聖書と翻訳 ア・レ・コレト

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(000)イザヤ書8章-7

2018年05月02日 | イザヤ書


この記事は、イザヤ書8章7,8節について新改訳と英語訳との比較をしています。新改訳訳文に対する批判も含まれているため、不快に感じる方もいらっしゃるかもしれません。その旨ご承知の上お読みください。


~イザヤ書8章7,8節 新改訳~

7、8節 新改訳

7)それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、8)ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」

この訳文を読んで、良いことが起こるのか、悪いことが起こるのか、どちらなのか理解に苦しみます。

『すべての栄光を、彼らの上にあふれさせる』と表現されているので、良いことがあふれるのだと読者は理解するでしょう。ところで『彼ら』とは誰を指すのでしょうか?直前にある『アッシリヤの王』なのか、もっとさかのぼって6節の『レツィンとレマルヤの子』のことなのか、さらにさかのぼって『この民』なのか分かりません。訳文の中で不用意に代名詞を使った、悪い例です。

そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる』とあるので、読者は救い主の祝福がユダの地に広がるという意味に理解すると思いますが、ヘブライ語が語る意味は全く反対で、災いが来ることを意味しています。英訳では『all his glory』とある箇所が、新改訳では『そのすべての栄光を』となっていますが、この『栄光』という訳語が誤解を招く原因になっています。

gloryの意味は、栄光であると学校で教わり、英和辞書にもそのように書いてあります。しかし、このhis gloryは、アッシリヤ帝国を象徴する『誉れ高い軍隊』という意味です。文脈によってgloryの意味が変化していることに気が付かなくてはなりません。gloryを、栄光と訳してしまうと、そのあとに続く意味が、ユダ族にとって祝福が訪れるという意味の文になり、原文の意図と反対の内容になってしまいます。ユダの地に広がるのは『栄光』ではなく『アッシリヤ軍』です。

この例に見られるように、ヘブライ語のラベルを、そのまま日本語の訳文に持ってくる直訳法は、原文が意図するものと異なる内容の訳文になります。この訳文は、直訳法では、原文に忠実に翻訳できないことを示す例であり、直訳が『原文に忠実な翻訳』であると考える翻訳者の自己矛盾を表しているのです。

英語の単語と日本語の単語というのは、決して一対一で対応しないのですが、得てして学校英語の教え方は、生徒を一語一訳主義に陥らせます。これが、直訳主義を生み出す元になっていると思います。言語というものは直訳できないんだよというのが、ソシュールの言語の恣意性です。

細かい話だと思われるかもしれませんが『水かさの多い』という表現ですが・・・言いたいことの意味はつかめますが、一般的な日本語の表現は『水かさが増す』です。これは翻訳以前の問題で、小学校の作文レベルの問題です。訳文を芸術的な銘文にしろと言っているのではありません。日本語の文として最低限の品質を備えてほしいのです。新改訳の翻訳チームの中には国語学者も参加していたようですが、どうしてこのような初歩的なエラーを訂正できなかったのでしょう。組織内での各々の役割が有効に機能していなかったということです。『組織で翻訳されているから信用できる』などと思ってはいけません。


以下、word for word の代表選手ともいえる、New King James Versionの訳文を参考に、解釈をしてみます。

7) Now therefore, behold, the Lord brings up over them The waters of the River, strong and mighty-- The king of Assyria and all his glory; He will go up over all his channels And go over all his banks.

7節を理解するうえで『and』の解釈に注意が必要です。英語で『A and B』という場合、AとBには密接な関連性があることをにおわせています。あるいは、一体性があると言ってもいいと思います。単なる羅列ではないというのが、日本語の『そして』と異なるところです。『A and B』『A or B』の使い分けを、学校では、『AそしてB』『AまたはB』と教えていると思いますが、そうではなく『AとBに類似性がある場合にandを使用』し『AとBに類似性がない場合にorを使用』すると覚えた方が現実的だと思います。英語の辞書を読む時に、このand,orが頻繁に出てくるので、and,orの使い分けを覚えておくと役に立つと思います。ここ7節では類似性よりも、更に強い一体性を意味する『bread and butter バターが塗ってあるパン』の使われ方と同じだと理解します。andの前後で訳語をぶつぶつと切らずに『strong and mighty』は、『無敵の(軍隊)』『The king of Assyria and all his glory』を『誉れ高いアッシリヤ軍』と合体させて解釈していいのです。英語の『and』と日本語の『と』には違った機能があるからです。


~8節 翼の解釈~

7節後半から8節にかけて、主語と動詞の関係を明らかにしてみたいと思います。

7) ・・・The king of Assyria and all his glory; He will go up over all his channels And go over all his banks.
8) He will pass through Judah, He will overflow and pass over, He will reach up to the neck; And the stretching out of his wings Will fill the breadth of Your land, O Immanuel.

7節後半の『The king of Assyria・・・』以降の英文を、文脈を追いながら、ぶつ切りにして訳します。

7節後半『アッシリヤ帝国の誉れ高い軍隊』『(軍隊は)帝国内の全ての川を渡る』『(軍隊は)川から土手をのぼる』 8節『(軍隊は)ユダの国を通過する』『(軍隊は)洪水のように流れゆく』『(軍隊は)ユダ王国の頭(首都)だけは残す』『(軍隊は)その翼を広げ全土を覆い尽くす インマヌエル』

ここで注目したいのは、7節後半から8節最後まで、主語となるものが全て『アッシリヤの軍隊』であるということです。New King James Versionの、この主語の解釈は、ヘブライ語を忠実に踏襲しています。ヘブライ語を読める方は確認をしてください。翼を広げたのはアッシリヤ軍であることを示す、文法上の根拠です。

文法上の結論が出た時点で『一本!それまで』の判定がでたようなものですが、更に、史実とのすり合わせをしてみます。ヘブライ語が理解できないとしても構いません。文脈から『翼はアッシリヤ軍を象徴している』ことが分かります。列王記第二18章、イザヤ書36章に、ヒゼキヤ王の第14年、アッシリヤの王セナケリブが、ユダの全地域を壊滅させ、エルサレムだけが生き残ったと記録されています。エルサレムはアッシリヤ軍に包囲され、絶体絶命の危機を迎えていましたが、ある夜、神さまの霊にアッシリヤの兵隊185,000人が殺されたため、アッシリヤ軍はエルサレムから撤退したというお話しです。

ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。
列王記第二18章13節 イザヤ書36章1節 新改訳

新改訳は『主の栄光と主の翼は国土いっぱいに広がる』と翻訳したので『主はアッシリヤの侵攻からユダの国土全体を守る』という内容になりました。しかし聖書に書かれている史実は、アッシリヤが、ユダのすべての町を攻め取ったという内容です(列王記第二18章13節、イザヤ書36章1節)。そうすると、預言と史実との間に矛盾が生じるので、預言が外れたということになります。万が一『翼がエルサレムを覆う』という表現になっていたら、聖書に記されている史実と合致するので、翼は、主の保護を意味するという解釈も可能だったかもしれません(文法上は、そのような解釈はできませんが)。しかし、実際の8節の文は『翼がユダの全土を覆った』とあるのです。文脈からも『全土を覆った翼』は、アッシリヤの軍隊だと導き出すことができます。原文の輪郭を設定せず翻訳を進めるから、こうしたエラーが生じるのです。

以上をまとめると、文法上、翼を広げた主体がアッシリヤ軍であるということ。次に、史実とのすり合わせからも、ユダの全土を覆った翼というのは、アッシリヤ軍の侵略行為であることが分かります。


~8節 インマヌエルの解釈~

『インマヌ・エル』の解釈について検討します。次の文は、イザヤ8章8節のヘブライ語の文です。ヘブライ語は、右から読み始めるので、日本語とは逆に読み進めます。青い色でアンダーラインをしたところが、文末にあたり『インマヌエル God with us』という言葉になります。

A Hebrew - English Bibleより引用
http://www.mechon-mamre.org/p/pt/pt1008.htm

文末にある記号 {ס} は、セタマといい、ここにスペースが挿入されているという記号で、8節の文末と、続く9節とは形式上(文脈上)、分かれているという意味です。

New King James Versionでは、『翼を広げた』のは『軍隊』であるという解釈をしています。ヘブライ語でも同じです。もし、翼を広げたのが『主』であるとするなら、8節の最後で、突然、主語が入れ替わるということになりますが、主語が入れ替わったことを示す手がかりは、ヘブライ語にはありません。

次に、Orthodox Jewish Bibleの訳文を引用します。8節の後半部分です。インマヌエルという言葉が、直前の『eretz ユダ族の領土』を修飾する関係にあることを示したいと思います。ヘブライ語の発音で書かれているところがあるので読みにくいですが、原文に近い表現になっているので使わせていただきます。

and the stretching out of his wings shall fill the breadth of Thy eretz, O Immanu-El. 

※Thy 英語のyourの古い言い回しで、特定2人称として使われる。
※eretz(エレツ) ヘブライ語で土地、領土、国土の意味。

『Immanu-El』を、元の意味である『God with us』に置き換えてみると、次のようになります。ただし、『O』という間投詞は、ヘブライ語聖書にはないので省きます。

・・・Thy eretz God with us.

これは『神が我らと共にいるといわれた、その国土が(アッシリア軍に滅ぼされる)』という意味になります。文末の『インマヌエル』は、救い主を意味する固有名詞として解釈する傾向が強いのですが、そうではなく、元々の意味である『God with us』だと見れば、直前のeretzを修飾して『神が我らと共にいるといわれた、その国土が(滅ぼされる)』と、一つの文としてつながります。

THE VOICEというサイトの、Immanuel in Isaiah and Matthewという記事では、インマヌエルは、直接的には選民イスラエルを指す、という解釈をしています。

私訳
8章8節のインマヌエルは、選民イスラエルを意味しており、過去、現在、未来において、神がイスラエルの民と共にいることを宣言しています。

In 8:8, "Immanuel" refers to the nation of Israel. It is a confession that these people are the people that God has been with and will be with.

この解釈は、次のような関係で理解できます。

・・・Thy eretz Immanu-El

『(アッシリヤ軍に破壊される)ユダ族の国土』『選民イスラエル(の国土が)』

つまり『選民と言われた我らの国土が(アッシリヤ軍に破壊される)』という意味になります。ここで注目すべきことは『インマヌエル』の意味を、救世主として捉えるのではなく、『God with us』または『選民イスラエル』という意味で見るなら、直前のeretz(土地)を修飾して、一つの文としてつながるということです。

『インマヌエル』について、これと違う解釈をする英訳聖書を挙げてみます。それぞれの解釈には、問題があります。次の英訳では、嘆きの間投詞という解釈をしています。

Darby's English Translation
and the stretching out of his wings shall fill the breadth of thy land, O Immanuel!
アッシリヤ軍はその翼を大きく広げ、ユダの国土を覆いつくす。『ああ、インマヌエル!』。

この訳文は、インマヌエルという語を、人名のように解釈し『ああ、救い主よ!』とイザヤが嘆いていると訳しています。ここで疑問となるのは、イザヤが預言を王(または国民)に語っている途中で、感極まって『ああ、救い主よ!』といった私情を挟むだろうか?ということと、この文脈の中でGod with us の意味が、救い主だという解釈に飛躍のしすぎを感じます。

イザヤ書全体を読んでみましたが、イザヤが、預言の途中で感極まり、自分の抑えきれない感情を口走るという箇所は、どこにも見あたらないのです。むしろ、私情を挟むことなく、淡々と神の預言を語り続けるような冷徹さがあり、自分の仕事に徹した人物という印象を受けます。『ああ、救い主よ!』は、ドラマチックな解釈ですが、自分の感情をコントロールできない、幼いキャラクター設定になります。イザヤ書全体から伺える、イザヤの人柄に似つかわしくない訳出の仕方です。

ヘブライ語にも感嘆詞を使う表現はありますが、8節の原文には、感嘆詞が使われていません。もし、8節のインマヌエルが感嘆句であれば、ヘブライ語『hoy ホイ』などの感嘆詞が使われているはずです。しかし、原文に感嘆詞がないのですから『ああ、インマヌエル』と訳すことは文法上も間違っています。

次に、もう一つ別の解釈を取り上げます。『インマヌエル』を、希望の象徴として解釈する訳文です。これも問題がある訳文で、新改訳はこれに近い解釈をしています。

Contemporary English Version
But God is with us. [a] He will spread his wings and protect our land.[b]
しかし、神は私たちと共にいる。神はその翼を広げ、ユダの国土を守ってくださる。

脚注
a.8.8 God is with us: Here and in verse 10 this translates the Hebrew word “Immanuel” (see 7.14).
b.8.8 But. . . land: One possible meaning for the difficult Hebrew text.

脚注b.8.8に『But. . . landの訳文は、解釈が困難な箇所で、これは数ある解釈の一例である』と、その解釈に自信がないことを言っています。

この訳文では『神は私たちと共にいる』と、希望の象徴という解釈をしています。また『翼』というのは、神の翼であるという解釈までしていますが、それでいいのでしょうか?New King James Versionで解釈されている通り、文法上、翼を広げたのは『アッシリヤ軍』です。7節後半から8節にかけての主語は全て『アッシリヤ軍』です。ここで、主語が『アッシリヤ軍』から『主』に変わっていることを示す何かが、原典にあるのでしょうか?文法上、ありえない解釈です。

He will spread his wings and protect our land.という訳文には意図的とも受け取れる改変がみられます。ヘブライ語のテキストでは
『מְלֹ֥א רֹֽחַב־אַרְצְךָ֖ メロー ロハーブ アルツェハー』『(翼が)ユダの国土いっぱいに(隅々にまで)広がる』と表現されているのですが、この英訳では『いっぱいに(隅々にまで)』という意味を消しているのです。消されたことば(意味)というのは、ヘブライ語の melo(4393)という名詞(名詞化された形容詞)で、これは to fill, be full ・・・(いっぱいにする、満たす)という意味のことばです。ヘブライ語では『翼はユダの国土いっぱいに広がる』となっているのですが、この英訳ではspread(広げる)ということばに置き換え、単に翼を広げたと訳出しています。そうすることで『主はエルサレムを守られたのだ』という意味に変えている。そのように見えます。この翻訳者は、そうしないと史実と矛盾することに気が付いていたようです。また、protect our landという表現はヘブライ語にはありません。翻訳者が付け加えた表現です。ヘブライ語では、翼はユダの国土いっぱいに(隅々にまで)広がったとあるのです。『いっぱいに(隅々にまで)』ということばは、解釈の要となるキーワードです。これをすり替え、原文の意味を変える訳出をしてはいけません。

5節以降の内容を確認すると、ユダのアハズ王が主のみことばに聞き従わなかったので、主は、アッシリア軍を使いユダの地を攻めさせるという内容でした。アッシリア軍がユダの地を侵略するのは、主の意思によるということです。にもかかわらず、そのアッシリアの攻撃を『主の翼』が防ぐのであれば、次のようにヘンテコなストーリーになります。

主は、アッシリア軍にユダの地を侵略させたが、主は突然心が変わり、その侵略からユダを守ろうと国土いっぱいに翼を広げた。しかし、アッシリヤ軍はユダの全ての町を攻略した。つまり、手ごわいアッシリア軍の攻撃で、主の翼はボロボロにされてしまった。新改訳はこういうトンチンカンな文脈になっているのです。

主はわけの分からない独り相撲を取り、完敗したという内容になるのですが、これでは、おかしな解釈だと私は思います。翼が主の保護であると翻訳する文は、主はナンセンスなコメディアンだと言っているのと同じではありませんか?単語の解釈に夢中で、全体像を見失っているのです。木を見て森を見ず。こうしたことにならないよう、翻訳にあたっては輪郭を設定し、確認する作業が重要なのです。『直訳が、原文に忠実な翻訳手法である』『聖書の個人訳は信頼をおけない。組織で行う委員会訳こそ信頼をおける翻訳だ』と言われてきましたが、根拠のない先入観であったということに気が付くべきでしょう。

歴史的事実と照らし合わせても『神がユダ族と共にいて、その国土全体を守ってくださった』という解釈は誤りであると分かります。

1) ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。イザヤ書36章1節 新改訳

かろうじてエルサレムだけは残りましたが、アッシリヤは、ユダの全土を滅ぼしたのです。主の翼が国土全体を守ったという解釈は、史実と異なるのです。

『いや、そうではなく、8節は未来における、イスラエル再興を預言する内容だ』というなら、これもおかしな解釈になります。なぜなら、8章1~4節で、北イスラエルとシリヤの滅亡が預言されているにも関わらず、ユダ族滅亡の預言が、抜け落ちることになるからです。

新改訳は『インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる』となっていますが、インマヌエルの意味が何であるのか、本文にも脚注にもその解説がありません。先の、THE VOICEで『インマヌエルは、選民イスラエルを指す』という解釈でしたが、ヘブライ語ネイティブ、ユダヤ文化において、8節の『インマヌエルの意味は、選民イスラエルを指す』という解釈が強いようです。こうした解釈も十分ありうると思います。この解釈を新改訳の訳文に当てはめると『選民イスラエルは翼を広げ、自分の国土に広がる』というキテレツな訳文になります。新改訳が如何におかしな訳文か、これでも分かるでしょう。

ヘブライ語では『インマヌエル』は8節最後に置かれています。新改訳は、インマヌエルをわざわざ前に移動させています。この移動は、翼を広げたのは『インマヌエル』であるという意味をこしらえるため、意図的におこなっているのです。

新改訳は『聖書翻訳の理念』の中で、次のように謳っています。
・ヘブル語及びギリシャ語本文への安易な修正を避け、原典に忠実な翻訳をする。
行き過ぎた意訳や敷衍(ふえん)訳ではなく、それぞれの文学類型(歴史、法律、預言、詩歌、ことわざ、書簡等)に相応しいものとする。

文末に配置された『インマヌエル』を移動させ、動詞の主体を入れ替えるような小細工は『ヘブライ語への修正で、かつ行き過ぎた意訳』をしているのではありませんか?これは、新改訳の翻訳理念と明らかに矛盾します。直訳スタイルで翻訳するのであれば、New King James Versionのように、インマヌエルを文末に置き、翼を広げたのは、アッシリヤ軍だとする訳文になるはずです。『インマヌエルが翼を広げた』という訳文を創作したため、8章の全体像を歪め『罪を悔い改めない者であっても神は保護を与える』という偽りのメッセージに変えました。新改訳の翻訳委員会は、リベラル神学がお好きなようです。

『翼』に対して、主の保護という先入観が強く、アッシリヤ王国の象徴であるということが、受け入れがたいようです。翻訳者であれば、このことばが語られた当時、イザヤはどのような意図で書いたのか、また、当時の国民は、これをどのように理解したのかに焦点をあてて解釈しなくてはなりません。

現代クリスチャンである、自分が持つ先入観を疑う姿勢も必要です。文法規則を度外視した解釈は、翻訳ではなく創作です。こうした強引な原文解釈は『神学者としての熱心さが、神さまを食い尽くす』ヨハネ2:17 ようなものです。

また、英語圏、ヨーロッパ圏では、Immanuel、Emanuelが個人の名前として使われています。Immanuelは個人名であるという感覚が強いため、ヘブライ語本来のGod with usという砕いた形を、イメージしにくいのかもしれません。いずれにせよ、原典で、誰が『翼』を広げたのかを調べれば、7節のThe king of Assyria(アッシリヤ軍)だと、答えが出るはずです。その主体を入れ替えることは創作ではありませんか?




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