九里 【九里】を探して三千里

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藤原定家の山荘 小倉山麓?

2017-05-29 | 雑記




清原夏野の別荘

清原頼業の車折神社

小倉山

藤原定家別荘 ここに為家も住す…とか、書かれている。

このあたりは、別荘地だったのだろう。

荘園とも関係あるのかな?と調べていて、「石見国久利郷」が出てきた。

【荘園コード】
4702006
【国名】
石見
【郡名】
迩摩
【荘園名】
久利別符
【フリガナ】
クリ
【重複コード】

【参考市町村】
大田市
【市町村コード】
32205
【明治村字名】

【史料村郷名】

【領家・本家】
国衙領
【初見年和暦】
久安三年
【初見年西暦】
1147
【出典】
久利文書・益田家文書
【遺文番号】
ヘ2602・カ3080
【記録類】

【関係文献】

【地名辞典】
 荘園志料=なし・角川地名=別符号なし→久利郷=銀山川中流域、赤波川・戸蔵川の合流点付近=康平6久利郷司職清原頼行=久安3久利別符
【備考】
 カ3080=貞応2石見国田数注文=迩摩郡公領=くりのかう20丁5反余


そうだった、久利と清原は密接な関係があったのだ!



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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
今も定家別荘跡地の表記が有ります。 (自閑)
2017-05-30 04:57:02
kunori様
今も定家別荘跡地の看板が有ります。
中院山荘跡(小倉百人一首ゆかりの地)
〒616-8425 京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町 府 道 50 号線
http://maps.google.com/?cid=14048306783178331637&hl=ja&gl=jp
私の関心は、西行の庵跡と清涼寺と落柿舎でしたが。
古い地図はとても興味深く拝見致しました。
京都の古い物は、応仁の乱、天明の大火、東京遷都の後は、関東大震災と東京大空襲で焼けてしまったので、貴重ですね。
返信する
追伸 (自閑)
2017-05-30 12:47:15
小倉山麓近くの二尊院の奥には、定家の別荘の時雨亭後が有ります。あくまでも伝承ですが。
返信する
別荘跡地 (kunorikunori)
2017-05-30 12:59:06
自閑さま

焼失、痛ましいデス。では、残っている地図はなんとかそれらを乗り越えてきたものなのですね。
webで見ることができて、本当にありがたいです。

西行!wikipediaの中の「源頼朝との出会い:
頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて、一切忘れはてたととぼけたといわれている。
頼朝から拝領した純銀の猫を、通りすがりの子供に与えたとされている。
…の話が大好きです。自閑様のブログで、西行勉強します!
返信する
別荘跡地 (kunorikunori)
2017-05-30 16:38:10
自閑様

定家別荘情報、ありがとうございます。

小倉山が気に入っていたのですね。
800年前は、うっそうとした山の中だったのではないでしょうか。

返信する
御興味を持たれるか分かりませんが (自閑)
2017-05-30 18:54:49
西行と頼朝が会った時、流鏑馬の話だけをしたとのこと。
鶴岡八幡宮の流鏑馬が始まったのは、「1187年(文治3年)8月15日、源頼朝が放生会の後に奉納したのがそのはじまりとされ、」Wikiと文治二年八月十五日の会談から丁度1年後です。
北面の武士の正当な流鏑馬の作法を伝えたのでは?と推察する学者もいました。
又、お邪魔しますね。
拙句
山迷ひ夏木立有りたちどまる
(本歌は西行の柳蔭です。)
返信する
興味あります! (kunorikunori)
2017-05-30 19:52:59
自閑さま

興味あります。
徳大寺家に仕えていたとあり、西園寺にも、徳大寺にも、近いところにいた西行さん

きっと九里・中原とも、どこかで出会っていると思います。
それに、ピュアなお人柄なのでは…と思うと、好感持てます。
あらっ、自閑様は「放浪する歌人・俳人」がお好きなのですね。
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