東京へ向かう新幹線の中で、わた
しは思い出していた。
佳代子と過ごした、昨夜の出来事。
居酒屋風のお店で晩ごはんを食べ
たあと、「静かなところで、お酒
が飲みたい」と、言ったのは佳
代子だった。
佳代子は高校時代からの友人。
「知っているお店があるの」
佳代子が連れていってくれたの
は、祇園の街中の、細長いビル
の最最上階にあるピアノバー。
「ここ、学ぶさんと来たお店」
席に着くと、そう言って、佳
代子はふんわりと微笑んだ。
細身の躰を黒いニットのワン
ピースに包んで、胸もとには、
深紅の薔薇を象ったブローチ。
いつのまに、こんなに大人っぽ
くなったのか、心をかき乱され
ような笑顔だった。
「すてきなお店。さすがは、
学さんね」
学ぶさんというのは、佳代子が
三回生の頃からつき合っている
人。知り合ったときは、大阪に
単身赴任をしているビジネス
マンだったが、今年の春から、
奥さんと子どものいる東京に
戻ることになった。
「パリジャン、お願いします」
注文を聞きにきたバーテンダー
にわたしが告げると、佳代子は
間を置かずに続けた。
「三人分、作ってくださいますか」
パリジャンというのは、わたしたち
のお気に入りのカクテルで、ジンを
ベースにしたルビー色の飲み物。
ふたりで飲む時にはまずパリジャン
を頼み、そのあとはジントニック
やジンフイーズを頼んで、最後は
ドラマティーニでしめくくる。
三つのカクテルが届けられると、
わたしたちは乾杯した。
「カノちゃんの京都最後の夜に」
「ふたりの就職のお祝いに」
そう言いながら、それぞれのグラスを
取り上げ、カウンターの上に置かれた
ままのグラスに合わせる。
「千夏ちゃんに、乾杯」
それがわたしたちの、いつものやり
方だった。
千夏は二年前に亡くなった、わたし
たちの親友、膠原病(こうげんびょう)
という難病を抱えていながら、三人の
中では一番前向きで底抜けに明るく、
最後まで勇敢だった。
パリジャンを飲みながら、わたした
ちはひとしきりに、とりとめのない
話しに花を咲かせた。
前の日に、書店で出会ったあのひと
のことは、すでに居酒屋で話して
あった。
「ねえ、佳代ちゃん。何かほかに、
話しがあるんじゃないの」
さり気なく、尋ねてみた。
「学さんとは、うまくいってるの」
わたしの方から切り出してみた。
今夜はまだ一度も、彼女の口から
最近のふたりの話しがない。
佳代子は言った。
「うまくいってる・・・・・はず
ないよ。だって不倫だもん。不倫
してる人って、みんなおんなじこ
と、思ってるんだよね。これは
不倫なんかじゃない。恋愛なんだ
って。好きになった人に、たまた
ま奥さんがいただけよって、
でもそんなの、気休めに過ぎない。
空しい自己憐憫(れんびん)に
過ぎない。不倫はどこまでいって
も、やっぱり不倫でしかないの」
妙に明るい口調。それが佳代子の
哀しみを、いっそ際立たせている。
生まれた時から持っている、誰から
も愛されるよい面を、生まれた時
にすべての人が例外もなく持って
いる、澄みきった、愛(うつく)
しい心を、損なうことになって
も、失うことになっても、それを
承知で、佳代子みたいな聡明な
女の子が、不毛な恋に踏み込んで
いくのは、なぜ。
※自己憐憫
不幸を引き寄せることを知って、強い
意志を持つ。
しは思い出していた。
佳代子と過ごした、昨夜の出来事。
居酒屋風のお店で晩ごはんを食べ
たあと、「静かなところで、お酒
が飲みたい」と、言ったのは佳
代子だった。
佳代子は高校時代からの友人。
「知っているお店があるの」
佳代子が連れていってくれたの
は、祇園の街中の、細長いビル
の最最上階にあるピアノバー。
「ここ、学ぶさんと来たお店」
席に着くと、そう言って、佳
代子はふんわりと微笑んだ。
細身の躰を黒いニットのワン
ピースに包んで、胸もとには、
深紅の薔薇を象ったブローチ。
いつのまに、こんなに大人っぽ
くなったのか、心をかき乱され
ような笑顔だった。
「すてきなお店。さすがは、
学さんね」
学ぶさんというのは、佳代子が
三回生の頃からつき合っている
人。知り合ったときは、大阪に
単身赴任をしているビジネス
マンだったが、今年の春から、
奥さんと子どものいる東京に
戻ることになった。
「パリジャン、お願いします」
注文を聞きにきたバーテンダー
にわたしが告げると、佳代子は
間を置かずに続けた。
「三人分、作ってくださいますか」
パリジャンというのは、わたしたち
のお気に入りのカクテルで、ジンを
ベースにしたルビー色の飲み物。
ふたりで飲む時にはまずパリジャン
を頼み、そのあとはジントニック
やジンフイーズを頼んで、最後は
ドラマティーニでしめくくる。
三つのカクテルが届けられると、
わたしたちは乾杯した。
「カノちゃんの京都最後の夜に」
「ふたりの就職のお祝いに」
そう言いながら、それぞれのグラスを
取り上げ、カウンターの上に置かれた
ままのグラスに合わせる。
「千夏ちゃんに、乾杯」
それがわたしたちの、いつものやり
方だった。
千夏は二年前に亡くなった、わたし
たちの親友、膠原病(こうげんびょう)
という難病を抱えていながら、三人の
中では一番前向きで底抜けに明るく、
最後まで勇敢だった。
パリジャンを飲みながら、わたした
ちはひとしきりに、とりとめのない
話しに花を咲かせた。
前の日に、書店で出会ったあのひと
のことは、すでに居酒屋で話して
あった。
「ねえ、佳代ちゃん。何かほかに、
話しがあるんじゃないの」
さり気なく、尋ねてみた。
「学さんとは、うまくいってるの」
わたしの方から切り出してみた。
今夜はまだ一度も、彼女の口から
最近のふたりの話しがない。
佳代子は言った。
「うまくいってる・・・・・はず
ないよ。だって不倫だもん。不倫
してる人って、みんなおんなじこ
と、思ってるんだよね。これは
不倫なんかじゃない。恋愛なんだ
って。好きになった人に、たまた
ま奥さんがいただけよって、
でもそんなの、気休めに過ぎない。
空しい自己憐憫(れんびん)に
過ぎない。不倫はどこまでいって
も、やっぱり不倫でしかないの」
妙に明るい口調。それが佳代子の
哀しみを、いっそ際立たせている。
生まれた時から持っている、誰から
も愛されるよい面を、生まれた時
にすべての人が例外もなく持って
いる、澄みきった、愛(うつく)
しい心を、損なうことになって
も、失うことになっても、それを
承知で、佳代子みたいな聡明な
女の子が、不毛な恋に踏み込んで
いくのは、なぜ。
※自己憐憫
不幸を引き寄せることを知って、強い
意志を持つ。