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熊野別当行範(4) 祖父長快と藤原実方周辺・藤白鈴木氏周辺

2017-08-26 | 熊野氏
長快が藤原実方の息とし、そこから藤原氏(北家小一条流)の周辺を探ってみたい。

wikipediaによると
藤原実方の父は定時であるが、早世の為叔父の藤原 済時(なりとき)の養子となったそうだ。
定時の父親は藤原師尹で、母親が藤原定方女となる。

藤原定方の両親とは、近江国雨森氏の祖といわれている藤原高藤と宮道弥益女の列子である。

定時の妻が【源雅信女】となる。

そして、実方と同じ母の妹が鈴木重実室となるのである。実方が重氏息である重豊の女を妻とすることになる。そして長快が生まれる。

反対意見もある。
「熊野別当家は熊野別当職を重代職とすることの正統性を示すため、熊野別当家を貴種に連なる家系であると主張する「熊野別当代々次第」なる系譜図を作成した。しかし、そうした主張は同時代には受け入れられたわけではなかった(宮家準『熊野修験』〈吉川弘文館(日本歴史叢書)、1992 ISBN 4642066497〉、pp.18-19)。」


鈴木重実と実方の妹との間に「重武」が生まれる。

重武の息が「重康」さらに、重康の曾孫に「重邦」「重次」がいる。
重邦の息が、鈴木 重倫( しげのり/-しげつね)で、その息が「鈴木重家」「亀井重清(佐々木六郎重清)」となるのである。

wikipediaから其の周辺の事情をコピーさせてもらうと、
「鈴木重善」
兄の鈴木重倫が平治の乱で戦死するとその子である鈴木重家らを託された。源義経への志が深く、源平合戦(治承・寿永の乱)では自らが病持ちのため甥の重家、重清を義経に従わせ、源氏の勝利に貢献した。源義経が源頼朝と対立して奥州に逃れた際、義経に従っていた鈴木重家、亀井重清の後を追い、叔父の鈴木重善も文治5年(1189年)に奥州に向かった。しかし三河国の矢作まで来たとき足を痛め、数日逗留している間に義経をはじめ重家・重清も討死にしたと聞き、奥州行きをあきらめこの地に土着したという。


まさに、この場所が鳥居氏の系図にある【矢作庄】なのではないだろうか?
つまり、長快の孫である鳥居となった熊野別当行範、そして、行範の系が遡ると鈴木重豊女と藤原実方となるために、この矢作庄が伝わったのではないだろうか?

長快(鈴木重豊女・藤原実方の息)~長範~行範(・熊野別当・鳥居法眼・重氏・道観ヵ)~行忠~真野・間宮・渡里(渡)矢作庄へ移住

近江国伊香郡に入って来たのも、藤原高藤が祖であった「雨森氏」がいたからかもしれない。






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