אָרַב アラーブ 待ち伏せする
この記事の目次
・箴言1:15~19全体
・箴言1:15
・箴言1:16
・箴言1:17
・箴言1:18
・箴言1:19
・原文の意図を翻訳する
~箴言1:15~19全体~
新改訳を例にあげ訳文の検討をしてゆきます。口語訳、新共同訳を取り上げてもいいのですが、うちの教会で指定されているのが新改訳で、長年新改訳に親しんできたということもあり、敬意を表し新改訳を取り上げさせていただきます。次の、新改訳と私訳を読み、どこが違うかご確認ください。
箴言1:15~19 新改訳
15 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。
16 彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。
19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。
新改訳は、文脈が支離滅裂。意味不明な日本語になっています。直訳で翻訳するから意味不明になり、かつ原文とは異なる意味になるのです。聖書は難解な読み物だという人がいますが、そうではありません。ヘブライ語を見ると、きちんと意味が理解できました。次の私訳がヘブライ語が語る意味です。聖書が難解なのは、翻訳がヘタクソだからです。
箴言1:15~19 私訳
15 いいですか、悪人の悪だくみに手を貸すな。何があっても関わるな。
16 悪事に染まった連中は、巧妙な手口で人を殺す。
17 しかし、悪知恵はいずれ通用しなくなる。主が天から見ておられる。
18 命を狙って待ち伏せしても、反対に、命を落とすことになる。
19 このように、貪欲な乱暴者は死に至る。必ず、滅びることになる。
~箴言1:15~
בְּנִ֗י אַל־תֵּלֵ֣ךְ בְּדֶ֣רֶךְ אִתָּ֑ם מְנַ֥ע רַ֝גְלְךָ֗ מִנְּתִיבָתָֽם׃
ベニー アルテレック ベデレック イッターム メナ ラグレハー ミネティバターム
בְּנִ֗י ベーヌ ben(1121) 息子、子孫、末裔
אַל־ アラ al(408) no 否定詞
תֵּלֵ֣ךְ ハラーク halak(1980) 歩く、行く、旅立つ、従う、おこなう
בְּדֶ֣רֶךְ デレック derek(1870) 方法、道、旅、距離
אִתָּ֑ם イート eth(854) 面して、接近して、一緒になって
מְנַ֥ע マナ mana(4513) 維持する、保持する、立ち入らない
רַ֝גְלְךָ֗ レゲル regel(7272) 足
מִנְּתִיבָתָֽם׃ ナティーブ nathiyb(5410) 道、旅路、人生、方法
15節前半、ベニー アルテレック ベデレック イッタームは、『息子よ、いいかい。悪人の仲間に入り、悪事に手を染めてはいけないぞ』という意味です。出だしのことば、ベニーは『息子よ、聞きなさい』と、慈しみを込めた呼びかけです。同時に、ここが話しの始まりであることをも示します。70人訳では、この箇所は省略され、独立したギリシャ語として翻訳されていません。ハイコンテクストとして処理されているということで、これも一つの訳出方法です。
新改訳は『わが子よ』と直訳していますが、まあ、これでも構わないでしょう。気になるのは『わが子よ』という出だしにすると『わが子よ~するなかれ』という古典的な言い方になるのかなと感じます。ここで『わが子よ』と、わざわざ古めかしい文言をあてがう必要性はないと私は思います。また、舌っ足らずで、中途半端な言い方に聞こえます。仮に『わが子よ、聞きなさい』としても、現代の日本人が使う言い回しではないので、しっくりした訳出だとは思いません。また『わが子よ』は、親が権威を笠に着たような言い方で、子どもを見下している感じを受けます。原文の、慈しみを込めた呼びかけというニュアンスが再現されていません。
『ベニー』は、慈しみを込めた呼びかけで、かつ、話しの出だしとして働いています。現代の日本人が、同じような場面で使うとしたら『いいですか』と言うと思います。私訳は『いいですか』と訳出しました。これは、原語が持つ『ことばの機能』に着目し、それと等価な働きを持つ目的言語に翻訳するというやり方です。アメリカの言語学者ユージン・ナイダ(Eugene A. Nida)が提唱した翻訳手法で、functional equivalence 機能翻訳法とか等価翻訳法と呼ばれるものです。
15節原文に『悪人』ということばはありませんが、イッターム(一緒に)ということばが、三人称複数形になっています。これは、with them 『彼らと一緒に』という意味で、『彼ら』というのは、さかのぼって10節の『chatta ハッター 悪人、ならず者(複数形)』を指しています。アルテレック ベデレック イッタームは、『悪人の仲間に入り悪事をおこなうな』という意味になります。
話は逸れますが、日本語訳聖書を見るとやたら『罪人』ということばがでてきます。本当に全部『罪人』と訳出して良いのか疑問に感じています。英訳を見ると、ハッタ―を、men, offenders, sinful, sinners, who have sinned(人間、法令違反者、犯罪者、ワル、悪党、前科者)と、文脈に合わせ様々な訳語を当てています。日本語でも同じく、文脈に合わせ訳語が変わるはずです。新改訳のように直訳で翻訳すると、何でもかんでも『罪人』で翻訳します。これは素人仕事で、全く愚かなことです。
次に、新改訳は『彼らといっしょに・・・』と直訳しました。新改訳は、人称代名詞、私、あなた、彼、彼女を頻繁に使いますが、日本人は基本的に人称代名詞を使いません。日本語の訳文で人称代名詞を使うと、不快な日本語になります。日本語訳聖書を見ると、神さまに対し『あなたは・・・』と呼びかけているか所がありますが、日本人が目上の人に対し『あなたは』と言うと、馴れ馴れしく、侮辱的な意味を含みます。こどもが親に向かって『あなたは・・・』というと大変なことになりますよね。新改訳は人称代名詞を多用しますが、不快な日本語で、ネイティブが使う日本語ではありません。プロとして翻訳の仕事をするのであれば、基本的に、人称代名詞は使わない。こうした配慮ができないようではダメです。
また、新改訳は『彼らといっしょに道を歩いてはならない』と直訳しています。『道を歩く』は、どことなく詩的な表現ですが、原文は詩的な表現をしている訳ではありません。ことばの使用頻度を見ると分かります。
アラ al(408) no 否定詞 725回
ハラーク halak(1980) 行く 1,549回
デレック derek(1870) 道 706回
イート eth(854) 一緒に 809回
それぞれ使用頻度が高いことばなので、日常語であることが分かります。日本語も日常語で訳出すればよいのです。従って、アルテレック ベデレック イッタームは、『悪人の悪だくみに手を貸すな』という私訳になりました。
15節後半、メナ ラグレハー ミネティバタームは、前半の文と同じ内容を繰り返し、『意味を強調する構文』になっています。『絶対~してはいけないぞ』という意味です。15節最後で、ミネティバターム(道)が使われたのは、直近でデレック(道)が使われたので、忌避の規則によって、ことばを言い換えているのだと思われます。こうして、次のように訳出しました。
箴言1:15 私訳
15 いいですか、悪人の悪だくみに手を貸すな。何があっても関わるな。
箴言1:15 新改訳
15 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。
新改訳のように、直訳すると意味が曖昧な訳文になります。翻訳者は、原文が意図しているもの、何が言いたいのかを理解することが重要です。ヘブライ語は日本語とは全く異なる言語構造を持っているので、直訳しても、原文と同じ意味の訳文にはなりません。
~箴言1:16~
כִּ֣י רַ֭גְלֵיהֶם לָרַ֣ע יָר֑וּצוּ וִֽ֝ימַהֲר֗וּ לִשְׁפָּךְ־דָּֽם׃
キー ラグレヘム ララ ヤルース ビーマハルー リシュポク ダーム
כִּ֣י キー ki(3588) ~だから、理由は、~とき、~だが
רַ֭גְלֵיהֶם レゲール regel(7272) 足、歩み、仲間になること
לָרַ֣ע ラー ra'(7451) 悪いこと、災い、災難
יָר֑וּצוּ ルーツ ruts(7323) 走る、見張る、使者
וִֽ֝ימַהֲר֗וּ マーハ―ル mahar(4116)急いで~する、手際よく~する、慌てて~する
לִשְׁפָּךְ־ シャーファーク shaphak(8210) (血や水が)流される、(感情が)湧き上がる
דָּֽם׃ ダーム dam(1818) 血液、血
16節前半、キー ラグレヘム ララ ヤルースは、『連中は、悪事ばっかりおこなっている』という意味です。新改訳は『彼らの足は悪に走り』と直訳していますが、これは誤訳です。ヘブライ語には『足、歩く』を使った言い回しがよくありますが、これは『(やましいことを)おこなう』という意味で使われています。ヤルース(ルーツ)は『走る』という意味のほか、『何かを活発におこなう』という意味もあります。『悪人は、悪いことが大好きで、悪い事ばっかりおこなっている』という意味です。ラグレヘムは、レゲール(足)が3人称複数形なので『彼らの足⇒連中はいつも(やましいこと)をやっている』という意味になっています。
16節後半、ビーマハルー リシュポク ダームは、『巧妙に人を殺す』という意味です。新改訳は『血を流そうと急いでいる』と直訳しただけです。ビーマハルー(マーハ―ル)は『急ぐ』という意味のほか『テキパキとこなす、巧みにこなす』という意味もあります。この文脈では『人殺しにたけている、巧妙に人を殺す』という意味です。ルーツとマーハ―ル共に『慣れている』という意味があります。忌避の規則によって、違うことばで言い換えています。
リシュポク ダームを、新改訳は『血を流す』と直訳していますが、これは『人を殺す』という意味です。日本語訳聖書を読むと『血を流す』ということばがよく出てきますが、読んで違和感を感じます。日本人が『血を流す罪』ということばを聞いた場合、三つの解釈ができます。一つは、人殺しという意味。二つ目は、暴力により他人に怪我を負わせた罪。三つめは、怪我や病気で、体から出血した状態が、宗教上不浄とみなされる罪です。ヘブライ語の単語を直訳しただけでは、日本人に通じません。文脈に合わせ、日本人が理解できることばで訳出しなければなりません。こうして、次のように訳出しました。
箴言1:16 私訳
16 悪事に染まった連中は、巧妙な手口で人を殺す。
箴言1:16 新改訳
16 彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。
新改訳は直訳していますが、これをご覧いただければ『直訳は誤訳』だということが、よく分かるのではないでしょうか。
~箴言1:17~
כִּֽי־חִ֭נָּם מְזֹרָ֣ה הָרָ֑שֶׁת בְּ֝עֵינֵ֗י כָל־בַּ֥עַל כָּנָֽף׃
キヒナム メゾラー ハラーシェット ベエネ コル バーアル カナップ
כִּֽי־ キー ki(3588) ~だから、理由は、もし~しても、~だが
חִ֭נָּם ヒナーム chinnam(2600) 無駄、~しない、自由に
מְזֹרָ֣ה ザーラー zarah(2219) 広げる、散り散りになる、風に飛ばされる
הָרָ֑שֶׁת レシェット resheth(7568) 網
בְּ֝עֵינֵ֗י アイン ayin(5869) 目、外見、目の前、目に見えるもの、視野
כָל־ コール kol(3605) すべて、全部、完全、いつも
בַּ֥עַל バハル baal(1167) 主人、男、世帯主
כָּנָֽף׃ カナーフ kanaph(3671) 翼、角、端部、折り目、スカート
17~19節が意味上まとまっているので、原文解釈をする時は、17~19節のつながりに注意して解釈をします。17,18節の比喩を字義通り、オモテで解釈をするのか、意味に重点を置きウラの解釈をするのかの検討が必要になります。17~19節、私訳と新改訳を、読み比べてみてください。
私訳 ウラの解釈
17 しかし、悪知恵はいずれ通用しなくなる。主が天から見ておられる。
18 命を狙って待ち伏せしても、反対に、命を落とすことになる。
19 このように、貪欲な乱暴者は死に至る。必ず、滅びることになる。
新改訳 オモテの解釈
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。
19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。
新改訳の訳文は、おかしな日本語になっているので、単純に比較はできませんが、この場合ウラの解釈をした方が、読みやすい訳文になることがお分かりになると思います。比喩や修辞表現を訳出する場合、文字通り訳出するか、意味を汲んで訳出するか、翻訳者は選択を迫られます。これはケースバイケースの判断になりますが、どちらが読みやすいかが判断基準になります。新改訳は直訳主義なので、こうした検討はしていません。以下、17節の解釈をします。
17節前半、キヒナム メゾラー ハラーシェットを、字義通り解釈すると『網を仕掛けても意味がない』という意味です。悪人の悪知恵を、次のように表現しています。
16節、ビーマハルー リシュポク ダーム『巧妙な手口で人を殺す(悪知恵)』
17節、メゾラー ハラーシェット『網を仕掛ける(悪知恵)』
18節、アラーブ『待ち伏せする(悪知恵)』
悪人の悪知恵を、ことばを変えながら展開していますが、これは、ヘブライ語の特徴的な表現方法です。16~18節は、きちんと文脈が通っているのですから、訳文も、文脈が理解できるものでなければなりません。新改訳の様に、一つひとつの単語を直訳してゆくと、支離滅裂な文脈になり、読んでも意味が分からなくなります。
17節後半の解釈に混乱が見られます。ベエネ コル バーアル カナップは、『翼を持った全能のお方が見ておられる』という意味です。70人訳(ギリシャ語)を見ると『πτερωτοίς』という訳語が使われていて『翼』に関連した意味があるのですが、意味がはっきりと解明されていません。ギリシャ語を見ると、翼、鳥といった、単純な解釈はできないということが分かります。
コルは『全ての』という意味のほか『まったき、完全な』という意味もあります。続く、バーアルは『主人、所有者』という意味でここでは単数になっているので、コル・バーアルは『全ての主人たち』ではなく『全能なる主人』=『神』という意味を婉曲的に表現しているのです。
新改訳は『鳥が
みな(コル)見ている・・・』と訳しましたが、文法的に見てもデタラメです。ヘブライ語は『כָל־בַּ֥עַל コル・バーアル』となっています。コルとバーアルが、マッケフ(連結記号)で、一体になっているので、コル(全き)はバーアル(主人)を修飾していると解釈しなければなりません。
バーアルはそもそも動物を意味することばではありません。成人、世帯主、一人前の男性・・・を意味することばです。旧約聖書の中で、『バーアル』が、鳥や動物を意味することばとして使われている箇所は、どこにもありません。
新改訳は『ベエネ(見る) コル(全て)』という切り取り方をしたため、『みな見てる』と誤訳したのです。ベエネ コル・バーアル カナップは、『翼を持った全能のお方が見ておられる⇒天におられる主が見ている』という意味になります。文法的に、何も難しいところはありません。こういう簡単な箇所が翻訳できないのですから、素人翻訳者だといわれても仕方ないですよね。これが大学で教えるヘブライ語教育のレベル、神学者の中から選ばれし翻訳者のレベルだということです。
『天におられる主が見ている』は繰り返し語られる、箴言の重要なテーマで、5章、15章に同じ意味のことばが現れます。
箴言5:21
21 人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。
箴言15:3
3 主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。
以下、字義通りのオモテの訳文と、意味を汲み取ったウラの訳文を作ったので、ご覧ください。
箴言1:17 私訳 オモテの解釈
17 罠を仕掛けても意味がない。翼を持ったお方が見てるから。
箴言1:17 私訳 ウラの解釈
17 しかし、悪知恵はいずれ通用しなくなる。主が天から見ておられる。
箴言1:17 新改訳
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
実は17節は、とても重要な箇所です。1:15~19の主題が『主は悪人に報いを与える』ということなんですが、『神』について表現しているのは17節しかないのです。コル バーアル カナップを、『鳥』と訳出すると『主が悪人に報いを与える』というテーマを読者は理解できなくなります。箴言という書物は、宗教とは無関係の『処世術』を書いたものではありません。『1:7 主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ』とあるように、主を恐れることを教えているのです。残念ながら、新改訳17節の訳文に『主を恐れなさい』というメッセージはありません。
~箴言1:18~
וְ֭הֵם לְדָמָ֣ם יֶאֱרֹ֑בוּ יִ֝צְפְּנ֗וּ לְנַפְשֹׁתָֽם׃
ベヘーム レダマム イェエローブ イツペヌー レナプショタン
וְ֭הֵם ヒーム hem(1992) they, these, those, like
לְדָמָ֣ם ダーム dam(1818) 血液、血
יֶאֱרֹ֑בוּ アラーブ arab(693) 待ち伏せする、身を隠す
יִ֝צְפְּנ֗וּ ツァファン tsaphan(6845) 隠す、隠れる、しまう、蔵に収める
לְנַפְשֹׁתָֽם׃ ネフェシュ nephesh(5315) 命、魂、人間、心、命を宿すもの
17節同様、18節も比喩として書かれています。字義通りの解釈をすると、前半、ベヘーム レダマム イェエローブは『悪人は人を襲おうと待ち伏せするが、反対に自分が襲われることになる』という意味です。後半、イツペヌー レナプショタンは『悪人は人を殺そうと待ち構えるが、反対に自分が殺される』という意味です。18節を字義通り解釈すると次の訳文になります。
私訳 オモテの解釈
18 悪人は人を襲おうと待ち伏せするが、反対に自分が襲われることになる。人を殺そうと待ち構えても、反対に自分が殺されることになる。
これは、『悪人がたくらんだ悪だくみは、そのまま自分の身に降りかかる。どんな悪だくみを考えても無駄。神さまは悪人に報いを与えるからだ』という意味です。ここ18節は、11節の表現を引用した、並行箇所となっています。私訳は次のようになりました。
箴言1:18 私訳
18 命を狙って待ち伏せしても、反対に、命を落とすことになる。
新改訳の訳文をご覧ください。『彼ら』とは何を意味しているのでしょう。
箴言1:17、18 新改訳
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
18
彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。
文脈を見ると『彼ら=鳥』という意味になります。『鳥は待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない???』。これでは意味が全く分かりません。こういう意味不明な訳文を神学者のセンセイは『格調高い訳文でございます』とおっしゃるようです。基本的に日本語は人称代名詞を使いません。直訳をし人称代名詞を使うからおかしくなるんです。こんな意味不明な日本語、小学生でも作りません。
箴言の文体は、1節の前半と後半を対照的に表現する形(対比表現)なので、基本的にこの形を守るべきだと思います。新改訳の訳文は、前半部と後半部の区別がなく、対照的な言い回しにもなっていません。特に18節の訳文が、だらだらとした訳文で、もっと短くまとめるべきです。ヘブライ語は短いことばで、リズムよく読めるようになっています。ヘブライ語のリズム感まで訳出しろとは言いませんが、できるだけ歯切れのよい訳出を心がけなくてはなりません。だらだらと長い訳文にした割には、何を言いたいのか意味不明です。翻訳というのは、他人が読むものなのですから、読者が理解できるよう訳出しなければなりません。聖書翻訳に携わるセンセイは、日本語の作文を練習しなければなりません。小学2年生でも、こんなおかしな作文書きませんよ。ヘンテコな日本語が、神さまのことばなんでしょうか?聖書のことばが、小学生以下の日本語で書かれています。親として、こんなヘンテコな日本語は、子どもに読ませたくありません。
~箴言1:19~
כֵּ֗ן אָ֭רְחֹות כָּל־בֹּ֣צֵֽעַ בָּ֑צַע אֶת־נֶ֖פֶשׁ בְּעָלָ֣יו יִקָּֽח׃ פ
ケン オロホート コル ボツェーアー バーツァー エト ネペシュ ベアラーブ イーカハ
כֵּ֗ן ケーン ken(3651) つまり、このようにして、そして、従って
אָ֭רְחֹות オーラハ orach(734) 道、方法
כָּל־ コール kol(3605) すべて、全部、いつも、何でも
בֹּ֣צֵֽעַ バツァ batsa(1214) 貪る、貪欲になる、欲深くなる、欲にまみれる
בָּ֑צַע ベツァ betsa(1215) 奪い取った物、襲い奪った物、強奪品
אֶת־ イート eth(853) 定目的語記号
נֶ֖פֶשׁ ネフェシュ nephesh(5315) 命、魂、人間、命を宿すもの
בְּעָלָ֣יו バハル baal(1167) 持ち主、主人、男
יִקָּֽח׃ ラカハ laqach(3947) 取る、受け取る、持ってくる
פ petucha 段落記号
19節前半、ケン オロホート コル ボツェーアー バーツァーは『貪欲な者、荒くれ者はみな自滅の道を辿ることになる』という意味です。後半、エト ネペシュ ベアラーブ イーカハは『人から奪った金品を自分の物にするような人間は、悪行の報いを受ける』という意味です。後半は前半と同じ意味を繰り返す強調構文で『必ず~なる』という意味になっています。
箴言1:19 私訳
19 このように、貪欲な乱暴者は死に至る。必ず、滅びることになる。
箴言1:19 新改訳
19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主(バハル)のいのちを取り去ってしまう。
『持ち主のいのちを取り去ってしまう?えっ?悪人が死ぬだけじゃなく、元の持ち主も一緒に死ぬ運命なんですか?そりゃ理不尽じゃないですか』と言いたくなります。これも直訳をしたためおかしな訳文になったのです。新改訳が『持ち主』と訳した元のヘブライ語は『バハル』ですが、バハルが意味するのは『略奪品を懐に入れた者=悪人』のことです。命が奪われるのは『悪人』です。『バハル=持ち主』このように、直訳すると誤訳になります。
日本語で『持ち主』というのは、正当な所有権を持つ人が、対象物を所持している、そういう人のことです。他人の物を奪った強盗のことを、日本語では『持ち主(所有者)』とはいいません。小学生でも理解していることです。新改訳の訳文は、こういう小学校作文レベルの間違いが非常に多くあります。委員会には有名な国語学者もいたそうですが、この国語学者は、お金だけもらって、きちんと仕事をしていなかったということになりますね。日本の中で選ばれしセンセイの翻訳がこの有様です。これでは、献金を捧げた人、祈りをささげた人、聖書を購入した人は、納得できないんじゃないでしょうか?
~原文の意図を翻訳する~
私訳と新改訳で、何が違うか読み比べてみてください。重要な違いがあります。
箴言1:15~19 私訳
15 いいですか、悪人の悪だくみに手を貸すな。何があっても関わるな。
16 悪事に染まった連中は、巧妙な手口で人を殺す。
17 しかし、悪知恵はいずれ通用しなくなる。主が天から見ておられる。
18 命を狙って待ち伏せしても、反対に、命を落とすことになる。
19 このように、貪欲な乱暴者は死に至る。必ず、滅びることになる。
箴言1:15~19 新改訳
15 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。
16 彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。
17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。
18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。
19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。
箴言1:15~19が伝えたいことは『悪事に手を染めるな。
主は必ず悪人に報いを与える』ということです。こうした意味が新改訳の訳文から伝わってくるでしょうか?箴言は聖書の一部ですから、当然、神さまのみことばです。ところが新改訳の訳文は『主が悪人に報いを与える』という中心的なテーマが、翻訳されていないのです。
新改訳は、神さま不在の文言になっています。これが私訳と新改訳の一番大きな違いです。
新改訳は『神の主権、神の正義、神の臨在』を聖書から消して翻訳しています。これは、重大な問題ではありませんか?ヘブライ語テキストの字面をながめただけでは、確かに『神、主』ということばは見つかりません。しかしプロの翻訳者であれば、文脈の中に神の存在を見つけられるはずです。具体的に言うと17節、ベエネ コル バーアル カナップ『翼を持ったお方が見ておられる』という一文が神さまのことを譬えています。『ここをオモテの解釈で訳したら、日本人に理解できない訳文になってしまうな。神さまが見ていると分かるよう、ウラの解釈で訳出しないとならないな』プロの翻訳者であれば、こういう判断ができなきゃダメです。
英語のテストで、日本語になっていないヘンテコな訳文を作って提出したら、不合格ですよね。日本語訳聖書はこの程度のレベルだということです。日本の聖書翻訳レベルは中学生、日本語の文章力は小学生以下です。こんなお粗末なレベルで、よく翻訳者としてお金を受け取れますよね。はっきり言わせていただきますが、素人が聖書翻訳をやっています。だから、聖書のことばを壊すのです。
こうしたお粗末な聖書翻訳が『祈りと献金で支えられた翻訳事業』に相応しいことでしょうか?私には、神学者が多くの信徒の献金を食い物にし、聖書の販売価格から不当なお金を懐に入れているとしか思えません。プロとして翻訳する技術を持たない素人が、あたかもプロの様な振りをして、商品として求められる品質に至らないお粗末な仕事をし、献金を集める、お金だけはきっちりいただく。これを世間では、ボッタクリとか、詐欺といいます。神学者のセンセイは、こうしたことを意図的におこなっていないと思いますが、『意図的でない』ことも、また問題です。不適切な翻訳をおこない、不適切な報酬を得ることが、代々続けられてきたので、心が麻痺してしまっているのではありませんか?
聖書翻訳事業、聖書翻訳の『組織』に根本的な問題があります。翻訳者個人の技量の問題だけではありません。そしてそれを支える『神学者コミュニティ』、大学の教育にも問題があります。大学で教えるヘブライ語やコイネー・ギリシャ語の授業について申し上げますが、一般の『ヘブライ語教養課程』と、翻訳者を対象にした『ヘブライ語専門課程』を区別するべきです。牧師が必要とされる知識については『教養課程』とし、通訳翻訳者を目指す人には『専門課程』とする。大学で、こうした環境整備ができていないのではないでしょうか?神学校のセンセイ!真面目に検討してください。そして、謙虚に勉強し直してください。
目的言語における文字数の等価性について
通訳で考えると分かりやすいのですが、話し手が1分間話したことばを、もし通訳者が2分間かけて通訳したら、ひんしゅくを買います。これは、やってはいけないことです。話し手の話しが終わると、会場から拍手が起こる、笑い声が起こるという、会場の反応も起こるので、同時通訳の場合、話し手の話しが終わるタイミングで、できるだけ通訳も終わるよう努力します。話し手の話しが終わり、会場の拍手も鳴りやんでも、まだ通訳が終わっていないのでは、気まずくなります。通訳においては、話し手の話した時間と、通訳者が通訳する時間にも、等価性が求められます。
翻訳をする場合も、原則は同じだと私は思っています。旧新約を合わせた聖書は5cm位の厚さになります。同じサイズの聖書なのに、ある翻訳は5cmの厚さで、別の翻訳は10cmの厚さだったら困りますよね。カバンに入らなくなるだろうし、一日一章読むのに倍の時間掛かるということになります。翻訳は、解説文を作ることではありません。そういう意識を持って翻訳をする必要はあります。原文の一つひとつの単語に気を取られると、ダラダラと冗長な文になり、訳文ではなく解説文になってしまいます。これではダメです。
ヘブライ語は他の言語に比べ、文字数が少なくて済む、文章表記が短くて済む傾向があります。一般的に、翻訳をすると、目的言語の方が長い文になる傾向がありますが、ヘブライ語をほかの言語に翻訳すると、これが顕著に表れます。
上の図のように、ヘブライ語を英文に翻訳すると、1.5~2.0倍の長さになります。
日本語(私訳)は1.3~1.7倍の長さになります。
次に、箴言1:15~19をヘブライ語で朗読した時間と、日本語訳(私訳)を朗読した時間とを比べてみると、どちらも、35秒前後になりました。音声に置き換えると、時間的に等価性が守られていることが分かりました。日本語の訳文は、この程度の長さが丁度よいということです。