聖書と翻訳 ア・レ・コレト

聖書の誤訳について書きます。 ヘブライ語 ヘブル語 ギリシャ語 コイネー・ギリシャ語 翻訳 通訳 誤訳

(000)ごあいさつ、そしてブログの趣旨について

2018年04月24日 | あれこれ




<(_ _)> 初めまして『黒帯』と申します。押忍!

このブログは『日本語訳聖書は、あちらこちら誤訳されてるぞ!』という記事を載せてゆきます。私は、ヘブライ語もギリシャ語も習ったことがない、ズブの素人で、神学も全く分かりません。しかしながら、ある外国語の通訳を長年やってきたので、外国語を学習する時のセオリー、外国語を通訳(翻訳)する時のセオリーは、身に付けてるつもりです。それが本物か、ニセモノか、誤訳を指摘した記事を読んでいただければ、分かる人には分かるでしょう。

因みに、聖書を翻訳するのに神学の知識は全く要りません。多くの方が『聖書翻訳には、神学の知識が必要だ』と思っているようですが、これは誤解です。神学を勉強することが悪いのではありませんが、神学を物差しに翻訳することが悪いんです。神学を基準に翻訳すると、自分の教派に都合のよい、歪められた翻訳が際限なく生まれます。翻訳者が物差しとしなければならないのは、あくまでも、現代言語学の知識と翻訳(通訳)理論です。それと心理学が少々。こうした知識を頭で理解するだけでは不十分で、トレーニングを重ね体で覚えることが欠かせません。

神学の知識が先入観になり、原文解釈を歪めることになるようではダメです。従来の日本語訳聖書は誤訳が多く、版を重ねても、殆ど訂正されることはありません。神学を基準に解釈するからです。翻訳作業に神学は要らないというのは、当たり前のことなんです。翻訳者は、時に、神学の矛盾を鋭く指摘する、そうした気概で翻訳作業にあたって頂きたいものです。もうこれ以上、神学におもねる翻訳聖書は要りません。



この記事の目次
・『聖書の誤訳』について書くことになったきっかけ
・隠ぺいする学者と無知な信徒
・神に従うのか?コミュニティー(組織)に従うのか?
・暖かいまなざしと、分かりやすいいことば



(?_?) 『聖書の誤訳』について書くことになったきっかけ

現在、私が所属しているのは、プロテスタントの教会で、教会は日本福音キリスト教会連合(JECA)に加盟しています。教会で使用している聖書は、聖書刊行会の新改訳聖書を使ってきました。長い間その聖書を読んできましたが、意味がよく分からないため、モヤモヤした気持ちで読むことが少なくありませんでした。意味が分からない本を読むって、苦痛じゃありませんか?しかし、そのように感じるのは、自分の信仰不足、知識不足、忍耐のなさだと、長い間自分に言い聞かせていたのです。

私は、自分が手にする聖書を『神のことば』として向き合ってきたつもりです。また、『聖書翻訳は、ヘブライ語やギリシャ語に関し、日本で最高の腕を持つ翻訳者がおこなっている』と思っていたので、聖書に誤訳があるなんて思ってもみませんでした。仮にあったとしても、些細な間違いで、大きな問題になるような誤訳はないと信じていたのです。聖書を原語で調べるまでは。

聖書を創世記から順番に読み進めるのが、私のやり方ですが、イザヤ書8章を読んだ時、全く理解できませんでした。その時使っていたのが新改訳第三版だったので、以下、第三版の訳文を載せます。読んで意味が分かるでしょうか?

新改訳第三版 イザヤ書8章1~10節
1 主は私に仰せられた。「一つの大きな板を取り、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため』と書け。
2 そうすれば、わたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤをわたしの確かな証人として証言させる。」
3 そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。すると、主は私に仰せられた。「その名を、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と呼べ。
4 それは、この子がまだ『お父さん。お母さん』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである。」
5 主はさらに、続けて私に仰せられた。
6 「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。
7 それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、
8 ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」
9 国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ。腰に帯をして、わななけ。
10 はかりごとを立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それは成らない。神が、私たちとともにおられるからだ。


何を言わんとしているのか理解できません。新共同訳、口語訳、文語訳は若干の違いはありますが、やはり読んでも意味が分かりません。いくつか解説書を見たのですが、見解がバラバラ。日本語や英語でウエブサイトを検索してみても、これまた、解釈がまちまちでした。止むなく、ヘブライ語を調べてみることにしました。これが、聖書を原語で調べ始めたきっかけです。因みに、イザヤ書8章を調べ、私が作った翻訳は次のようになります。

私訳 イザヤ書8章1~10節
1 主は私にお命じになった。「大きな石の板一枚と砥いだノミを用意し『マヘル・シャラル・ハシ・バズ(略奪の日は迫っている。はく奪の日はすぐにも訪れる)』と刻め」。
2 私は、この作業の立会人として、誠実な人物である、祭司ウリヤと、エベレキヤの息子であるゼカリヤの二人を呼んだ。
3 その後、私は妻と枕をともにした。主の霊を受けた妻は、のちに男の子を産んだ。主は私に言われた。「その赤ん坊をマヘル・シャラル・ハシ・バズと名付けよ。
4 赤ん坊が『パパ、ママ』としゃべり始める前に、ダマスコとサマリヤの財産は、アッシリヤ軍によってことごとく奪われるだろう」。
5 また、主は言われた。
6 「ユダ族は、今までエルサレムを潤してきたシロアハ※1 水道の水、すなわち、主である私のことばに背を向けた。そして、シリヤの王レツィン、及びイスラエルの王ペカらが向かう滅びの道に、自ら足を踏み入れた。
7 よく聞け。主は、ユーフラテス河に洪水を起こさせる。無敵と呼ばれる誇り高いアッシリヤの軍隊を。兵士たちは、帝国内の川を渡り、川岸をのぼり現れる。
8 川の水かさが増し、あふれだすように、国境を越えユダの領土に攻めはいり、首都エルサレムをのぞき、ユダの全土を制圧する。神が共にいるといわれた※2、この土地を」。
9 遠くの国々よ※3、悪事を企てろ※4。しかし、台なしになる。よく、覚えておけ。武装を固めろ、しかし大敗を喫する。武装を固めろ、しかし大敗を喫する。
10 謀議をはかれ。しかし、実現しない。その、ひとことたりとも、実現しない。神、我らと共にいる※2 からだ。


脚注
※1 ヘブライ語で(ギホンから)送られてきた(水)という意味
※2 ヘブライ語でインマヌエル。『神われらと共に』という意味。選民イスラエル、救い主降誕、を意味することもある。
※3 さまざまな解釈があるが、『悪事を企てろ』『謀議をはかれ』ということから『北イスラエル、シリヤ連合国』を指すと思われる。
※4 ここはヘブライ語のraw-ahであるが、ほかに『連合せよ』『悲鳴をあげる』『破壊される』と訳すものもある。
5~10節は、word-for-word(字義通りの翻訳)とthought-for-thought(意味の再現に重点を置いた翻訳)、二つの訳し方がありますが、ここに載せたのはthought-for-thought(意味の再現に重点を置いた翻訳)です。


新改訳と比べ、全然違うでしょ。ちょっとやそっとの違いじゃありませんよね。更に、聖書の誤訳は、8章にとどまりません。8章で、インマヌ・エル(神われらと共に)、qarab(夫婦の営み)、nebiah(主の霊を受けた女)などのことばが誤訳されていますが、これらのことばは、イザヤ書以外の、創世記、出エジプト記、レビ記、申命記、士師記、ネヘミヤ記・・・でも使われています。調べてみるとそれぞれの書簡でも誤訳されていることが分かりました。この様に、誤訳された個所を、1個所つまみあげると、芋づる式に次から次へと誤訳が掘り起こされてゆく。そういう現象が必ず起こります。日本語訳聖書は、信じられないほど誤訳が多いんです。

さて、イザヤ書8章1~10節がどんな誤訳になってるか、かいつまんで説明させていただきます。8章が書かれた背景に、『イスラエルもユダ族も、主なる神を捨て、異教の神々に従った。自分の子どもを、生贄(いけにえ)とし、異教の神々に捧げてきた』ということがありました。それを受け、8章1~10節で、ユダ族やイスラエルに対し『神の裁きの宣告』が下されたということです。

ところが、新改訳を見ると、正反対の解釈をしています。
7 それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、
8 ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」


『すべての栄光がユダ族の上にあふれる』そして『インマヌエル、ああ救い主よ。あなたは翼を広げユダ族の国土を守ってくださる』こういう訳文なので、読者は『ユダ族に良いことが起こるんだ。神さまはユダ族を救ってくださるんだ』と理解しますよね。ウエブサイトを見ると、あるセンセイは『神はインマヌエルの神だから、罪深い者であったとしても、神はその民を守るという解釈でいいのだ』と仰っていました。一見すると筋の通った解釈に見えるかも知れませんが、もし、このセンセイの解釈が正しいのであれば、罪深い自分を捨て神に立ち返ることに何の意味があるのでしょうか?『不道徳な生き方を続けても、神さまが守ってくださるんだって!ハメを外して楽しもうぜ!』こういう生き方を奨励することになるのではありませんか?これがユダヤ教徒やキリスト教徒が持つ人生観、倫理観なのでしょうか?元になる日本語訳聖書が誤訳されてるため、とんでもない解釈が生まれるのです。こういうデタラメな聖書を、神学者や聖書学者は『原典に忠実な、日本語訳聖書』だと偽り売っているのです。呆(あき)れたものです。

一方、従来の解釈に異議を唱える先生もいます。山岸登著『イザヤ書解説』エマオ出版の本を見ると、日本語で『栄光』と訳された言葉は軍隊の意味である。『広げた翼』はインマヌエルの翼ではなく、アッシリヤを指すという解釈をされています。細かい部分では私と異なる解釈をされていますが、罪を悔い改めないユダ族に神は裁きを下すという大きな輪郭は同じです。

また、尾山令仁訳『聖書現代訳』も同様の解釈をしており、8節『(アッシリアの王は)ユダに流れ込み、すべてを押し流して、ついには首にまで及ぶ。この国は神が共におられる国なのに、アッシリヤ軍はこの国の隅々までも侵略する』と訳出しています。現代訳は『翼』という比喩の意味をくみ取り『アッシリヤ軍』と訳出しています。ヘブライ語immanu-elは、救い主という意味ではなく『神が共におられる国』と訳出し、immanu-el(神は我らと共に)が、eretz(国土、領土)を修飾しているという関係を正しく理解しています。イザヤ書8章5~10節に関していえば、尾山令仁師の解釈は、非の打ちどころがありません。


新改訳は『原典に忠実な翻訳』『トランスペアレント訳(直訳)』をキャッチフレーズにしていますが、実は、デタラメな文法解釈がおこなわれています。
新改訳第三版
8 ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」


『インマヌエルが翼を広げた。その翼はユダ族の国土に広がる』となっていますが、ヘブライ語を見ると『翼を広げた』のは『アッシリヤ軍』です。『アッシリヤ軍が翼を広げた』が正しい解釈で、『インマヌエルが翼を広げた』なんて、文法上あり得ません。私みたいなヘブライ語初心者でも見抜ける、イカサマです。新改訳の翻訳委員会は『インマヌエル(救世主)がユダを救った』という訳文を、どうしてもこしらえたかったようです。私には分かりませんが、それが神学上正しいと判断したのでしょうかね?自分が支持する神学に適合させ、主語を入れ替え作為的な異訳をおこなう。神学を物差しに翻訳すると、こうした誤訳が際限なく生まれます。翻訳者が原文(神のことば)を自分にとって都合のいいようにコントロールしているのです。プロの翻訳者としてあるまじき愚かな行為で、翻訳者失格です。信仰者としても由々しきことじゃありませんか(黙示録22:18~19)。こうした事実を、多くのクリスチャンは知らされていません。イザヤ書8章を調べたことが、『聖書の誤訳』について書くきっかけになりました。

新共同訳 黙示録22:18~19
18 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
19 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。




(*_*; 隠ぺいする学者と無知な信徒

日本の神学者(聖書学者)、牧師の多くは、日本語訳聖書に誤訳があることを、ひたすら隠そうとします。仮に誤訳があっても、問題にならないような些細な個所だと偽るのです。多くの信徒は、原語で聖書を解釈することができないので、学者や牧師がいうことを、鵜呑みにするほかありません。日本語訳聖書に誤訳がないのではありません。誤訳はあるのですが、そのことを多くの信徒は知らされていないだけなんです。こうした『隠ぺいと無知』の体質は、キリスト教会の悪しき伝統で、延々と受け継がれて来ました(例外もあるかも知れませんが)。これは全く不健全なことで、神さまが望まれる教会の姿ではないと、私は思います。次のサイトに『隠ぺい体質と信徒の無知』が表れています。


Yahoo 知恵袋より引用

聖書は何度も訳されてきましたが、この度発刊された新改訳2017でもキリスト教徒でさえ「明らかに誤訳」と言っている箇所が直されていませんね。

「昔からの馴染みがある言葉だから変えるのはイヤ」
「本当の意味は説教で聴けるから問題ない」
「聖書に注釈があるから読めばわかる」

という理由で、新しい信徒にも「理解のし難さ」を強いるという、あまりにも「人に優しくない」ことを未だに行なっていることに、キリスト教の閉鎖性を感じます。

このようなことをしているから、キリスト教徒は「誰にでもわかる言葉」で説明できず、自ら宣教・伝道を困難にしているのではないでしょうか?



この問題提起をされた方は、日本のキリスト教会が抱える問題の本質を突いています。見事な指摘です。事実、新改訳2017も多くの誤訳が含まれているので、このことは、具体的に記事にする予定です。さて、この問題提起に対し、コメントが寄せられていますが、『2017に誤訳はない。どこが誤訳なのか具体的に指し示せ』といったものが多数です。また、自分の信仰が脅威にさらされたと感じるのでしょう。まるで怒り狂ったハチが集団になって敵を攻撃するように、多くのクリスチャン(らしき人?)が、寄ってたかって反撃しています。『おい!勝手にパンドラの箱を開けるな!』と言わんばかりです。これは、隠ぺい気質ですよね。

冷静になって『知恵袋』に寄せられたコメントを読んでみてください。残念ながら、自分の主張することを、順序立てて『2017に誤訳はない』と説明している人は、一人もいません。寄せられたコメントのほとんどは『感情的な反撃』に過ぎないもので、誤訳があるかどうか知りもしないのに、誤訳はないと思い込んでる方が多いのです。無知で組織に従順な信徒がこんなにも増えたのは、ひとえに、キリスト教会が、聖書の誤訳について『隠ぺいと無知』の構図を固く守ってきたおかげです。

ネット上のこうしたやり取りを、クリスチャンでない方が見たらどう思うでしょう?『やっぱり、宗教やってる奴って狂信的な面があるな』『宗教って怖いな』こういう印象を、世間に与えることになりませんか?これじゃあ、福音宣教(マルコ16:15)の足を引っ張る行為じゃないでしょうか?

新改訳2017 マルコ16:15
それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。


福音宣教は、感情的な攻撃でおこなうものでしょうか?寄ってたかって袋叩きにすることでしょうか?自分の知識をひけらかすことでしょうか?神に従い、人を愛することを、自分のことばと自分の行動で、日々示すことだと、私は思います。自分はイエスさまの弟子であると自認するのであれば、イエスさまのことばと行動を真似るべきですよね。クリスチャンというのは、神学者や牧師の弟子じゃないはずです。

子どもは2~3歳になると『なぜ?どうして?』を連発するようになります(質問期)。子どもは、興味を抱いた人や物を、理解しようとして『なぜ?どうして?』と尋ねます。こうして、自分の価値観や世界観の基礎を作るのです。教会に通い聖書を読むようになると『なぜ?どうして?』という疑問がたくさん生まれますよね。これは至って健全なことです。この疑問に真摯に向き合ってきた人と、そうでない人とでは、同じクリスチャンでも、成長に違いがでるような気がします。『牧師が~といっていたから』『~がキリスト教のオーソドックスな解釈だから』『神学上~が正しいから』こうした根拠不明な理屈で、自分の疑問を封印してきたとしたら、勿体(もったい)ないことです。自分が心から納得し、腑(ふ)に落ちる答えに出会うまで、疑問は持ち続けることをお勧めします。素直に疑問を持つことは不信仰ではありません。健全で、自然な心の働きです。信仰を持っていない方や求道者の質問は、純粋な疑問が多いものです。単純で純粋な問いかけほど、物事の本質に迫るものだと思います。疑問を持つことを恥じないでいただきたいし、疑問を持つ人を小馬鹿にするようなことを言っちゃダメですよ。『隠ぺいと無知』の体質は改めるべきです。



(?_?) 神に従うのか?コミュニティー(組織)に従うのか?

一信仰者として自問自答していただきたいのですが、『クリスチャンは、聖書に従うべきでしょうか?神学に従うべきでしょうか?』『イエス・キリストを信じるべきでしょうか?神学者を信じるべきでしょうか?』。私は、聖書に従い、イエス・キリストに従います。ところで、同じ質問を、神学者や牧師に投げかけたら、どうなるでしょう?躊躇(ちゅうちょ)することなく『聖書に従う、イエス・キリストに従う』と答えられるでしょうか?もし、心に動揺が生じるようであれば、いま一度自分自身を吟味することをお勧めします。いずれ記事で明らかにしてゆきますが、マユツバものの神学や聖書解釈が結構あるんです。神学なんて所詮(しょせん)人間が考えたものですから、間違いがあって当然じゃありませんか?間違っていたら、訂正をすればいいんです。それだけのことです。ところが、頭でっかちのセンセイは、間違いを認めようとしません。神学に間違いがあるなんて、口が裂けても言えないようです。こうしたセンセイは『誠実さ pistos』ということばを、どこかに置いてきたようです。

ウエブサイトを見ると、恐らく『従来の翻訳聖書は正しく翻訳されている』ということを立証したいのでしょう。神学者が書いたレポートを引用し、既存の翻訳は間違っていないという方がいます。ところで、神学者って、言語学や翻訳の専門家なんですか?神学者は、神学の専門家で、言語学や翻訳論の専門家じゃありませんよね。言語学や翻訳について素人(神学者)が書いたレポートを引用すること自体、おかしいんです。どうして『現代の言語学理論や翻訳理論』を、引用しないのでしょう?理由は明らかです。そんなことしたら聖書の誤訳が、次から次へと明らかになり、日本語訳聖書の信憑性(しんぴょうせい)が根底から覆(くつがえ)されるからです。

日本の神学者(聖書学者)の中で、言語学や翻訳論を引用し、聖書翻訳を論じたのは、尾山令仁師だけだと思います。殆どの神学者は、現代言語学や現代の翻訳理論を勉強していません。神学校の授業では、ヘブライ語やギリシャ語を教えてはいますが、言語学や翻訳理論、異文化コミュニケーションの授業はないはずです。ですから、日本の聖書翻訳者は、言語学や翻訳理論といった基礎的な知識を持っていない、そういう方がほとんどだと思います。

しかし、一般に通訳者翻訳者を志す人であれば、言語学や翻訳理論、異文化コミュニケーションを必ず勉強するんです。ですから、翻訳の正誤を議論する場合、『現代の言語学や現代の翻訳理論を根拠』に、主張を組立てること。これは当たり前のことで、どの言語の通訳翻訳についても言えることです。

ところがです。聖書翻訳の分野に限って、こうした常識が通用しなくなります。神学者は、ソシュールの言語分析や、ナイダの翻訳理論が、だいっ嫌いです。何故なら、聖書翻訳は、代々翻訳の素人(神学者)が、お粗末な直訳で翻訳してきたのですが、現代の言語学や翻訳理論で検証されると、誤訳悪訳をおこなって来たことが世間にバレてしまうからです。そして、聖書翻訳というビッグビジネス(商売)が、神学者の既得権益になっていて、神学者はこれを手放したくないからです。

神学者は、言語学や翻訳理論について、正面切って議論する力がありません。言語学や翻訳理論について勉強していないからです。そこである神学者が思いついたのが「ソシュールやナイダの理論は『悪魔の理論だ。唯物的思想だ』と、汚名を着せること」なんです。このデマは神学者の間に、瞬く間に広がりました。ところで、聖書に『言語の恣意性や、等価翻訳法』が悪魔の思想だと書いているでしょうか?そんなこと書いていませんよね。一般の言語学者、通訳翻訳者が、ソシュールやナイダの理論を『悪魔の理論だ。唯物的思想だ』といってるのを、聞いたことありません。こんな子どもじみた悪口をいうのは、神学者、聖書学者、聖書翻訳者だけです。『聖書信仰のクリスチャン・・・1』  『聖書信仰のクリスチャン・・・2』
神学者たちが、如何に卑怯な手口を使うかお分かりになったでしょうか。

現代の、言語学理論、翻訳理論を『悪魔』呼ばわりし、それに同調する動きは学問を逸脱し、カルトです。ガリレオ・ガリレイは、地動説を主張し異端審問で裁かれました。魔女裁判で、無実の人を含め数万人が処刑され、ウイリアム・ティンダルは、英訳聖書を作ったことで処刑されました。こうした野蛮なカルト裁判は、イエス・キリストや聖書とは関係ありません。しかし、教会の偉い人が『そいつは悪魔だ』といえば、無実の人を裁判にかけ処刑することができたのです。こうした野蛮な行為をキリスト教会はおこなって来たのです。ところで、現代のキリスト教会は過去の過ちから、教訓を得ているでしょうか?得ていないようです。ソシュールやナイダの理論を『悪魔思想、唯物的思想』と烙印を押すあたりは、現代版異端審問ではありませんか。現代の神学者コミュニティーの中で、こうしたことが起きています。神に従うことよりも、(神学者)コミュニティーに従うことが大切になった時、教会は再びカルト化するのです。



(^v^) 暖かいまなざしと、分かりやすいいことば

最近ネットで見る『キリスト教入門』や『聖書入門』は、なかばカルチャー講座化して、知識の詰め込みや教養講座になっていることが、気がかりです。『これはヘブル語で~といいます。覚えてくださいね』『これは英語で~というんです。知っていますか?』みたいな口調で、聴衆(読者)を小ばかにしてるんじゃないかと、思わせるものがあります。ご本人はそういうつもりじゃないのかも知れませんが、見ていて実に不愉快に感じるものがあります・・・ハッキリ言わせてもらうと、胸くそ悪いです。

私のような頭の悪い人間は『教会って敷居が高いなあ。覚えることが沢山あって大変だなあ。頭のいい人じゃなきゃクリスチャンになれないんだなあ』と劣等感で小さくなってしまいます。『教会に行ってみたけど、何か敷居が高くてさ。自分には向かないな』こういうことばを聞くと、私は胸が痛みます。イエスさまも同じ気持ちでいるはずです。教会は、頭のいいインテリが集まればそれでいいんでしょうか?教会は敷居が高い。世間にこうした印象を与えているということを自戒し、もっと慎むべきじゃありませんか?YouTubeを見ると、講壇の上で、自分の知識をひけらかし、聴衆の無知を小ばかにするような説教者を見ますが、果たして、イエスさまが、講壇に立ったとしたら、うぬぼれた語り口で説教をするでしょうか?しないと思うなあ。

福音書を見ると、イエスさまの周りに、多くの人が集まっていましたが、漁師、取税人、ホームレス、女性、主婦、こどもたちでしたよね。もし、イエスさまが『君たちは、聖書のことをよく知らない。だから教えてやろう。エッヘン!これは神学用語で~というんだ。知ってたかな?知らなかっただろ。これは昔のヘブライ語で~という意味なんだ。知らなかっただろ・・・』。イエスさまがこんな口調で話していたら、庶民は誰も集まって来なかったはずです。イエスさまは、集まった人たちに暖かいまなざしを向け、分かりやすいことばで語ったのではありませんか?だから、庶民が集まってきたのだと、私は思います。そのようになりたいものです。イエスさまに会い、話しを聞いた人たちは『敷居が高い』なんて感じていなかったはずです。『暖かいまなざしと、分かりやすいいことば』これって、福音宣教の基本、説教の基本じゃないのでしょうか。聖書翻訳についても『暖かいまなざしと、分かりやすいいことば』で書かれるべきだと思います。そもそも、ヘブライ語聖書は、その大部分が誰でも理解できることばで書かれているのですから。




あれこれと書かせていただきましたが、こんな感じで記事を書いてゆきます。以上をもちまして、ごあいさつ、そしてブログの紹介とさせていただきます。

押忍! <(_ _)>


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