聖書と翻訳 ア・レ・コレト

聖書の誤訳について書きます。 ヘブライ語 ヘブル語 ギリシャ語 コイネー・ギリシャ語 翻訳 通訳 誤訳

(000)ヘブライ語ハガーブ いなごの解釈 民数記13章ほか

2018年05月27日 | ことばの解釈

חָגָב ハガーブ いなご

聖書の中で『イナゴ』に関する記述がありますが、『חָגָב ハガーブ いなご』は、旧約聖書の中で5回使われています。
レビ記11:22
民数記13:33 比喩
歴代誌下7:13
伝道者12:5 比喩
イザヤ40:22 比喩

5か所のうち、比喩として使われているのは3か所ですが、日本語訳聖書は、3か所とも誤訳されています。たかがイナゴ、されどイナゴです。


この記事の目次
・民数記13:33
・伝道者12:5
・イザヤ40:22
・フーグの意味
・比喩ハガーブのまとめ
・バプテスマのヨハネが食べたのはイナゴ豆?
・食べてもよいイナゴ
・余談あれこれ



~民数記13:33~

モーセはカナンの地を征服する前、偵察隊を派遣し、任務を終えた偵察隊は次のように報告します。

新改訳 民数記13:33
そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

『自分がいなごのように見えた』とはどういう意味でしょう?ウエブサイトを見ると『いなごは小さいことの象徴で、アナク人が大きな体を持つのに対し、偵察隊の身長がとても小さいことを意味する。つまり、アナク人(ネフィリム)は巨人であるという意味だ』このように解説する方が多いようですが、これは間違っています。ヘブライ語が語る意味は、次のようになります。

私訳 民数記13:33
カナンにいたのはアナクの子孫で、あれは伝説のゴロツキ集団ネフィリムに違いありません。連中の体つきに比べると、私たちは華奢(きゃしゃ)で、モヤシみたいなものです。


Biblehub.com

民数記13:33



הָיָה ハヤー(バンネヒー) (1961)
~である、~となる

עַ֫יִן アーイン(ベエネエーヌー) (5869)
見た目、姿かたち、目

חָגָב ハガーブ(カハガビーム) (2284)
イナゴのように

33節後半は、私たちの目には自分(の手足)が、イナゴの(手足)ように(か細く)映る⇒私たちの体は華奢で、モヤシみたいなものだ、という解釈になります。

『ハガーブ いなご』は、小さいことを象徴するのではなく『イナゴのように手足が細く、華奢(きゃしゃ)な体つき』『弱さ、無力さ』を象徴することばになります。

余談ですが『アナク族は巨人である』という神学者もいますが、これも嘘です。聖書に『アナク族は屈強な体格をしている。体つきが大きい』こういう記述はありますが、『巨人である』とは書いていません。オランダ人は身長が高いことで知られていますが、オランダ人は『巨人』であると、普通、言わないですよね。『体が大きい=巨人』ではありません。


~伝道者12:5~

伝道者の書12章は、健康が損なわれた老人の哀れな姿を描写しています。5節に『いなご ハガーブ』が使われています。

新改訳 伝道者12:5
彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、いなごはのろのろ歩き、ふうちょうぼくは花を開く。だが、人は永遠の家へと歩いて行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。

『彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる』とはどういう意味なんでしょう?『アーモンド、いなご、ふうちょうぼく、永遠の家・・・』文脈が支離滅裂で、これでは読んでも意味が分かりません。詳しく説明すると、文字数がオーバーしてしまうので、ここでは『イナゴ』の解釈だけに留めます。ヘブライ語が語る意味は、次のようになります。

私訳 伝道者12:5
年をとれば、髪の毛は白くなり、足腰が衰え、健康が損なわれる。悲しみながら晩年を過ごし、死んで墓に葬(ほうむ)られる。


Biblehub.com

伝道者の書12:5


סָבַל サバール(ベイスタベル)(5445)動詞
(重いものを)背負う、かつぐ、運ぶ

חָגָב ハガーブ(ヘハガーブ)(2284)
イナゴ、バッタ

ベイスタベルは『(重いものを)運ぶ』という意味です。文法的な話をすると、基本形はサバールですが、ヒトパエル形になったのがベイスタベルです。ここは『あたかも、重い物を運ぶように、歩くことがしんどくなる』という意味ですから、『ベイスタベル ヘハガーブ』は『脚がイナゴの脚のように細くなる。歩くのがしんどくなる⇒年をとると足腰が弱くなる』ということです。イナゴ(ハガーブ)は、老人のやせ細った脚の比喩として使われています。

伝道者12章は、希望を失った老人の姿を様々な比喩を使い表現しています。興味のある方は、次のサイト(英語)をご覧ください。
MacLaren's ExpositionsBiblehub Ecclesiastes 12:5



~イザヤ40:22~

イザヤ40:22にも、ハガーブが使われています。

新改訳 イザヤ40:22
主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。



新改訳の訳文を読んでも、意味が分かりません。『主は地をおおう天蓋の上に住まわれる』これはデタラメです。ヘブライ語『יָשַׁב ヤシャーブ』は、この文脈では『(王座に)座る』という意味で『住む』ではありません。ヘブライ語『חוּג フーグ』は『~の中』という意味で『天蓋』は誤訳です。『薄絹』も誤訳で、これはヘブライ語『דֹּק ドーク』から翻訳されました。ドークは『テントを覆う外皮(布地、皮)』のことです。70人訳は、ドークを『καμάραν 屋根、覆い』と訳出しています。καμάρανκαμάρακλίση参照。 ドークは『テントを覆う布』のことです。引用サイトRoger Pearse.comAcademic.com。 ヘブライ語が語る意味は、次のようになります。

私訳 イザヤ40:22
大地と天を創ることさえ、主にとっては簡単なこと。主は、王座を大地の真ん中に据え、そこにお座りになった。人間は無力な存在だ。


Biblehub.com
イザヤ書40:22


יָשַׁב ヤシャーブ(ベヨシュベーハ)(3427)
住む、座る、王座に着く

『ベヨシュベーハ カハガビーム』は『(地上の王様なんて、)イナゴが王座に着くようなものだ⇒人間の権力など無きに等しい』という意味です。

解釈文を作ると、次のようになります。
神さまは大地を創り、その真ん中を自分の王座にした。あたかも、テントを一張(ひとはり)立てるように、主は、いとも簡単に大空をお創りになった。この大空は主が住む王宮の屋根。主の王宮は、大地の真ん中に立つ。地上の王様なんて無力なものさ。

ヘブライ語はハイコンテクストになっていて、多くのことばが省略されています。日本人に分かる訳文を作るには、省略されたことばを再現しなければなりません。かといって、だらだらと長い訳文を作ることはできません。訳文の文字数に制限があるからです。原文放棄をおこなって、訳出すると次のようになります。

私訳 イザヤ40:22
大地と天を創ることさえ、主にとっては簡単なこと。主は、王座を大地の真ん中に据え、そこにお座りになった。人間は無力な存在だ。


ハガーブ(カハガビーム いなご)は、人間の無力さの比喩として使われています。


~フーグの意味~

イナゴから話しが逸れますが、『主は・・・天蓋の上に住む』これは誤訳です。天蓋は、ヘブライ語フーグを翻訳したもので、ウエブサイトを見ると間違った説明をする方がいます。『חוּג フーグの意味は「circle,vault」と定義されている。従って「天蓋」以外に「地球は丸い」という解釈も可能である』と仰っていますが、『天蓋、地球は丸い』どちらも誤訳です。『聖書の中で、地球は丸いということを言わせたい』こういうあらぬ先入観を抱いて原文を見ると、歪んだ解釈が際限なく生まれます。ヨブ記22章、箴言8章にも、フーグが使われていますが、『天蓋、地球は丸い』という解釈が当てはまるでしょうか?当てはまらないのです。フーグは『中心、真ん中』という意味で使われています。新改訳は全て誤訳です。フーグは、次の3か所で使われています。
ヨブ22:14
箴言8:27
イザヤ40:22

以下、赤い字が『フーグ』の訳語にあたることばです。

新改訳 ヨブ22:14
濃い雲が神をおおっているので、神は見ることができない。神は天の回りを歩き回るだけだ。」と。

私訳 ヨブ22:14
神の目をくらますなんて朝めし前。天国に、ちょっと雲を掛ければよい』




新改訳 箴言8:27
神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。

私訳 箴言8:27
主は、深い海の真ん中をわかち、大空を創られた。知恵なるお方もそこにいた。




新改訳 イザヤ40:22
主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。

私訳 イザヤ40:22
大地と天を創ることさえ、主にとっては簡単なこと。主は、王座を大地の真ん中に据え、そこにお座りになった。人間は無力な存在だ。





ヨブ記の私訳が分かりにくいと思うので、説明をさせていただきます。私訳には『フーグ』に相当する訳語がないので、腑に落ちない方がいることでしょう。ここは表と裏、二通りの解釈ができます。表(おもて)の解釈をすると『天国に雲がかかったらどうなるだろう。神さまは何も見えなくなり、天国の中を歩くこともできなくなる』となります。ヘブライ語 הָלַך  ハラーク(1980)は『歩く』以外に『おこなう、生きる、働く、従う・・・』という意味があります。従って、『天国の中を歩くこともできなくなる』というのは『神としての働きができなくなる⇒神は人間のおこない(悪事)を見張ることができなくなるだろ。そうなりゃこっちのもの。やりたい放題さ』ということです。ヘブライ語が語る意味、ニュアンスを、適切な日本語で表現すると、次のようになります。

私訳 ヨブ22:14
神の目をくらますなんて朝めし前。天国に、ちょっと雲を掛ければよい』


新改訳は意味不明です。
新改訳 ヨブ22:14
濃い雲が神をおおっているので、神は見ることができない。神は天の回りを歩き回るだけだ。」と

『直訳(トランスペアレント訳)が原文に忠実な翻訳だ』という方がいますが、それは嘘ですよ。



~比喩ハガーブのまとめ~

話しを『ハガーブ いなご』に戻し、以上検討してきた内容をまとめてみます。

ハガーブが使われた個所まとめ


חָגָב ハガーブ(2284)は、バッタ、イナゴという意味ですが、חָגָּא ハッガー(2283)は、恐れ、心くじけるという意味があります。ヘブライ語は、韻をふんだ表現や、発音が似たことばを代用することを好みます。ハガーブ(イナゴ)と、ハッガー(恐れ、心くじける)を掛けことばとして使っている、そのように見えます。



~バプテスマのヨハネが食べたのはイナゴ豆?~

新改訳 マタイ3:4、マルコ1:6
このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。

この個所について『バプテスマのヨハネが食べていたのは、イナゴではなくイナゴ豆のことだ。蜜とはハチミツではなく、なつめやしの蜜だ』この様に、奇をてらった解釈をする神学者(聖書学者)がいるようです。都会に住む人からすれば、イナゴと野蜜を食べるなんて、気色(きしょく)悪く感じるのでしょう。こうした解釈は、自分の知識や価値観に合うよう、歪められたものです。

こんにちでも、ユダヤ教の過越祭に、イナゴを食べる習慣が残っています。イナゴに、ハチミツを付けて食べることがあるんです。自分が育った日本の文化、価値観のまま原文解釈をすると、必ず誤訳になります(自文化の干渉)。聖書が書かれた時代、その地域の文化、価値観に沿って、理解しなければなりません。下の動画は、現代ユダヤ人が、イナゴと野蜜を食べる様子を映したものです。

Crickets, Grasshoppers, Locusts,



how to cook locusts - honey crunch locust - Arthropod Food Club



The Crunch of the Matter: the Kashrut of Locusts. Would you eat one?



バプテスマのヨハネは、文字通り『イナゴと野蜜』を食べていたのです。神学者がいうニセ情報に騙(だま)されてはいけません。



~食べてもよいイナゴ~

レビ記11章に食べてもよいイナゴが書かれていますが、名称がはっきりと確定されてないようです。

レビ記11:22 新改訳
それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、こおろぎの類、ばったの類である。

様々な英訳を調べましたが、Chabad.orgの解釈が、日本人に最も理解しやすい訳し方だと思い、下の表にまとめました。




BBC.comの記事にも、次のように紹介されています。
・・・ユダヤ教には食事規定がある。昆虫の中で食べることができるのは、イナゴのみ。野生のイナゴといっても様々な種類がある。このうち律法で食べることが許されているのは『赤イナゴ、黄イナゴ、斑点イナゴ、白イナゴ』の4種類・・・
Locust is the only insect which is considered kosher. Specific extracts in the Torah state that four types of desert locust - the red, the yellow, the spotted grey, and the white - can be eaten.

細かいことかも知れませんが、こうしたイナゴの名称についても、日本語訳聖書の翻訳改定に反映されるべきだと思います。新改訳2017を見ると、第三版のままでした。


イスラエルにもイナゴの大群が発生しますが、多くはエジプト経由で飛来してきます。




Israel Fighting Off Locust Invasion



כָּשֵׁר Kosher コーシャー Kosher foods 適合食品
כַּשְׁרוּת Kashrut カシュルート 食物規則、聖潔規定



~余談あれこれ~

2013年3月3日付けの、Atlantic.comは、イナゴの大群がエジプトを襲ったことを報道しています。この年の過越祭は、イナゴの大量発生から3週間後おこなわれています。出エジプト記にも、イナゴの大量発生が書かれていますが、イナゴの発生から過越祭(初子の死)まで、何日経っていたのでしょう?3週間位だったのでしょうか?出エジプト記を見ると、イナゴの大量発生(10章)⇒暗やみの難(10章)⇒初子の死(12章)という流れで、イナゴの発生から2~3週間後、初子の死が起こったように見えます。出エジプト記の記述は、現代のカレンダーとほぼ一致します。『出エジプト記の出来事なんか作り話しだ』と、一笑に付すことはできないでしょう。


来たる2018年12月、日本聖書協会は共同訳聖書を出版するようですが、この中で『いなご⇒ばった』と訳語の変更をするそうです。理由は『ヘブライ語アルベは、サバクトビバッタを指す』ということですが、これは改悪ですぞ。旧約聖書に出てくる『אַרְבֶּה アルベ』、バプテスマのヨハネが食べた『ἀκρίς アックリース』共に、食べることが許された昆虫です。ここが肝心です。日本にもイナゴを食べる地域があります。『イナゴの佃煮』は有名です。しかしですね『バッタの佃煮』というものを、私は聞いたことがありません。『イナゴは食用に使われるが、バッタは使われない』日本人の多くは、こういう理解をしているはずです。ここでいう『イナゴやバッタ』は昆虫学の分類でいう『イナゴやバッタ』ではなく、食文化として定義される『イナゴやバッタ』です。もし聖書に『ユダヤ教ではバッタを食べる。バプテスマのヨハネはバッタを食べていた』と書かれていたら、『ユダヤ人はバッタを食べるのかよ。なんでイナゴを食べずにバッタを食べるんだ?』こういうトンチンカンな印象を日本人に与えることになるでしょう。

聖書に書かれた『清い動物、清くない動物』は、現代動物学の分類とは異なる基準で書かれています。その中で、動物のひづめに関する規定、反芻(はんすう)に関する規定について書かれていますが、現代の動物学が定義する、ひづめや反芻とは、異なる視点で定義されています(ここは翻訳困難な箇所です)。聖書に書かれた昆虫名も、現代昆虫学の分類法とは異なる見方で、分類、命名されています。

聖書の翻訳に、一部の人しか知らない専門用語を引っ張って来たり、一部の人しか知らない専門的分析をおこない、聖書のことばを意味不明なものにおとしめる、こういうことをやってはダメです。例えば、聖書の中で『土台』と翻訳されたところがあります。

出エジプト記29:12
その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の角につける。その血はみな祭壇の土台に注がなければならない。

ルカ6:48
その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。

専門的にいうと『土台』というのは、木造建築に使われる部材で、基礎の上で水平に横たわる角材のことをいいます。土台はアンカーボルトで鉄筋コンクリートの基礎に締め付け、しっかり固定される、そういう部材です。




土台が使われるのは、木造建築だけで、石やレンガで壁を作るイスラエルの組積造建築に、土台(木材)はありません(基礎はあります)。




ユダヤ教の祭壇は、石、金属で造られます。ですから、木造建築の様な土台は存在しません。また、アカシア材で造られた移動式の祭壇もありますが、これは、基礎に固定することはないので、これにも土台は存在しないのです。




理屈っぽくいうなら『土台』ということばが、聖書に登場するのは間違っているといえるでしょう。しかし、日常会話の中で一般の人が使う『土台』の意味は、もっと広く『基礎、基本、原則』という意味が含まれています。

土台とは  goo辞書より引用
1 木造建築の骨組みの最下部にあって、柱を受け、その根本をつなぐ横材。建物の荷重を基礎に伝える。
2 建築物の最下部にあって、上の重みを支えるもの。基礎。「土台石」
3 物事の基礎。物事の根本。「信頼関係を土台から揺るがす事件」
※1は現代建築の専門用語としての定義。2は古い時代の建築用語。3は日常語としての定義。

一般の方が日常語として『土台』ということばを使う場合、『基礎』という意味で使う場合が多いのです。ですから、聖書の中で『土台』ということばを使ってはダメだとはいえないのです。『建築用語では、土台と基礎は、それぞれ違うものを指す』ということを知っているのは、日本人の中でも1%位しかいないでしょう。不必要な専門的解釈で書かれた翻訳は『オレって専門的知識があるんだぜ。頭いいだろ』という、翻訳者の自己陶酔に過ぎません。

要は『イナゴをバッタに変更すると、却っておかしな日本語になるぞ。不用意に専門用語を使ったり、余計な専門的解釈を持ち込むな』ということです。聖書の中で書かれているのは『食べることが許された昆虫(イナゴ)』についてです。これは食文化の視点から見た昆虫(イナゴ)ですから、日本語に翻訳する場合、同じく食文化の視点で訳語の選択をしなければなりません。食べることができるのは『イナゴ』と訳出するのが正解です。バッタじゃ変でしょ。ユージン・ナイダ(Eugene A. Nida)が言うように『原文と訳文の間に等価性を与えなさい』ということです。

日本聖書協会も『格調高く美しい日本語を目指して』翻訳をしたようですが、こういうトンチンカンな理念を掲げると、頭でっかちな文章、意味不明な聖書ができあがります。日本語に翻訳できるにも関わらず、ヘブライ語をカタカナ表記しただけで済ませる。必要がないところで、専門的解釈を持ち込む。現代日本人が理解できない、古い漢語で表現する。難解で意味不明な聖書ができあがるのは当然です。『格調高く美しい日本語を目指す』ことが、皮肉にも、読者に不利益をもたらすのです。

通訳翻訳において最も大切なのは、日本人に誤解を与えない訳文、理解しやすい訳文を作ることです。聖書を誤訳し、間違った聖書解釈を作ってきたのは、ほかでもない神学者や聖書学者です。言い換えると翻訳の素人が聖書を翻訳しているということです。聖書翻訳というビッグビジネスが、神学者によって利権化され、誤訳悪訳をおこない、意味不明な聖書を高値で販売する。それでいて理事や翻訳者はきっちり報酬を得る。こうした利権構造は、読者が不利益をこうむるだけです。神さまも、望まれないことだと思うのです。

『חָגָב ハガーブ いなご』の解釈について、あれこれと書かせていただきました。たかがイナゴ、されどイナゴです。



(000)ロバの首を折る? 出エジプト記13章ほか

2018年05月22日 | ことばの解釈

ロバの首を折る?


モーセ率いるイスラエル民族がエジプトを出発したあと、シナイ山で神さまから律法を受け取ります。次の一文は律法の一節です。

出エジプト13:13(34:20) 新改訳
ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折らなければならない・・・

『ロバの首を折る?』どうやってロバの首を折るのでしょうね?筋骨たくましい男性が、ロバの首を締め上げると、ロバは悲鳴を上げ、バタバタともがきます。更に力を加え締め上げると、バキバキッと音を立てながら首の骨が折れ、ロバは苦しみながら完全に絶命するまで、10分、20分という時間が掛かることでしょう。神さまは本当に『ロバの首を折れ!』と命じたのでしょうか?従来の日本語訳聖書は、עָרַף アーラーフを『首を折る、首をねじる』と訳出していますが、これは誤訳で、正しくは『(けがれた動物の)首を切り落とす』という意味になります。


この記事の目次

・従来の日本語訳
・輪郭を描く
・屠殺のやり方と血液
・家畜への思いやり
・輪郭を設定する まとめ
・アーラーフ 英語の解説
・なぜ誤訳が起こるのか


~従来の日本語訳~

従来の日本語訳は全て『首を折る』と翻訳しています。

出エジプト13:13 文語訳
又(また)驢馬(ろば)の初子(うひご)は 皆(みな)羔羊(こひつじ)をもて 贖(あがな)ふべし もし贖(あがな)はずばその頸(くび)を折るべし ・・・

出エジプト13:13 口語訳
また、すべて、ろばの、初めて胎を開いたものは、小羊をもって、あがなわなければならない。もし、あがなわないならば、その首を折らなければならない。・・・

出エジプト13:13 新共同訳
ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。・・・

どの訳文も『首を折る』と訳出しているので、『首を折る』で正しい解釈なんだと思ってしまいますよね。ご注意願いたいのは、従来の日本語訳がいずれも同様の解釈をしている場合、二つのことが考えられます。一つは、いずれも正しく解釈されている場合、もう一つは、解釈が困難であるため、訂正されることなく誤訳が踏襲(とうしゅう)されてしまっている場合です。文語訳、口語訳、新共同訳、新改訳がどれも同じ解釈になっているからといって、正しく翻訳されているとは限らないのです。眉にたっぷりつばを塗って読まなければなりません。


~輪郭を描く~

『首を折る』と訳出されたのは、ヘブライ語『アーラーフ』という動詞ですが、どのような意味で使われているのか、ことばの輪郭を描いてみます。アーラーフは、次の箇所で使われています。それぞれの文を見ると、共通する点が見えてきますよ!

出エジ13:13
出エジ34:20
申命記21:4
申命記21:6
イザヤ66:3
ホセア10:2

出エジプト13:13 新改訳
ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折らなければならない・・・

出エジプト34:20 新改訳
ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし、贖わないなら、その首を折らなければならない・・・

申命記21:4 新改訳
長老たちは・・・いつも水の流れている谷へ連れて下り・・・子牛の首を折りなさい

申命記21:6 新改訳
・・・その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、

イザヤ66:3 新改訳
・・・犬をくびり殺す者・・・その心は忌むべき物を喜ぶ。

ホセア10:2 新改訳
10:2 ・・・主は彼らの祭壇をこわし、彼らの石の柱を砕かれる。

アーラーフは、聖書全体で6回しか使われない特殊なことばになります。使用頻度(ひんど)が少ないことばを翻訳する場合、細心の注意が必要です。上記で、ロバ、犬という動物が出てきますが、律法によると、ロバ、犬は『けがれた動物』と判断されます(レビ11章、申命記14章)。ユダヤ教では、清い動物と、けがれた動物とでは取り扱い方が異なるということが分かります。次に、ホセア書を見ると、偶像をけがれた動物に見立て、『けがれた動物の首を切り落とすように、偶像神の柱を切り落とせ!』と、嫌悪感(モダリティ)を含んだ表現になっていることが分かりますよね。ヘブライ語『アーラーフ』は、けがれた動物を屠殺(とさつ)する場合に使われることばです。

清い動物を屠殺する場合『アーラーフ』ということばは使われませんが、唯一の例外が申命記21章子牛(清い動物)の屠殺です。申命記21章の儀式は、特殊な儀式で、野山で殺人事件が起こり、その事件が迷宮入りした場合におこなわれるものです。牛は清い動物で、神殿で犠牲に使われますが、ここでは、忌まわしい殺人事件の清算として使われているため、通常とは異なった屠殺方法、アーラーフがとられている、そのように見えます。


~屠殺のやり方と血液~

ユダヤ教で動物が犠牲として捧げられる場合、必ずその血液が儀式の中で使われます。動物を犠牲にする儀式の中で、血液は重要な意味を持ちます。

レビ記17:11
なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

仮に『首を折る』という屠殺方法がおこなわれた場合、動物の血が流されない屠殺になります。血が流されない儀式が、神との和解、罪の清算として効力を持つのでしょうか?ユダヤ教の考え方からすると、そのような儀式は考えられません。血は命の代償を象徴するもので、儀式の中で血液が使われることは絶対条件であるからです。血が持つ象徴性からして、『首を折って』屠殺するというやり方は、贖(あがな)いの条件を満たさないということが分かります。

イスラム教にハラール(ハラル)という食物規定がありますが、ユダヤ教にはカシュルート(כַּשְׁרוּת Kashrut)と言われる食物規定があって、家畜の屠殺の仕方についてまで細かなルールが決められています。モーセ五書には明示されていませんが、ユダヤ教の考え方からすると、清い動物を屠殺する時のやり方と、けがれた動物を殺す時のやり方は当然違うよね、そういう考えがあって然るべきでしょう。

次に、ユダヤ人がどのように屠殺をするのかについて『ミルトス』と『Chabad.org』の二つのウエブサイトから引用させていただきます。動物を屠殺する場合『絶命するまでの時間が極力短時間であること、動物に苦痛を与えないこと』が基本的な考え方になっています。

ミルトスより引用
「コーシェル」を満たす屠殺の方法
屠殺者は動物を殺す場合、もっとも苦痛の少ない方法で、一瞬に殺さなければいけなません。鋭い刃物を用い、頸動脈を一刀で処置します。

Chabad.orgより引用
Why Shechitah Is Important
(私訳)ユダヤ教の屠殺方法は、短時間で、動物に苦痛を与えないやり方になっています。・・・
動物の肉を食べる習慣は、律法が積極的に認めるものではありませんでした。ノアの時代まで人間が動物の肉を食べることは、律法上認められていません。大洪水がおさまり、ノアは船を出たあと真っ先に動物を屠殺し神に捧げます。この時初めて、神は人間が動物の肉を食べることを認めたのです。また、動物に対し残酷な屠殺方法をおこなわないことを前提に肉食が認められている、私たちユダヤ教徒はそのように理解しています。

This is an effective, swift and pain-free stunning procedure.
The Torah does not regard meat-eating as something to be taken for granted. Before Noah , human beings were not permitted to eat meat. Then, in a law given by G‑d to Noah after the Flood, meat eating became permitted as long as the animal is killed first. We generally understand this law, applying to all humanity, as demanding avoidance of wanton cruelty to animals.


次に、使徒行伝の記述を見てみます。使徒行伝15章は『エルサレム会議』に関する記述があり、『絞め殺した動物の肉』は食べてはいけないという記述があります。

使徒15:20 使徒15:29 使徒21:25 新改訳
・・・絞め殺した物(動物の肉)と血とを避けるように書き送るべきだと思います。

使徒行伝の記述から『絞め殺す』という方法が、ユダヤ人にとってタブーであったことが分かります。『絞め殺した動物の肉』を食べることが容認できなかったのは、動物に苦痛を与えるやり方であるということと、血液が抜かれていないからだと思います。『首の骨を折る』屠殺も、動物に苦痛を与え、かつ血液が抜かれないやり方になります。ユダヤ教の儀式の中で『首の骨を折る』屠殺がおこなわれていたとは考えにくいことです。


~家畜への思いやり~

また、律法には、家畜に対し配慮や思いやりを持った取扱いをしなければならないことが規定されています。

出エジプト20:10
しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。

出エジプト23:12
六日間は自分の仕事をし、七日目は休まなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせるためである。

出エジプト23:4、5
4 あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。
5 あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。

出エジプト23:19
・・・子やぎを、その母親の乳で煮てはならない。

申命記22:10
牛とろばとを組にして耕してはならない。

申命記25:4
脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。

労働する家畜に、週一の休日を与えることなんて、現代日本人よりも恵まれた労働環境ではありませんか!以上の戒めには『家畜だからといってぞんざいな扱いをしてはいけないぞ、十分な配慮をしないさい』という意味が書かれています。首を折って屠殺する方法は、動物に苦痛を与えるやり方ですから、家畜に優しい律法の精神と矛盾しますよね。


~輪郭を設定する まとめ~

これまで検討してきた内容をまとめてみます。

・動物が犠牲として捧げられる儀式において血液は不可欠な要素である。
・律法は動物を清いものと、けがれたものに分けていて、扱い方が異なる。
・動詞アーラーフは、けがれた動物を屠殺する場合に使われている。
・Kosher(コシャー、カシュール、コーシェル)には、極力動物に苦痛を与えることがない屠殺方法とするよう規定されている。
・律法には、家畜に対し配慮や思いやりを持った取扱いをしなければならないことが規定されている。
・首を折るような、動物に苦痛を与える屠殺方法が存在したことを示す資料がどこにも見あたらない。

ユダヤ教の動物犠牲が持つ意味合いから考えると、アーラーフを『首を折る』と解釈するのは不合理で、血液が伴わない儀式は、贖いの意味を持たないのです。アーラーフは、けがれた動物の屠殺方法で、首を切り、出血が伴い、家畜に苦痛を与えることなく、短時間で絶命させるやり方であろう、つまり『首を切り落とす』という意味であろうと予想できます。

ヘブライ語の語学知識や神学的知識に頼ることなく『アーラーフ』の輪郭を掴むことができましたね。


~アーラーフ 英語の解説~

ヘブライ語アーラーフが、英語でどのように定義されているか見てみます。アーラーフは、ズバリ『首を切り落とす』という意味だと説明されています。

Biblehub.com
Strong's Exhaustive Concordance
アーラーフは、首を切り落とす、首を打ち落とす、切りはなす、首をはねるという意味。
that is beheaded, break down, break cut off, strike off neck

Shiurim
Bekhorot, Chapter 1, Mishnah 7
ミシュナーによると、出エジプト13:13の解釈は『・・・大型の刃物(ナタ、斧)を使い、ロバの首を背中側から切断し、死体は土の中に埋める』ということになります。ミシュナー(Mishnah)は、律法を更に細かく解釈した口伝(くでん)律法で、旧約聖書には含まれていませんが、ユダヤ教徒の実生活を規定するものになります。

Biblehub.com
Gill's Exposition of the Entire Bible Exodus 13:13
Gill's Exposition(解説書)にも同様の記述あり。

Chabad.org
Shemot - Exodus - Chapter 13
ユダヤ人が英訳した聖書にも『you shall decapitate it ロバの首をはねなさい』とあります。

Glosbe.com
ヘブライ語-日本語辞書にも、アーラーフは、『斬首する、首をはねる』と解説されています。

清い動物を屠殺するやり方は、大型の包丁を使いのどの側から切り込んで頸動脈を切断します。一方、けがれた動物を屠殺するやり方が『アーラーフ』です。時代劇を見ると侍が切腹するシーンがありますが、この時、介錯人が付き添います。介錯人は、一刀両断で首を切り落としますが、アーラーフは、このようなやり方で、ナタ、斧のような刃物を使い、背中側からひと振りで動物の首を切り落とす、そういう意味になります。


日本の聖書翻訳は、神学者や聖書学者がおこなってきたようですが、ユダヤ教の動物犠牲の儀式についても、長年にわたり学者が研究してきたテーマだと思います。この動物犠牲の儀式こそ、イエス・キリストの十字架刑を予見するもので、人間の贖罪、神との和解を象徴するものです。これはイエス・キリストが救い主であることを示す、キリスト教の中心的テーマです。また、律法にもあるように、儀式の中で流される動物の血液だけが、人の命の代償として認められています。もし、神学者や聖書学者が、翻訳をおこなっているのであれば、ロバの『首を折る』という解釈は間違っていると分かって当然ではないでしょうか?

『break donkey's neck』とGoogle検索をすれば、『(斧を使い)ロバの首を切り落とす』と解説する英語のウエブサイトがたくさん見つかります。英訳聖書の『break its neck』は『首を切り落とす』という意味です。日本語訳聖書で、100年にわたり誤訳が訂正されないのはなぜなのでしょう?


~なぜ誤訳が起こるのか~

『break one's legは、脚(あし)の骨を折るという意味だ』と、中学で教わっていると思います。ですから日本の聖書翻訳者は、英訳聖書で『break its neck』と訳されているのを見て、『首の骨を壊す、首を折る』と直訳で理解したのでしょう。これが誤訳の原因です。『break /one's /neck』これらの単語は、中学1年で教わる基本語彙になります。むつかしい単語は一つもありません。動詞breakには、『壊す』以外に『切る、割る、分ける』という意味もあるのですから『break one's neckは、首を切り落とすという意味だ』と、理解できそうなものです。確かに、英語のbreak one's neckが『首の骨を壊す、首を折る』という意味で使われる場合はありますが、文脈によっては、break one's neckが『首を切り落とす』という意味に変化する、こういう理解ができなきゃダメですよね。本来は、英語入門レベルの知識です。

新改訳はトランスペアレント訳がお好きなようですが、これは、どのような文脈であっても『break one's neck=首を折る』と、一語一訳式に翻訳するやり方になります。原語と目的言語の対応関係を、翻訳者が勝手に固定しているのです。『ことばの意味というものは、文脈と共に変化する』というのが、言語理解の基本になるのですが、トランスペアレント訳は、こうしたことを認めない立場なので、当然意味のズレ、誤訳が生じることになります。

日本の英語教育(学習塾、予備校も含めた大学受験システム)は、文法主義、語彙詰め込み主義、一語一訳主義の上に成り立っていて、こうした学習方法は生徒に直訳思考を植え付けることになります。中学高校で真面目に直訳で英語を学習した人であれば、大学に進学しヘブライ語やギリシャ語を学習する時も、直訳思考で学習します。こうした方が聖書翻訳をおこなうと、直訳で翻訳をするのは当然のなりゆきです。直訳思考が染み付いてしまった方は『break its neck』が『首を折る』という意味だと理解できますが、『首を切り落とす』という別の意味があることを理解できません。文脈が変わればことばの意味も変化する、つまり『言語というものは直訳できない仕組みを持っている』ということを知らないからです。

翻訳委員会の中には翻訳チェッカーがいることと思いますが、チェッカー自身も直訳思考でしか理解できないので『break its neck=首を折る』と直訳されていれば、正しく翻訳されているんだと誤解してしまうのです。委員会の中に翻訳チェッカーがいたとしても、チェッカーとしての役割が果たせていないのです。

リビング・バイブルは、次のように訳出しています。
出エジプト13:13
ただし、ろばの初子の場合は身代わりに子羊や子やぎをささげることができる。そうしない場合はろばは殺す。・・・

現代訳聖書も『・・・そのろばの初子は殺される・・・』と訳出しています。

リビング・バイブルと現代訳の翻訳者は『アーラーフ=首を折ると解釈するのはおかしいなあ』と感じたので『殺す』と訳出したのでしょう。リビング・バイブルと現代訳は、訳語の選択を慎重におこない、誤訳となることを避けたということが見て取れます。直訳主義者からは不評のようですが、リビング・バイブルも現代訳も、翻訳スキルが高いということが分かりますよね。

文語訳、口語訳、新共同訳、新改訳は、個人訳ではなく委員会訳です。一方、リビング・バイブルと現代訳は個人訳です。日本では『個人訳は信用できない。委員会訳が正しい翻訳だ』と言われていますが、実際に出エジプト記13章のアーラーフを検討すると、委員会訳が全て誤訳となり全滅していますが、個人訳の方が良い訳し方になっていることが、お分かりになったことでしょう。委員会訳が正しい翻訳で、個人訳が不正確だというのは、全くいわれのない偏見です。

『聖書が誤訳されているという批判はけしからん』と目くじらを立てるセンセイ、『日本語訳聖書は正しく翻訳されています。問題ありません』とまやかしの安全宣言をだすセンセイ!日本語訳聖書の中で、誤訳が延々と踏襲(とうしゅう)されているという事実に目を向けてはいかがですか?日本語訳聖書を見ると、100年間、誤訳が踏襲されている箇所は少なくありません。この出エジプト13:13『首を折る』、出エジプト15:20『女預言者ミリアム』、ルカ16章『不正な管理人』、箴言12:15、16にも見られます。

目くじらセンセイと、まやかしセンセイが、もし信仰をお持ちであるのであれば、神の前に誠実(pistos)であるということがどういうことなのか、考えていただきたいのです。誤訳されている箇所は、誤訳されていると、事実を素直に受け入れることが、誠実さだと私は思います。誤訳だと分かったら、訂正をすればいいだけのことですよね。ご自分の神学者としてのメンツや、組織(神学者コミュニティ)の体裁(ていさい)を繕(つくろ)うことの方が大切で、誤訳を認めない、誤訳されたままの聖書(神のことば)を出版する。これが神の前に誠実(pistos)だといえますか?ウエブサイトを見ると、誤訳されてる事実をもみ消すかのようなご発言がありますが、これは神さまのみこころに反することではないでしょうか?

『聖書のような文書は直訳で翻訳するのが相応しい』『原語の意味を正確に翻訳するには直訳が良い』とおっしゃる方がいますが、言語学的に見て全く根拠がありません。この記事で示したように『break its neck=首を折る』と直訳したことが、誤訳の原因なんですよね。ことばの意味というのは、文脈が変わるとことばの意味も変化します。原文の意味を正確に訳出するのであれば、文脈に合わせ、訳語を変えてゆかなければならないはずです。

実は、直訳と意訳はコインの裏表のような関係になっています。直訳主義(トランスペアレント)で訳された新改訳聖書を例に挙げると、びっくりするような超意訳をやってる個所があるんです。ギリシャ語を読める方はご確認ください。ルカ16章9~13のギリシャ語と新改訳を見比べると、文法や語彙の解釈からして、あり得ないほどの超意訳で翻訳し、全く意味が異なる誤訳になっています。『聖書と翻訳 ルカによる福音書16章-1~8』をご覧ください。

ヘブライ語を読める方は、イザヤ書8章1~10節、ヘブライ語と新改訳の訳文をご確認ください。ヘブライ語の文法に手を加え、主語の入れ替えまでやる作為的な異訳をおこなっているので、当然の如く誤訳になっています。詳しくは『聖書と翻訳イザヤ書8章-1~9』を参照願います。

『直訳が良い、意訳は相応しくない』と宣言する、新改訳ですが、実際の訳文を見ると、直訳された箇所と意訳された箇所が入り混ざって訳文が作られています。一見すると矛盾しているように見えますが、直訳も意訳も、どちらも直訳主義者が考案した翻訳方法で、直訳と意訳の両方をつぎはぎしながら訳文を作っているのです。原文テクストの意味を、最もふさわしい目的言語に翻訳するには『原文放棄』という方法以外にないと私は思います。『直訳は誤訳 オバマ大統領広島演説より-1~3』に詳しく書かせていただいたので、参照願います。

『聖書のような文書は直訳で翻訳するのが相応しい』『原語の意味を正確に翻訳するには直訳が良い』というご意見は、全くデタラメです。日本の外国語教育が、文法主義、語彙詰め込み主義、一語一訳主義で教育する限り、日本人の直訳思考が変わることありません。そして、直訳で翻訳をする限り、いつまでも誤訳が引き継がれてゆくのです。






(000)ヘブライ語 qarab nebiah ことばの解釈

2018年05月06日 | ことばの解釈


~イザヤは不倫をして子をもうけた?~

イザヤ書8章3節を、従来の日本語訳は『イザヤが同じ預言者仲間の奥さんと不倫関係になり、こどもを産ませた』という訳文にしています。



訳文に若干違うところはありますが、従来の日本語訳聖書は『イザヤ不倫説』を支持する訳文になっています。ヘブライ語テキストでは『イザヤが不倫をした』ということは言っていません。いずれも訳文が直訳で訳されており、それが誤訳の原因になっています。『直訳が原典に忠実な翻訳手法である』と言われることがありますが、それは全くの誤りです。

リビング・バイブルは、次のように訳出しています。
やがて妻はみごもり、男の子を産みました。・・・

『イザヤは妻との間に子をもうけた』と正しく訳出するものは、日本語訳聖書では、リビングバイブルしかありません。日本ではリビングバイブルに対する偏見があるようですが、リビングバイブル訳文の品質は優れているということが分かります。

以下英訳聖書をご覧ください。『イザヤは妻との間に子をもうけた』と訳出するものがいくつもあります。

Complete Jewish Bible
Then I had sexual relations with my wife; she became pregnant and gave birth to a son

Amplified Bible
Amplified Bible, Classic Edition
Contemporary English Version
Good News Translation
Living Bible
New International Reader's Version
New Living Translation

『イザヤは妻との間に子をもうけた』と英訳するものがあるということは、日本の聖書翻訳団体は知っていたはずです。にもかかわらず、敢えてイザヤ不倫説を選択するというのは、イザヤ不倫説への並々ならぬ執着です。信徒には正しい生活を送るよう指導しておきながら、自分は性犯罪で逮捕されるウハウハ聖職者が現代にもいますが、イザヤ8:3はこのウハウハ行為にお墨付きを与える『聖句』になっています。信じられなことですが、イザヤ不倫説を正当化するインチキ神学者が、実際に日本や海外におり、従来の日本語訳は、全てイザヤ不倫説で翻訳されています。日本で聖書翻訳をおこなう団体は、教会を堕落させようと企んでいるのでしょうか?こうしたデタラメな聖書解釈が起こるのは『直訳主義、一語一訳主義、トランスペアレント』という翻訳理念が原因です。

この記事では、『輪郭を描く』『カラブの解釈』『ネビーアーの解釈』『原文放棄』について記述します。


~輪郭を描く ヘブライ語における結婚の定型表現~

『聖書と翻訳』で記述したことですが、原文解釈には輪郭を描く作業が大切だということを申し上げました。解釈の難しいところに出くわすと、単語の意味や、文法上の解釈に終始する翻訳者が多いと思いますが、それではダメです。画家が作業途中、キャンバスから離れて全体のバランスを確認するように、翻訳も同じく、全体像を確認する作業が必要です。

旧約聖書で『夫婦の間に子どもが生まれた』と記述された箇所がありますが、それらを抜き出してみます。ある、決まったパターンになっていることが分かるでしょうか。引用する訳文については、基本的に新共同訳から引用させていただきます。新改訳は、著作権により引用の制限があるようなので、制限のない新共同訳を引用します。

創世記4:1
さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み・・・

創世記4:17
カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ・・・

出エジプト2:1~2
レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、・・・

出エジプト2:21
・・・自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた。彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。

ルツ4:13
ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。

サムエル上1:19~20
・・・エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。・・・

以上の箇所は、次の4つの要素を含む表現になっています。
・男性(夫)
・めとる、体の関係を持つ(動詞 yada laqach qarab bowなど)
・女性(妻)
・妊娠し、出産する


イザヤ書8:3
わたし(イザヤ)は女預言者に近づいた(qarab)。彼女が身ごもって男の子を産むと・・・

イザヤ書も『夫婦の間に子どもが生まれた』という定型表現(コロケーション)になっているので、8章3節は、イザヤと奥さんとの間に子どもが生まれたという意味になります。

ヘブライ語のように比較的語彙が少ない言語の特徴として、一つのことばが沢山の意味を持つ(多義性)ということがあります。多義性がある言語は、一つひとつの単語の意味をつなぎ合わせて理解するというやり方ではコミュニケーションが成り立たないので、意味を定めるためお決まりのフレーズ(表現形式)を与える、そういう傾向があります。このようにいくつかの単語が連なって作られる慣用表現を、コロケーション(collocation)といいます。日本語では『共起語、関連語』などと訳されています。ヘブライ語を原文解釈する場合、特に複数の関連語が作る定型表現(コロケーション)に着目しなければなりません。

聖書ヘブライ語は日本語とは全く異なる言語構造を持っています。新改訳のように『直訳主義、トランスペアレント』で翻訳すると『原文に最も不忠実な』訳文になります。ヘブライ語に限ったことではありません。どんな外国語でも一語一訳や直訳はできない、そういう仕組みになっているのです。これがソシュールが唱えた『言語の恣意性』で、創世記11章に書かれている、ことばの混乱(バラル)です。もし、直訳でコミュニケーションが成り立つのであれば、あの時、バベルの塔は完成していたことでしょう。


~不義の男女関係~

聖書の結婚観に反する性的関係や、出産の場合、前述した定型表現(出産4点セット)にはなりません。以下、ご確認ください。

創世記19:32~35 父ロトと娘との近親姦
・・・娘たちはその夜、父親にぶどう酒を飲ませ、姉がまず、父親のところへ入って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった・・・

サムエル下11:4~5 ダビデがバテシェバをレイプ
ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、子を宿したので、ダビデに使いを送り、「子を宿しました」と知らせた。

サムエル下13:14 異母きょうだいでのレイプ
アムノンは彼女の言うことを聞こうとせず、力ずくで辱め、彼女と床を共にした。

サムエル下16:22 アブシャロムが父ダビデの愛人をレイプ
こうしてアブシャロムのために屋上に天幕が張られ、アブシャロムは全イスラエルの目の前で、父のそばめたちのところにはいった。

『夫婦の間に子どもが生まれた』という定型表現では、4点セットで書かれています。出産は神さまの祝福を象徴するもので(創世記1:27、28)、その男女関係が、神さまの承認を得ているということを象徴しているからではないかと思います。不義の男女関係では、表現方法が変わっていることが分かります。


~ヘブライ語 qarab の解釈~

8:3 わたしは女預言者に近づいた(カラブ)・・・

日本語訳聖書は、ヘブライ語カラブを『近づいた』と直訳しました。『カラブ』は『近づく』という意味で使われることが多いのですが、文脈によっては『結婚する、性的関係を持つ』という意味に変化する場合があります。次の文は、動詞『カラブ』が『結婚する、性的関係を持つ』という意味で使われているものを抜き出したものです。青い字がカラブの訳語にあたります。それぞれの文に共通している特徴が分かるでしょうか?日本語訳ではきちんと訳されていなかったので、私訳で載せました。

創世記20:4 私訳
アビメレクは、サラとまだ新婚初夜を迎えていなかった・・・

レビ記18:6 私訳
あなたは、自分の近親者と体の関係を持ってはならない・・・

レビ記18:14 私訳
自分のおば、すなわち父親の兄弟に嫁いだ女性と、体の関係を持ってはならない。それは、叔父を侮辱することである。

レビ記18:19 私訳
女性が月経によりけがれがある間、体の関係を持ってはならない。

レビ記20:16 私訳
もし、女が動物と体の関係を持つことがあれば、その女と動物を殺さなければならない・・・

申命記22:14 私訳
・・・「結婚し初夜をむかえたが、妻には処女のしるしがなかった」・・・

それぞれ『男性』+『女性』+『カラブ』という構成(コロケーション)が共通していることが分かります。次のイザヤ書8:3も、同じ表現形式になっています。

わたしは女預言者に近づいた(カラブ)・・・

従ってイザヤ8:3も『カラブ3点セット』表現なので、『近づいた』ではなく『体の関係を持った』という意味になります。かつ『出産4点セット』表現でもあるので『イザヤと奥さんとの間に子どもが生まれた』という内容になっています。リビング・バイブルを見てみます。

やがて妻はみごもり、男の子を産みました。リビング・バイブル

ところで『この訳文には、体の関係を持つという表現がないけど、それでいいのか?』と疑問を持たれる方がいるかも知れないので、説明をさせていただきますが、この訳文で問題ありません。ヘブライ語『カラブ』は、夫婦が体の関係を持つということを意味する、婉曲表現として使われています。『体の関係を持つ』というのは露骨な表現なので、ヘブライ語ではそういうストレートな言い方をしないということです。日本語でも『体の関係を持つ』という表現は露骨な表現として忌避されます。

日本語ネイティブであれば『やがて妻はみごもり、男の子を産みました』という文は『イザヤと奥さんの間に、こどもが生まれた』という理解をします。『夫婦が体の関係を持った』という表現を省略しても、『夫婦の間に子どもが生まれた』という意味に変わりはありません。リビングバイブルは、ハイコンテクストとして訳出したもので、これはきちんとした翻訳テクニックです。学校英語では、ハイコンテクストに訳出する方法やローコンテクストに翻訳するテクニックは教えません。直訳英語が成り立たなくなることは都合が悪いからです。

以上をまとめると、8章3節の『カラブ』は『体の関係を持つ』ことを意味する、婉曲表現であるということ、また、ヘブライ語で『夫婦の間に子どもが生まれた』ことを意味する定型表現になっていることが分かります。カラブを『近づいた』と直訳するのは間違いです。


~女預言者ではない~

以下、ヘブライ語nebiah(ネビーアー)の解釈について記述します。イザヤ書8:3、ネビーアーという語が『女預言者or預言者の妻』と訳されてきました。ネビーアーがどういう意味なのか、長い間、難解な箇所だといわれてきましたが、この単語の解釈も、輪郭を捉える方法を使い解釈してみます。

ヘブライ語の名詞『nebiah』は、旧約聖書の中で6か所使われています。その中で、女預言者がどのように記述されてるか見てみます。女預言者フルダと、女預言者ノアドヤの箇所に、共通する表現形式があることに気が付くでしょうか?

列王記下 22:14~15
祭司ヒルキヤ、アヒカム、アクボル、シャファン、アサヤは女預言者フルダのもとに行った。彼女はハルハスの孫でティクワの子である衣装係シャルムの妻で、エルサレムのミシュネ地区に住んでいた。彼らが彼女に話し聞かせると、彼女は答えた。「イスラエルの神、主はこう言われる・・・

ネヘミヤ 6:14 
わが神よ、トビヤとサンバラトのこの仕業と、わたしを脅迫した女預言者ノアドヤや他の預言者たちを覚えていてください。

ネヘミヤ記は『女預言者ノアドヤ』となっていますが、この文脈では『いつわりの女預言者ノアドヤ』という意味です。nebiahには、いつわりの女預言者という意味もあるので、訳語のミスでしょう。

旧約聖書で女預言者の記述をする場合『女預言者』+『名前』+『活動内容』という表現がセット(コロケーション)になっています。もし、イザヤ書のネビーアーが女預言者という意味であれば『ネビーアー3点セット』で表現されていたはずですが、そうではないので、イザヤ書における『nebiah』は『女預言者』という意味で使われていないことが分かります。

しばしば『イザヤの奥さんは女預言者であった』と解説する方もいますが、イザヤの奥さんが女預言者であったという記述は、どこにも書かれていません。もしイザヤの奥さんが女預言者であれば、ネビーアー3点セットで書かれていたはずです。『イザヤの奥さんは女預言者であった』というのは偽りの解釈です。


~預言者の妻ではない~

『nebiah ネビーアー』を『預言者の妻』であると解釈する訳文があります。そのような解釈は更に不可能です。エゼキエル書を引用して説明させていただきます。

エゼキエル24:18
朝、わたしは人々に語っていた。その夕、わたし(エゼキエル)の妻(ishshah)は死んだ。

預言者エゼキエルは自分の妻を『ishshah イッシャー』と記述しています。もし『nebiah』に預言者の妻という意味があるならば、エゼキエルは『nebiah』と記述していたはずですよね。旧約聖書の中で『nebiah』を、『預言者の妻』という意味で使っている箇所は、どこにもありません。そもそも、ネビーアーというヘブライ語に、預言者の妻という定義は存在しないのです。

イザヤ8:3を従来は『イザヤが不倫関係にあった愛人に子どもを生ませた』と直訳してきたのですが、『これじゃおかしいよね』ということで、後世の翻訳者が『ネビーアー=預言者の妻』という新たな定義を、勝手に付け足したのです。『私は預言者の妻と性的関係を持った』・・・これでもまだ、イザヤが不倫をしたという意味になりますが、新たな解釈として、イザヤ自身預言者であったので『預言者の妻=イザヤの妻』と強引なこじつけができるようにしたのです。この解釈ができればイザヤは不倫をしたのではないと言うことができます。しかし『ネビーアー=預言者の妻』という定義は、後世の聖書学者がねつ造したものです。

『イザヤは不倫をしていた』と解説するデタラメ神学者、『ネビーアー=預言者の妻』とありもしない定義を勝手に付け加える聖書学者、こうした人たちが聖書を翻訳(創作)しており、日本語訳は『イザヤ不倫説』を100年間守り続けているのです。なぜこのような愚かなことが起こるのでしょう?理由は明らかです。言語学、心理学、異文化コミュニケーションといった基礎的な学習をしていないということ、そして翻訳スキルが身に付いていないからです。

『聖書が誤訳されているなどという批判はけしからん!』と目くじらを立てる方。又は『日本語に翻訳された聖書は、ほとんど正確に翻訳されています。問題ありません』と、まやかしの安全宣言を出す方は、決まって神学者、聖書学者と言われるセンセイのようです。翻訳の間違いを過小評価し、もみ消そうとしているかのように見えます。『イザヤ書8章~』『ルカによる福音書16章』の記事をお読みください。決して小さな間違いではありませんよ。

東日本大震災で、原子力発電所が爆発、メルトダウンしたにも関わらず『爆発はしていません。メルトダウンしていません。放射能汚染はありません』と、東電や政府は事実を隠ぺいしていましたが『シモジモの国民には、本当のことをしゃべるな!黙ってりゃ奴らには分からないんだから』と、国民をバカにした対応と似てるなあ、頭のいいセンセイ方が集まって作る組織って、対応の仕方が同じなんだなあと感じます。世間の人が不信感を抱いたり、風評被害が起こるというのは、正確な情報を開示しないということが一番大きな原因です。責任ある立場の人には、誠実さ(pistos)が要求されるんじゃないでょうか。話しは逸れますが、従来の日本語訳は一コリ4:2を『管理者には、忠実であることが要求されます』『ピストス=忠実』と直訳してきましたが、文脈から判断すると『誠実』の方が相応しいと思います。

聖書の訳文について手厳しい批判もしていますが、誤解しないでいただきたいのですが『間違っちゃったこと』を責めてるのではないのです。『間違っちゃった』事実を隠ぺいするかのごとく、翻訳理念を持ち出して『トランスペアレントが良い、直訳が正しい翻訳方法だ』と、デタラメを言う。あたかも黄門さまが印籠を突き出すように、翻訳メンバーの学者の肩書を持ちだし、権威ある委員会なんだぞと取り繕う。こういう姑息(こそく)な態度が鼻持ちならないのです。

『持てる力は尽くしたつもりですが、解釈困難な箇所、訳文として辻褄が合わない箇所もあります。お気づきの点があれば、読者諸氏の建設的な助言を委員会までお寄せいただけるとありがたく思います。検討の上次の改定に役立てさせていただきたいと思います』と、どうして言えないのでしょう。聖書翻訳に対し、専門家として自信がないからではありませんか?

『実るほどこうべを垂れる稲穂かな』ということばがありますが、新改訳の翻訳理念、ニュースレターの報告を見ると、から威張りしているという印象で『実のない稲穂』のように見えて仕方ないのです。どんな仕事でも、信用を得るということが大切です。人の信用を得るためには、頭の良し悪しよりも、誠実さ(pistos)があるかどうかが大切だと私は思います。学問、仕事、スポーツなどどんな分野でも、誠実さ、謙虚さのない人が向上することはありません。能力がない上に誠実さもない。それでは、箸にも棒にもかかりません。

聖書翻訳は、巨額のお金が動くビッグ・ビジネスです。一般の方の、献金、寄付という形でまかなわれている部分もあるのですから、ニュースレターやウエブサイトで収支報告を公表し、仕事内容と支払われた金額が見合ったものなのか閲覧できるようにしていただきたいものです。社会の指導的立場にあった律法学者が、地位、お金のとりこになり、また離婚再婚を繰り返していたことを、イエスさまは厳しく糾弾しました。いつの時代もお金と名誉が人を堕落させます。翻訳団体は、翻訳に対してもお金に対しても誠実さを持っていただきたいものです。

話しを戻します。イザヤ8:3の『nebiah』は、表現形式から判断して『女預言者』という意味で使われていない、また『nebiah』には『預言者の妻』という定義が存在しないということです。


~残る解釈方法~

ヘブライ語の名詞は、動詞から派生しています。名詞ネビーアーは、動詞ナーバーから作られています。



名詞ネビーアーに、3つの定義があることが分かります。翻訳者は、文脈に合わせ適切な訳語を選択しなければなりません。さて、出エジプト記で『女預言者ミリアム』と訳された個所がありますが、『女預言者ミリアム』と訳されてきたことは誤りで、別の訳語を選択しなければなりません。

出エジプト15:20 新共同訳
アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。

ここは、主がエジプト軍を壊滅させたことに感謝し、モーセの姉ミリアムが喜びの歌を歌った場面です。日本語訳では『女預言者ミリアム』と訳されていますが、読んで違和感を感じないでしょうか?ミリアムが預言者として召されたという記述はどこにもありません。また、ミリアムはアロンと一緒にモーセに言いがかりをつけたことで主に叱責され、重い皮膚病を患い1週間の追放処分を受けています。これが預言者に相応しいできごとだったのでしょうか?元々ミリアムは預言者ではありません。出エジプト記の文脈を見れば、女預言者ミリアムと訳すことは間違いだと分かるはずです。

ネビーアーには、神の霊を受けた女という意味もあります。出エジプト15章は、次のように訳出しなければなりません。

出エジプト15:20 私訳
アロンの姉ミリアムに主の霊がくだった。ミリアムがタンバリンを持つと、他の女たちもタンバリンを持ち、踊りながらミリアムの後に続いた。

次の士師記も『女預言者デボラ』と訳されていますが、これも誤訳です。

士師記4:4 新共同訳
ラピドトの妻、女預言者デボラが、士師としてイスラエルを裁くようになったのはそのころである。

士師記4:4 私訳
ラピドトの妻デボラが主の霊を受けて士師となり、イスラエルを裁き始めたのはこの時以降である。

デボラがもし女預言者であれば、預言者としての活動内容が書かれていたはずですが、ヘブライ語テキストには、デボラが女預言者であったことを示す記述はないのです。デボラは女預言者ではありません。

イザヤ8:3のネビーアーも、神の霊を受けた女という意味で、次のような解釈になります。
私訳 主の霊を受けた妻は身ごもり、のちに男の子を産んだ。

ネビーアーの定義に三つの意味があるのですから、翻訳者は文脈に合わせて適切な訳語を選択しなくてはならないのですが、日本語訳聖書の訳文を見ると、どのような文脈でも『女預言者』以外の定義は選択しないという訳し方になっています。日本の翻訳者は、直訳、一語一訳主義で理解するため『ネビーアー=女預言者』と訳語を固定していることが分かります。全く愚かなことです。イザヤ8:3が誤訳になったのは『カラブ=近づく』『ネビーアー=女預言者』と、直訳(トランスペアレント訳)したことが原因です。


~原文放棄~

以上の解釈をまとめると、イザヤ書8章3節が語るのは、次の内容になります。

私(イザヤ)は妻と体の関係を持った。妻に主の霊がのぞんだ。妻は身ごもり、のちに男の子を産んだ・・・

これはヘブライ語の解釈文で、訳文ではありません。解釈文と訳文は違います。解釈文のままでは、日本語として稚拙で不自然な表現です。この次、原文放棄という処理をして、訳文を作ります。

解釈文のイメージを頭の中で描きます。この時、ヘブライ語の語感、意味、文法など、ヘブライ語の特徴を全て頭の中から消し去ります。残されたイメージに最も近い、日本語表現は、次の文になります。

私は妻と枕をともにした。主の霊を受けた妻は、のちに男の子を産んだ。・・・

『ネビーアー=女預言者』とトランスペアレントにしたため誤訳になった個所を、次の図にまとめました。



新改訳は『直訳が良い。トランスペアレントが良い』と言っていますが、上の表をご覧いただければ、デタラメだということがお分かりになるでしょう。『翻訳には翻訳者の解釈が入るので、様々な訳文ができるのは仕方ないことだ』と言われる方がいますが、様々な訳文ができてしまう一番の原因は、翻訳スキルが低いことが原因です。直訳、意訳、両者を混合させた翻訳手法というのは低いレベルの翻訳ですが、翻訳スキルがないから、よりどりみどりの訳文になるのです。翻訳スキルの低い翻訳者と高い翻訳者が協議をしても、全く話しが噛みあわないのですが、スキルの高い翻訳者同士であれば、どのような訳文になるか一致点を見いだすことが可能です。一字一句まで同じ訳文になることはありませんが、原文の意図を理解するという点においては、一致できるものです。


~関係を壊す通訳者~

私は、あるマイノリティーが使う外国語の通訳をしてきましたが、まだ駆け出しだった頃、尊敬する先輩から、次のような話を聞かされました。

『通訳というのは、通訳者のことばを通して、人と人とをつなぐ仕事なんだけど、通訳者が入ることで、かえって人間関係を壊してることがある。通訳者のことばが、稚拙であったり、意味不明であったりすると、聞いた人は、通訳者に問題があるとは思わず、話し手の知的レベルが低いんだと誤解することがある。特にマイノリティーの言語通訳は、気を付けなくてはならない。通訳者のことばが意味不明だと、聞く立場にあるマジョリティーは、話し手のマイノリティーは、知的レベルが低いのだろうとか、常識がないのだろうと誤解する傾向が強くなる。通訳者がマイノリティーの、人格や人権を損ねていることがあるのだが、ことの重大さに気づかない通訳者が少なくない』とのことでした。

この話を聞き、そんなことがあるのだろうかと半信半疑でしたが、この方が言っていたことは真実で、通訳や翻訳に携わる人にとって、忘れてはならないことだということが分かりました。

ところで、聖書の翻訳はどうでしょうか?『イザヤは不倫をして子どもを生ませた』という訳文は、イザヤの人格を傷つけるものです。聖書が意味不明な訳文になっていたら、読者は『言うこと、なすことがナンセンスな神さまだな』という誤解を与えることになるのではないでしょうか?折角翻訳された日本語訳聖書が、神さまと日本人との関係を損なうものにならないことを願います。

神学者の中には、イザヤ書8章3節を次のように解釈する方がいます。『イザヤが預言をしていた当時、隣接する異国の宗教には神殿男娼がいて、預言者階級の子孫継承のため複数の女性との重婚、乱交があった。イザヤもこうした外国の影響を受け、他人の妻と乱交をしていたという意味であろう』。こうした目を疑うような聖書解釈ができあがるのは、聖書翻訳の誤りが原因です。神学者、牧師、信徒も翻訳された聖書を読むのですから、翻訳が誤っているということは、大きなダメージを与えます。

私自身気を付けてきたことですが、絶対やってはいけない誤訳というのは、話し手の人格を棄損する通訳(翻訳)だと思います。通訳や翻訳に携わる方には、重い社会的責任があるんだということを忘れないでいただきたいのです。



(000)ヘブライ語 masows ことばの解釈

2018年05月05日 | ことばの解釈


~色々なよろこび~

イザヤ書8章6節の中で、ヘブライ語『masows マソース』ということばが使われています。masowsは、一般的に次のように解説されます。

英)exultation, joy, rejoicing 
私訳)大よろこびをすること、幸福感をともなうよろこび、歓迎する(よろこぶのお堅い表現)

『聖書と翻訳』で述べたことですが、翻訳辞書でことばの意味を調べても50%しか分からず、翻訳辞書に頼るということには落とし穴があります。『masows』についても同じく、一般的な辞書では解説されない別の意味があるということと、イザヤ書8章6節で、従来の日本語訳で足りなかったものが何であるかを示してみます。

日本語訳聖書では、masowsを次のように訳しています。

イザヤ書8章6節 新改訳
「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる

新改訳『~を喜んでいる』
文語訳『~をよろこぶ』
口語訳『~の前に恐れくじける』
新共同訳『~のゆえにくずおれる』

『喜ぶ』という解釈があれば、反対に『恐れる』という解釈もあります。どうして、こんなにかけ離れた意味になるのでしょう?masowsということばに『喜ぶ』と『恐れる』という正反対の意味があるのでしょうか?これだけ解釈が分かれているということは、翻訳者が、masowsの意味をつかんでいないからです。

King James Versionでは、次のようになっています。

・・・this people refuseth the waters of Shiloah that go softly, and rejoice in Rezin and Remaliah's son

新改訳で『喜んでいる』と訳された箇所が、King James Versionでは『rejoice in』となっています。英語のrejoice inは、~と同じ状態を保つ、(誰かの)仲間入りをするという意味だと、『イザヤ書8章-6』で記述しました。KJVの『rejoice in』は『喜ぶ』という意味ではありません。


次の記事は、Chaim Bentorah Ministries WORD STUDY- REJOICE WITH TREMBLINGの抜粋を私訳したものです。

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ヘブライ語には『よろこび』を意味することばが16以上あります。英語にはいくつあるでしょうか。文化の特徴は、言語にも反映されます。『よろこび』ということばは、英語よりもヘブライ語の方で、大切な概念を持つようです。

次に、ヘブライ語で『よろこび』を意味することばを、幾つか挙げてみます。

Simchah・・・The Joy of the Lord
主をよろこぶこと

Samach・・・Joy in performing religious ceremony
祭儀におけるよろこび

Samerch・・・Joy that shows outward expression
よろこびを表現すること

Suws・・・An inward feeling of joy, not expressed
行動として表れない、心の中でのよろこび

Sachaq・・・Joy that comes from playing
遊びに興じるよろこび

Tsahal・・・Joy in the success of someone else
他人を讃えるよろこび

Alats・・・Joy in victory
勝利のよろこび

Chadah・・・A re-joice. A renewal of joy
新たなものへのよろこび

Masows・・・Joy in being with friends or family
仲間、家族と共によろこぶこと


Ranah・・・Shouting for joy
大声を出してよろこぶこと

Gil・・・Joy expressed in spinning around in a circle
飛び跳ねるようなよろこび

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~文脈の中で理解する~

masowsは、旧約聖書の中で16か所でてきますが、そのうち、9か所がイザヤ書にあります。

Isaiah 8:6
Isaiah 24:8
Isaiah 24:11
Isaiah 32:13
Isaiah 32:14
Isaiah 60:15
Isaiah 62:5
Isaiah 65:18
Isaiah 66:10

Job 8:19
Psalms 48:2
Jeremiah 49:25
Lamentations 2:15
Lamentations 5:15
Ezekiel 24:25
Hosea 2:11


実際に masows がどのような文脈の中で使われているか、イザヤ書内の4箇所を取り上げてみます。英語の青い文字は『masows マソース』の訳語にあたるところです。

(1)Isaiah 24:8   New English Translation
The happy sound of the tambourines stops,
the revelry of those who celebrate comes to a halt,
the happy sound of the harp ceases.
祝いの席で伴奏される楽器の祝福に満ちた音色はもう聞こえないという意味で使われている。

(2)Isaiah 24:11   New English Translation
They howl in the streets because of what happened to the wine;
all joy turns to sorrow;
celebrations disappear from the earth.
この国に祝い事はなくなる。人が集いお祝いをすることはなくなるという意味で使われている。

(3)Isaiah 62:5   Easy-to-Read Version
As a young man takes a bride and she belongs to him,
so your land will belong to your children.
As a man is happy with his new wife,
so your God will be happy with you.
婚宴で、新郎新婦が共に喜ぶという意味で使われている。

(4)Isaiah 66:10   New English Translation
Be happy for Jerusalem
and rejoice with her, all you who love her!
Share in her great joy,
all you who have mourned over her!
エルサレムを慕う人たちが集まり、共に喜び祝うという意味で使われている。

(1)祝いの席で伴奏される楽器の祝福に満ちた音色はもう聞こえない
(2)この国に祝い事はなくなる
(3)婚宴で、新郎新婦が共に喜ぶ
(4)エルサレムを慕う人たちが集まり、共に喜び祝う

以上の個所から『masows』は、仲間が集まり共に祝うといった、社会的なシーンで使われることばだということが分かります。これがmasowsということばの輪郭になります。前述したChaim Bentorah Ministriesの『仲間、家族と共によろこぶこと』という解釈とも一致しています。単語の意味を調べる場合、必ず、文脈の中で理解すること、そして、単語の輪郭をつかむことが大切です。輪郭をつかむことができれば、8割がた理解できたようなものです。

次に、イザヤ書8章6節で masows が、どのような意味で使われているか見てみます。

6節を解釈するにあたり、4節の影響を受けていることに気が付かなくてはならないのですが、文語訳、口語訳、新共同訳、新改訳とも、このことに気が付いてないようです。

イザヤ書8章4節の私訳
赤ん坊が『パパ、ママ』としゃべり始める前に、ダマスコとサマリヤの財産は、アッシリヤ軍によってことごとく奪われるだろう。

4節は『ダマスコと、サマリヤの滅亡』が書かれています。この4節と、続く6節『王レツィンと王ペカ』は、次のように呼応しています。

ダマスコ=王レツィンが住む都
サマリヤ=王ペカ(王レマルヤの息子)が住む都

4節は『王レツィンと王ペカの都が滅びる』という意味です。6節の文は、この4節を受け『(ユダ族は)滅亡に向かう王レツィンと王ペカに masows した』と、展開させています。6節の原文解釈をする時、4節の内容も合わせて解釈しなくてはならないのです。このように前後の文を合わせて解釈することは、直訳主義を信条とする翻訳者にはできないことです。

翻訳は、輪郭の設定→細部の解釈→輪郭の再設定→細部の再解釈という作業を繰り返して訳文を練っていきます。単語カードの表を裏にひっくり返すような訳し方では、翻訳はできません。

ことばの言い換え
4節  →  6節
ダマスコ→王レツィン
サマリヤ→王ペカ(レマルヤの息子)

このように、わざわざことばを言い換えているのは、同じことばを繰り返して使うことを嫌う、忌避の規則に因るものでしょう。同じ意味のことを、違うことばで言い換えている箇所が、ヘブライ語聖書のいたる所で見られます。ヘブライ語には、同じことばを直近の文で繰り返すことを嫌う、忌避の規則があると理解します。また、ヘブライ語の『よろこぶ』を意味することばが沢山あるということも、忌避の規則に対処するため自然に語彙が増えた結果ではないかと思います。

6節の意味は『滅亡の道を行く、王レツィンと王ペカ。その記念すべき宴(うたげ)に、ユダ族が加わった』と皮肉をたっぷり込めて表現しています。イザヤはこうした意味を語っていたでしょうし、当時のヘブライ語ネイティブもこうした意味で理解していたはずです。


~ことばの対比~

6節の私訳
「ユダ族は、穏やかに流れるシロアハ水道の水に背を向け(mawas)、王レツィン、及び王レマルヤの息子が向かう滅びの道に 自ら足を踏み入れた(masows)。

ユダ族は・・・神のことばに 背を向けた mawas
そして
ユダ族は・・・王レツィンたちの 仲間に加わった masows

masowsは『仲間に加わり+共に祝う』という意味ですが、文脈により『祝う』というニュアンスが強くなる場合もあるでしょう。反対に『仲間に加わり』というニュアンスが強調される場合もあるでしょう。6節の中に『mawas 拒む』ということばが使われています。『mawas』と『masows』を対比させています。そうすることでmasowsは『仲間に加わった』というニュアンスが強調されています。

イザヤは『ユダよ、お前たちは、神のことばを拒み、滅びゆく王レツィンたちの仲間に加わったのか』と、ユダ族が取った行動の対比をしています。

私訳では『王レツィン、及び王レマルヤの息子が向かう滅びの道に、自ら足を踏み入れた。』としました。次のような疑問を持たれる方がいるかも知れません。『ヘブライ語の原文には、~が向かう滅びの道という言い回しがないのに、訳文で付け足しをしていいのか?』と。

ヘブライ語では、4節で『王レツィン、及び王レマルヤの息子が滅びる』という内容が語られています。6節は、4節の内容を受け、表現を展開させています。従って、6節は『(王レツィン、及び王レマルヤの息子が)向かう滅びの道』という意味になっています。

もし日本語訳で『(ユダ族は)王レツィン、及び王レマルヤの息子の仲間に加わった』と訳したらどうなるでしょう。読者は『ユダ族は、王レツィン、及び王レマルヤの息子と同盟を結んだ』と解釈するでしょう。それでは、ヘブライ語が語る内容と違います。直訳では、原文の意図を忠実に再現できません。6節のヘブライ語文は、ハイコンテクストになっているため『滅びに向かう』ということばが省略されています。日本語の訳文を作る場合『~が向かう滅びの道』という消された表現を再生させないと、原文と同じ意味の訳文ができないのです。ハイコンテクストについては『イザヤ書8章-6』で詳しく説明させていただいたので、こちらをお読みください。

また、次のような疑問を持つ方がいるかも知れません。『でも、King James Version 6節の訳文には、~が向かう滅びの道という表現がないじゃないか。それはどうしてなのか?』と。それは、ヘブライ語と英語には、同じことばの繰り返しを嫌う忌避の規則が共通しているからです。しかし、日本語にはそのような規則がありません。ヘブライ語、英語のネイティブであれば、忌避の規則によって、4節と6節に関連あることが理解できるので『~が向かう滅びの道』という表現を入れる必要はありません。日本語にはそうした規則がないため『~が向かう滅びの道』という表現を入れて訳文を作らざるを得ないのです。日本語訳聖書をみると、忌避の規則やコンテクストを考慮して訳文を作っているという形跡が見られません。それでは翻訳とはいえないと思います。

次に『masowsは、仲間に加わったという意味だと分かったけど、私訳では、自ら足を踏み入れたと変わっているのはどうして?』という疑問を持たれるかもしれません。漢文訓読法の影響 原文放棄で書かせていただきましたが、訳文産出の前に原文放棄という処理をしなくてはなりません。6節ヘブライ語の意味は『王レツィン、及び王レマルヤの息子は、やがて滅びに向かう。ユダ族は、その仲間入りをした』ということです。このような解説的文章を、訳文にするとダラダラとした文になります。それで、原文放棄という処理をするのですが、ヘブライ語では何を言いたいのか、そのイメージを頭の中で描きます。そのイメージに相応しい日本語の表現は『王レツィン、及び王レマルヤの息子が向かう滅びの道に、自ら足を踏み入れた』という文だと思うのです。この訳文は翻訳者によって違いが出てくると思いますが、きちんと原文の意味が反映されているか、日本語として理解できる自然な訳文になっているかがポイントだと思います。直訳主義では、原文放棄という処理をしないので、意味の通らない日本語になるのです。

Good morning は『おはようございます』という意味ですが、原文放棄をしているから、こういう訳が成立するのです。直訳では『良い朝』となってしまいます。すべての翻訳で原文放棄は必要です。


~韻をふむ~

語頭ma-と語尾-sが同じ発音となり、韻をふんでいます。

mawas 
masows ソー

このように、6節の文は、ヘブライ語の『mawas』と『masows』を使い、正反対の意味を対比させつつ、韻もふんでいるという表現形式になっています。

偶然なのか、意図されたことなのかどちらか分かりませんが、うまい具合にKing James Versionも同じ表現形式になっています。

・・・this people refuseth(拒む) the waters of Shiloah that go softly, and rejoice in(仲間に加わり) Rezin and Remaliah's son

refuseth(拒む)とrejoice in(仲間に加わる)ということばで、反対の意味を対比させ、語頭 re- で韻をふんでいます。


こうして、8章6節を次のように訳出しました。

イザヤ書8章6節 私訳

「ユダ族は、穏やかに流れるシロアハ水道の水に背を向け、王レツィン、及び王レマルヤの息子が向かう滅びの道に、自ら足を踏み入れた


日本語訳聖書は次の通りです。

新改訳
「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる

文語訳
この民はゆるやかに流るるシロアの水をすててレヂンとレマリヤの子とをよろこぶ

新共同訳
「この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒み レツィンとレマルヤの子のゆえにくずおれる

口語訳
「この民はゆるやかに流れるシロアの水を捨てて、レヂンとレマリヤの子の前に恐れくじける

新改訳と文語訳は『よろこぶ』という解釈ですが『masows=よろこぶ』という一語一訳的訳し方をしていて、masowsに『仲間に加わる』という意味があることを見落としています。また、4節の文と関わりがあることに気が付いていません。結果として、意味が通らない訳文になっています。

新共同訳と口語訳は、日本語として意味が通っていて、史実にも合致しています。しかし、問題だと思うのは、ヘブライ語が語る内容と、訳出された訳文の意味がかけ離れており、言語学上の解釈をおざなりにした超意訳になっていることです。『masows』を『くずおれる』『恐れくじける』と訳出していますが、masowsにこうした意味はありません。masowsは、イザヤ書の中で繰り返し使われることばですから、どのような意味で使われているか、それぞれの文を調べれば分かることです。

ことばには、その民族の文化が反映されるので、民族が違えばことばの意味も違ってきます。masows=よろこぶ といった単純な対応関係になりません。更に、文脈によりことばの意味も変化します。翻訳辞書でことばの意味を理解することは不十分であり、翻訳辞書に頼ることには落とし穴があるということを知っておくべきです。辞書を調べてもしっくりした訳語が見つからないときは、実際にそのことばが使われている文を幾つか拾い上げ、文脈からことばの輪郭をつかむことです。自分の先入観を捨て聞くことに集中すれば、原文が導きを与えてくれると思います。簡単に答えが見つからないこともありますが、そうした姿勢は大切だと思います。但し、十分に訓練されるということも欠かせません。

これから翻訳を志そうとする方には、是非、通訳の経験を積むことを勧めます。『聖書と翻訳』でイザヤ書8章1~10節の解釈をさせていただきました。それぞれ、なぜそのような解釈をしたか、納得して頂けるよう詳しく説明させていただいたつもりですが、誤解されないよう申し上げたいのは、こうした理屈を積み重ねて訳文を作っているのではないということです。私は、ヘブライ語を習ったことはありませんが、日本語訳、英訳、ヘブライ語にも目を通しています。それで、自然に訳文ができてしまいます。訳文の一字一句までできるということではないのですが、訳文の方向性がはっきりと見えてきます。考えたり、理屈をこねて訳文を作るのではなく、自然にできてしまいます。勘といってもいいでしょう。

ある外国語の勉強を始めて30年以上、その通訳に携わり20年以上なります。通訳の実務と同時に、言語学、異文化コミュニケーション、第二言語習得論などの勉強もしました。そうした勉強をするのも必要です。しかし、通訳の場合必要になるのは感覚です。翻訳と違い、同時通訳は瞬時に訳を作らなくてはなりません。辞書を引いたり、ネットで検索する時間はありません。瞬時に判断し訳出することの連続です。考えて理屈で訳すのではなく、感覚で訳ができるくらいまでスキルアップをしなければなりません。こうして身に付けた感覚は、どの言語を理解する時にも使うことができるようです。

翻訳の経験はないので、翻訳をされている方がどのように翻訳作業を行っているのか分かりませんが、私の場合、テキストを見ると自然に訳文が見えて来るといった感じになります。もちろん、すぐには分からないところもありますが、理屈をこねて無理やり訳文を作ることはしていません。分からなかった箇所が、何か月も経って、自然と訳文が頭に浮かぶこともあります。ブログで書いている解釈の仕方や根拠付けは、全てあと付けで書いていて、先に訳文ができています。

聖書翻訳に限ったことではありませんが、これから翻訳をやろうとする方には、是非、通訳の経験を積んでいただきたいと思います。こうした通訳の感覚を身に付けた上で、聖書翻訳に携わっていただきたいのです。できれば、現代ヘブライ語、現代ギリシャ語通訳の経験を経て、聖書翻訳に携わる、そのような方が起こされることを願います。

翻訳(通訳)をするには、ヘブライ語を学ぶだけでは不十分なんだな、翻訳(通訳)スキルというものを学ばないとダメなんだなということを知っていただきたいところです。忌避の規則、原文放棄、言語の恣意性、コンテクスト、単語の解釈の仕方、文脈の関連付けなどを、お話しさせていただきました。ここで取り上げたことは、一部に過ぎません。聞きなれないことばなので、難しいと感じる方もいるかも知れませんが、日本語の日常会話の中でも見られる、身近なことなので、本当は難しいことではありません。英語教育の中で、英→日、日→英の翻訳を教えているのですから、こうしたことも分かりやすく教えていただきたいものです。英語を勉強すれば、英語の翻訳ができると思われていますが、そうではなく、翻訳の仕方というものがあって、同時にそれも学ばなくてはならないのです。聖書の翻訳も同じで、ヘブライ語を学んだだけでは、翻訳できないんだということを理解してほしいところです。聖書翻訳に携わった方のヘブライ語の知識は専門家として申し分ないものだったことと思いますが、翻訳スキルがないため、単語の解釈を間違えたり、意味が分からない訳文、文脈に筋が通らなかったりしているということがうかがえます。




(000)ギリシャ語 γίγαντες ギガンテスは巨人か? 創世記6章ほか

2018年04月25日 | ことばの解釈



新改訳 創世記6:4
神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

『נְפִילִים ネフィリム』は、創世記6章と民数記13章に登場します。神学者や聖書学者は『ネフィリムとは、天使、堕天使、サタン、宇宙人、カインの子孫、巨人・・・である』と、間違った解釈をしてきました。中でも『ネフィリムは巨人である』という誤解が、一番根強いようです。70人訳聖書(ギリシャ語)を見ると、ネフィリムが『γίγαντες ギガンテス』と翻訳されています。

現代のギリシャ語-英語辞書は『γίγαντες gigantes:giant 巨人(Glosbe.com)』この様に説明していますが、これは辞書の間違いです。紀元前3世紀、70人訳をおこなった翻訳者は『ギガンテス:ギリシャ神話の神ギガンテス、ならず者集団ギガンテス』こういう意味で使っています。現代人が考えたことばの定義を、70人訳に当てはめることが間違っているのです。聖書で使われた『ネフィリム、ギガンテス』に『巨人』という意味はありません。この記事は、70人訳聖書で使われた『ギガンテス』の意味を、徹底検証します。

この記事の目次
・ギガンテスことばの輪郭を描く
・70人訳聖書とギガンテス
・創世記6:4 ギリシャ語とヘブライ語
・歴代誌上20:8 ギリシャ語とヘブライ語
・ヨブ記26:5 ギリシャ語とヘブライ語
・イザヤ書13:3 ギリシャ語とヘブライ語
・イザヤ書14:9 ギリシャ語とヘブライ語
・誤解のもとは外典エノク書



~ギガンテスことばの輪郭を描く~

ギガンテスはギリシャ神話に登場する神です。女神ガイアは、100人のギガンテスを生みます。ギガンテスは、人間の体と獣の体を併せ持つ、生まれながらの乱暴者で、大木を引き抜いてこん棒の様に振り回したり、巨岩を投げつけ、武器にしました。手の付けようがない乱暴者だったのですが、ある時、弱点がばれると、ほかの神々にやっつけられます。

ギガンテスは集団名で、今風にいえば『○○組、○○一家、○○連合』といったところでしょうか。ギガンテス一家の一人ひとりに個別の名前があるようです。ギガンテス一家、若頭のポルフィリオンは、ゼウスが放った稲妻と、ヘラクレスが放った矢によって命を落とします。ギガンテスは次々と打ち負かされ、生き残ったギガンテス一味は、最終的に、地下(海の底)に永遠に閉じ込められ、一巻の終わりとなります。ギリシャ近辺で、地震や火山の噴火が起こる時、それは、地中に閉じ込められたギガンテスが暴れるからだと言われています。以上が、ギリシャ神話のギガンテスです。一部、日本風に脚色させていただきました。

ギガンテスの特徴は、次のようになります。
・暴力を好むならず者集団
・海の底に、閉じ込められた悪霊

引用サイト
wikipedia.org
theoi.com
greeklegendsandmyths.com


古い時代の絵や彫刻を見ると、ギガンテスは、下半身がヘビや龍になっている、半人半獣として描かれています。私が調べた範囲では、古い時代の作品で、ギガンテスを巨人として描いているものはありません。ギリシャ神話に登場する神々は、ある時は人間と同じサイズで記述され、ある時は巨人のように記述されます。ギリシャ神話の神は、しばしば巨人のように描かれることがあって、ギガンテスだけ際立って大きいということではありません。ギガンテスが巨人として描かれるようになったのは、のちの時代になってからではないかと思います。ギリシャ神話は、紀元前8世紀頃、ホメロス(Homer)、紀元前7世紀頃ヘシオドス(Hesiod)によって編纂(へんさん)されますが、内容に食い違いがあるようです。

ギガンテス




~70人訳聖書とギガンテス~

70人訳聖書は、コイネー・ギリシャ語で書かれています。ヘブライ語の話しを、ギリシャ神話と重ね合わせ、神話に関係するギリシャ語を引用し巧妙に翻訳されています。翻訳上、興味深いテクニックが至るところで使われているので、翻訳者にとって良い勉強になるはずです。70人訳聖書で『γίγαντες ギガンテス』ということばが使われたのは、10個所あります。このうちヘブライ語聖書(正典)と比較できるのが以下の5か所です。残りは外典に含まれるので、ここでは検討しません。



ギガンテスは、ギリシャ神話に登場するギガンテスの特徴に、極めて似ていることが分かります。ギガンテスが巨人という意味で使われているところは、一つもないですよね。もし『ギガンテスは巨人という意味である』と仮定したら、歴代誌、ヨブ記、イザヤ書の文脈に合わなくなります。現代の私たちが手にする辞書には『ギガンテス=巨人』と解説されていますが、今から2,300年前、70人訳を翻訳した人は、そういう意味で使っていなかったということです。何度も言ってることですが『辞書や文法書を信用するな!』ということです。ギガンテスが使われた5か所について、更に詳しく調べてみましょう。



~創世記6:4 ギリシャ語とヘブライ語~

Biblehub.com ギリシャ語
Studybible.info ギリシャ語
創世記6:4 ギリシャ語


私訳 創世記6:4 ギリシャ語
ある時、暴力を好むならず者(ギガンテス)が、全地に広がった。神に創られた人間であったが、誰もかれも、乱暴な人間(ギガンテス)になった。


γίγαντες ギガンテス
暴力を好むならず者  

ギガンテスの語源は『γίγα ギガ』になります。Academic.comが、良い説明をしているので引用します。
γίγα mighty 大きな力を持つ、強い
ギガは『大きな力を持つ』という意味ですから、ギガンテスは『大きな力を持つ者、強者(つわもの)』となります。巨人ではありません。


Biblehub.com ヘブライ語
創世記6:4 ヘブライ語


私訳 創世記6:4 ヘブライ語
ある時、暴力的で悪名高いネフィリム(暴力を好むならず者)が現れると全地に広がった。神に創られた人間であったが、親から子に引き継がれるのは、悪い行いばかりであった。


הַנְּפִלִ֞ים ハンネフィリム(5303) Strong's Exhaustive Concordance
弱者を虐げる者、暴力で人を支配する者  語源となる動詞:ナファール

נָפַל ナファール(5307)動詞 Biblehub.com
武力を使う、人を屈服させる、悪人

創世記6:4、ヘブライ語ネフィリムは『弱者を虐げる者、暴力で人を支配する者』という意味で、ギリシャ語ギガンテスは『暴力を好むならず者、乱暴者』という意味で使われています。ネフィリムとギガンテスは、同じ意味で使われています。ヘブライ語原文と70人訳訳文は、同じ内容になっているので、70人訳は正しく翻訳されてることが分かります。



~歴代誌上20:8 ギリシャ語とヘブライ語~

Biblehub.com ギリシャ語
Studybible.info ギリシャ語
歴代誌上20:8 ギリシャ語


私訳
この4人は、ガテで反乱を起こした暴徒たちであったが、ダビデ軍に討(うち)とられた。


ギリシャ語Ραφα ラファは、ヘブライ語 רָפָא ラファの音訳です。
רָפָא ラファ(7497)名詞、固有名詞
反抗、抵抗、反乱

γίγαντες ギガンテス
武力で抵抗する者たち、反乱を起こした暴徒


Biblehub.com ヘブライ語
歴代誌上20:8 ヘブライ語


私訳
これは、ガテで反乱を起こした暴徒たちであったが、ダビデ軍に討(うち)とられた。


רָפָא ラファ(7497) 名詞、固有名詞
反抗、抵抗、反乱

רָפָא ラファ(7495) 動詞
回復する、癒す、(病気、傷)を癒す、(国土、主権)を回復する

ヘブライ語-英語辞書を見ると『ラファは巨人である』と解説されています。これは、全く根拠がないデタラメ。辞書の間違いです。辞書の間違いは、結構あります。ヘブライ語の名詞は、動詞から派生して作られています。動詞ラファは『癒す、回復する』という意味ですから、この文脈では(国土、主権)を回復するという意味で使われています。『イスラエルに領土を奪われたガテ族が、自分たちの主権を取り戻そうと武器を持ち立ち上がった』こういう意味です。これをイスラエル側から見ると『反抗、反乱』になります。私訳は『反乱を起こした暴徒たち』と訳出しました。

ヘブライ語原文と、70人訳訳文は、同じ内容になっているので、70人訳は正しく翻訳されてることが分かります。ギガンテスは『武力抵抗する者、反乱を起こした暴徒』という意味で使われています。



~ヨブ記26:5 ギリシャ語とヘブライ語~

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ヨブ記26:5 ギリシャ語


ここは、表と裏両方の解釈ができます。ヘブライ語が語る真意は、裏の解釈になります。

私訳 表の解釈
乱暴者の霊というのは、海の底にいる黄泉の霊と同じではないか。

私訳 裏の解釈
乱暴なことばは、心の底から湧き上がる。心が、黄泉の死霊に捕えられているからだ。


γίγαντες ギガンテス
黄泉に下った死者の霊、乱暴者の霊

インターリニアや辞書を見ると、μαιωθήσονταιの解釈が混乱しています。μαιωθήσονταιの語源となるのがτίθημι(5087)で、これは『設定する、定める』という意味です。


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ヨブ記26:5 ヘブライ語


私訳 表の解釈
悪人の霊というのは、海の底にいる黄泉の霊と同じではないか。

私訳 裏の解釈
乱暴なことばは、心の底から湧き上がる。心が、黄泉の死霊に捕えられているからだ。


הָרְפָאִ֥ים ラファ(7496)
悪人の霊、死者の霊(対義語ルアハ)

יְחֹולָ֑לוּ フール(2342)
定められる、作られる

וְשֹׁכְנֵיהֶֽם シャハーン(7931)
住む、墓場とする、宿る

ヘブライ語原文と、70人訳訳文は、同じ内容になっているので、70人訳は正しく翻訳されてることが分かります。ここで使われたギガンテスは『黄泉に下った死者の霊、乱暴者の霊』という意味で使われています。

困ったことですが、ヨブ記は大変誤解されています。神学者は、次のようにいいます。ヨブ記は『知恵文学、壮麗な叙事詩、芸術的詩文、世界的な文学作品、高等神学である』。まるで神のように持ち上げます。その一方『文書に整合性がない、表現が難解、アラム語やセム語から翻訳されている、複数の人物が書いた継ぎはぎ文書である』と、ボロクソにくさします。これは、神学者が、翻訳に苦しんだとき口にする、常とう句です。神学者の詭弁(きべん)に騙(だま)されてはいけません。ヘブライ語聖書は、一般的なユダヤ人であれば、誰もが理解できる、身近なことばで書かれていました。神学者が、ヨブ記を必要以上に持ち上げたり、貶(おとし)めるのは『翻訳できないのは私の能力が低いからじゃないからね。ヘブライ語テキストに問題があるんだよ』と、言いわけを作りたいからです。ヨブ記が、意味不明な日本語に翻訳されたのは、翻訳の知識も実務経験もない人物が翻訳をおこなったからです。機会があれば、ヨブ記の解釈の仕方についても書かせていただきます。



~イザヤ書13:3 ギリシャ語とヘブライ語~

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イザヤ書13:3 ギリシャ語


私訳 イザヤ書13:3 ギリシャ語
私は、バビロンに怒りの鉄槌を下す。バビロンは、血も涙もない荒くれ者に、なぶり殺しにされるだろう。


γίγαντες ギガンテス
荒くれ者、強者


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私訳 イザヤ書13:3 ヘブライ語
私は、バビロンに怒りの鉄槌を下す。バビロンは、血も涙もない荒くれ者に、なぶり殺しにされるだろう。


גִבֹּורַי֙ ギボール(1368)
荒くれ者、強者(つわもの)

ヘブライ語原文と、70人訳訳文は、同じ内容になっているので、70人訳は正しく翻訳されてることが分かります。ここで使われたギガンテスは『荒くれ者』という意味で使われています。



~イザヤ書14:9 ギリシャ語とヘブライ語~

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イザヤ書14:9 ギリシャ語


解釈文
怒りをたたえ、黄泉の悪霊が立上る。地上の王が立ち上がる。諸国の王が立ち上がり、バビロン王を包囲する。

私訳 イザヤ書14:9 ギリシャ語
怒りをたたえ、黄泉の死霊が立ち上がる。諸国の王は立ち上がり、バビロン王を包囲する。


ᾅδης ハデス(86) =シェオール
黄泉の国、死後の世界、暗黒の世界

γίγαντες ギガンテス
黄泉に下った死者の霊


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イザヤ書14:9 ヘブライ語


解釈文
海の底の黄泉の国が立ち上がる。お前と対峙する。黄泉の霊が起き上がる。世界中の君主が起き上がる。外国の王は、王座から立ち上がる。

私訳 イザヤ書14:9 ヘブライ語
黄泉の死霊が立ち上がる。諸国の王は立ち上がり、バビロン王を包囲する。


שְׁאֹ֗ול  シェオール(7585)
死後の世界、黄泉の世界

רְפָאִים֙ ラファ(7496)
死者の霊、死者

ヘブライ語にありませんが、70人訳に『怒りをたたえ』という表現があります。これは、70人訳の翻訳者が『勝手な付け足し、勝手な意訳』をおこなったのでしょうか?違います。ヘブライ語に『怒りをたたえる』ということばはありませんが、行間に『怒りをたたえる』という感情(モダリティ)が埋め込まれています(1~8節)。ここ9節をギリシャ語に翻訳する場合、『怒りをたたえる』ということばを言語化しないと、訳文の意味が完成しないので、行間に埋め込まれたことば(モダリティ)を、再現したということです。70人訳の翻訳者は、モダリティを処理する能力を備えていたということです。これを『意訳してる。勝手な付け足しだ』と誤解する方がいますが、意訳ではありません。『原文放棄』という翻訳方法です。原文放棄ができるのは、黒帯クラスの翻訳者です。

イザヤ書14:9は、70人訳もヘブライ語も同じ意味になっています。70人訳は正しく翻訳されています。ここで使われたギガンテスは『黄泉に下った死者の霊』という意味です。


以上、γίγαντες ギガンテスが使われた5か所を検討しました。ギガンテスが『巨人』という意味で使われたところは、一つもありません。またヘブライ語ネフィリムも『巨人』という意味で使われたところは一つもありません。現代の辞書は『gigantes :the Giants ギガンテスとは、巨人族を意味する』と解説していますが、これを70人訳に当てはめることはできないということです。何も驚くことはありません。こうした辞書の不適切な解説は、あちらこちらにあるのです。




以下、私訳と新改訳の違いをご覧ください。

新改訳第三版 創世記6:4
神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

私訳 創世記6:4
ある時、暴力的で悪名高いネフィリム(暴力を好むならず者)が現れると全地に広がった。神に創られた人間であったが、親から子に引き継がれるのは、悪い行いばかりであった。


新改訳第三版 歴代誌上20:8
これらはガテのラファの子孫で、ダビデとその家来たちの手にかかって倒れた。

私訳 歴代誌上20:8
これは、ガテで反乱を起こした暴徒たちであったが、ダビデ軍に討(うち)とられた。


新改訳第三版 ヨブ記26:5
死者の霊は、水とそこに住むものとの下にあって震える。

私訳 ヨブ記26:5
乱暴なことばは、心の底から湧き上がる。心が、黄泉の死霊に捕えられているからだ。


新改訳第三版 イザヤ書13:3
わたしは怒りを晴らすために、わたしに聖別された者たちに命じ、またわたしの勇士、わたしの勝利を誇る者たちを呼び集めた。

私訳 イザヤ書13:3
私は、バビロンに怒りの鉄槌を下す。バビロンは、血も涙もない荒くれ者に、なぶり殺しにされるだろう。


新改訳第三版 イザヤ書14:9
下界のよみは、あなたの来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。

私訳 イザヤ書14:9
黄泉の死霊が立ち上がる。諸国の王は立ち上がり、バビロン王を包囲する。


新改訳は、文法上もデタラメです。新改訳だけではありません。従来の日本語訳聖書はどれも同じです。ヘブライ語やギリシャ語の教育を受けてない私が言うのも気が引けますが、一度、まともな翻訳者を集めて、まともな日本語訳聖書を作るべきでしょう。従来の翻訳者は『直訳、トランスペアレント訳が良い』『格調高い日本語にする』こういう愚かな理念を掲げてきましたが、まともな翻訳者であれば、そんな理念は掲げません。従来の日本語訳聖書に誤訳が多く、意味不明な日本語になっているのは、間違った翻訳理念を掲げ、知識も経験もない人物に翻訳をおこなわせているからです。正しい日本語訳聖書がなければ、神学や聖書学だって、正しく研究できないはずです。



~誤解のもとは外典エノク書~

70人訳聖書には、外典と呼ばれる書簡が含まれています。外典には、シラ書、マカバイ記、エノク書・・・などがあります。今日のユダヤ教正統派は、外典を聖典から除外しています。キリスト教プロテスタントも同じです。カトリックは、代々、70人訳聖書を原本としてきたので、外典が含まれています。但し、エノク書は、カトリックも除外しています。エノク書は、紀元前2~前1世紀頃書かれました。内容が創世記と似ていて、天地創造やノアの洪水などのお話しを、オカルト調に脚色して書かれています。ほとんど、おとぎ話です。

このエノク書の中で、ネフィリムのことが書かれています。エノク書(Book of Enoch)の内容は底本によって違いがありますが、第一エノク書7章に、ネフィリムの身長が、なんと、135m(300キュビト×0.45m)、又は900m(3,000エルス×0.3m)とあります。仮にですよ、身長135mの巨人がいたとしたら、オチンチンだって10m級のジャンボサイズです。これじゃ、人間の女と性交できないでしょ(創世記6:1~4)。私が調べた範囲において、『ネフィリム巨人説』をさかのぼると、エノク書にたどり着きます。『ネフィリム巨人説』は、エノク書が出火元みたいです。

外典の中で、エノク書以外にも『ギガス、ギガンテス』が登場します。新共同訳聖書はこれを『巨人』と翻訳しましたが、全て誤訳ですよ。『ギガス、ギガンテス』ということばは、ギリシャ神話の神ギガンテスと重ね合わせて、使われています。下の表をご覧ください。


※章節の数字は、底本によって異なる場合があります。

外典のお話しは、以上で終わります。話しは変わりますが、ヘブライ語ネフィリムが、英語giantに翻訳されるまでの間、どこかで誤訳があったのだろうか?そんな疑念が浮かんだので、ヘブライ語から英訳までの過程を追ってみました。下図のようになります。



1,250~1,300年頃、フランス語聖書が英語に翻訳されました。この時、英語には『巨人』を意味する『eoten』ということばがあったのですが、フランス語『géant』が、そのまま英語に持ち込まれます(借用語)。もし、フランス語『géant』が、『巨人』という意味であれば、英訳で『eoten』を使っていたはずです。フランス語『géant』が英語にそのまま取り入れられたのは、固有名詞(ギリシャ神話の神の名前)として理解したからでしょう。これは英訳聖書だけに見られることではなく、ラテン語、フランス語も、底本のことばを取り入れています(借用語)。『ギガンテス』が固有名詞(ギリシャ神話の神の名前)として理解されていたからでしょう。ギガンテスが『巨人』という一般名詞に変わったのは、ギリシャ神話が、人々の生活から消えた時ではないかと思います。それが、いつ、どこであったのか、そこまでは分かりませんが。

神学者や聖書学者は『ネフィリム、ギガンテスは、巨人である』と言ってきたのですから、世間の人は『聖書のお話しに巨人が登場するんだって』『聖書はオカルト本なんだ』『聖書なんかおとぎ話だよ』こういう認識を持つようになりました。オカルトアニメに登場する巨人は、創世記のネフィリム(ギガンテス)がモデルになっています。一般の人は、聖書を、おとぎ話やオカルト本の様に見ているのです。いくら『聖書は神のことばである』といっても、受け入れられるのは難しいでしょう。間違った聖書翻訳、聖書解釈を作ってきたのは、神学者です。翻訳の知識も経験もない人物が翻訳をおこなうから、こんなことになるのです。