南木佳士著『からだのままに』文藝春秋 を読んでいる。
南木は、「日常生活の中で病み、生き延びようとする者にとって、病前の生活を支えていた世俗の価値観の見直しをそっとうながし、新たな視線を与えてくれる貴重な一冊」として、哲学者・大森荘蔵著『ながれとよどみ』を挙げている。
南木の引用を、さらに引用しての【落穂拾い】。
「本当は」親切な男が働いた不親切な行為は嘘の行為だといえようか。その状況においてはそういう不親切を示すのもその親切男の「本当の」人柄ではなかったか。人が状況によって、また相手によって、様々に振る舞うことは当然である。部下には親切だが上役には不親切、男には嘘をつくが女にはつかない、会社では陽気だが家へ帰るとむっつりする、こういった斑模様の振る舞い方が自然であって、親切一色や陽気一色の方が人間離れしていよう。もししいて「本当の人柄」を云々するならば、こうして状況や相手次第千変万化する行動様式が織りなす斑なパターンこそを「本当の人柄」というべきであろう。そのそれぞれの行為のすべてがその人間の本当の人柄の表現なのである。
この文章を読みながら・作家の五木寛之の文章を思い出しながら重ねている。
五木は、日刊ゲンダイ紙上で、『歎異抄』を取り上げて、《宿業》について考えて、そのシリーズの最後で、五木の個人的な感想を述べている。
先日、アウシュビッツについての本が再刊された。原題は『死の国の音楽隊』といったと思う。
その本を何十年か前にはじめて読んだときの、なんともいえない気持ちは、いまも忘れない。
アウシュビッツにユダヤ人として送られた音楽家が、音楽の演奏ができるという特技のために生き残り、奇蹟の生還をはたしたドキュメントである。
ふと考えることがあった。もし、私がヒトラーの時代に、少年として育っていたらどうだったのだろう。ヒトラー・ユーゲントという少年団に加わり、ナチの崇拝者として育ったのではあるまいか。
そしてドイツ軍にはいり、もし万一、アウシュビッツの担当者として現地に送られていたとしたら。
毎日、毎日、ユダヤ人をガス室に送り、焼く。その業務を命令されたとしたら、どうしただろう。
ユダヤ人を動物のように殺すことに耐えられず、軍を逃亡しただろうか。
命令を拒否し銃殺されただろうか。
目をつぶって、仕事としてその行為に参加しただろうか。
その時代、その国に生まれた、ということをもし宿業とよぶならば、その重さをつくづく考えずにはいられない。
~日刊ゲンダイ 五木寛之 流されゆく日々「宝くじと親鸞を考える④」連載8214回~
さて、『からだのままに』に戻る。
南木は、さらに大森の次の一節を見つけて、再び小説を書き始めたそうだ。
ただ生きるのではなく、生きることを見てとろうとするとき人は言葉の地図を必要とする。
「斑模様の振る舞い」面白い表現すね。