本日、知り合いのお寺の「報恩講」にでかけました。
コロナ禍ですので、住職と副住職、門徒さんが20名程。
こじんまりとした「報恩講」でした。
後半の1時間は、あるご僧侶の法話。
宗門の機関誌の編集にも関わっているお方のようですが、(?)
法話の中に、称名念仏・念仏の話題がなかったのが残念。
お寺の三男に産まれたご自身の経験や先輩の話題について話されて、
キーワードは「自己肯定感」をもつこと。
お念仏のお話しがなかったのが残念。
「自己肯定感」とご自身の念仏について質問したかったのですが、
時間がおしつまっていましたので止めました。
『正像末和讃』に、
真実信心の称名は
弥陀回向の法なれば
不回向となづけてぞ
自力の称念きらわるる
ボクの領解では、
念仏の行者にとって、「自己肯定現」「自己実現」等の語は無縁ですよね。
道元禅師は、『現成公案』の巻で、
仏道をならふといふは 自己をならふ也
自己ならふといふは 自己をわするる也
と示されています。
「自己をわすれて」の一心のお念仏。
他力の念仏。本願力念仏の行者は、「自己肯定」などクソくらへですよね。(笑)
南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ ナムアミダブツ