現在、《くりのみ会・道元とカウンセリング》コースで、講師の菅原先生から『正法眼蔵・有時』について教えていただいている。
「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。」
以前、《くりのみ会》の講師・西嶋和夫老師は、時についての説明で、映画のフィルムの一コマ一コマを例えにして、「時は、今 今…の連続です」とお話しえくださったのを思い出す。
さて、この数日、哲学者の大森荘蔵著『流れとよどみー哲学断章ー』を読んでいる。
今回のブログは、本書からの【落穂拾い】。
過去が過ぎ去るのは流れのようにだろうか、音が消えゆくようにだろうか。それはやはり音のようにであって水のようにではあるまい。流れた水はただここを離れただけで追いかければまた把えることができるのだから。音は駟馬(シバ)も追えないが、それは音が超音速的に速いからではなく消え去るからである。音は生まれたときが死ぬときであり、生じたときが滅するとき、存在するときが存在をやめるときなのである。そして消えた音は過去の音である。そしてその音と共に在ったもの、街や空や人の風景もまたその音と共に消えさるのではないか。街や人はしぶとく居すわり続けているように見えるがそれは見かけにすぎず、その刻々の風景は映画のフィルムやテレビの走査線と同様、刻々交替しているのである。それならばまた、数秒前の素粒子、数分前の電磁場も同じく今は亡きものといわねばなるまい。つまり、過去はもはや存在しない。存在するのはただ現在である。過去は水に流すまでもなく既に刹那に消えて失せている。このことは特に、動くもの、変わりゆくものを見るとき明白にみてとれよう。時計の針はただ現在位置にのみ存在し、過ぎた時刻を指す針は既にない。それならばその過ぎた時刻の世界もまた既にない、というべきであろう。世界もまた音と同様、刹那滅的なのである。
『流れとよどみ』大森 荘蔵著 産業図書
「過去は消えず、過ぎゆくのみ」p253~ より