聖書と翻訳 ア・レ・コレト

聖書の誤訳について書きます。 ヘブライ語 ヘブル語 ギリシャ語 コイネー・ギリシャ語 翻訳 通訳 誤訳

(000)イザヤ書8章-6

2018年05月01日 | イザヤ書


この記事は、新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


~5,6節の解釈と私訳~

5、6節 新改訳
5)主はさらに、続けて私に仰せられた。 6)「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる

この訳文を読んで私がイメージすることは、この民というのは、誰のことか分からないけど、この民が、二人の子どもを喜んだというものです。二人のこどもに、何か、めでたいことがあったのでしょうか?何を言わんとしているのか、私には分かりません。本来、シロアハの水、レツィン、レマルヤの子が、どのような関係なのか、原文で示されているにも関わらず、それらの関係が訳文で失われているからです。

この5,6節を読んでどういう意味か、理解できる日本人は、いないのではないでしょうか。それは、日本語として意味が通らない訳文を作っているからで、訳文が日本語として未熟なのです。翻訳スタイルが直訳かどうかといった、翻訳理念の問題ではありません。もし、中学の英語で、このような訳文を作って提出したら不合格だと思います。読んで意味が分からない訳文は、目的言語に翻訳したとは言えません。翻訳(通訳)というものは、異なることば(民族)の間に入り、両者が通じ合えるよう仲立ちをすることだと思います。『私はヘブライ語の専門家であって、日本語は専門でないから、おかしな日本語でも仕方のないことだ』と言えるのでしょうか?そのような方は、ご自分のヘブライ語研究に専念なさって、翻訳に関わるべきではないと思います。私はこの5,6節の訳文を読んで、その投げやりさ、いい加減さに、情けなさと憤りを感じます。


~this peopleはこの民か?指示代名詞の嗅覚~

次にあげるのは、word for wordスタイルの、American Standard Versionの6節です。
6 Forasmuch as this people have refused the waters of Shiloah that go softly, and rejoice in Rezin and Remaliah's son;

『この民』の意味するものは、『ユダ族』であるということは前述しました。シロアハの水はエルサレムを育んできた母のような存在に譬えることができ、その育ての母の恩に、背を向けたと非難されているのは、シロアハ水道の恩恵を受けてきたユダ族だということです。新改訳では『この民』、英語では『this people』になっています。英語の『this』と日本語の『この』は、同じ指示代名詞ですが、その働きには、似て非なるものがあります。

英語では、代名詞(it you thisなど)がうるさく感じるほど頻繁に使われます。日本語では、こうした代名詞は頻繁には使われません。どうしてなのでしょうか?英語という言葉は、いちいち固有名詞を使わなくても、代名詞を代用してそれできちんとコミュニケーションできる仕組みになっているからです。一方、日本語は代名詞を多用したのでは、コミュニケーションが成り立たないので、固有名詞を使わなくてはならない、という仕組みになっています。外国語の中で多用される代名詞を直訳して、そのまま日本語に持ってくるとどうなるでしょう?必然的に、意味不明な訳文になります。ですから、外国語で代名詞で表現されているところは、日本語では固有名詞に置き換えて訳さなくてはならないという場合が多いのです。

日本語では、一人称を表す『わたし』、二人称を表す『あなた』、三人称を表す『彼、彼女』という表現を忌避します。学校では、英語の『you』は、日本語の『あなた』ですと教えますが、実際はそうではありません。日本語で、社員が社長に対し『あなたの明日の予定を教えていただけますか?』と言ったとしたら、近いうちにクビにされるでしょう。喧嘩を売ってる言いかたになるからです。『社長の明日の予定を教えていただけますか?』が普通の言い方です。英語の代名詞を直訳して、そのまま日本語に持ってきてはいけないのです。新改訳の翻訳理念は直訳だそうですが、この例にあるように、直訳スタイルでは原文の意図するものを正しく翻訳することができません。

英訳聖書の『this people』ということばを読んで、私は『この地の民は』というニュアンスを感じます。この地というと、すぐあとにシロアハの水のことが書かれていますから、シロアハがある地域を指すことが連想できます。『this people=シロアハのある地に住む住民=ユダ族』と、このように意味がつながります。これは日本語にはない、英語の指示代名詞が持つ強い嗅覚です。また、それをサポートするように、英語の文全体が、指示代名詞の嗅覚を助ける構成になっていると思われます。

日本語で『この民は』といっただけでは、なかなかシロアハにつながらないのではないでしょうか?日本語の『この』には、英語の『this』のような、強い嗅覚(はっきりと意味を指示する力)が備わっていないからだと思います。外国語と日本語の間に通訳者(翻訳者)が入って、両者の仲立ちをするということは、こうした、ことばの基本的な構造の違いもわきまえた上で、両者が通じあえる関係をつくることです。『通訳(翻訳)というものは、ただ、タテのもを、ヨコにする作業じゃない』といわれる所以です。

また、代名詞を固有名詞に置き換えて訳語を作ることは、代名詞が何を意味するか、はっきりと原文解釈をしなくてはなりません。翻訳者の解釈で、訳文の意味が左右されるので、そのプレッシャーから逃げるように、代名詞のまま訳すことが多いように感じます。代名詞が何を指しているかを解釈するのは通訳者、翻訳者の当然の仕事です。単に『この民は』ということばを日本語の訳文に持ち込むだけでは、翻訳者は仕事の手抜きをしているのと同じだと思います。

もしこの預言が、現代の日本語を使って語られたとしたら、主は『ユダ族は・・・』と固有名詞を使って言われたと思います。主は、ご自分の意思を伝える時、その表現方法にも気を配り、誤解を招くような、あやふやな言い方をされないと思います。


~rejoice inは喜ぶか?~

『・・・レツィン(シリヤの王)とレマルヤの子(北イスラエルの王)を喜んでいる』という文が、英訳では『・・・rejoice in Retzin and Remalyahu's son』となっています。これは『・・・レツィンとレマルヤの子を喜んでいる』と同じ意味なのでしょうか?

英和辞書で『rejoice』を調べると『喜ぶ,うれしがる,祝賀する』といった解説がされています。一見良さそうですが・・・英語のネイティブであれば、次のように理解すると思います。『・・・rejoice in Retzin and Remalyahu's son』というくだりを読む時は、すぐ前にある4節の『(滅亡の道を行く)ダマスコ(シリヤ)とサマリヤ(北イスラエル)』が、ちらちらと脳裏に浮かぶと思います。そして『rejoice in』の意味は、ただ、ダマスコ(シリヤ)とサマリヤ(北イスラエル)を喜んだのではなく『ユダ自らが、ダマスコ(シリヤ)とサマリヤ(北イスラエル)の滅びの道に喜んで入って行った』と皮肉っている意味だと理解するでしょう。このように前の文脈と重ねて、意味を理解しなくてはなりません。こうした前後の文脈も含めて解釈するというのは、機械翻訳や直訳主義の翻訳者にはできないことだと思います。ことばの意味というのは固定できるものではなく、文脈により自由に変化するのです。

The Free Dictionaryでは、rejoice inがイデオムとして定義されています。

原文
To have or possess
: rejoices in a keen mind.
http://www.thefreedictionary.com/rejoice+in

私訳
~の状態になる、~を身につける、~を持つ、~と同じ状態を保つ
例)常に感覚を研ぎ澄ませ(素早い判断力を身につけろ)

Rejoice in the Lord always』ピリピ4章4節、とても有名なみことばですが、これを訳すと『いつも主と共に歩め』という意味です。ピリピ3章17節以降をお読みください。パウロが語っているのは『信仰から離れるな。惑わされるな。最後まで信仰を持ち続けろ』ということですよね。こうしたことを締めくくり『Rejoice in the Lord always(いつも主と共に歩め)』といっています。英訳聖書では、きちんと文脈に筋が通っています。この英語の意味は『いつも主にあって喜びなさい』という意味ではありません。

二つ以上のことばがつながってイデオムとなった時、元の単語からは類推できない新たな意味を持つというのは、外国語学習の初歩的な知識です。『good morning』は『良い朝』ではなく『お早うございます』という意味だと、中学校一年の時に習っているはずです。これは、言語には恣意性があるということを理解する、とても大切な内容が含まれています。ところで、学校英語では英日の翻訳辞書で意味を検索することを重視しますが、翻訳辞書で言葉の意味を理解するのには限界があります。分かりやすく言うなら、翻訳辞書では、外国語の意味を50%しか理解できないのです。このことを承知の上で翻訳辞書を使うのであれば問題ないのですが、学校教育ではそのようなことは教えません。また『英語ではとにかく語彙を増やしなさい。語彙を増やせば英文が理解できます』と教えられてきたのではないでしょうか?語彙を増やすため、単語カードや単語帳が使われます。効率的に暗記できるよう、英単語一つに、日本語の意味が一つ、良くて二つがあてられます。この学習方法は必然的に、生徒を一語一訳主義、直訳主義に陥らせます。こうした学習を忠実に継続してきた方は、知ってる語彙は多くても、特に難易度の高くない、基本的な英文の解釈すらできないということが起こるのです。英文が理解できるようにと学習してきたことが、実際には英文理解を妨げているのです。決して、日本人が外国語学習に向いていないからではありません。学習の仕方が誤っており、誤った言語観を抱いているからだと思います。もし、通訳や翻訳を職業とするのであれば、根本的なところから学び直すことをお勧めいたします。一語一訳主義的感覚を抱いていたり、直訳主義を信条とするようでは、通訳や翻訳の仕事ができるはずがないからです。

『rejoice in 』はイデオムで『(誰かの)仲間入りをする』『(誰かと)つながる』という意味があります。新改訳では『いつも主にあって喜びなさい』と訳されていますが、これでは、ケ・セラ・セラとのん気さを勧めているように感じます。パウロはその様なことを言いたかったのでしょうか?

パウロは、幼いころから教育を受け、パリサイ派のガマリエルという高名な先生のもとで学んでいます。少なくともギリシャ語、アラム語、ヘブライ語の3か国語で会話ができる言語力があったようです。また、スピーチが得意で、論理的、説得力ある話ができる人物だということが聖書に記述されています。その様な人物が、3章17節以降の文に続き、4章4節で『いつも主にあって喜びなさい』と締めくくるのでは、ガクッと膝が抜けてしまいます。不自然な文脈になるからです。『ケ・セラ・セラで締めくくるのかよ。理路整然と語るパウロはどこに行ったんだ。これじゃ弁舌の人パウロが泣くぞ』と言いたくなるのです。ギリシャ語ではどういう意味かは分かりませんが、英訳の『Rejoice in the Lord always いつも主と共に歩め』のほうが文脈に合う解釈になるのではないでしょうか?

また、並立助詞『と』の使い方に注意が必要です。英語の『and』と、日本語の『と』が同じだと考えるのは間違っています。例えば『佐藤さん山田さんの子が遊びに来た』という文をよんで、どのようなことを思い浮かべるでしょうか?二つの解釈ができます。一つは、佐藤さんの子どもと、山田さんの子どもが遊びに来たという意味、もう一つは、大人である佐藤さんと、山田さんの子どもが遊びに来たという意味です。このように並立助詞『と』を使う場合、読者に二通りの解釈を与えるのです。

『レツィンレマルヤの子』というのも同じことです。読者に二通りの解釈をさせてしまいます。日本語に翻訳するときは『王レツィン、及び王レマルヤの息子』もしくは『王レツィン王ペカ』のように意味を明確にするべきです。これは難しい理論でもなんでもありません。

『なに!原文に王ということばがないんだから、訳文で勝手に付けちゃダメだろ』と学校英語の教師や、原文に忠実な翻訳者にお叱りを受けそうですが、こうした意見は、正しいのでしょうか?翻訳というのは、文字として目に見える単語を日本語に置き換えるだけで、原文と同じ意味の訳文ができるのでしょうか?私はそれはできないと思います。それができると考えているのが直訳主義で、ここに根本的な誤りがあるのです。

テレビのニュースで、よく『雅子さまは・・・』とアナウンサーが言いますが、これを英語にする時は、必ず『Princess Masako』と英訳されます。日本語では『皇太子妃雅子さま』ということもありますが、むしろTVでは『雅子さま』ということが多いと思います。日本語の『雅子さま』は、英語で『Masako』ではありません。アナウンサーのことばの中に、皇太子妃という称号がないからといって、英訳でPrincessの称号を付けてはダメだと言えるのでしょうか?間違っています。言語には恣意性があるので、直訳はできないのです。

また『レツィン』と『レマルヤの子』という人名も、文脈に合わせて意味が変化するということに気が付かなくてはなりません。これも言語の恣意性です。原文では『レツィン』ということばは『レツィン』を意図しています。当時の、ヘブライ語ネイティブが『レツィンの意味は、王レツィンである』と理解しているのであれば、訳文を読む現代日本人も『レツィン=王レツィン』と理解してもらわはなくては、翻訳になりません。ですから日本語の訳文を作る時は『レツィン』を選択するのではなく『王レツィン』としなくてはならないのです。日本語の『雅子さま』が英語で『Princess Masako』と訳されるのと同じことです。原文の意図をきちんと解釈できれば、『レツィン、及びレマルヤの息子』と訳出できるはずです。

直訳主義では、こうした付け足しはタブーとされていますが、通訳や翻訳の実務では、当たり前のように行われていることです。なぜ、こうした付け足しが行われるかというと、難しいことばを使って恐縮ですが、ハイ・コンテクストの文(文脈依存度が高く、ことばが省略された形で表現される文)というのは、コミュニケーションの中で、自動的に、ことばの省略が行われています。ですから、ハイ・コンテクストで表現されてる原文を、ロー・コンテクストの目的言語に訳出する場合、省略され見えなくなったことばを、再現する作業、再び言語化する作業が必要になります。ないものを勝手に付け加えているのではなく、本来あったものを再現しているだけのことです。

朝、上司が会社に入って来た時の会話です。
ベテラン社員『お早うございます』
上司『あれ、どうなった?』
少し間をおいて
ベテラン社員『A社とB社に、見積もり依頼をしておきました』

日本の会社の中で、こうした会話はよくあります。もし他人が聞いたら、何のことか分からないでしょうが、この社員と上司との間ではきちんとコミュニケーションが成立しています。この様に言葉が省略されても通じ合えるコミュニケーションをハイ・コンテクスト(文脈依存度が高い)といいます。ことの経緯を知らない新入社員が『すみません。今のはどういう話しなんですか?』とベテラン社員に尋ねるとベテラン社員は『昨日、最後のツメで、上司と顧客のところに伺ったんだが、もう少し値段を下げて欲しいと顧客から要望があり、仕入れ価格を下げてもらえないか交渉しろと上司に言われてたんだ。それで、下請けのA社とB社に至急再見積もりを依頼したということさ』と答えるでしょう。

上司の『あれ、どうなった?』ということばは『昨日君と一緒に行った顧客から、価格をもっとを下げて欲しいと要望のあった件。その後、どう処理したんだい?』ということを意味しています。これは勝手な付け足しではなく、本来あるはずの言葉が省略されていたので、他の人にも分かるように表現するとこのようになるのです。『あれ、どうなった?』という表現と、意味は全く同じであるということを理解してください。

ベテラン社員が新入社員に説明した内容も長いですが、上司とのやりとりを忠実に再現していますよね。ハイ・コンテクストの言語を、ロー・コンテクストの言語に翻訳するというのは、分かりやすく言うなら、こういうことです。ベテラン社員が新入社員に説明した時も、勝手な付け足しはしていないということは分かると思います。実務にあたる通訳者、翻訳者は、常にコンテクストの違いを考慮し仕事をしています。このように原文で短縮された表現になっている場合、見えなくなったことばを再現して長い文として訳出したり、反対に、詳しく表現されてるものから、ことばを省略して短く表現するということを、実際の通訳や翻訳でやっています。これは、勝手な付け足しや、勝手な削除ではないのです。それどころか、高度な通訳(翻訳)スキルがないとできないことです。こうしたコンテクストの違いを考慮しない通訳や、翻訳はあり得ません。直訳主義が、こうしたコンテクストの違いを考慮しないで訳文を作るということも、未熟な訳文、意味不明な訳文になる一つの原因です。

話しが脱線しましたが、6節『・・・rejoice in Retzin and Remalyahu's son』が意味するのは『(ユダ族は)・・・王レツィン、及び王レマルヤの息子が向かう滅びの道に、自ら足を踏み入れた』という意味だと解釈します。

この訳出も難しいテクニックを使っている訳ではありません。辞書を調べ、イデオムとしての意味を見つけるかどうかといった問題です。新改訳の翻訳者が、自分の訳文に違和感を感じることができ、英訳された聖書を読むことができれば、不自然な訳文のまま出版されることはなかったでしょう。

『~を喜んでいる』『rejoice in ~』と訳されたのは、ヘブライ語『masows マソース』ということばです。masowsの解釈の仕方について、別の記事『ヘブライ語 masows ことばの解釈』で記述しました。興味のある方はこちらもお読みください。


~5,6節の私訳~

word-for-wordスタイルと、thought-for-thoughtスタイル、それぞれの訳文を作ってみます。word-for-wordスタイルで訳すと言っても、一般の日本人が読んで理解できる訳文とするのが、訳文の最低限の品質ですから、その条件を満たしたうえでの訳文としています。最低の条件を満たさない、word-for-worseスタイルではいけませんから。

こうして、次のような訳文になりました。


word-for-word

5)また、主は言われた。 6)「ユダ族は、穏やかに流れるシロアハ※1水道の水に背を向け、王レツィン、及び王レマルヤの息子※2が向かう滅びの道に、自ら足を踏み入れた。

脚注
※1 ヘブライ語で(ギホンから)送られてきた(水)という意味
※2 イスラエルの王ペカのこと


thought-for-thought

5)また、主は言われた。 6)「ユダ族は、今までエルサレムを潤してきたシロアハ※1水道の水、すなわち、主である私のことばに背を向けた。そして、シリヤの王レツィン、及びイスラエルの王ペカらが向かう滅びの道に、自ら足を踏み入れた。

脚注
※1 ヘブライ語で(ギホンから)送られてきた(水)という意味




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