4月18日 (水曜日)
【産経抄】4月18日のコラム
音声を録音されていたと後に知って、地団駄を踏んだに違いない。
といっても、現在セクハラ発言疑惑の渦中にいる、
財務省の福田淳一事務次官について書こうというのではない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼始まりは、1978年1月に香港で起きた韓国の女優、
崔銀姫(チェ・ウニ)さんの失踪事件だった。
半年後、崔さんを捜しに現地を訪れた、
元夫で映画監督の申相玉(シン・サンオク)さんも姿を消す。
今から振り返ればこの年、日本をはじめ各国で北朝鮮の工作員が暗躍し、
多数の拉致事件を引き起こしていた。
▼2人も被害者だった事実が明らかになるのは、
86年に仕事で出かけたウィーンで米国大使館に亡命を果たしてからである。
映画ファンだった当時の金正日書記は、
北朝鮮で再婚した2人に拉致の目的についてこう語った。
「いい映画をつくりたかったんですよ。
工作組織に話をして、ちょっとひっぱってこい、と」。
▼崔さんはハンドバッグに録音機をしのばせていた。
正日氏は2002年の日朝首脳会談で、拉致事件の存在を認めながらも、
「妄動主義者」の仕業と言い逃れていた。
しかし、正日氏の甲高い音声を聞けば、
指示があったのは明らかである。
~~~~~~~~~~~~~~
▼崔さんの訃報が昨日届いた。申さんは12年前に亡くなっている。
北朝鮮での再会、心ならずも映画製作に励んだ日々、
監視員の追跡を振り切っての脱出劇…。
2人はまるで映画の原作のような手記『闇からの谺(こだま)』
(文春文庫)を残している。
▼崔さんは、韓国人以外の外国人拉致被害者を目撃し、
日本人についても聞いていた。ところが脱出後、
日本で拉致を問題視する声が起こっていないと知り、
首をかしげている。
阿部雅美さんが「私の拉致取材」の連載で何度も指摘している通り、
社会の甘さとメディアの「不報」が原因だった。
=====================
「アベック連続蒸発」の記事が初めて産経新聞(当時の題字は「サンケイ新聞」)
1面に掲載されたのは、今から38年前の1980(昭和55)年1月7日でした。/strong>
のちに新聞協会賞を受賞するきっかけとなった画期的なスクープでしたが、
当時、他のマスメディアは完全に黙殺し、
その後長きにわたり日本国内で拉致事件への
関心が広がることはありませんでした。
~~~~~~~~~~~~~~
「どのように事件を取材し、どう報じたのか、あるいは報じなかったのか。
日本社会や政治はその後、拉致問題にどのように向き合ってきたのか」―。
記事掲載前年の79年から社会部記者として取材を始めた阿部氏は、
今も手元に残る多くの資料などを見直したことで、
当時は見逃されていた真実が見えてきました。
解決の兆しは一向に見えず、
事件が風化しつつある。
~~~~~~~~~~~~^
【産経抄】4月18日のコラム
音声を録音されていたと後に知って、地団駄を踏んだに違いない。
といっても、現在セクハラ発言疑惑の渦中にいる、
財務省の福田淳一事務次官について書こうというのではない。
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▼始まりは、1978年1月に香港で起きた韓国の女優、
崔銀姫(チェ・ウニ)さんの失踪事件だった。
半年後、崔さんを捜しに現地を訪れた、
元夫で映画監督の申相玉(シン・サンオク)さんも姿を消す。
今から振り返ればこの年、日本をはじめ各国で北朝鮮の工作員が暗躍し、
多数の拉致事件を引き起こしていた。
▼2人も被害者だった事実が明らかになるのは、
86年に仕事で出かけたウィーンで米国大使館に亡命を果たしてからである。
映画ファンだった当時の金正日書記は、
北朝鮮で再婚した2人に拉致の目的についてこう語った。
「いい映画をつくりたかったんですよ。
工作組織に話をして、ちょっとひっぱってこい、と」。
▼崔さんはハンドバッグに録音機をしのばせていた。
正日氏は2002年の日朝首脳会談で、拉致事件の存在を認めながらも、
「妄動主義者」の仕業と言い逃れていた。
しかし、正日氏の甲高い音声を聞けば、
指示があったのは明らかである。
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▼崔さんの訃報が昨日届いた。申さんは12年前に亡くなっている。
北朝鮮での再会、心ならずも映画製作に励んだ日々、
監視員の追跡を振り切っての脱出劇…。
2人はまるで映画の原作のような手記『闇からの谺(こだま)』
(文春文庫)を残している。
▼崔さんは、韓国人以外の外国人拉致被害者を目撃し、
日本人についても聞いていた。ところが脱出後、
日本で拉致を問題視する声が起こっていないと知り、
首をかしげている。
阿部雅美さんが「私の拉致取材」の連載で何度も指摘している通り、
社会の甘さとメディアの「不報」が原因だった。
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「アベック連続蒸発」の記事が初めて産経新聞(当時の題字は「サンケイ新聞」)
1面に掲載されたのは、今から38年前の1980(昭和55)年1月7日でした。/strong>
のちに新聞協会賞を受賞するきっかけとなった画期的なスクープでしたが、
当時、他のマスメディアは完全に黙殺し、
その後長きにわたり日本国内で拉致事件への
関心が広がることはありませんでした。
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「どのように事件を取材し、どう報じたのか、あるいは報じなかったのか。
日本社会や政治はその後、拉致問題にどのように向き合ってきたのか」―。
記事掲載前年の79年から社会部記者として取材を始めた阿部氏は、
今も手元に残る多くの資料などを見直したことで、
当時は見逃されていた真実が見えてきました。
解決の兆しは一向に見えず、
事件が風化しつつある。
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