浄土真宗にようこそ(007)
他力本願の大道に帰したサンガが、玄中寺の大切な特徴です。
曇鸞大師が亡くなられて(542)半世紀以上が経過して、道綽禅師が訪れます。
6~7世紀、唐の時代が最高潮に栄えていた頃に、道綽と善導が出遇います。
同じサンガに生きて、善導大師は…。
いわゆる中国風の、学問仏教の姿勢を厳しく批判されました。
古今楷定、とそれは讚えられています。
善導大師が住された光明寺は、長安の都の朱雀大路の南端に近い所でした。
皮肉にも、あの玄奘三蔵の慈恩寺の翻経院から近い所でした。
慈恩寺翻経院では、国家事業で玄奘三蔵がはなばなしく訳経に従事していました。
あの般若心経もその一つです。
その坊(里)の名は晋昌坊、善導の光明寺は一つ間をおいた開明坊でした。
現在では、大雁塔(慈恩寺)の真西に1.5キロ行ったところに女子医大があります。
その辺りが、かつての開明坊界隈です。
恐らく善導が住したであろう光明寺跡は、大きな道路の下に入ろうとしています。
光明寺はもう一つ候補地がありますが、その寺は三階教(信行開祖)の本拠でした。
それに善導大師の頃、則天武后の横暴な政治の中で大雲経寺と改名されています。
善導大師は、ひっそりとした光明寺の方を択ばれたと思われます。
親鸞聖人も法然上人も、善導大師を「光明寺の和尚」と呼ばれますが…。
その所在についてはご存知なかったはずです。
今日では、いろんな文献を辿るとおおよその場所が推定できます。
長安の都としては場末の光明寺で、善導大師はサンガ運動に生きられました。
そのひたすらなお姿を、想像してしまいます。
*里村専精師の(提言007)をお届けします。
*カウンセリング研究会【くりのみ】親鸞とカウンセリングコースでは、
毎月一回、『教行信証』を読んでいます。
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