教育現場で長い間御世話になり、退職して教育相談研修会の講師をさせていただいたり、スクールカウンセラーをさせてもらっている。
また、小さな学習会であるが、カウンセリング研究会[くりのみ]を主宰して15年になる。
その経験を下敷きにして、今の教育を見てみると、「本当にこれでいいのだろうか?」というのが度々のことである。
確かに、先生方の忙しさはよく分かるのだが、先生方が「人間の在りようについての理解」が分かっていないような場面に出くわすことが多い。
道元禅師の「仏道をならうのは自己をならうなり」の呼吸が分かっていない。
教育にあたる者の基盤は、「自己をならう」ところが出発店だと思うのだが、全く分かっていないのだ。
どうも、教育そのものが、形式的・概念的に傾いているような気がしてならない。
この頃、一番気になるのは、子ども達の鉛筆である。
昔は(私の子どもの頃、教師になり始めの頃)、子ども達の鉛筆はきちっとそろえられて芯が削られて気持ちの良いものであった。
筆順にしても、丁寧に書くことも、大事にされてきたように思う。
ところが、この頃の子ども達の鉛筆は、ひどいものである。
家庭での目も行き届いていたにようだ。
昔の寺子屋での「教育の心」をもう一度具体化してもらいたいと思うものである。
毎田周一の言葉に次のようなものがある。
昔寺子屋で素読を前提にし、それができなければ、決してお師匠さんの講釈の席に出られなかったとは、今日といえども変わらぬ真理である。よめもせぬことの意味を聞くとは、一体自分が何に就いて意味を聞いているかもしらないでものをいってることである。問題の意味も知らないで、問うているとは、うつけたことである。
この頃の教室では、読むことも・書くことも出来ていないのに、意味を問うようなことやそれ以上のことを要求している教育現場の出来事を見ることがあまりにも多い。