九里 【九里】を探して三千里

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永原氏に入った六角高賢・重賢 周辺 web情報と書籍より 近衛尚通と九里源兵衛、鳥羽乾氏

2021-03-10 | 佐々木氏

せっかく昨日春が来たと思って喜んでいたが、本日は吹雪。。。毎年がっかりさせられる。。。

 

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佐々木哲学校の記事によると、

http://blog.sasakitoru.com/201009/article_2.html

この二人は・・・一人だった?



「永原伊豆家の系譜伝承である『永原氏由緒』では高賢を「重賢」とし重秀がこの重賢の養子であるという。では、この高賢・重賢は誰であろうか。実は、六角氏の一族鳥羽氏が鳥羽・江部両庄の地頭であった。

 観応の擾乱の最中である観応二年(1351)八月四日付文書で、六角氏頼の三弟山内定詮(近江守護代)が石山寺領富波(鳥羽)庄を軍勢の宿所として兵糧米を課したため、尊氏から押妨の停止を命じられている(前田家文書)。

文和三年(1354)四月八日付文書では、京極導誉が佐々木美作前司(富田秀貞)の跡地として江辺・富波の下司職を足利義詮から与えられた(佐々木文書)。しかし同三年閏十月山内定詮は再び半済をかけた(前田家文書)。

六角氏は地頭として、京極氏は下司として、両者ともに権益を有することになった。

・・・・・・鳥羽氏が江辺庄に進出していたことが分かる。



鳥羽氏は山内定詮の子息五郎左衛門尉詮直に始まり、五郎左衛門尉高信(詮直子)・五郎左衛門尉高頼(山内定詮孫、次郎左衛門尉義重子)と続いた(『続群書類従』巻百三十二および百三十三佐々木系図)。続群書類従巻百三十二では鳥羽高信を、氏頼の次弟愛智河直綱の子にも記しており、観応の擾乱で尊氏派の近江守護であった愛智河直綱の跡を継承していたと分かる。

観応の擾乱で氏頼は出家し、次弟愛智河直綱(四郎左衛門尉)が尊氏派に、三弟山内定詮(五郎左衛門尉)が直義派になって、それぞれ近江守護に補任された。高信が祖父定詮と同じ通称五郎左衛門尉を名乗りながら、山内氏を継承しなかったのは、大伯父愛智河直綱の跡を継承したからだと分かる。


さらに永原安芸家を六角高頼の兄高賢の子孫とする系譜伝承は、鳥羽五郎左衛門尉高頼を六角高頼と混同したとも考えられる。

・・・・

ところで六角氏奉行人重信は、文明七年(1475)十一月六日(野洲郡兵主神社文書)から明応七年(1498)十一月二十一日(永源寺文書)まで奉行人として活躍し、署名した奉行人奉書六通を確認できる。
さらに、重信の子と推定できる重隆も、延徳元年(1489)十一月十日から明応八年(1499)九月七日まで六角氏奉行人であったことが確認でき、三通の六角氏奉行人奉書に署名している。


この奉行人重隆を天文期の越前守重隆と同一人物とすると年代が合わない。また花押も異なり、
奉行人重隆の花押はやはり奉行人重信の花押に似ており近親者と分かる。

明応七年(1498)の菅原神社本殿棟札見える越前守重秀は、その翌年まで文書を確認できる奉行人重隆は同時代人であり、すでに六角氏奉行人として活躍していた重隆が一世代上と考えられる。

『永原氏由緒』で重秀の養父とされる「安芸守重賢」は重隆であろう
 永原氏の系譜伝承では、三宅系図では安芸守実高とする人物を、永原氏由緒では安芸守実賢とするように、「高」と「賢」が混同される。重賢も重隆の可能性が高い

 

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永原重賢と高賢は同一人物である。

永原氏の系図に出てくる「高頼」は六角高頼ではなく、別人である。

永原越前守重行の息である「重賢」は、六角高頼の息と考えていいのだろうか?

そこを見ていくと・・・

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佐々木哲学校の記事の続きである。

「永原氏系図の復元
 永原氏の系譜伝承では、永原氏を安芸家と越前家に分け、六角氏出身の安芸家を嫡流とする

永原伊豆家に伝わる『永原氏由緒』と、
市三宅城主永原馬允家に伝わる三宅系図があり、

『永原氏由緒』では伊豆家の飛騨介実治を安芸守実賢の養子とし、
三宅系図では永原馬允家を安芸家につなげている。

そこで両系図から永原氏系譜を再現してみよう。
『永原氏由緒』で安芸(大炊)家に相当する人物は、まず安芸守重賢である。
六角氏の庶子重賢は、永原越前守重行(資料上の吉重)の娘を娶り、さらに越前守重行の子重秀を養子にしたという。

この安芸守重賢には山城守重時と左馬允重春らの子があった。さらに越前守重秀の嫡子筑後守重頼で、ほかに七男の安芸守頼信がある。さらに筑後守重頼の五男に大炊助重冬がある。ここから越前家の重秀を除き、年代順に人物をつなげると、安芸守重賢―山城守重時―筑後守重頼―安芸守頼信―大炊助重冬となる。・・・」

 

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次に気になっている永原重隆を見てみると以下のように、二人いたことがわかる。


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「永原越前家の系譜
越前家を継承した越前守重秀は、野洲郡と甲賀郡の境に小堤城を築いて居住した。小堤城は野洲・栗太両郡の中で最大の山城で、郭の配置は東山道を意識しており、六角氏の指示で築城されたものと考えられる。
重秀の子息重隆は、(大永五年)正月二十九日付永原太郎左衛門尉宛伊勢貞忠書状案(書札之御案文)から資料で確認できる。前世代の永原安芸家の人物である六角氏奉行人重隆とは別人である。

このように安芸家と越前家に同名の人物がいることが、系譜の混乱につながっていると考えられる。
また『永原氏由緒』に重隆が記されていないことも、安芸家と越前家の重隆が混同されていたことを示している。


大永七年(1527)六角定頼が足利義晴の入洛に供奉したとき永原重隆(太郎左衛門)も従軍していることが、十月九日付山崎惣庄中宛永原重隆書状(離宮八幡宮文書)で分かる。

また、このころ重秀から重隆に世代交代があったことは、細川高国派であった讃岐守護代香川元景(中務丞)からの(年未詳)十一月十二日付永原太郎左衛門尉宛書状写(阿波国徴古雑抄所収飯尾彦六左衛門文書)に「仍越州之御時」とあることで確認できる。

天文九年(1540)に伊勢神宮内宮の造り替えが行われ、同十一年(1542)十二月に完成した仮殿に遷宮されたが、この造営費用七百貫文は、永原氏が支出した。永原氏が富裕であったことが確認できる。

軍事面でも、天文八年(1539)永原越前守重隆が六角軍を率いて摂津国に出陣し、また(天文十六年)十月十一日付永原太郎左衛門尉宛細川晴元書状写(諸家文書纂)で、永原太郎左衛門尉(重興)が西京大将軍口合戦で比留田弥六の首級を挙げたことを感謝されている。

弘治元年(1555)には永原越前守(重興)宛に七月三十日付松永久秀書状写(阿波国徴古雑抄所収三好松長文書)と八月二十日付安見宗房書状があり、また永原越前守入道宛に十一月七日付浅井三好長慶書状写(阿波国徴古雑抄所収三好松長文書)がある。弘治二年(1556)三月二十四日於江州永原越前守新宅張行と称して宗養紹巴永原韻があった。

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ココがしっくりとこないのだが、1539年に出てくる永原越前守重隆、この人が、天文期にでてくるので、私が知りたいと思っている人物のようである。


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『永原氏由緒』によれば永原大炊助の妻は美濃斎藤氏であり、永原氏は美濃には明るかったと考えられる。
そのため信長による稲葉山城攻略に関与したのだろう。それ以来、永原氏は信長に誼を通じていたことが、信長条書で分かる。しかし『信長公記』に大炊助も越前守も登場しない。

・・・・・・


実は『信長公記』には越前守に替わって「永原筑前守」が登場する。越前家と筑前家は混同され、『信長公記』に見える「永原筑前守」は「越前守」の誤記とも見られるが、一箇所の誤りではなく「筑前守」で通されており、越前守重虎ではなく、永原筑前守重康であろう。筑前守は、式部丞氏重の養子筑前守重頼(前筑州重頼画賛)に由来すると考えられる。」



市三宅城主永原氏


 この市三宅城主永原氏は、永原孫太郎入道・彦太郎の跡を新左衛門入道正光と争った三宅氏の子孫であろう。『永原氏由緒』によれば、永原重賢の子左馬允重春がその三宅氏を継承して子の備後守と続き、さらに筑前守重頼の子弥左衛門久重が養子に入った(永原氏由緒)。久重の名乗りは、六角義久(江州宰相)の一字書出を給付されたものだろう。

明智光秀の家老明智左馬助秀満(三宅弥平次)は、仮名に「弥」の字を使い、左馬助を名乗っており、永原庶流三宅左馬家の出身と考えられ、三宅永原氏の三宅藤右衛門が明智光秀の家臣に見える。
安芸家惣領の大炊助重冬も、天正十年(1582)明智光秀の乱で観音寺・安土落城後に明智氏に属し、山崎の戦いで戦死した。

市三宅城主永原氏系図で左馬允郷高・源八高盛らは左馬允を通称としており、この市三宅城主三宅氏の子孫と考えられる。
このうち源八高盛の子右馬允郷孝は、天草島原一揆で幕府軍大将の板倉重昌を見舞い戦死したという。
これは、寺沢家重臣三宅藤兵衛が討死にしたことを伝えているのかもしれない。
そうであれば三宅藤兵衛は明智秀満の直系の子孫ではなく、同じく三宅永原氏の子孫であろう。

また実名に「高」の字を使用する永原刑部大輔高照(一照)も安芸家出身と考えられるが、山内一豊が長浜城主だったときに仕えて山内家家老になり、一豊から山内姓と諱字を給わった。また一族の乾正信も山内家の重臣となり、一照の次男正行(平九郎)がその跡を継承している。通字の「正」は永原新左衛門入道正光を連想させ、また通称の「平九郎」は三宅弥平次を連想させる。三宅永原氏の一族であろう。」

 

長い引用であったが、難しすぎて何度も読まないと理解できないと思う。

 

 

天文期の「永原越前守重隆」ことを知りたいと思い、「六角定頼」(村井祐樹著)にあるかどうかを調べると、そこに「永原重隆」が定頼の家臣として登場していた。

 

===*===

 

『六角定頼 部門の棟梁、天下を平定す』 村井祐樹著 ミネルヴァ書房 より

 

p.102 「定頼は義晴の近江落ちに供奉し、ひとまず坂本まで落とし、‥‥。

その間七月十三日に、」家臣永原重隆・進藤貞治が上洛し、晴元側と洛中の地子の扱いについて相談を行っている(「二水記」)。・・・」

 

p.147 「・・・その証拠に、九月十三日、長慶から芥川城を請取に行ったのは、定頼家臣の進藤貞治と永原重隆だった。(『親俊』)」

 

===*===

 

以上のように、越前守かどうかは書かれていない。

 

足利義晴(六角定頼)と細川晴元との間での相談のために進藤・永原氏が京都に赴いているようである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%99%B4%E5%85%83

因みにこの細川晴元と六角定頼の娘は夫婦となっている。(正室は三条公頼娘。)

 

この時代を知る事が、九里源兵衛を良く知ることと成るだろうと願いつつ読んでいるのだが、

 

「『後法成寺関白記』享禄元(1528)年7月3日条に「九里源兵衛が堺に下向するので、近衛尚通が近衛家領のことを源兵衛に申し付ける」という記述がある。」

この『後法成寺関白記』の著者は近衛尚通、その人であり、堺に行く予定のある九里に申しつけて置く‥‥という事で、六角定頼との連絡であったのだろうか?

 

その辺りを調べている際に ひとつ論文が見つかった。

『桑実寺縁起絵巻』と慶寿院の結婚をめぐって(下) 小谷量子 著

上記の高屋二位の部分が不明であったが、永原被官の高屋氏がいたことがわかる。

また、九里源兵衛は近衛尚通の娘継孝院の領を守ってくれるように、と近衛尚通本人から言い渡されたという事になろうと思う。(源兵衛は近衛氏に仕えていたのだろうか? 六角氏家臣であったのだろうか?)

其の二人(近衛尚通と六角定頼)の「申し次」であったのかもしれない。メッセンジャ―の役目と思う。

伝えた後に、永原被官の高屋氏他が家領が侵害されないように其の領に赴いたという事のようである。

 

===*===

鳥羽と云えば、鳥羽乾氏がいたと思う。鳥羽乾孫三郎とあったはず。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E4%B9%BE

関係があるかもしれない、乾氏と鳥羽庄

 


鳥羽上荘 

鎌倉期から見える荘園名。坂田郡のうち。現在の長浜市鳥羽上北町・鳥羽上南町に比定される。康応元年の文書に「近江国鳥羽上荘号常喜新庄」とあり(青蓮院文書),常喜【じようき】新荘とも称していたことがわかる。鳥羽上荘は後鳥羽上皇の御影堂領として設けられ,正和3年,宗舜なる人物が預所職を宛行われている(青蓮院文書)。なお,文和3年には京極道誉が下司職を得ており,さらに下って応永11年には「鳥羽上庄半分預所職并給以下本所分」を山門使節金輪院弁澄に沙汰付するよう,六角満高に管領施行状が下っている(今古令旨)。鳥羽上の小字に政所【まんどころ】があり,鳥羽上荘の政所があった所と考えられる。



金輪院弁澄は、応永十五年(1408)八月三日本覚院門跡満守から本覚院領近江国鳥羽上荘奉行職を安堵されてお嬬㌣応永廿六年には青蓮院義円が天台座主になるとともに、「中堂夜叉」「天台末寺美濃国長滝寺」「天台末寺近江国・':(12)・-▲」朝妻寺」等の奉行をひきうけており、山門の坊官として荘園経営や末寺運営の実務を領掌していたようである。-「菅浦文書」には年未詳の金輪院英璽状があ麺・英澄は弁澄の父親にあたり・文和=一年(・『)には月輪豪い、(14)覚と争い、山上で万をこす僧兵がパお互に城郭を構えて合戦したと云われている。「山門使節」となった金輪院.月輪房の軍事力の程がうかがわれる。また、応永措三年六月、坂本の馬借が北野社の麹独占に抗議して一揆を起したとミ「錐覆節三人纏ゼ董叢藷鉦曇、、庇護外翼震至薔畠讃仰出題嚢町殿被仰付永享の山門騒動の,責をう山門使節三人令追出坂本放火住宅了」とある。その後舟渡は永享七年(1435)二月四日、け・幕府に捕えられ・月輪房慶賢等と共に悲田院に謀殺されて心胆。、


(11)「今古令旨」(史料編纂所謄写本)大御堂本覚院領近江国鳥羽上庄奉行職事べ任相伝之旨、如元御知行不可有相違之出所候也、傍執達如件、応永十五年八月三日権律師判金輪院註記御房「(忠慶)近江国鳥羽上庄半分預所職昇給以下本所分事、B昇任尊勝院補任、㍗可被沙汰付金輪院弁澄之由、所被仰下僕、価執達如件、(畠山基国),応永十一年三月十二日沙弥判(六角嵩高)佐々木備中前司殿近江国鳥羽上庄預所職事、.,被成下御教書之上者、早任先規可複数奉行之由,、尊勝院僧正御房所候也、価執達如件、応永十一年三月廿三日権大僧都判金締焼御

山門領近江国富永荘の研究-中世後期における荘園の支配とその様相  福田榮次郎 著

 

 


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