聖書と翻訳 ア・レ・コレト

聖書の誤訳について書きます。 ヘブライ語 ヘブル語 ギリシャ語 コイネー・ギリシャ語 翻訳 通訳 誤訳

(000)イザヤ書8章-8

2018年05月03日 | イザヤ書


この記事は、新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


~余計なお節介?~

私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。
申命記4章2節 新改訳

聖書の翻訳に限ったことではありませんが、原文テキストが意図していることと異なる、付けたし、削除、ねじ曲げなどを、通訳者や翻訳者はやってはいけないと思います。8章8節のインマヌエルについての解釈が、何通りかに分かれていることを紹介しましたが、様々な訳文を読んで、複雑な気持ちになりました。悪意があって解釈を曲げる翻訳者はいないとは思いますが、自分が持つ先入観に気が付かず、解釈を歪めてしまうということはあるでしょう。しかし、先入観を持ったまま原文解釈をするということは、悪意を持って解釈を曲げることと同じ結果をもたらすとも言えるでしょう。自分が持つ先入観に気付き、それを取り払うということも、翻訳者(通訳者)の大切な課題だと思います。

私は、イエス・キリストは、イザヤが預言したインマヌエルの神であると確信しています。しかし、だからといって旧約聖書で使われる全ての『インマヌエル God with us』を、イエス・キリストを示すように、創作をすることがよいとは思いません。翻訳に、こうした創作が加えられているとするなら、日本人は、日本語訳聖書に信頼を置けなくなります。それは、公正な翻訳作業に反することでしょうし、神さまも喜ばれないことだと思うのです。

仮に、イエス・キリスト誕生と、旧約のインマヌエル預言とを結びつける聖句が、たった1か所しかないとしても、それがみことばの成就を棄損することにはならないと考えます。むしろ、みことばに人間の知恵を加えてまでして、イエス・キリストとインマヌエルの結びつきを、こしらえることの方が、みことばを棄損する行為だと思うのです。神さまからしてみれば、余計なお節介になるのではないでしょうか?8章8節のインマヌエルは、複雑な気持ちを抱きながらではありますが、冷静に解釈をしてみました。キリストの受肉を否定するような思想があって、こうした解釈をしたのではありません。

トロント大学、聖書学のRaymond C. Van Leeuwen博士は『We Really Do Need Another Bible Translation』という記事で、文法解釈、言語学といった翻訳の基本的ルールを無視した聖書翻訳が増えていることを懸念しています。主語を入れ替え、意味を変えて翻訳することはもってのほかです。新改訳の翻訳者には、博士のレポートをよく読んでいただきたいものです。

新改訳の翻訳に関わった方が書いたのでしょうが、『翻訳としての『新改訳聖書』の立場』という記事の中で、このVan Leeuwen(ヴァン・ルーエン)博士のレポートを引用して、聖書の翻訳は直訳であるべきだと言っていますが、それは、レポートの曲解です。博士は聖書の翻訳は直訳であるべきだといった、単純な主張はしていません。一般信徒が読んでも理解できる聖書、日曜学校で使われるのに相応しい聖書があるべきだと配慮しつつも、聖書学を研究するような専門家(We)が必要とする聖書も別にあるべきだ。それぞれに違う翻訳手法があってもいいのではないかと言っているのです。研究者が使うように翻訳された聖書を、一般信徒も使うべきだなどとは言っていません。翻訳理論というものは未だ不完全なもので、どの理論にも長所短所があるとも言っています。直訳が優れた翻訳手法だということは言っていません。引用の仕方が不誠実です。

専門知識のない一般信徒や、ノンクリスチャンが読む聖書翻訳のあり方についてお話しさせていただきます。イザヤ書8章1節から新改訳の訳文を検討させていただきました。厳しい言い方になりますが、訳文が日本語として未熟であるため、読者にとって、意味が通らないものになっているということが見られます。先ずは、この辺りの問題から解消していかなくてはなりません。ヴァン・ルーエン博士は、訳文が未熟なものでいいとか、意味が通らない訳文でも良いのだということは言っていません。これは翻訳理論以前の問題です。翻訳論をかざす前に、訳文として最低限の品質を持たせること、日本語としての表現方法に気を使うべきです。日本語として意味の通らない訳文を作るようなレベルでは、いくら翻訳論を論じても無駄ではありませんか?

そもそも日本で議論される『直訳か意訳か』と言った内容と『word-for-word or thought-for-thought』の内容とは、似て非なるものです。博士は、thought-for-thoughtを翻訳スタイルとするNew Living Translationという聖書の翻訳に携わった経験がおありですが、そのことからも、単なるword-for-word至上主義者ではないことが分かるはずです。Van Leeuwen博士が述べていることを、自分に都合がいいように歪めて引用しているので、憤りすら感じます。博士のレポートが英語で書かれていて、多くの日本人がそれを読まないのをいいことに、そのレポートの趣旨を歪めて引用するというやり方は、汚いというほかありません。

レストランの食品偽装、原発による汚染、政治と、問題はあとを絶ちませんが『主を恐れることは知識の初めである』箴言1章7節 新改訳 このみことばを土台にしていなければ、企業も学問も政治も、真の問題解決から遠く離れていると思います。『みことば偽装事件』などということがないよう心して翻訳していただきたいものです。翻訳者に、主を恐れる気持ちがあれば、手を加え、主語を入れ替えて訳出するといったことはできないと思います。


~7,8節の私訳~

word-for-word

7)よく聞け。主は、ユーフラテス河に洪水を起こさせる。無敵と呼ばれる誇り高いアッシリヤの軍隊を。兵士らは、帝国内の川を渡り、川岸をのぼり現れる。 8)川の水かさが増し、あふれだし、ユダの領土は押し流され、頭を残し、全身が水に沈む※1。アッシリヤ軍はその翼を広げ、ユダの地を覆いつくす※2。神が共にいるといわれた※3、この土地を』

脚注
※1 ユダ族の全土が破壊されても、かろうじて首都エルサレムだけは残るという意味。
※2 翼はアッシリア王家の紋章を象徴する。アッシリア軍が、ユダ族の全領土を制圧するという意味。イザヤ書36章参照。
※3 ヘブライ語でインマヌエル。『神われらと共に』という意味。選民イスラエル、救い主降誕、を意味することもある。


thought-for-thought

7)よく聞け。主は、ユーフラテス河に洪水を起こさせる。無敵と呼ばれる誇り高いアッシリヤの軍隊を。兵士たちは、帝国内の川を渡り、川岸をのぼり現れる。 8)川の水かさが増し、あふれだすように、国境を越えユダの領土に攻めはいり、首都エルサレムをのぞき、ユダの全土を制圧する。神が共にいるといわれた※1、この土地を』

脚注
※1 ヘブライ語でインマヌエル。『神われらと共に』という意味。選民イスラエル、救い主降誕、を意味することもある。
















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