聖書と翻訳 ア・レ・コレト

聖書の誤訳について書きます。 ヘブライ語 ヘブル語 ギリシャ語 コイネー・ギリシャ語 翻訳 通訳 誤訳

(000)イザヤ書8章-5

2018年04月30日 | イザヤ書


この記事は、新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


~イザヤ書8章5~10節 新改訳~

5)主はさらに、続けて私に仰せられた。 6)「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。 7)それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、8)ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」 9)国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ。腰に帯をして、わななけ。 10)はかりごとを立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それは成らない。神が、私たちとともにおられるからだ。

新改訳の訳文を読んでも、何がいいたいのか理解できません。直訳をすることで原文の意図を歪め、更に、意図的な変更を加えることで、原文の意図を歪めているからです。


~輪郭を描く~

今回は輪郭を描くのに、次の4点を検討します。『登場人物の把握』『地名、比喩の解釈』『先入観を疑う』『ストーリーの把握』

登場人物の把握


イザヤ
この民(誰のことか?)
レツィン(シリヤの王レツィン)
レマルヤの子(イスラエルの王ペカのこと)
アッシリヤの王(帝国軍) 7節
国々の民(遠く離れた国々)? 9節

6節の『この民は・・・』とは、だれのことを指しているのか、英語の聖書でも解釈が分かれていました。『エルサレムの住民』『ユダ族』『ユダ族と北イスラエル族』などです。解釈の鍵は『シロアハの水』のたとえにあると思います。シロアハの水というのは、ギホンで湧き出るきれいな水を、用水路を作りエルサレムに引いてきた飲料水です。

シロアハの水はエルサレムを育んできた母のような存在に譬えることができるでしょう。その育ての母の恩に、背を向けたと非難されているのは、誰のことでしょうか?そこで暮らしてきた人のことでしょうか?それとも、そこから離れて暮らしてきた人のことでしょうか?そこで暮らしてきた人のことですよね。直接的な意味は、エルサレムに住む王家のことだと思います。

列王記下25章4節に『王の園』とありますが、かつて、このシロアハの水を使った、王家の農場がありました。ギホンからエルサレムまでの水路整備工事、農場での灌漑(かんがい)設備工事は、国家の威信をかけた大事業だったことでしょう。シロアハ水道は、ユダ王国繁栄の象徴として引用されています。参考資料 Jerusalem - Water Systems of Biblical Times by Hillel Geva

また、前述の8章1~4節で、はっきりと北イスラエルとシリヤの滅亡を預言してあるわけですから、この箇所で、また北イスラエルの滅亡を預言するというのも、おかしな表現になります。続く7,8節は、ユダ族の国土が侵略されるという内容ですから、『この民』は、エルサレムを首都とする『ユダ族』を意味していると理解できます。

9、10節で『国々の民』『遠く離れたすべての国々』への預言ですが、これも誰を指しているのか、解釈が分かれています。『アッシリヤ帝国』とする説、『北イスラエル、シリヤ連合国』とする説、『アッシリヤ帝国、北イスラエル、シリヤ連合国を合わせている』とする説などです。8章1~8節では、北イスラエル族とシリヤの滅亡、そしてユダ族の滅亡が記述されています。9,10節では再び『北イスラエル、シリヤ連合国』へ警告を発しているという内容です。そう解釈する理由は、別の記事『イザヤ書8章-9』で申し上げます。


地名、比喩の解釈

シロアハの水
 
首都エルサレムと、王家を支えてきた水道水で、ユダ王国繁栄の象徴。英語では『the waters of Shiloah』などの表現ですが、the という冠詞があること、また、watersと複数形をしていることから、きれいな天然水といった意味になります。魚がすむような川ではありません。

シロアハは、動詞shalach(7971)シャラハから派生した名詞だと考えられます。動詞シャラハは、(人を)派遣する、(物を)送る、その他の意味があります。また、英文で書かれたシロアハ水道の解説を見ると『ギホンの泉から送られてきた水道水』とあります。『送られてきた』という言葉に『昔から自然にあったただの川ではないぞ。我々が持てる技術を駆使し作った人工の水道だぞ』という誇らしいニュアンスを感じるのです。

シロアハは、ヨハネ福音書9章に出てくるシロアムと同じ水道水を意味しています。ヘブライ語でShiloah、アラム語でSilwanですから、Siloamはアラム語が変化したことばでしょう。新改訳ヨハネ福音書9章の文中にシロアムとは『遣わされた者』という解説が挿入されていますが、これでは意味をなしていません。Shiloahは、英語でもsendと訳されています。sendは『(人を)派遣する、(物を)送る』という意味があるのですから、新改訳が『遣わされた者』と、人に限定した解釈をするのは間違っています。

イザヤ7:3~4を見ると、イザヤは神からの預言を携え、シロアハ水道上の池でアハズ王に会います。そして『恐れてはならない・・・』と、アハズを励ますのですが、馬の耳に念仏、アハズは忠告に従うことはしませんでした。この出来事と、8章6節の表現はつながっています。神さまは『私は、シロアハ水道へイザヤを遣わし(シャラハ)、お前に忠告した。ところが、お前は私の忠告に背を向けた』と、シロアハを掛けことばとして使っています。7章3節と8章6節は、内容を反復させ表現を展開しています。ヘブライ語に見られる、特徴的な表現技法です。

ことばの意味というのは、文脈によって変化をします。翻訳者はその変化に気が付かなくてはなりません。言語には恣意性があるのですから、『Shiloah=遣わされた者』という固定された関係はあり得ないのです。創世記11章のバラルのみわざのことを、よく考えていただきたいのです。翻訳者は、一語一訳主義に陥ってはなりません。

また、ユダ族の王ヒゼキヤがシロアハ水道を作ったかのように解説されることがありますが、そうではありません。次の箇所は、そのことについて述べているところです。

このヒゼキヤこそ、ギホンの上流の水の源をふさいで、これをダビデの町の西側に向けて、まっすぐに流した人である。こうして、ヒゼキヤはそのすべての仕事をみごとに成し遂げた。歴代誌第2 32章30節 新改訳

この箇所は、ヒゼキヤがそれまであったシロアハ水道とは別に、新しいルートで引き直したということを言っているのです。

新聖書辞典より引用

また、古代から都市が建設される土地の選定には、飲料水の確保は絶対条件でした。王宮の調理、入浴、洗濯、掃除で使われる水、神殿の祭儀で使われる水を合わせると、かなりの量になります。この大量に使われる水を供給する水源が、ヒゼキヤ以前からあったはずです。また、次の箇所は、当時エブス人が住んでいたエルサレムをダビデが攻略した時の様子が書かれています。ダビデがエルサレムを攻略する前から地下水脈があったこと、そこにトンネルがあったことがうかがえます。

そのとき、ダビデは言った。「エブス人を討とうとする者は皆、水くみのトンネルを通って町に入り、ダビデの命を憎むという足の不自由な者、目の見えない者を討て。」 サムエル記下 5章8節 新共同訳

エルサレムには天然水が流れるトンネルがすでにあり、ダビデ軍はそれを通ってエルサレムに侵入し攻め取ったと書かれています。ヒゼキヤのトンネル工事以前から、地下水脈は存在していました。これは、ギホンから流れてきたシロアハ水脈だったようです。

ダビデからソロモンの時代にかけて、王宮と神殿建設の大工事がありました。こうした時期に既存のシロアハ水脈に手を加え、宮殿用、神殿用、農場用として給水できるよう整備したはずです。この給水設備工事がなければ、宮殿、神殿、農場は機能しないからです。

ユーフラテス河がアッシリヤの繁栄を象徴したように、シロアハ水道もユダ王国の繁栄を象徴する誇らしいものだったと思うのです。シロアハの水が、ユーフラテスの大河と比較されているので、あたかもチョロチョロと裏庭に流れる地味な小川のように解釈する方もいますが、シロアハ水道が機能していた当時は、エルサレムを支える飲料水であり、大きな農場を支える灌漑用水だったと思います。そうでなければ、アッシリヤを象徴するユーフラテス川との対比が、滑稽すぎるのではないでしょうか?

シロアハ水道がエルサレム市民ののどを潤す清らかな水であるのに対し、ユーフラテス河は、現在のトルコを源流にスタートし、シリア、イラク、イラン、クウェートといった異教の国々の間を流れる国際河川として存在していました。過去、この運河を支配した国が繁栄を築いており、その利権をめぐり争いが繰り広げられてきました。イザヤの時代、このユーフラテス河を支配したのはアッシリヤ帝国でした。

ユダ族の王アハズについて次のように記述されています。『主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて、自分の子どもに火の中をくぐらせることまでした。列王記下16:3新改訳』。アハズは、このようなふとどき者で、更に、北イスラエル、シリヤ連合軍を打ち負かすためアッシリヤに支援を求め、それと引き換えに、代々伝わる神殿の宝物を提供しました。加えて、アッシリヤにある異教の祭壇を詳細に図面にし、エルサレムでこの異教の祭壇を再現し礼拝したとあるので、アハズは、やりたい放題だったということでしょう。

本文の中で、アッシリヤの『栄光(ヘブライ語でkabowd)』がユダの全地を滅ぼすということですから、直接的には誉れ高いアッシリヤ軍がユダの地を滅ぼしたということに違いはないのですが、『kabowd(栄光、権力、富などの意味)』というヘブライ語が示すもう一つの意味は、異教徒の繁栄だったと思います。ユダ王国は、異教徒の繁栄、異教の神を求めたが、その異教の神はやがて手のひらを返し、牙をむいて襲いかかってくるだろうという意味を、kabowdということばを使い表現しているようです。しかし、日本語には、kabowdが持つ『誉れ高いアッシリヤ軍』と『異教徒の繁栄』といったこれらの意味を、一言で表現できることばがありません。これは通訳や翻訳という仕事の限界だと思います。この限界を作られたのが、主のバラルのみわざで、ソシュールが言語の恣意性で述べたことだと思います。

話しが逸れましたが、シロアハ水道とユーフラテス河の対比が意味するのは、まことの神への信仰と異教の神への信仰で、大小といったサイズの比較をしているのではないと思います。


ユーフラテス川
 
アッシリヤ帝国の首都ニネベが、この川沿いにあった。アッシリヤ帝国繁栄の象徴であり、また、異教徒の繁栄をも象徴する。

8節『川の水は・・・首にまで達する』
これは、頭(エルサレム)だけを残しそれ以外は全て滅ぼされる。かろうじてエルサレムだけが生き残るという意味です。


先入観を疑ってみる

『インマヌエル』と『翼』という言葉は、聖書の中で強く象徴性を表す場合がありますが、その先入観が原文解釈に支障を与えています。翻訳者は、一度その先入観を取り払わなくては、原文が意図するものを正確に理解することができないでしょう。

インマヌ・エルはヘブライ語で『神われらと共に』という意味です。マタイ1:23で、イエスさまの誕生はイザヤ7:14で預言されていたインマヌ・エル誕生の成就であることを解き明かしています。旧約聖書の中でインマヌ・エルということばは3か所ありますが、マタイが引用したのはイザヤ7:14だけであって、イザヤ書8:8、8:10のインマヌ・エルについては、それがイエス・キリストの誕生を暗示しているとは言っていません。インマヌ・エルがイエス・キリストを暗示するのは、イザヤ書7:14この箇所だけです。イザヤ書8章8節のインマヌ・エルまでイエス・キリストを示すように解釈をするのは過剰な拡大解釈になります。

インマヌエルという言葉の意味を英語で見ると
from Hebrew immanu-el, literally: God with us
ヘブライ語で immanu-el。文字通りには『神われらと共に』(文脈によっては『われらと共にいる神』という意味にも変化するでしょう)『選民イスラエル』などを意味します。

『神われらと共に』という意味に、常に救い主降誕をイメージさせるようなニュアンスが、あるかどうかという疑問を感じます。『Immanu-el』といえば、イザヤ書のインマヌエル預言、そして福音書のインマヌエル降誕を思い浮かべますが、第一列王記、ソロモンが神殿を奉献する時の祈りを見てみます。

『私たちの神、主は、私たちの先祖とともにおられたように、私たちとともにいて、私たちを見放さず、私たちを見捨てられませんように』 第一列王記8章57節 新改訳

『Hashem Eloheinu be immanu (with us), as He was with Avoteinu; let Him not leave us, nor forsake us』 Melachim Alef 8:57 Orthodox Jewish Bible

Immanu-elという一語ではありませんが、『神われらと共にいたまえ』という表現になっています。このソロモンの祈りでは、『どうか私たちを見捨てないでください。共にいてください』という切実な気持ちを言い表しているのであって、希望に満ちた、救い主降誕の意味で使われていないということに、注目すべきでしょう。イザヤも、このソロモンの祈りを知っていたのではないでしょうか?そのように考えると、イザヤ書のインマヌエルの解釈も違ってくるかも知れません。キリスト教神学者は『インマヌ・エル=イエス・キリスト』と短絡的な解釈をしがちですが、インマヌ・エルが使われる3か所全てがイエス・キリストを意味しているのではありません。自分が持つ先入観に気づき、それを取り払うことが必要です。

新改訳8節『インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる』とありますが、『翼』と聞いて思い浮かべるのは、次のような、みことばだと思います。

『主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける・・・』詩篇91編4節 にあるように、神がその民を守る象徴としてイメージすると思うのですが、これも誤った先入観になる可能性があります。

イザヤの預言は、アッシリヤがこの地を滅ぼしにやって来るという内容です。『国いっぱいに広がった翼』が意味するものは、神がユダの全地を守ったことの象徴なのか、反対に、アッシリヤがユダの全地を滅ぼしたことの象徴なのか?解釈が分かれています。別の記事で詳しく説明させていただきますが、結論を申し上げると『翼』は『アッシリヤ軍の侵略行為』を象徴しています。その文法上の根拠と文脈上の根拠についても、後述させていただきます。下の図の翼を持つ兵士はアッシリヤ王家のシンボルで、イザヤは、この翼がユダの地を覆いつくすと言ったのです。『神がユダの全地を守った』と誤訳した原因は『翼=神がその民を守る象徴』という誤った先入観を持っていたためです。


写真リンク先 Bible History The Assyrian Symbol of Asshur


ストーリーの把握

ユダ族のアハズ王は、主への信仰を捨て去り異教の神を拝む。また、迫りくる北イスラエル、シリヤ連合軍に対抗するため、アッシリヤ王に助けを求めた。異教の神を拝むユダ族は、やがてアッシリヤ軍により、ユダの全土を滅ぼされる。しかし、首都エルサレムだけが、かろうじて生き残ることになる。これは主がなさることである。9,10節で再び、北イスラエル、シリヤ連合国への警告を記す。神を離れたイスラエルは、自ら破滅を招くことになった。

以上4つの項目について検討し、翻訳の輪郭が掴めたら、80%はできたようなものです。ここまでを作るのに、一通り翻訳をしています。一つだけではなく、いくつかの英訳聖書を訳し比べています。解釈をする中で不明な個所があったとしても構いません。輪郭の設定→細部の解釈→輪郭の再設定→細部の再解釈といった作業を繰り返し、不明な個所を潰していきます。その過程を全部書き表すことができないので、要点だけを書いています。ご了承ください。



(000)イザヤ書8章-4

2018年04月29日 | イザヤ書


この記事は、イザヤ書8章4節について新改訳と英語訳との比較をしています。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


~4節の解釈と私訳~

4節 新改訳 
それは、この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである。」

この訳文を読んでも、意味がよく分かりません。ヘブライ語では、こどもの成長と略奪が起きる時期の関係が書かれています。新改訳では訳語の選択を誤っており『この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことも知らないうちに・・・』と訳出しましたが、そうではなく「赤ん坊が『パパ、ママ』としゃべり始めるその前に・・・」と表現するべきでした。新改訳の翻訳者は原文の意図を理解していなかったようです。

4節では『お父さん。お母さん』『サマリヤの分捕り物』の解釈について検討してみます。


~お父さんか?パパか?~

次は、New King James Versionの4節前半部分です。
4 ・・・ the child shall have knowledge to cry 'My father' and 'My mother,・・・

直訳調に訳すると、次のようになります。
・・・その子に知恵がつき、泣いて『お父さん、お母さん』とことばにするようになる・・・

New King James Versionの文脈からも、赤ん坊が最初に、ことばを話し始める時期のことを言っていることが分かります。赤ん坊はだいたい1歳頃から『パパ、ママ』などの発語が始まります。『パパ、ママ』などは一音節繰り返し語といって、赤ちゃんが喃語(なんご)の次に話すことばです。『お父さん、お母さん』という複雑な発音スキルを、初めから持っている赤ちゃんはいません。古今東西そうです。この箇所を『パパ、ママ』と訳せば、赤ちゃんは1歳前後だろうというイメージを与えます。もし『お父さん。お母さん』と訳せば、もっと年齢が上だろういうイメージを与えます。訳語が違うと、読者がイメージする子どもの年齢が違ってきます。

次の解説では、アラム語のabbaは、赤ん坊が喃語として使い始めるということを述べています。OZARK CHRISTIAN COLLEGEというサイトの、Greek Word Study - abbaという記事です。

私訳
『abba』はアラム語で、家族のような親しい間柄でしか使われません。アラム語はヘブライ語の兄弟言語で、1世紀、ユダヤ人が日常使うことばとして使われていました。赤ん坊が初めに話す喃語は、いくつかありますが、abba(パパ)もその一つです。しかし、abbaは大人になっても使われる言葉です。それは、喃語としての使用ではなく、父への愛着を示すabbaへ意味が変わります。全能の神をabbaと呼ぶときは、親しみのある響きがあります。神をこの名で呼んだのは、主イエスが初めてでした。

原文
abba is an Aramaic word which came out of the intimacy of the family circle. (Aramaic is closely related to the Hebrew language, and was the everyday language of Jews in the first century.) When a baby was learning to talk, one of the first words he could say was abba (“Daddy”). The term later lost its childishness, but always kept its intimate and loving character. It was much too personal a word for any man to use in addressing Almighty God. So Jesus was the first.
http://occ.edu/Alumni/default.aspx?id=2223

abbaはアラム語で、イザヤ書が書かれたヘブライ語ではありません。ヘブライ語では、ab(アブ)です。残念ながら、今から2700年前ユダ族の赤ちゃんが、どんな喃語を話したか調べる手だてはありませんが、abbaが喃語として使われていたように、abも同じように使われていたと予想できます。ヘブ-英辞書にも、そういう解説があるようです。

発声器官の未発達な赤ん坊が初めに獲得する発声は、洋の東西を問わずほぼ同じです。母音では口やのどの筋肉がリラックスした状態の『a』、子音では両唇音(上下の唇を閉じて作る音)の『m,b,p』が、最初に獲得する発音だといわれています。アラム語の『abba』、ヘブライ語の『ab』共に赤ん坊が喃語として発音しやすい音韻構造を持っています。『papa』『mama』も同様です。『最初の一語』増田 桂子/中央大学商学部准教授より引用

また、赤ん坊に付けられた名前にも、そのヒントがあります。Orthodox Jewish Bibleの8章1節の訳文中に、次のような、分かりやすいコメントが挿入されています。

私訳
・・・Maher Shalal Chash Baz(略奪の日は、迫っている。はく奪の日は、すぐにも訪れる、という意味。アッシリヤが、シリヤとイスラエルを滅ぼしに来る時期が緊迫し、イザヤのこどもの成長が、その預言成就を示す生き時計となった。4節参照)

原文 1節後半
・・・Maher Shalal Chash Baz (The Spoil Speeds, the Booty Hastens [i.e., the coming Assyrian defeat of Syria and Israel is imminent and the life of this son of Isaiah is a prophetic time line. See verse 4 below]).
http://www.biblegateway.com/passage/?search=Isaiah+8&version=OJB

つまり、のんびりと構えていられる状況ではない、ということです。こうした見方からも、赤ん坊が『パパ、ママ』と発語する、1歳(前後)になるまでに災いが起こるぞ!と解釈できることが分かります。このような意味を表す文脈の中で『お父さん、お母さん』という訳語を選択するのは、不自然だということが分かると思います。

『お父さん。お母さん』という訳語を選択するか『パパ、ママ』という訳語を選択するかといったことは、全体から見れば、大ごとになるような問題ではないかも知れません。しかし、こうした細かな個所まで、理にかなった解釈ができる翻訳者か、また読者の立場になって考えられる翻訳者かを見定める一つの指標になる箇所です。

英語の聖書でも『お父さん。お母さん』と表現するもの『パパ、ママ』と表現するもの、両方あります。『パパ、ママ』表記をしている英語の聖書は以下の通りです。

Complete Jewish Bible では、‘abba!’ and ‘Eema!
Good News Translationでは、‘Mamma’ and ‘Daddy,’
Living Bible では、‘Daddy’ or ‘Mommy,’
New Living Translationでは、‘Papa’ or ‘Mama,’


~サマリヤに分捕り物があったのか?~

・・・ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである。  4節後半 新改訳

・・・the riches of Damascus and the spoil of Samaria will be taken away before the king of Assyria."  4節後半 New King James Version

New King James Versionは、word-for-word スタイルで訳された代表的な訳文です。word-for-wordとは、直訳法、逐語的翻訳法などと言われる、古くから行われてきた翻訳方法で、できるだけ原文のスタイルを崩さないよう、逐語的に訳す方法です。しかし、この翻訳法で作られた訳文は、分かりにくい訳文となる傾向があるので、それを補う別の解説書と合わせて読む必要があります。

それに対しthought-for-thoughtスタイルの訳文は、現代英語としてほぼ意味が完結した訳文で、ほとんど解説がなくても読み進められる、新しい翻訳手法です。しかし、文法解釈など最低限の解釈ルールをも無視する、荒っぽい訳文も見受けられます。

新改訳の訳文は『アッシリヤ王がユダの地にやって来る前、既にダマスコから財宝が奪われ、サマリヤから過去蓄えられてきた分捕り物が持ち去られていた』という意味に見えます。ところが、英文の解釈は新改訳とは違っています。

ここで新改訳がおかした誤りは『分捕り物』という訳語を選択したことです。これも、直訳主義がおかす典型的なエラーで、付け加えるなら、忌避の規則をも見落としているという、二重のエラーがあるといえます。


~忌避の規則~

どのような言語にも忌避の規則というものがあります。例えば、日本語では、文末を締めくくることばが『・・・です』で終わった場合、次の文の文末に再び『・・・です』を繰り返すことを嫌います。また、同じ文中で、同じ助詞(てにをは)が繰り返し使われることを嫌うという、忌避の規則が存在します。

英語の場合、同じ単語を直近の文で繰り返し使うことをとても嫌います。英語のネイティブであっても、英文を作る時に、類語辞典(Thesaurus)を引きながら作文をすることもあるほどです。同じ単語の繰り返しを、『毛嫌い』するほどの強い感覚というのは、日本語にはないようです。それゆえに、英語での忌避規則というものを理解しづらいのだと思います。日本人が英語の学習で必ずつまづくところで、つまづいていることすら気がつかないことが多いと思います。

これと同じ忌避の規則がヘブライ語にもあります。この規則を理解しているかしていないかで、翻訳が大きく違ってきます。従来の日本語訳聖書を見ると、この規則はほとんど理解されていないようです。ヘブライ語聖書には、同じような意味を再び繰り返しているところが至るところで見られます。反復表現といわれるものですが、これが多用される一因は、忌避の規則によって同じことばを繰り返して使えないという制約があるためです。

この忌避の規則を念頭に置きながら英語、ヘブライ語を読めるなら、間違いなく解釈する力がワンランク上がることでしょう。次の文は、New King James Versionの4節後半です。

・・・the riches of Damascus and the spoil of Samaria will be taken away before the king of Assyria."

やや長いですが『the riches of Damascus and the spoil of Samaria』が主語にあたる箇所です。『ダマスコのthe riches and サマリヤのthe spoil』という形になっています。このような形が見えた瞬間、忌避規則の可能性90%ありと踏んでいいと思います。ダマスコ・・・とサマリヤ・・・がandでつながれています。英語の『A and B』は、ただ『AとB』を並べているのではなく、AとBは似たもの同士ですよ、というニュアンスがあるので『ダマスコのthe riches と サマリヤのthe spoil』は同じ内容の繰り返しだろうと予想できます。

本来、英文でいいたいことは『ダマスコの財産(the riches)と、サマリヤの財産(the riches)が奪われる』ということなんですが、忌避の規則によって、the richesを重ねて使うことができません。それで『ダマスコのthe richesと、サマリヤのthe spoil』と言い換えているのです。ヘブライ語にも、同じ単語の繰り返しを嫌う忌避の規則があります。『ヘブライ語 masows ことばの解釈』の記事でこのことを記述しました。

しかし、まだ疑問が残るという方がいるかもしれません。『the richesは財産の意味だと分かるけど、the spoilは財産じゃなく、分捕り物という意味だろ。同じ意味のことばを繰り返しているとは、言えないんじゃないの?』。この疑問にはとても大切なものが含まれているので、以下説明いたします。

翻訳徒然草-1で説明した『functionと機能』の違いと、この『spoilと分捕り物』の違いが類似しています。『Function』の場合、主語になれるのは、もの、体の臓器そして人ですが、日本語の『機能』ということばで、主語になれるのは、もの、体の臓器などで、人が主語になることはできないという話をしました。分捕り物とspoilは、意味が似ていますが、使われ方(運用)に違いがあります。次の表をご覧ください。



『分捕り物』と『spoil』では運用の仕方に違いがあるので『分捕り物=spoil』と直訳はできないのです。この表で見たことを念頭に、Spoilの意味を英英辞書で確認してみてください。なるほどと、納得できると思います。言語には恣意性があるのですから、spoil=分捕り物という関係は成り立ちません。全ての名詞、全ての品詞がそうです。学校英語が、英和辞書での検索を重視することにも問題があり、英英辞書で、ことばの意味を調べることをさせるべきでしょう。日頃、英英辞書で検索していれば、英語ネイティブの考え方が、より理解できるようになります。

『分捕り物』はヘブライ語『シャラール』から訳されたことばです。ヘブライ語『シャラール』と英語の『spoil』を比較すると、運用のされ方が同じで、分捕り物という意味があるほか、奪われた財産という使われ方もします。『シャラール』と『分捕り物(日本語)』では意味に大きなずれがあるのに対し、『シャラール』と『spoil(英語)』では、ほぼ意味が重なっていることが分かります。

このように直訳をする翻訳は多くのエラーを含むことになるのですが、いつまでも直訳から離れられない聖書翻訳は問題があります。誤解をされないよう付け加えておきますが、意訳であるべきだといっているのでもありません。煙に巻くような言い方に聞こえるかもしれませんが、そもそも、通訳(翻訳)というものが、直訳であるべきか?それとも、意訳であるべきかといった議論自体が不適切で、こうした議論は『地球上の生物にとって北極が適した生存環境か?南極が適した生存環境か?』といった二者択一の議論をしているようなものです。その問い自体がナンセンスなのです。


~史実と照らし合わせる~

聖書の中で、北イスラエルがユダに勝利したという記事はありますが、サマリヤの富の象徴は、分捕り物であるといえるほどのものは、なかったと思います。北イスラエルが栄えた時期はそう長くはなく、せいぜい、ヤロブアム2世の時代くらいでしょう。北イスラエルが強力な軍事力を維持し、隣国から財産を奪い、多くの戦利品で潤っていたというのは、歴史的になかったと思うのです。

自分の原文解釈と、史実に食い違いが生じたら、再度、史実を調べ、次に自分の原文解釈に誤りがないか調べます。そうすれば、the spoil ofの解釈が鍵となることが分かると思います。

輪郭を正しく設定することは、原文解釈のエラーを見つける手がかりになります。輪郭の設定がないと、エラーが見つけにくくなります。翻訳者が、自分の訳文と北イスラエルの歴史を見比べ確認していれば『分捕り物』という訳語を選択することはなかったでしょう。


~shalalの意味~

 ヘブライ語で、シャラール

英語で『spoil』と訳されたことばは、ヘブライ語でshalal(シャラール)という名詞で、ヘブ-英辞書に次のように解説されています。分捕り物以外に、財産という意味もあります。

私訳
1)戦利品、略奪品など 1a)獲物、犠牲など 1b)略奪品、戦利品 1c)家財や個人の持ち物を奪うこと 1d)(不正を疑わせる)儲け、財産

原文 Hebrew Dictionary (Lexicon-Concordance)を引用
1) prey, plunder, spoil, booty 1a) prey 1b) booty, spoil, plunder (of war) 1c) plunder (private) 1d) gain (meaning dubious)
http://lexiconcordance.com/hebrew/7998.html

翻訳辞書で言葉の意味を調べても、運用の仕方に違いがあるということまで解説していません。翻訳辞書で言葉の意味を理解することには落とし穴があるということを知っておくべきです。

シャラールを、口語訳では『戦利品』新共同訳では『ぶんどり品』新改訳では『分捕り物』と訳されています。いずれも『過去、サマリヤが蓄えてきた戦利品(が奪われる)』という意味になっています。ところが、文語訳では『財寳(たから)』と訳されています。

・・・ダマスコのとサマリヤの財寳(たから)はうばはれてアツスリヤ王のまへに到るべければなり イザヤ書8章4節 文語訳

文語訳の翻訳者は『忌避の規則』を念頭に入れて解釈していることがうかがえます。『シャラール』を適切に理解しているのは、文語訳だけです。


~奪ったのは王か?軍か?~

次に、ダマスコとサマリヤの財産は『誰が』奪ったのかについて検討します。英語では『the king of Assyria』となっていますが、これを『アッシリアの』と翻訳することに、待った!をかけたいのです。次に、例文をつくりました。内容は架空で、事実とは関係ありません。

なお、読者は次の情報を得ているものと仮定します。イラクの王は自国の軍を持ち、クウェートとは長い間犬猿の仲であったということです。

A)クウェート国の貴重な美術品は、イラクの王が略奪していった。

B)クウェート国の貴重な美術品は、イラク軍が略奪していった。

AとBでは、読者が受けるイメージが若干違います。Bの文は、すんなりと読むことができますが、Aの表現は、文法的に間違ってるところはないのですが、ややストレスを感じると思います。それは、イラクの王が一人でクウェートにやってきて、美術品を奪ったとは思えないので、どうやって略奪したのかを、必然的に読者に考えさせるからです。その答えはどこにも書いていません。文法的には問題がない文であっても、意味的に未完結であるということです。一方Bの文は、意味的に完結しているのでストレスなく読むことができます。これがAとBの違いです。

Aの文は、次のように書かないと意味的に完結していません。

A)クウェート国の貴重な美術品は、イラクの王の命令で、軍が略奪をしていった。

では、次の文はどうでしょう。

C)『・・・財産は、アッシリヤのによって奪われた』

D)『・・・財産は、アッシリヤによって奪われた』

Dは、意味的にも完結しているので、すんなりと読むことができますが、Cの文は、Aのときと同様、ストレスを感じるのではないでしょうか?意味的に完結していないからです。同じ文でも訳語を、王とするのか、軍とするのかで、読者のストレスが違ってくるということでした。

ところで、そもそも『the king of Assyria』が意味するものは、アッシリヤの王様『個人』を指しているのではなく、アッシリヤの王が所有する『軍隊』です。しかし、日本の英語教育では、訳文を作るときに『王』と訳することが正しいと教えます。同じように『原文(原語)に忠実な翻訳』を信条とする方たちも『王』と訳することが正しいと考えています。そうした一語一訳主義的感覚がしみついているなら『the king of』という英語が、文脈によって『王様(個人)』から『(王の)軍隊』と、その意味が変化していることに気が付きません。

このように、ことばというものは、文脈によって様々に変化する、不思議な性質があります。創世記11章で、神さまが人々のことばを混乱させたと書かれていますが、まるで生き物のように、ことばの意味が様々に変化していくのを見ると、そこに神さまのバラル(混乱)のみわざを見つけた!といった気持ちになります。また、このことを『言語の恣意性』の中で、ソシュールは指摘したのだと思うのです。

こうして、次のような訳文になりました。

4節の私訳
赤ん坊が『パパ、ママ』としゃべり始める前に、ダマスコとサマリヤの財産は、アッシリヤ軍によってことごとく奪われるだろう。


~イザヤ書8章1~4節 私訳全体~

1)主は私にお命じになった。「大きな石の板一枚と砥いだノミを用意し『マヘル・シャラル・ハシ・バズ(略奪の日は迫っている。はく奪の日はすぐにも訪れる)』と刻め」。 2)私は、この作業の立会人として、誠実な人物である、祭司ウリヤと、エベレキヤの息子であるゼカリヤの二人を呼んだ。 3)その後、私は妻と枕をともにした。主の霊を受けた妻は、のちに男の子を産んだ。主は私に言われた。「その赤ん坊をマヘル・シャラル・ハシ・バズと名付けよ。 4)赤ん坊が『パパ、ママ』としゃべり始める前に、ダマスコとサマリヤの財産は、アッシリヤ軍によってことごとく奪われるだろう。

この訳文は、主に英語のテキストを解釈して作りました。


~あとがき~

『聖書は誤りなき神のことばである』と私は信じていますが、そのことと、日本語に訳された聖書の訳文が適切かどうかということは、同じレベルで語ることができないと思うのです。

私にとっては翻訳スタイルが『word-for-word』でも『thought-for-thought』でもどちらでも構わないと思います。そうした論議に参加するつもりはありませんし、いくら議論を重ねても無益なものに終わることが多いと思うからです。ただひとつ願うのは、訳文が一般の日本人が読んで理解できるものにしてほしいということです。これはあまりにも基本的なことなのですが、このことが、ないがしろにされてきたのではないでしょうか?

聖書を出版するにあたり、どのような人を対象にするかということも検討されていると思います。学者や、牧師のように専門の教育を受けた人を対象に出版を企画するということもあるでしょう。そのような専門的な内容の、聖書翻訳があってもいいと思います。ところで、そうした専門知識のない一般の信徒や、98.5%もいるといわれるノンクリスチャンが、読んで理解できる聖書翻訳というのが、考慮されてこなかったのではないかということを、この記事で表してみました。ただし、個人訳として出版されてる聖書がいくつかあり、読ませていただいていますが、読みやすい日本語となっていて、配慮がされているものもあります。

英語訳では『thought-for-thought』という翻訳の考え方ができてから、非常に多くの翻訳がされてきました。言語学や翻訳理論の発達や、それまでの聖書の翻訳が、一般の人が読んでも理解しにくいものであったという、反省から多くの翻訳が生まれてきたのだと思います。

私は素人ですが、境界性パーソナリティ障害について英語の資料を読んでいて、薄々感じていたのですが、日本では、新しいことを取り入れることへの抵抗が非常に強く、変化を嫌う体質があるようです。その原因の一つに、権威ある学者が支配する悪しきアカデミズムの風潮も、関わっているのではないかと思うのです。同じようなことが、聖書翻訳の分野にもあるのではないかと、懸念しています。

「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
ローマ人への手紙10章8節 新改訳

神さまは、みことばが人の身近にあることを願っておられます。聖書の翻訳にあたっては『どうやったら、みことばをもっと身近にできるのか』を大切な課題にしてほしいものです。





(000)イザヤ書8章-3

2018年04月28日 | イザヤ書


この記事は、イザヤ書8章2~3節について新改訳と英語訳との比較をしています。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


2節 新改訳
そうすれば、わたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤをわたしの確かな証人として証言させる。」

この訳文は、板に文字を書き終えれば・・・証言させる。言い換えると、板に文字を書き終えるまでは・・・証言させないとも取れます。何のためにこの条件付けがあったのでしょうか?イザヤが板に『マヘル・・・』と書き終えたあと、ウリヤとゼカリヤが登場し、何かの証言をしたのだと、読者は受け取ります。また、二人の証言の内容が何だったのか、どこにも書かれていません。新改訳の訳文は、イザヤが板に書く作業と、証言者との関係が無関係になっています。

この2節が何を言いたいのか、私には全く分かりません。新改訳は組織を作り翻訳にあたりました。委員の中から『こうした訳文では、読者は意味が分からない』と、指摘する人は誰もいなかったのでしょうか?新改訳の組織がどのようなものであったのか、私には分かりませんが、この訳文を作った方以外で、訳文のできを吟味する人がいたのではないでしょうか?組織で訳されているにもかかわらず、チェック体制が機能していません。出版社の担当者は、このような意味の分からない訳文に目を通し、何も指摘できなかったのでしょうか?

2節では、わざわざ証人?を呼び寄せていますが、記録方法と証人とに密接な関係があると思うのです。もし、イザヤがペンとインクで書いたとしたら、時間にして1分で終わったことでしょう。証人は何のために必要なのでしょうか?しかし、もし石の板に彫り込んだとしたらどうでしょう?手書きのメモに文字を書き、大きな石の板に文字を下書きし、ゲンノウとノミを使い、トンカントンカンと、大きな字を彫り込み終わるまで、半日以上かかったと思います。石に文字を彫り込む作業中、ちょっとした力加減で、予期しない箇所が欠け、字形が崩れることもあります。そうなると、新しい板に取り換え、やり直しです。完成したあと、イザヤは、手書きのメモと石を差し出し『メモ通りに文字を彫り込んであるよな。見やすいようにはっきりと彫れたよな』と証人に仕上がりを確認してもらったのではないでしょうか?このように、記録方法と証人?とは、密接な関係があるように思います。同時に、預言の証人という意味もあったでしょう。

ところで、新改訳では『ウリヤとゼカリヤ』を呼んだのは、主であるという解釈ですが、口語訳、新共同訳では『ウリヤとゼカリヤ』を呼んだのは、イザヤであるという解釈です。証人を呼んだのは主か?イザヤか?といった違いが生じています。これは、主が語られた言葉が1節だけだとする解釈と、1,2節だとする解釈の違いから来ています。

現代の文章表記では、話した内容は日本語では『 』、英語では“ ”といった引用符で表記されますが、古典ではこうした引用符がありません。かつてのヘブライ語も同じです。それで、どこからどこまでが主が語った内容なのか、解釈によって、範囲が違ってきます。次の青い字が主が語ったと解釈している部分です。

主が語ったことばは1節だけだ(イザヤが証人を呼んだ)とする訳文

1) Then the Lord said to me, “Make a large signboard and clearly write this name on it: Maher-shalal-hash-baz.” 2) I asked Uriah the priest and Zechariah son of Jeberekiah, both known as honest men, to witness my doing this. New Living Translation

New Living Translation
Complete Jewish Bible
Orthodox Jewish Bible


主が語ったことばが1,2節だ(主が証人を呼んだ)とする訳文

1) Moreover the Lord said to me, “Take a large scroll, and write on it with a man’s pen concerning Maher-Shalal-Hash-Baz. 2) And I will take for Myself faithful witnesses to record, Uriah the priest and Zechariah the son of Jeberechiah.” New King James Version

Common English Bible
New King James Version
New American Standard Bible

ユダヤ人のDavid Rubinさんという方が、ヘブライ語の聖書を、個人で英語に全訳したTanach The Hebrew Bibleという貴重なサイトがあり、2節の『ウリヤとゼカリヤ』を呼んだのは、『イザヤ』であり『(石の)板に文字を彫り込んだ』と解釈しています。良い解釈だと思います。

8:1 And the Lord said to me, “Take for yourself a large tablet and inscribe on it with a common engraving tool concerning Maher-shalal-hash-baz.”
8:2 And I took trusted witnesses to testify for me, namely Uriah, the priest, and Zechariah son of Jebe-rechiah,
http://www.rubinspace.org/html/isaiah_8.html

ここでは2節冒頭部の解釈が鍵となります。ヘブライ語聖書で、1,2,3,5節の主語と動詞を見比べれば、自ずと答えが出るように思います。

ヘブライ語、ギリシャ語とも、『主が言った』と言う箇所は、『主 Yah·weh κύριος』という主語が明示されている(1,3,5節)ことに注目しなければなりません。ヘブライ語を見ると2節は『~を立ち会わせなさい』と、主がイザヤに命じているという表現になっています。一方、ギリシャ語では『~をこの作業の立会人とした』と、イザヤが立会人を呼び寄せたという表現です。ヘブライ語とギリシャ語では、使われてる動詞(話法)は違いますが『イザヤが立会人を呼び寄せた』、そのように解釈するべきでしょう。

ヘブライ語
8:1 way·yō·mer Yah·weh ワイヨメル アドナーイ 主は言われた
8:2 wə-’ā-‘î-ḏāh ベアイダー そして、~を立ち会わせなさい
8:3 way·yō·mer Yah·weh ワイヨメル アドナーイ 主は言われた
8:5 Yah-weh dab-bêr アドナーイ ダッベーレ 主は言われた

コイネー・ギリシャ語(70人訳)
8:1 είπε κύριος エイペ クーリオス 主は言われた
8:2 μάρτυράς μοι ποίησον マルトゥラス モイ ポイエーソン ~をこの作業の立会人とした
8:3 είπε κύριος エイペ クーリオス 主は言われた
8:5 κύριος λαλήσαί クーリオス ラレーサイ 主は言われた

立会人を呼んだのはイザヤであると理解します。新改訳で『証人に~証言させる』と訳されたヘブライ語は『ed』という語で『witness、testimony、reminder』などと訳されています。証人という意味以外に『見物者、立会人、証言、勧告』などの意味があります。文脈から判断すると、イザヤが呼び寄せたのは『証人』ではなく、石の板に文字を彫り込む作業の『立会人』であったと解釈する方が素直だと思います。また『証言させる』は、新改訳の翻訳者が勝手に付け足したことばです。ウリヤとゼカリヤが『証言をした』ことを裏付ける記述は、イザヤ書のどこにもありません。

こうして、次のような訳文になりました。

2節の私訳
私は、この作業の立会人として、誠実な人物である、祭司ウリヤと、エベレキヤの息子であるゼカリヤの二人を呼んだ。


~3節の解釈と私訳~

3節 新改訳 
そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。すると、主は私に仰せられた。「その名を、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と呼べ

イザヤは女預言者に『近づいた』と書かれていますが、このことが女の妊娠とどういう関係があるのでしょうか?預言者だけに、奇跡的な力で妊娠させたということにも受け取れます。ところで、預言者イザヤは妻帯者ですから、新改訳の訳文は『イザヤは、妻以外の女性と体の関係を持ち子どもを生ませた』という意味になります。新改訳はイザヤ不倫説を支持する訳文になっています。

英語の聖書を見ると『妻とからだの関係を持った』という表現になっているものがあります。イザヤとその妻が通常の夫婦生活の中で、妊娠したという意味です。これが正しい訳です。



新改訳は『qarab カラブ=近づく』『nebiah ネビーアー=女預言者』と直訳していますが、直訳をすると誤訳になります。ヘブライ語『qarab カラブ』は『近づく、近寄る』という意味で使われることが多いのですが、この文脈では『性的な関係を持った』ことを意味する婉曲表現になっています。

ヘブライ語『nebiah ネビーアー』は、『女預言者』という意味のほか『主の霊を受けた女』という意味もあり、この文脈では『主の霊を受けた女』という意味です。『naba  ナーバー』は、神の霊を受け預言するという動詞です。この動詞が男性名詞となったものが『nabi ナビー』で、女性名詞となったのが『nebiah ネビーアー』になります。イザヤ書における、nebiah ネビーアーは、解釈困難な箇所だと言われてきましたが、ヘブライ語辞書に『主の霊を受けた女』という定義がちゃんと書かれています。若しくは、ヘブライ語の名詞は動詞から派生して作られるのですから、動詞ナーバーが『主の霊を受ける』という意味だと分かれば『ネビーアー 主の霊を受けた女』という解釈にたどり着くこともできます。難しい解釈ではありません。

『新改訳聖書の特長』というサイトを見ると、『ヘブル語およびギリシャ語本文の修正を避け、原典に忠実に翻訳していること。パラフレーズ訳ではなく、リテラルな翻訳であるが、各書の文学類型にふさわしい日本語の文体を用いていること』とあります。ヨコ文字を使っているので分かりにくいですが、平たく言えば『直訳で翻訳します』ということを言っているのです。

新改訳は『私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ』と、イザヤ不倫説に立った訳出をしました。この訳文は『新改訳聖書の特長』にのっとり、きちんと『直訳』で訳されたものです。果たして直訳をすれば、正しい翻訳ができるのでしょうか?事実は正反対です。直訳をするから誤訳になるのです。

もし、イザヤ不倫説が正しいのであれば、不貞行為に対する処罰が、8章以降のどこかに書かれているはずです。しかし、どこにもありません。ダビデはバテシェバとの不貞行為で神の処罰を受けました。にもかかわらず、イザヤの不貞行為はお咎めなしということになります。イザヤは、王様や国民の面前では聖職者を装い、カゲでは女遊びをするウハウハ坊主だったということになります。

信徒には正しい生活を送るよう指導しておきながら、自分は性犯罪で逮捕されるウハウハ聖職者が現代にもいますが、イザヤ8:3はこのウハウハ行為にお墨付きを与える内容になっています。新改訳の翻訳委員会は、プロテスタント教会を、リベラル神学へ誘惑しようという意図でもあるのでしょうか?

英訳聖書を見ると『イザヤは妻との間に子をもうけた』と解釈されているものがいくつもあります。

Complete Jewish Bible (CJB)
Then I had sexual relations with my wife; she became pregnant and gave birth to a son

Contemporary English Version (CEV)
Sometime later, my wife and I had a son,

Good News Translation (GNT)
Some time later my wife became pregnant. When our son was born,

Living Bible (TLB)
Then I had sexual intercourse with my wife and she conceived and bore me a son.

New Living Translation (NLT)
Then I slept with my wife, and she became pregnant and gave birth to a son.

Amplified Bible (AMP)
So I approached [my wife] the prophetess, and she conceived and gave birth to a son.

Amplified Bible, Classic Edition (AMPC)
And I approached [my wife] the prophetess, and when she had conceived and borne a son,

New International Reader's Version (NIRV)
Then I went and slept with my wife, who was a prophet. She became pregnant and had a baby boy.

以上の英訳があることは、新改訳の翻訳委員会は知っていたはずです。にもかかわらず、新改訳は敢えてイザヤ不倫説を選択します。並々ならぬ執着です。

新改訳の翻訳理念をご覧ください。

『聖書翻訳の理念』
特定の神学的立場を反映する訳出を避け、言語的な妥当性を尊重する委員会訳である。
・ヘブル語及びギリシャ語本文への安易な修正を避け、原典に忠実な翻訳をする。

『新改訳聖書の特長』
・聖書を『誤りなき神のみことば』と告白する福音主義の立場に立つ委員会訳であること。
特定の神学的立場に傾かないで,言語的に妥当であるかを尊重すること。

この理念からすると『イザヤ不倫説』は、一部の神学的立場ではなく、広く福音主義に見られる神学的解釈で、聖書原典に忠実な訳文である、ということになりますよね。本当にそうですか?新改訳が掲げる翻訳理念は『看板に偽りあり』です。『特定の神学的立場を反映する訳出を避ける・・・特定の神学的立場に傾かない・・・』と唱えていますが、委員会は『イザヤ不倫説』が、福音主義各教派の共通認識であるという、確認作業をおこなったのでしょうか?おこなっていないはずです。これができないのであれば、見掛け倒しの翻訳理念など作らないことです。

信じられなことですが、イザヤ不倫説を正当化するインチキ神学者が、実際に日本や海外にいるのです。何故こんなことが起こるのでしょうか?その原因は『直訳主義、一語一訳主義』による誤訳です。日本人の多くは、中学高校で英語を必修科目として学びます。学校では『語彙を増やしなさい。語彙を増やせば英語が理解できるようになります』と教えますが、こうした詰め込み学習は外国語習得にとって弊害で、学校の単語詰め込み教育と文法主義が、直訳を生み出す元凶になっています。詳しくは『直訳は誤訳-1~3 オバマ大統領広島演説より』に書かせていただいたので、興味のある方はお読みください。

不思議なことですが、『妻(wife)』を表わす単語がヘブライ語にはありません。日本語話者には想像しにくいかもしれませんが、ヘブライ語の『ishshah イッシャー』は、『女、妻』両方の意味があり、イッシャーは『女と妻』を区別しません。単語で区別しない代わりに、表現形式で『女か妻』かを区別できる仕組みになっています。ヘブライ語の文で次の内容が表現されていれば、夫婦の間に子どもが生まれたという意味になります。

・男性(夫)
・めとる、体の関係を持つ(動詞 yada laqach qarab bowなど)
・女性(妻)
・妊娠し、出産する

イザヤ書8:3も同じ表現形式になっていることがお分かりになると思います。ユダヤ教の考え方からすると、その男女間で妊娠し出産をしたというのは、夫婦に神の祝福が与えられた(創世記1:27、28)という意味です。ですから『イザヤは妻と体の関係を持ち、妻が身ごもって男の子を生んだ』という解釈になります。もし、イザヤが不倫をしていたとしたら『妊娠し、出産した』という表現は使われません。ヘブライ語の原文解釈をする場合、単語一つひとつの解釈にこだわるのではなく、表現形式、文体に着目しなければなりません。当たり前のことですが、ヘブライ語は、日本語とは全く違う言語構造で成り立っています。直訳はできません。

ある翻訳では『ネビーアー=預言者の妻』という解釈をしていますが、これは苦し紛れの超意訳で、残念ながら、ネビーアーに預言者の妻という意味はありません。更に詳しいことは『ヘブライ語 qarab nebiah ことばの解釈』で書かせていただきました。興味がある方はお読みください。

文語訳、口語訳、新共同訳、新改訳、いずれも『イザヤ不倫説』を支持する解釈をしています。『イザヤは妻との間に子をもうけた』と正しく訳出するものは、日本語訳聖書では、リビングバイブルしかありません。日本ではリビングバイブルに対する偏見があるようですが、リビングバイブル訳文の品質は高いということが分かると思います。


次に3節後半に入ります。『その名を・・・と呼べ』というのは、どういう意味でしょう。生まれたばかりの赤ん坊の名前を声に出して呼ぶと、何かが起こったのでしょうか?New King James Versionの訳文は、次の通りです。3節後半です。

3 ・・・Then the Lord said to me, "Call his name Maher-Shalal-Hash-Baz;

callの意味は、この文脈では、息子に~と名付けたという意味です。説明するほどの内容ではないと思いますが、念のため、Merriam-Webster から call の定義を紹介します。

私訳
2 a : 名前を呼んで、他人ではなく、本人を特定すること。名付けること。例)ネコをキティーと名付けた。

2 a : to speak of or address by a specified name : give a name to (call her Kitty)
http://www.merriam-webster.com/dictionary/call

英語の聖書では、子どもの名前を・・・名付けさせたと表現されています。これは3番目となる預言の保全対策です。新改訳では『その名を・・・と呼べ』とありますが、これでは、名前を声に出して呼べという意味だと読者は受け取ります。英訳聖書では『名付ける』という意味です。

こうして、次のような訳文になりました。

3節の私訳
その後、私は妻と枕をともにした。主の霊を受けた妻は、のちに男の子を産んだ。主は私に言われた。「その赤ん坊をマヘル・シャラル・ハシ・バズと名付けよ。




(000)イザヤ書8章-2

2018年04月27日 | イザヤ書


この記事は、イザヤ書8章1節について新改訳と英語訳との比較をしています。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


~普通の文字で・・・書け?~

新改訳では『普通の文字で・・・書け』と訳されています。なぜ主は、普通の文字で書けと言ったのだろうか?普通の字とは・・・小さい字はダメ、大きい字もダメ。普通の大きさの文字で書きなさいということですよね。なぜでしょう?折角、大きな板を用意したのだから、文字も大きく書けばいいんじゃないのでしょうか?新改訳の訳文は、日本語として意味の通らないものになっています。

新改訳で『普通の文字で』となっているところは、英語の聖書では『ordinary letters』となっています。『だったら普通の文字でと訳して正解じゃないか』と、思われるでしょうか?学校では『ordinaryは、普通という意味です』と教え、辞書にもそう書いてあります。ところがordinaryには、それ以外の意味もあり『特に問題がない状態、特に異常がない状態』という意味もあります。ですから、ordinary lettersの意味するのは『読みにくい文字はダメだぞ。おかしな文字で書くなよ』ということです。

フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)は言語の恣意性について述べましたが、この内容を知った時、衝撃を受けました。言語の恣意性とは『その言葉の文字、発音が言語によって違うというだけではなく、その意味する内容も、バラバラである』というものです。言われてみれば当たり前のことなのですが、当たり前すぎて気が付かないのです。翻訳徒然草-1にも書かせていただきましたが『waterと水』『appleとりんご』『functionと機能』など、一見すると英語と日本語が対応しているように見えますが、その意味するものは互いにズレがあるのです。

ことばの持つ意味というのは水のようなもので、器の形が変われば、それに合わせて水も変化するように、文脈が変わればそれに合わせて、単語の意味も自由に変化します。waterの意味は、文脈によって水、海水、雨水、お湯、羊水と変化していきます。通訳者、翻訳者はその意味の変化を読み取っていかなくてはなりません。『water=水』であると学校では教え、『原文に忠実な翻訳』を信条とする人たちも、そのように訳語を固定してしまっています。これは言語の恣意性に反する教育法であり、翻訳法です。新改訳が掲げる直訳法というのは、言語そのものが持つ仕組みと相いれない翻訳手法なのです。

創世記11章のバベルの話では、神さまが言葉を混乱させたという記事がありますが、その混乱というのは表面的なものにとどまらず、言語構造の深い部分まで手を入れバラバラにされたんだなということを感じます。ソシュールの理論は、そのことを教えてくれました。

話を戻します。『読みやすい文字で書け』という解釈で、一件落着したかと思いきや、そうではありませんでした。新改訳の『普通の文字で』となっているところは、ヘブライ語の『cheret enowsh ハイレット エノーシュ』ということばで、英訳聖書では、その解釈が大混乱しています。

ハイレットを筆記具『pen ペン』と訳したもの
例)write in it with a man’s pen
例)人のペンで書け
21st Century King James Version
American Standard Version
King James Version
ほか

ハイレットを彫り込む道具『stylus ノミ』と訳したもの
例)inscribe on it with an ordinary stylus
Amplified Bible
New English Translation
New American Bible (Revised Edition)
ほか

ハイレットを『letters 文字』と訳したもの
例)write on it in ordinary letters
例)見やすい文字で記せ
English Standard Version
Living Bible
New American Standard Bible
新改訳
ほか


ハイレットの訳出で、そんな訳し方ができるの???と思う訳を二つ挙げます。

write upon it with a graving tool and in ordinary characters [which the humblest man can read]
ノミを使い、見やすい文字(教育を受けていない人にも読める文字)を刻め
Amplified Bible

ハイレットという一つのヘブライ語に対し、一つの訳文の中で『ノミ』『文字』と二つの訳語に増やしています。将棋の禁じ手『二歩』打ちのようなものです。下手な鉄砲数撃ちゃ当たる式の訳し方は反則行為です。また、教育を受けていない人にも分かるよう、絵で表せならまだ分かりますが、文字を習ったことのない人でも、読める文字で書けといいますが、これでは禅問答です。どんな文字で書けばいいものか、板の前でイザヤが悩んでしまうのではないですか?


write in indelible ink
消えないインクで書け
The Message

そんな魔法のようなインク、現代にもありませんよ!


次の訳文は、解釈の方向性が良いと思います。

Take thee a gillayon gadol (great slab), and write on it with cheret enosh
厚く大きな(石の)板を用意し、cheret enoshでしるせ
Orthodox Jewish Bible
※cheret enoshの解釈が困難であるため、ヘブライ語のまま表記しているところが難点。

Take to thee a great tablet, and write upon it with a graving tool of man,
大きな(石の)板を用意し、人が使うノミで文字を彫り込め
Young's Literal Translation
※ヘブライ語の解釈が困難であるため、tool of manと英訳してあるが、意味をなしていないところが難点。

Take for yourself a large tablet and inscribe on it with a common engraving tool
大きな(石の)板を用意し、石を刻むノミを使い文字を彫り込め
David Rubin
※Rubinさんの解釈が参考になります。ヘブライ語のenoshに対し、英語のcommonという訳語を選択していますが、この文脈におけるcommonの意味は『普通の』ではなく『作業に相応しい、専用の』という意味になります。

新改訳で『文字で』となっている箇所が、英訳では『ペン』『ノミ』『文字』『インク』とバラバラの解釈になっています。これでは判断のしようがないのでヘブライ語の意味を調べてみます。

ヘブライ語cheretの意味
an engraving tool, stylus, chisel, graving tool
物を刻むための道具、鉄筆、タガネ、ノミ、彫り込むために使う道具

ヘブライ語テキストでcheretが使われているのは、出エジプト32:4とイザヤ書8:1の2か所です。

出エジプト32:4 King James Version
And he received them at their hand, and fashioned it with a graving tool, after he had made it a molten calf・・・
アロンは、人々の手から金のイヤリングを受け取った。それを溶かし子牛の形にしたあと、タガネで掘り込みを入れた・・・

上の文では、ヘブライ語cheretが英語のa graving tool(彫り込むための道具)と訳出されています。ところがイザヤ書8:1で現れるcheretについては、『pen(で書く)』と訳が変わります。

イザヤ書8:1 King James Version
Moreover the LORD said unto me, Take thee a great roll, and write in it with a man's pen・・・
また主は言われた。『大きな巻物を用意し、人のペンで・・・書け

出エジプト32:4で『タガネ(で掘り込みを入れた)』と訳されたものが、イザヤ書8:1では『ペン(で書く)』と訳が変わっています。そこにはKing James Versionなど従来の英訳聖書が抱えている問題があり、tomonというギリシャ語を『本、巻物』と誤って解釈をしてきたことが原因ではないかと思うのです。詳しくは『イザヤ書8章-1 ~大きな板?~』をご参照ください。

もし、イザヤがこの箇所で『ペン(で書く)』ということを言いたかったのであれば、et(エイト)ということばを使っていたはずです。ヘブライ語 et は、鉄筆、ペンと訳されることばで、旧約聖書の4か所に使われています。

・・・わたしの舌はすみやかに物書く人の筆のようだ。詩篇45:1 
鉄の筆と鉛とをもって・・・ヨブ記19:24
・・・まことに書記の偽りの筆が・・・エレミヤ8:8
「ユダの罪は、鉄の筆、金剛石のとがりをもってしるされ・・・エレミヤ17:1

イザヤ書8:1で、イザヤが用意したものは石の板材(ギリヨーン)だということは先に書きましたが、石に文字を記すということは、石に彫り込むということだと思うのです。もし、石の表面にインクで書いたとしたら、こすれたらすぐ落ちて消えてしまいます。石にインクで文字を書くというのは、記録として残すことを考えると、有効な方法ではありません。石に彫り込むことが、記録として残すのに有効な手段です。石という材料に対し、一番合理的な記録方法は、ノミを使って彫り込むことです。ハイレットの基本的な意味が『ノミ』であること。また、先に述べたように、ギリシャ語の底本にも『grafidi ノミ』ということばがあることに注目したいのです。

ヘブライ語enowshの意味
1) man, mortal man, person, mankind 1a) of an individual 1b) men (collective) 1c) man,
2) soldiers, husband, leaders, warriors

1節の原文解釈で最大の難関は、このenowshエノーシュの解釈で、どの英訳聖書もその解釈で手こずっているようです。この解釈ができれば、1節における解釈が50%できたと言っても過言ではないと思います。なぜなら、enowshエノーシュの意味が分かれば、heretハイレット(ノミ)の意味が明らかになり、heretハイレット(ノミ)の意味が明らかになれば、gillayown ギリヨーン(石の板)の意味が明らかになるからです。

enowshの定義2)に注目したいと思います。ここでは、軍人、夫、リーダー、兵士といった意味が並べられており、言い換えると、社会人として一人前の職責を果たせる大人といえるでしょう。

この定義を読んで思いだしたことがあります。アイヌ語の『アイヌ』ということばです。その意味は、人間、大人という意味です。カムイ(神)の対義語としての『人間』、未成年者の対義語としての『一人前の大人』、怠け者ではない『社会で働く人』といった意味があったと思います。

enowsh、アイヌ共に『一人前の仕事ができる』大人という意味が共通していますよね。enowshエノーシュという語が、cheretハイレット(ノミ)を修飾しているというのは、多くの英訳聖書が認める解釈です。『enowsh+ノミ』を『熟練した職人が使うノミ』と解釈する英語の解説がありました。解釈の方向は悪くはないと思いますが、次のように解釈した方が素直だと思います。この文脈におけるenowshの解釈は『きちんと仕事ができる状態の+ノミ』→『刃先を研いだ切れるノミ』になります。

石工のような職人であれば、毎日のように石を刻むに違いありませんが、預言者が石工のように、毎日石を刻む仕事をしていたということは、なかったと思います。一度、石を刻む作業をしたとしても、しばらくの間、ノミは使われることなくしまわれます。そのうちノミは錆びつくでしょうし、前の作業で刃先がこぼれ切れなくなっています。こうした状況を主はご存じであったので『ハイレット・エノーシュ ノミを研ぎ(文字を刻め)』と言われたように思います。私の勝手な想像ですが『ハイレット・エノーシュ』と主が言われたことばは、あたかも、朝家を出るこどもに『忘れ物はない?○○持っていくんだよ』と、親がこどもを気遣うさまを連想させます。『しまってあるノミは錆びついて刃先もこぼれてるだろ。石を刻む前に、ノミを研ぐのを忘れるなよ』といった、主の気づかいを感じます。

従って1節でいいたいのは、大きな石の板を用意しろ。ノミを研ぎ、文字を彫り込めということでしょう。


~マヘル・シャラル・ハシ・バズ?~


マヘル・シャラル・ハシ・バズ(上図)の意味は『分捕り物は素早く、略奪は速やかに』であると解説されることが多いようですが、それだと、アッシリヤはテキパキと略奪をする、略奪する行為が迅速だという意味になります。それでは、意味をなしていないのではないでしょうか?こうした解釈は違うと思います。

『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』の意味を、Orthodox Jewish Bibleでは、8章1節の訳文の中で、次のコメントを挿入しています。

私訳
・・・Maher Shalal Chash Baz(略奪の日は、迫っている。はく奪の日は、すぐにも訪れる、という意味。アッシリヤが、シリヤとイスラエルを滅ぼしに来る時期が緊迫し、イザヤのこどもの成長が、その預言成就を示す生き時計となった。4節参照)

原文 1節後半
・・・Maher Shalal Chash Baz (The Spoil Speeds, the Booty Hastens [i.e., the coming Assyrian defeat of Syria and Israel is imminent and the life of this son of Isaiah is a prophetic time line. See verse 4 below]).
http://www.biblegateway.com/passage/?search=Isaiah+8&version=OJB

『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』とは、略奪行為が迅速だという意味ではなく、略奪の日が近いことを意味しています。また、それがイザヤの息子の成長と関係しているぞといっているのです。手元にある新改訳では『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』の解説が、本文中にも欄外にもありません。このことばはヘブライ語ですから、一般の日本人が読んでも意味が分かりません。読者への配慮がなく、不親切です。意味を付け加えるべきでしょう。欄外に注記して、それを参照させるのも一つの方法ですが、わざわざ本文から目を移動させ、欄外を探すのは読者にストレスを与えます。短い解説で済む場合であれば、本文中に(略奪の日は迫っている。はく奪の日はすぐにも訪れる)と挿入した方が、読者に親切で読みやすいと思います。

こうして、次のような訳文になりました。

1節の私訳
主は私にお命じになった。「大きな石の板一枚と砥いだノミを用意し『マヘル・シャラル・ハシ・バズ(略奪の日は迫っている。はく奪の日はすぐにも訪れる)』と刻め」。





(000)イザヤ書8章-1

2018年04月26日 | イザヤ書


この記事は、イザヤ書8章1~4節について新改訳と英語訳との比較をしています。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


~イザヤ書8章1~4節 新改訳~

1)主は私に仰せられた。「一つの大きな板を取り、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため』と書け。 2)そうすれば、わたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤをわたしの確かな証人として証言させる。」 3)そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。すると、主は私に仰せられた。「その名を、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と呼べ。 4)それは、この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである。」

新改訳の訳文を読んでも、何が言いたいのか、私にはさっぱり分かりません。


~参考にした英語のテキスト~

残念ながら私は、聖書をヘブライ語やコイネー・ギリシャ語などの原語で読むことができません。それで、英語の複数のテキストを参考に解釈をしました。

40以上の英訳を並べて閲覧できるサイト
Bible Gateway

英訳-ヘブライ語の対訳を、閲覧できるサイト
The NET Bible
Bible Apps.com by Biblos
Parallel Hebrew Old Testament

ギリシャ語、ヘブライ語のオリジナル・テキストを閲覧できるサイト
academic-bible.com


~原文解釈二つのアプローチ~

原文解釈には、二つのアプローチがあると思います。一つは、中学校、高校で教わった方法で、初めに、原文の文法の分析や、個々の単語の分析から始め、一度英文をばらばらに分解したあとで、それらを再度構築していく方法です。

もう一つは、我流ではありますが、原文が何を伝えようとしているのかその意図(何を言わんとしているのか)を捉える方法で、初めに輪郭を設定します。次に、輪郭の中を埋めていきます。そこで、設定した輪郭が不適切であったと分かった場合、輪郭を再設定します。次に、再度輪郭の中を埋めるといった作業を繰り返します。

後者の方法で解釈していきます。


~輪郭を描く~

複数の英語のテキストを読んで共通している解釈、違いがあるところを拾い出します。必要と思われるか所は、ヘブライ語の底本を調べ輪郭を作ります。イザヤ書8章1~4節では、輪郭を作る二つのポイントがあると思います。 登場人物を把握することと、ストーリーを把握することです。

登場人物

英語のテキストから、主、イザヤ、二人の証人、女預言者、女預言者が産んだこども、アッシリヤ王が登場人物だと分かります。ここですでに問題発生です。新改訳の3節では『私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった』と書かれています。また口語訳では『わたしが預言者の妻に近づくと、彼女はみごもって・・・』とあります。従来の日本語訳聖書ではいずれも、イザヤ不倫説を支持する解釈になっていますが、女預言者とは、実は『イザヤの妻』をさしており、ヘブライ語では、夫婦の間に子どもが生まれたという表現になっています。イザヤ不倫説を取る従来の日本語訳は誤訳です。

ストーリー

将来、ダマスコと、サマリヤに戦禍が起こると主は宣告する。この主の預言を前もって記録しておき、預言が確かに成就することを証明する必要があります。預言の保存には、三重の保全策を講じた。板にしるすこと。預言の記録に二人の証人を立てること。イザヤに生まれたこどもの名前として残すことの、三重の対策です。ただし、二人の証人を立てたのは、主ではなくイザヤです。これは預言の証人という役割以外に、ほかの意味合いもあったようです。詳しくはあとで記述します。ダマスコ(シリヤ)と、サマリヤ(北イスラエル)の陥落は、イザヤに生まれた赤ん坊が、ことばを話し始める前に起こると主はいわれた。

以上で、輪郭ができました。この輪郭を作るため、いくつかの英訳聖書を下訳し比較しています。輪郭ができたあと、細部の検討に入りますが、そこで新たな問題が見つかった場合、再度輪郭を設定しなおします。輪郭の設定→細部の解釈→輪郭の再設定→細部の再解釈という作業を繰り返し、解釈を練るので、その全過程を記述することができません。ここで書いているのは要点です。

輪郭ができれば、8割がた翻訳ができたようなものです。次から、輪郭の内部を埋める、細かい解釈に入ります。


~1節の解釈と私訳~

1節 新改訳 
主は私に仰せられた。「一つの大きな板を取り、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため』と書け。

1節で検討すべきところが3つあります。
・大きな板
・普通の文字で・・・書け
・マヘル・シャラル・ハシュ・バズ


~大きな板?~

新改訳では大きな『板』という解釈ですが、新共同訳では『羊皮紙』となっています。この違いは底本にしているテキストの違いで、マソラ・テキスト(Masoretic ヘブライ語)を底本とした場合、『gillayown ギリヨーン』ということばで『板材』と訳出されるようです。一方、七十人訳(Septuagint ギリシャ語訳)を底本とした場合『τομον tomon』というギリシャ語を『パピルス、巻物』と解釈してきました。板か羊皮紙か、どちらの解釈が正しいのか調べてみましょう。

始めに、七十人訳(ギリシャ語)から見てみます。2003年に出版された英訳聖書に、Apostolic Bible Polyglot(ABP)という聖書があります。このABPのイザヤ8:1を見ると『τομον tomon』というギリシャ語を『roll of papyrus new a great 新しく大きなパピルスの巻物』と英訳されています。『tomon』は聖書の中で、ここイザヤ書8:1でしか現れないので、その意味を定義する客観的データが極めて乏しいことばです。七十人訳聖書を見ると、tomonということばに対し、正式なストロングナンバー(Strong Numbers)が与えられていません。これは、tomonの意味が解明できていないということです。

tomonの解釈を一度脇に置いておき、別の視点からアプローチします。同じ1節の中で使われる『γραφίδι grafidi』ということばに注目します。『grafidi』ということばは、イザヤ書以外で4回使われていますが、いずれも『ノミ、タガネ(で刻む)』という意味です。

以下の英文はApostolic Bible Polyglotからの引用です。

出エジプト32:4
And he took them from out of their hands, and he shaped them with the stylus. ・・・
アロンは、人々の手から金のイヤリングを受け取り、それにタガネをあて(金の子牛)像を作った

1列王記6:29
And all the walls of the house round about [sculptures he depicted] with a stylus – cherubim・・・
神殿内全ての壁面はノミで彫刻をほどこされ、ケルビム・・・

エレミヤ17:1
Thus says the lord . The sin of Judah is being written with [stylus an iron] with clawed adamantine being carved upon the tablet of their heart,・・・
主は次のように言われた。ユダ族が犯してきた罪は、鉄のノミ、鋼鉄の刃先でユダ族の記憶に刻まれる

エゼキエル23:14
And she added unto her harlotry, and she saw men having been portrayed upon the wall, images of Chaldeans having been portrayed with a stylus
あの淫らな女、ユダ族が、姦淫の罪を繰り返していた時、ノミで壁に彫り込まれた男の像を目にした。その姿はカルデヤ人のようであった

このようにすべて『stylus ノミ、タガネ』と訳されていますが、イザヤ書8:1だけ『ペン、筆』という解釈に変わります。

イザヤ書8:1
And the lord said to me, Take to yourself [roll of papyrus new a great], and write on it with the pen of a man・・・
主は次のように言われた。『新しく大きなパピルスの巻物を用意し、そこに人のペンで記せ・・・

イザヤ書だけ『ペン(で書く)』と訳された原因は、従来の聖書がtomonを『book,roll 本、巻物』と訳してきたため、『巻物にノミで刻む』では、おかしな訳文なので『巻物にペンで書く』と、強引な変更を加えたことに因るのです。ラテン語訳ウルガタ聖書の段階で『librum(liber) 書物』と誤訳されています。

ラテン語ウルガタ聖書 Latin Vulgate 382年 
・・・Sume tibi librum grandem, et scribe in eo stylo hominis・・・
私訳 大きな書物(本、巻物)に人のペンで書き記せ
※ラテン語styloは『先の尖ったもの』という意味で、ノミという意味も含まれています。

Wycliffe Bible 1390年
And the Lord said to me, Take to thee a great book, and write therein with the pointel of man ・・・

The Douay–Rheims Bible 1582年
And the Lord said to me: Take thee a great book, and write in it with a man' s pen ・・・』

Geneva Bible 1599年
Moreover the Lord said unto me, Take thee a great roll, and write it with a man's pen ・・・

King James Version 1611年
Moreover the Lord said unto me, Take thee a great roll, and write in it with a man's pen ・・・

ウルガタ聖書はtomonを『librum 書物』と解釈したため、中世以降の翻訳で『本、巻物、羊皮紙』と訳されることになりました。そして『本に・・・ノミ(で刻む)』ではおかしいので『ノミ(で刻む)→ペン(で書く)』と強引な変更を加えたのです。先に述べたように、ギリシャ語『grafidi』は4か所で使われていて『ノミ、タガネ』という意味に絞られています。そうであれば『ノミ(で刻む)』という解釈が妥当で『本(巻物)』という解釈に疑いを向けるべきなのです。ギリシャ語『トモン』の意味を調べてみると、トモンには『板』という意味があることが分かります。

イザヤ8:1抜粋
τόμον καινόν μέγαν
トモン カイノン メガーン
(ABP)roll of papyrus new a great
(ABP)新しく大きなパピルスの巻物

・τόμον tomon(5113.4?) tomeは切る、切断するという意味。tomnは(木、石などの)切り取られたものという意味。  tomosは、切り取られたもの、板状のものという意味。 ギリシャ語tomonに(木や石の)板という意味があると考えて問題ないでしょう。
・καινός カイノス(2537) 新しい、使ったことのない
・μέγας メガス(3173) 大きい、広い、重い

τόμον καινόν μέγαν 
トモン カイノン メガーン 
(私訳)新たに大きな(石の)板を切り出し

ギリシャ語tomonには(木や石の)板という意味があることが分かりました。次に、ヘブライ語のマソラ・テキストではどうなっているのかを見てみます。新改訳で『板』と訳されたのは、『gillayown ギリヨーン』という語で、その意味は、table, tablet, mirror, flat shiny ornament(机、板材、鏡、鏡面仕上げの板材)とあります。ヘブライ語もギリヨーンは『板』に関する意味を持つことが分かります。主がイザヤに用意をさせた『ギリヨーン』とは、『木の板』だったのでしょうか?『石の板』だったのでしょうか?ほかの材料だったのでしょうか?このギリヨーンが何を指すのかについて、もう少し掘り下げて検討をしたいのです。何故なら、このギリヨーンの解釈と、後に続く『普通の文字で・・・書け』の解釈が密接に関係してくるからです。

現代は、ホームセンターに行けば、大きな金属板、大きな木の板などを、いつでも買うことができます。しかし、今から2,700年前に、ビバホームやカインズはありません。大きな金属板を手に入れることは容易なことではなかったはずです。金、銀、銅であれば、1,100度の加熱ができれば溶融できますが、鉄は1,600度必要です。技術的に金属板を作ることはできたでしょうが、時間、手間、燃料などが掛かる貴重品だったことでしょう。

同じように、木の板にしても、大きなものを用意するのは簡単ではなかったはずです。ソロモンは神殿、王宮建設で使った木材を、隣国ツロから調達したということですから、イスラエルには建築用の木材が、なかったということです。現代は、合板、集成材といった工業的に作られた板材があるので、大きな板を簡単に入手できます。イザヤの時代にはこうした工業製品はありません。木の板といえば、天然の一枚ものの板しかないのです。イスラエルの地で、大きな木の板が簡単に入手できたとは思えません。仮に、幹の太い大きな立ち木を見つけたとしても、切り倒したあと、すぐには加工できません。樹液を抜き乾燥させるのに最低でも1年は要します。含水率を15%程度まで下げておかないと、干割れを起こします。もしかしたら、大きな板材が、エルサレムの材木問屋にストックされていたかもしれません。あったとしても、王家の家具や建築材で使うような高価な贅沢品だったはずです。現代イスラエルでも、木材は貴重品として取引されています。

日本人が『板』という言葉を聞くと、どうしても木の板をイメージするのではないでしょうか。それは、日本には木材が豊かにあり、木の文化に親しんできたからです。『板』という文字自体既に『木ヘン』で表記されているのですから、『板』と聞けば木の板をイメージするのが当然だと思います。日本人には、こうした文化的背景があります。しかし、翻訳をする上で、自分には日本人としての先入観があるということに、気づく必要があります。難しいことばでは『母語干渉、自文化の干渉』と言われるものです。

たとえば、日本語では『水』と『お湯』を別のことばで区別します。『水』には『冷たい』という温度の概念が含まれています。ところが、英語の『water』には、水、お湯両方の意味があり、『water』には『冷たい』という温度の概念が含まれていません。日本人が『water=(冷たい)水』と誤った理解をする原因は、『母語干渉』が働くからです。外国語学習で肝に銘じておかなければならいのは『直訳できない』ということです。通訳者、翻訳者は原文解釈をする時『母語干渉、自文化の干渉』が起きていないか、常に自分自身をチェックしなければなりません。こうしたことは学校英語では教えません。直訳英語を教える学校にとって、都合が悪いからです。

『板』の話しに戻します。大きな金属板、若しくは大きな木の板にしても、高価な貴重品だったはずですから、そのような高価な材料は、入手できなかったことでしょう。また、神さまが、入手困難な金属の板や大きな木の板を用意させる、不合理なことをイザヤに命じたとも思えません。

1節のヘブライ語テキストでは、ギリヨーンということば以外に、材質を指し示すことばがありません。材質を指し示すことばがないということに注目すべきです。神さまがイザヤに『私のことばをギリヨーンに記せ』といえば、預言者は『あっ、いつものものだな』と理解できたので、わざわざ材質を指示していないのだと思います。

旧約聖書の中では、出エジプト記 24、31、34章に、十戒が石の板にしるされたことが記述されています。申命記27章には、イスラエル一族がヨルダン川を渡ったのち、神さまが命じられたことを大きな石に記しています。次に新約聖書の中では、コリント人への手紙第二3章に、石の板にではなく、人の心の板に書かれたもの・・・もし石に彫りつけた文字による死の務・・・と記述されてるように、新約時代に生きたパウロも、石、石の板が、みことばを記す代表的な材料だと認識していたことがうかがえます。ユダヤ人にとって、石の板はみことばを記す定番の材料です。


シロアムの石碑 JERUSALEM 101より引用
エルサレムの地下を流れるシロアム水道は、水下にあるシロアムの池に注ぐ。この暗渠(あんきょ)の壁面にフェニキア文字で6行の文言が記されていた。列王記第二20章20節と似た内容が記されている。1880年 C Schick氏が発見。実物はイスタンブール考古学博物館が所蔵。

イエスさまを象徴する譬えとして『隅の親石、躓きの石、神に選ばれた尊い生ける石』という表現がされています。また旧約聖書の中で『岩』は神の象徴として記述され、『石』は選民イスラエルや神のことばを象徴しているようです。マタイ4:3を見ると、断食を続け空腹だったイエスさまのところに、サタンがあらわれ『石をパンに変えてみたらどうか?』と勧めますが、イエスさまは『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と答えています。イエスさまは『武士は食わねど高楊枝!腹なんかちっとも空いてねえぜえ』と、やせ我慢をしたのでしょうか?違いますよね。

サタンが言った『パン、』に対し、イエスさまは『パン、神のことば』と対比させているところに注目してみます。この断食の場面は、イエスさまがこれからメシアとして公に活動を始める、出だしにあたるところです。サタンは『断食なんかやっても、腹がすくだけだろ。神に従う生き方なんて、もう辞めてしまいなよ。オレが面倒みてやってもいいんだぜ』と公生涯の出鼻をくじく大きな誘惑をしているように見えます。それが『石(神のことばに従う生き方)をパン(この世の生き方)に変える』ということばの意味で、単に『空腹を満たしなさい』といっているのではないように思います。イエスさまはユダヤ人として生まれ、ユダヤ文化を身に付け成長したのですから、このサタンとイエスさまのやり取りも、ユダヤ文化というフィルターを通して見ると、より立体的な解釈ができると思います。

ヘブライ語『eben エベン』は石という意味で、『ben ベン』は息子、子孫という意味です。発音が似ていますが、ヘブライ語では、韻をふんだ表現が好んで使われます。『石 エベン』ということばは、『神に選ばれた子孫 ベン』を象徴しています。物理学者アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)はユダヤ人の家系に生まれましたが、ドイツ語のアインシュタイン(Einstein)は『一つの石』という意味です。ユダヤ人にとって『石』は民族のアイデンティティーを象徴しています。

日本では、お墓参りのとき墓前に花をたむけることが一般的ですが、ユダヤ人のお墓では、花ではなく、小石を一つ置いて帰るのが慣わしです。石には『神に選ばれた子孫』という意味があるからです。次の動画は、エルサレム、オリーブ山のユダヤ人墓地の風景を映したものです。墓石の上に、小石が置いてあるのをご覧ください。

Cemetery on the Mount of Olives


ヘブライ語は右から左に書き進めますが、その理由は、左手に持ったノミを、右手のゲンノウで叩くと、自ずと右から左に手が進みます。このように、石の板に文字を彫り込む文化があったため、右から左に文字を表記するようになったのだろうといわれてます。また、フリーメイソンといわれる団体は、イスラエルの石工職人同盟がその起源であったといわれています。日本と違い、イスラエルには石が密接に関わった文化があったのです。日本人の感覚として、固い石の板に文字を彫り込むなんてものすごく大変な作業だろうなと思われるでしょうが、作業に慣れた人にとってはそうでもないようです。

次の動画は、ノミで墓石に文字を彫り込む作業を映したものです。ここでは芸術的ともいえるレタリング作業なので時間をかけ丁寧に彫り込んでいますが、預言者が文字を彫り込む場合、ここまで手間ひまをかけた仕事はしていないでしょう。墓石に刻まれた『ROSEMARY』という文字は、忘れない、記憶に残す、追悼するという意味になります。
Hand Carving Stone Lettering - DJB David J. Brown Stonemason


新改訳で『大きな板』と訳された箇所を検討してきました。ギリシャ語『tomon』、そして、ヘブライ語『gillayown』は『板に関係した意味を持つ』ことが分かりました。また、ヘブライ語、ギリシャ語それぞれの底本に『ノミ(で刻む)』ということばが使われているのですから、『本、巻物、羊皮紙』という解釈が間違いであったということです。ユダヤ教の預言者イザヤが、神さまのことばを記すため用意した『gillayown』とは・・・『石の板』です。


(000)ギリシャ語 γίγαντες ギガンテスは巨人か? 創世記6章ほか

2018年04月25日 | ことばの解釈



新改訳 創世記6:4
神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

『נְפִילִים ネフィリム』は、創世記6章と民数記13章に登場します。神学者や聖書学者は『ネフィリムとは、天使、堕天使、サタン、宇宙人、カインの子孫、巨人・・・である』と、間違った解釈をしてきました。中でも『ネフィリムは巨人である』という誤解が、一番根強いようです。70人訳聖書(ギリシャ語)を見ると、ネフィリムが『γίγαντες ギガンテス』と翻訳されています。

現代のギリシャ語-英語辞書は『γίγαντες gigantes:giant 巨人(Glosbe.com)』この様に説明していますが、これは辞書の間違いです。紀元前3世紀、70人訳をおこなった翻訳者は『ギガンテス:ギリシャ神話の神ギガンテス、ならず者集団ギガンテス』こういう意味で使っています。現代人が考えたことばの定義を、70人訳に当てはめることが間違っているのです。聖書で使われた『ネフィリム、ギガンテス』に『巨人』という意味はありません。この記事は、70人訳聖書で使われた『ギガンテス』の意味を、徹底検証します。

この記事の目次
・ギガンテスことばの輪郭を描く
・70人訳聖書とギガンテス
・創世記6:4 ギリシャ語とヘブライ語
・歴代誌上20:8 ギリシャ語とヘブライ語
・ヨブ記26:5 ギリシャ語とヘブライ語
・イザヤ書13:3 ギリシャ語とヘブライ語
・イザヤ書14:9 ギリシャ語とヘブライ語
・誤解のもとは外典エノク書



~ギガンテスことばの輪郭を描く~

ギガンテスはギリシャ神話に登場する神です。女神ガイアは、100人のギガンテスを生みます。ギガンテスは、人間の体と獣の体を併せ持つ、生まれながらの乱暴者で、大木を引き抜いてこん棒の様に振り回したり、巨岩を投げつけ、武器にしました。手の付けようがない乱暴者だったのですが、ある時、弱点がばれると、ほかの神々にやっつけられます。

ギガンテスは集団名で、今風にいえば『○○組、○○一家、○○連合』といったところでしょうか。ギガンテス一家の一人ひとりに個別の名前があるようです。ギガンテス一家、若頭のポルフィリオンは、ゼウスが放った稲妻と、ヘラクレスが放った矢によって命を落とします。ギガンテスは次々と打ち負かされ、生き残ったギガンテス一味は、最終的に、地下(海の底)に永遠に閉じ込められ、一巻の終わりとなります。ギリシャ近辺で、地震や火山の噴火が起こる時、それは、地中に閉じ込められたギガンテスが暴れるからだと言われています。以上が、ギリシャ神話のギガンテスです。一部、日本風に脚色させていただきました。

ギガンテスの特徴は、次のようになります。
・暴力を好むならず者集団
・海の底に、閉じ込められた悪霊

引用サイト
wikipedia.org
theoi.com
greeklegendsandmyths.com


古い時代の絵や彫刻を見ると、ギガンテスは、下半身がヘビや龍になっている、半人半獣として描かれています。私が調べた範囲では、古い時代の作品で、ギガンテスを巨人として描いているものはありません。ギリシャ神話に登場する神々は、ある時は人間と同じサイズで記述され、ある時は巨人のように記述されます。ギリシャ神話の神は、しばしば巨人のように描かれることがあって、ギガンテスだけ際立って大きいということではありません。ギガンテスが巨人として描かれるようになったのは、のちの時代になってからではないかと思います。ギリシャ神話は、紀元前8世紀頃、ホメロス(Homer)、紀元前7世紀頃ヘシオドス(Hesiod)によって編纂(へんさん)されますが、内容に食い違いがあるようです。

ギガンテス




~70人訳聖書とギガンテス~

70人訳聖書は、コイネー・ギリシャ語で書かれています。ヘブライ語の話しを、ギリシャ神話と重ね合わせ、神話に関係するギリシャ語を引用し巧妙に翻訳されています。翻訳上、興味深いテクニックが至るところで使われているので、翻訳者にとって良い勉強になるはずです。70人訳聖書で『γίγαντες ギガンテス』ということばが使われたのは、10個所あります。このうちヘブライ語聖書(正典)と比較できるのが以下の5か所です。残りは外典に含まれるので、ここでは検討しません。



ギガンテスは、ギリシャ神話に登場するギガンテスの特徴に、極めて似ていることが分かります。ギガンテスが巨人という意味で使われているところは、一つもないですよね。もし『ギガンテスは巨人という意味である』と仮定したら、歴代誌、ヨブ記、イザヤ書の文脈に合わなくなります。現代の私たちが手にする辞書には『ギガンテス=巨人』と解説されていますが、今から2,300年前、70人訳を翻訳した人は、そういう意味で使っていなかったということです。何度も言ってることですが『辞書や文法書を信用するな!』ということです。ギガンテスが使われた5か所について、更に詳しく調べてみましょう。



~創世記6:4 ギリシャ語とヘブライ語~

Biblehub.com ギリシャ語
Studybible.info ギリシャ語
創世記6:4 ギリシャ語


私訳 創世記6:4 ギリシャ語
ある時、暴力を好むならず者(ギガンテス)が、全地に広がった。神に創られた人間であったが、誰もかれも、乱暴な人間(ギガンテス)になった。


γίγαντες ギガンテス
暴力を好むならず者  

ギガンテスの語源は『γίγα ギガ』になります。Academic.comが、良い説明をしているので引用します。
γίγα mighty 大きな力を持つ、強い
ギガは『大きな力を持つ』という意味ですから、ギガンテスは『大きな力を持つ者、強者(つわもの)』となります。巨人ではありません。


Biblehub.com ヘブライ語
創世記6:4 ヘブライ語


私訳 創世記6:4 ヘブライ語
ある時、暴力的で悪名高いネフィリム(暴力を好むならず者)が現れると全地に広がった。神に創られた人間であったが、親から子に引き継がれるのは、悪い行いばかりであった。


הַנְּפִלִ֞ים ハンネフィリム(5303) Strong's Exhaustive Concordance
弱者を虐げる者、暴力で人を支配する者  語源となる動詞:ナファール

נָפַל ナファール(5307)動詞 Biblehub.com
武力を使う、人を屈服させる、悪人

創世記6:4、ヘブライ語ネフィリムは『弱者を虐げる者、暴力で人を支配する者』という意味で、ギリシャ語ギガンテスは『暴力を好むならず者、乱暴者』という意味で使われています。ネフィリムとギガンテスは、同じ意味で使われています。ヘブライ語原文と70人訳訳文は、同じ内容になっているので、70人訳は正しく翻訳されてることが分かります。



~歴代誌上20:8 ギリシャ語とヘブライ語~

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歴代誌上20:8 ギリシャ語


私訳
この4人は、ガテで反乱を起こした暴徒たちであったが、ダビデ軍に討(うち)とられた。


ギリシャ語Ραφα ラファは、ヘブライ語 רָפָא ラファの音訳です。
רָפָא ラファ(7497)名詞、固有名詞
反抗、抵抗、反乱

γίγαντες ギガンテス
武力で抵抗する者たち、反乱を起こした暴徒


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歴代誌上20:8 ヘブライ語


私訳
これは、ガテで反乱を起こした暴徒たちであったが、ダビデ軍に討(うち)とられた。


רָפָא ラファ(7497) 名詞、固有名詞
反抗、抵抗、反乱

רָפָא ラファ(7495) 動詞
回復する、癒す、(病気、傷)を癒す、(国土、主権)を回復する

ヘブライ語-英語辞書を見ると『ラファは巨人である』と解説されています。これは、全く根拠がないデタラメ。辞書の間違いです。辞書の間違いは、結構あります。ヘブライ語の名詞は、動詞から派生して作られています。動詞ラファは『癒す、回復する』という意味ですから、この文脈では(国土、主権)を回復するという意味で使われています。『イスラエルに領土を奪われたガテ族が、自分たちの主権を取り戻そうと武器を持ち立ち上がった』こういう意味です。これをイスラエル側から見ると『反抗、反乱』になります。私訳は『反乱を起こした暴徒たち』と訳出しました。

ヘブライ語原文と、70人訳訳文は、同じ内容になっているので、70人訳は正しく翻訳されてることが分かります。ギガンテスは『武力抵抗する者、反乱を起こした暴徒』という意味で使われています。



~ヨブ記26:5 ギリシャ語とヘブライ語~

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ヨブ記26:5 ギリシャ語


ここは、表と裏両方の解釈ができます。ヘブライ語が語る真意は、裏の解釈になります。

私訳 表の解釈
乱暴者の霊というのは、海の底にいる黄泉の霊と同じではないか。

私訳 裏の解釈
乱暴なことばは、心の底から湧き上がる。心が、黄泉の死霊に捕えられているからだ。


γίγαντες ギガンテス
黄泉に下った死者の霊、乱暴者の霊

インターリニアや辞書を見ると、μαιωθήσονταιの解釈が混乱しています。μαιωθήσονταιの語源となるのがτίθημι(5087)で、これは『設定する、定める』という意味です。


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私訳 表の解釈
悪人の霊というのは、海の底にいる黄泉の霊と同じではないか。

私訳 裏の解釈
乱暴なことばは、心の底から湧き上がる。心が、黄泉の死霊に捕えられているからだ。


הָרְפָאִ֥ים ラファ(7496)
悪人の霊、死者の霊(対義語ルアハ)

יְחֹולָ֑לוּ フール(2342)
定められる、作られる

וְשֹׁכְנֵיהֶֽם シャハーン(7931)
住む、墓場とする、宿る

ヘブライ語原文と、70人訳訳文は、同じ内容になっているので、70人訳は正しく翻訳されてることが分かります。ここで使われたギガンテスは『黄泉に下った死者の霊、乱暴者の霊』という意味で使われています。

困ったことですが、ヨブ記は大変誤解されています。神学者は、次のようにいいます。ヨブ記は『知恵文学、壮麗な叙事詩、芸術的詩文、世界的な文学作品、高等神学である』。まるで神のように持ち上げます。その一方『文書に整合性がない、表現が難解、アラム語やセム語から翻訳されている、複数の人物が書いた継ぎはぎ文書である』と、ボロクソにくさします。これは、神学者が、翻訳に苦しんだとき口にする、常とう句です。神学者の詭弁(きべん)に騙(だま)されてはいけません。ヘブライ語聖書は、一般的なユダヤ人であれば、誰もが理解できる、身近なことばで書かれていました。神学者が、ヨブ記を必要以上に持ち上げたり、貶(おとし)めるのは『翻訳できないのは私の能力が低いからじゃないからね。ヘブライ語テキストに問題があるんだよ』と、言いわけを作りたいからです。ヨブ記が、意味不明な日本語に翻訳されたのは、翻訳の知識も実務経験もない人物が翻訳をおこなったからです。機会があれば、ヨブ記の解釈の仕方についても書かせていただきます。



~イザヤ書13:3 ギリシャ語とヘブライ語~

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イザヤ書13:3 ギリシャ語


私訳 イザヤ書13:3 ギリシャ語
私は、バビロンに怒りの鉄槌を下す。バビロンは、血も涙もない荒くれ者に、なぶり殺しにされるだろう。


γίγαντες ギガンテス
荒くれ者、強者


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イザヤ書13:3 ヘブライ語


私訳 イザヤ書13:3 ヘブライ語
私は、バビロンに怒りの鉄槌を下す。バビロンは、血も涙もない荒くれ者に、なぶり殺しにされるだろう。


גִבֹּורַי֙ ギボール(1368)
荒くれ者、強者(つわもの)

ヘブライ語原文と、70人訳訳文は、同じ内容になっているので、70人訳は正しく翻訳されてることが分かります。ここで使われたギガンテスは『荒くれ者』という意味で使われています。



~イザヤ書14:9 ギリシャ語とヘブライ語~

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解釈文
怒りをたたえ、黄泉の悪霊が立上る。地上の王が立ち上がる。諸国の王が立ち上がり、バビロン王を包囲する。

私訳 イザヤ書14:9 ギリシャ語
怒りをたたえ、黄泉の死霊が立ち上がる。諸国の王は立ち上がり、バビロン王を包囲する。


ᾅδης ハデス(86) =シェオール
黄泉の国、死後の世界、暗黒の世界

γίγαντες ギガンテス
黄泉に下った死者の霊


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イザヤ書14:9 ヘブライ語


解釈文
海の底の黄泉の国が立ち上がる。お前と対峙する。黄泉の霊が起き上がる。世界中の君主が起き上がる。外国の王は、王座から立ち上がる。

私訳 イザヤ書14:9 ヘブライ語
黄泉の死霊が立ち上がる。諸国の王は立ち上がり、バビロン王を包囲する。


שְׁאֹ֗ול  シェオール(7585)
死後の世界、黄泉の世界

רְפָאִים֙ ラファ(7496)
死者の霊、死者

ヘブライ語にありませんが、70人訳に『怒りをたたえ』という表現があります。これは、70人訳の翻訳者が『勝手な付け足し、勝手な意訳』をおこなったのでしょうか?違います。ヘブライ語に『怒りをたたえる』ということばはありませんが、行間に『怒りをたたえる』という感情(モダリティ)が埋め込まれています(1~8節)。ここ9節をギリシャ語に翻訳する場合、『怒りをたたえる』ということばを言語化しないと、訳文の意味が完成しないので、行間に埋め込まれたことば(モダリティ)を、再現したということです。70人訳の翻訳者は、モダリティを処理する能力を備えていたということです。これを『意訳してる。勝手な付け足しだ』と誤解する方がいますが、意訳ではありません。『原文放棄』という翻訳方法です。原文放棄ができるのは、黒帯クラスの翻訳者です。

イザヤ書14:9は、70人訳もヘブライ語も同じ意味になっています。70人訳は正しく翻訳されています。ここで使われたギガンテスは『黄泉に下った死者の霊』という意味です。


以上、γίγαντες ギガンテスが使われた5か所を検討しました。ギガンテスが『巨人』という意味で使われたところは、一つもありません。またヘブライ語ネフィリムも『巨人』という意味で使われたところは一つもありません。現代の辞書は『gigantes :the Giants ギガンテスとは、巨人族を意味する』と解説していますが、これを70人訳に当てはめることはできないということです。何も驚くことはありません。こうした辞書の不適切な解説は、あちらこちらにあるのです。




以下、私訳と新改訳の違いをご覧ください。

新改訳第三版 創世記6:4
神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

私訳 創世記6:4
ある時、暴力的で悪名高いネフィリム(暴力を好むならず者)が現れると全地に広がった。神に創られた人間であったが、親から子に引き継がれるのは、悪い行いばかりであった。


新改訳第三版 歴代誌上20:8
これらはガテのラファの子孫で、ダビデとその家来たちの手にかかって倒れた。

私訳 歴代誌上20:8
これは、ガテで反乱を起こした暴徒たちであったが、ダビデ軍に討(うち)とられた。


新改訳第三版 ヨブ記26:5
死者の霊は、水とそこに住むものとの下にあって震える。

私訳 ヨブ記26:5
乱暴なことばは、心の底から湧き上がる。心が、黄泉の死霊に捕えられているからだ。


新改訳第三版 イザヤ書13:3
わたしは怒りを晴らすために、わたしに聖別された者たちに命じ、またわたしの勇士、わたしの勝利を誇る者たちを呼び集めた。

私訳 イザヤ書13:3
私は、バビロンに怒りの鉄槌を下す。バビロンは、血も涙もない荒くれ者に、なぶり殺しにされるだろう。


新改訳第三版 イザヤ書14:9
下界のよみは、あなたの来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。

私訳 イザヤ書14:9
黄泉の死霊が立ち上がる。諸国の王は立ち上がり、バビロン王を包囲する。


新改訳は、文法上もデタラメです。新改訳だけではありません。従来の日本語訳聖書はどれも同じです。ヘブライ語やギリシャ語の教育を受けてない私が言うのも気が引けますが、一度、まともな翻訳者を集めて、まともな日本語訳聖書を作るべきでしょう。従来の翻訳者は『直訳、トランスペアレント訳が良い』『格調高い日本語にする』こういう愚かな理念を掲げてきましたが、まともな翻訳者であれば、そんな理念は掲げません。従来の日本語訳聖書に誤訳が多く、意味不明な日本語になっているのは、間違った翻訳理念を掲げ、知識も経験もない人物に翻訳をおこなわせているからです。正しい日本語訳聖書がなければ、神学や聖書学だって、正しく研究できないはずです。



~誤解のもとは外典エノク書~

70人訳聖書には、外典と呼ばれる書簡が含まれています。外典には、シラ書、マカバイ記、エノク書・・・などがあります。今日のユダヤ教正統派は、外典を聖典から除外しています。キリスト教プロテスタントも同じです。カトリックは、代々、70人訳聖書を原本としてきたので、外典が含まれています。但し、エノク書は、カトリックも除外しています。エノク書は、紀元前2~前1世紀頃書かれました。内容が創世記と似ていて、天地創造やノアの洪水などのお話しを、オカルト調に脚色して書かれています。ほとんど、おとぎ話です。

このエノク書の中で、ネフィリムのことが書かれています。エノク書(Book of Enoch)の内容は底本によって違いがありますが、第一エノク書7章に、ネフィリムの身長が、なんと、135m(300キュビト×0.45m)、又は900m(3,000エルス×0.3m)とあります。仮にですよ、身長135mの巨人がいたとしたら、オチンチンだって10m級のジャンボサイズです。これじゃ、人間の女と性交できないでしょ(創世記6:1~4)。私が調べた範囲において、『ネフィリム巨人説』をさかのぼると、エノク書にたどり着きます。『ネフィリム巨人説』は、エノク書が出火元みたいです。

外典の中で、エノク書以外にも『ギガス、ギガンテス』が登場します。新共同訳聖書はこれを『巨人』と翻訳しましたが、全て誤訳ですよ。『ギガス、ギガンテス』ということばは、ギリシャ神話の神ギガンテスと重ね合わせて、使われています。下の表をご覧ください。


※章節の数字は、底本によって異なる場合があります。

外典のお話しは、以上で終わります。話しは変わりますが、ヘブライ語ネフィリムが、英語giantに翻訳されるまでの間、どこかで誤訳があったのだろうか?そんな疑念が浮かんだので、ヘブライ語から英訳までの過程を追ってみました。下図のようになります。



1,250~1,300年頃、フランス語聖書が英語に翻訳されました。この時、英語には『巨人』を意味する『eoten』ということばがあったのですが、フランス語『géant』が、そのまま英語に持ち込まれます(借用語)。もし、フランス語『géant』が、『巨人』という意味であれば、英訳で『eoten』を使っていたはずです。フランス語『géant』が英語にそのまま取り入れられたのは、固有名詞(ギリシャ神話の神の名前)として理解したからでしょう。これは英訳聖書だけに見られることではなく、ラテン語、フランス語も、底本のことばを取り入れています(借用語)。『ギガンテス』が固有名詞(ギリシャ神話の神の名前)として理解されていたからでしょう。ギガンテスが『巨人』という一般名詞に変わったのは、ギリシャ神話が、人々の生活から消えた時ではないかと思います。それが、いつ、どこであったのか、そこまでは分かりませんが。

神学者や聖書学者は『ネフィリム、ギガンテスは、巨人である』と言ってきたのですから、世間の人は『聖書のお話しに巨人が登場するんだって』『聖書はオカルト本なんだ』『聖書なんかおとぎ話だよ』こういう認識を持つようになりました。オカルトアニメに登場する巨人は、創世記のネフィリム(ギガンテス)がモデルになっています。一般の人は、聖書を、おとぎ話やオカルト本の様に見ているのです。いくら『聖書は神のことばである』といっても、受け入れられるのは難しいでしょう。間違った聖書翻訳、聖書解釈を作ってきたのは、神学者です。翻訳の知識も経験もない人物が翻訳をおこなうから、こんなことになるのです。



(000)ごあいさつ、そしてブログの趣旨について

2018年04月24日 | あれこれ




<(_ _)> 初めまして『黒帯』と申します。押忍!

このブログは『日本語訳聖書は、あちらこちら誤訳されてるぞ!』という記事を載せてゆきます。私は、ヘブライ語もギリシャ語も習ったことがない、ズブの素人で、神学も全く分かりません。しかしながら、ある外国語の通訳を長年やってきたので、外国語を学習する時のセオリー、外国語を通訳(翻訳)する時のセオリーは、身に付けてるつもりです。それが本物か、ニセモノか、誤訳を指摘した記事を読んでいただければ、分かる人には分かるでしょう。

因みに、聖書を翻訳するのに神学の知識は全く要りません。多くの方が『聖書翻訳には、神学の知識が必要だ』と思っているようですが、これは誤解です。神学を勉強することが悪いのではありませんが、神学を物差しに翻訳することが悪いんです。神学を基準に翻訳すると、自分の教派に都合のよい、歪められた翻訳が際限なく生まれます。翻訳者が物差しとしなければならないのは、あくまでも、現代言語学の知識と翻訳(通訳)理論です。それと心理学が少々。こうした知識を頭で理解するだけでは不十分で、トレーニングを重ね体で覚えることが欠かせません。

神学の知識が先入観になり、原文解釈を歪めることになるようではダメです。従来の日本語訳聖書は誤訳が多く、版を重ねても、殆ど訂正されることはありません。神学を基準に解釈するからです。翻訳作業に神学は要らないというのは、当たり前のことなんです。翻訳者は、時に、神学の矛盾を鋭く指摘する、そうした気概で翻訳作業にあたって頂きたいものです。もうこれ以上、神学におもねる翻訳聖書は要りません。



この記事の目次
・『聖書の誤訳』について書くことになったきっかけ
・隠ぺいする学者と無知な信徒
・神に従うのか?コミュニティー(組織)に従うのか?
・暖かいまなざしと、分かりやすいいことば



(?_?) 『聖書の誤訳』について書くことになったきっかけ

現在、私が所属しているのは、プロテスタントの教会で、教会は日本福音キリスト教会連合(JECA)に加盟しています。教会で使用している聖書は、聖書刊行会の新改訳聖書を使ってきました。長い間その聖書を読んできましたが、意味がよく分からないため、モヤモヤした気持ちで読むことが少なくありませんでした。意味が分からない本を読むって、苦痛じゃありませんか?しかし、そのように感じるのは、自分の信仰不足、知識不足、忍耐のなさだと、長い間自分に言い聞かせていたのです。

私は、自分が手にする聖書を『神のことば』として向き合ってきたつもりです。また、『聖書翻訳は、ヘブライ語やギリシャ語に関し、日本で最高の腕を持つ翻訳者がおこなっている』と思っていたので、聖書に誤訳があるなんて思ってもみませんでした。仮にあったとしても、些細な間違いで、大きな問題になるような誤訳はないと信じていたのです。聖書を原語で調べるまでは。

聖書を創世記から順番に読み進めるのが、私のやり方ですが、イザヤ書8章を読んだ時、全く理解できませんでした。その時使っていたのが新改訳第三版だったので、以下、第三版の訳文を載せます。読んで意味が分かるでしょうか?

新改訳第三版 イザヤ書8章1~10節
1 主は私に仰せられた。「一つの大きな板を取り、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため』と書け。
2 そうすれば、わたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤをわたしの確かな証人として証言させる。」
3 そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。すると、主は私に仰せられた。「その名を、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と呼べ。
4 それは、この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである。」
5 主はさらに、続けて私に仰せられた。
6 「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。
7 それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、
8 ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」
9 国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ。腰に帯をして、わななけ。
10 はかりごとを立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それは成らない。神が、私たちとともにおられるからだ。


何を言わんとしているのか理解できません。新共同訳、口語訳、文語訳は若干の違いはありますが、やはり読んでも意味が分かりません。いくつか解説書を見たのですが、見解がバラバラ。日本語や英語でウエブサイトを検索してみても、これまた、解釈がまちまちでした。止むなく、ヘブライ語を調べてみることにしました。これが、聖書を原語で調べ始めたきっかけです。因みに、イザヤ書8章を調べ、私が作った翻訳は次のようになります。

私訳 イザヤ書8章1~10節
1 主は私にお命じになった。「大きな石の板一枚と砥いだノミを用意し『マヘル・シャラル・ハシ・バズ(略奪の日は迫っている。はく奪の日はすぐにも訪れる)』と刻め」。
2 私は、この作業の立会人として、誠実な人物である、祭司ウリヤと、エベレキヤの息子であるゼカリヤの二人を呼んだ。
3 その後、私は妻と枕をともにした。主の霊を受けた妻は、のちに男の子を産んだ。主は私に言われた。「その赤ん坊をマヘル・シャラル・ハシ・バズと名付けよ。
4 赤ん坊が『パパ、ママ』としゃべり始める前に、ダマスコとサマリヤの財産は、アッシリヤ軍によってことごとく奪われるだろう」。
5 また、主は言われた。
6 「ユダ族は、今までエルサレムを潤してきたシロアハ※1 水道の水、すなわち、主である私のことばに背を向けた。そして、シリヤの王レツィン、及びイスラエルの王ペカらが向かう滅びの道に、自ら足を踏み入れた。
7 よく聞け。主は、ユーフラテス河に洪水を起こさせる。無敵と呼ばれる誇り高いアッシリヤの軍隊を。兵士たちは、帝国内の川を渡り、川岸をのぼり現れる。
8 川の水かさが増し、あふれだすように、国境を越えユダの領土に攻めはいり、首都エルサレムをのぞき、ユダの全土を制圧する。神が共にいるといわれた※2、この土地を」。
9 遠くの国々よ※3、悪事を企てろ※4。しかし、台なしになる。よく、覚えておけ。武装を固めろ、しかし大敗を喫する。武装を固めろ、しかし大敗を喫する。
10 謀議をはかれ。しかし、実現しない。その、ひとことたりとも、実現しない。神、我らと共にいる※2 からだ。


脚注
※1 ヘブライ語で(ギホンから)送られてきた(水)という意味
※2 ヘブライ語でインマヌエル。『神われらと共に』という意味。選民イスラエル、救い主降誕、を意味することもある。
※3 さまざまな解釈があるが、『悪事を企てろ』『謀議をはかれ』ということから『北イスラエル、シリヤ連合国』を指すと思われる。
※4 ここはヘブライ語のraw-ahであるが、ほかに『連合せよ』『悲鳴をあげる』『破壊される』と訳すものもある。
5~10節は、word-for-word(字義通りの翻訳)とthought-for-thought(意味の再現に重点を置いた翻訳)、二つの訳し方がありますが、ここに載せたのはthought-for-thought(意味の再現に重点を置いた翻訳)です。


新改訳と比べ、全然違うでしょ。ちょっとやそっとの違いじゃありませんよね。更に、聖書の誤訳は、8章にとどまりません。8章で、インマヌ・エル(神われらと共に)、qarab(夫婦の営み)、nebiah(主の霊を受けた女)などのことばが誤訳されていますが、これらのことばは、イザヤ書以外の、創世記、出エジプト記、レビ記、申命記、士師記、ネヘミヤ記・・・でも使われています。調べてみるとそれぞれの書簡でも誤訳されていることが分かりました。この様に、誤訳された個所を、1個所つまみあげると、芋づる式に次から次へと誤訳が掘り起こされてゆく。そういう現象が必ず起こります。日本語訳聖書は、信じられないほど誤訳が多いんです。

さて、イザヤ書8章1~10節がどんな誤訳になってるか、かいつまんで説明させていただきます。8章が書かれた背景に、『イスラエルもユダ族も、主なる神を捨て、異教の神々に従った。自分の子どもを、生贄(いけにえ)とし、異教の神々に捧げてきた』ということがありました。それを受け、8章1~10節で、ユダ族やイスラエルに対し『神の裁きの宣告』が下されたということです。

ところが、新改訳を見ると、正反対の解釈をしています。
7 それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、
8 ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」


『すべての栄光がユダ族の上にあふれる』そして『インマヌエル、ああ救い主よ。あなたは翼を広げユダ族の国土を守ってくださる』こういう訳文なので、読者は『ユダ族に良いことが起こるんだ。神さまはユダ族を救ってくださるんだ』と理解しますよね。ウエブサイトを見ると、あるセンセイは『神はインマヌエルの神だから、罪深い者であったとしても、神はその民を守るという解釈でいいのだ』と仰っていました。一見すると筋の通った解釈に見えるかも知れませんが、もし、このセンセイの解釈が正しいのであれば、罪深い自分を捨て神に立ち返ることに何の意味があるのでしょうか?『不道徳な生き方を続けても、神さまが守ってくださるんだって!ハメを外して楽しもうぜ!』こういう生き方を奨励することになるのではありませんか?これがユダヤ教徒やキリスト教徒が持つ人生観、倫理観なのでしょうか?元になる日本語訳聖書が誤訳されてるため、とんでもない解釈が生まれるのです。こういうデタラメな聖書を、神学者や聖書学者は『原典に忠実な、日本語訳聖書』だと偽り売っているのです。呆(あき)れたものです。

一方、従来の解釈に異議を唱える先生もいます。山岸登著『イザヤ書解説』エマオ出版の本を見ると、日本語で『栄光』と訳された言葉は軍隊の意味である。『広げた翼』はインマヌエルの翼ではなく、アッシリヤを指すという解釈をされています。細かい部分では私と異なる解釈をされていますが、罪を悔い改めないユダ族に神は裁きを下すという大きな輪郭は同じです。

また、尾山令仁訳『聖書現代訳』も同様の解釈をしており、8節『(アッシリアの王は)ユダに流れ込み、すべてを押し流して、ついには首にまで及ぶ。この国は神が共におられる国なのに、アッシリヤ軍はこの国の隅々までも侵略する』と訳出しています。現代訳は『翼』という比喩の意味をくみ取り『アッシリヤ軍』と訳出しています。ヘブライ語immanu-elは、救い主という意味ではなく『神が共におられる国』と訳出し、immanu-el(神は我らと共に)が、eretz(国土、領土)を修飾しているという関係を正しく理解しています。イザヤ書8章5~10節に関していえば、尾山令仁師の解釈は、非の打ちどころがありません。


新改訳は『原典に忠実な翻訳』『トランスペアレント訳(直訳)』をキャッチフレーズにしていますが、実は、デタラメな文法解釈がおこなわれています。
新改訳第三版
8 ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」


『インマヌエルが翼を広げた。その翼はユダ族の国土に広がる』となっていますが、ヘブライ語を見ると『翼を広げた』のは『アッシリヤ軍』です。『アッシリヤ軍が翼を広げた』が正しい解釈で、『インマヌエルが翼を広げた』なんて、文法上あり得ません。私みたいなヘブライ語初心者でも見抜ける、イカサマです。新改訳の翻訳委員会は『インマヌエル(救世主)がユダを救った』という訳文を、どうしてもこしらえたかったようです。私には分かりませんが、それが神学上正しいと判断したのでしょうかね?自分が支持する神学に適合させ、主語を入れ替え作為的な異訳をおこなう。神学を物差しに翻訳すると、こうした誤訳が際限なく生まれます。翻訳者が原文(神のことば)を自分にとって都合のいいようにコントロールしているのです。プロの翻訳者としてあるまじき愚かな行為で、翻訳者失格です。信仰者としても由々しきことじゃありませんか(黙示録22:18~19)。こうした事実を、多くのクリスチャンは知らされていません。イザヤ書8章を調べたことが、『聖書の誤訳』について書くきっかけになりました。

新共同訳 黙示録22:18~19
18 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
19 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。




(*_*; 隠ぺいする学者と無知な信徒

日本の神学者(聖書学者)、牧師の多くは、日本語訳聖書に誤訳があることを、ひたすら隠そうとします。仮に誤訳があっても、問題にならないような些細な個所だと偽るのです。多くの信徒は、原語で聖書を解釈することができないので、学者や牧師がいうことを、鵜呑みにするほかありません。日本語訳聖書に誤訳がないのではありません。誤訳はあるのですが、そのことを多くの信徒は知らされていないだけなんです。こうした『隠ぺいと無知』の体質は、キリスト教会の悪しき伝統で、延々と受け継がれて来ました(例外もあるかも知れませんが)。これは全く不健全なことで、神さまが望まれる教会の姿ではないと、私は思います。次のサイトに『隠ぺい体質と信徒の無知』が表れています。


Yahoo 知恵袋より引用

聖書は何度も訳されてきましたが、この度発刊された新改訳2017でもキリスト教徒でさえ「明らかに誤訳」と言っている箇所が直されていませんね。

「昔からの馴染みがある言葉だから変えるのはイヤ」
「本当の意味は説教で聴けるから問題ない」
「聖書に注釈があるから読めばわかる」

という理由で、新しい信徒にも「理解のし難さ」を強いるという、あまりにも「人に優しくない」ことを未だに行なっていることに、キリスト教の閉鎖性を感じます。

このようなことをしているから、キリスト教徒は「誰にでもわかる言葉」で説明できず、自ら宣教・伝道を困難にしているのではないでしょうか?



この問題提起をされた方は、日本のキリスト教会が抱える問題の本質を突いています。見事な指摘です。事実、新改訳2017も多くの誤訳が含まれているので、このことは、具体的に記事にする予定です。さて、この問題提起に対し、コメントが寄せられていますが、『2017に誤訳はない。どこが誤訳なのか具体的に指し示せ』といったものが多数です。また、自分の信仰が脅威にさらされたと感じるのでしょう。まるで怒り狂ったハチが集団になって敵を攻撃するように、多くのクリスチャン(らしき人?)が、寄ってたかって反撃しています。『おい!勝手にパンドラの箱を開けるな!』と言わんばかりです。これは、隠ぺい気質ですよね。

冷静になって『知恵袋』に寄せられたコメントを読んでみてください。残念ながら、自分の主張することを、順序立てて『2017に誤訳はない』と説明している人は、一人もいません。寄せられたコメントのほとんどは『感情的な反撃』に過ぎないもので、誤訳があるかどうか知りもしないのに、誤訳はないと思い込んでる方が多いのです。無知で組織に従順な信徒がこんなにも増えたのは、ひとえに、キリスト教会が、聖書の誤訳について『隠ぺいと無知』の構図を固く守ってきたおかげです。

ネット上のこうしたやり取りを、クリスチャンでない方が見たらどう思うでしょう?『やっぱり、宗教やってる奴って狂信的な面があるな』『宗教って怖いな』こういう印象を、世間に与えることになりませんか?これじゃあ、福音宣教(マルコ16:15)の足を引っ張る行為じゃないでしょうか?

新改訳2017 マルコ16:15
それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。


福音宣教は、感情的な攻撃でおこなうものでしょうか?寄ってたかって袋叩きにすることでしょうか?自分の知識をひけらかすことでしょうか?神に従い、人を愛することを、自分のことばと自分の行動で、日々示すことだと、私は思います。自分はイエスさまの弟子であると自認するのであれば、イエスさまのことばと行動を真似るべきですよね。クリスチャンというのは、神学者や牧師の弟子じゃないはずです。

子どもは2~3歳になると『なぜ?どうして?』を連発するようになります(質問期)。子どもは、興味を抱いた人や物を、理解しようとして『なぜ?どうして?』と尋ねます。こうして、自分の価値観や世界観の基礎を作るのです。教会に通い聖書を読むようになると『なぜ?どうして?』という疑問がたくさん生まれますよね。これは至って健全なことです。この疑問に真摯に向き合ってきた人と、そうでない人とでは、同じクリスチャンでも、成長に違いがでるような気がします。『牧師が~といっていたから』『~がキリスト教のオーソドックスな解釈だから』『神学上~が正しいから』こうした根拠不明な理屈で、自分の疑問を封印してきたとしたら、勿体(もったい)ないことです。自分が心から納得し、腑(ふ)に落ちる答えに出会うまで、疑問は持ち続けることをお勧めします。素直に疑問を持つことは不信仰ではありません。健全で、自然な心の働きです。信仰を持っていない方や求道者の質問は、純粋な疑問が多いものです。単純で純粋な問いかけほど、物事の本質に迫るものだと思います。疑問を持つことを恥じないでいただきたいし、疑問を持つ人を小馬鹿にするようなことを言っちゃダメですよ。『隠ぺいと無知』の体質は改めるべきです。



(?_?) 神に従うのか?コミュニティー(組織)に従うのか?

一信仰者として自問自答していただきたいのですが、『クリスチャンは、聖書に従うべきでしょうか?神学に従うべきでしょうか?』『イエス・キリストを信じるべきでしょうか?神学者を信じるべきでしょうか?』。私は、聖書に従い、イエス・キリストに従います。ところで、同じ質問を、神学者や牧師に投げかけたら、どうなるでしょう?躊躇(ちゅうちょ)することなく『聖書に従う、イエス・キリストに従う』と答えられるでしょうか?もし、心に動揺が生じるようであれば、いま一度自分自身を吟味することをお勧めします。いずれ記事で明らかにしてゆきますが、マユツバものの神学や聖書解釈が結構あるんです。神学なんて所詮(しょせん)人間が考えたものですから、間違いがあって当然じゃありませんか?間違っていたら、訂正をすればいいんです。それだけのことです。ところが、頭でっかちのセンセイは、間違いを認めようとしません。神学に間違いがあるなんて、口が裂けても言えないようです。こうしたセンセイは『誠実さ pistos』ということばを、どこかに置いてきたようです。

ウエブサイトを見ると、恐らく『従来の翻訳聖書は正しく翻訳されている』ということを立証したいのでしょう。神学者が書いたレポートを引用し、既存の翻訳は間違っていないという方がいます。ところで、神学者って、言語学や翻訳の専門家なんですか?神学者は、神学の専門家で、言語学や翻訳論の専門家じゃありませんよね。言語学や翻訳について素人(神学者)が書いたレポートを引用すること自体、おかしいんです。どうして『現代の言語学理論や翻訳理論』を、引用しないのでしょう?理由は明らかです。そんなことしたら聖書の誤訳が、次から次へと明らかになり、日本語訳聖書の信憑性(しんぴょうせい)が根底から覆(くつがえ)されるからです。

日本の神学者(聖書学者)の中で、言語学や翻訳論を引用し、聖書翻訳を論じたのは、尾山令仁師だけだと思います。殆どの神学者は、現代言語学や現代の翻訳理論を勉強していません。神学校の授業では、ヘブライ語やギリシャ語を教えてはいますが、言語学や翻訳理論、異文化コミュニケーションの授業はないはずです。ですから、日本の聖書翻訳者は、言語学や翻訳理論といった基礎的な知識を持っていない、そういう方がほとんどだと思います。

しかし、一般に通訳者翻訳者を志す人であれば、言語学や翻訳理論、異文化コミュニケーションを必ず勉強するんです。ですから、翻訳の正誤を議論する場合、『現代の言語学や現代の翻訳理論を根拠』に、主張を組立てること。これは当たり前のことで、どの言語の通訳翻訳についても言えることです。

ところがです。聖書翻訳の分野に限って、こうした常識が通用しなくなります。神学者は、ソシュールの言語分析や、ナイダの翻訳理論が、だいっ嫌いです。何故なら、聖書翻訳は、代々翻訳の素人(神学者)が、お粗末な直訳で翻訳してきたのですが、現代の言語学や翻訳理論で検証されると、誤訳悪訳をおこなって来たことが世間にバレてしまうからです。そして、聖書翻訳というビッグビジネス(商売)が、神学者の既得権益になっていて、神学者はこれを手放したくないからです。

神学者は、言語学や翻訳理論について、正面切って議論する力がありません。言語学や翻訳理論について勉強していないからです。そこである神学者が思いついたのが「ソシュールやナイダの理論は『悪魔の理論だ。唯物的思想だ』と、汚名を着せること」なんです。このデマは神学者の間に、瞬く間に広がりました。ところで、聖書に『言語の恣意性や、等価翻訳法』が悪魔の思想だと書いているでしょうか?そんなこと書いていませんよね。一般の言語学者、通訳翻訳者が、ソシュールやナイダの理論を『悪魔の理論だ。唯物的思想だ』といってるのを、聞いたことありません。こんな子どもじみた悪口をいうのは、神学者、聖書学者、聖書翻訳者だけです。『聖書信仰のクリスチャン・・・1』  『聖書信仰のクリスチャン・・・2』
神学者たちが、如何に卑怯な手口を使うかお分かりになったでしょうか。

現代の、言語学理論、翻訳理論を『悪魔』呼ばわりし、それに同調する動きは学問を逸脱し、カルトです。ガリレオ・ガリレイは、地動説を主張し異端審問で裁かれました。魔女裁判で、無実の人を含め数万人が処刑され、ウイリアム・ティンダルは、英訳聖書を作ったことで処刑されました。こうした野蛮なカルト裁判は、イエス・キリストや聖書とは関係ありません。しかし、教会の偉い人が『そいつは悪魔だ』といえば、無実の人を裁判にかけ処刑することができたのです。こうした野蛮な行為をキリスト教会はおこなって来たのです。ところで、現代のキリスト教会は過去の過ちから、教訓を得ているでしょうか?得ていないようです。ソシュールやナイダの理論を『悪魔思想、唯物的思想』と烙印を押すあたりは、現代版異端審問ではありませんか。現代の神学者コミュニティーの中で、こうしたことが起きています。神に従うことよりも、(神学者)コミュニティーに従うことが大切になった時、教会は再びカルト化するのです。



(^v^) 暖かいまなざしと、分かりやすいいことば

最近ネットで見る『キリスト教入門』や『聖書入門』は、なかばカルチャー講座化して、知識の詰め込みや教養講座になっていることが、気がかりです。『これはヘブル語で~といいます。覚えてくださいね』『これは英語で~というんです。知っていますか?』みたいな口調で、聴衆(読者)を小ばかにしてるんじゃないかと、思わせるものがあります。ご本人はそういうつもりじゃないのかも知れませんが、見ていて実に不愉快に感じるものがあります・・・ハッキリ言わせてもらうと、胸くそ悪いです。

私のような頭の悪い人間は『教会って敷居が高いなあ。覚えることが沢山あって大変だなあ。頭のいい人じゃなきゃクリスチャンになれないんだなあ』と劣等感で小さくなってしまいます。『教会に行ってみたけど、何か敷居が高くてさ。自分には向かないな』こういうことばを聞くと、私は胸が痛みます。イエスさまも同じ気持ちでいるはずです。教会は、頭のいいインテリが集まればそれでいいんでしょうか?教会は敷居が高い。世間にこうした印象を与えているということを自戒し、もっと慎むべきじゃありませんか?YouTubeを見ると、講壇の上で、自分の知識をひけらかし、聴衆の無知を小ばかにするような説教者を見ますが、果たして、イエスさまが、講壇に立ったとしたら、うぬぼれた語り口で説教をするでしょうか?しないと思うなあ。

福音書を見ると、イエスさまの周りに、多くの人が集まっていましたが、漁師、取税人、ホームレス、女性、主婦、こどもたちでしたよね。もし、イエスさまが『君たちは、聖書のことをよく知らない。だから教えてやろう。エッヘン!これは神学用語で~というんだ。知ってたかな?知らなかっただろ。これは昔のヘブライ語で~という意味なんだ。知らなかっただろ・・・』。イエスさまがこんな口調で話していたら、庶民は誰も集まって来なかったはずです。イエスさまは、集まった人たちに暖かいまなざしを向け、分かりやすいことばで語ったのではありませんか?だから、庶民が集まってきたのだと、私は思います。そのようになりたいものです。イエスさまに会い、話しを聞いた人たちは『敷居が高い』なんて感じていなかったはずです。『暖かいまなざしと、分かりやすいいことば』これって、福音宣教の基本、説教の基本じゃないのでしょうか。聖書翻訳についても『暖かいまなざしと、分かりやすいいことば』で書かれるべきだと思います。そもそも、ヘブライ語聖書は、その大部分が誰でも理解できることばで書かれているのですから。




あれこれと書かせていただきましたが、こんな感じで記事を書いてゆきます。以上をもちまして、ごあいさつ、そしてブログの紹介とさせていただきます。

押忍! <(_ _)>


(000)神の子とネフィリム 創世記6章4節

2018年04月24日 | 創世記



創世記6章4節の日本語訳をご覧ください。とんでもないことが書いてあります。

文語訳 創世記6:4
當時(このころ) 地にネピリムありき 亦(また) 其(その) 後(のち) 神の子 輩(たち) 人の 女(むすめ)の所に入りて子女(こども)を生(うま)しめたりしが其(それ)等(ら)も勇士(ゆうし)にして古昔(いにしへ)の名聲(な)ある人なりき

口語訳 創世記6:4
そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。

新共同訳 創世記6:4
当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。

新改訳 創世記6:4
神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。


『神の子が人間の女に子どもを生ませた』『神の子が人間の女に、ネフィリムを生ませた』何ですか、このふざけた訳文は更に、神学者のセンセイたちは『神の子、ネフィリム』とは、『天使、堕天使、サタン、宇宙人、カインの子孫、巨人・・・』などと、馬鹿げた解釈をしています。これじゃ『聖書なんか神話だよ。聖書は作り話だよ』といってるようなものです。日本語訳聖書も、聖書解釈も、いずれもデタラメです。『直訳、トランスペアレント訳』で翻訳するから、とんでもない誤訳になるのです。創世記6:4は、『直訳、トランスペアレント訳』が、言語学上間違った翻訳方法であることを実証する個所です。ヘブライ語が語る意味は、次のようになります。

私訳 創世記6:4 
ある時、暴力的で悪名高いネフィリムが現れると全地に広がった。神に創られた人間であったが、親から子に引き継がれるのは、悪い行いばかりであった。


この記事の目次
・輪郭を描く
・創世記6:4ヘブライ語
・神の子(ベネ ハエロヒム)の解釈
・ラヘムの解釈
・ハッギボリーン、ハッシェームの解釈
・間違った翻訳理念


~輪郭を描く~

翻訳をおこなったセンセイと神学者のセンセイは、既存の聖書解釈や神学に洗脳されています。人間が作った聖書解釈は、一度頭の中から消し去って、聖書に書かれてることを素直に解釈してください。そうすれば、何が正しいかはっきりと分かります。ネフィリムということばが現れるのは、創世記6章と民数記13章です。ここから、ネフィリムの輪郭を描いてみます。創世記6章は、大洪水のお話しで、1~7節は、神さまが大洪水を起こすことになった原因が書かれています。新改訳の訳文は、誤訳悪訳が含まれていますが、取りあえず、そのまま引用させていただきます。

新改訳 創世記6:4~7
4 神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。
5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

神学者のセンセイ、よくご覧ください。大洪水の原因は『人間による悪のまん延』です。『天使、堕天使、サタン、宇宙人』に関する記述はどこにもありません。大洪水のお話しと『天使、堕天使、サタン、宇宙人』は無関係です。また『巨人、カインの子孫』に関する記述もどこにもありません。ですから『巨人、カインの子孫』と大洪水も無関係です。何の関係もありません。

次、民数記13章にも『ネフィリム』が登場するのでご覧ください。イスラエル民族がカナンの地を攻め取る前、モーセは偵察隊を送り込みます。任務を終えた偵察隊は次のように報告します。

新改訳 民数記13:28、13:33 偵察隊のことば
28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。
33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

先ず、偵察隊の『ネフィリム人を見た』は虚偽報告だと分かりますよね。ノアの洪水でネフィリムは全滅したのですから、モーセの時代に生きてるはずがありません。『ネフィリム人を見た』は、カナン占領に乗り気でない連中が、見てきたことに尾ひれを付けて言ったデマカセです。次の申命記1章は、モーセが偵察隊の虚偽報告を非難したことばです。

新改訳 申命記1:28 モーセのことば
私たちはどこへ上って行くのか。私たちの身内の者たちは、『その民は私たちよりも大きくて背が高い。町々は大きく城壁は高く天にそびえている。しかも、そこでアナク人を見た』と言って、私たちの心をくじいた。」

ここで、モーセは『ネフィリム』ということばを削除しています。もし、カナンにネフィリムが本当にいたのであれば、モーセは『偵察隊はネフィリムを見たと言い、私たちの心をくじいた』と言っていたはずです。モーセが、ネフィリムについて言及しなかったのは、それが根も葉もない嘘であるとモーセが知っていたからです。偵察隊の虚偽報告に神さまも怒り、カナンの地に入ることが許されたのは、ヨシュアとカレブ・・・になったということです。

『ネフィリム人を見た』これが虚偽報告であることは、ヨシュア記で明確になります。モーセの後継者ヨシュアは、実際にカナンを占領しますが、ヨシュア記に『ネフィリムと戦った』という記述は、どこにもありません。『ネフィリムを見た』は、デマカセだったということです。

先ほどの民数記13:33に『自分たちはいなごのようであった』とありました。『これは、ネフィリムと偵察隊の身長差が大きいことを示す比喩だ。ネフィリムは巨人であった』と解釈する学者が多くいますが、これも間違った解釈です。ヘブライ語で『いなご ハガーブ』が比喩として使われる場合、大小の比較ではなく、『手足のか細いこと、貧弱さ、無力さ』を象徴するものとして引用されるのです。

ここで整理をします。創世記6章、洪水の原因は『人間による』悪のまん延であって、『天使、堕天使、サタン、宇宙人』は無関係だということ。また、創世記6章、民数記13章、申命記1章の中に『カインの子孫、巨人』についての記述はありません。ですから、これとネフィリムも無関係です。ネフィリムは大洪水で全滅しているのですから、モーセの時代に生き残っているはずがありません。原文の輪郭が設定できれば『天使、堕天使、サタン、宇宙人、カインの子孫、巨人』こうした、デタラメな解釈は生まれないのです。この様に、ヘブライ語の語学知識がなくても、原文の輪郭を設定することができます。以下、ヘブライ語を詳しく見てみましょう。

『天使、堕天使、サタン、宇宙人、カインの子孫、巨人』説は却下!



~創世記6:4ヘブライ語~

Biblehub 創世記6:4
発音 aoal.org
הַנְּפִלִ֞ים הָי֣וּ בָאָרֶץ֮ בַּיָּמִ֣ים הָהֵם֒ וְגַ֣ם אַֽחֲרֵי־כֵ֗ן אֲשֶׁ֨ר יָבֹ֜אוּ בְּנֵ֤י הָֽאֱלֹהִים֙ אֶל־בְּנֹ֣ות הָֽאָדָ֔ם וְיָלְד֖וּ לָהֶ֑ם הֵ֧מָּה הַגִּבֹּרִ֛ים אֲשֶׁ֥ר מֵעֹולָ֖ם אַנְשֵׁ֥י הַשֵּֽׁם׃

ハンネフィリム ハユー バアレツ バイヤミーム ハヘム ベガム アハレヘン アシェル ヤボーウー ベネ ハエロヒム エルベノート ハアダム ベヤレドゥー ラヘム ヘンマー ハッギボリーン アシェール メオーラム アンシェー ハッシェーム

創世記6:4の輪郭は、下図のようになります。


解釈文(訳文ではありません)
ある時、ネフィリムが現れ全地に広がった。
連中は結婚し、子どもが生まれた。子どもたちは親の悪いおこないを受け継いだ。
子どもたちも悪事をおこない、悪名を轟(とどろ)かせた。

私訳 創世記6:4
ある時、暴力的で悪名高いネフィリムが現れると全地に広がった。神に創られた人間であったが、親から子に引き継がれるのは、悪い行いばかりであった。



『ネフィリムとは、天から落ちてきた者、堕落した者という意味だ』と間違った説明をする方が多くいます。辞書でネフィリムの意味を調べると、代表される定義として『fall』が書かれています。直訳グセが染み付いた方は『ネフィリム=fall=落ちてきた者=堕落した者』こういう理解をするようです。通訳翻訳で直訳をすると必ず誤訳になります。また辞書も人間が作ったものですから、間違った説明、悪い説明が載ってる場合もあります。辞書を100%信用することはできません。創世記6章の文脈で、名詞ネフィリムは『暴力で人を支配する者』という意味で、これはナファール『武力で人を屈服させる』という動詞から派生しています。以下、ことばの定義をご覧ください。

הַנְּפִלִ֞ים ハンネフィリム(5303) Strong's Exhaustive Concordance
弱者を虐げる者、暴力で人を支配する者、語源となる動詞ナファール

נָפַל ナファール(5307)動詞 Biblehub.com
武力を使う、人を屈服させる、悪人

הָי֣וּ בָאָרֶץ֮ ハユー バアレツ(1961、776)熟語
全地に広がる、全地を覆う

בַּיָּמִ֣ים הָהֵם֒ バイヤミーム ハヘム(3117、1992) 慣用句
その時、ある時、その頃、当時

וְגַ֣ם ベガム(1571)
また、更に

אַֽחֲרֵי־כֵ֗ן アハレヘン(310、3651)
~をして、~の後は

אֲשֶׁ֨ר アシェル(834)
who,that

יָבֹ֜אוּ ヤボーウー(935)
結婚する、めとる

בְּנֵ֤י הָֽאֱלֹהִים֙ ベネ ハエロヒム(1121、430)熟語
男、神に創られた男

אֶל־בְּנֹ֣ות הָֽאָדָ֔ם エルベノート ハアダム(413、1323、120)熟語
女、神に創られた女

וְיָלְד֖וּ ベヤレドゥー(3205)
生ませる、生む

לָהֶ֑ם ラヘム(1992)
~と同じような

הֵ֧מָּה ヘンマー(1992)
they、~のように

הַגִּבֹּרִ֛ים ハッギボリーン(1368)
ならず者、ゴロツキ、強者(つわもの)、勇士

אֲשֶׁ֥ר アシェール(834)
who, which, that

מֵעוֹלָ֖ם メオーラム(5769)
当時、昔の

אַנְשֵׁ֥י アンシェー(376)
連中、やから、男

הַשֵּֽׁם׃ ハッシェーム(8034)
悪名、名前、高名


6章4節を解釈するポイントが三つあるので、詳しく説明させていただきます。
・神の子(ベネ ハエロヒム)の解釈
・ラヘムの解釈
・ハッギボリーン、ハッシェームの解釈


~神の子(ベネ ハエロヒム)の解釈~

『ベネ ハエロヒム』は、忌避の規則によって、ハンネフィリムの代用語になっているので(上図参照)、ネフィリムと『ベネ ハエロヒム』は同一人物です。また『ベネ ハエロヒム』と『エルベノート ハアダム』は特殊な表現で、創世記2章が引用されています。

新改訳 創世記2:7
神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

ベネ ハエロヒム⇒神に創られた男⇒ネフィリム

新改訳 創世記2:22
神である主は、人(=adam)から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人(=adam)のところに連れて来られた。

エルベノート ハアダム⇒アダムから創られた女⇒女子一般を指す



神学者は『ベネ ハエロヒム=the sons of God=神の子たち』と直訳してきましたが、聖書に『神さまに長男がいた。長女がいた』と書かれているでしょうか?そんなことは書かれていません。当時のヘブライ語ネイティブは『ベネ ハエロヒム』は、比喩で『神に創られた男⇒ネフィリム』という意味だと理解していました。しかし、古代イスラエル人が当たり前のように身につけた文化を、現代日本人は持っていません。『ベネ ハエロヒム⇒神の子たち』と直訳すると、『神の子とは、天使、堕天使、サタン、宇宙人、カインの子孫、巨人・・・である』こうした、デタラメな解釈が起こるのです。通訳翻訳は、文化の違いを配慮して訳文を作らなければなりません。直訳(トランスペアレント訳)は、異文化コミュニケーションを考慮しない『手抜き仕事』ですから、必ず誤訳になります。

『ベネ ハエロヒム』『エルベノート ハアダム』これは、次のようなニュアンスを含んでいます。
アダムは神に創られた、また、エバも神に創られた。人間は、本来良いおこないができるよう創られたではないか。それが、今はどうだ。悪い行いだけが親から子へ、子から孫へと引き継がれている。残念で仕方ない。

余談ですが、『ベネ ハエロヒム』これと良く似た表現が、ルカ福音書にあります。
新改訳 ルカ3:38
エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である



『アダム トゥ セウ』は『血縁上アダムは神の子である』という意味ではありません。これも比喩で『神がアダムを創った』という意味ですから『アダムは神に創られた』と訳出しなければなりません。『アダムは神の子』と直訳すると、創世記6:4と同じような誤解を読者に与えるからです。

話しを戻します。ベネ ハエロヒムの解釈をまとめると、次のようになります。
・『ベネ ハエロヒム』は、ネフィリムの代用語である。
・創世記1、2章を引用した表現になっている。
・『ベネ ハエロヒム⇒神に創られた男⇒ネフィリム』『エルベノート ハアダム⇒アダムから創られた女⇒女子一般』このように解釈する。


~ラヘムの解釈~

日本語訳も英訳も『לָהֶ֑ם ラヘム』の意味を、誤解しています。英訳聖書は『ラヘム=to them』と解釈し、『they bore children to them 女は子どもを生んだ』この様に直訳(word-for-word)しています。これは間違った解釈です。日本語訳は『ラヘム』を無視して翻訳しているので、ラヘムの意味がなくなっています。創世記6:4は、5:3の表現を引用して作られています。両者が並行関係にあると分かれば、ラヘムの意味も分かります。

創世記5:3 Biblehub.com
וַֽיְחִ֣י אָדָ֗ם שְׁלֹשִׁ֤ים וּמְאַת֙ שָׁנָ֔ה וַיֹּ֥ולֶד בִּדְמוּתֹ֖ו כְּצַלְמֹ֑ו וַיִּקְרָ֥א אֶת־שְׁמֹ֖ו שֵֽׁת׃
バイヒー アダム シェロシーム ウメアト シャナー バイヨーレッド ビッドムトー ケツァルモー バイイクラ エトシェモー シェット

私訳 創世記5:3
アダムが130歳の時、男の子が生まれた。その子が自分とそっくりだったので、セツ(そっくり)と名付けた。




6:4ラヘムは『親と同じ(悪い性質を持った子ども)』という意味です。原文に『悪い性質を持った子ども』ということばがないのは、ハイコンテクストになっていて、ことばの省略が起きているからです。6:4は、ハンネフィリム(ならず者)、ハッギボリーン(乱暴者)、ハッシェーム(悪名高い)、こうした悪い印象のことばで、ネフィリムが形容されています。従って『親と同じ子ども』というのは『親と同じ(悪い性質を持った子ども)』という意味になります。

またまた余談ですが、新改訳の訳文がおかしな日本語になっているので指摘させていただきます。アダムの寿命は何歳でしょうか?

新改訳 創世記5:3
アダムは、百三十年生きて、に似た、のかたちどおりの子を生んだ。はその子をセツと名づけた。

新改訳の訳文は『アダムの寿命は130歳であった・・・』という意味になっていますが、アダムは930歳まで生きています。直訳するから誤訳悪訳になるのです。『彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ』こんなおかしな日本語見たことがありません。また、短い文の中で『彼』を3回も使っていますが、『彼』を一切使わなくても日本語を作ることができます。日本語は、基本的に人称代名詞を使ってはいけない言語です。私訳は、次のようになります。

私訳 創世記5:3
アダムが130歳の時、男の子が生まれた。その子が自分とそっくりだったので、セツ(そっくり)と名付けた。



~ハッギボリーン、ハッシェームの解釈~

日本語訳聖書をご覧ください。『勇士、英雄』『名がある、有名、名高い』と翻訳されています。

文語訳 創世記6:4下
・・・勇士にして古昔(いにしへ)の名聲(な)ある人なりき

口語訳 創世記6:4下
・・・彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。

新共同訳 創世記6:4下
・・・大昔の名高い英雄たちであった。

新改訳 創世記6:4下
・・・これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

これを読んだ読者は『ネフィリムは、良い人なんだ!正義の味方なんだ!』と理解しますよね。従来の日本語訳聖書は、どれも誤訳しています。



創世記6:1~7は、大洪水が起こされたのは、人間の悪がまん延したからだという内容が書かれています。であれば、この文脈の中で『正義の味方ネフィリム様が登場』するのは、すっとんきょうですよね。ネフィリム様が、悪人をバッタバッタとやっつけたのでしょうか?そんなことは書かれていません。

ハッギボリーンは、文脈によって『勇士』という意味があれば『乱暴者』という意味にも変化します(ホセア10:13 但し、従来の日本語訳聖書は誤訳しています)。また、ハッシェームは、文脈によって『高名な』という意味があれば『悪名高い』という意味に変化もします(エゼキ22:5 汚名)。創世記6:4は『人間の悪がまん延した。けしからん』という文脈ですから『悪名をはせた乱暴者』という意味になります。

以上、検討してきた内容をまとめてみます。
・ネフィリムは『悪名をはせた乱暴者』
・ベネ ハエロヒム『神に創られた男⇒ネフィリム』
・ラヘム『親と同じ(悪い性質を持った子ども)』
・『ハッギボリーン 乱暴者』『ハッシェーム 悪名高い』

創世記6:4は、次のように翻訳しなければなりません。

私訳 創世記6:4
ある時、暴力的で悪名高いネフィリムが現れると全地に広がった。神に創られた人間であったが、親から子に引き継がれるのは、悪い行いばかりであった。
※ネフィリム:弱者を虐げる者、暴力で人を支配する者、乱暴者


新改訳(誤訳) 創世記6:4
神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

従来の日本語訳聖書は『神の子が人間の女に子どもを生ませた』『神の子が人間の女に、ネフィリムを生ませた』と誤訳してきました。また、神学者は『神の子、ネフィリム』とは、『天使、堕天使、サタン、宇宙人、カインの子孫、巨人・・・』などと、馬鹿げた解釈をしてきました。この様に日本語訳聖書は、間違った翻訳が100年にわたり引き継がれています。日本の中から選ばれし翻訳者が、100年かかっても誤訳が訂正できないのは、なぜでしょう?それは『直訳、トランスペアレント訳』という、間違った方法で翻訳してきたからです。


~間違った翻訳理念~

新改訳の翻訳理念をご覧ください。青字は私見です。
新日本聖書刊行会 聖書翻訳の理念より引用

1.聖書信仰
聖書を誤りなき神のことばと告白する、聖書信仰の立場に立つ。
⇒刊行会がいう、聖書信仰とは、過去、翻訳されてきた聖書のことで、原語で書かれた底本のことではない。既存の翻訳聖書に信仰の基盤を置いているため、既存の翻訳に間違いがあっても、訂正することがタブー視され、過去の誤訳が延々と引き継がれている。従来の日本語訳聖書はいずれも以下の誤訳を引き継いでいる。『神の子が人間の女に子どもを生ませた。創世記6:4』『イザヤは不倫をして子どもを生ませた。イザヤ8:3』『信徒は不正な金で仲間を作れ。ルカ16:9』。これが聖書信仰に基づいた翻訳、誤りなき神のことばだと言えるのか?聖書の原文をないがしろにし、既存の翻訳や聖書解釈を偏重するから、誤訳が訂正されないのではないか。

2.委員会訳
特定の神学的立場を反映する訳出を避け、言語的な妥当性を尊重する委員会訳である。
⇒『神の子が人間の女に子どもを生ませた。創世記6:4』こういうデタラメな翻訳をおこなっておいて、これが神学上正しい翻訳、言語学上妥当な翻訳だと言えるのか?委員会訳が正しい翻訳だという根拠はどこにあるのか?既存の神学に適合させて翻訳したため、間違った聖書解釈が、そのまま翻訳に反映されている。『神の子やネフィリム』が『天使、堕天使、サタン、宇宙人、カインの子孫、巨人・・・』など、馬鹿げた解釈を作ってきたのは神学者ではないか。翻訳に神学を持ち込むから誤訳になる。両者は一線を画すべき。委員会訳が正しい翻訳で、個人訳が間違った翻訳だという印象操作は止めるべき。

3.原典に忠実
ヘブル語及びギリシャ語本文への安易な修正を避け、原典に忠実な翻訳をする。
⇒新改訳創世記6:4で『ラヘム』が翻訳されていない。これは意図的な削除で、原文に安易な修正を加えている。また新改訳は『ハッギボリーン 乱暴者』『ハッシェーム 悪名高い』と訳すべきところを『ハッギボリーン 勇士』『ハッシェーム 名のある者たち』と反対の意味に誤訳している。また『イザヤは不倫をして子どもを生ませた・・・イザヤ8:1~10』『信徒は不正な金で仲間を作れ・・・ルカ16:9~13』これらも、原文の語彙、文法に手を加え原文とは全く異なる訳文が作られている。ヘブライ語、ギリシャ語に意図的な修正を加えているのは新改訳である。こうした誤訳をしておいて新改訳が『原文に忠実』だといえるのか?翻訳には『原文の輪郭設定、ハイコンテクストの解釈、モダリティの解釈、忌避の規則の解釈、コロケーションの理解、原文放棄・・・』こうした作業が必要になる。翻訳は、単語から単語に直訳することではない。直訳、トランスペアレントという翻訳方法が原文に忠実であるというのは、デタラメ。現代言語学は『直訳、トランスペアレント訳』を否定する。

4.文学類型
行き過ぎた意訳や敷衍(ふえん)訳ではなく、それぞれの文学類型(歴史、法律、預言、詩歌、ことわざ、書簡等)に相応しいものとする。
⇒これは、直訳、トランスペアレント訳が、正しい翻訳方法であるかのような印象操作に過ぎない。新改訳 イザヤ書8章1~10節は、原文と異なる訳文が作られていて、ヘブライ語の文法に手を加え、主語の入れ替えまでやる作為的な異訳をおこなっている。ルカ16章9~13は、文法や語彙の解釈からして、あり得ないほどの超意訳で翻訳し、全く意味が異なる誤訳になっている。行き過ぎた意訳や敷衍(ふえん)訳をおこなっているのは、新改訳聖書で、理念と実際の訳文に整合性がない。また、聖書の『文学化』が強調されるため、難解で意味不明な表現を生み出している。『文学』の強調は、読者にとって何の益もない。

5.時代に適応
その時代の日本語に相応しい訳出を目指す。
⇒これは形骸化した理念。新改訳 創世記6:4『神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができた・・・』このヘンテコな訳文が現代の日本語だというのか?新改訳 創世記5:3『アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた』こんなおかしな訳文が日本語か?新改訳の訳文は、意味不明なものが多く、現代日本語とはかけ離れたものになっている。

6.今後も改訂
聖書研究の進展や日本語の変化に伴う必要な改訂を行う。
⇒正しい翻訳聖書がなければ、神学が正しく研究できるはずがない。原文解釈がなおざりにされたまま放置されてる一方、聖書解釈や神学が先行してドンドン作られる。だから、聖書の原文と神学に乖離(かいり)が生まれる。根拠が希薄な神学の成果をもって、原文解釈を変えようとするのは本末転倒である。原文解釈の進展に伴って神学が変わる、これが本筋だろう。原文(神のことば)は神学の僕(しもべ)ではない。神学を偏重する姿勢を改めないと、いつまでたっても正しい翻訳は生まれない。



神学者のセンセイ、間違った翻訳、間違った聖書解釈が作られてきた原因は、神学者が神のことば(原文)から権威を奪い、人間が作った神学(聖書解釈)の方に権威を与えてきたからです。新改訳の翻訳理念に、そのことが表れてるではありませんか。これは神学の偶像化で、かつて、パリサイ派や律法学者が陥った二の舞を演じているのです。

申命記4:2
私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。

黙示録22:18~19
18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

マルコ7:6~8、7:13(マタイ15:7~9)
6 イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
7 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。
8 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。
13 こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。


(000)神の子と人の娘がご乱行? 創世記6章1節

2018年04月23日 | 創世記






新改訳第三版 創世記6:1~2
1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、
2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。

新改訳聖書は『地上の人口が増えた。神の子は地上の女と結婚した』こういう解釈をしていますが、全く意味が違います。創世記6章は、大洪水のお話しが書かれていて、1~6節は、大洪水が起こされた『原因』が書かれているのですが、従来の聖書はここがきちんと翻訳されていません。ヘブライ語が語る『意味』は、次のようになります。

私訳 創世記6:1~2
1~2 その後、世の中はひどく不道徳になった。男たちは、女性が魅力的だったので、欲情の赴(おもむ)くまま振舞い、全ての女性を凌辱(りょうじょく)した。こうして多くの子どもが生まれた。


なぜ、こういう訳文ができたのか、説明させていただきます。

この記事の目次
・ヘブライ語の記述形式
・生めよ。ふえよ。地に満ちよ
・出産4点セット
・創世記6:1 ヘブライ語
・キー・ヘッヘルの解釈
・ハアダマーの解釈
・並行表現(対句)
・性別の明示
・新改訳2017はどうなの?



~ヘブライ語の記述形式~

『聖書は直訳で翻訳するのが良い』『直訳が正しい翻訳方法である』こういう理念で聖書は翻訳されてきました。これは全くのデタラメです。プロがおこなう通訳翻訳において、単語から単語に直訳するようなことはしません。言語というのは、直訳できない仕組みになっているからです。原語と目的言語の間には、根本的な違いがあります。言語構造の違い、コンテクストの違い、文化の違い、コロケーション(定型表現)の違いなどです。文の意味というのは、単に、一つひとつの単語に分散しているのではなく、表現形式も意味を担っています。創世記6:1~2を原文解釈する場合、聖書ヘブライ語の定型表現の知識がないと理解できません。従来の日本語訳聖書、英訳聖書は、どれも、創世記6章を誤訳しています。翻訳する人物が、単語から単語に直訳することしか知らず、定型表現(コロケーション)に関する知識がないからです。ここ1~2節を解釈するのに必要な三つの表現形式、『記述形式』『人口増を祝福する時に使われる定型表現』『出産4点セット』について説明させていただきます。

先ず『記述形式』から説明させていただきます。聖書ヘブライ語は、始めに『主題』を書き、そのあと『内容』を書く。始めに『結果』を書き、そのあと『理由』を書く。こうした書き方を好みます。

ヘブライ語聖書の記述形式


自分が翻訳してるテキストが『主題』を語っているのか、又は『内容』を語っているのか、どちらなのか理解できれば、原文解釈が大きく逸れることはありません。創世記6章1節は『結果:子どもがたくさん生まれた』、2節『その理由は~』こういう記述形式になっています。



~生めよ。ふえよ。地に満ちよ~

神さまは人間を祝福し『生めよ。ふえよ。地に満ちよ』と言われました。この言い回しが所々出てきます。

創世記1:28 新改訳第三版
・・・神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。・・・

創世記9:1 新改訳第三版
それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

出エジプト1:7 新改訳第三版
イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。



以上の文に共通して使われることばがあります。『生む パラ―(6509)、増える ラバー(7235)、広がる マレー(4390)』これら三つの動詞と、『エレツ(地)』です。この四つのことばが、ワンセットになっています。



創世記6:1を見ると、動詞『ラローブ 増える』は使われていますが『生む パラ―、広がる マレー』がありません。また、エレツの代わりに『アダマー』が使われています。ここは、祝福の定型表現になっていないので、創世記6:1の人口増加は、神さまが祝福するものではないということが分かります。



~出産4点セット~

聖書の中で『子どもが生まれた』ことをいう場合、正式な夫婦の間に生まれたこどもか、そうでないかの区別があります。以下の文は、正式な夫婦の間に子どもが生まれたことを表しています。

創世記4:1 新改訳第三版
人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み・・・

出エジプト記2:21~22 新改訳第三版
21 ・・・そこでその人は娘のチッポラをモーセに与えた。
22 彼女は男の子を産んだ。彼はその子をゲルショムと名づけた。・・・

ルツ記4:13 新改訳第三版
こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところに入ったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。

サムエル記上1:19~20 新改訳第三版
19 ・・・エルカナは自分の妻ハンナを知った。・・・
20 ・・・ハンナはみごもり、男の子を産んだ。・・・その名をサムエルと呼んだ。

イザヤ書8:3 私訳
その後、私は妻と枕をともにした。主の霊を受けた妻は、のちに男の子を産んだ。・・・


上の文は、定型表現(コロケーション)になっていて、次の4つのことばが使われています。
出産4点セット
①男性(夫)
②めとる、体の関係を持つ(動詞 yada laqach qarab bowなど)

③女性(妻)
④妊娠し、出産する



出エジプト記だけ、形が崩れていますが、敢えてこれを載せました。定型表現が崩れた理由は、モーセとチッポラの結婚が、ユダヤ教の正式な手続きを経ておらず、正式な夫婦として認められていなかったからでしょう。モーセは血統上イスラエル民族ですが、エジプト人の文化や価値観を身に付けて育ちました。チッポラは外国人(ミデヤン人)です。モーセ夫妻がイスラエル民族の一員になるには、チッポラの改宗が必要になります。この時はまだ律法が与えられる前ですが、『モーセは外国人を妻にしている』と、ミリヤムが非難していることから分かります(民数記12章)。また、モーセ夫妻は、生まれた男の子に割礼を施していなかった(出エジ4章)ということですから、イスラエルの慣習に背(そむ)いていることが分かります。出エジプト記だけ、表現形式が崩れているのは、こうした背景があるように思います。モーセをヒーローの様に持ち上げる方がいますが、ヘブライ語聖書を見ると、イスラエルの『リーダーとして不適切な人物』として描かれています。では、創世記6:1~2が『出産4点セット』になっているかどうか、調べてみます。

出産4点セットの確認


創世記6:1~2は『4点セット』になっていないので、祝福された結婚や出産ではないことが分かります。新改訳は、次のように翻訳しています。

新改訳第三版 創世記6:1~2
1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、
2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。

『妻とした(結婚した)』この様に書かれていると、読者は『これはおめでたいことだ』と理解しますよね。しかし、ヘブライ語の表現形式から分かるのは、その男女関係が『不道徳な関係、喜べない出産』であるということです。トランスペアレント訳は必ず誤訳になります。

以上、検討した内容をまとめると、原文の輪郭は、次のようになります。
・1節、結果。2節、理由。
・出産4点セットになっていないので、神さまが認めない悪い男女関係があった。
・1節、沢山の子どもたちが生まれた。2節、不適切な男女関係が原因で。

ヘブライ語の表現形式を理解していれば、この様に原文の輪郭を把握できます。



~創世記6:1 ヘブライ語~

創世記6:1
Biblehub.com
発音 aoal.org

וַֽיְהִי֙ כִּֽי־הֵחֵ֣ל הָֽאָדָ֔ם לָרֹ֖ב עַל־פְּנֵ֣י הָֽאֲדָמָ֑ה וּבָנֹ֖ות יֻלְּד֥וּ לָהֶֽם׃
バイヒー キー ヘッヘル ハアダム ラローブ アルペネ ハアダマー ユバノート ユラドゥー ラヘム



解釈文 創世記6:1
その後、世の中はひどく不道徳になった。不適切な男女関係により、多くの男児、女児が生まれた。


創世記6:2
וַיִּרְא֤וּ בְנֵי־הָֽאֱלֹהִים֙ אֶת־בְּנֹ֣ות הָֽאָדָ֔ם כִּ֥י טֹבֹ֖ת הֵ֑נָּה וַיִּקְח֤וּ לָהֶם֙ נָשִׁ֔ים מִכֹּ֖ל אֲשֶׁ֥ר בָּחָֽרוּ׃
バイイルウー ベネー ハエロヒム エト ベノート ハアダム キー トボート ヘンナー バイイクフー ラヘム ナシーム ミコール アシェール バハールー



解釈文 創世記6:2
アダムとエバは、本来、正しく振る舞えるよう神に創られたではないか。それが今では、男たちは女性をつかまえて凌辱するようになった。女性は魅力的であったので、皆が被害にあった。

私訳 創世記6:1~2
1~2 その後、世の中はひどく不道徳になった。男たちは、女性が魅力的だったので、欲情の赴(おもむ)くまま振舞い、全ての女性を凌辱(りょうじょく)した。こうして多くの子どもが生まれた。



創世記6:1~2 ヘブライ語が語るイメージ




~キー・ヘッヘルの解釈~

1節を解釈する上で、重要なことばが二つあります。『キー・ヘッヘル』と『ハアダマー』です。これは、とても悪い印象を持つことばですが、従来の翻訳聖書は、このキーワードを誤解しているので、間違った翻訳になっています。

キー・ヘッヘルとハアダマー


一つ目のキーワードは『キー・ヘッヘル』で、これは『実にけがれてる、実に不道徳だ』という意味です。創世記1章、天地創造の場面で『キー・トーブ 実に良かった』が繰り返し使われていますが、『キー・トーブ 実に良い』の対義語が『キー・ヘッヘル 実にけがれてる』になります。『キー』は、強調、強意で『実に、全く、とても』という意味です。

כִּי キー(3588) 辞書に間違いあり
強調、強意、実に、全く、とても

『ヘッヘル』は『けがれる、不道徳をおこなう』という意味です。

חָלַל ハラール、ヘッヘル(2490) 辞書に間違いあり
けがす、悪事に染まる、辱める、侮辱する、名声を落とす

『キー・ヘッヘル』は『(世の中は)実に不道徳に(なった)』という意味です。ところが英訳は『when~began to』と誤訳し、新改訳は『始め~したとき』と誤訳しています。全然意味が違います。ヘブ-英辞書が間違った定義を載せていることが原因です。

英訳、日本語訳聖書 ヘッヘルの誤訳


ヘッヘルがどの様な意味を持つのか、実際に使われた文を見てみます。
エゼキエル20:9 ヘッヘル


私訳 エゼキエル20:9
もし、あの時、イスラエルを見捨てていたら、私の名声は地に落ちたことであろう。しかし、約束通りイスラエルをエジプトから救い出すことで、私が万物の主であることを諸国の王に示したのだ。


『ヘッヘル』は『主の名が侮辱される、主の名声が地に落ちる』という意味で使われています。そもそも、ヘッヘルに『begin 始め』という意味は存在しません。長い間、神学者や聖書学者が、間違った定義を辞書に載せ、間違った翻訳をおこなって来たのです。『キー・ヘッヘル』は『実にけがれてる、実に不道徳だ』という意味です。



~ハアダマーの解釈~

二つ目のキーワードは『ハアダマー』です。ヘブライ語で『土、土地、国土・・・』を意味することばに『エレツ』と『アダマー』があります。『エレツ』と『アダマー』は異なるニュアンスがあって、文脈によって使い分けられています。使用頻度からすると、エレツを使うことが圧倒的に多いのですが、たまにアダマーが使われます。『アダマー』が出てきたら、要注意。『アダマーは、あらまあ!』覚えやすいでしょ。

アダマーとエレツの使い分け


創世記6:1は、アダマー(ハアダマー)が使われているので、人間の不道徳や罪について書かれていることが分かるのです。



~並行表現(対句)~

1節後半は、同じような表現が繰り返されています。『ハアダム ラローブ アルペネ ハアダマー』と『ユバノート ユラドゥー ラヘム』です。これは並行表現で、同じような意味を、違うことばに置き換え表現されています。



始めに『ユバノート ユラドゥー ラヘム 女児も同じように生まれた』に着目します。ユバノートは『複数形、娘、女性、女児』などの意味があります。この文脈における意味は『女児、女の子』という意味です。なぜそういう解釈になるかというと『ユラドゥー 生まれた』という動詞が使われているからです。普通、生まれてくるのは、大人じゃありませんよね。『こども、赤ちゃん』です。従って『ユバノート ユラドゥー ラヘム』は『女児も同じように生まれた』となります。同じ解釈を『ハアダム ラローブ アルペネ ハアダマー』に当てはめると『沢山の男児が地上に生まれた』こういう解釈になります。

動詞の解釈に注意が必要です。『ラローブ 数が増えた』と『ユラドゥー 生まれた』は、似ている意味のことばが使われています。二つの動詞は、別々の事柄を説明しているのではなく、同じ事柄を別のことばで言い換えているのです(忌避の規則、代用語の使用)。『沢山の男児が地上に生まれた。同様に、多くの女児も生まれた』こういう意味になります。



~性別の明示~

ヘブライ語は『男児が生まれた~』『女児が生まれた~』と、わざわざ男と女を分けて表現しますが、日本語は、そうした区別はしません。言語によって、表現方法が違うのです。



実務的な話しになりますが、翻訳は文字数との戦いでもあります。限られた文字数の中に、原文の意味を凝縮させなければならないからです。『性別の明示』で表現された文を、日本語に翻訳する場合、文字数を確実に減らすことができます。これは、使わなければならないテクニックです。従来の日本語訳聖書で、こういう翻訳手法が使われていないのは、基礎的な知識もスキルもない人物が翻訳をおこなっているからです。

ここまで検討した内容をまとめます。
・キー・ヘッヘルは『(世の中は)実に、不道徳に(なった)』という意味。
・ハアダマーが使われてるので、1節は、人間の不道徳や罪について書かれている。
・1節後半『ハアダム ラローブ アルペネ ハアダマー ユバノート ユラドゥー ラヘム』は『多くの男児、多くの女児が生まれた』という意味。
・ヘブライ語では性別を明示する表現になっているが、これを直訳してはいけない。

解釈文 創世記6:1
その後、世の中はひどく不道徳になった。不適切な男女関係により、多くの子どもが生まれた。

私訳 創世記6:1~2
1~2 その後、世の中はひどく不道徳になった。男たちは、女性が魅力的だったので、欲情の赴(おもむ)くまま振舞い、全ての女性を凌辱(りょうじょく)した。こうして多くの子どもが生まれた。




~新改訳2017はどうなの?~

2017年秋、新改訳2017が出版されました。『新改訳2017 特徴』が、次のように謳(うた)われています。

3.原典に忠実
ヘブル語及びギリシャ語本文への安易な修正を避け、原典に忠実な翻訳をする。

1.翻訳理念の継承による改訂
従来の日本語の聖書翻訳においては、それまで使用されていた翻訳聖書の翻訳理念が受け継がれずに、全く新しい形で翻訳がスタートする、という形が常でした。そのため、大正改訳 → 口語訳のように、翻訳原則そのものが変更されるということも起こっていました。新改訳2017はこの反省に立ち、一つ前の第三版までの大きな翻訳理念を継承し、その上であらたな時代に相応しい訳として大改訂を行う、という方針を執っています。今回の大改訂では、聖書全体33,000節のうち、9割の節に何らかの修正や変更が加えられています。

2.第三版から継承した特徴
原文が透けて見える(トランスパレントな)訳
新改訳が目指しているトランスパレント(transparent)な訳は、日本語と文章の読みやすさを犠牲にすると考えられがちです。確かにそのような側面もないわけではありません。しかし、トランスパレントであるがゆえに、原文の意味が日本語文にも鮮明に浮き上がるようにすることが可能であると考えています。原文に忠実であり、かつ日本語として自然な文章が可能である、という立場に立って、日本語の面からの検討が進められています。

3.今回の大改訂での変更
文脈の流れを重視
従来の新改訳では、それぞれの節は正しい訳になっていても、節と節の間の関係が分かりにくいケースがありました。一般に、節ごとに文法的な修飾関係のみに基づいて訳出すると、節間のつながりが分からなくなる場合が多くあります。今回の改訂では、複数節にまたがる情報の流れに注目し、原文における情報の提示順序を意識しながら、訳文の検討を行っています。


新改訳2017は、本当に原文に忠実に翻訳されているのか、見てみましょう。
新改訳2017 創世記6:1~2
1 さて、人が大地の面に増え始め、娘たちが彼らに生まれたとき、
2 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした。

私訳 創世記6:1~2
1~2 その後、世の中はひどく不道徳になった。男たちは、女性が魅力的だったので、欲情の赴(おもむ)くまま振舞い、全ての女性を凌辱(りょうじょく)した。こうして多くの子どもが生まれた。


2017の訳文は、誤訳されているので、原文に不忠実な翻訳です。2017が、第三版からどのように変更されてるか見てみましょう。

新改訳第三版と2017の比較


上の図から分かる通り、『2017』はどうでもいいようなところを、訂正したに過ぎません。2017は『聖書全体の9割を変更した大改訂』だと自慢していますが、重箱の隅をつつくような訂正をおこなったところで、間違った意味で翻訳されていたら、何の意味がありますか?創世記6:1~2は誤訳されたままではありませんか。新改訳は『原文に忠実に翻訳』されていません。『原文が透けて見える』とか『原文の意味が日本語に鮮明に浮き上がる』というのもウソです。翻訳理念がデタラメなんです。新改訳の訳文を読んで、どこに『キー・ヘッヘル』が使われてるか透けて見えるでしょうか?『アダマーとエレツ』の違いが透けて見えますか?透けて見えないですよね。『トランスパレントは、原文の意味を変えてしまう』『トランスパレントは、原文に不忠実で、かつ、おかしな日本語になる』。『トランスパレントは、原文が透けて見えない』これが実態です。

2017が誤訳になった原因は、次の通りです。
・新改訳の翻訳者は、ヘブライ語の定型表現を理解していない。『結果⇒理由』『人口増を祝福する時の定型表現』『出産4点セット』。表現形式を理解せず、直訳したため1節、2節の文脈につながりがなくなっている。
・訳語の選択を間違っている。『キー・ヘッヘル』は『(世の中は)実に不道徳に(なった)』という意味ですが、新改訳は『始め~したとき』と誤訳している。
・『ハアダマー』は、人間の不道徳や罪を指摘する文で使われる。こうしたことが理解されていない。
・『ラヘム』は『同じように、同じく』という意味だが、新改訳は『彼らに(生まれた)』と誤訳している。
・新改訳は、1節後半が『並行表現(対句)』になっていることを理解していない。これを理解していれば『沢山の男児が地上に生まれた。同様に、多くの女児も生まれた』こういう解釈になる。
・ヘブライ語は『男児が生まれた~』『女児が生まれた~』と、男と女を分けて表現することを好む。ヘブライ語は『性別の明示』をするが、日本語はしない。新改訳が『人が~増え、娘たちが~生まれた』と直訳したのは、言語によって表現形式が異なることを理解していないから。

2017を翻訳した人物は、翻訳のイロハも知らない素人です。プロの翻訳者として基礎的な知識がない。訓練もされてない。プライドが高いので、謙虚に人から学ぶくことができない。誤訳悪訳をおこなっておいて、自分たちを正当化するため、デタラメな翻訳理念を吹聴しているに過ぎません。組織が大きくなり経済力を持つと、組織にこびる提灯(ちょうちん)持ちが現れます。『原子力発電所は安全です!重大事故が起きる確率なんて百万分の一に過ぎません!プルトニウムが含まれる水を飲んでも健康被害はありません!』福島の事故が起こる前、こう言い放ったのは、原子力村の御用(ごよう)学者さんでした。『聖書翻訳村』の中にも『トランスパレントは、原文に忠実な翻訳方法です。日本語として自然な文章が可能です。新改訳は原文に忠実です』とデタラメを語る、提灯学者がいるのではありませんか?翻訳をおこなう委員会は、お金と『聖書翻訳者』という肩書を手に入れることしか頭にないんじゃないですか。これじゃ『ホラッチョ神学者』が作った『ホラッチョ聖書2017』です。

もし、正しい翻訳作業をおこないたいのであれば、トランスパレントという『間違った翻訳理念を継承』してはいけません。『原文放棄』という翻訳に変えるべきです。





(000)地は茫漠としてた? 創世記1章2節

2018年04月22日 | 創世記


創世記1:1に続き、2節も誤訳になっています。日本語訳聖書は、この聖書の冒頭部を誤訳し、100年間訂正されていません。『直訳、トランスペアレント訳』で翻訳するから、誤訳になるのです。私訳は次のようになります。

私訳 創世記1:2
大地はまだ、影も形もなかった。神の息吹は風のように海原を包んでいたが、深い海の底は暗やみに覆われていた。


この記事の目次

・原文の輪郭を設定する
・無の象徴
・トーフー バボーフー
・70人訳
・英訳聖書
・死の象徴
・生の象徴
・まとめ


~原文の輪郭を設定する~

『聖書と翻訳』で書いてきたことですが、原文の輪郭を設定することは、とても重要な作業です。これができれば、8割がた理解できたようなものです。


私はヘブライ語や神学の専門知識がないので、これに関しては全くの素人です。そうではありますが、ある外国語の通訳をやってきて、言語というものがどういうものなのか、原文解釈、通訳翻訳とはどういう作業なのか、理解を深めてきたつもりです。最近、聖書をヘブライ語やギリシャ語で読みたいという方は増えているように感じます。外国語を学習する時、気をつけていただきたいのは、文法や辞書に依存した学習をしてはダメだということです。こうした学習は、直訳思考を作るので、間違った原文解釈をすることになります。単語の解釈、文の構造、ヘブライ語・・・小さなものから大きなものまで『輪郭を描く』作業をやってみてください。きっと役に立ちます。というより、これができないと原文解釈はできません。

2節はどの様な仕組みになっているのでしょう。輪郭を描いてみると次のことが分かります。上図参照。
・創造三日目、大地が創られるので、2節の時点で大地は存在しない。
・トーフーとバボーフーは、同じ意味を持つことばである。同義語反復。
・ベホーシェクとテホームは、同じような意味を持つことばである。類語。
・『アルペネ テホーム』と『アルペネ ハマーイム』は、対照的に表現されている。対句。

2節は、次の3つのテーマに分かれてることが分かります。
・無の象徴 ベハアレツ ハヤター トーフー バボーフー
・死の象徴 ベホーシェク アルペネ テホーム
・生の象徴 ベルーアハ エロヒム メラヘフェト アルペネ ハマーイム

原文解釈をする時、細かく文法解釈をすると、全体像を見失い必ず誤訳します。原文を読んで、翻訳者が頭の中ではっきりとイメージを作ることが肝心です。やみくもに、イメージを作ってはいけませんが、原文の輪郭が把握できれば、イメージが湧きあがるはずです。以下、無の象徴、死の象徴、生の象徴、3つのテーマ毎に、説明させていただきます。


~無の象徴~

ベハアレツ ハヤター トーフー バボーフー




私訳
大地はまだ、影も形もなかった・・・


創世記1:2 引用サイト
Biblehub.com
発音 aoal.org

וְהָאָ֗רֶץ ベハアレツ(776)
土地、国土、大地、陸地

הָיְתָ֥ה ハヤター(1961)
~である、~になる、~に転じる、現れる

תֹּהוּ トーフー(8414)
形がない、空っぽ、虚栄心、無秩序、荒地、使いものにならない、空想

בֹּהוּ バボーフー(922)
空っぽ、空虚、無駄、使いものにならない


~トーフー バボーフー~

次の日本語訳を読んでも意味が分かりません。

文語訳 創世記1:2
地は 定形(かたち)なく 曠空(むなし)くして・・・

口語訳 創世記1:2
地は形なく、むなしく・・・

新共同訳 創世記1:2
地は混沌であって・・・

新改訳 創世記1:2
地は茫漠(ぼうばく)として何もなかった・・・

新改訳は『地は茫漠として何もなかった』と訳しました。これを読んだ読者は、どのような景色を思い浮かべるでしょうか?



『茫漠』ということばは、次のように定義されています。『広々としてとりとめのないさま。例文 茫漠たる砂漠地帯』goo辞書より引用。新改訳の訳文は、天地が創られる前、既に『広々としてとりとめのない大地』が存在していたという意味になっています。また、どの日本語訳も『定まった形がなく、荒涼たる大地が存在していた』という表現になっていますが、これでは文脈に矛盾する表現になります。何故なら、天地創造の三日目初めて大地は創造されるのですから、この時点で、大地は存在していないからです。



ヘブライ語を調べなくても『大地が存在していたと翻訳する聖書は誤訳だ』と分かりますよね。『形なく、むなしく』『茫漠として何もなかった』これは、ヘブライ語『トーフー バボーフー』を直訳したものです。トーフーもバボーフーも、それぞれ『ない、存在しない』という意味のことばで、同じ意味のことばが繰り返される、同義語反復になっています。『トーフー バボーフー』はセットで解釈しなければなりません。『ないよないよ、なんにもないよ』という意味です。従って『ベハアレツ ハヤター トーフー バボーフー』は『大地はまだ、影も形もなかった・・・』という意味です。これだと天地創造の文脈に合いますよね。日本語訳は『トーフー=形がない』『バボーフー=むなしい』と一語一語直訳(トランスペアレント訳)したから、誤訳になったのです。

日本語訳をおこなったセンセイは『トーフー バボーフー』の意味が理解できないようですから、もう少し、説明させていただきます。


~70人訳~

ヘブライ語『トーフー バボーフー』が、ギリシャ語では『アホラトス ケイ アカタスコバストス』と訳されています。これがどういう意味なのか調べてみましょう。

70人訳 創世記1:2
αόρατος και ακατασκεύαστος
アホラトス ケイ アカタスコバストス



αόρατος アホラトス(517)
目に見えない、姿かたちがない

ακατασκεύαστος アカタスコバストス(180.2)
備わっていない、用意されてない

κατασκευάζω カタスケワッゾー(2680)
準備をする、整える、手配をする

アホラトスもアカタスコバストスも『存在しない』という意味が繰り返されています。ヘブライ語の同義語反復がきちんと表現されてます。『ないよないよ、なんにもないよ』という意味ですから『大地は影も形もなかった』という解釈になります。全く難しくありませんよね。


~英訳聖書~

英訳聖書はほとんどが悪訳になっています。原因は『word‐for‐word トランスペアレント』で訳すからです。

The earth was without form and void・・・
私訳 大地は形なく、空っぽで・・・

これは意味不明な英文で、解釈に混乱を招いています。英語の解説書を見ると『大地は、謎めいた状態で存在していた』『荒涼とした大地が存在していた』と説明されています。しかし『天地創造の前から荒涼とした大地があった』という解釈は根本的に間違っていますよね。大地は三日目に創られたのですから。英訳聖書も『トーフー=without form』『バボーフー=void』と直訳(word‐for‐word)で翻訳したため誤訳になった実例です。

次の英訳は、ヘブライ語が語る意味を正しく訳出しているので、ご覧ください。
Chabad.org
Now the earth was astonishingly empty,
astonishingly empty 全く何もない
私訳 この時、大地は影も形もなかった、

以上のことから、大切なことを学ぶことができます。多くの英訳は『トーフー=without form』『バボーフー=void』と、word‐for‐wordで訳したため、意味不明な訳文となり間違った聖書解釈を生み出しました。一方、Chabad.orgは、ヘブライ語の語彙や文法通り翻訳していません。意味を訳出することに注意を注いだのです。その結果、ヘブライ語の意味を最も正しく表現できました。原文を忠実に翻訳するということは、原語の文法や語彙をコピーして、目的言語に貼り付けることではありません。

文法、語彙、構文というのは、意味を入れる器にすぎません。通訳翻訳の目的は、器の中に入った中身(意味、ニュアンス)を、移し替えることです。聖書を読む人の99%は、原語の知識を全く持たない人たちです。多くの方は、聖書が語る『意味』を知りたくて読むのであって、原語の文法を知りたくて読むのではありません。直訳(トランスペアレント訳)は、器を模倣することに終始しますが、そうすることで、器も中身(意味、ニュアンス)も、どちらも壊しているのです。新改訳の訳文をご覧ください。

新改訳 創世記1:1~2
1 初めに、神が天と地を創造した。
2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

新改訳のセンセイは『トランスペアレント訳をすることで、原文が透けて見える』と、絵空事(えそらごと)をいっていますが、この訳文を読んで『なるほど、ヘブライ語の文法が透けて見えた。ヘブライ語の単語が透けて見えた』という読者がいるでしょうか?ヘブライ語の名詞には男性、女性の区別がありますが、新改訳の訳文を読んで、その区別が透けて見えるでしょうか?ヘブライ語の動詞の接頭辞接尾辞が透けて見えますか?『トランスペアレント訳をすることで、原文が透けて見える』なんてデタラメだということです。トランスペアレント訳は、読者にとって何の益もありません。直訳(トランスペアレント訳)は、原文の文法を模倣することで、器(原文の文法)も、中身(意味、ニュアンス)も、どちらも失っている。これが実態です。

意味が壊れた訳文、間違った翻訳を、聖書読者は望んでいるのでしょうか?直訳(トランスペアレント訳)された訳文は、読者を欺きます。それだけではありません。翻訳をおこなった神学者自身をも欺くのです。間違った翻訳の上に、間違った聖書解釈が作られ、間違った神学が作られているからです。

『トーフー バボーフー』を、一語一語翻訳してはいけません。熟語(慣用句)としてとらえ『大地は影も形もなかった』この様に、翻訳しなければならないのです。トーフーもバボーフーも、どちらも名詞ですよね。たった名詞二つの解釈すらできない人物が、聖書翻訳者を名乗り、誤訳悪訳をおこない、翻訳料はきっちり頂く。日本の聖書翻訳事業は、神学者によって利権化され、既得権益に成り下がっています。


~死の象徴~

ベホーシェク アルペネ テホーム




私訳
・・・深い海の底は暗やみに覆われていた・・・


וְחֹשֶׁךְ ベホーシェク(2822)
暗やみ、悲惨さ、滅亡、死、邪悪さ

עַל־פְּנֵי アル・ペネ(5921、6440)
~の上に、~を覆う、~を包む

תְה֑וֹם テホーム(8415)
奥深いところ、海の底、墓

以下の日本語訳は、何が言いたいのでしょう。読んでも意味が分かりません。

文語訳 創世記1:2
・・・黑暗(やみ)淵(わだ)の面(おもて)にあり 神の靈 水の 面(おもて)を 覆(おほひ)たりき

口語訳 創世記1:2
・・・やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

新共同訳 創世記1:2
・・・闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

新改訳 創世記1:2
・・・やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

日本語訳は『暗やみが水面上にあった。神の霊も水面上にあった。両方とも水面上にあった』という解釈をしています。


日本語訳は誤訳です。神の霊と、暗やみの位置関係を、間違って解釈しています。正しくは『暗やみは海の底、神の霊(ルアハ)は海の上』こういう位置関係を表しています。直訳やトランスペアレント訳にこだわる限り、聖書は誤訳だらけになります。



ヘブ-英辞書を見ると、アルペネは『upon the face ~の上』と解説されていますが、日本の翻訳者はアルペネに『~を覆う、~を包む』という意味があることを見落としています。創世記8章(ノアの洪水)をご覧ください。



『アルペネ テホーム 海の底を覆う』は『アルペネ ハマーイム 海の上を覆う』と対照的な関係(対句)になっています。テホーム(深いところ)というのは『海の深いところ、海の底』という意味です。ベホーシェク(暗やみ)も、テホーム(深いところ)も、死の世界を象徴することばです。『アルペネ テホーム 海の深いところは、暗黒(死)の世界』だ、『アルペネ ハマーイム 海の上は、神のいのち(ルアハ)が満ちた世界』だと、生と死を対照的に表現しています。



『ベホーシェク アルペネ テホーム』これを品詞でいうと『名詞+前置詞+名詞』です。日本の中から選ばれし聖書翻訳者は『名詞+前置詞』すら翻訳できないレベルなんですね。大学で教えるヘブライ語は『名詞+前置詞』すら教えられない、そういうレベルなんでしょうね。誤訳をするレベルが、余りにも低すぎませんか?

聖書翻訳をおこなったセンセイ、いい加減、文法書と辞書に依存した翻訳は卒業したらどうですか?文法書と辞書に依存する翻訳というのは、機械翻訳とおんなじです。機械翻訳は自分が作った訳文が、非文になろうが、文脈にそぐわなかろうが、訂正することができません。一方、人間は、自分が作った訳文に目を通し、おかしな日本語になっていたら訂正することができます。訳文を推敲(すいこう)するのは、当たり前のことです。日本語訳聖書が、おかしな日本語、文脈に合わない翻訳のまんま出版されたということは、翻訳者が意思を持たない機械よろしく、主体性がなく、判断する力がないということです。直訳をする人は、自分の頭で考えることができない思考停止に陥っているのです。教育は両刃の剣です。間違った教育(直訳主義)を施せば、間違った信念に束縛されることになるのですから。

古代イスラエル人は、大地の下に、死後の世界と巨大な水源があると考えていたようです。次の図は、古代イスラエルの宇宙観を表したものです。


ベホーシェク アルペネ テホームは『・・・深い海の底は暗やみに覆われていた・・・』という意味になります。


~生の象徴~

ベルーアハ エロヒム メラヘフェト アルペネ ハマーイム





私訳
・・・神の息吹は風のように海原を包んでいた・・・


וְר֣וּחַ べルーアハ(7307)
風、呼吸、魂、命、霊なる神

אֱלֹהִ֔ים エロヒム(430)
神、神々

מְרַחֶ֖פֶת メラヘフェト(7363)
揺れ動く、ゆっくり動く、空に舞う、羽ばたく

עַל־פְּנֵ֥י アルペネ(5921、6440)
~の上に、~を覆う、~を包む

הַמָּֽיִם׃ ハマーイム(4325)
水、海、川、尿、精液、体液、洪水

ルアハは『風、呼吸、魂、命、霊なる神』など、様々な意味を持つことばですが、ユダヤ人は、これらの意味を、ルアハひと言でいいます。日本語訳聖書をご覧ください。愚かにも『ルアハ=霊』と訳語を固定していることが分かります。

文語訳 創世記1:2
・・・神の靈 水の 面(おもて)を 覆(おほひ)たりき

口語訳 創世記1:2
・・・神の霊が水のおもてをおおっていた。

新共同訳 創世記1:2
・・・神の霊が水の面を動いていた。

新改訳 創世記1:2
・・・神の霊が水の上を動いていた。

以上の訳文を日本人が読んだらどのように感じるでしょうか?『神の霊が水の上を動いていた。うらめしや~』という、おどろおどろしいニュアンスを感じるはずです。



日本語訳聖書は『ベルーアハ エロヒム=神の霊』と一語一訳(トランスペアレント訳)しています。『ルアハ=霊』と解釈することは、神学上正しいのかもしれませんが、翻訳上大きな問題があります。日本語の『霊』ということばは、次のような意味を持ちます。
霊 goo辞書より引用
1 肉体と独立して存在すると考えられる心の本体。また、死者の魂。霊魂。たま。「祖先の霊を祭る」
2 目に見えず、人知でははかりしれない不思議な働きのあるもの。神霊・山霊など。

現代の日本人が『霊』ということばを聞くと、『幽霊、亡霊、御霊前・・・』など、『化け物、死者の霊』と結びついた、暗く冷たいイメージを思い浮かべる、そういう方が多いと思います。一方、ヘブライ語のルアハは『神の息吹、風、いのち、魂、霊なる神・・・』と、生命を想起させるニュアンスがあることばです。

『ベルーアハ エロヒム メラヘフェト アルペネ ハマーイム』ここは、生命の創造を予感させる、明るい表現になっていて、3節の『光の創造』の導入を担っているという側面もあります。文脈によっては『ルアハ』を『霊』と訳さなければならない場合もあるかも知れませんが、この文脈で『霊』と訳しちゃダメでしょ。日本語に訳出するということは、日本語訳を読んだ読者にどの様な心理的変化を与えるか、こうしたことに対する配慮も必要です。ヘブライ語で書かれた聖書は、本来、カラフルに表現されています。悲しみに沈む顔、喜びにあふれた顔、喜怒哀楽にあふれた表情があるのです。新改訳を長年読んでいますが、新改訳聖書って、意味不明で、ヘンテコな日本語で、陰気で、読んでいてウンザリしてきます。

ことばが持つニュアンスへの配慮が必要。


ことばには、辞書には載ってない、使い方や、ニュアンスがあります。一語一訳式にことばの意味を固定してはダメです。文脈に合わせ訳語を変えてゆかなければならないのです。ルアハは、聖書の中で377回使われることばで、聖書の思想を支える重要語ですから、脚注欄か巻末に、用語の解説を載せた方が良いと思います。

私訳
・・・神の息吹は風のように海原を包んでいた・・・
脚注
息吹:ヘブライ語、ルアハ。呼吸、風、いのち、魂、霊なる神などの意味がある。命の象徴。



~まとめ~

以上、解釈してきたことをまとめてみます。

・無の象徴 ベハアレツ ハヤター トーフー バボーフー
大地はまだ、影も形もなかった

・死の象徴 ベホーシェク アルペネ テホーム
深い海の底は暗やみに覆われていた

・生の象徴 ベルーアハ エロヒム メラヘフェト アルペネ ハマーイム
神の息吹は風のように海原を包んでいた

私訳を二つ作ります。AとBどちらがイメージしやすい文でしょう?
A 大地はまだ、影も形もなかった。深い海の底は暗やみに覆われていたが神の息吹は風のように海原を包んでいた。
B 大地はまだ、影も形もなかった。神の息吹は風のように海原を包んでいたが深い海の底は暗やみに覆われていた

どちらかというと、Bの方がイメージしやすく、Aの方がイメージしにくいと思います。直訳をする方は『ヘブライ語が表現する順番通りに翻訳しなければならない』と考えるので、Aの訳文が正しいと考えます。しかし『原語が表現する順番に従って、訳文を作らなければならない』という考えそのものが、間違いなんです。枕草子『春はあけぼの』の原文と、英訳をご覧ください。

枕草紙
春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく・・・

Ivan Morris訳
In spring it is the dawn that is most beautiful. As the light creeps over the hills・・・

『春はあけぼの。』を『In spring it is the dawn that is most beautiful. 』と翻訳しています。しかし、日本語には『美しい、素晴らしい』ということばはありません。これは『勝手な付け足し』でしょうか?確かに付け足しになっていますが、『勝手な』付け足しではありません。春の章は、ハイコンテクストになっていて『美しい、素晴らしい』ということばが、省略されています。夏の章になって『をかし』が現れます。

夏の章
夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほかにうち光て行くもをかし。雨など降るもをかし

春の章では、『をかし』が省略されていているので、読者は『春はあけぼの・・・で、それがどうしたの?』と思わされます。しかし、夏の章まで読むことで『春は夜明け前がきれいね』と理解できるシステムになっています。ところが、英語はこの日本語のシステムを直訳して表現することができないのです。

『春はあけぼの=spring is dawn』と直訳したのでは、意味が通じない非文になります。『In spring it is the dawn that is most beautiful. 』ここまで、表現しないと英語が成立しないのです。『原語が表現する順番に従って、訳文を作らなければならない』という考えそのものが、間違いだと分かりますよね。

また、形容詞の使い方は、言語によってクセがあります。英文の中で形容詞が連続する場合、これを日本語に直訳できないことは知られたことです(複数の形容詞の順序参照)。同様に『状況描写、人物描写』にも言語によって表現する順番が違うので、直訳できません。日本語の場合『海の上』を先に表現し、次『海の底』を表現した方が日本人に理解しやすい文になります。逆にすると理解しにくい文になります。創世記1:2は、Bの翻訳が相応しいと思います。

私訳 創世記1:2
大地はまだ、影も形もなかった。神の息吹は風のように海原を包んでいたが、深い海の底は暗やみに覆われていた。



次の、新改訳と私訳を読み比べてください。意味が違うのはいうまでもありませんが、『印象』も大きく違うはずです。

新改訳 創世記1:1~2
1 初めに、神が天と地を創造した。
2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

私訳 創世記1:1~2
1 神が天地万物を創られた、その始め、
2 大地はまだ、影も形もなかった。神の息吹は風のように海原を包んでいたが、深い海の底は暗やみに覆われていた。


私訳の方が、天地創造の情景がはっきりとイメージできると思います。ヘブライ語聖書は、基本的に分かりやすいことばで書かれています。神学者や聖書学者は『聖書は難解だ。ヘブライ語は難解だ』と言ってきました。私はそのようには感じません。私が今まで見てきた範囲についていえば、聖書ヘブライ語は、理路整然と記述する言語なので文脈に太い背骨が通っています。誤解が生じないように度が過ぎるくらい、丁寧に表現されているという印象を受けます。神学者、聖書学者のセンセイ!ヘブライ語が難解なのではありません。直訳、トランスペアレント訳というやり方が間違っているのです。そして、翻訳をおこなってきた神学者が、翻訳について不勉強だから難解に感じるのです。

アダムとエバが善悪を知る木の実を食べた後、神さまが『あの木の実を食べたのか?』と尋ねると、アダムは『主よあなたが創った女が悪いんです』といい、エバは『主よあなたが創ったヘビが悪いんです』と、責任転嫁をします。聖書翻訳者や神学者がいう『ヘブライ語は難しい。聖書は難解だ』も、こざかしい責任転嫁に過ぎません。プライドが高く、自分が傷つくことを恐れてるので、素直に『自分の勉強不足』を認めることができないのではありませんか。ヘブライ語に限ったことではありませんが、通訳翻訳は、誰でもできる仕事ではありません。専門的な知識や経験が必要になります。しかし、十分に訓練された翻訳者でも、歯が立たない難解なところがあるということも事実です。そうだとしても、きちんとした技術を持った翻訳者がおこなえば、現在難解といわれる個所の95%は、明確な日本語で翻訳できるはずです。聖書の中で本当に難解といわれる個所は、現在いわれてる量の5%になるでしょう。

私訳 創世記1:1~2
1 神が天地万物を創られた、その始め、
2 大地はまだ、影も形もなかった。神の息吹は風のように海原を包んでいたが、深い海の底は暗やみに覆われていた。


(000)ベレシートの解釈 創世記1章1節

2018年04月21日 | 創世記


『初めに、神が天と地を創造した』は、旧約聖書の最初のページに書かれた、出だしのことばです。日本語訳聖書は、出だしから誤訳になっています。次の1~3節をお読みください。神さまが、最初に創造したものは『光』ですよね。

創世記1:1~3 新改訳
1 初めに、神が天と地を創造した。 ※天=シャマイム、地=エレツ
2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。

神さまが『初めに』お創りになったのは『光』です。天地創造の順番をまとめると、次のようになります。


神さまが最初(一日目)に創ったものは『光(オール)』。『天(シャマイム)』の創造は二日目。『地(エレツ)』の創造は三日目です。ということは、「初めに、神は『光』を創造した」となるのでは???従来の日本語訳をご覧ください。どれも同じ解釈をしています。

文語訳 創世記1:1
元始(はじめ)に神 天地を創造(つくり)たまへり

口語訳 創世記1:1
はじめに神は天と地とを創造された。

新共同訳 創世記1:1
初めに、神は天地を創造された。

新改訳 創世記1:1
初めに、神が天と地を創造した。

従来の日本語訳は全て誤訳。正しくは、次のように翻訳しなければなりません。

私訳
1 神が天地万物を創られた、その始め、
2 大地はまだ、影も形もなかった。・・・



この記事の目次
・輪郭を設定する
・ヘブライ語を見る
・ギリシャ語(70人訳)を見る
・英訳聖書を見る


~輪郭を設定する~

聖書ヘブライ語には、独特の表現形式があります。モーセ五書、各書簡の書き出しをピックアップしました。お決まりのパターンになっていることに、気が付くでしょうか?創世記2:4~5は、創世記の出だしではありませんが、創世記1:1~2の表現形式が踏襲(とうしゅう)されているので、ここに載せました。創世記2:4~5に、創世記1:1~2を解釈するヒントがあります。

出エジ1:1~2 新改訳
1 ・・・イスラエルの子たちの名は次のとおりである。
2 ルベン、シメオン、レビ、ユダ。

レビ記1:1~2 新改訳
1 主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。
2 「イスラエル人に告げて言え・・・

民数記1:1~2 新改訳
1 ・・・主はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。
2 「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ・・・

申命記1:1~2 新改訳
1 これは、モーセが・・・アラバの荒野で、イスラエルのすべての民に告げたことばである。
2 ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。

創世記2:4~5 新改訳
4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、
5 地には、まだ一本の野の潅木もなく・・・

お決まりの形式が見えたでしょうか?1節で大まかなテーマを記述し、2節で補足説明をするという形です。1節と2節の間に、接続詞(副詞)を入れてみると、より明確になります。下の表にまとめてみました。



各書簡とも1節と2節は、意味的に補完し合う関係になっていることが分かります。この形式を創世記1章に当てはめると、接続詞の欄に『その当初、その始め、その時』ということばが入ることになるのですが、これがベレシートの意味になります。ヘブライ語の語学知識に頼ることなく、答えを導き出すことができるのです。『モーセ五書各書簡の書き出しには、共通する文体がある』これに気が付ける翻訳者は、かなりのスキルがあります。原文の輪郭を設定することは翻訳作業の要(かなめ)になります。これだけでは納得できないと思うので、別の角度からも調べてみましょう。


~ヘブライ語を見る~

創世記1:1 Biblehub.com
בְּרֵאשִׁ֖ית בָּרָ֣א אֱלֹהִ֑ים אֵ֥ת הַשָּׁמַ֖יִם וְאֵ֥ת הָאָֽרֶץ׃
発音 aoal.org
べレシート バラ― エロヒーム エト ハシャマイン ベエト ハアレツ
新改訳は、בְּרֵאשִׁ֖ית ベレシートを『初めに~』と翻訳しています。



従来の日本語訳はどれも、ベレシートを『初めに・・・』と訳しています。ベレシートは旧約聖書の中で5回使われていますが、実際、どのように使われているのか調べてみましょう。

ベレシートが使われた個所 5個所
創世記1:1
エレミヤ26:1
エレミヤ27:1
エレミヤ28:1
エレミヤ49:34

エレミヤ26:1 新改訳
ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの治世の初めに、主から次のようなことばがあった。

エレミヤ27:1 新改訳
ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの治世の初めに、主からエレミヤに次のようなことばがあった。

エレミヤ28:1 新改訳
その同じ年、すなわち、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の第五の月に、ギブオンの出の預言者、アズルの子ハナヌヤが、主の宮で、祭司たちとすべての民の前で、私に語って言った。

エレミヤ49:34 新改訳
ユダの王ゼデキヤの治世の初めに、エラムについて預言者エレミヤにあった主のことば。

ベレシートが『~の初めに、~の初め』と訳されていましたが、ちょっと違います。エレミヤ26:1を取り上げ説明させていただきます。Biblehub.comより引用



エレミヤ26:1 私訳
王ヨシヤの息子エホヤキムがユダ族の王座についた時、主のことばが私にのぞんだ。


ベレシートは『~した時、~した当初』という意味で使われてることが分かります。エレミヤ27:1、エレミヤ28:1、エレミヤ49:34も、全く同じ解釈になります。創世記1:1だけ『初めに神が・・・創造した』と解釈するのは、理屈に合わないですよね。

次に『天と地を・・・』これは直訳文(トランスペアレント訳)ですが、そうではなく『天地万物を・・・』と訳出するべきです。ここにもヘブライ語お決まりの形式があります。旧約聖書に、次のような表現があります。

・『年の初めから年の終わりまで 申命記11:12』⇒『一年中、毎日』という意味
・『わたしは初めであり、わたしは終わりである イザヤ44:6』⇒『万物を支配している』という意味
・『ダンからベエル・シェバまで 士師記20:1』⇒『イスラエルの全地に』という意味



いずれも『全て』という意味を表しています。『天と地を創造した』は、『天と地、二つのパーツを創った』という意味ではなく、『天地万物を創造した』という意味です。ヘブライ語は、ハイコンテクストになっていて『万物』ということばが省略されています。日本語に翻訳する場合『天地万物』と翻訳しなければなりません。


話しはそれますが、新改訳は日本語の作文がヘタクソなので、指摘させていただきます。翻訳という仕事は、原語に対する知識がどんなに豊富であっても、日本語を作文する力が貧弱では、何の役にも立ちません。エレミヤ26:1で『エホヤキムの治世のはじめ』という表現をしていますが『治世のはじめ』ということばは、ある決まった文脈で使われるものです。

・故桐壺院のご治世のはじめの頃に、高麗人が献上した綾織や、緋金錦(ひごんき)などがあり・・・
・アウグスツス皇帝の治世のはじめ頃になると、奴隷も主人と同じような服装になり・・・
・ルイ十四世の治世の初めの数年に大蔵卿をつとめていたニコラ・フーケは、豪勢なパーティと美しい婦人と詩を愛する・・・

『~の治世のはじめ』は、『政治、政治に関わる社会現象』について記述される場合が多いのです。もし、日本語で『エホヤキムの治世の初め・・・』という表現を使うのであれば、後続文は『・・・アッシリヤが攻めてきた』『・・・王宮建設に着手した』『・・・国民の風紀は乱れ始め』など、こうした内容が記述されるのです。『エホヤキムの治世の初め・・・主から次のようなことばがあった』という言い方は不適切です(コロケーションの不適合)。

新改訳が『エホヤキムの治世』と訳したのは、理由があります。第一の理由は、直訳思考で翻訳をしたからです。ここは英訳聖書で『the reign of Jehoiakim』と訳されています。それで、『the reign=治世』『エホヤキムの治世』と安易な直訳をしたのです。ヘブライ語『マムレフート』には『kingdom, dominion, reign 王国、支配、王座・・・』という意味があり、翻訳をする場合、文脈に合わせ適切な訳語を選択しなければなりません。この文脈の『マムレフート』は、『王座(についた時)、王位(を継いだ時)』という意味で、使われています。『治世』は不適切です。

第二の理由は、翻訳委員会が『聖書のことばは格調高い文体が良い』といった、トンチンカンな理念を掲げたことが原因です。ヘブライ語を素直に解釈すれば『エホヤキムがユダ族の王座についた時』と訳せるはずですが、『格調高い訳文』を作らなければならないという思い込みがあるので、『平易な日本語や大和ことばではダメだ。漢語を使った分かりにくい表現にしよう』とするのです。『治世』といった、硬直した日本語になったのは、翻訳理念にも問題があるのです。原文に忠実に翻訳するのであれば、『原文の文体に合わせた訳文を作る』という理念を掲げなければならないのですが、これは『格調高い訳文を作る』ことと、相いれないものです。

直訳で生じる問題を、もう一つ指摘させていただきます。『創世記1:1の文末が、ソフパスーク(:)で区切られている。だから、1節の日本語も句点(。)で区切らなければならない』と考えることです。



これも間違った思い込みです。言語には恣意性があるので、ヘブライ語のソフパスークと、日本語訳の句点は一致しない場合があります。というよりも『一致することはない』と言ったほうが正しいでしょう。例として、枕草子の『春はあけぼの』と英訳を比較します。日本語の句点の位置と、英語の句点の位置は、ずれています。

枕草紙
春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。

Ivan Morris訳
In spring it is the dawn that is most beautiful. As the light creeps over the hills, their outlines are dyed a faint red and wisps of purplish cloud trail over them.  

句点の位置にずれが生じる


日本語は、動詞がなくても文として成立しますが、英語は基本的に動詞がないと文が成立しません。言語構造が異なる場合、原語の句点の位置と、目的言語の句点の位置は一致しないのです。『春はあけぼの⇒Spring is dawn.』直訳主義は、このような訳文を作ることが正しいと教えますが、本当でしょうか?『春は名詞』です。『あけぼのも名詞』です。ところが『~は』は助詞です。この助詞を『is』という動詞にする時点で、直訳ではありません。通訳翻訳という仕事に、直訳(トランスペアレント訳)というのは絶対にあり得ないということが分かりますよね。意味上も『Spring is dawn.』は成り立っていません。直訳という方法は、原語の文法を目的言語の文法にそのままコピーしようとしますが、そんなことはできないのです。

次も『春はあけぼの・・・』の英訳別バージョンです。この訳文は、日本語の二文をまとめて、一文として翻訳しています。こうした訳文で全く問題ありません。

In spring, the dawn — when the slowly paling mountain rim is tinged with red, and wisps of faintly crimson-purple cloud float in the sky.  Kyotojournal.org

話しを戻すと『創世記1:1の文末が、ソフパスーク(:)で区切られている。だから、1節の日本語も句点(。)で区切らなければならない』という考えは、言語学上間違っているということです。目的言語が日本語の場合、どこに句点が入るかは、日本語のルールに従って決まります。当たり前のことですよね。ところが、『直訳』に洗脳された人は、ヘブライ語のルールに従って句点の位置を決めようとするのです。ヘブライ語を読むときは、ヘブライ語のルールで読む。日本語を作文する時は、日本語のルールで作文する。この様に、頭の中でスイッチを切り替えなければならないのですが、直訳をする人は、スイッチが常にヘブライ語に入りっぱなしになるんです。句点の位置はずれる。これは正しい言語観に基づいた解釈です。

私訳
1 神が天地万物を創られた、その始め、
2 大地はまだ、影も形もなかった。
・・・

今から100年前、近代言語学の父、フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)は『異なる言語間において、直訳はできない!』ということを、数学的な証明方法を使って学生に講義をしました。ソシュールはこの中で『言語には恣意性がある』ということを唱えていますが、平たく言うと『言語というものは、直訳できない性質を持っている』という意味です。時代は変わり、太平洋戦争が始まると、アメリカは対戦国日本やアジア諸国の情報を集める必要性があり、コロンビア大学で最高水準の外国語教育プログラムを作ります。全米から優秀な教授、学生が集められ、日本語やアジア諸国の言語教育を授けたのです。この第二言語習得に関する研究は、重要な理論を発見します。言語が異なる場合、コンテクストに違いが生じる。モダリティに違いが生じる。コロケーションに違いが生じる、などです。これらのものは、ソシュールが唱えた『言語の恣意性』を、別の角度から証明したといえるでしょう。現代言語学は『直訳やトランスペアレント訳』を完全に否定しています。『直訳やトランスペアレント訳』を理念とする、日本の英語教育や聖書翻訳は、現代言語学から見て、間違っているのです。日本の聖書翻訳者は、こうしたことを勉強していません。


~ギリシャ語(70人訳)を見る~

『いや、まだ納得できない!』といぶかる方がまだいるかも知れないので、70人訳ではどうなっているのか、見てみましょう。

創世記1:1、Stepbible.orgBiblehub.com
εν αρχή εποίησεν ο θεός τον ουρανόν και την γην
ヘン アルケー エポイエーセン ホ セオス トン ウーラノン カイ テン ゲン
私訳 神さまが、天地万物をお創りになった時

ヘブライ語のベレシートが、ギリシャ語の『ヘン アルケー εν αρχή 』と翻訳されています。アルケーは次のような意味があります。
ἀρχή arché(746) Biblehub.com
magistrate, power, principality, principle, rule.
王権、権威、権力、絶対者、統治、定める、治める、王位に就く 

辞書を調べる時注意しなければならないのは、辞書に書いてあることが100%正しいと信じてはいけないということ。また、聖書ギリシャ語の場合、70人訳が作られた古い時代の意味と、新約聖書が書かれた時代の意味では、ことばの意味に違いが生じる、そういう場合だってあります。発音もスペルも違う場合があります。辞書には、70人訳に固有の定義なのか、新約時代のギリシャ語に固有の定義なのか、共通する定義なのか、解説されてないはずです。ここは、辞書を頼りにせず『ἐν ἀρχῇ ヘン アルケー』が使われた文をピックアップし、意味を探ることにします。使徒11章とピリピ4章が理解しやすいので、これを取り上げ説明します。

使徒11:15 Biblehub.com




ピリピ4:15 Biblehub.com


ἀρχή(ヘン アルケー、アルクサスタイ)は『~した時、~し始めた時』という意味になっていて、『初めに~した』という使われ方はしていませんよね。ヘブライ語ベレシートと同じ意味で使われています。創世記1:1は、次のように解釈します。

εν αρχή εποίησεν ο θεός τον ουρανόν και την γην
ヘン アルケー エポイエーセン ホ セオス トン ウーラノン カイ テン ゲン
私訳 神さまが、天地万物をお創りになった時


またまた余談ですが、新改訳の訳文がおかしな日本語になっているので、指摘させていただきます。私訳の方が、分かりやすいはずです。

新改訳 使徒11:15
そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。

私訳 使徒11:15
さて、私が語り始めると、以前、私たち使徒に聖霊が下った時と同様、カイザリヤの人たちにも聖霊が下ったのです。






ことばを無駄に付け足すから、意味不明な文になるのです。おかしな表現を推敲(すいこう)することなく、よくも、神のことばとして、出版できたものです。次に、直訳が必ずやることですが、日本語で人称代名詞を使うと、これまた意味不明になります。



ヘブライ語、ギリシャ語、英語は、人称代名詞を使わなければならない言語ですが、日本語は、基本的に人称代名詞を使ってはいけない言語です。新改訳のように、人称代名詞を多用した訳文、つまり、日本語のルールを無視して作られた人造語は、日本語ではありません。また、次の訳文は、間違った敬語の使い方、過剰な敬語表現になっています。新改訳の下に、敬語が使われた例文を載せました。

新改訳
聖霊が・・・私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。

news-postseven.comより引用
皇太子妃時代の若かりし美智子さまは、つばの広いブルトン帽や頭をターバンのように覆うボネと呼ばれる帽子を好んでお召しになった・・・

この文を『皇太子妃時代の若かりし美智子は・・・好んでお召しになった』と言い換えたらヘンですよね。『美智子は』と呼び捨てにしておきながら『お召しになった』と尊敬語を使っているからです。新改訳の訳文も同じです。『聖霊が』と呼び捨てにしておきながら『お下りになった』と重たい尊敬語を使うのは、文に整合性がありません。『聖霊さまが・・・』と、敬称『さま』を付けなければならないのです。そもそもこの文脈で『お下りになった』という敬語を使うのは不適切で『聖霊が・・・下った』として、問題ないはずです。過剰な敬語表現は、滑稽(こっけい)になったり、ときに慇懃無礼(いんぎんぶれい)になります。新改訳には、有名な国語学者が加わっていたそうですが、これじゃ、雇った意味がないんじゃないでしょうか?




~英訳聖書を見る~

ヘブライ語、ギリシャ語を見ると『神が~をした、その始め』『神が~した時』という意味になっていました。英訳聖書は、どのように解釈しているか見てみます。英訳は、様々な訳し方が試みられていますが、基本的な意味はどれも同じです。日本語は私訳です。

When God began to create the heavens and the earth—
神が天地創造を始めた時、
Common English Bible

When God began to create heaven and earth—
神が天地創造を始めた時、
Sefaria.org


In the beginning when God created the heavens and the earth,
神が天地を創ったその始め、
New Revised Standard

In the beginning, when God created the universe,
神が宇宙の創造を始めた時、
Good News Translation


In the beginning of God's preparing the heavens and the earth --
神が天地創造の仕事を始めた時、
Young's Literal Translation

In the beginning of God's creation of the heavens and the earth.
神が天地を創ったその始め。
Chabad.org

At the beginning of Elokim's creation of heaven and earth,
神が天地創造をされたその始め、
Chabad.org 

以上の訳文に『初めに神は天と地を創造した』という意味の英文はありませんよね。さて、英訳聖書で一番多い訳文は、次のものです。
In the beginning God created the heavens and the earth.

この英文を日本語に翻訳すると、どうなるでしょうか?直訳すると、次のようになります。

beginning=はじめ
In the beginning=はじめに
God created the heavens and the earth=神が天と地を創造した
直訳(誤訳) 初めに、神が天と地を創造した。

正しくは、次のようになります。
正訳(私訳) 神が天地万物を創られた、その始め、

『そんなはずないだろ!だって英和辞書に「in the beginning:始めは, 始めに」と書いてるじゃないか。だから「初めに、神が天と地を創造した」で、正しいんだよ!』と言う方がいると思うので、説明させていただきます。『In the beginning』が、どういう意味なのか確認すればよいのです。英語辞書に載ってる例文を引用させていただきます。参考までに、直訳と私訳を載せました。

Merriam-Webster.comより引用



Cambridge Advanced Learner's Dictionaryより引用


以上を見る限り、直訳も私訳も、意味上、大した違いはないように見えるかもしれません。ところが、次の翻訳になると、直訳と私訳とで、意味に大きな違いが生まれます。



Cambridgeの辞書が『in the beginning = when I started it』と解説していました。これが『in the beginning』の定義なんです。つまり『In the beginning God created the heavens and the earth.』は、『When God started creating the heavens and the earth.』と言い換えることができます。『神が天地万物を創られた、その始め、』という意味になりますよね。『in the beginning』は中学校で教わる基本語彙です。語彙、文法上、難しいものではありません。なぜ簡単な英語がまともに翻訳できないのでしょう?学校で教える英語が、根本的なところで間違っているから、つまり、直訳で教えるからです。

学校英語や受験英語の中においては、確かに、直訳英語は成立します。というのは、直訳が成り立たない英文は、教科書から入念に排除され、直訳だけが成り立つ『仮想直訳英語』が形作られているからです。学校教育で教えているのは『English』じゃありません。『日本式仮想直訳英語』です。大学で教える『ヘブライ語』や『ギリシャ語』も、『日本式仮想直訳ヘブライ語』や『日本式仮想直訳ギリシャ語』になってるはずです。『単語を沢山覚えなさい。文法解釈をしなさい』こういう教え方は、生徒を直訳思考に陥らせます。

『翻訳ってさあ。翻訳者によって解釈が異なるから、訳文も十人十色になるんだよね』という方がいますが、半分正しく半分間違っています。創世記1:1英訳聖書を見ると、確かに様々な訳文がありました。しかし、基本的な意味はどれも同じでしたよね。違いがあるのは、名詞の単複、定冠詞の有無、文として作るか節として作るかなど、こうした表面上の問題で、表現方法は違っても、基本的な意味はどの訳文も同じであったはずです。ところが日本語訳聖書の訳文は、単に表現方法が違うのではなく、根本的な意味が間違っているんです。プロとして相応しいスキルを身に付けた翻訳者であれば、表面的な表現方法に違いがあっても、基本的な意味は同じになるはずです。日本の聖書翻訳は、素人がおこなっているので、意味が異なる様々な訳文ができるんです。日本の聖書翻訳レベルが、いかに低いか分かりますよね。

創世記1:1は、聖句暗唱に使われる有名なみことばで、教会学校で子どもたちに教える、定番のみことばです。文語訳、口語訳、新共同訳、新改訳、日本語訳聖書は、100年にわたり間違ったみことばを教えてきたことになります。日本では、神学者や聖書学者が、翻訳をおこなってきました。神学に関しては専門家かも知れませんが、翻訳に関しては素人です。プロの翻訳者として、知識がなく、実務経験もない方が、翻訳をおこなえば多くの誤訳、悪文を作るのは、言うまでもないことでしょう。代々、素人翻訳者が金科玉条としてきた理念が三つあります。直訳、トランスペアレント訳、格調高い文体にする。この間違った理念が聖書のことばを壊すのです。




モーセ五書の表現形式、ヘブライ語、ギリシャ語、英語と、様々な角度から検討してきました。創世記1:1は、次のように翻訳しなければなりません。
私訳 創世記1:1
神が天地万物を創られた、その始め、



(000)翻訳で参考にしたウエブサイト

2018年04月20日 | あれこれ

ヘブライ文字と数値


~日本語訳聖書~

文語訳聖書 bible.salterrae.net

口語訳、新共同訳 日本聖書協会

新改訳聖書 用語検索機能付 tuins.ac.jp

新改訳聖書 biblejapan.jimdo

口語訳、新共同訳、新改訳その他並行訳 bbbible.com

リビングバイブル bible.com


~英訳聖書~

1節の並行訳
biblegateway.com 使いやすい
biblestudytools.com
biblehub.com


~ヘブライ語-英語対訳~

1節内の各語について、STRNo.発音記号、ヘブライ語、品詞分類が表にまとめられている
biblehub.com

ヘブライ語-英文の対訳
net.bible.org
lumina.bible.org
DAVID RUBIN ユダヤ人RUBINさんの個人訳
sefaria.org
studylight.org


~ギリシャ語-英語対訳~

1節内の各語について、STRNo.発音記号、ギリシャ語、品詞分類が表にまとめられている
biblehub.com 使いやすい

ギリシャ語-英文の対訳
net.bible.org
lumina.bible.org


~ヘブライ語-ギリシャ語-英語対訳~

scholarsgateway.com


~用語検索、辞書~

用語検索 複数のギリシャ語(ヘブライ語)を入力すると、そのことばが使われている聖書本文が抜き出される
Blue Letter Bible

ヘブライ語・ギリシャ語-英語辞書 発音付き
上部真ん中の検索欄に、ストロング・ナンバーを入力する。g数字、h数字
Blue Letter Bible

ヘブライ語・ギリシャ語-英語辞書
画面真ん中の検索欄に、ストロング・ナンバー(数字)を入力する。
biblehub.net

ギリシャ語-英語辞書
右上の検索欄に、ストロング・ナンバー(数字)を入力する。
ヘブライ語、ギリシャ語を入力して検索もできる。
bibletools.org

ギリシャ語の人称、単複、性などの品詞活用が表示される
perseus.tufts.edu

ヘブライ語の人称、単複、性などの品詞活用が表示される
pealim.com


~ヘブライ語発音~

ヘブライ語辞書、発音付き
右の検索欄にストロング・ナンバー(数字)を入力する。
英アルファベットに翻訳された文字も入力できる。
studylight.org

ヘブライ語辞書、発音付き
上の検索欄にストロング・ナンバー(数字)を入力する。
英アルファベットに翻訳された文字も入力できる。
biblestudytools.com

ヘブライ語聖書音読サイト
aoal.org


~ギリシャ語発音~

ギリシャ語辞書、発音付き
右の検索欄にストロング・ナンバー(数字)を入力する。
英アルファベットに翻訳された文字も入力できる。
studylight.org
classic.studylight.org
forvo.com

コイネー・ギリシャ語聖書音読サイト
Koine Greek New Testament


~70人訳聖書(旧約)・英語対訳~

Apostolic Bible Polyglot ギリシャ語-英訳のインターリニア
biblehub.com
studybible.info


~ウルガタ聖書~

ラテン語のみ
studybible.info
download

ラテン語-英語対訳
vulgate.org
latinvulgate.com

ラテン語-英語辞書
perseus.tufts.edu
latin-dictionary.net
online-latin-dictionary.com




(000)ヘブライ語 アレフベート

2018年04月19日 | あれこれ

א ב ג ד ה ו ז ח ט י כ ל מ נ ס ע פ צ ק ר ש ת
ך ם ן ף ץ


象形文字 アレフベート 意味



アレフベート基本22字



アレフベート その他



母音記号

時代、地域によって発音が違います。


イスラエル



シャローム



ハレルーヤ



書体の違い



בלי סודות - שיר האותיות



Aleph Bet english



א-ב קריאה עברית Learning Hebrew Alphabet Hébreu- Lettres hébraïques



The Hebrew Alphabet



Hebrew Alphabet



How to write Hebrew letters, 1/3 Ecriture de l'hébreu ,לימוד כתיבת א-ב עברית



01 Learn Hebrew Alphabet Reading Lessons for Beginners Read for Prayers and the Bible Lesson One



02 Learn Hebrew Alphabet Reading Lessons for Beginners Read for Prayers and the Bible





数値



(000)進化か創造か ねつ造されたピルトダウン人

2018年04月03日 | 進化論と創造論


もくじ

事件の背景
ミッシング・リンクの大発見
ねつ造の判明
誰がねつ造したのか?
ドイル氏の人脈と地中海旅行
The Lost World
未知の生物
年表
科学のねつ造は続く




~事件の背景~

1809年、生物学者ラマルクは『動物哲学(Zoological Philosophy)』の中で、獲得形質の遺伝説を発表。ダーウィン進化論の先駆けとなります。ダーウィンは、1859年『種の起源』、1871年『ヒトの進化』を出版。ラマルクやダーウィンの考えは、神の存在を認めない無神論者たちに大歓迎されます。

しかし、現実の自然界に、サルがヒトに進化したことを示す中間生物は存在しません。この中間生物の空白をミッシング・リンク(missing link)といいます。ミッシング・リンクは現実に存在しないのですから、進化論が正しいことを証明するには、化石で証明するほかありません。こうして世界中で化石の発掘競争が始まります。

進化論の証拠を見つけられないことに苛立つ科学者は、しばしば化石やデータをねつ造し、進化の証拠として使ってきました。1874年ヘッケルは胚のスケッチをねつ造し反復説を提唱します。このことは『進化か創造か ヘッケルの偽造と反復説』に書かせていただいたので、こちらをご参照ください。

1912年、ロンドン地質学会は『ピルトダウン人が発掘された。これこそ探し求めてきたミッシング・リンクである』と公表します。ところが、1953年化石の再鑑定で、ピルトダウン人は、様々な動物の骨を加工し組み合わされたねつ造品であったことを告白します。

ヘッケルのねつ造やピルトダウン人のねつ造は、進化論の証拠探しが過熱するなか、起こるべくして起きた事件です。






引用したウエブサイト(英語)

・スミソニアン博物館 『ピルトダウン人 考古学の猿芝居』
・ワシントン大学 『ピルトダウン人のねつ造』
・英国地質学会 『ピルトダウン人のねつ造』 
・英国自然史博物館 『ピルトダウン人』

英国地質学会と自然史博物館は、ねつ造に深く関わった学術団体です。




~ミッシング・リンクの大発見~

ドーソン氏(Charles Dawson)は法律顧問が本業ですが、化石発掘を趣味とし、自分が見つけた化石を自然史博物館(Natural History Museum)に寄贈することもあり、ロンドン地質学会(Geological Society of London)の会員を持つ熱心な化石コレクターです。

ドーソン氏の地元バークハム地区は、干上がった川底に砂利などが堆積してできた土地で、砂利採石がおこなわれていたところでもあります。ドーソン氏は採石現場を訪ねては『化石のようなものが見つかったら教えてくれたまえ』と、かねてから労働者に頼んでいました。1908年、化石のかけらが見つかりドーソン氏に手渡されます。これがピルトダウン人発掘の幕開けとなります。





1912年6月2日、バークハムに、ドーソン氏(Charles Dawson)、ウッドワード氏(Arthur Smith Woodward)、シャルダン氏(Pierre Teilhard de Chardin)が集まり発掘作業が進められると、次々と化石が発見されます。






・ドーソン氏は、法律顧問、ロンドン地質学会会員。
・ウッドワード氏は、自然史博物館職員、地質学会会長、王立学会特別研究員。
・シャルダン氏は、イエズス会の教師、司祭で、創造説を否定し『キリスト教的進化説』を唱え、生涯、進化論と化石研究に没頭した人物。


1912年12月18日、ロンドン地質学会(Geological Society of London)は公表の場を設け『今まで発見されることがなかった、サルとヒトとの中間種、ミッシング・リンクをついに発見した。我々が発見した化石は、サルとヒト、それぞれの特徴を併せ持つ。学術名は、イオアントロプス・ドーソニー(Eoanthropus dawsoni)、化石が取られた地名にちなみ、別名ピルトダウン人とする』と発表します。

発掘に携わったドーソン氏とウッドワード氏は、発掘の様子、200万年前の地層から50万年前の化石が見つかったこと、サルとヒトの特徴を併せ持つことなどを詳細に語ります。

大英博物館、英国地質学会、地質研究所など、そうそうたるメンバーが調査に関わり、マンチェスター大学、解剖学のスミス教授(Grafton Elliot Smith)も、発見された化石は、サルとヒトの中間を示すものでこれは原始人に間違いないと結論をくだします。







その一方、ロンドン・キングス・カレッジ、解剖学のウォーターストン教授(David Waterston)のように『頭蓋骨(とうがいこつ)は人間のもので、下あごはチンパンジーのもの。これらが組み合わされているのは不自然だ』と指摘する学者もいました。



学会による発表後も発掘作業は続きます。1913年8月30日、シャルダン氏が先のとがった歯を発掘し下あごの復元に使われることになります。(後年の再鑑定で、下あごはオランウータンのものと判明)





1914年、ウッドワード氏は、動物の骨でできた原始人の道具とおぼしきものを発掘します。(後年の再鑑定で、チュニジア地域のゾウの骨と判明)





1915年1月9日、ドーソン氏が頭蓋骨(とうがいこつ)の破片をいくつか発掘します。ここからピルトダウン人-IIの発見になります。発掘された場所についての記録が存在せず、発掘場所は不明のままになります。

1915年7月30日、ドーソン氏が下あごの臼歯を発見します。






1916年、ドーソン氏が敗血症で亡くなったあと、ウッドワード氏が発掘を続けますが、それ以上化石が発見されることはありません。




1917年2月28日、ロンドン地質学会の会議で『ピルトダウン人-II』の発見を公表します。見つかったのは、肉厚の頭蓋骨、サルの臼歯を持つ下あご、こげ茶色に変色した化石といった特徴のものです。『ピルトダウン人-II』の発見がより説得力を持つようになり、異論が封じこめられます。





1938年、ウッドワード氏は、次の碑文を刻んだ石碑を寄贈します。

『1912~1913年、かつて川底であったこの地で、チャールズ・ドーソン氏はピルトダウン人の化石を発掘する。チャールズ・ドーソン氏と、スミス・ウッドワード氏が語る発掘のいきさつは、英国地質学会の季刊誌1913~15年号に掲載された』





~ねつ造の判明~

それまでピルトダウン村一帯の地質調査が手つかずだったということがあり、1925年、地質研究所のエドモンズ氏(Francis H. Edmunds)が現地調査に入ります。この調査によって、はからずも化石が見つかった地層は、ドーソン氏らが主張する年代より、はるかに新しいものであることが判明し、化石の年代に疑問が向けられます。 




1949年、自然史博物館のオークリー氏(Kenneth P. Oakley)が、フッ素試験で化石の年代を測定すると、化石と化石が見つかった地層の両者とも最近の年代であることが判明します。

※地中に埋められた人骨や歯は、長い年月をかけ、地中の水分からフッ素を吸収し蓄積するので、骨に含まれるフッ素含有量を調べることで、年代の推定ができます。


1953年、オックスフォード大学、骨格人類学のワイナー教授(Joseph S. Weiner)は化石を調べれば調べるほど、化石の信憑性に疑いを抱きます。そして、下あごの臼歯はチンパンジーの歯で、人工的に削られ着色されていることを発見します。化石を管理する自然史博物館は、ピルトダウン人-Iの発掘場所を把握していましたが、ピルトダウン人-IIがどこで発掘されたのか記録を持っていませんでした。発掘場所は化石の重要な情報です。

ワイナー教授は、オックスフォード大学、解剖学のクラーク教授(Wilfrid Le Gros Clark)と、オークリー氏に立ち会ってもらい、歯が人工的に削られ着色されていること、化石がねつ造品であることを確認してもらいます。

1953年11月21日、タイムズ誌が『化石は巧妙なねつ造品』と報道すると、一般紙もこぞって取り上げます。犯人の特定には至っていませんでしたが、新聞各社は1916年他界したドーソン氏に疑いの目を向けます。

ねつ造が公表された日、博物館のオークリー氏とワイナー教授は、キース氏(Arthur Keith)のもとを訪れます。御年80を過ぎたキース氏は『君たちのやったことは正しいことだ。ただ、事実を受け入れるのは余りにもつらい。気持ちの整理にしばらく時間がかかるだろう』と答えます。キース氏はウッドワード氏と共に、頭蓋骨の復元作業に携わり、ピルトダウン人を強く肯定したイギリス科学界の重鎮です。

キース氏は、若い時ダーウィンの進化説に感化されます。英国外科医師会会員、英国外科医師会ハンタリアン博物館の収蔵管理者、英国王立人類学研究所理事長などの経歴を持つ人物です。






詳細な科学的検証は続けられ、下あごと犬歯は、新しい時代のメスのオランウータンのものであることが判明します。



オランウータンは、イギリスには存在せず、存在するのはボルネオ島とスマトラ島だけです。




地質調査所原子調査部門のボウイ氏(S.H.U.Bowie)とデビッドソン氏(C.F.Davidson)が、放射能測定法による検査をおこなった結果、以下のことが分かります。

ある化石は、更新世(新しい時代)のチンパンジーのもの。ある歯はステゴドン(ゾウ)の歯で、チュニジアが有力な地域。ある歯はマルタ島に生息するカバの歯。地中海地方の化石が、なぜイギリスにあるのか謎でした。






動物の骨を削った道具らしき物は、化石化した骨が発掘されたあと削られた跡があり、削られた面は鉄分を含んだ溶液で着色処理されています。化石はゾウの足の骨と判明します。





1954年6月30日、地質学会で検証活動の総括が公表されます。『ピルトダウン人の骨や歯の化石は、様々な種類の哺乳動物のものが含まれており、化石のすべてに着色が施されている。確かにピルトダウン人の頭蓋骨は分厚いという特徴があるが、この程度の厚さの頭蓋骨は現代人の中にも見られるもので、解剖学上も人骨として説明可能な範囲と認められる。ピルトダウンの化石はねつ造である』と結論づけられます。




~誰がねつ造したのか?~

では、誰がねつ造をしたのか?未だ確証は得られていません。ドーソン氏が最も怪しまれる人物ですが、彼が犯人だとする物的証拠はなく本人の自白もないまま1916年他界します。

次に疑われるのは、ドーソン氏の交友関係です。地質学者ウッドワード氏、発掘調査のためドーソン氏に雇われていたシャルダン氏。

頭蓋骨を発見した宝石商アボット氏(Lewis Abbot)、発掘作業に長く関わったハーグリーブス氏(Venus Hargreaves)、現場の発掘作業に従事したヒントン氏(Martin Hinton)、科学会の重鎮キース氏。作家、医師、発掘当時大英博物館の学芸員であったコナン・ドイル氏(Sir Arthur Conan Doyle)など多くの名前が挙がります。






~ドイル氏の人脈と地中海旅行~

ドイル氏の自宅はクロウボロウ(Crowborough)にありました。クロウボロウから恐竜の足跡や化石が発見されたことがあり、それがきっけで、化石に興味を持つようになります。ドイル氏はドーソン氏と家が近く、両氏は趣味で化石収集を手掛けます。

どの様な目的かは分かりませんが、ドーソン氏とウッドワード氏は発掘前、ドイル氏と面会しています。ドイル氏の自宅は発掘現場から11kmの距離で、現場を訪れることが可能な距離です。

化石のほとんどが地層の浅いところから発見されます。ねつ造した化石を浅い位置に埋めておけば発見されやすいでしょうし、隠すため土を深く掘る手間もかかりません。

オランウータンの下あご

ドイル氏の近所には、王立人類学協会に所属するレイ氏(Cecil Wray)が住んでいました。レイ氏の兄弟はマレー美術館の館長に就任し、当時美術館は、ボルネオ島から多くの標本を購入しています。ボルネオ島とスマトラ島にしか生息していない動物、それはオランウータンです。ピルトダウン人の化石には、オランウータンの下あごが含まれていました。

マルタ島カバの歯

1907年、ドイル夫妻は新婚旅行で地中海に向かいます。11月末から12月始めにかけて、ドイル夫妻は、旧英国領マルタ島に上陸したものと思われます。11月16日付の地元マルタ紙は『マルタ島の石灰岩の中からカバの化石を発見』と報道しています。ピルトダウン人の化石には、マルタ島カバの歯が含まれていました。

チュニジア地方ゾウの歯

1907年、ドイル氏は、考古学者ウィティカー氏(Joseph Whitaker)のもとを訪れています。ウィティカー氏はチュニジア共和国イシュケル地区を研究する数少ない科学者です。2年後、ドイル夫妻は地中海旅行にでかけチュニジア共和国カルタゴ市を訪れます。ピルトダウン人の化石には、チュニジア地方に生息するゾウの化石が含まれていました。

頭蓋骨

ドイル氏の知人に、ロンドンで著名な生物考古学者アメリカ人のファウラー氏(Jessie Fowler)がいます。ファウラー氏は多くの頭蓋骨を所有し、それを売る商売もしています。



ドイル氏は霊能力や心霊現象に心酔していたという一面があります。ドイル氏は、霊能力を世間に知らしめ、霊媒詐欺師スレイド氏(Henry Slade)が世間の脚光を浴びるようお膳立てしたいと願っていたようです。

心霊写真は二重撮りをしたトリックです。



心霊詐欺師スレイド氏。霊界と交信し、足の指に挟んだチョークで、石板に死者のメッセージを書く・・・というのはウソで、あらかじめ板の裏に文字を書いておき、ひっくり返していただけ。



降霊の儀式


あなたがたは口寄せ(霊媒師)、または占い師のもとにおもむいてはならない。彼らに問うて汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。 レビ記19:31 口語訳




~The Lost World~

ドイル氏の冒険小説『知られざる秘境(The Lost World)』には、ピルトダウン人に関する記述があります。(The Lost Worldは『失われた世界』の邦訳名で出版されています)




ロンドン地質学会が、ピルトダウン人発見を公表したのは1912年12月ですが、その1年前に同小説の執筆を終えていて、小説には、ピルトダウン人がねつ造であることをほのめかすような文言が綴られています。

『やる気と知恵さえあれば、化石のねつ造なんて誰でもできるさ。写真のトリックみたいにね』

『ふさふさとした赤い毛におおわれ、粗末な家に住んだであろう猿人(apemen)が、イギリス、ウォータートン氏が暮らす地域から発見される』

『猿人の姿かたちは、ボルネオ島やスマトラ島に住むオランウータンによく似てるじゃないか』

『秘境の広さといえば、猿人の化石が発掘されたサセックス地方と同じくらいだ』




ねつ造した化石が公表されるまでには、多くの人が関わります。海外にある化石の入手、加工、地中への埋設、発掘作業、復元作業、鑑定作業、異論封じこめ対策などです。たった一人の人間でねつ造は成立しません。ある人物は意図的にねつ造をおこない、ある人物はねつ造とは知らずに関わっていたのかもしれません。しかし皆熱心な進化論信奉者であるということは一致していたようです。

誰が犯人かは謎のまま





~未知の生物~

ピルトダウン人の事件前にも、猿人偽造事件がありました。博物学者ウォータートン氏(Charles Waterton)は、南米ギニアに滞在中、猿人(apeman)に遭遇しそれを殺し持ち帰ったというのですが・・・



ウォータートン氏は次のように語ります。『サルのように頭部は小さく、ヒトのような顔つきで、肩から下はサルの体を持つ未知の生物(Nondescript)に遭遇した。これこそ人類の祖先、猿人の発見である。猿人の体全部を持ち帰ることができなかったので、肩から上だけを持ち帰りました』と。

はく製にされた『未知の生物』は一般公開されましたが、調べてみるとただの赤ホエザルの体だと判明します。ウェイクフィールド美術館(Wakefield Museum)によると、『この未知の生物は、はく製の製作技術を持っていたウォータートン氏が入手、加工したものです。南米でホエザルを手に入れ、未知の生物をでっち上げたのです。1821年、同氏は多くのはく製を船に載せ、イギリス、リバープール港に帰港します。その時、税関職員ラシントン氏(Lushington)に、高額な輸入税を計上され支払うことになります。その腹いせにラシントン氏の顔に似せて作った』そうです。

引用サイト
Guide to Patagonia's Monsters & Mysterious beings
Charles Waterton’s Nondescript




~年表~

1809年 ラマルク氏『動物哲学(Zoological Philosophy)』を発表。
    獲得形質の遺伝説を提唱。ダーウィン進化説の先駆けとなる。
1825年 ウォータートン氏『未知の生物』を偽造し猿人として公表。
1856年 デュッセルドルフ付近で、ネアンデルタール人発掘。
1859年 ダーウィン氏『種の起源』を発表。
    コナン・ドイル氏誕生。
1871年 ダーウィン氏『ヒトの進化』を発表。
1874年 ヘッケル、胚のスケッチをねつ造して『反復説』を発表。
1893年 ドイル氏心霊現象研究協会に入会。
1907年 ドイル夫妻、新婚旅行で地中海を旅行。
    マルタ島でカバの化石が発見。
1908年 ピルトダウン村で人骨発掘。未公表。
1909年 ドイル夫妻は再び地中海を旅行。
    チュニジア共和国、カルタゴ市に立ち寄る。
    偽造された化石の中にチュニジア地方のゾウの歯が含まれる。
1911年 ドイル氏小説『知られざる秘境』執筆完了。
1912年 『知られざる秘境』出版。
    ロンドン地質学会が、ピルトダウン人発見を公表。
1914年 ゾウの骨から作られた原始人の道具を発掘。
1915年 ピルトダウン人-IIの発掘。
1916年 ドーソン氏他界。
1917年 ピルトダウン人-II発見を公表。
1925年 化石が見つかった地層は最近の年代であることが判明。
1930年 ドイル氏他界。
1938年 ウッドワード氏石碑を寄贈。
1944年 ウッドワード氏他界。
1947年 フッ素試験により、化石と地層の年代は新しい時代のものと判明。
1953年 ロンドン地質学会が、ピルトダウン人のねつ造を公表。
1955年 キース氏他界。




~科学のねつ造は続く~

ピルトダウンから化石が見つかった時、それが猿人の化石だと肯定する科学者と、否定する科学者に分かれていました。しかし、肯定派の意見に押し通される形になります。このことから分かるのは、肯定派の科学者に、ミッシング・リンクを発見し進化論を証明したいという強い動機があり、そうした先入観が判断を誤らせたということ。そして、科学というものが、客観的な検証の積み重ねだけで作られるのではなく、科学者の先入観や、学者間の政治的力関係で作られる、そうした側面があるということです。

ピルトダウン事件は、現代の日本でも起こっています。東北地方に始まる旧石器ねつ造事件は、日本の歴史教科書が書き換えられるほどの影響がありました。

ノバルティスファーマ社の血圧降圧薬ディオバンの臨床データ偽装は、京都府立医科大、慈恵医科大学、千葉大学、名古屋大学、滋賀医科大学が舞台となります。

STAP細胞が存在するかどうかはさておき、小保方氏が科学雑誌ネイチャーに発表した実験手法では、STAP細胞作成ができないと確認されました。

現代人は科学こそ真理であると思いがちですが、それは間違っています。科学者も人間で間違いを犯すということ、科学という学問も万能ではないというのが現実です。科学は真理を探究する学問であってほしいと願います。しかし科学そのものが真理なのではないということを謙虚に受け止めるべきでしょう。

『ピルトダウンの一件は、大きな教訓を残しました。科学者も過ちを犯すということ。科学という学問に不正があったということ。そして、間違いや不正は、明らかにされなければならいということです』  英国地質学会




キリストの十字架のメッセージは、滅びに向かっている人々にとっては、全く愚かに見えるが、救われた私たちにとっては、実に神の力そのものである。

それは、旧約聖書のイザヤの預言にこう記されている通りである。
「わたし(神)は、人間の知恵による救いを打ち壊し、
人間の賢さによる救いを無効にしてしまう。」

インテリはどこにいるのか。学者はどこにいるのか。評論家はどこにいるのか。神は、この世の知恵がどんなにつまらないものであるかということを示されたではないか。

それは、この世の人々が自分の知恵によって神を知ることができなかったところに示されている。それこそ神の知恵である。・・・


第一コリント1章18~21節 現代訳




(000)進化か創造か ヘッケルの偽造と反復説

2018年04月02日 | 進化論と創造論



聖書は神話や昔話と同じ、ただの宗教の本! 神を信じる人は非科学的! 神を信じるなんて根拠がない! 聖書の奇跡を信じるなんてばかげてる! 神を見せてくれれば信じるよ!

教会の中にも、進化論を肯定し、聖書に書かれた奇跡的なできごとを寓話として解釈する人もいるので、聖書になじみがない多くの日本人が、このように考えるのはもっともなことで、かつて、私も同じように考えていた一人です。

この進化論と聖書の対立について、私が分かる範囲で説明させていただきたいと思います。


~過ぎたるはなお及ばざるが如し~

エルンスト・ヘッケル ドイツ人 1834~1919年
Ernst Heinrich Philipp August Haeckel

ヘッケルは『生物が進化する過程は、生物個体の成長に再現される(反復説)』という理論を提起した人です。学校の理科では、この反復説をいまだに教えています。また、ヘッケルが描いた胚のスケッチも、今でも理科の教育で使われています。ヘッケルのスケッチとヘッケルという人物には大きな問題があるようです。


ヘッケルは絵ごころがあったようで、画家としての一面もありました。

ヘッケルのアート作品





次の図は1874年ヘッケルが、受精卵から胚に成長する姿をスケッチしたものです。当時は、小さな細胞や胚を映す、写真技術がまだない時代でした。




みごとな腕前です。しかし『過ぎたるはなお及ばざるが如し』といいます。ヘッケルはその卓越した匠の技で、スケッチを偽造しフィクションにしてしまったのです。これを科学とはいいません。




次に、ヘッケルの絵と本当の絵を並べてみました。ご確認ください。











全く形の違うものばかりです。世界中を騙したヘッケルは、科学者ではありません。嘘の理屈で理論を作る人を、科学者とは認めたくありません。wikipediaを見ると、生物学者、哲学者と紹介されていますが、世界中をだました『イルージョニスト』にしていただきたいものです。




英語の記事を調べると、ヘッケルの意外な面を知ることになりました。以下、英語の記事の概要を私訳したものです。

~スケッチと反復説はニセモノ~

ヘッケルは『生物が進化する過程は、生物個体の成長に再現されている(反復説)』という理論を提起したことで知られますが、生物分類学と環境学の研究をしたことでも知られています。

『一見するとかけ離れた現象を、私は結びつける。短時間で完成される胚の成長と、悠久の時を経て生じる進化の過程だ。それぞれの過程は、重要な意味を示唆する。これは個人的な意見ではあるが、進化論と生物学、この二つの分野はとても密接な関係にある。胚の成長過程を見ると、生物遺伝の法則と環境適応の法則が相互作用する現象であることが分かる。長い時間かかる進化の過程が、胚の成長に凝縮されているのだ』これが、ヘッケルの反復説です。

ところが、ヘッケルが根拠にしていた自分のスケッチはデタラメだったのです。


~ナチズムへの影響~

ヘッケルの思想は、進化論にとどまらず、ドイツ民族優位思想、社会淘汰思想、ダーウィン思想、宗教批判などに広がります。更に、ダーウィン社会思想(Social Darwinism)、ドイツ民族覇権主義(German Monist League)を唱え『生物学は政治に適用されるべきだ』と主張しました。

ナチ党はヘッケルの思想を積極的に利用し、劣等市民とみなした、障がい者、ユダヤ人を集め殺害します。ナチ政権の虐殺、戦争は、ヘッケルの思想が強力に後押ししたのです。ナチ党もヘッケルも英雄のごとく、国民から熱い支持を得ていました。

ヘッケルの提案通り、障がい者は集められ集団的に殺された。


当時は、第一次世界大戦に敗れ、ドイツが多大な賠償金を抱え、国民が意気消沈していた時代でした。ドイツ民族優生思想(National Socialism)が、貧しかった国民をふるい立たせるものだったのです。当時、貧困層を擁護する政策として、共産主義と社会主義が台頭した時期でもあります。

ドイツ民族優生思想(National Socialism)は、その後、社会主義(Socialism)と名前を変えますが、民族優生思想(National Socialism)という露骨なイメージを軽減させるためでした。

ヘッケルの知られざる一面です。

引用資料
『教科書の偽り』 進化論またねつ造 胚のスケッチはニセモノ
Ernst Haeckel (1834-1919)
・The scientific origins of national socialism. Social Darwinism in Ernst Haeckel and the German Monist League




理学博士安藤和子氏のウエブサイト『12.進化思想により混迷の科学へ突入』からヘッケルの記事を引用させていただきます。

バチカン教皇庁の大学院教授二人が、ヘッケルは人種差別主義者であったことは疑いえないとして、次のヘッケルの言葉をその評価の根拠としている。

「聾者や唖者、知恵おくれ、不治の遺伝病者などの障害者たちを成人になるまで生かしておいても、そこから人類はいかなる恩恵を得るだろう?...もしモルヒネの投与により不治の病人たちを言葉に尽くせぬ苦しみから完全に解放することにしたら、どれほどの苦しみ、どれほどの損失が避けられるだろう?」

ヘッケルの「種の優生学的保存」などの社会ダーウィニズム的な主張は、のちに優生学として継承され、さらにそうした優生学的な考えは、ナチスによるホロコーストを支える理論的な根拠としても扱われた。また、エコロジーとナチスのファシズムの二つの思想の潮流を辿ると、いずれもヘッケルを介するという点で共通項をあげることができると考えられている。







今回、画像データが多く、このブログに載せてないものもあります。スライドショーの方が見やすいかなと思いスライドショーを作ってみました。

ヘッケル 偽りのスケッチ 胚の成長は反復しない





ヘッケルの胚の絵はでっちあげ、反復説もでっちあげということがお分かりいただけたでしょうか?しかし、日本の学校では、いまだにヘッケルの絵を使い反復説を教えています。生物学者はこのことに口をつぐんだままです。進化を教えるためならウソを使ってでも教えようということでしょうか?文科省は、なぜ訂正をしないのでしょう?はっきりとヘッケルの反復説は誤りだと公言するべきです。

アメリカで進化論裁判が起こったことはご存知かと思いますが、進化論者はこうした、嘘をおりまぜて子どもたちに教えているのです。科学や生物学を教えるなと、いいたいのではありません。学者や学校が、嘘を混ぜて教えていることに怒りを覚えるのです。アメリカで裁判を起こしたクリスチャンの気持ちがよく分かります。

科学的な根拠で、聖書のことを全て証明することはできないことでしょう。また、その必要もないと思います。しかし、検証できるものは理論的な検証をし、教会の子どもたちに偽りのない知識を教える必要があると思います。記事も動画も、自由に使っていただいて結構です。


第一ペテロ3:15~16 新共同訳

15 ・・・あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
16 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。



第二ペテロ3章18節 新共同訳

・・・救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。・・・


詩篇119篇66節 新共同訳

確かな判断力と知識をもつようにわたしを教えてください。わたしはあなたの戒めを信じています。