聖書と翻訳 ア・レ・コレト

聖書の誤訳について書きます。 ヘブライ語 ヘブル語 ギリシャ語 コイネー・ギリシャ語 翻訳 通訳 誤訳

(000)ヘブライ語 qarab nebiah ことばの解釈

2018年05月06日 | ことばの解釈


~イザヤは不倫をして子をもうけた?~

イザヤ書8章3節を、従来の日本語訳は『イザヤが同じ預言者仲間の奥さんと不倫関係になり、こどもを産ませた』という訳文にしています。



訳文に若干違うところはありますが、従来の日本語訳聖書は『イザヤ不倫説』を支持する訳文になっています。ヘブライ語テキストでは『イザヤが不倫をした』ということは言っていません。いずれも訳文が直訳で訳されており、それが誤訳の原因になっています。『直訳が原典に忠実な翻訳手法である』と言われることがありますが、それは全くの誤りです。

リビング・バイブルは、次のように訳出しています。
やがて妻はみごもり、男の子を産みました。・・・

『イザヤは妻との間に子をもうけた』と正しく訳出するものは、日本語訳聖書では、リビングバイブルしかありません。日本ではリビングバイブルに対する偏見があるようですが、リビングバイブル訳文の品質は優れているということが分かります。

以下英訳聖書をご覧ください。『イザヤは妻との間に子をもうけた』と訳出するものがいくつもあります。

Complete Jewish Bible
Then I had sexual relations with my wife; she became pregnant and gave birth to a son

Amplified Bible
Amplified Bible, Classic Edition
Contemporary English Version
Good News Translation
Living Bible
New International Reader's Version
New Living Translation

『イザヤは妻との間に子をもうけた』と英訳するものがあるということは、日本の聖書翻訳団体は知っていたはずです。にもかかわらず、敢えてイザヤ不倫説を選択するというのは、イザヤ不倫説への並々ならぬ執着です。信徒には正しい生活を送るよう指導しておきながら、自分は性犯罪で逮捕されるウハウハ聖職者が現代にもいますが、イザヤ8:3はこのウハウハ行為にお墨付きを与える『聖句』になっています。信じられなことですが、イザヤ不倫説を正当化するインチキ神学者が、実際に日本や海外におり、従来の日本語訳は、全てイザヤ不倫説で翻訳されています。日本で聖書翻訳をおこなう団体は、教会を堕落させようと企んでいるのでしょうか?こうしたデタラメな聖書解釈が起こるのは『直訳主義、一語一訳主義、トランスペアレント』という翻訳理念が原因です。

この記事では、『輪郭を描く』『カラブの解釈』『ネビーアーの解釈』『原文放棄』について記述します。


~輪郭を描く ヘブライ語における結婚の定型表現~

『聖書と翻訳』で記述したことですが、原文解釈には輪郭を描く作業が大切だということを申し上げました。解釈の難しいところに出くわすと、単語の意味や、文法上の解釈に終始する翻訳者が多いと思いますが、それではダメです。画家が作業途中、キャンバスから離れて全体のバランスを確認するように、翻訳も同じく、全体像を確認する作業が必要です。

旧約聖書で『夫婦の間に子どもが生まれた』と記述された箇所がありますが、それらを抜き出してみます。ある、決まったパターンになっていることが分かるでしょうか。引用する訳文については、基本的に新共同訳から引用させていただきます。新改訳は、著作権により引用の制限があるようなので、制限のない新共同訳を引用します。

創世記4:1
さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み・・・

創世記4:17
カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ・・・

出エジプト2:1~2
レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、・・・

出エジプト2:21
・・・自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた。彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。

ルツ4:13
ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。

サムエル上1:19~20
・・・エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。・・・

以上の箇所は、次の4つの要素を含む表現になっています。
・男性(夫)
・めとる、体の関係を持つ(動詞 yada laqach qarab bowなど)
・女性(妻)
・妊娠し、出産する


イザヤ書8:3
わたし(イザヤ)は女預言者に近づいた(qarab)。彼女が身ごもって男の子を産むと・・・

イザヤ書も『夫婦の間に子どもが生まれた』という定型表現(コロケーション)になっているので、8章3節は、イザヤと奥さんとの間に子どもが生まれたという意味になります。

ヘブライ語のように比較的語彙が少ない言語の特徴として、一つのことばが沢山の意味を持つ(多義性)ということがあります。多義性がある言語は、一つひとつの単語の意味をつなぎ合わせて理解するというやり方ではコミュニケーションが成り立たないので、意味を定めるためお決まりのフレーズ(表現形式)を与える、そういう傾向があります。このようにいくつかの単語が連なって作られる慣用表現を、コロケーション(collocation)といいます。日本語では『共起語、関連語』などと訳されています。ヘブライ語を原文解釈する場合、特に複数の関連語が作る定型表現(コロケーション)に着目しなければなりません。

聖書ヘブライ語は日本語とは全く異なる言語構造を持っています。新改訳のように『直訳主義、トランスペアレント』で翻訳すると『原文に最も不忠実な』訳文になります。ヘブライ語に限ったことではありません。どんな外国語でも一語一訳や直訳はできない、そういう仕組みになっているのです。これがソシュールが唱えた『言語の恣意性』で、創世記11章に書かれている、ことばの混乱(バラル)です。もし、直訳でコミュニケーションが成り立つのであれば、あの時、バベルの塔は完成していたことでしょう。


~不義の男女関係~

聖書の結婚観に反する性的関係や、出産の場合、前述した定型表現(出産4点セット)にはなりません。以下、ご確認ください。

創世記19:32~35 父ロトと娘との近親姦
・・・娘たちはその夜、父親にぶどう酒を飲ませ、姉がまず、父親のところへ入って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった・・・

サムエル下11:4~5 ダビデがバテシェバをレイプ
ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、子を宿したので、ダビデに使いを送り、「子を宿しました」と知らせた。

サムエル下13:14 異母きょうだいでのレイプ
アムノンは彼女の言うことを聞こうとせず、力ずくで辱め、彼女と床を共にした。

サムエル下16:22 アブシャロムが父ダビデの愛人をレイプ
こうしてアブシャロムのために屋上に天幕が張られ、アブシャロムは全イスラエルの目の前で、父のそばめたちのところにはいった。

『夫婦の間に子どもが生まれた』という定型表現では、4点セットで書かれています。出産は神さまの祝福を象徴するもので(創世記1:27、28)、その男女関係が、神さまの承認を得ているということを象徴しているからではないかと思います。不義の男女関係では、表現方法が変わっていることが分かります。


~ヘブライ語 qarab の解釈~

8:3 わたしは女預言者に近づいた(カラブ)・・・

日本語訳聖書は、ヘブライ語カラブを『近づいた』と直訳しました。『カラブ』は『近づく』という意味で使われることが多いのですが、文脈によっては『結婚する、性的関係を持つ』という意味に変化する場合があります。次の文は、動詞『カラブ』が『結婚する、性的関係を持つ』という意味で使われているものを抜き出したものです。青い字がカラブの訳語にあたります。それぞれの文に共通している特徴が分かるでしょうか?日本語訳ではきちんと訳されていなかったので、私訳で載せました。

創世記20:4 私訳
アビメレクは、サラとまだ新婚初夜を迎えていなかった・・・

レビ記18:6 私訳
あなたは、自分の近親者と体の関係を持ってはならない・・・

レビ記18:14 私訳
自分のおば、すなわち父親の兄弟に嫁いだ女性と、体の関係を持ってはならない。それは、叔父を侮辱することである。

レビ記18:19 私訳
女性が月経によりけがれがある間、体の関係を持ってはならない。

レビ記20:16 私訳
もし、女が動物と体の関係を持つことがあれば、その女と動物を殺さなければならない・・・

申命記22:14 私訳
・・・「結婚し初夜をむかえたが、妻には処女のしるしがなかった」・・・

それぞれ『男性』+『女性』+『カラブ』という構成(コロケーション)が共通していることが分かります。次のイザヤ書8:3も、同じ表現形式になっています。

わたしは女預言者に近づいた(カラブ)・・・

従ってイザヤ8:3も『カラブ3点セット』表現なので、『近づいた』ではなく『体の関係を持った』という意味になります。かつ『出産4点セット』表現でもあるので『イザヤと奥さんとの間に子どもが生まれた』という内容になっています。リビング・バイブルを見てみます。

やがて妻はみごもり、男の子を産みました。リビング・バイブル

ところで『この訳文には、体の関係を持つという表現がないけど、それでいいのか?』と疑問を持たれる方がいるかも知れないので、説明をさせていただきますが、この訳文で問題ありません。ヘブライ語『カラブ』は、夫婦が体の関係を持つということを意味する、婉曲表現として使われています。『体の関係を持つ』というのは露骨な表現なので、ヘブライ語ではそういうストレートな言い方をしないということです。日本語でも『体の関係を持つ』という表現は露骨な表現として忌避されます。

日本語ネイティブであれば『やがて妻はみごもり、男の子を産みました』という文は『イザヤと奥さんの間に、こどもが生まれた』という理解をします。『夫婦が体の関係を持った』という表現を省略しても、『夫婦の間に子どもが生まれた』という意味に変わりはありません。リビングバイブルは、ハイコンテクストとして訳出したもので、これはきちんとした翻訳テクニックです。学校英語では、ハイコンテクストに訳出する方法やローコンテクストに翻訳するテクニックは教えません。直訳英語が成り立たなくなることは都合が悪いからです。

以上をまとめると、8章3節の『カラブ』は『体の関係を持つ』ことを意味する、婉曲表現であるということ、また、ヘブライ語で『夫婦の間に子どもが生まれた』ことを意味する定型表現になっていることが分かります。カラブを『近づいた』と直訳するのは間違いです。


~女預言者ではない~

以下、ヘブライ語nebiah(ネビーアー)の解釈について記述します。イザヤ書8:3、ネビーアーという語が『女預言者or預言者の妻』と訳されてきました。ネビーアーがどういう意味なのか、長い間、難解な箇所だといわれてきましたが、この単語の解釈も、輪郭を捉える方法を使い解釈してみます。

ヘブライ語の名詞『nebiah』は、旧約聖書の中で6か所使われています。その中で、女預言者がどのように記述されてるか見てみます。女預言者フルダと、女預言者ノアドヤの箇所に、共通する表現形式があることに気が付くでしょうか?

列王記下 22:14~15
祭司ヒルキヤ、アヒカム、アクボル、シャファン、アサヤは女預言者フルダのもとに行った。彼女はハルハスの孫でティクワの子である衣装係シャルムの妻で、エルサレムのミシュネ地区に住んでいた。彼らが彼女に話し聞かせると、彼女は答えた。「イスラエルの神、主はこう言われる・・・

ネヘミヤ 6:14 
わが神よ、トビヤとサンバラトのこの仕業と、わたしを脅迫した女預言者ノアドヤや他の預言者たちを覚えていてください。

ネヘミヤ記は『女預言者ノアドヤ』となっていますが、この文脈では『いつわりの女預言者ノアドヤ』という意味です。nebiahには、いつわりの女預言者という意味もあるので、訳語のミスでしょう。

旧約聖書で女預言者の記述をする場合『女預言者』+『名前』+『活動内容』という表現がセット(コロケーション)になっています。もし、イザヤ書のネビーアーが女預言者という意味であれば『ネビーアー3点セット』で表現されていたはずですが、そうではないので、イザヤ書における『nebiah』は『女預言者』という意味で使われていないことが分かります。

しばしば『イザヤの奥さんは女預言者であった』と解説する方もいますが、イザヤの奥さんが女預言者であったという記述は、どこにも書かれていません。もしイザヤの奥さんが女預言者であれば、ネビーアー3点セットで書かれていたはずです。『イザヤの奥さんは女預言者であった』というのは偽りの解釈です。


~預言者の妻ではない~

『nebiah ネビーアー』を『預言者の妻』であると解釈する訳文があります。そのような解釈は更に不可能です。エゼキエル書を引用して説明させていただきます。

エゼキエル24:18
朝、わたしは人々に語っていた。その夕、わたし(エゼキエル)の妻(ishshah)は死んだ。

預言者エゼキエルは自分の妻を『ishshah イッシャー』と記述しています。もし『nebiah』に預言者の妻という意味があるならば、エゼキエルは『nebiah』と記述していたはずですよね。旧約聖書の中で『nebiah』を、『預言者の妻』という意味で使っている箇所は、どこにもありません。そもそも、ネビーアーというヘブライ語に、預言者の妻という定義は存在しないのです。

イザヤ8:3を従来は『イザヤが不倫関係にあった愛人に子どもを生ませた』と直訳してきたのですが、『これじゃおかしいよね』ということで、後世の翻訳者が『ネビーアー=預言者の妻』という新たな定義を、勝手に付け足したのです。『私は預言者の妻と性的関係を持った』・・・これでもまだ、イザヤが不倫をしたという意味になりますが、新たな解釈として、イザヤ自身預言者であったので『預言者の妻=イザヤの妻』と強引なこじつけができるようにしたのです。この解釈ができればイザヤは不倫をしたのではないと言うことができます。しかし『ネビーアー=預言者の妻』という定義は、後世の聖書学者がねつ造したものです。

『イザヤは不倫をしていた』と解説するデタラメ神学者、『ネビーアー=預言者の妻』とありもしない定義を勝手に付け加える聖書学者、こうした人たちが聖書を翻訳(創作)しており、日本語訳は『イザヤ不倫説』を100年間守り続けているのです。なぜこのような愚かなことが起こるのでしょう?理由は明らかです。言語学、心理学、異文化コミュニケーションといった基礎的な学習をしていないということ、そして翻訳スキルが身に付いていないからです。

『聖書が誤訳されているなどという批判はけしからん!』と目くじらを立てる方。又は『日本語に翻訳された聖書は、ほとんど正確に翻訳されています。問題ありません』と、まやかしの安全宣言を出す方は、決まって神学者、聖書学者と言われるセンセイのようです。翻訳の間違いを過小評価し、もみ消そうとしているかのように見えます。『イザヤ書8章~』『ルカによる福音書16章』の記事をお読みください。決して小さな間違いではありませんよ。

東日本大震災で、原子力発電所が爆発、メルトダウンしたにも関わらず『爆発はしていません。メルトダウンしていません。放射能汚染はありません』と、東電や政府は事実を隠ぺいしていましたが『シモジモの国民には、本当のことをしゃべるな!黙ってりゃ奴らには分からないんだから』と、国民をバカにした対応と似てるなあ、頭のいいセンセイ方が集まって作る組織って、対応の仕方が同じなんだなあと感じます。世間の人が不信感を抱いたり、風評被害が起こるというのは、正確な情報を開示しないということが一番大きな原因です。責任ある立場の人には、誠実さ(pistos)が要求されるんじゃないでょうか。話しは逸れますが、従来の日本語訳は一コリ4:2を『管理者には、忠実であることが要求されます』『ピストス=忠実』と直訳してきましたが、文脈から判断すると『誠実』の方が相応しいと思います。

聖書の訳文について手厳しい批判もしていますが、誤解しないでいただきたいのですが『間違っちゃったこと』を責めてるのではないのです。『間違っちゃった』事実を隠ぺいするかのごとく、翻訳理念を持ち出して『トランスペアレントが良い、直訳が正しい翻訳方法だ』と、デタラメを言う。あたかも黄門さまが印籠を突き出すように、翻訳メンバーの学者の肩書を持ちだし、権威ある委員会なんだぞと取り繕う。こういう姑息(こそく)な態度が鼻持ちならないのです。

『持てる力は尽くしたつもりですが、解釈困難な箇所、訳文として辻褄が合わない箇所もあります。お気づきの点があれば、読者諸氏の建設的な助言を委員会までお寄せいただけるとありがたく思います。検討の上次の改定に役立てさせていただきたいと思います』と、どうして言えないのでしょう。聖書翻訳に対し、専門家として自信がないからではありませんか?

『実るほどこうべを垂れる稲穂かな』ということばがありますが、新改訳の翻訳理念、ニュースレターの報告を見ると、から威張りしているという印象で『実のない稲穂』のように見えて仕方ないのです。どんな仕事でも、信用を得るということが大切です。人の信用を得るためには、頭の良し悪しよりも、誠実さ(pistos)があるかどうかが大切だと私は思います。学問、仕事、スポーツなどどんな分野でも、誠実さ、謙虚さのない人が向上することはありません。能力がない上に誠実さもない。それでは、箸にも棒にもかかりません。

聖書翻訳は、巨額のお金が動くビッグ・ビジネスです。一般の方の、献金、寄付という形でまかなわれている部分もあるのですから、ニュースレターやウエブサイトで収支報告を公表し、仕事内容と支払われた金額が見合ったものなのか閲覧できるようにしていただきたいものです。社会の指導的立場にあった律法学者が、地位、お金のとりこになり、また離婚再婚を繰り返していたことを、イエスさまは厳しく糾弾しました。いつの時代もお金と名誉が人を堕落させます。翻訳団体は、翻訳に対してもお金に対しても誠実さを持っていただきたいものです。

話しを戻します。イザヤ8:3の『nebiah』は、表現形式から判断して『女預言者』という意味で使われていない、また『nebiah』には『預言者の妻』という定義が存在しないということです。


~残る解釈方法~

ヘブライ語の名詞は、動詞から派生しています。名詞ネビーアーは、動詞ナーバーから作られています。



名詞ネビーアーに、3つの定義があることが分かります。翻訳者は、文脈に合わせ適切な訳語を選択しなければなりません。さて、出エジプト記で『女預言者ミリアム』と訳された個所がありますが、『女預言者ミリアム』と訳されてきたことは誤りで、別の訳語を選択しなければなりません。

出エジプト15:20 新共同訳
アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。

ここは、主がエジプト軍を壊滅させたことに感謝し、モーセの姉ミリアムが喜びの歌を歌った場面です。日本語訳では『女預言者ミリアム』と訳されていますが、読んで違和感を感じないでしょうか?ミリアムが預言者として召されたという記述はどこにもありません。また、ミリアムはアロンと一緒にモーセに言いがかりをつけたことで主に叱責され、重い皮膚病を患い1週間の追放処分を受けています。これが預言者に相応しいできごとだったのでしょうか?元々ミリアムは預言者ではありません。出エジプト記の文脈を見れば、女預言者ミリアムと訳すことは間違いだと分かるはずです。

ネビーアーには、神の霊を受けた女という意味もあります。出エジプト15章は、次のように訳出しなければなりません。

出エジプト15:20 私訳
アロンの姉ミリアムに主の霊がくだった。ミリアムがタンバリンを持つと、他の女たちもタンバリンを持ち、踊りながらミリアムの後に続いた。

次の士師記も『女預言者デボラ』と訳されていますが、これも誤訳です。

士師記4:4 新共同訳
ラピドトの妻、女預言者デボラが、士師としてイスラエルを裁くようになったのはそのころである。

士師記4:4 私訳
ラピドトの妻デボラが主の霊を受けて士師となり、イスラエルを裁き始めたのはこの時以降である。

デボラがもし女預言者であれば、預言者としての活動内容が書かれていたはずですが、ヘブライ語テキストには、デボラが女預言者であったことを示す記述はないのです。デボラは女預言者ではありません。

イザヤ8:3のネビーアーも、神の霊を受けた女という意味で、次のような解釈になります。
私訳 主の霊を受けた妻は身ごもり、のちに男の子を産んだ。

ネビーアーの定義に三つの意味があるのですから、翻訳者は文脈に合わせて適切な訳語を選択しなくてはならないのですが、日本語訳聖書の訳文を見ると、どのような文脈でも『女預言者』以外の定義は選択しないという訳し方になっています。日本の翻訳者は、直訳、一語一訳主義で理解するため『ネビーアー=女預言者』と訳語を固定していることが分かります。全く愚かなことです。イザヤ8:3が誤訳になったのは『カラブ=近づく』『ネビーアー=女預言者』と、直訳(トランスペアレント訳)したことが原因です。


~原文放棄~

以上の解釈をまとめると、イザヤ書8章3節が語るのは、次の内容になります。

私(イザヤ)は妻と体の関係を持った。妻に主の霊がのぞんだ。妻は身ごもり、のちに男の子を産んだ・・・

これはヘブライ語の解釈文で、訳文ではありません。解釈文と訳文は違います。解釈文のままでは、日本語として稚拙で不自然な表現です。この次、原文放棄という処理をして、訳文を作ります。

解釈文のイメージを頭の中で描きます。この時、ヘブライ語の語感、意味、文法など、ヘブライ語の特徴を全て頭の中から消し去ります。残されたイメージに最も近い、日本語表現は、次の文になります。

私は妻と枕をともにした。主の霊を受けた妻は、のちに男の子を産んだ。・・・

『ネビーアー=女預言者』とトランスペアレントにしたため誤訳になった個所を、次の図にまとめました。



新改訳は『直訳が良い。トランスペアレントが良い』と言っていますが、上の表をご覧いただければ、デタラメだということがお分かりになるでしょう。『翻訳には翻訳者の解釈が入るので、様々な訳文ができるのは仕方ないことだ』と言われる方がいますが、様々な訳文ができてしまう一番の原因は、翻訳スキルが低いことが原因です。直訳、意訳、両者を混合させた翻訳手法というのは低いレベルの翻訳ですが、翻訳スキルがないから、よりどりみどりの訳文になるのです。翻訳スキルの低い翻訳者と高い翻訳者が協議をしても、全く話しが噛みあわないのですが、スキルの高い翻訳者同士であれば、どのような訳文になるか一致点を見いだすことが可能です。一字一句まで同じ訳文になることはありませんが、原文の意図を理解するという点においては、一致できるものです。


~関係を壊す通訳者~

私は、あるマイノリティーが使う外国語の通訳をしてきましたが、まだ駆け出しだった頃、尊敬する先輩から、次のような話を聞かされました。

『通訳というのは、通訳者のことばを通して、人と人とをつなぐ仕事なんだけど、通訳者が入ることで、かえって人間関係を壊してることがある。通訳者のことばが、稚拙であったり、意味不明であったりすると、聞いた人は、通訳者に問題があるとは思わず、話し手の知的レベルが低いんだと誤解することがある。特にマイノリティーの言語通訳は、気を付けなくてはならない。通訳者のことばが意味不明だと、聞く立場にあるマジョリティーは、話し手のマイノリティーは、知的レベルが低いのだろうとか、常識がないのだろうと誤解する傾向が強くなる。通訳者がマイノリティーの、人格や人権を損ねていることがあるのだが、ことの重大さに気づかない通訳者が少なくない』とのことでした。

この話を聞き、そんなことがあるのだろうかと半信半疑でしたが、この方が言っていたことは真実で、通訳や翻訳に携わる人にとって、忘れてはならないことだということが分かりました。

ところで、聖書の翻訳はどうでしょうか?『イザヤは不倫をして子どもを生ませた』という訳文は、イザヤの人格を傷つけるものです。聖書が意味不明な訳文になっていたら、読者は『言うこと、なすことがナンセンスな神さまだな』という誤解を与えることになるのではないでしょうか?折角翻訳された日本語訳聖書が、神さまと日本人との関係を損なうものにならないことを願います。

神学者の中には、イザヤ書8章3節を次のように解釈する方がいます。『イザヤが預言をしていた当時、隣接する異国の宗教には神殿男娼がいて、預言者階級の子孫継承のため複数の女性との重婚、乱交があった。イザヤもこうした外国の影響を受け、他人の妻と乱交をしていたという意味であろう』。こうした目を疑うような聖書解釈ができあがるのは、聖書翻訳の誤りが原因です。神学者、牧師、信徒も翻訳された聖書を読むのですから、翻訳が誤っているということは、大きなダメージを与えます。

私自身気を付けてきたことですが、絶対やってはいけない誤訳というのは、話し手の人格を棄損する通訳(翻訳)だと思います。通訳や翻訳に携わる方には、重い社会的責任があるんだということを忘れないでいただきたいのです。



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