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2011年6月27日 – 8人が死亡、100人以上が重軽症となった松本サリン事件が起きた6月27日を、 事件の第一通報者で、当初 ... 1994年に日本の長野県松本市で、猛毒のサリンが散布され、 死者8人・重軽傷者660人を出した事件。 戦争状態にない国で一般 ...
8人が死亡、100人以上が重軽症となった松本サリン事件が起きた6月27日を、
事件の第一通報者で、当初容疑者扱いされた河野義行さん(61)は移住先の鹿児島市で初めて迎える。
事件から17年。河野さんは「時が過ぎ記憶が風化しても、事件の教訓を忘れないで」と思いを語った。
全国を飛び回っての講演活動のほか、長野県公安委員などの公職にも就くなど、多忙な日々を送ってきた。
しかし、昨年9月、長野県松本市を離れる決心をし、鹿児島市に移住した。
大きなきっかけは2008年8月、サリンの後遺症で14年間意識が戻らないままだった
妻澄子さん=当時(60)=が亡くなったこと。昨年の三回忌を区切りに、
ゆかりはなかったが「暖かい土地で新たな人生を送ろう」と思い立った。
屋久島などを巡り自然に触れながら、趣味の釣りや写真を楽しむ日々。
ただ講演は「やっぱり断り切れない」と、回数を減らして続けている。
事件報道の現状を「取材対象への配慮は出てきたが、逮捕前の
犯人視報道など変わっていないことも多い」と残念がる。
松本サリン事件
1994年に日本の長野県松本市で、猛毒のサリンが散布され、死者8人・重軽傷者660人を出した事件。
戦争状態にない国で一般市民に対して初めて化学兵器が使用されたテロ事件であった。
また、無実の人間が犯人扱いをされた冤罪・報道被害事件でもある。
警察庁における事件の正式名称は「松本市内における毒物使用多数殺人事件」である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
6: 名無しさん@涙目です。(長屋):2011/06/27(月) 09:49:01.39 ID:behtd/V00
あの当時、ネットがあればマスコミが袋叩きだよね。
全国にいる理系の人たちが
「農薬からサリンなんて作れねーよ」という声を上げたはず。
河野さん自身もブログを立ち上げて、
「私はそんなことを言っていない」、「デタラメな報道をするな」と情報を発信するだろう。
10: 名無しさん@涙目です。(関東・甲信越):2011/06/27(月) 09:54:02.06 ID:HsbtiVfZO
マスコミはいい職業だよなぁ
自分らの失敗は謝れば許されるから
同業者は身内に甘くてそれ以降は追求されない
公務員や政治家に他の企業は辞めるまで倒産するまで追い込まれるのに
31: 名無しさん@涙目です。(大阪府):2011/06/27(月) 10:01:03.95 ID:Noe/Hngl0
>>10
>自分らの失敗は謝れば許されるから
ほとんど謝らないと言うかスルーだろ
マスコミも御用学者も同じ穴の狢
27: 名無しさん@涙目です。(長屋):2011/06/27(月) 10:00:01.14 ID:behtd/V00
>>19
警察が犯人扱いで朝から晩まで事情聴取したからな。
息子と娘も「オヤジが犯人だ」という前提で事情聴取をされた。
週刊新潮は河野さんの家系図を載せて犯人扱い。
大阪・毎日放送のラジオ番組では、
浜村淳が河野さんを犯人扱いでホントのことを言えと罵ってた。
22: 名無しさん@涙目です。(内モンゴル自治区):2011/06/27(月) 09:57:49.44 ID:HlN4KFZ9O
どっかの教授が「農薬でもサリンはできます(キリッ」って言い張ってた記憶が
13歳だったピュアな俺は騙されてたZE
30: 名無しさん@涙目です。(新潟・東北):2011/06/27(月) 10:00:59.57 ID:KhQGQmalO
>>22
言い張ってたね
それも大々的に何度も報道してたし
148: 名無しさん@涙目です。(東京都):2011/06/27(月) 11:25:54.68 ID:mYvuziXq0
>>142
化学系の学者や、農薬業者をあたっても、
農薬でサリンを作れると言ってくれる人はいなかったので、
農薬でサリンを作れると言ってくれて、
大学教授の肩書きがある人を選んだと言われているね。
54: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/06/27(月) 10:11:17.74 ID:6b9GZxKm0
うちは農業やってたから
当時の報道聞いてカーチャンが「農薬でサリンできるわけねーよカス」
みたいなこと言ってたのを強く覚えてる
あれ以来マスコミ信用しなくなったな
155:名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/06/27(月) 11:30:49.91 ID:scpoA6uf0
坂本弁護士一家を殺したTBSあたりはサリンの犯人がオウムだって
知ってたんじゃないかと思えてくるよ。
そう考えると、マスゴミの異常な河野さん犯人決めつけは、わざとなミスリードかもね。
オウム事件時系列
1989年10月26日 - オウム真理教について翌日27日の放送で取り上げることを企画していた『3時にあいましょう』は、26日午前中にオウム真理教批判の急先鋒であった弁護士の坂本堤のインタビューを録画。同日、昼から『3時にあいましょう』金曜日担当プロデューサーA(以下、A)率いる取材班(社会情報局)はオウム真理教富士山道場にて報道局社会部と合同で麻原彰晃(松本智津夫)による「水中クンバカ」の実演を取材。報道局社会部記者のインタビューが終了後、『3時にあいましょう』取材班のインタビューが開始。紛糾するインタビューの中で、Aは坂本弁護士のインタビューを麻原の実演の様子と一緒に放送することをオウム側に明らかにした。結局、オウム側に事前にビデオを見せることを提案し、その場の事態を収拾する。オウム真理教の早川紀代秀、上祐史浩、青山吉伸らが同日の深夜、TBS(当時の千代田分室)を訪れ、インタビューが収録されているビデオを見せることを執拗に要求。ここで番組総合プロデューサーB(以下、B)が、部下にインタビューを収録した当該ビデオを3人に見せるよう指示し、3人はビデオを視聴。早川はこのときのことをメモにとっている。結局、オウム側の抗議にTBS側スタッフはインタビュー(企画していたオウム特集自体)を放送しないことを承諾・約束し、オウム側幹部はその場を後にする。
1989年10月31日 - 早川、上祐、青山ら3人が横浜法律事務所を訪れたが、坂本からは教団を告訴する旨を告げられ交渉は決裂。
1989年11月4日 - 坂本堤弁護士一家殺害事件(当時は「失踪事件」)が発生
1989年(平成元年)11月4日に旧オウム真理教の幹部6人が、オウム真理教問題に取り組んでいた弁護士、坂本堤(当時33歳)と家族の3人を殺害した事件である。遺体が容疑者によって隠匿されたため、1995年9月に遺体が発見されるまでは失踪事件として扱われていた。
現場にオウム真理教のバッジが落ちていたが、神奈川県警は「事件性なし」として、捜査を行わなかった。犯行が明るみに出たのは、1995年(平成7年)9月、実行犯の一人、岡一明が自首したことによる。
1994年6月27日の夕方から翌日6月28日の早朝にかけて、長野県松本市北深志の住宅街に、化学兵器として使用される神経ガスのサリンが散布され、7人が死亡、660人が負傷した(なお、刑事事件の裁判では迅速化のため、訴因変更によって重傷者は4名のみに絞られている。事件から14年後の2008年8月5日、本事件による負傷の加療中であった第一通報者の妻が死亡したためこの事件による死者は8人となった)。
1995年2月28日午後4時半ごろ、品川区上大崎の路上で、役場から出てきたこの職員を信徒ら(松本剛、林武、井上嘉浩、平田信)がワゴン車に連れ込んで拉致、上九一色村のサティアンに連れ込んだ。
教団は、麻酔薬のチオペンタールを投与することで、被害者の妹の居所を聞き出そうとしたが果たせなかった。麻原彰晃は、被害者の「拉致された記憶」を消去することが技術的に不可能であったこと、また警視庁が捜査を開始したという情報を聞き、解放せず殺害するように命じた。麻原は拉致実行犯の一人を殺人の実行者に指名、「ポアさせることによって徳を積ませる」と称し、東京からサティアンに呼び戻すことになった。その間、被害者は麻酔薬を過剰に投与されたため、3月1日午前中に死亡した。午後になって麻原指名の殺人実行者が到着し、既に死亡したことを知らせずに被害者の首を絞めさせた。遺体は中川智正がマイクロウェーブを応用した焼却炉で焼却し、灰は本栖湖に流して死体遺棄をし、証拠を隠滅した。麻原は中川らに報酬として、おはぎとオレンジジュースを渡した。
1995年3月事件当時の警察庁長官だった国松孝次が地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人である高橋シズヱのインタビューに答えて「警察当局は、オウム真理教が3月22日の強制捜査を予期して何らかのかく乱工作に出るという情報を事件の数日前に得ていた」と発言した報道を配信した。国松は「情報に具体性がない」ために予防措置を講じることは不可能だったとの認識を示しているが、共同通信は「当時の捜査があらためて問われそうだ