ことこと愛する日々

『ことことカフェ』@よしだあゆみのつれづれ日記
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甥っ子とポニョ

2008-08-27 23:59:00 | 日々のできごと
 きょうは妹一家(妹、妹のだんなさん、甥っ子)と一緒に『崖の上のポニョ』を観てきました。

 実の妹の子供である甥っ子は小学3年生。
 もぅ可愛くて可愛くて、赤ちゃんの頃から伯母バカぶりをいかんなく発揮しています。妹には申し訳ないけれど、伯母の特権とばかりに、会ったときに溺愛して甘やかし‘いいとこどり’ばかりしてきました。
 妹の子育てぶりには、保育士の免許をもっているだけあって感心しきり、尊敬するばかりです。この妹だから、子どもを授かることができたのだなぁと思います。

 この甥っ子、幼稚園の年中さんくらいまで、わたしのことをどうやらずっと妹の友だちだと思っていたようです。
 よく家に遊びに来たり、ばーばの家に行くとよくいるママの友だち、くらいに思っていたようです。友だちがそんなにしょっちゅう実家に来るか! とツッコミたくなりますが。
「あゆみちゃん」と呼んでいることも、友だちと思わせた一因だと思います。
 それに、わたしは甥っ子と会うと真剣に遊びます。ゲームでも子ども相手だからといって手を抜きません。本気で闘うので、甥っ子は友だち感覚で付き合っていたようなのです。
「オレ(オのほうがアクセントが強いのが最近の子どもの言い方ですね)、あゆみちゃんほんっとに好きだよ。おもしろいもん」
 などとよく言われていました。
 そろそろ説明してもわかるかなと思った頃に、妹が甥っ子の友だちのきょうだいを例に出して、
「あゆみちゃんはママのお姉ちゃんで、ばーばがお母さんなんだよ。ほら、○○ちゃんと△△ちゃんと同じだよ、わかる?」
 と説明したら、
「へぇ~そうだったんだ!」
 心底びっくりした顔をしていたそうです。ワハハハハ! 可愛いですねぇ。
  
 そんな甥っ子との、ポニョ鑑賞。

 宮崎駿監督の作品を劇場で観たのは、じつは初めてでした。 
 この鮮やかで多彩な色づかいを大スクリーンで観ると、やはり圧倒されました。とにかくダイナミックで美しい! カラフルな色彩は大好きだし、カラーの勉強をしている最中なので楽しかったのですが、ラストのほうはさすがにお腹いっぱいになってきた感じでした。

 学生時代の友だちで、
「wiiは無理。まちがいなく酔うもん。ゲームが3Dになった時点で、あたしはもうダメだと思った。酔っちゃうからゲームから足を洗った」
 と言っている子がいます(笑)。
 あの子はポニョを観たら確実に酔うね、と思いました。
 猛スピードで運転するシーンや、ポニョの波渡りのシーンなんか(可愛かったけど)、わたしですらちょっと目が回りそうでした。

 中盤、睡魔が襲ってきて、隣でみていた甥っ子に、トントン! と肩を叩かれて起こされました。
 その後も、甥っ子は何度もわたしの顔の前に回り込むようにして覗き込んで、寝ていないかチェックしていました。
 小学3年生の彼は、目を丸くしたりゲラゲラ笑ったりしてかなり引きこまれて観ているようでした。甥っ子の表情を横から見ているほうが楽しかった!
 個人的な好みでは『千と千尋の神隠し』のほうが好きでしたが、台詞のなかに、じ~んと感動する言葉もあったりして、それなりに楽しめた作品でした。

 これからも、甥っ子にとっては‘ちょっとおもしろい大人’という存在でいたいなと思うのですね。もう少し大きくなって難しい年ごろになったとき、親ではない大人の一人として話し相手になったり、ちょっとした風穴になるような、そんな存在でいられたらいいなぁと思っています。

連載[6] お父さんの子でよかった

2008-08-26 21:29:22 | 腎臓病のこと(連載)
 病気がみつかってショックを受けたものの、のちに夫となる彼と出逢うことができたわたしは、生きる希望がみつかったとばかりに彼との関係にのめり込みました。
 幸いにも彼のほうもわたしのことを気に入ってくれて、お付き合いをはじめることができました。
 付き合いはじめると、なにかずっと昔から彼のことをよく知っていたような、ずっと前からこうして一緒にいたような感覚に陥りました。それを話すと、彼のほうも「おんなじことを感じてた」と言われたりしたものでした。
 付き合えば付き合うほど彼のことが好きで好きでどうしようもなくなり、この人とずっと一緒にいたい、結婚したいと思うようになりました。
 
 仕事のほうはといえば、念願だったライターへの道もあきらめなければいけないのかな、と落胆していました。腎臓病のハンドブックなどを読むと、慢性腎不全レベルになったら重労働やフルタイムの仕事は避けて軽作業や家事ていどの仕事にしましょう、などと書かれてあったからです。
 でも、病気だからって夢をあきらめたくない、どうせ一度きりの人生なんだから挑戦してみたい! という想いでやってみようと決め、それまで勤めていたソフトウェア会社を辞めました。
 この決心ができたのも、彼が背中を押してくれたおかげでした。

 夜間の専門学校時代の友人が編集プロダクションに就職していたので相談したところ、抱えていた仕事の一部を回してくれることになり、幸運にも初めからフリーライターとして仕事を始めることができたのでした。
 それにしたって、初めからフリーで仕事を始められたのは、実家に住んでいたからできたことです。父と母が元気で(父は透析を受けながらでも)働いてくれていて、食べることには困らない状況だったから叶った夢でした。

 連載[5]で、病気になってしまったことへの負の感情を両親にぶつけることはできなかった、と書きました。けれども正確にはまちがいで、わたしは十分ぶつけていたのです。
 (病気になっちゃったんだから。大事に扱ってよ。)
 直接言葉にこそしなかったものの、こうした想いを無言のうちに両親にぶつけて責めつづけていたのだと思います。日々の生活のなかでの傲慢な態度と、敬意に欠いた物言いで。両親や妹に対する思いやりや感謝もいちじるしく欠けていました。

 父と母と妹はそれでも一言も文句を言わず咎めることもなく、わたしを大事にしてくれました。
 母は家のことを手伝ってと言うこともなく、つねにわたしの体調を気遣ってくれました。わりときびしい食事療法をしなければならなかったのですが、毎日の食事を作るのはほとんどが母。わたしは作ってもらった食事の栄養を「腎臓病食品交換表」で計算して記録をし、こうして・ああしてと指示していただけだったように思います。
 父とは直接病気のことを話すことはあまりなかったものの、好きなことをするのはいいけど無理はしていないか根を詰めていないか、といつも心配してくれていることが母の話から伝わってきていました。
 
 けれどもわたしは、父のそうした愛情に無頓着でした。
 彼との関係にのめり込み、依存症と思えるほど甘えるようになったのも、胸のうちに父への複雑な感情を抱えていたからです。

 ものごころついた頃から、わたしは父に対して心から甘えられないところがありました。
 遠い記憶のなかで覚えているのは、父にものすごい勢いで叱られて引きつけを起こすほどわんわん泣きわめいている記憶です。父に叱られると恐ろしい、という記憶。
 また、何か気に入らないことがあると母に対して怒鳴っている父をよく見ていたので、幼いながらもその理不尽さに納得がいかなかったり、怒らせると恐い人、という想いが幼い頃からありました。そして、病気がちになり体が思い通りにならないとイライラを母にぶつけていた父の姿を見て、病気だからしょうがないと頭ではわかってはいても、母が可哀想だという想いをずっと持っていました。

 父への幼い頃からの恐怖心、甘えたくても素直になれないかたくなな心、母を怒鳴っていたことへの憤り……そこに、さらに病気のことが加わりました。
 父の病気(体質)が遺伝してしまったことで、病気のことに対する父への恨みがましい気持ちが合わさって、父への想いはさらに複雑な二重構造になっていました。
 病気になってしまったことで父の病気のつらさは理解できるようにはなったし、父だってなりたくて病気になったわけではない、母から(わたしからみると祖母から)の遺伝でなってしまったのだから父を恨んではいけないとわかってはいても、腹の底では納得できなかったのです。父から病気が遺伝してしまったことが、とても悔しかった。
 だから父に甘えられない分、彼に対する依存心と甘えは根が深いものでした。

 彼とは本当にご縁があったのだと思います。子どもが産めないかもしれない持病があることを承知で、彼は結婚しようと言ってくれました。彼の両親や弟たちも、結婚に反対することもなく嫁として家族として受け容れてくれました。

 病気がみつかってからも、ライターになることができ、好きな人と結婚することができ、念願の本を2冊も出すことができ、夢だと思っていたことをどんどん叶えることができました。彼と家庭をもち独立して、食事療法や家事も自分でやりくりするようになり、病気のことも彼の支えで乗り越えてくることができました。

 それでも、どこかでつねに満たされない想いがありました。
 人間関係でつまずいたのも、相手の人の感情を受け止めることが恐くて本音を言えず、逃げてしまうことが原因でした。

 けっきょくは、父に対する葛藤の問題にいきつきました。
 7年間の内省のあいだに、わたしはずっと父との関係、父への感情について考え、向き合ってきたのだと思います。

 父からものすごく叱られて泣きわめいていた記憶――その原因となった出来事を去年のある日、突然思い出すことができました。これはわたしがとても悪いことをしたからなのです。それは叱られて当たり前! というようなひどいことをしたせいで叱られていたのだと。そのことをはっきりと思い出しました。父はわたしに対しては、正統な理由がないかぎり、頭から叱りつけるようなことはしない人だったということを。

 また、そうしたくないのに母を怒鳴ってしまった父の気持ち、体が思い通りにならない苛立ちを配偶者にぶつけてしまう気持ちも、まったく同じことを自分も夫にしていたことに気づき、あぁ、父もこういう気持ちだったんだ、こういう弱いところがあったんだと、その心理を肌身で自分のこととして理解することができるようになりました。

 そうして内省していくうちに――
 父と同じ体質で生まれてきたのは、父と同じ病気になって父と同じ苦しみを肌で感じ取り、わかり合うため。父という人を受け容れ=自分を受け容れ、父を許し=自分を許し、父を愛し=自分を愛するようになるためだったのだと気づいたのでした。

 同じ病気になったのは、父と同じ苦しみを体験するため・理解するためと書きましたが、わたしには一生かけてもわからないことがあります。
 それは、子どもに(しかも娘ふたりともに)自分の病気が遺伝してしまったという苦しみ、悲しみ、悔しさ、やり場のない怒り、罪の意識……父のこのやりきれない想い、苦しみの深さは、子どものいないわたしには想像することはできても、肌身でわかってあげることはできないということです。そういう意味では、わたしや妹よりも父のほうがはるかにつらいと思います。

 だから父のためにも、わたしは毎日を楽しく幸せにすごしたいと思うのです。わたしの幸せが父と母の幸せにつながり、自分を本当の意味で愛することが父を愛することにつながり、夫を本当の意味で愛することにつながっていくのだと思っています。

 もとより、わたしは生まれた瞬間から、父に無条件に愛されてきました。父はわたしをずっと手放しで愛してくれていたのに、それを表現することが上手でなかったため、わたしが感じ取れていなかった、感じ取ろうとしていなかっただけでした。
 病気がみつかる前から、わたしはじゅうぶんに父から母から妹から愛されていました。それが当たり前になってしまって自覚さえできないほどに……。

 わたしが父と同じ病気になる「宿命」で生まれてきたのは、愛を知るためでした。
 両親や妹から無条件に愛され、夫や友だちに愛を注いでもらい、ご縁のあった方たちから大切に想っていただいていた――。そのことを長い歳月をかけて噛みくだいて、ようやく愛を知ることができたほど、わたしは「愛する」ということがどういうことなのか知らなかった、わからなかったのだと思います。
 愛を深く知るために、病気と子どもが産めないという体験をすることになったのだと、いまは思っています。

 いまは、心の底から「お父さんの子でよかった」と言えます。

 お父さんの子に生まれてきて本当によかった!!

 本当の愛を教えていただくことができたからです。

ハワイアンBARで‘カラー夜話’の会、ご報告

2008-08-25 13:54:22 | 『ことことカフェ』カフェイベント情報
 ご報告がおそくなりました。
 8月21日(木)の夜、ハワイアンBARで‘カラー夜話(よばなし)の会’を、恵比寿の「ハワイアン・ガーデン モアナ・ラニ」で行ないました。

 ことしの夏は雷をともなった集中豪雨がやたらと多いですね。
 この日も開始時間にぶつかってしまいそうだなと思っていたら、案の定、ちょうど恵比寿からお店に向かう時間帯に激しい雷雨に見舞われてしまいました。
 悪天候であったにも関わらず、お越しくださった4名の皆さま、本当にありがとうございました

 「ハワイアン・ガーデン モアナ・ラニ」は恵比寿ガーデンプレイスそばのビルの6階にあるハワイアンBAR。
 晴れた夜には窓全開で東京タワーや夜景が望める絶景カフェです。(カップルに最適なオープンカウンター席もありますよ♪)
 このBARを一緒に見つけたMさんと「今度ここに飲みに来ようね」と言っていたので、今回はこのお店で夜景を眺めながら飲むことが一つの楽しみでもありました。
「あいにくの豪雨のなかお越しくださって……」
 申し訳なく思って言うと、一緒にお店を見つけたMさんが、
「迫力満点のウェザーライブを楽しめるから、こういうのもいいですね」
 なんて言ってくださったり、姉妹お二人で初めて参加してくださったMさんも、
「これはこれで、風が入ってきたり雨の音も気持ちがいいし・・・」
 そんなふうに言ってくださって、優しい言葉とお心遣いに感激しました。ありがとうございますm(_ _)m。。。

 雷雨のおかげもあってか、お店はわたしたち5名だけの貸切BARとなりました。
 前半は、大きな窓から大パノラマで稲光が走るのが見えたり、どしゃぶりの音がシャワーのように心地よかったり、風と雨粒が突然吹き込んできてびっくりしたり……。Mさんが言ってくださった通り、ウェザーライブを五感で楽しむことができました。 
 激しく打ちつける雨の音を聞きながら、(これは浄化の雨かなぁ)と感じたりしていました

 そんななか前半は、ハワイアンフードとカクテルを楽しみながら、自己紹介や近況報告。

 友人の紹介でお知り合いになり、これまでメールだけのやりとりをさせていただいていたMさんは、妹のYさんとお二人でご参加くださいました。
 Mさんはフルタイムのお仕事のかたわら、副職としてお友だちにネイルアートもされているとのこと。これまでのネイル作品を携帯画像で見せていただきながら、今度ネイルとカラーセラピーを組み合わせたイベントもしたいですね、なんていう話になったり。

 もう一人のMさんは、こどもたMLからのお付き合い。お仕事の忙しいなか参加してくださり、「きのうは沖縄料理店で泡盛を飲みました」なんていうお話もしてくださいました。

 中盤。ウクレレを演奏されるMさんが、ウクレレ仲間とハワイへ行ったときに出会った日系ハワイ人のおばあさんとの会話が心に残っているというお話や、ハワイの自然のすばらしさなどを語ってくださったり、ハワイの話でも盛り上がりました。

 ハワイアンフードで美味しかったのは、チキンソテーにクリームソースがかかった「チキン・マヒマヒソテー」と、エビや生のパイナップルが入ったチャーハン「パイナップルライス」。そして、おにぎりにスパムを海苔で巻いた定番の「スパムムスビ」も初めて食べましたが、スパムの塩味がほどいよい加減で美味しかったです。
 ドリンクは、気になるハワイアンカクテルをそれぞれ選んで楽しみました。

 会話に夢中になっているうちに雨がやみ、つづいて風もやむと空が晴れてきて・・・東京タワーがくっきりと姿をあらわし、周りの高層ビル群の夜景も見渡すことができるようになりました。
 せっかくお越しくださった方に、後半はきれいな夜景を眺めていただけて本当によかったと思いました。

 最後に、今回は3人の方がモニターさんになってくださったので、センセーションカラーセラピーのグループセッションをさせていただきました。
 センセーションカラーセラピーの10色のミニボトルをテーブルに並べて、それぞれの方に3本ずつ選んでいただいて。選んでいただいたカラーから読み解くことができるメッセージを、個人的なプライバシーの部分に触れないていどに、少しずつですがお話しさせていただきました。
 何かしらご自分の心に響く言葉やメッセージを感じ取っていただけたとしたら、とてもうれしく思います。

 参加してくださった皆さま、楽しい夜を共有できてとてもうれしく思いました。ありがとうございました

明日でお別れ

2008-08-24 23:37:15 | 日々のできごと
 妹が引き取りに来ることが決まり、明日には帰ってしまう「まり・まの」。


 夫が写真を撮ろうとして、シャッターチャンスを狙っていたら、白い「まのん」のほうが腹這いの体勢に。

 


 そのうちに、さらにべたーっとしてきて・・・
 
 のし餅のような形になってしまった。



 「わ、まのん、なにやってんの?」とか笑っていたら・・・

 まりんのほうも、


 
 のし餅状に・・・!


 さいごは2匹で



 
 ダブルのし餅。


 明日、帰っちゃうんだ・・・さみしいなぁ

 

 元気で長生きするんだよ
 
 
 

連載[5] 家族のスタイル

2008-08-23 00:06:30 | 腎臓病のこと(連載)
 25歳になったばかりのある日、腎臓病がみつかりました。腎機能はすでに3分の1になっており、近い将来透析になることも覚悟したほうがよいと言われてしまいました。

 透析生活を8年間つづけてきた父が言ってくれた、
「しっかり受け止めなさい、受け止めるしかないから」
 という言葉は、大きな説得力をもって心に響いてきました。
 そうなんだ、受け止めるしかないんだ、この現実を。

 同時に、なんて前向きな両親なんだろうと、妙に感心もしていました。
 娘がこういう状況におちいっても、すぐに気持ちを切り替えられるような言葉で励ましてくれる。力になってくれる。前向きなんて言葉では足りない。超・超前向きな親! でも、そうやって超前向きになって現実を笑い飛ばしでもしなければやってこられなかったとも言えます。
 父も母と同じく、わたしの前では気丈に励ましてくれたけれど、夜ひとりになったとき、あるいは母の前では泣いたのではないかと思うのです。娘に遺伝してしまったやりきれなさや罪の意識で……。それでも、つらいことも苦しいことも前向きに考えて笑い飛ばして乗り越える。それが父と母の、わたしの家族のスタイルだったのだと思います。

 けれども、父が階下におりて一人きりになってしばらくすると、ふたたび感情がこみあげてきました。
 とにかく、どうして、どうしてわたしだけ? という理不尽な想いと、悔しさ、悲しさ、やりきれなさ、病気への怒り、憎しみ……。
 受け止めることなんてできるわけないよ! と思いました。

 同時に、両親へのなんともいえない恨めしい気持ちが湧いてもきました。
(こうなる可能性があったなら、なんで早いうちに血液検査をしなさいとか言ってくれなかったの?! どうして食事にもっと気を遣うとかしてくれなかったの?!)
 25歳にもなって大人になっているにも関わらず、わたしは病気になったことを父のせいにし、体調や健康の管理ができなかったことを母のせいにしてしまいたかったのです。
 両親の前では心配をかけるから泣いてはいけない、と自分を必死に保っていたけれど。それは、自分のなかのドロドロの感情を両親にぶつけてしまったら、そのことで父や母が徹底的に傷ついてしまうのを見るのが恐ろしかったからです。傷ついた両親を受け止めることはとてもできないと思ったからです。

 今になって一つだけ思うのは、あのとき、ありのままの感情――悔しさや悲しさや理不尽な想い、両親への憤りまですべて――をぶちまけてしまったほうがよかったのかもしれないということです。
 ドラマのシーンによくあるように、両親の胸に飛びこんでこぶしで叩きまくり泣きわめいていたら……。
 両親はきっとわたしを抱きしめて、つらいね、悔しいよね、と一緒に泣いてくれたのでしょう。
 父は理不尽な病気にどれだけ悔しい想いをしたか、それでも体と心を保つためにどれだけ歯を食いしばってがんばってきたかを。母はそんな父を支えるためにどれほど苦労し、どんな想いで娘たちを守ってきたかを語ってくれたでしょう。
 早く気づいてやれなくてごめんね、と泣いて謝ってくれたのでしょう。
 そこでおたがいにカタルシスを感じることができたのかもしれません。

 でも、わたしはあのとき、両親に感情をぶつけることはできませんでした。
 それがわたしたち家族のスタイルだったから。負の感情が湧いたとき思ったことをそのまま口にして相手にぶつけたり、ドロドロの感情を人前で見せるということを(とくに母は)しないようにしてきた家族だったから。そういう想いは胸にしまって笑い飛ばし、明るく前向きに生きてきた家族だったからです。
 わたしは今でも母が中心になって築いてきた家族のスタイルが好きだし、誇りにも思っています。だから、あのときの自分はああするしかなかったし、あれでよかったのだと、心から思っています。

 ただ、このスタイルには弱点があります。家族全員が明るく前向きになることで、本当の(とくに負の)感情をさらけ出せなくなり内側に溜め込むことになること、自分自身さえも騙し騙しいくようなかたちになること、の二つです。
 わたしも、おそらく両親も、のちには妹も、病気に関してはこの弱点の部分でそれぞれに苦しんだのではないかと思っています。さらけ出しぶつけ合ってしまえれば、少しは楽に生きられたのかもしれないし、おたがいにもっと深くわかり合えるのかもしれないとも思うのです。

 (さらに言えば、この弱点がわたし自身の人間関係をつくる上での最大の弱点になっています。相手に対する負の感情や相手にとって耳が痛いような本音をぶつけることができないのですね。(それが相手にとってはマイナスだとか耳が痛いことではないかもしれないのに。相手の反応が恐くて本音を言えないのです。)だから、ときに本当の感情をごまかして無理に合わせようとしてしまう。この弱点のために人間関係で失敗したことが何度かありました。これはわたし自身の大きな課題です。)

 そんなわけで、病気に対する怒りや負の想いを両親にぶつけなかったかわりに、病気と共存するありのままの自分を受け容れるかわりに、病気には負けない! 健康な人にだって負けてたまるもんか! 同じくらい、いやそれ以上のことをしてみせる! というエネルギーに変えて突き進むという道を、わたしは選ぶようになったのでした。
 そうして気を強くもつことで自分自身を保つことができたのだと思っているし、負けずぎらいパワーで乗り切ってきたことは数え切れないほどありました。

 けれども、あの頃のわたしはもっと大切なことに気づいていなかったのです。
 病気をもらったかわりに、多くの学びやギフトがもたらされていたことを。
 病気がみつかる前もみつかってからも、たくさんのあふれるような愛に囲まれていたことを。
 愛に生きるくらしを人生のメインテーマに据えることができれば、病気や子どもがいないことなどはマイナスにはならない、ということになかなか気づけなかったのですね。

 わたしにとって最も大きなギフトが、のちに夫となる彼との出逢いでした。
 病気をいただいたおかげで、わたしは彼と出逢うことができ、彼と人生をともにするという幸せをいただいていたのでした。

 つづく――。

ハワイアンBARで‘カラー夜話’の会、ありがとうございました

2008-08-22 00:20:55 | 『ことことカフェ』カフェイベント情報
 今夜、予定通り、『ことことカフェ』@ハワイアンBARで‘カラー夜話(よばなし)’の会を無事に終えることができました。
 折しもあいにくの激しい雷雨であったにも関わらず、恵比寿までお越しくださった4名の皆さま、本当にありがとうございました
 
 恵比寿のハワイアンBARは、今夜はさすがに窓を全開というわけにはいきませんでしたが、その雷雨のおかげでわたしたち5名だけの貸切BARとなりました。
 前半は、コの字型の大きな窓から大パノラマで稲光が見え、どしゃぶりシャワーと風のなか、迫力満点のウェザーライブを楽しむことができました。 
 雨がやみ風がやむと、曇っていた空が晴れてきて、東京タワーがくっきりと姿をあらわし、周りの高層ビルのきれいな夜景も眺めることができました。

 ハワイアンフードとカクテルを楽しみながら、自己紹介から近況報告、ウクレレやハワイの話で盛り上がり。後半は、3人の方がモニターさんになってくださったので、センセーションカラーセラピーのグループセッションをさせていただきました。

 参加してくださった皆さま、ALOHAな楽しい夜をありがとうございました

 近日中に、詳しいご報告をアップしたいと思います
 今夜のところはとり急ぎ、お礼とご報告まで……

連載[4] 宣告の日

2008-08-21 15:13:28 | 腎臓病のこと(連載)
 SEとして働いていた25歳のとき、とつぜん足の親指の付け根が赤く腫れ、激痛におそわれました。少し前から、ヒールを履いたときなどに痛くて外反母趾かなと気になっていたところでした。
 その頃は仕事が忙しく、午後十時すぎまで残業をして帰ってくることがほとんどでした。それに加えて、文章を書く仕事=ライターになりたいという気持ちが大きくなっていた時期でした。
 書いたものを読んでもらって人と交流したいという気持ちと、人さまに読んでいただける文章を書く練習も兼ねて、当時、友人知人50人くらいの人に宛ててミニ新聞を作って発行していました。
 仕事から帰ってきてからと休日の時間を使ってミニ新聞を作っていたので、体に相当無理がかかっていたのではないかと思います。体は何度も注意信号を出していたと思います。それでも、夢を叶えたいという想いのほうが強かったため、体からの信号に気づけませんでした。うすうす気づいてはいても見て見ぬふりをしていたというのが本当のところです。
 とうとう体が悲鳴を上げ、症状になってあらわれました。

 そのときすでに父は透析を受けており、透析生活8年目くらいの時期でした。
 わたしが痛みを訴え、赤く腫れ上がった足の親指を見せたときの両親の反応を、今でも覚えています。父が透析になる前にも同じ症状が出たことがあったからです。
「俺と同じか?」
 父は一言呟き、
「そうだね、お父さんもあのときこんなふうに赤く腫れたよね、痛風だって言われて。痛い痛いって言って氷水で冷やしたじゃない?」
 母もそう言って、わたしの患部に触れてきました。
「痛いっ! ちょっと触るだけで痛いんだから」
 叫びながら足をひっこめました。患部は真っ赤に腫れて熱をもち、指でちょっと触れるだけでも針で突き刺されたような激痛が走り、床におろすこともできないほどでした。
 わたしも思い出していました。父も同じように、痛い痛いと苦しみながら洗面器のなかに足を入れて氷水で冷やしていたときのことを。
 たしかに同じかもしれない……。両親も同じ気持ちであることは伝わってきました。
「痛風かもしれないから、すぐ病院で診てもらってきなさい」

 大学病院で診てもらうと、やはり血液検査で尿酸値が異常に高く、痛風の発作であることがわかりました。
 さらに、腎機能がすでに3分の1にまで下がってしまっていること、ここまで悪くなっていると完治はむずかしい、いま持っている腎機能をなるべく維持していく保存治療をしていくことになるが、いずれ透析になるかもしれないということを、当時の主治医に言われました。

 診察室を出たわたしは、待合室の長椅子にぼんやりとしたまま座り込みました。
 やっぱりそうだったんだ……という想いとともに、
 (もうそんなに悪くなっていたなんて……。どうして?! なんでこんなに悪くなるまで気づけなかったの?!)
 父を見てきたので、腎臓病がどのような症状が出てどのような過程を経て透析になるか、そして透析の大変さもよく知っていました。
 (あたしもお父さんのようになっていくの?)
 お腹の底から突き上げるように想いがこみあげてきました。周りに人がいるのに、涙がとめどなくあふれてきて、どうしていいかわからなくなりました。驚き、疑問、怒り、悔しさ、戸惑い……いろいろな感情がこみあげてきて、とても混乱しました。

 けれども会計を済ませて薬をもらい車のハンドルを握った頃には、わたしは気持ちを引き締めていました。
 帰ったら、このことを報告しなければならないのだから。しっかりしよう! しっかり! と自分に言い聞かせて、車を運転して帰りました。

 帰宅すると、父は透析クリニックの通院日だったので、母だけが家にいました。
「どうだった?」
 居間に入っていくと、母はすぐに訊いてきました。
「うん、やっぱり痛風だって。痛風用の薬、もらってきたよ。あと、腎臓がかなり悪くなってるって言われた」
 母の表情が一瞬にして曇りました。大きなため息。
「やっぱりそうだったんだねぇ……そうじゃなきゃいいなと思ってたけど……。なに、そんなにもう悪いって言われたの?」
 わたしは血液検査の結果票を母に差し出しました。
「クレアチニンが普通は0.9までらしいんだけど3.3だから、もう3分の1しか機能してなくて腎不全の状態なんだって」
「え、もう3分の1……」
 母はじっと検査の結果をみつめていました。母にはクレアチニン3.3がどのくらいのレベルの数値なのかがわかっています。
「急にそうなったわけじゃなくて少しずつ悪くなってきただろうから、あとは薬と食事でいまの腎臓が悪くならないようにするしかないんだって」
「そう……そんなに悪くなっているの、わからなかったねぇ・・・」
 母のため息のあと、沈黙が流れました。
「しょうがないな、なっちゃったものは。でも、痛風で出たからこれくらいでみつかったんだから。お父さんなんか急にクレアチニンが15くらいに上がって倒れたんだから。それを考えたら、まだよかったんだよ。大事にしていけば、ね」
「うん、そうだね」
「薬を信じて飲んで、食事もきちんとやっていけば、きっとよくなるよ」
 どんなときでも母は明るく前向きに物事を考える人で、何でも笑い飛ばしてしまうところがあります。そんな母の励ましの言葉で、わたしも少し前向きな気持ちになってきました。
「そうだよね、まだ治る可能性がないわけじゃないんだし、食事も言われた通りに気をつければよくなるかもしれないもんね」
 それからしばらく、ここのところ食べすぎていたことや疲れていたことなど、症状が出た原因で思い当たることを母と話し合いました。母は、食事づくりのことはやるからどうすればいいか教えて、ということと、これからは無理をしないようにしなさいね、と言って、また励ましてくれました。

 母と話しているときは一瞬前向きになれたものの、二階の自分の部屋に戻ると、母の前では抑えていた感情が一気に噴き出してきました。
(なんでこんなになるまで気づかなかったんだろう?! こんな若いうちから治らない病気になっちゃって! まだ25だよ、あたしの人生、まだまだこれからなんだよ! なんで? なんで何も悪いことしていないのに、なんであたしだけ?!)
 あとからあとから感情がこみ上げてきて、ベッドに倒れ込み、突っ伏して泣きました。階下の母に気づかれないように、枕に顔を当てて声が漏れないようにして……。

 泣き疲れてぼんやりしていると、透析から帰ってきた父が階段をあがってくるのがわかりました。わたしは急いでテレビをつけ、前から見ていたふりをしました。落ち込んでいるところを父に見せたくなかったからです。
 父が部屋の戸を開けて、
「やっぱり悪くなってたって?」
 と、声をかけてきました。
「うん。クレアチニンがもう3.3になってるって。痛風の薬をもらってきたよ」
 わたしはテストの点数を報告するような感じで、淡々と言っていました。
「そうか、もうそんなに悪くなってたか・・・気づかなかったな……。俺は40後半からだったからな、そんなに早く悪くなるとは思わなかったな」
「うん」
 わたしは父の顔が見られず、視線をそらしてうなずきました。
「悔しいよな、父さんも思ったよ、何も悪いことしていないのにな。なんでだろうってなぁ・・・」
 父とわたしのいる空間は、一瞬途方もなく悲しくやりきれない空気に包まれました。返す言葉がみつかりませんでした。
「母さんがさっき泣いてたよ。あゆみもなっちゃったかって……」
 母が泣いている・・・さっきはあんなに明るく前向きに励ましてくれたのに、心のなかではそんなに悲しんでいる。父の病気で苦労してきた母に、わたしの病気でまた心配や苦労をかけてしまうことになる・・・。
 ふいに喉の奥からこみあげてくるものがあり、涙があふれてきそうになりました。でも必死で涙をこらえました。父の前で泣いたら父も傷つく、泣いちゃだめ、そういう自制心がはたらきました。
「でもしょうがないな、なっちゃったものは!」
 沈黙をやぶるように、父が明るい声で言いました。
「もうなっちゃったもんはしょうがないから。あとは無理しないでいまの腎臓を大事にして。だいじょぶだよ、まだ若いんだから、よくなる可能性だってあるし、まだまだ持つよ」
「うん、そうだね、がんばればよくなるかもしれないもんね」
「うん。まあ、だけどなぁ・・・俺もいろんなことやってみたけど、透析になっちゃったからなあ。何やってもだんだん悪くなっていっちゃうんだよな。お前もいずれ透析になるかもしれないから。それも覚悟しておいたほうがいいな」
「…………」
「でもな、あゆみが透析になる頃には今より進歩して、いい方法ができるかもしれないしな、家で透析ができるようになるかもしれないから。医学はどんどん進歩しているから。まぁあんまり気を落とさないで」
「うん」
「しっかり受け止めなさい。受け止めるしかないから、な。あんまり無理しないで大事にしてやっていきなさいよ」
 父はそう言って、最後は笑顔さえ浮かべると、階下へおりていきました。

 つづく――。

可愛い預かりもの

2008-08-19 22:35:02 | 日々のできごと
 連載はまだつづきを書きますが、きょうはちょっと可愛い預かりものをご紹介します。

 妹の家族が飼っているモルモットたち。家族旅行のあいだ、我が家で預かることになりました。
 上のグレイの毛の子が「まりん」。
 昨年の甥っ子の誕生日のとき、モルモットが欲しいというので、誕生日プレゼントにした子なんです。

 ペットショップで買ってきたのですが、毛がフサフサタイプの白い子とメスどうしと勘違いされて、同じゲージに入れられていました。
 そのフサ毛の白い子がオスだったらしく、まりんは甥っ子の家族となってしばらくしてから赤ちゃんを5匹も産みました!
 まりんと同じ毛の色の子は1匹もいなくて、みんな白い子ばかり。1匹だけ毛がフサフサで、ほかの4匹は少しフサ毛が混じった短毛でした。

 妹の家ではそのうちの1匹をそのまま飼うことにして「まのん」と名づけました。
 
 体格が大きく、いまではお母さんよりも大きくなっています。

 夫とわたしをエサをくれる人と認識したらしく、近寄ると、「プイプイ、プイプイ」と鳴きながらエサちょーだいのアピールをしてきます。
 
 夫は「プイプイプイプイ」と真似しながら、エサをやっています。

 干し牧草やキャベツやにんじんの皮などが大好きで、手から食べてくれるのでとっても可愛い!!
  
 我が家ではいま、この2匹がアイドル化しています。


 写真はどれも夫が撮ったもの。わたしが撮ってもあまり上手に撮れないので却下されてしまいます。悔しいけど彼が撮る動物の写真、とても可愛いんですよねぇ。。。実物よりよく撮れているかも。

 あと少しで帰ってしまうけれど、それまで楽しませてもらえそうです。



連載[3] 水飲みっ子

2008-08-14 19:17:01 | 腎臓病のこと(連載)
 父は、ことしで透析生活25年目。大ベテランです。
 わたしは腹膜透析から数えると8年目。妹も現在、腹膜透析をしています。
 父方の親戚のなかには、ほかにも同じ病気の人が何人かいます。

 25歳のときに腎臓病がみつかり、検査の結果、わたしの病気は遺伝性の腎臓病であることがわかりました。
 その後、当時の主治医のチームは、原因を調べるために父の故郷へ出向き父の兄弟や親戚の血液を採ってきたりしながら、研究をつづけてくれていました。
 2001年の遺伝子解析の結果、父やわたしや妹の遺伝子のなかの一部が、ほかの人とは異なっていることがわかりました。

 腎臓は余分な水分を排泄したあとで、体に必要な水分をふたたび吸収して体に蓄えておくという働きをしています。
 水分を再吸収するにあたっては、水分をより分けて通過させる働きをする膜たんぱく質「アクアポリン」が必要です。(このアクアポリンは1992年に発見され、‘水チャンネル’とよばれています。)
 遺伝子解析の結果、父やわたしはこのアクアポリン(AQP2)の部分に異常があり(遺伝子構造の何番目のどの部分が悪いかということまでわかっています)、尿の濃縮と尿量の調節がうまくできない「腎性尿崩症」であることがわかりました。
 具体的には、水分を再吸収する量が普通の人よりも少ないため、尿が3倍くらい多く出てしまう。そのぶん水分を摂らなければ脱水になってしまうという体質です。

 現在ではここまでのことがわかっていますが、根本的な治癒の方法はみつかっていません。
 そして、わたしが子どもの頃は、父自身も母もこのような遺伝子のしくみについて知るすべはなかったのでした。

 父と同じように水をたくさん飲む体質だとわかったのは、わたしが乳呑み児のときでした。ミルクを飲ませようとしても嫌がってまったく飲まなくなり、高熱を出した時だったそうです。
 母は困り果て、「あゆみが冷たくなっちゃったよぉ」と泣きながら実家に連れて帰り、そのまま病院へ駆け込みました。
 くわしく調べてもどこが悪いというわけでもなく、医師は原因がわからないと言う。父がふと思い立って「水を飲ませてみるか」と飲ませてみたら、ごくごくとおいしそうに大量の水を飲み干し、たちまち元気になってしまったのだそうです。
 ふつう赤ちゃんは白湯を少しほしがることはあっても、真水をそんなにたくさん飲むことはないので、母もまさか水分が足りなくて具合が悪くなっているなどとは思ってもみなかったのだそうです。
 父と母はいまでもそのときのことを、「あのときはわからなかったからな、可哀想なことをしたよねぇ」と申し訳ながって話してくれます。
 4年後に生まれた妹も、生まれたあとすぐに、同じように水を飲みたがる体質だとわかりました。

 わたしと妹は、父と同じく異常なほど水をよく飲む子どもでした。普通の子どもより3倍もおしっこが出てしまうため、そのぶん3倍の水分を飲まないとすぐに熱を出してしまう(脱水症状をおこしてしまう)体質でした。
 毎時間のようにトイレに行き、水を飲んでいました。夜中も2、3回は必ずトイレに起き、その度に(小学3年生になるくらいまで)母を起こしていました。わたしと妹の2人に何度も起こされ、母は一晩ゆっくり熟睡できた夜はなかったのではないかと思います。
 水分は糖分の入ったジュースなどではだめで、体にすぐ水分を補給できる真水でなければだめでした。一度に、300cc入りの大きなコップに3杯くらいは平気でがぶ飲みしていました。
 よそのお宅へおじゃましたときなども、そのおうちの方がジュースを出してくれようとするのを、母は「この子たちは水飲みっ子なので水でいいんです。水じゃないとダメなんです」と言って断っていました。「ほら、1杯じゃ足りないんだから台所で水を飲ませてもらってきなさい」と母に言われ、水道から水を汲んでもらい何杯もいただいたものでした。

 そんな調子ですから、家族で旅行に行くときなどもたいへんでした。
 とにかく水とトイレ。それが一番大事。父とわたしと妹の3人が大量に水を飲むので、水筒なんて可愛いものでは何本持っていっても足りません。灯油をいれる大きさのポリタンクに水を入れて車のトランクに積んで出かけていました。
 林間学校や修学旅行のときには、父は事前に担任の先生に宛てて、
「この子は水をたくさん飲まないと脱水になって具合が悪くなります。いくら飲んでもお腹をこわしたりはしませんので、水を飲みたがったら、どうぞ飲みたいだけ飲ませてやってください。」
 と手紙を書いてくれたものでした。
 クラスメイトに「いつも水飲んでるね」とからかわれながらも、水道を見たら飛びつくようにして水を飲んでばかりいた、という記憶が残っています。

 そんな特異体質の夫と子どもが2人いた母は、とても苦労をしただろうと思います。
 特にわたしのときは、初めての子育てだけでもわからないことが多いなか、ほかの子と違った体質の子どもを育てるのは不安ばかりだったのでは、と思うのです。

 父は、わたしが中学2年生くらいの頃から腎臓病の症状が出はじめ、48歳のとき(わたしが高校3年生)から透析を受けることになりました。
 電気店を営んでいた父は、家族を養うために相当無理をしていたのではないかと思います。体力の要る仕事で体を酷使して、ぎりぎりまで我慢していたため尿毒症になって倒れ、病院に運ばれてそのまま透析生活に入らなければなりませんでした。

 父がそのような経過をたどったので、父と同じ体質であるわたしと妹も、「腎臓には気をつけないとね」と言われていました。
 けれども、年を取ったときには気をつけなければね、という程度で、まさかあれほど若いうちに病気の症状が出てしまうとは、両親もわたし自身も思っていなかったのでした。

 つづく――。

8月@ハワイアンBARで‘カラー夜話’の会

2008-08-12 09:28:23 | 『ことことカフェ』カフェイベント情報
 ちょっと急なのですが、来週の木曜日『ことことカフェ』のイベントとしてこんな会を開いてみることにしました。

『ことことカフェ』@8月のカフェイベント
『ハワイアンBARで‘カラー夜話(よばなし)’の会』
 ●開催日時 : 8月21日(木) 19~21時半頃まで(終わりの時間はアバウトです)
 ●場所    : 恵比寿のハワイアンBAR
             (お店のくわしい情報はメールにてご案内たいします)
 ●参加費  : 4,000円 (FOOD&ドリンク2杯分込み
           ☆PARTYプランのフード2500円とお好きなドリンク2杯分が
            含まれています。
            フードは、ハワイアンコブサラダ、トロピカルパイナップルライス、
            スパムムスビなど、ハワイアンフードらしいメニューです♪

 フラダンスを習っている妹のリクエストがあり、10月頃に「ハワイの会」のカフェイベントを計画しています。
 そのカフェイベントにご協力いただくことになったお友だちのMさんと一緒に、ハワイアンのお店が多いという恵比寿界隈を散策していて見つけたハワイアンBAR。
 ビルの6階にあるこのBARはコの字型に窓のほうを向いたカウンター席があり、夏の夜は窓を全開にして営業しているらしいのです。開放感&風通し満点! 東京タワーも望める夜景が眺められて、ここでカクテルでも飲めばハワイのビーチバーにいるような気分になれそうだね、今度は夜に来てみようね、と話してあとにしたのでした。

 「ハワイの会」のカフェイベントは10月頃を予定しているのですが、暑い夏の間に、夏らしくハワイアンBARで飲むのも楽しそうだなぁと。
 ハワイ語で「ALOHA」は」「愛」という意味なのだそうです。
 一つ一つの文字にも意味があり、
  は、ahahai(アカハイ)=、優しさ
  は、lokahi(ローカヒ)=調和
  は、‘olu‘olu(オルッオル)=寛大さ
  は、ha‘aha‘a(ハッアハッア)=謙虚さ
  は、ahonui(アホヌイ)=忍耐強さ 
 という意味が含まれているそうです。
 ウクレレを弾けるMさんが「ことことカフェのコンセプトにも通じるところがあるのでは?」と教えてくれました。「ハワイの会」のテーマは‘ALOHA’でいこうと思っています。
 21日もハワイアンフードとカクテルを楽しみつつ、夜風に吹かれて夜景を眺めながら、まったりとALOHAな気分でいきましょう

 そして、せっかくなのでこの機会に、センセーションカラーセラピーのモニターさんを募集させていただけたら・・・と思っています。
 ご希望してくださった方数名にモニターさんになっていただき、カラーボトルを選んでいただいて。(この日持っていくのはミニカラーボトルになります。) グループセッションのようなかたちで、色について触れていただくお話会をしてみたいなぁと思っています。(カラーセラピーに関しては無料です。)

 暑いからハワイアンな気分で飲みたい と思いついた企画ですので、綿密な計画はとくにありません。あるていどの人数分の席は確保しましたが、人数の確定は前日でいいそうです。さすがハワイアンなお店らしいアバウトさ、いいなぁ(^^)。
 ハワイの好きなところやもっているイメージなど、ハワイのことを語りながらハワイを象徴する色の話など‘カラー夜話(よばなし)’も楽しんでいただけたら・・・と思っています。

 カラーセラピーやカラーボトルが気になっていたけれど、個人セッションを受ける勇気はまだないとか予算的にきびしいという方、この機会にセンセーションカラーセラピーに少しだけ触れてみませんか。ぜひモニターさんになっていただけましたらうれしいです。どうぞお気軽にお越しくださいね

ご参加をご希望の方は、下記をお書き添えの上、
    kotokotocafeayumi@mail.goo.ne.jp までご連絡ください。
   くわしい場所のご案内などは、直接メールにてお返事させていただきますね。
   (1)お名前
   (2)当日ご連絡がとれるご連絡先
   (3)簡単な自己紹介などもお書き添えくださると、とてもうれしいです
  ご質問などもありましたら、お気軽にお書きくださいね。心からお待ちしています

 『ことことカフェ』コンセプトはコチラをどうぞ↓       http://blog.goo.ne.jp/kotokotocafeayumi/e/bddd5230d5f438ec101e87816d1852ea
 8月のランチ会もお待ちしています。26日(火)11:30~14時です

 いつも読みに来てくださり、ありがとうございます。読んでくださる方がいらっしゃるおかげで書くエネルギーが湧いてきます。明日以降は、また連載に戻りますね!