『毎田周一全集』第六巻から
毎田周一師の言葉を味わう。
唯一の宗教
「世界は一なり」を、念仏に於いて味わう。
念仏とは何か。大愚の領解である。
私は何も解ってゐませんと、徹底的に頭が下がることである。
無知の告白である。
真理は、しかしそこにしかない。
これを釈尊は、無常と仰言った。
だから親鸞が念仏せられるとき、それはまさしく釈尊の無常観の領解である。
ここに於いて、念仏は真理の表顕である。
阿弥陀仏これである。
それは光明無量・寿命無量である。
念仏はかくして、徹底的に頭が下がったとき、
私達はこの世の真理と一つになり、永遠の生命と一つになる、
即ち私達の救ひを、意味する。
南無・阿弥陀仏である。
◆5月のカウンセリング研究会【くりのみ】
親鸞とカウンセリングコース
日時:5月28日(土)午前10時~12時
会場:タワーホール船堀
内容:『教行信証・総序』音読
『正信偈』読誦
楽談タイム(エンカウンター)
会費:500円
*どなたでも参加でいる小さな学習会です。
ぜひ、お出かけください。
毎田周一師の言葉をお届けします。
*「愚禿」親鸞とは、愚かのまゝでよいといふことではない。
愚かなる故に、愈々学ばずにはをられないといふことだ。
*釈尊は菩提樹下で何を悟られたか。
人間は、一生学ぶべきものと。
『毎田周一全集 第9巻』より
釋真聴は、「よりあい」「かたらりあい」「うたいあい」を皆さんとご一緒に大事にしています。
主宰しています。
◆くりのみ会 親鸞とカウンセリングコース
◆くりのみ会 道元とカウンセリングコース
ぜひ、お出かけください。
毎田周一師の言葉。
*『歎異抄』は弟子が書いたものだから詰まらぬとはいへない。
論語・仏典・聖書は。孔子・釈尊・基督が書いたものではないから。
*『歎異抄』に体系をつけようとする人がある。
「と云々」とは無限といふことなのに。
【くりのみ会】のお仲間のカクムさんは、
『歎異抄』うたと語り合い を主宰しています。
毎週火曜日の夜、
南小岩コミュニティ会館(JR小岩駅、徒歩7分)で学び合いをしています。
学習会の柱は、
*『歎異抄』の音読&語り合い
*声明…大谷派・本願寺派の声明をうたっています。
*楽談タイム
どなたでも参加出来ます。
遅れての参加も大丈夫です。
ぜひ、お出かけください。
「念仏は無碍の一道なり」
毎田周一師の書です。
皆さまご存知の通り、『歎異抄』第七章の言葉です。
本日、知り合いのお寺様の依頼で、42歳で旅立たれた奥様の七回忌の法要に出かけました。
ご主人、高校生のお嬢さん、奥様のご両親他、総勢7名の方々が列座してくださいました。
皆さま、『正信偈』『お念仏』をしっかりと口称してくださるご家庭でした。
法要後、ご主人が、高校生に成長したお嬢さんのお話を聞かせてくれました。
お母さんのお気持ちを受け継いでいるとの由。
ありがたい法要を勤めさせていただきました。
南無阿弥陀仏。
毎田周一師のことば
海雲洞の研究会の特徴は、
長い間沈黙が続いても座の白けぬところにある。
こゝまでもってくるのに一苦労も二苦労もあった。
ボクは、
カウンセリング研究会【くりのみ】を主宰しています。
二つ学習会があります。
*道元とカウンセリングコース
*親鸞とカウンセリングコース
です。
同人として参加している学習会は、
*歎異抄うたと語り合い
*願海庵やさしい仏教塾
どちらの会も、楽談(井戸端)を大事にしています。
一般に、「沈黙」は気まずいイメージで理解されるでしょう。
ボクは、カウンセリングの学びの中で、「沈黙」を楽しめるようになってきました。
主宰の【くりのみ会】で、同人で参加している学習会で、
「沈黙」を大事にしていきます。
《毎田周一師の言葉》をお届けします。
*迷ひは、私が起こすのではない。
起こってくるのだ。
*何かせねばならぬと思う。
この世にせねばならぬことは一つもない。
*どこで人と人と結ばれるのであるか。
お互ひに何も持ち合わせてゐないところで。
*人の最も欲するのは、人と人との無条件的結合だ。
それを愛という。
毎田周一師の言葉を引きます。(毎田周一全集・第二巻 396頁)
念仏を口称する限り、その人(念仏者に)真理そのものが働きゆくのである。
しかも絶対的真理として働くのである。
真理はその人の心身に浸透してゆく。
これが口称の意義である。
しかも口称易行の意義である。
凡夫にも可能なる易行として、それを軽蔑すべきではないどころか、
実にそこに絶対的真理の余蘊なき、
力強き、輝かしい表現あることに想到するとき、
これを尊び、その前に跪くのほかはないのである。
あのような、ぼろを着た、みすぼらしい、悲惨な、
そして無知・無学な凡夫が口称念仏していると、
蔑むどころか、絶対真理の体現者の前に、
私達はひれ伏さねばならないのである。
*カウンセリング研究会【くりのみ】
*『歎異鈔』&うたと語りあい
*《願海庵》やさしい仏教塾
には、宗教・宗派に関係なく、
「口称念仏」の仲間が集っています。
ぜひ、お立ち寄りください。
大学生の頃、気になって、惹かれて、『毎田周一全集』を購入したのですが、
いつもの如くの不勉強。本棚に“つんでく” “かざってく”の体たらくであります。(笑)
でも、ずっと ボクの“杖” “先達”だったのが、毎田周一師であったように思います。
幸いなことに、湯島の中山書房仏書林から、
文庫で普及版の『毎田周一撰集』が発行されていますのでぜひ手にしてください。
『毎田周一撰集』
「釈尊の心 一真海」からの引文
念仏とは何であるか。南無阿弥陀仏の口称である。これ一つしか私達には残されてゐないのである。
それ以外はすべて要らざること、全くの妄想・妄念の行として捨て去らるべきものである。
人間が如何に想念をめぐらし、思慮を尽くし、その頭脳で考え極めたとしても、
念仏以外の行はすべて、妄心の産物でしかない。
そのやうなものに、一向とりついてゐる必要はないのである。
何が意味があるかと、それに毫もかゝはるを要しないのである。
振り向いて見る必要もない、正に相手にせずして可なりである。
それは相対的な行である。
かゝるものには必ず他者が反対する、対向する。
そこに相対的な関係、やがて闘争が起り来るのみである。
人と人とが争ふことを惹き起す行など、この世に一つも必要としないのである。
人間的なすべての悪である。
それがこの世に決して平和をもたらさぬからである。
南無阿弥陀仏
安倍政権の「教育改革」、大丈夫なのでしょうか?
道徳の時間を「特別の教科」に格上げして、
記述式の評価をして、
検定の教科書を使う、由。
毎田周一師の言葉
ある先生が「道徳教育」に関するパネル・ディスカッションに出るというので、
君、その道徳「教育」といふ、あとにくっついてゐる二字が余計だよ。
「道徳」だけで沢山、それをうんと研究して来給え。
だって、「道」があれば、その働き「徳」があるに決まってゐるぢゃないか。
「教育」なんてつけるの蛇足だよ、といつあ。
ボクは、安倍政権の皆さんに、先ず、小・中学校で「道徳」の授業を学んでもらいたいと思います。コトは、その後です。(笑)
検定の教科書。気持が悪いですなー。(笑)
毎田周一師の言葉をお届けします。
◇人生観の深さは、どこまで死の問題と取つ組んでゐるかに比例する。
◇自分の姿が見えないで、思い上ってゐる所に滑稽が、
卑下してゐる所に悲惨が、それぞれ成立する。
(全集第9巻 407㌻)