう辞めてしまいなよ。オレが面倒みてやってもいいんだぜ』と公生涯の出鼻をくじく大きな誘惑をしているように見えます。それが『石(神のことばに従う生き方)をパン(この世の生き方)に変える』ということばの意味で、単に『空腹を満たしなさい』といっているのではないように思います。イエスさまはユダヤ人として生まれ、ユダヤ文化を身に付け成長したのですから、このサタンとイエスさまのやり取りも、ユダヤ文化というフィルターを通して見ると、より立体的な解釈ができると思います。

ヘブライ語『eben エベン』は石という意味で、『ben ベン』は息子、子孫という意味です。発音が似ていますが、ヘブライ語では、韻をふんだ表現が好んで使われます。『石 エベン』ということばは、『神に選ばれた子孫 ベン』を象徴しています。物理学者アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)はユダヤ人の家系に生まれましたが、ドイツ語のアインシュタイン(Einstein)は『一つの石』という意味です。ユダヤ人にとって『石』は民族のアイデンティティーを象徴しています。

日本では、お墓参りのとき墓前に花をたむけることが一般的ですが、ユダヤ人のお墓では、花ではなく、小石を一つ置いて帰るのが慣わしです。石には『神に選ばれた子孫』という意味があるからです。次の動画は、エルサレム、オリーブ山のユダヤ人墓地の風景を映したものです。墓石の上に、小石が置いてあるのをご覧ください。

Cemetery on the Mount of Olives


ヘブライ語は右から左に書き進めますが、その理由は、左手に持ったノミを、右手のゲンノウで叩くと、自ずと右から左に手が進みます。このように、石の板に文字を彫り込む文化があったため、右から左に文字を表記するようになったのだろうといわれてます。また、フリーメイソンといわれる団体は、イスラエルの石工職人同盟がその起源であったといわれています。日本と違い、イスラエルには石が密接に関わった文化があったのです。日本人の感覚として、固い石の板に文字を彫り込むなんてものすごく大変な作業だろうなと思われるでしょうが、作業に慣れた人にとってはそうでもないようです。

次の動画は、ノミで墓石に文字を彫り込む作業を映したものです。ここでは芸術的ともいえるレタリング作業なので時間をかけ丁寧に彫り込んでいますが、預言者が文字を彫り込む場合、ここまで手間ひまをかけた仕事はしていないでしょう。墓石に刻まれた『ROSEMARY』という文字は、忘れない、記憶に残す、追悼するという意味になります。
Hand Carving Stone Lettering - DJB David J. Brown Stonemason


新改訳で『大きな板』と訳された箇所を検討してきました。ギリシャ語『tomon』、そして、ヘブライ語『gillayown』は『板に関係した意味を持つ』ことが分かりました。また、ヘブライ語、ギリシャ語それぞれの底本に『ノミ(で刻む)』ということばが使われているのですから、『本、巻物、羊皮紙』という解釈が間違いであったということです。ユダヤ教の預言者イザヤが、神さまのことばを記すため用意した『gillayown』とは・・・『石の板』です。