kumaの「それなりにやってみようかな…」

子宮体癌経過観察中です。

病院の実力2009

2009-06-30 | 関心のあること
「病院の実力2009、読売新聞医療事業部編」


前にもちらっと書きましたが、ついに手に入れました。

私的感想では、新聞記事を基本に、

色々な角度からインタビュー、コラム、コメントを加えた感じの仕上がり…と。


☆私の気になる子宮ガン・卵巣ガンの記事は、

藤田保健衛生大産科婦人科教授、宇田川康博先生への取材が行われていました。

藤田保健衛生大は愛知県にあるそうですが、

月に一度は、東京の病院の外来に出られて、10年以上前に、
慶応大学病院で手術された患者さんを診察されているそうです。

他にも色々インタビューに答えられていますが、これで内容は控えます。



☆乳がんの記事は、
順天堂大医学部教授、乳腺センター長、霞 富士雄先生です。

私は、乳がんのことは、罹っていないため、よくわかりませんので、
記事の内容をどう載せて良いのか見当がつきません。

ので、内容は「温存率」のお話、ということで略させていただきます。



中島梓著「アマゾネスのように」はもう少しで読めそうです。
近々、感想を、と思っています。



※今日の写真は、我が家のヘチマ君
前は、紐に伝わらせていたのですが、グングン伸びて、すぐにベランダの天井に届きそうな勢いでしたので、窮屈そうですが…朝顔枠にまき直してみました。
これもすぐはみ出しそう…


アンパンマンとがん

2009-06-30 | 関心のあること
この頃、読売新聞の「医療ルネッサンス」のシリーズは、

「老いの達人」です。

本日6/30は、「アンパンマン」の生みの親である「やなせたかし」氏のお話です。

今年2月に90歳を迎えられたとのこと…

これだけなら{長生きの方だなあ}と思って流してしまうところ。

--------------------------------記事概略

「体の中はみんな壊れている。ハッハッハッ」とのこと。

病歴は、
60歳代後半で白内障と緑内障、
70歳代では心筋梗塞、
その後、膵臓の病気で一部を切除、後に糖尿病を発症、
85歳で腎臓がんが見つかって、左の腎臓を摘出、
86歳で膀胱がんが見つかり、手術や放射線治療など10回以上の治療を受けられる。


しかし、病気以上にこたえたのは、93年に最愛の妻を乳がんで亡くされたとき。
眠れず、食欲がなくなり次第に痩せて…

それでも仕事が来て、何とかこなしているうちに少しずつ元気を取り戻されたそうです。

歌好きも高じて84歳でCDデビュー、年に5,6回はコンサートで歌を披露。
おしゃれにも気を使い派手な服を着て、服にまけないよう、気力を奮い起こせるのだそうです。


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子供は「アンパンマン」の番組大好きでした。
その関係で、よく作品を拝見しましたが、微塵も作品にはそんな気配は感じられませんでした。

”プロ”の一言ではとても済まない気がします。


漫画家が白内障や緑内障を患うことは、普通の人より大変では?

がんにも2回も罹るなんて…

「最愛の妻」も乳がんで亡くされる。


いくら日本人の1/3ががんで亡くなる時代とはいえ、
気持ちをしっかりと持ち、仕事をしておられるのは…見習いようがないほどスゴイと感じます。

だから、「アンパンマン」が不滅のヒーローとして、いまあるのでしょうか?


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記事より

「僕は三かく主義」
詩を書く、絵を描く、恥をかく。恥を恐れずに好き勝手やる。
体はボロボロでも、人生を楽しく生きようと思えば、楽しくなるんです」


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とても、こんな境地には近づけないですが、
未熟ながら、ボチボチやっていく毎日です。


※今日の写真は「あんぱん」ではなく「イチジクパン」
白ワインに浸けた干しブドウとイチジクが入っています。
この手のパン、大好きです。
あんぱんもすきですけどね…

術後1年検診の結果

2009-06-29 | 退院後
術後1年を明後日に控え、

CT検査を23日に済ませ、6月17日の定期検診の血液検査と細胞診を
加えた結果を今日、転院後の病院で、昔からの主治医の先生を受診してきました。


(主治医のお話)

1.CT検査の方は、「気になるようなことが書いてあるけれど、気にするほどのことではないので大丈夫」

2.腫瘍マーカーや細胞診は、全然異常なし。

の2点で終了。


(私)
1.相変わらず、この系列の病院は、何も目に見えるデータの提示がないなあ、と。

2.CTの1枚くらいシャウカステンにかけて見せてくれるのかと期待していました。

3.血液検査の結果の表も欲しいなあ。


4.「気になることが書いてあるけれど、気にしないでいい」とは?
サッパリ分からないので、

Q、そのまま口に出して「それって具体的には、どういうことですか?」と質問しました。

A、「傷口が多少むくんでいるってことです。」(先生)


5.傷口がむくんでいる?
  「CTの画像で判断する傷がむくんでいる状態」とは何でしょう?


  先生に気を使って、これ以上突っ込まず、長引かせず帰りました。

  私が診察券を出したとき、先生が診察室から出て、ちょうど受付の前の
  看護師さんに、何かものを渡されていたときで、
  30分早く来た私は、先生に見つかってしまいました。

  確か、午後一番を予約したのですが、
  いつも、学校終わりを気にして早く帰る私を知っておられる先生は
  (先生も早く来れば早く帰れると前病院で言われていましたので)
  多分、お昼休みを挟む前に診察してくれた気がしました…。

  
  次回の9月の予約を入れていただき、退室しました。

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どうせ、大したことではないそうなので(命に関わる)、また9月にでも、
聞いてみます。
血液検査の結果もついでにプリントアウトをお願いしようと思います。


今日は、実は病院に来るまでに、子供の風邪?で朝から、近くの医院に
朝一番から行き、子供を家に一人で置いたまま出かけることが出来るか、
迷った挙げ句…子供を置いて通院しましたので、ちょっと気もそぞろで、
どうしてるか?早く帰ろうって感じでした。
(一応、夫にも電話して置き去りのOKを取りました。
でも本当はちょっと帰ってきてくれるかな?と期待しましたが…


今日は、病院の掛け持ちで1日バタバタしましたが、

術後1年もすれば、こんな感じで過ごせるのか…と考えれば

昨年の今と大違いで「よかった、よかった」と思うようにします。


しかし、子供っていつも肝心なところで、こういうこと、よくしますね。

「マーフィーの法則」登場です。




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今日の余談(グチ)

子供の熱の原因は、稽古事の合間を縫って

学校→帰宅→稽古事→帰宅→公園→帰宅ってフルタイムでやっているからです。

公園も遠いところまで行って…汗と泥まみれ

実は子供は稽古事のない曜日は、土曜日だけです。

あと、週2回、2つ稽古事に通う日があります。

「今、公園がマイブーム」です。


私も、「母親が病持ちだから、何かが出来なかった」って、
子供に、将来言われたくなくて、意地で、「やりたいものはやっていい」と
思っているところがあります。


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※今日の写真は「フォッカチオのパン」と「クルミのパン」
よく、手話の帰りによるお店です。

コラムの最終回

2009-06-28 | 関心のあること
毎月1回、掲載されていた乳がんと闘う、本田麻由美記者の記事がいつの間にかなくなっていました。

私は、なんでこの頃ないのかな?とぼんやり考えていただけでした。

前も、私自身が、「がん」の二文字を見るのがイヤで、
ブログの方向性を見失っていた、ちょうどその時、この記者さんは、
「がん」と対峙して生きると強く述べられていて、
記者という仕事をする人は、強い!と書いたことがありました。

が、「うつ病」に罹られてたとは…。

やっぱり記者である前に、一人の人間として葛藤されていたのですね。


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(最終回)読者から反響2000通…「信頼の医療」へ書き続ける
本田 麻由美記者

☆以下抜粋(長篇です。)


今年に入って休載が続き、読者の皆さんや知人らから、問い合わせのメールなどをたくさんいただいた。実は、年末に「うつ病」と診断され、休まざるを得ない状況だった。先月からようやく職場に復帰、少しずつ仕事を始めている。皆さんにご心配をおかけしたことを、まずおわびしたいと思う。

 うつ病で休業

 「立派にうつ病の範ちゅうに入っていると思いますよ」。都内の心療内科クリニックで告げられたのは、昨年11月末のことだった。

 1~2年前から、体がだるく何をするのもおっくうで、不眠に悩むようになっていた。乳がんの定期検査のたびに思わしくない結果が出たりして、ストレスや疲労が蓄積しているせいだと思っていた。

 それが、昨年10月ころから、経験したことのない症状が表れだした。

 「うつ、だったんですか……」。そうつぶやく私に、医師は「仕事を休んで、何も考えず過ごすのが一番」と提案した。長期間の休みを取ることには抵抗があったが、抗うつ剤を服用しても状況は大きく改善せず、結局1月末から休むことになった。

 休んでいる間は、起きることも風呂に入ることもできず、一日中ボーッと座ったままの日が何日か続いた。罪悪感でめいったが、力強く「それでいいの!」と肯定してくれる医師に救われた。家族も同僚も辛抱強く見守ってくれたおかげで、3か月ほどで職場に戻ることができた。

 躁的防御

 国立がんセンター東病院の医師らによると、がん患者のうつ病有病率は、予備軍とも言える適応障害をあわせると、15%~40%に上る。

 ただ、がん患者のうつ病は、告知の直後や、3~5か月たったころ、再発時などに多いとも聞いた。私の場合、なぜ手術から7年もたってからなのか。医師は、背景に「躁(そう)的防御」という心の作用があると説明してくれた。

 2002年5月に34歳で乳がんを告知されてから、1年のうちに〈1〉乳房温存手術〈2〉がんの広がりが分かり全摘手術〈3〉局所再発が見つかり部分切除手術――と3度の手術を受けた。ショックは大きかったが、「生きるための闘いに全力で挑もう」と行動することで不安を封じ込めようとした。納得して治療を選択するため主治医らと議論し、乳がんとその治療法の勉強に全神経を集中させた。

 抗がん剤や放射線の治療を受け、ホルモン療法に切り替わったころ、今度は卵巣がんの疑いを指摘された。乳がん再発をにおわせる検査結果も続いた。自分の死が足音を立てて迫ってきたような恐怖にとりつかれ、それを振り払うかのように、03年4月から、このコラムの前身「患者・記者の視点」の連載を始めた。

 医療・介護を取材してきた記者として、「患者になって初めて見えたことを書かずには死ねない」と、気持ちを高揚させた。未承認薬の早期承認や医療水準の地域格差解消を訴える患者仲間と出会ったのも、このころだ。同じ目的意識を持ち、彼らの訴えやがん医療の問題点を書き続けた。

 「何度もカンフル剤を打って頑張ってきたんだね」。医師はそう言い、「でも、それは見せかけの元気。いよいよ心のエネルギーが枯渇してしまったんだ」と付け加えた。人は重大事態に直面すると「否認→怒り→不安と抑うつ→受容」という道をたどるという。だが私は、自分を躁状態に置くことで抑うつ状態に陥るのを防ぐ、という行動を繰り返した。その結果、治療の副作用の影響もあり、疲れ切ってしまったらしい。今回、うつ症状で休んだことは、私自身がやっと「受容」に進むためのステップだったのかもしれない。

 生き方の選択

 闘病を振り返って痛感するのは、「治療の選択は生き方の選択」ということだ。私の場合、より効果の高い治療を選ぶのは、妊娠・出産をあきらめるにも等しいことだった。子供を持たない人生を受け入れるかどうか。結婚4年目の私にはつらい選択だった。

 今でも「乳がんなんかにならなかったら」と思うことがある。仕事でも家庭生活でも充実したはずの30歳代の大半を「がん」に占領されたことは悔しい。だが、得たものも少なくない。04年4月に始めたこのコラムも、100回まで続けることができた。これも、読者の皆さんの応援と、取材でお世話になった患者さんや医療関係者、同僚、家族らのおかげだと感謝している。中でも、2000通を超える読者からのお便りは、私の生涯の財産だ。

 今回でこの連載は終えるが、私の闘病は続く。また、治療法が進歩したとはいえ、がんは依然、日本人の死因のトップだ。06年6月には患者たちの声を反映した「がん対策基本法」ができて、医療体制の整備は進んでいるが、適切な医療・ケアを受けられずにさまよう“がん難民”の問題など、残された課題も多い。

 「信頼の医療」を築くには、患者と医療・行政関係者の協働作業が欠かせない。その実現に向け、専門記者として、そして1人の患者として、力を尽くしていきたい。長い間、ありがとうございました。

(2009年6月28日 読売新聞)


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ちょっと長めの抜粋になりましたが、最後の連載ということで、
伝えたいことが、この1回に集約されているように感じられたので、
長いままに致しました。


最後の、
”「信頼の医療」を築くには、患者と医療・行政関係者の協働作業が欠かせない。その実現に向け、専門記者として、そして1人の患者として、力を尽くしていきたい。長い間、ありがとうございました。”

には、記者としての気持ち・患者としての気持ちが、
ギュッと詰まっているように思えます。


長い間、読ませていただいてありがとうございました。
無理せず、心身共に快復されることを、一読者として、願っています。

平井堅 LIFE is... ~another story~

2009-06-28 | 関心のあること
LIFE is... ~another story~

この曲は確か、笑福亭鶴瓶氏が小児科医、妻夫木聡氏が下に研修医でついていて、生まれながらに体に疾患を持つ、双子の赤ちゃんの命を救おうとするドラマで、流れていたと思います。

「手術さえすれば治るかもしれない…双子の色違いの毛糸をかぶったお兄ちゃんと弟くん」未だに印象深いドラマです。


他にも「瞳を閉じて」「想いかさなるその前に…」等アップしたい曲は、
沢山ありますが、この間からのブログの流れのイメージでこの曲にしました。


今日は、雨も降って、ちょっとゆっくりバラード調で、心にしみる曲が合いそう…。

でも、平井堅氏のポップなものも好きです。

平井堅 Precious Junk

2009-06-28 | 関心のあること
平井堅 Precious Junk(PV歌詞付き)

平井堅氏も好きなアーティストの一人。

「歌バカ」の1曲目。彼の1stシングル。
95年の彼の誕生日=阪神大震災の日に書かれた曲で、テレビの映像を見ながら、
「いつか、それもよくなっていく」という希望を描きながら書かれたそうです。

状況は違うけれど、「いつかそれもよくなる」っていうイメージで元気もらいます。1stシングルで、いつもの濃い?平井堅氏のイメージがちょっと薄い気も…。

6/27掲載 若年性乳がんを生きて12

2009-06-27 | 関心のあること
読売新聞6/27朝刊掲載分(12回目)-支えてくれてありがとう

(今回も読みやすくするため、無断で改行させていただいています。ご了承下さい)


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大切な友へ

「乳がん患者『大原まゆ』の生き方を連載で書きたい」と相談したのは、昨年の夏でしたね。

試練に立ち向かうまゆちゃん、あなたの言葉を伝えるのは、「がん友」でもある
記者の私が果たすべき仕事だと考えました。

 「まゆちゃんと記者の闘病物語に」と説明すると、「面白い」と言ってくれましたね。
でも私は、自分の闘病体験を明らかにすることに揺れていました。

あなたが元気なうちに書けなかった。
訃報を聞き、悔しさでいっぱいでした。

だから告別式の日、あなたのお父さんから「形にしてもらっていい」と言われた時、
自分をさらけ出しても書き切ろうと決めたのです。


 連載を書いている時、傍らに、確かにまゆちゃんがいました。

「病気であってもなくても私の生き方は同じ」
「目の前のことを一つずつこなして、時間を重ねていきたい」。

取材メモを繰るたび、かけがえのない言葉があふれてくるのです。


 「がんになったからこそ得たものがある」というあなたの言葉が目標でした。

すべてを受け入れて生きられる強さがほしいと。
やっと胸を張って「病気をしたからこそ、今の自分がある」と言える気がします。


 でも、これで約束は果たせたのでしょうか。
「患者の心のケア」「賢い闘病法」など新しいテーマが生まれました。
書き続ける私を、ずっと見守っていてね。


 巡り合えて、よかった。支えてくれて、本当にありがとう。

                          (佐々木栄)
                          (おわり)  

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今日、6/27の記事が最終回のようです。

この連載は、ネットの読売ONLINEの中を検索しても、出てきませんでした。

そこで、毎回、私の手打ち入力で、転記させていただきました。

打ち損じには、充分気をつけたつもりですが、
「最期」と打つべきところを「最後」と誤記したり…肝心な部分もミスがあり、
毎回、夜に、もう一度目を通して確認しました。

書いた記者さんのお名前も、毎回ちゃんと記事に記されていましたが、
「ONLINEで見つからない」「女性にとっての乳がん」「既婚者かどうか?」
の点から、ブログに載せさせてもらっていいものか…悩みました。

ブログには匿名性がありますが、新聞記事となると匿名ばかりではありません。

この記者さんは敢えて、お名前を出されて、新しい一歩を踏み出されたのでしょう。
と思い、最後にお名前を出させていただきました。



まゆさんや記者さんの迷いや悩みは、「乳がん」患者さんだけでなく、
いろいろな、がんの患者さんに共通するものがあると思います。

まゆさんや記者さんの様に、公に自分をさらけ出して、闘病することは、
心理的に、出来る人は限られてる…(もちろん私もできません)と感じます。


自分から、世間から「○○がんの△△さん」とレッテルを貼られるようで、
そのレッテルのために、がんでない人と区別されそうで、私はイヤだからです。

「がん」を過去のものとして、自分の中で、消したい気分…だからかもしれません。


でも、実際のところは、いくら「普通の人と同じ」と思っても、
子供の学校の校外活動のボランティア等、自分に自信が無くて出来ないことは多いです。

自己矛盾の中で生きる方向を探す毎日といったところでしょうか?


今日の連載が、一応の区切りの様ですので、乳がんに傾いていた私のブログも、また、一区切りです。


”上司は「ちゃんと治療と検査を受け、仕事に打ち込みなさい」と言ってくれた。
任地で見つけた担当医の「心の安定剤になるなら、いつでも来て」の言葉も心強かった。(2回)”

”「揺れる患者の心を知ってほしい」。”(6回)

”「医師は、『共に闘ってほしい』と願う患者の根源を苦しみを知り、
それそれが抱える背景や生き方に配慮する姿勢が必要だ。
患者のすぐ隣で支える存在でいたい」

まゆさんは「医師には病気だけじゃなく心も診てほしい」と期待した。”(9回)



まだまだ、心に残る文章はありますが、すこしだけ列挙させていただきました。

最後になりましたが、
まゆさんのご冥福と、記者さんのますますのご活躍を、心よりお祈り申し上げます。


6/26掲載 若年性乳がんを生きて11

2009-06-26 | 関心のあること
読売新聞6/26朝刊掲載分(11回目)-感謝、感謝の人生でした

(今回も読みやすくするため、無断で改行させていただいています。ご了承下さい)


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 「私は命の続く限りを決めていない。心を強く持てば、長く生きられると思う」

 大原まゆさんは私に話したことがある。

「余命」という言葉を口にしなかった。

 今年4月。まゆさんは激しい痛みで眠れず、起き上がるのもつらくなった。
「ホスピスも考えては」と持ちかけた父(51)に、「もっと悪くなってからでないと」と言った。

常に治療を自分で選択したが、「病院で体力を底上げしよう」という父の勧めに従い、20日に入院。

「覚悟しておいて下さい」。1週間後、父は主治医から告げられた。

 5月に入り、ベットで体の向きを変えることも難しくなった。
叔母が付き添ったが、意識がもうろうとする時間が増えた。

 「お茶を」。9日朝、そう言ってお茶を口に含み、父や叔母と会話した。
午前10時過ぎ、容体が急変。父が手を握った。やがて意識を失い、息を引き取った。

 27歳の誕生日まで、あと2ヶ月だった。

 最期に、彼女は何を願ったんだろう。

3月末、2時間の電話で、「一番の望みは」という私の問いに
「普通に暮らすこと」と答えた。
「朝、ちゃんと起きて食べられる。体調を心配せずに迎えられる毎日」と。

 そして6月に予定されていた講演について話した。
「『命は奇跡』という方向に話を広げたい」

 亡くなる2日前。まゆさんは、叔母にかみ締めるように言ったという。

「感謝、感謝の人生でした」

 がんを病んだからこそ出会えた人々に、そんな言葉を遺した。


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まゆさんが、がん患者であると同時に

お父さん、ご家族、親族、亡くなられたお母さん、お友達、同病の人達も含めて、

周りの方々の気持ちを、すごく気遣う方だったんだろうなあと感じました。

がんで、心身共に苦しくて、つらい筈なのに、
前だけを見て、強く生き抜こうとする…。

私なら、26歳で、このような状況になったら、

「感謝、感謝」どころか、「何で?何でよ?」「どうして私?」と言います。

そして講演ではなく、自分の興味のある場所を思い浮かべては、
「あそこも、ここも行ってみたかったな」と観光地を並べることでしょう。

そして、「あーウエディングドレス着たかったな」と…。


お父さんも、妻をがんで亡くされ、次に娘さんを、またがんで見送らねばならない…つらい、無念な気持ちだったろうと思います。

厳しい病状をおして、講演に出かけるまゆさんに闘病だけに専念してほしいと思われなかったのでしょうか?(その方が、もしかしたら生存率が上がる…と)

でも、まゆさんが、<ありがとうの旅>に出かけるのを生きがいにされていると思えば、
闘病に専念し、病室にいるだけの生活を勧めるのも、やはり出来なかった…と感じます。

お父さんや周りの方々の、気持ちの限界、苦しみ、決断…


まゆさんの、
「感謝、感謝の人生でした」の言葉で救われたと信じたいと思います。

6/25掲載 若年性乳がんを生きて10

2009-06-25 | 関心のあること
読売新聞6/25朝刊掲載分(10回目)-残された時間を数えて

(今回も読みやすくするため、無断で改行させていただいています。ご了承下さい)


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 「ひとまず3、4週間分の命は助かりました。

まだ話しなさい 動きなさい 感じなさい 考えなさい 伝えなさい ということですね。
それが生きてるってことの一つ一つですね」


 1月16日。未明の病室で大原まゆさんはブログに書き込んだ。
前日、脳に転移したがんを放射線で焼き切る治療を受けていた。
病状は進行し、3月には肝臓の腫瘍に抗がん剤を注入した。

 私は仕事に追われ、彼女のブログを祈るような思いで読んでいた。

「私は強くなんかない」。

今までになかった弱音を、あえて書いているようで気になった。


まゆさんが電話をくれたのは3月の終わり。身辺の整理を始めているという。

「ご心配なく、これが結構楽しいんです」と語った。
「ママの最後を見たからです。身の回りの品を整理できなかったこと、
お世話になった人にお礼できなかったことを後悔していたから」


 パソコンの文書を整理したい。自分史をまとめて香典返しで配りたい。
住所録は誰に託そうか。

ひとしきり語った彼女は、「皆が『まゆらしいね』って笑ってくれる最期にしたい」と付け加えた。


 彼女は1月以降、ブログを頻繁に更新していた。
治療や生き方に関する記述の一方で、ポーチや化粧品、サンダルなどお気に入りの品物の写真をちりばめた。

箱根旅行、ピンクリボン運動への参加、講演。先々の予定も入れていた。


私もまゆさんも、彼女に残された時間を数え始めていた。

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若い人はがんの進行が早いって、昔聞いたことがあります。
けれど、自分が渦中にいて、色んな方を見ていると、
本当かどうかは、分からなくなりました。
(がんの種類や場所、侵襲度、取りきれるかも大きな要素でしょう?)


若い人が、自分の身辺整理するなんて、結婚や転勤以外では
とっても悲しい光景に思えます。

それも「次を買うから、もう要らない」のではなく、
「まだ使えるのに、要らなくなる筈」っていう死を前提とした身辺整理。

私も身辺整理しようとしましたが、仕事用の服、普段着、
にプラスして術後用から着る妊婦さん用の様なゆったり服の3種類と
1種類増えた上に、仕事もまたするかもしれないと欲張り、仕事着も残す有様。

私は「私らしい最期」という難しい宿題をまだサボったまま…



先生!「これくらいじゃ、まだまだ死ねない」って言ってたでしょ?
信じてますよ~



※今日の写真…

この間から、外を歩くと花のいい香り。

ん?沈丁花、金木犀はこの時期ではないし…今日発見しました!「クチナシ」の花でした。

どうして実家にもあったのに気づかなかったんだろう?

6/24掲載 若年性乳がんを生きて9

2009-06-24 | 関心のあること
読売新聞6/24朝刊掲載分(9回目)-「医師には心も診て欲しい」

(今回も読みやすくするため、無断で改行させていただいています。ご了承下さい)


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 2008年春、講演活動を再開した大原まゆさんは、薬の副作用で顔にむくみが出るようになっていた。

札幌市内の主治医は薬の処方の際、
「あなたは表舞台に立つ人だから、本当はこの薬を勧めたくない。娘を思う父のような気持ちだ。」と言った。

彼女は気遣いにとても感謝していた。

 「賢い患者でありたい」と熱心に治療法や薬の情報を集めたまゆさん。
遠慮なくぶつけた質問に、主治医は丁寧に答えた。
信頼関係で結ばれた2人は、乳がんフォーラムのトークショーに出演したこともあった。


 一方、私には苦い経験がある。主治医との意思疎通に困り、診察が怖くなった。
気安く質問できない。
術後2年を過ぎ、体調管理の相談に応じてくれる別の専門医と出会うまで悩み続けた。


 告知を受けた患者は、気が動転したまま治療法の選択を迫られる。
うつ病を患うケースもある。
心の不安を軽くできたら、闘病生活はずっと楽なものになる。


しかし、多くの病院では、心療内科医らスタッフがまだ充足していない。


 まゆさんと交流があった乳腺専門の秋月美和医師(熊本市)は言う。


「医師は、『共に闘ってほしい』と願う患者の根源を苦しみを知り、
それそれが抱える背景や生き方に配慮する姿勢が必要だ。
患者のすぐ隣で支える存在でいたい」


 まゆさんは「医師には病気だけじゃなく心も診てほしい」と期待した。
確かな技術と心のケア。

双方に応える医療であるようにと、私たちは思う。


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この問題は、いつも深刻だと思います。
大病院、特に評判が良くて、患者さんが集中しやすい病院では、3時間待ちの3分診療。

待合いのソファーや椅子で、不安な気持ちを抱えたまま、
「あの人は何の病気なんだろう?」「あの人はつらそうな顔…」と
思いながら、待ち時間しのぎに持ってきた本にも、やっぱり気が紛れない…。

やっと、診察を受けられると思ったら少し、問診して、内診後、データに基づいて状況を淡々と説明される。
(私は子宮体癌なので、乳がんの方の診療については分かりません)

口調は、医療裁判を恐れているのか、「医者としての説明」なのか…若干事務的。

次の方の診察もある…と思えば、あまり長居してもと、つい焦りがちになり
今日聞こうと思っていたことの半分も聞けていないことも。


誤診病院は抜かして、最初に通院したTH大は心の診療科もあり、
私に「告知」してくれた先生は、「そこにも行かないとね」と言って下さった。

しかし、開腹手術担当の教授には「質問できる気安さ」が感じられませんでした。
このまま、掻爬して告知して下さった先生に手術してもらえたらとお願いしてみましたが、

病院の縦割り(互いの分野に手を出さない)のせいか、
「開腹の方は、教授の担当になります」の一点張り…。

一方、手術を受けた病院は、心療内科は「手一杯」で、たとえ、癌であろうとも枠はありませんでした。

現代社会を生きる難しさに精神に不調を抱える人が多いせいかもしれません。


まゆさんの「医師には病気だけじゃなく心も診てほしい」と思う心に応えられる
病院や科は増えているのでしょうか?




※今日の写真は、子供が父の日に送ったもの、ボールペン2本。
子供は「万年筆」を希望していましたが、仕事上で使わないのと、
鍵付きケースに入っていて書き易さが試せませんでしたので…
(子供の発音→まんねんぴつ、えんぴつと同じように音読みしています