自分の体と心を守ることで精いっぱいだった頃――。
守ろうとすればするほど苦しくなっていました。自分の体(病気)と心に意識が向いているので、ささいなことに過敏になってしまうからです。夫と一緒にいても、自分の体感(病気のこと)や感情のほうに意識がフォーカスされているため、すぐに疲れを感じたり、つまらないことで気が立ったりしていたのです。
いっそのこと自分を忘れようと思いました。
自分の体と心、それと、強すぎる自意識を忘れるようにしてみようと。
そして、目の前にいる夫や家族の感覚・感情のほうに意識をフォーカスするようにしてみたんです。自分の体(病気)と心のほうに向いていた矢印を→外(周りの人)に向けるように強く意識して、目の前の人をよーく観察し、感覚を開いてもらうように意識してみた、という感じでしょうか。
ちょっと意識するだけで、すぐに自分が変わってきたことがわかりました。
まず体がすごく楽になり、多少の疲れや不調は気にならなくなりました。
相手の人(夫や家族)も以前よりもっとわたしに心を開いて、くつろいでくれるようになりました。夫の感覚がふわぁっと開いているのがわかるのです。
心の中で(もっと感覚を開いていいよ)と彼に語りかけてみると、彼はわたしに気を遣わずに自分の感覚や感情に素直にふるまってくれるようになってきました。 以前は、彼のほうがわたしにいつも気を遣い、感情を出すことをブロックしていたのに。
想いって、通じるんですね。
ちらっと思っただけでも、人の想いはポジティブなものでもネガティブなものでも、必ず相手に通じてしまうものなんですよね。
彼が素直に甘えてくれるようになったことがうれしくて、それを受け止められるようになると、わたしはいつのまにか自分を守ろうとするのをやめられるようになっていました。
彼の感覚や感情を守りたい、自由に解放してあげたいと意識するようになるにつれ、自分を忘れられて楽になっていったんです。体もどんどん楽になり、持病があることすら意識しなくてすむほどになりました。
そうして、彼をよ~く観察し、感覚を開いてもらうように意識するほど、自然に‘与える’ということができるようになりました。与えれば与えるほど、心のなかの泉に優しさやパワーが湧いてくるようになるんだということがわかってきました。
自分のことって忘れていいんだ。守ろうとしなくていいんだ。
自分を忘れるってこんなに心地よいものだったんだ! 大きな発見でした。
自分を忘れて周りに意識をフォーカスしてみると、なんとたくさんの素晴らしいことを見落としていたのかと思いました。
空の広さや青さ、雲のさまざまな形や動きの速さ、頬をなでる風の心地よさや湿り気、夕刻の空の色の移り変わり、太陽の陽射しのまろやかさ、月の満ち欠け、月の光のせつなさ、草花のけなげさ・可愛らしさ・凛々しさ……そうした自然や四季の移り変わりを、五感を全開にして感じ取れるようになってきたのです。
感じているようで感じていなかったんだなぁ。
「次の本を出すまでは、まだあるべき姿のわたしではないから」、次の本を出したら好きなことができる、季節や素晴らしい景色をぞんぶんに味わえる、会いたい人にも会いに行けるんだから!……ってずっとそんなふうに思っていたような気がします。季節や自然の恵みそのものを五感を開いて味わうことができずにいたのです。
思い起こせば、ヤイコのライブもそうです。その場に溶けこんでしまうほど五感オープン状態で楽しめるようになったのは、ここ最近のことです。
でも、逆でした。心に鍵をかけていたのは、自分でした。
自分のことを忘れるようにして執着を手放したとたんに、自然や周りの人たちの素晴らしさ・美しさが見えるようになってきました。世界にはすばらしいことがたくさんあり、すばらしい人もたくさんいる! どうしてそれを見ようとしていなかったんだろう。
いま心はとても穏やかで軽やかで自由になり、日々のくらしを本当に楽しめるようになっています。それがどれほどありがたいことかも、よ~くわかります。
そうして日々のくらしを心から楽しめるようになったからこそ、書き残しておきたいことが泉のように湧いてきて、外に出せるようになったのだと思うのです。
すべて、逆から行こうとしていたんだなぁ。
近道をしようとして、実は大きな回り道をしていることって往々にしてあるのかもしれないです。だけど、その回り道・寄り道だって無駄ではなくて必要なことなんですね。
たぶん人は、たったいま必要なことしか見ないし、必要なことしかしないし、起きないんですね。
いま起こっていることは、すべていまの自分に必要なこと、なんですね。
また長い! うーん、短い文章が書けません(^^;)。
守ろうとすればするほど苦しくなっていました。自分の体(病気)と心に意識が向いているので、ささいなことに過敏になってしまうからです。夫と一緒にいても、自分の体感(病気のこと)や感情のほうに意識がフォーカスされているため、すぐに疲れを感じたり、つまらないことで気が立ったりしていたのです。
いっそのこと自分を忘れようと思いました。
自分の体と心、それと、強すぎる自意識を忘れるようにしてみようと。
そして、目の前にいる夫や家族の感覚・感情のほうに意識をフォーカスするようにしてみたんです。自分の体(病気)と心のほうに向いていた矢印を→外(周りの人)に向けるように強く意識して、目の前の人をよーく観察し、感覚を開いてもらうように意識してみた、という感じでしょうか。
ちょっと意識するだけで、すぐに自分が変わってきたことがわかりました。
まず体がすごく楽になり、多少の疲れや不調は気にならなくなりました。
相手の人(夫や家族)も以前よりもっとわたしに心を開いて、くつろいでくれるようになりました。夫の感覚がふわぁっと開いているのがわかるのです。
心の中で(もっと感覚を開いていいよ)と彼に語りかけてみると、彼はわたしに気を遣わずに自分の感覚や感情に素直にふるまってくれるようになってきました。 以前は、彼のほうがわたしにいつも気を遣い、感情を出すことをブロックしていたのに。
想いって、通じるんですね。
ちらっと思っただけでも、人の想いはポジティブなものでもネガティブなものでも、必ず相手に通じてしまうものなんですよね。
彼が素直に甘えてくれるようになったことがうれしくて、それを受け止められるようになると、わたしはいつのまにか自分を守ろうとするのをやめられるようになっていました。
彼の感覚や感情を守りたい、自由に解放してあげたいと意識するようになるにつれ、自分を忘れられて楽になっていったんです。体もどんどん楽になり、持病があることすら意識しなくてすむほどになりました。
そうして、彼をよ~く観察し、感覚を開いてもらうように意識するほど、自然に‘与える’ということができるようになりました。与えれば与えるほど、心のなかの泉に優しさやパワーが湧いてくるようになるんだということがわかってきました。
自分のことって忘れていいんだ。守ろうとしなくていいんだ。
自分を忘れるってこんなに心地よいものだったんだ! 大きな発見でした。
自分を忘れて周りに意識をフォーカスしてみると、なんとたくさんの素晴らしいことを見落としていたのかと思いました。
空の広さや青さ、雲のさまざまな形や動きの速さ、頬をなでる風の心地よさや湿り気、夕刻の空の色の移り変わり、太陽の陽射しのまろやかさ、月の満ち欠け、月の光のせつなさ、草花のけなげさ・可愛らしさ・凛々しさ……そうした自然や四季の移り変わりを、五感を全開にして感じ取れるようになってきたのです。
感じているようで感じていなかったんだなぁ。
「次の本を出すまでは、まだあるべき姿のわたしではないから」、次の本を出したら好きなことができる、季節や素晴らしい景色をぞんぶんに味わえる、会いたい人にも会いに行けるんだから!……ってずっとそんなふうに思っていたような気がします。季節や自然の恵みそのものを五感を開いて味わうことができずにいたのです。
思い起こせば、ヤイコのライブもそうです。その場に溶けこんでしまうほど五感オープン状態で楽しめるようになったのは、ここ最近のことです。
でも、逆でした。心に鍵をかけていたのは、自分でした。
自分のことを忘れるようにして執着を手放したとたんに、自然や周りの人たちの素晴らしさ・美しさが見えるようになってきました。世界にはすばらしいことがたくさんあり、すばらしい人もたくさんいる! どうしてそれを見ようとしていなかったんだろう。
いま心はとても穏やかで軽やかで自由になり、日々のくらしを本当に楽しめるようになっています。それがどれほどありがたいことかも、よ~くわかります。
そうして日々のくらしを心から楽しめるようになったからこそ、書き残しておきたいことが泉のように湧いてきて、外に出せるようになったのだと思うのです。
すべて、逆から行こうとしていたんだなぁ。
近道をしようとして、実は大きな回り道をしていることって往々にしてあるのかもしれないです。だけど、その回り道・寄り道だって無駄ではなくて必要なことなんですね。
たぶん人は、たったいま必要なことしか見ないし、必要なことしかしないし、起きないんですね。
いま起こっていることは、すべていまの自分に必要なこと、なんですね。
また長い! うーん、短い文章が書けません(^^;)。