近江国中原氏から九里氏となり、系図の中・1300年初め辺りに
『乗如』という僧の名がある。
註に【般童寺 僧】
此の【般童寺】を調べてみると、甲賀、山伏、修験道、役行者、醍醐寺、三宝院、笈渡しなどのキーワードが出てくる。
笈(おい)とは、修験道の山伏や行脚僧が各地を遍歴する際、仏像や仏具、衣服、食器を入れて背に負う箱だそうである。
飯道寺(般童寺)と熊野とは深く繋がっているのか、そのあたりをこれから調べていこうと思う。
その乗如の甥『秀方』の註に【住 熊野】と記載があり、
其の乗如や秀方が、和歌山の九里系図につながってくると思う。
回尊(円尊?般童寺)・行長(熊野前坊・般童寺 越後房)文明十六年 為熊野前坊
文明十六年(1484年) 熊野前坊
享禄三年(1530年)68歳 という事は、1512年生まれの行長である。
乗如や秀方とは200年近くを経ているが、同じ般童寺と熊野が登場しているので、つながりがあると思う。
私の予想では佐々木経高の時代が中原久経とほぼ同世代で、母が波多野氏とつながりのある宇都宮氏(中原氏)と思われ、久経とも旧知の間柄ではなかったか?とさえ思う。
承久の乱で共に朝廷側として戦っていた経高と息の高重だが‥‥
Wikipediaによると
「高重の死については、『大日本史料』五編所収の「承久三年四年日次記」貞応元年(1222年)5月10日条に、熊野山住の僧侶「岩田法眼行盛」(熊野別当家庶子家)が同年5月6日に左衛門尉源(佐々木)高重とその猶子・渋野四郎を「岩田辺」(現・和歌山県上富田町上岩田付近)で誅し六波羅探題にその頸を送り届けてきたと書かれているので、高重は承久3年(1221年)6月16日の時点では死なず、翌年、熊野に逃亡する途中で死去したことがわかる。」とある。
和歌山の九里系図では、六角氏に仕えている様子がうかがえるが、
京極氏と六角氏に分かれる【分岐点】にも居合わせていた九里である。
京極氏の祖・佐々木氏信の妻が野尻(波多野)時光の娘であり、満信と宗綱を産んでいるという説もある。
野尻時光(波多野時光)の娘が佐々木氏西條氏となる氏綱の母となっている。
九里助泰は、六角氏頼(1326-1370年)に仕えている。
「六角氏頼の妻は京極道誉の娘」「斯波氏頼の妻も道誉の娘」であり、混同している可能性もあるのかもしれない。
小堀氏となった方は京極方につき(後の小堀氏と久徳氏ではないだろうか?)、九里となった方は六角方についたのではないかと、思っている。
が、わざわざ「九里」「小堀」と記載があるという事は、それまでは違う苗字であり、そこから新たな苗字となったように思える。
下記の系図、この中途以前は眼にしたことがなく、ご存知の方がいらしたら、是非教えていただきたいです!
一体○○氏から九里になったのだろう。
近江国と同じように中原氏からなのか?
はたまた、波多野氏?
そこがとても知りたく思うのだ。