聖書と翻訳 ア・レ・コレト

聖書の誤訳について書きます。 ヘブライ語 ヘブル語 ギリシャ語 コイネー・ギリシャ語 翻訳 通訳 誤訳

(000)箴言-1

2018年05月07日 | 箴言

חֲשַׁב ハシャーブ 考える


この記事の目次
・箴言は死語
・格調高さがみことばを壊す
・箴言12:15
・箴言12:16


~箴言は死語~

箴言は詩篇の次にくる記事で、賢者として有名なソロモン王が書いたとされています。全部で31章あるので、一日一章読むと1か月で読むことができます。箴言には、日常生活の中で気をつけなければならい教訓が書かれています。『箴言』という書名から、何かお堅い人生訓のようなニュアンスを感じるのですが、ヘブライ語を見ると、お堅いことばで綴られているという印象を受けません。『いいか!酒と女には気をつけるんだぞ』という内容だって書かれているんです。

先ず『箴言』という書名に問題があります。『箴言』ということばを聞くと、何か正座をし背筋を伸ばし、眉間にシワを寄せて拝聴しなければならないおことば、若しくは、床の間に飾られる『銘書』のように『すばらしいですなあ。凡人には真似できませんなあ』と距離を置いて鑑賞するものという印象を受けます。『箴言』という書名には人を威圧するニュアンスを感じます。文語訳聖書に『箴言』という書名があるので、おそらく文語訳が翻訳された時に決められた書名なのでしょう。



ユダヤ教経典の書名というのは、書物の一番初めに書かれてることばが書名になっています(そうでないものもあります)。箴言1章1節の最初のことばが『mishlei ミシュレイ』なので、書名も『ミシュレイ』になっています。日本語の『箴言』はヘブライ語ミシュレイから翻訳されました。ミシュレイ(mashal マシャール)には大きく分けると二つの意味があります。

mashal(4910)動詞 (国を)治める、(自分を)律する、支配する 81回使用
mashal(4912)名詞 ことわざ、たとえ話、比喩、教え、教訓 38回使用

動詞マシャール、名詞のマシャールの両者とも、『箴言(書簡)』だけで使われることばではなく、創世記から預言書まで様々な書簡で使われています。『マシャール』は、使用頻度の高いことばなので、日常語に属すると考えてよいでしょう。日本語の『箴言』よりも軽いことばだということが分かります。

一方、日本語訳聖書の中で『箴言』ということばが使用される回数は極めて少ないことが分かります。
口語訳 9回
新共同 3回
新改訳 8回

ヘブライ語聖書の中で使われる使用頻度からすると、mashalは『教訓、訓示、教え』あたりの訳語が相応しいと思います。日本のノン・クリスチャンが、生きてる間に『箴言』ということばを、口にしたり書いたりすることは99.99%ないでしょう。『箴言』という骨董品のような漢語をあてがうことは、聖書は難解な本だという印象を与え、日本人を聖書から遠ざけることになります。

日常語として使われる『マシャール』が、日本語の死語に訳出されました。使用頻度があまりにもかけ離れた訳語をあてがうことは、誤訳になります。原語と目的言語との間で、等価性が守られていないからです。こうした珍訳が起こるのは『聖書は格調高いことばで翻訳するのが良い』という、身勝手な翻訳理念が原因です。


~格調高さがみことばを壊す~

箴言は『床の間の掛け軸』のように、鑑賞用のことばとして書かれていません。ヘブライ語では、人が口ずさみやすいようにリズミカルなことばになっています。下の動画は、箴言1章をヘブライ語で音読したものです。一番最初に『ミシュレイ』と言っています。お聞きください。

Provérbios 1 em Hebraico (Proverbs Chapter 1 in Hebrew)


箴言は、ユダヤ人の誰もが口ずさむことができるよう書かれています。

ヨシュア1:8 新改訳第三版
この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

詩篇1:2 新改訳第三版
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

神さまが『多くの人に聖書のことばを口ずさんでもらいたい』という思いを持たれているのに、神学者が『めっそうもございません。庶民が使う品のないことばや日常語を使った翻訳など決してやってはいけません。何と申しますか、こう、格調高く、学術的で難解な翻訳が良いのでございます』と考えていたら、神さまの気持ちと噛み合ってないことになります。これでは聖書の存在意義を台なしにすることではありませんか?『格調高い訳文にする』というお題目が、意味不明な訳文を擁護する隠れミノに使われてきたということに気が付くべきです。読んでも意味が分からない日本語訳聖書を出版する。これでは本末転倒です。



聖書には66の書簡があります。その中には詩篇のような詩文があり、雅歌のように新婚夫婦の熱いロマンスを描写した記事があります。ヨナ書には預言者ヨナのトボケっぷりが書かれていて、不正な管理人のお話は、あのお堅い律法学者が思わず吹き出してしまう文言で綴られています。パウロ書簡でも、お堅い文体で書かれたものがあれば、そうでないものもあります。コリント書簡など、ユダヤ教の素地がない地域に宛てた手紙には、敢えて旧約聖書の聖句引用はしていません。聖書の専門用語を使うことなく、外国人が理解できることばで信仰生活の手引きを書いています。66巻からなる聖書は多様な文体で書かれています。

詩文、ロマンス、笑える小話などなど、個々の文面のユニークさを考慮することなく、何でもかんでも『格調高い言い回し、難解な言い回し』一辺倒で翻訳していいのでしょうか?そんなことをするから、聖書のことばが死ぬのです。ユダヤ人が、長い年月を通し聖書を守り受け継いできたのは、聖書のことばにいのちがあったからだと思います。ことばが持ついのちは、66巻それぞれのユニークな文体と結びついていたはずです。何でもかんでも、格調高いことばで翻訳するから、各書簡のユニークさをないがしろにし、ユニークさの中で生きていたことばを殺しているのです。日本語訳聖書を読んでも、一体何を言いたいのか曖昧で意味が伝わって来ないですよね。文中の人物が笑いもせず、怒りもせず、能面の如く無表情で、無機質な文面になっています。ヘブライ語で生き生きしていたはずのことばが、死んだ日本語に翻訳されているからです。『格調高い文面で翻訳する』という理念が、聖書のことばを壊すのです。

聖書翻訳という仕事は何のためにするのでしょうか?多くの日本人が聖書を読んで理解できるようにするためですよね。ここが一番大切なところです。そうであれば、現代の日本人が読んで理解できることばに翻訳することは、ゆずることのできない基本中の基本であるはずです。ところが『格調高い訳文にする』というトンチンカンな理念が、何でもかんでも難解なことば使いにし、みことばを壊しているのです。『箴言』という死語は一つの例です。新改訳聖書をご覧ください。イザヤ書8章の『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』は、ヘブライ語をカタカナ表記しただけで、これでは日本人が読んでも意味が分からないですよね。脚注欄があるにも関わらず、意味を説明していません。ルカ16章では、『パテ、コル』とイスラエルの度量衡をカタカナ表記しただけです。ヘブライ語の音をただカタカナで表記する。こんな手抜き仕事が翻訳なのでしょうか?こうした意味不明な訳文を、神学者は『格調高い訳文でございます』と呼ぶようですが、言わせてもらえば、翻訳がヘタクソなだけです。読んで意味が分からない聖書なんて、飲んでも効かないニセ薬と一緒です。

もし、イエスさまが日本の聖書翻訳委員会の翻訳会議に足を踏み入れたとしたら、会議室のテーブルをひっくり返し、パソコンを床に叩きつけ、パイプ椅子を蹴っ飛ばし『わたしのことばは、いのちのことばと呼ばれるはずだった。ところがあなた方神学者は自分たちの名誉とお金を得る手段に変えている。イザヤが不倫をして子どもを生ませたなんて(イザヤ8:3)よくもデタラメな翻訳ができたな。そんなことだから、性犯罪を犯す牧師を生み出すのではないか!また、信徒には不正な金で仲間を作れなどと(ルカ16:9)よくもデタラメが言えたな!だから、霊感商法のような詐欺行為を助長させるんじゃないか!そもそも、あなたたち神学者は翻訳をする能力がないにも関わらず、翻訳委員会を立ち上げ、意味不明な聖書を出版し私の名を汚してきた。庶民には高値で聖書を売りつけ、自分たちは甘い汁を吸う。これでは、あのパリサイ人と同じではないか!』と怒鳴り、会議室から全員追い出すのではないだろうか?イエスさまの翻訳清めが必要です。マタイ21:12~13




以下、箴言の訳文を検討してみます。

~箴言12:15~

日本語訳聖書を見るとほぼ同じ解釈ですが、ヘブライ語を見ると違うところがありますぞ。

箴言 12:15 口語訳
15 愚な人の道は、自分の目に正しく見える、しかし知恵ある者は勧めをいれる。

箴言 12:15 新共同訳
15 無知な者は自分の道を正しいと見なす。知恵ある人は勧めに聞き従う。

箴言 12:15 新改訳2017
15 愚か者には自分の歩みがまっすぐに見える。しかし、知恵のある者は忠告を聞き入れる。

箴言 12:15 私訳
15 愚かな人は自分のやり方こそ正しいとうぬぼれる。知恵ある人は忠告に耳を傾ける。


דֶּ֣רֶךְ אֱ֭וִיל יָשָׁ֣ר בְּעֵינָ֑יו וְשֹׁמֵ֖עַ לְעֵצָ֣ה חָכָֽם  
デレック エビール ヤシャール ベエナーブ ベショメヤ レッサー ハッハーム

דֶּ֣רֶךְ デレック derek(1870) 方法、道、旅、距離
אֱוִ֗יל エビール evil(191) 愚かさ、愚かな人
יָשָׁ֣ר ヤシャール yashar(3477) まっすぐな、正しい、ふさわしい、直立した
בְּעֵינָ֑יו アーイン ayin(5869) 目、外見、目の前、目に見えるもの、視野、姿かたち 
וְשֹׁמֵ֖עַ シャマ shama(8085) 耳にする、耳を傾ける、聞く、肝に銘じる
לְעֵצָ֣ה エッツァー etsah(6098) 話し、相談、忠告、助言
חָכָֽם ハッハーム chakam(2450) 賢い、賢明、知恵、理性、知性

クリスチャンであれば、礼拝を守ること、十一献金を捧げること、日々祈り聖書を読むことが正しいと信じ、信仰生活を守っていることと思います。従来の日本語訳は『愚か者は自分の道を正しいと思う』という訳です。では、聖書に従った信仰生活を守ることが正しいと考えることも、愚かなことになるのでしょうか?そんなことはありませんよね。従来の訳文は原文の意図を理解せず直訳しているので、原文とは違う意味になっています。

15節前半は『愚かな人というのは、自分のやり方が最も正しいと考えるうぬぼれ屋さんだ』という意味です。従来の日本語訳聖書は、この意図を訳出できていません。『デレック=道』『ヤシャール=正しい』『自分の道は正しく見える』と、直訳しています。この愚かな人物が『道(人生)』という文学的なことば使いをするでしょうか?この愚か者には自分の人生を達観する能力はないはずです。自分の失敗はすべて他人の責任、他人の成功は自分の手柄。『オレがやることに一度だって間違いはないんだ』と、うぬぼれる、そういう人物です。日本語の『道』ということばには、詩的、哲学的、内面的なイメージがあります。『道』ということばを、この愚か者に語らせたのでは不釣り合いですよね。『デレック=道』と訳語を固定してはいけません。この文脈では『方法』という意味に変化しています。

また15節は、愚かな人の目と、知恵ある人の耳と、目と耳を対比する表現になっています。ヘブライ語では目(アーイン)は罪の誘惑を象徴します。創世記3:5~6に、ヘビは『その木の実を食べると目(アーイン)が見えるようになるんだよ』とエバをそそのかし、エバの目(アーイン)にも『本当、美味しそう。賢くなれそう』と映った・・・とあります。マタイ5:29には『もし、右の目(ギリシャ語 オフサルモス)が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい』とあります。聖書を見ると『目』は罪の入り口、誘惑の象徴として使われています。



聞くという動詞シャマ(shama)は創世記3:8で使われていて『アダムとエバが、主の声を聞き(シャマ)また、主が園の中を歩いて来るのを知って・・・隠れた』とあります。

1サムエル15:22 新改訳
・・・「主は主の御声に聞き従うこと(シャマ)ほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うこと(シャマ)は、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

15節は『愚かな人はその目が節穴だ。知恵ある人はその耳を働かせる』と、目と耳の働きを象徴的に表現しています。



『なるほど。ヘブライ語では目と耳が対比される形で書かれてるんだ。日本語訳も『目と耳』ということばを使い、同じ形で翻訳しなければならないのだろうか?』これは、翻訳者が必ず直面する問題です。結論からいうと、日本語訳で『目と耳』ということばを使う必要はありません。実際にやってみると分かりますが、原文の修辞表現を訳文に持ち込もうとしてもうまくいかないものです。言語には恣意性があるので、原文の表現形式を目的言語に持ち込むことはできません。場合によっては、まあまあうまくできる場合もあるかも知れませんが、基本的にできないということです。翻訳者が訳出しなければならないのは意味です。原語の語彙、品詞、文法、修辞技法を訳文に持ち込むことはできません。

また従来の日本語訳は『忠告を聞き入れる、従う』という訳し方ですが、これでは『人の忠告には従うんだぞ。従わないとダメだぞ』という意味になります。これは間違いです。ヘブライ語、シャマ shamaは、聞くという意味です。まれに『聞き従う』という解釈になることもありますが、それは、そのように解釈せざるを得ない文脈の中で成立する解釈です。70人訳では、eisakouó(1522)ということばで、これも聞くという意味です。

まわりには、正しい忠告をくれる人がいる一方、聞き流せばいいレベルの意見もあることでしょう。他人の意見全部に聞き従う人というのは、自立(自律)していない人ということになります。神さまは、本当に、他人の意見には全て聞き従えと言ってるのでしょうか?そうではありません。ヘブライ語で語っているのは『人の意見にも耳を傾けなさい。そういう謙虚さや余裕がないとダメだよ』ということで、『他人の意見には従え』とまでは言っていません。

どちらかと言うと、日本人は八方美人で、他人の意見に左右されやすいところがあります。一方、ユダヤ人は個人の意見、個性的な意見を大切にします。ユダヤ人は、意見が対立することを悪いことだとは思っていません。盲目的に他人の意見に従うということがない民族です(ステレオタイプな見かたではありますが)。

『忠告を聞き入れる、従う』は、日本的な価値観に基づいた解釈で、翻訳者が『自文化の干渉』が起こっていることに気づかないまま、翻訳作業をしたため、こういう訳文になったのでしょう。翻訳者は、『自文化の干渉』が起こらないよう、常に自分自身をチェックしなければなりません。

以上をまとめると、15節は『自分の能力を過信するな。うぬぼれるな。人の意見に耳を傾けろ』という意味が語られています。『勧めをいれる。聞き従う。忠告を聞き入れる』は、行き過ぎた解釈です。

箴言 12:15 私訳
15 愚かな人は自分のやり方こそ正しいとうぬぼれる。知恵ある人は忠告に耳を傾ける。


『でもさあ、うぬぼれるってことば、ヘブライ語にはないよね。勝手に付け足したりしていいの?』と疑問に思う方がいると思うので説明させていただきますが、これで問題ありません。ちょっと難しい話になりますが、モダリティ(modality、秘められた心理的要素)について説明させていただきます。

2016年12月27日、安倍首相は真珠湾を訪問し犠牲となった方々に慰霊の献花を捧げました。諸説ありますが、75年前、日本は宣戦布告せず真珠湾を奇襲攻撃しました。これがきっかけとなり、アメリカは『Remember Pearl Harbor』をスローガンに、第二次世界大戦に参戦することになります。この『Remember Pearl Harbor』は『真珠湾のかたきを取る』とか『真珠湾の復讐を誓う』と、日本に対する恨み、復讐心を意味しています。

場面が変わり、日本人とアメリカ人が歴史談義をしたとしましょう。話が太平洋戦争の話題になり、アメリカ人にとって耳の痛い、広島長崎の原爆投下を日本人が持ち出したとします。すると、アメリカ人に『Remember Pearl Harbor』と切り返されました。これはどういう意味になるでしょう?ここでは『真珠湾をだまし討ちしたのはどこの国だい?』若しくは『引き金を引いたのは日本だろ』と、戦争の原因を指摘する。こうした意味で語られています。『Remember Pearl Harbor』というフレーズも文脈が変われば、意味も変わります。直訳はできません。

『Remember/ Pearl/ Harbor』それぞれのことばを辞書で調べても、日本に対する恨みつらみを示すものはどこにもありません。ところが『Remember Pearl Harbor』という一つのフレーズになると『にっくき日本!敵国日本』という恨み(モダリティ)を持つことばに変化します。このように、原文に感情表現を意味する単語がなくても、感情表現を引っ張り出さないと、正しい訳出ができない、そういう場合が多々あるのです。学校で教えるように、英文をバラバラに品詞分類し、単語の一つ一つを辞書で調べ、日本語の語順に並び替えるという、やり方では原文のモダリティを理解することはできません。

箴言12:15も『うぬぼれる』というヘブライ語はありませんが、原文には『うぬぼれる』というモダリティ(秘められた心理的要素)が潜在(せんざい)しています。日本語に訳出する時は『うぬぼれる』を言語化しないと、原文と同じ意味になりません。このように、潜在化しているモダリティを言語化する場合があれば、反対に、言語化されたモダリティを、潜在化させる(ことばを消す)テクニックもあります。箴言12:15で『うぬぼれる』ということばを入れることは勝手な付け足しではありません。むしろ高度な翻訳スキルがないとできないことです。学校で教える『直訳英語』は、目に見える文字だけを翻訳させますが、目に見えない文字だってあるんです。

箴言 12:15 私訳
15 愚かな人は自分のやり方こそ正しいとうぬぼれる。知恵ある人は忠告に耳を傾ける。



~箴言12:16~

日本語訳聖書を見るとほぼ同じ解釈ですが、すべて誤訳されています。

箴言 12:16 口語訳
16 愚な人は、すぐに怒をあらわす、しかし賢い人は、はずかしめをも気にとめない。

箴言 12:16 新共同訳
16 無知な者は怒ってたちまち知れ渡る。思慮深い人は、軽蔑されても隠している。

箴言 12:16 新改訳2017
16 愚か者は自分の怒りをすぐ表す。賢い人は辱めを気に留めない。

箴言 12:16 私訳
16 愚かな人はいつもイライラを態度にあらわす。要領が良い人はみっともない振る舞いは見せない。


אֱוִיל בַּיֹּום יִוָּדַע כַּעְסֹו וְכֹסֶה קָלֹון עָרוּם
エビール バヨーム イーバダー カッソー ベホッセ カローン アルーム

אֱוִ֗יל エビール evil(191) 愚かさ、愚かな人
בַּ֭יּוֹם ヨーム yom(3117) day、日、一日、一日中
יִוָּדַ֣ע ヤダ yada(3045) 知る、(意思、感情、才能を)あらわす(to make oneself known)
כַּעְס֑וֹ カハス ka'ac(3708) くやしさ、落胆、イライラ、こころ傷つく
וְכֹסֶ֖ה カッサー kasah(3680) おおいを掛ける、おおい隠す、隠す、服を着る
קָל֣וֹן カローン qalon(7036) 恥知らず、不名誉、恥、みっともない振る舞い
עָרֽוּם アルーム arum(6175) 抜け目ない、ずる賢い、要領が良い、機転が利く

16節前半『カハス』を従来の日本語訳は『怒りをあらわす』と訳出していますが、『カハス』は傷つきやすい心の持ち主が『私は傷ついた』と落ち込んだり、プンプン怒る。イライラを、表情や態度に表すという意味です。『怒り』ではなく『イライラする』という意味です。

人間である以上、誰だってイライラすることはあります。この箴言は、こうした感情そのものを否定してはいません。イライラする感情をコントロールすることなく、表情や態度に表すのはみっともないよね。周りの人の気持ちも考えようよ。もっと要領よく自分の感情と付き合おうよ。そういう意味です。

16節後半『アルーム 要領が良い人』は、15節後半の『ハッハーム 知恵ある人』と並行関係にあります。ここは全く同じ意味ではなく、違う意味を表す目的で『アルーム』が使われています。アルームは『ずる賢い、抜け目ない』というチョイワル感を含んでいます。エバを騙した蛇はずる賢かった(アルーム)とあります(創世記3:1)。『アルーム』は単なる『知恵ある人』ではなく『要領が良い人』という意味です。

従来の日本語訳は『知恵ある人は、侮辱されても我慢する』という意味に解釈していますが、これは全然意味が違います。原文の輪郭を把握していないからこういう誤訳が生まれるのです。



『あらわす⇔隠す』と、反対の意味を持つ動詞を使っています。愚かな人は『イライラした態度をあらわす』。⇔要領が良い人は『みっともない態度はあらわさない』という形になっています。ヘブライ語はこうした、二者を対比した表現を好みます。英訳聖書でも『要領が良い人はみっともない振る舞いは見せない』と訳出しているものは沢山あります。従来の日本語訳が『はずかしめを受けても黙っている』と解釈してきたのは間違いです。この翻訳をした先生というのは、神学者や聖書学者の中から選ばれし翻訳者ということなのでしょうが、文法的に難しさがあるところでもないのに、誤訳するのが不思議でなりません。日本語訳をおこなった翻訳委員会のレベルが極めて低いということです。


箴言 12:16 私訳
16 愚かな人はいつもイライラを態度にあらわす。要領が良い人はみっともない振る舞いは見せない。



日本の聖書翻訳には、ヘブライ語やコイネー・ギリシャ語の最高の腕を持つ翻訳者が選ばれていると、私は信じていましたが、残念ながら、間違っていたようです。率直に申し上げますが、日本語訳聖書の翻訳レベルは中学生レベルです。プロとしての腕前には遠く至っていません。翻訳技術を持たない神学者が翻訳者として採用され、商品に値しない翻訳聖書が市場で売られる。その一方、翻訳者や理事はきっちりと報酬を受け取り、『聖書翻訳者』という肩書も得ることができます。日本の聖書翻訳事業というのは、神学者には大変都合のよい構造になっているようです。現在、新たな聖書翻訳が進められていますが、日本の聖書翻訳の恥をさらす(イーバダー カローン)ということのないようにしていただきたいものです。

私はヘブライ語を習ったことは一度もありません。ヘブライ語については全くのド素人です。聖書翻訳に携わるセンセイ方のほうが、ヘブライ語については、比べ物にならないほど見識がおありだと思います。にも関わらず、エラー、誤訳となっているところが驚くほどたくさんあります。それは、原文解釈をする時の、目の付けどころが間違っているからです。また、基礎的な学習、基礎的なトレーニングをおこなっていないからです。通訳や翻訳をするには、言語学、異文化コミュニケーション、心理学の知識が必要です。更に、頭で理解するのではなく、自分の体を使い体で覚えるトレーニングも必要です。そのためには通訳の現場経験を重ねることが一番効果的です。こうした学習やトレーニングを重ねることで通訳スキルを身に付けることができます。通訳者が、正しい通訳スキルを身に付けていれば、やがて『正しい言語観』も身に付けることができます。正しい言語観を身に付けていれば、どんな外国語でも習得することが可能になります。

プロとして通訳や翻訳をする人は沢山いますが、通訳スキルを身に付けている人、正しい言語観を持っている人というのは、ほとんどいないようです。このことは『直訳は誤訳-1~3 オバマ大統領広島演説より』に書かせていただきました。日本の大手新聞社で働く翻訳者たちが、結構大きな間違いをおかしています。興味がある方はお読みください。

『へえ、翻訳ってこういう風にやるんだ。翻訳スキルというのは、大事なものものみたいだな』と感じていただけたらありがたいのですが。『ただで受けたのだから、ただで与えなさい。マタイ10:8』このみことばに促され、神さまから与えられた通訳技術をブログで公開させていただいています。通訳や翻訳をされる方の一助になれば幸いです。



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