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爺さんが伝えたいこと

寡黙に生きて来た爺さんが、一つの言葉ででも若い人達の役に立つならば、幸いです。

周りの人物を「師」とする

2021-12-11 15:18:20 | 日記
「三人行えば必ず我が師あり」…自分も含めて三人で行動する場合、他の二人から見習うべき事が必ずあるモノだ、と孔子は言っている。

孔子は続けてこう言っている。

まずは「其の善なる者を択(えら)びて之に従う」。

二人のうち、言葉遣いや考え方や品性の良い人を選んで、その人の良い点をよく見習う様にする。

次に「其の不善なる者にして之を改む」。

もう一人良くない人を見たら、自分にも彼と同じ様な悪い点が無いかを反省して、自分の欠点を改める様にする。

ここで注意しなくてはいけない事は「不善なる者にして、之を改む」と言っても、不全なる人に対して「貴方はこういう点が悪いから、改めなさい」と言って、相手の欠点を改善しようとするのでは無いという事だ。

相手の悪い点をいちいち指摘し、それを改善しようとすれば、相手もいつまでも黙ってはいられなくなる。

「ちょっと待って、いちいちうるさい事を言わないでおくれよ。

君は悪いと言って僕に文句を付けるが、僕は心から良いと思ってやっているんだ。

良いとか悪いとかは、その人その人で違っても良いのではないか。

あまり僕の言動に干渉しないで欲しい」と、そんな言い合いにでもなったら、三人で仲良く協力出来なくなる。

孔子が言っているのは、悪い点を見つけたら、自分にもそれと同じ様な悪い点が無いか内省し、もし有ったら自分の欠点を改善していくと言う事だ。

我が国のことわざにも「人の振り見て我が振り直せ」とある。

他人の行動の善悪を見て、良い点はよく真似て、悪い点は自分の事として、自分の行動を反省し改めよ…と。

そうすれば、良い人も悪い人も師となる。「人皆我が師なり」である。


「見返り」なんて求めない

2021-12-10 17:27:11 | 日記
人の事を思いやって親切にして、相手から「ありがとう」と言われ、貴方は幸福な気分になり、その人から尊敬される…。

人を愛し慈しみさえすれば、相手も喜び、自分も「ああ、良い事が出来た」という達成感に包まれ、安らかな心持ちになれる…。

しかし、世の中はそんなに甘くない。

人に親切にして、心から「ありがとう」と感謝され、お互いに友愛の心が通う様になる好機は、実はあまり無いかも知れない。

人の事を心から思いやっても「ああ、あの人は世話好きだからね」とか「他人の事より、もっと自分の事を考えれば良いのに」と言われてしまう場合もあるだろう。

そんな時に「なんで、あの人はこんなにも無礼なのでしょう。ありがとうと、お礼の一つも言わないんだから」と言う様に、相手の心なさを批判したりしてはいけない。

「仁を好む者」は、つまり相手の慈しみ、思いやって生きる人は「不仁を悪む者を見ず」(冷たく思いやりの無い態度を取る人を、悪まない)である。

そこで、考えてみなくては、ならないだろう。

自分が人から世話を受けたり、思いやって貰ったりした時の事を…。

「ありがとう」という言葉は、ちょっとドアを開けて貰ったとか、席を譲って貰った時には、簡単に言えるものだ。

だが、あまりにも過大な援助を受けると、簡単には「ありがとう」と言えないものだ。

「ありがとう」という言葉だけでは、とても済まないと思ってしまうからだ。

そんな人は「ありがとう」と言わなくても、もっともっと深く感謝しているのだから。






友の幸福を思いやる

2021-12-09 17:59:37 | 日記
見えない働きも、言葉で名前を付けると、有ることが知られる。

ひたすら利他の為に働く宇宙の生成力の性質を「仁」と名付けたのは、素晴らしい。

人と言うものは、放っておけば必ずと言って良いほど、利己的になる。

どうしても、自分の利益だけを求めて生きてしまう。

ある程度利己的にことは許されても、極端に自己中心的に生きていると、だんだん他人との関係がうまく行かなくなる。

ついには、生きる意欲や喜びを持てなくなる。

自分の能力も立ち枯れする。

「仁を欲すれば、斯に仁至る」。

自分の利益よりも、他人が利益を得る様に行動していくうちに、心の中に安らぎを覚え、努力にも身が入り、創造力も育ってくるものだ。

他人の為が、いつしか巡り巡って、自分の為になる。

人を思いやり、人の為になることをすることが、幸福になる必須条件であることを、人はあまり知らない。

仁の心は、友に向かって優しく「お~い」と声をかければ、すぐ自分の心に宿る。

人はもともと仁の生命で生きているのだから…。

自分の生活を豊かにしよう。

自分の能力を充実させよう。

誰もが自分の人生を実りあるものにする為に、努力する。

そんな努力をしているうちに、真面目になりすぎて、些細な失敗まで気になって、心に余裕をなくし、快活に笑うことが出来なくなっていく。

自分の生活の充実だけを図っていると、不思議と不安を持つようになるのだ。

こんな不安から抜け出すコツは、難しいことではない。

日頃から日常生活の中で、たまには友の成長を思いやり、他人の幸福を思いやることだ。



「ありがどう」を忘れない

2021-12-08 23:07:36 | 日記
素晴らしい着想を頭に浮かべ、頭をいつも閃かせて、常に集中して仕事に当たり、積極的に汗をかいて努力したからこそ、自分はこの富と貴い地位を得たのである。

この成果は、全て自分の努力一つによったモノである…。

ついいつの間にか、胸を張って威張り出す。

人間とはまことに、ちっぽけである。

実は宇宙の生成力は、人間の体の隅々に活々と生きている。

人間は宇宙の活動体である。

着想を浮かべるのも、宇宙の力、頭の閃きも、宇宙の力による。

人間はそれを自分の力だと錯覚するから、ちょっと金を儲けたり、ちょっと地位が得らたりすると、もう傲慢になって、「オレが、オレが…」と自慢ばかり言い出す。

まったく格好が悪い。

自分がこうして富を得られたのも、名誉ある地位に就けたのも、一切合切が自然の力、つまり徳の力だと感謝出来る人が「徳の人」と言う。

自分だけの努力だと思い込み、宇宙の生成力に感謝出来ない人を「不徳の人」と言う。

「富貴天に在り」。

孔子は、富貴は全て天命によると主張する。

が、一般に財貨を多く得たり、思いのほか位の高い名誉を受けたりしたら、まずは自分が成功を夢見て、努力を重ねたから、その夢が実現出来たと思う。

それはその通りなのだ。

問題なのは、富貴さえ得たら、手放しで喜べる幸福がやって来たかどうか、と言う点だ。

社会的成功を収めたのに、自分は不幸だと思って「成功うつ」になる人をは大勢いる。

財貨や名誉を受けたのは、天の力であると感謝すれば「うつ」は治る。





己を飾り立てない

2021-12-07 23:21:03 | 日記
テレビがこの世に出現した頃、テレビ局の係の人が、町を歩いている子供たちにマイクを向けると、キャッと言ってクモの子を散らす様に逃げた。

子供たちだけでなく、大人たちも手を横に振って、マイクに向かう事を拒否していた。

そんな情況を思い浮かべながら、今日もテレビに出てくる普通の子供たちや大人たちの姿を拝見すると、逃げ回るどころかその堂々とした態度とキレの良い発言に、舌を巻いてしまう。

テレビやラジオが、国民の発言力を強大にした功績は、実に大きい。

民主主義の社会においては、国民一人ひとりの立派な発言力を養う事は、大事な事である。

が、一点見落としてならぬ事は、発言した事は見事であっても、その人の心の内容はどうなのか、その人の実践力はどれ位あるのか…という点である。

発言だけは見事だが、みんなが口先だけの人になっては困る。

逆に発言は控えめであっても、実践力があって、意志が強く思いやりがあって、決して権力に屈従しない人がいたら、それが「仁」の人だ。

「剛毅木訥は仁に近し」ーこれも、孔子の名言の一つである。

剛とは、宇宙や自然に対する指向が強く、金、かね、カネと金欲ばかりに屈従しない事。

毅とは、キッパリしていて、あまり世間の評価に動じない事。

木とは、自分の素質のまま、自分に素直に生きる事。

出来る事は出来る。出来ない事は出来ないと、自分を飾らずに言える事。

訥とは、人を痛め苦しめる様な発言はしない事。

また、他人にこうしなさいと言う前に、自分が実践出来ている事。

「剛毅木訥」がもし実践出来れば、苦悩はいっぺんに飛んでいく。