聖書と翻訳 ア・レ・コレト

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(000)ルカによる福音書16章-5

2018年05月18日 | ルカによる福音書

μαμμονασ マモナース 偶像神マモン


この記事は、ルカによる福音書16章8~9節『不正な管理人』の翻訳の仕方について記述します。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。



~アイロニー表現と二重構造~

1~7節は原文解釈にさほど難しいところはないと思います。ところが、新改訳では8節から読んでも意味が分からない訳文になります。それは、原文の輪郭を把握せず、ギリシャ語の単語をただ直訳しているからです。

8節以降の解釈をする前に、アイロニー表現の仕組みと翻訳の仕方を確認させていただきます。ギリシャ語原文を見ると、字義通り解釈できる表(おもて)の意味と、秘められた裏の意味とがあります。表の意味というのは、律法学者たちが理解した内容で、イエスさまが語ったことば通りの解釈になります。一方、ウラの意味というのは、弟子たちに伝えたかったイエスさまの真意になります。ユダヤ人のようなアイロニー表現を理解できる文化を持っていないと、ウラの解釈はかなり難しいと思います。

『不正な管理人』がどのようなお話しなのか、それを知る重要な手がかりが14節にあります。
14)さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。

ルカは『このお話しは、お金に関する内容ですよ。笑えるお話しですよ。パリサイ人はそのように理解しましたよ』というヒントを与えています。これは輪郭を把握する上で、重要な情報です。つまり、表(おもて)のストーリーは、笑えるお金のお話しだということです。一方ウラの解釈、イエスさまの真意は、律法学者たちへの痛烈な批判です。しかし、律法学者たちはウラの意味までは理解していなかったということになります。

『不正な管理人』は表と裏の二重構造になっています。ユダヤ人のようにアイロニー表現を理解できる文化を持っていれば、一つのテキストから表の解釈とウラの解釈、両方の解釈が可能です。




日本人にはユダヤ人の強烈なアイロニー表現を理解する文化がありません。日本語に訳出する場合、表の訳文を作るのかウラの訳文を作るのかで、原文解釈の仕方が違ってきます。どっちで訳すか決めて取り掛からなければなりません。新改訳が意味不明な訳文になったのは、原文の構造を理解せずただ直訳したからです。



14節に『金の好きなパリサイ人たちがあざ笑った』というくだりがあるので、表の解釈で訳出せざるを得ません。もし、ウラの解釈で訳出すると『パリサイ人たちが、あざ笑った』というくだりとつじつまが合わなくなります。

プロの翻訳者であれば、原文の構造を把握できたはずです。また、アイロニー表現の訳出の仕方も分かっていたはずですが、新改訳の翻訳委員会にはプロの翻訳者がいなかったのでしょう。新改訳は、理論武装をし立派な肩書を持つ学者で脇を固めていますが、翻訳の良し悪しというのは訳文の品質で評価されます。翻訳の仕事で一番大切にしなければならないのは訳文の品質です。優先順位からすると、翻訳理念や学者の肩書というのは、二の次三の次になります。訳文の品質から目を背け、翻訳理論やメンバーの肩書ばかりを吹聴するようでは本末転倒です。読んで意味が分からない訳文、小学生以下の文体、この程度の翻訳者にお金を払う必要はないでしょう。


『ヘボ将棋、王より飛車を可愛がる』




~ルカによる福音書16章8~9節~

ルカによる福音書16章8~9節 新改訳

8)この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
9)そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正ので、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。


8~9節で検討すべき箇所が4つあります。

・この世の子ら
・光の子ら
・わたしはあなたがたに言います
・富



~この世の子ら~

『この世の子ら』と訳されたのは、ギリシャ語の『フイオイ トウ アイオーノス トウトウ』です。
υιοί του αιώνος τούτου
フイオイ トウ アイオーノス トウトウ
世俗の人間、地上の人間

ηυιοσ(5207) huios フイオース(フイオイ)
息子、子孫、末裔(まつえい)、人間

ルカ20章でも同じフレーズが使われています。
新改訳 ルカ20:34
・・・「この世の子らは、めとったり、とついだりするが

ここは、次のように訳出しないと日本人読者に理解できません。
私訳 
・・・「地上の人間は、めとったり、とついだりするが

新改訳は16章も20章も『この世の子ら』と直訳していますが、ギリシャ語『フイオース』は『子ども』を意味しているのではありません。『フイオース』は『息子、子孫、末裔(まつえい)、人間・・・』という意味があり、文脈に合わせて訳語を選択しなければならないのです。ここでは『地上の人間、世俗の人間』という意味で使われています。現代訳では『この世の人たち』、リビング・バイブルでは『この世の人々』と考慮された訳になっていました。

16章8節で『この世の子ら』と『光の子ら』という表現が出てきますが、これは『不信仰な世俗の輩(やから)イエスたち』と『清廉潔白な律法学者たち』を対比しています。律法学者たちのひねくれた見方を引用した、アイロニー表現です。



~光の子ら~

『光の子ら』と訳されたのは、ギリシャ語の『フイオース トウ フォートス』です。

υιούς του φωτός
フイオース トウ フォートス
神のしもべ、神の子とされた人

πηοσ(5457) phos フォース(フォートス)
光、神の栄光、普遍性、聖なるきよさ、ともしび

『光の子ら』と直訳したのでは、日本人には意味が分かりません。現代訳では『信者たち』、リビング・バイブルでは『神を信じる者たち』と日本人が理解できることばに訳出しています。訳文の品質はこうしたところに表れます。この様な配慮ができないとすれば、プロとして翻訳をする資格はありません。

8節の文脈に当てはめると、表の意味は、神に従う者、この文脈では律法学者たちになります。ウラの意味は、偽善の律法学者たちということです。



~わたしはあなたがたに言います~

福音書の中で『私はあなたがたに言います』という表現がしょっちゅう出てきますが、日本語ネイティブの会話でそんな言い方はしませんよね。記憶をたどってみても、生まれてからこのかた、家庭での会話、友人との会話、職場での会話で『私はあなたがたに言います』と、自分が言ったことがなければ、誰かが言ったのを聞いたこともありません。

マタイ 5:44 弟子と群衆への語りかけ 山上の垂訓
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

マタイ 12:31 律法学者たちへの反論 ベルゼブル論争
だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし・・・

新改訳ではマタイ5章も12章も『わたしはあなたがたに言います』と全く同じことば遣いにしています。不自然に感じないでしょうか?同じ表現では、感情を持たないロボットが語っているような印象を受けるのですが、イエス・キリストという人物は、ロボットのように感情を持たなかったのでしょうか?山の中腹に腰かけ群衆に語った時の語り口と、律法学者に反論する時の語り口では、それぞれ違っていただろうと解釈するのは常識です。

聖書の中に『イエスは笑った』という表現はありませんが、イエスさまはニヒルな方で笑うことをしなかったのでしょうか?そうではないと思います。対人関係において、微笑んだり、愉快に笑うことができない人物だとしたら、他人に自己開示できない人物、つまり他者と信頼関係を築くことができない人物だったということになります。他人に対し笑うことができないというのは、心のどこかに深い傷を負っていることの表れだと思います。感情のコントロールができず、感情の起伏が激し過ぎるというのも問題ですが、人前で笑うことができない人物だとしたら心に大きな問題を抱えていたといえます。

イエスさまは『傷のない子羊』として十字架に架かってくださったのですから、情緒面も健全に発達しており、喜怒哀楽を適切に表現していたはずです。もし、感情を適切に表現できない人物であったとしたら『心に傷を持つ子羊=供え物不適合』となるので、十字架に架かり罪をあがなうことはできなかったはずです。また、笑うことができないロボットのような人物のもとに、庶民は集まってこなかったと思います。新改訳を読むとイエスさまがロボットのように無表情であったという印象を受けますが、『傷のない子羊』イエスさまは笑うこともできるお方で、ロボットの様に無表情であったとは考えられません。神学上もイエスさまは100%人間で、かつ100%神であったといいますよね。



新改訳の訳文は全体的に無機質で、人の暖かさ、冷酷さなど感情のひだを消し去った訳文にしています。直訳をすることによって、原文の意味やニュアンスを殺し、無機質な日本語にしているのです。原文が語ってないことを、ドラマチックに飾りたてる必要はありませんが、原文解釈をすれば読み取れるはずの心理描写というものもあります。それを読み取る力量がないとすれば、原文に忠実な翻訳はできないですよね。直訳のどこが原文に忠実な翻訳なのか、全く理解できません。

弟子の中には漁師を生業(なりわい)としていた人もいます。イエスさまの周りには社会の底辺で生きる人や女性たちがいました。そうした人たちに向かって『私はあなたがたに言います』と冷たい口調で語ったのでしょうか?違うと思います。イエスさまは、聖書を学んだことがない人にも分かるよう配慮をして語っていたはずです。だからこそ、イエスさまを慕い庶民が集まって来たのではないでしょうか?こころに傷を負って生きてきた人たちというのは、自分を見下す人、見下したことばにとても敏感です。イエスさまが『私はあなたがたに言います』と冷やかな口調で言ったとしたら、こうした人は集まってこなかったと思います。直訳をするから原文と違う意味になるのです。どのような言語の翻訳、通訳でも言えることですが、プロがする仕事として直訳というのは絶対にあり得ない翻訳のやり方です。

話しが逸れてしまいましたが、『わたしはあなたがたに言います』と訳されたのは、『υμίν λέγω フミン レゴー』『λέγω υμίν レゴー フミン』というギリシャ語で、『これから大切なことを言いますよ』『よく注意をして聞きなさい』『結論を言いますよ』『話しの内容が変わりますよ』と、これから言うことを強調する時に使うことばです。

新改訳 16章9節
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。

次のように訳出しないと、日本語になりません。

私訳  16章9節
いいですか、不正の富を使い友をつくること、これが大切です。

文脈によって訳語は変わりますが、こういう訳出になるはずです。



~富~

9、11、13節で『富』ということばが出てきますが、これはギリシャ語の『マモナース』ということばです。マモナースを『富』と訳出するのは間違いです。

μαμμονασ(3126) mammonas マモナース
金銭を支配する偶像神マモン

偶像神マモンが、いつどこで生まれたのか明らかではありませんが、マモンが金銭を象徴する偶像神だということは当時の共通認識だったようです。マモーナスということばは、新約聖書で4回しか使われないのですが、そのうち3回が『不正な管理人』で使われています。ルカ16章9、11、13節で使われ、残りの1回はマタイ6:24です。

マタイ6:24 新改訳
だれも、ふたりの主人に仕えることはできません・・・あなたがたは神にも仕え、また富(マモナース)にも仕えるということはできません。

ルカ16章 新改訳 3箇所
9)・・・不正の富(マモナース)で、自分のために友をつくりなさい。・・・
11)ですから、あなたがたが不正の富(マモナース)に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富(富ということばは原文にない。真実)を任せるでしょう。
13)しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません・・・あなたがたは、神(セオス)にも仕え、また富(マモナース)にも仕えるということはできません。」

マモナースを解釈するヒントは13節にあります。13節の中に『セオス(イスラエルの神)』『マモナース(偶像神マモン)』ということばが対比されています。

θεός(2316) theos セオス
神、イスラエルの神

また、ギリシャ語で『富』を意味する一般的なことばは『プルートス』になります。
πλουτοσ(4149) ploutos プルートス
富、財

ルカ8:14 新改訳
・・・この世の心づかいや、富(プルートス)や、快楽によってふさがれて・・・

ルカ福音書の中を見ると『マモナース』と『プルートス』両方のことばが使われており、ルカは『マモナース 偶像神マモン』と『プルートス 富、財産』と、二つのことばをきちんと使い分けているのです。

もし、16章で『富』という意味を示したかったのであれば『プルートス』が使われていたはずです。ルカが『マモナース』を使った理由は、『偶像神マモン』という意味を表したかったからです。マモナースを『富』と異訳することは間違いです。従って、13節は『ふたりの神に仕えることはできないぞ。イスラエルの神か、偶像神マモンか、どっちなんだ』という内容になります。9、11、13節の『マモナース』は『偶像神マモン』という意味であって、『富』という意味で使われていません。

もし『トランスペアレント訳』にするのであれば、『マモナース』と『プルートス』は別の訳語になるはずですが、新改訳は『マモナース』も『プルートス』も『富』ということばでくくっています。このように、新改訳の翻訳者はやってることがアベコベです。


~富は2回、マモナースは1回?~

新改訳の9節訳文を見ると、『』ということばが2回出てきます。ところが、ギリシャ語テキストでは『マモナース』が1回しか使われていません。もし直訳で訳すのであれば、ギリシャ語テキストで『マモナース』が1回しか使われていないのですから、訳文も『富』が1回だけになるのではないのでしょうか?新改訳は翻訳理念の中で『ヘブル語及びギリシャ語本文への安易な修正を避ける』と言っていますが、9節の訳文は原文に安易な修正を加えています。11節もこれとまったく同じです。

ルカ16:9 新改訳 富×2回
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正ので、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

ルカ16:11 新改訳 富×2回
ですから、あなたがたが不正のに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことのを任せるでしょう。




組織で翻訳するということは、チェック体制があるということだと思うのですが、それが機能していなかったことが露呈されています。原文に『マモナース』が1回しか使われていないのに、訳文で『富』を2回使うというのは目立つので、どうしてこのような訳文を作ったのか指摘を受けるはずです。そうであれば9、11節の訳し方がおかしいとチェックをする者が気が付かなくてはなりません。チェック体制があったにも関わらず誤訳が通ってしまったとしたら、仕事に対する誠実さがないのか、能力がないのかのどちらかでしょう。

『聖書翻訳は委員会訳が良い。個人訳は不正確だ』と言われてきましたが、実際に訳文を検討してみるとその逆で、委員会訳に多くの間違いが含まれていること、個人訳でも品質の高い訳文になっているということがお分かりになるでしょう。『組織で翻訳するから正しい翻訳ができる。個人訳は不正確だ』というのは、根拠のない誤った先入観です。豊洲市場の盛土問題に見られるように、係長、課長、部長のハンコが押されていながら『どうして盛土がなくなったのか分かりません。誰が原因なのか分かりません』という結論です。組織による行動は往々にして無責任な結果を招くということを、わきまえておくべきでしょう。

新改訳は『直訳が良い。トランスペアレント訳が良い。これが原文に忠実な翻訳方法だ。原文に安易な修正を加えてはいけない』と言っていますが、ふたを開けてみると、言ってることとやってることが違う。デタラメだということです。新改訳は翻訳の『手抜き』を正当化したいがため、後付けで『直訳が良い。トランスペアレント訳が良い。ぎこちない日本語が良い』と言ってるに過ぎません。理念と実際の訳文に整合性がないということが、お分かりいただけたでしょうか。


~16章8~9節 解釈文~

以上を踏まえ解釈文を作ります。原文放棄をしていないのでまだ訳文ではありません。

8)神を敬う信仰者より、世俗に生きる人の方が一枚上手(うわて)なのです。ところで、このイカサマ会計士を讃えたのは、何とあのあるじだったというのです。
9)いいですか、お金の偶像マモンさまのイカサマ術を使い仲間をつくること、ここが大切なところです。一文無しになった日には、この仲間がうやうやしくあなたを出迎え、とこしえにその家に住まわせてくれるでしょう。







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