九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

清原清定、息は齋藤左兵衛尉長定(入道浄円)・清原夏野と清原長谷

2017-05-30 | 清原氏バラバラ情報
前々回の最後に『清原清定』が登場したが、驚くほどたくさんの文書が残っていた。

まず、コトバンクより
清原清定

生年:生没年不詳
鎌倉前期の幕府公事奉行人,政所寄人。『尊卑分脈』は,実父を藤原時長の子孫の以邦,清原信定の養子とする。図書允,左衛門尉。京下りの文筆官僚とみられ,鎌倉幕府内での重要政務や訴訟裁決さらには各種行事に精通した奉行人として活動していた。また右筆役となり,執筆の任を果たすことも多かった。建久5(1194)年には大庭景能,安達盛長と共に,鶴岡八幡宮担当の御願寺社奉行となる。建仁3(1203)年源実朝の征夷大将軍就任による政所始めには家司として参加。さらに武蔵・駿河などの大田文作成を命じられる。幕府評定衆の長定・満定は子息。
追記(私)清定 清左衛門 鎌倉右大臣家令
     長定は子孫在藤・右大臣評定衆 本姓斎藤  と系図にあった。


?-? 鎌倉時代の幕府官僚。
清原満定(みつさだ)の父。図書允(ずしょのじょう),左衛門尉(さえもんのじょう)。幕府公事(くじ)奉行人,政所寄人(まんどころよりゅうど)となり,重要な政務や訴訟の判決にたずさわる。建久5年(1194)には大庭景義(おおば-かげよし)らとともに鶴岡八幡宮の御願寺社奉行をつとめた。

同じ「清定」であり、かぶっている時代(1200年初頭)に【大中臣清定】がいる。

中原秋家は【大中臣秋家】であったが、この清定はどうなのだろうか?

別々な場所で働いているので、別人と思われるが、情報が少なくよくわからない。

~~~*~~~

清原氏を遡っていくと、天武天皇・舎人親王となるが、其の外にも「江州井口中原氏」と重なっている人物がいた。

「清原長谷」
延暦22年(803年)陸奥大掾に任ぜられ、同年には造志波城使・坂上田村麻呂によって志波城の築城が行われており、長谷もこれに従事したか。…とある。

坂上氏とも、ココが接点であったのかもしれない。

他に、気になる人物 ↓

例えば「清原夏野」
父は小倉王、母は小野縄手女である小野家主 であるそうだ。 ココが、清原氏と小野氏との接点であったかもしれない。




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 藤原定家の山荘 小倉山麓? | トップ | 清原頼業の系図(一部)memo »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

清原氏バラバラ情報」カテゴリの最新記事