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バイクも仕事も走ります。

バイクででかける。美味いものを食べる。は継続。弁理士の仕事のはなしを加えていきます。

ちまちました人にならないために 8

2022-06-15 21:40:40 | ひとりごと
社会人 製薬会社

当時 4月初日くらいに薬剤師の試験があった。

人事の人には強く勧められていたので、勝算はないが仕方なく受験

なんかいろいろ模擬試験みたいなの送ってもらったが、修論発表前なので、寝る時間確保に大変だった。そんな余裕がない。

グループとはほとんどコミュニケーションなかったが、今になって思えば、一体、なにしてた?

人事の人は、理系の事情知らない。

気は進まないが、一応、受けようとはしてた。ところが、試験当日、熱を出してしまう。

人事の人には、逃げたと思われただろうが、本当のこと

知らぬ間に無理を重ね、開放されたのが嬉しすぎたか。。

大学入るときも微熱に悩まされたので、長引かなければいいかな。

この年は、1月に阪神大震災、3月に地下鉄サリン

行くところ、災難がある。

会社の研修の第2部が、富士の、あの基地があったあたりと同じ場所なので、河口湖になっていた。

研修は非常に楽しいものだった。

大学の研究室のときみたいな、禍々しいものなかったし。

研修も終わって、御殿場にて勤務。

大学時代は悔しかったこと多かったので、挽回しようという気はあった。頑張ったほうかとは思う。

しかし、如何せん、大学時代に身につけるべきものを全く身につけていない点は否めない。

O大学大学院薬品化学専攻 のアドバンテージはまったくない。

3年くらいはなんとかごまかせると思っていたので、それまでに、違う道を見つけなければならない。しかも、周りに人に悟られないように。。

自分の趣味として、念願の400ccのバイク購入。

ヤマハのXJR400

暇をみては、出かける日々

1年目に、北海道に行くつもりが、青森でUターン。

2年目は、どこかには行ったと思うが、忘れた。

3年目に北海道に着く。

礼文島にも渡ったかな。

研究職を抜けて目指すべき道は、割と簡単に見つかった。

新人の年は、1年かけて、東京の王子の研究所に研修がある。

合成から薬理から病理から、、一通り済ますが、最後に、特許の研修があった。

弁理士、という職種を初めて知った。

自分が目指すべき道はこれかな、と直感があったので、すぐに取りかかる。

当時は、自前のパソコンもなく、携帯も所持していなかったので、どうやって情報集めたかその手段は忘れたが、静岡にLECがあったので、そちらで、週1くらいに、通学して、個室でビデオみて勉強した。

独学では、なかなか進捗悪かったが、とにかく、楽しかった。

本来的には勉強好きなほうなので。

残業もほどほどに、帰宅後、勉強、勉強、勉強。夢のある生活はいいな、。

あまり、そういう生活してると、その会社での出世は望めない。

あっという間の3年が経った。

ちなみに、薬剤師は、2年目の春に受かった。

そんなに勉強してなかったが、嬉しいものだった。

新聞にも載るが、御殿場で知ってるひと、見てくれる人は居ない。と思ってたら、会社で見てくれてる人がいた。

試験に受かる、というのはええもんだな。

淡々と、自分の勉強を帰宅後にしつつ、仕事も、一応、真面目にしてた。あとあとに、役に立つと思ってたし。何事も真面目にはする性分だったので。

ここでも、自分の習得速度、遅いな~、などと思ってたが。

3年目の年末くらいに、会社の景気が悪くなったとか。会社の主力製品を他社と共同で販売したところ、シェアがだいぶ食われたとか。。なにやってんだろうか。

そのしわ寄せで、のんびり研究している馬鹿どもから、営業に回す。。とか、なかなかな理屈で、何人かが、割を食うと。。。

やる気のない自分は、多分真っ先に、やられるだろうな、と思ってたら、やっぱり、当たった。

その頃には、転職のタイミング計ってたので、営業職の転勤は辞退して、退職することにした。

ふんぎりをつけるにはちょうどよかったか

本心では、あと1年居たら、そこそこの結果残せるかな~などと思ってたが。

追い出しコンパとかもしてくれたけど、ここでも、誰も、本心では惜しんではくらなかった。不徳のいたすところである。

東京の特許事務所にするか、大阪の特許事務所にするか、当てはなかったが、もう、覚悟を決めるほかなかった。

寮を出る。バイクに荷物を積んで、和歌山の自宅へ戻った。

なんか、無限に暇な時間がるのが、いたたまれなくて、3日ほどかけて家に。

楽しくはなかった。落ち武者気分だった。

しばらく、無職の覚悟である。
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ちまちました人にならないために 7

2022-06-15 21:35:07 | ひとりごと
M2

この1年はいい思い出がほぼない。

1日耐えれば、研究室を去る日が近づく。。それのみが楽しみだった。

修論の世話は、仕方なくみてやる、、みたいなことを毎週のように言われた。

心の底から腹立たしかったが、我慢した。

アメリカ帰りのMのために、2研室から追い出された。

用意された席は、4回生が座るような席。

屈辱的だった。

それも耐えた。というか、自暴自棄の境地のため。どうでもよかった。

自分の性格のため、腐らず過ごした。やる気に満ちあふれていたわけではない。仕方なく日々を過ごした。

年末。

これまでと同じように年賀状を書いた。

去年のことが思い出されて苦しかったが、なんとか書いた。

ムラ社会なので、ここは無理しないといけなかった。

1月の下旬 阪神大震災があった。

早朝だったが、経験したことのない揺れ。

明るくなったと同時に学校に向かった。

学校に対して、そんな義理あいもなかったが。

地震の前後で、自分の部屋のちらかり具合は全く変化なかったし。

1番のりだった。

いちばん立場の悪い自分が学校に1番のり。

教授側からいい思いをしてる人ほど遅くに来る。

世の中そんなものなんだろうな。

要領のいい阪大生一般。要領の極端に悪い自分

研究室の中がぐっちゃぐちゃになってる様子に、笑いがこみ上げてきた。ほかに誰もいなかったので、多分、声を出して笑ってたと思う。

天罰じゃ、ぼけ~~。。自然と、そんなことも言ったと思う。

その直後に、非常に強い余震がきた。早朝の一発めより大きいのではないか。悪い心は持たないことだな、と自らを戒めた。

修士修了まであと少し。

なんの得もない、誰の得もないが、結構、頑張った、つもり。

修論もなんとか終えた。

3月中旬。追い出しコンパ。

今年は、追い出される立場である。

前の年は、Bさんの件があったので、私だけ二次会の出席を避けた。

今年の追い出す側は、みんな居る。

みんな居ることはありがたいな~。欠けていると、嫌な思いするなぁ。。と思ってたが、去年、自分はそれをやった。

心証よくなかったな。1学年上の方々には、申し訳ないことしたな。

学校を去る日が来た。

もう、嫌な思いをすることがないので、清々しい。

ただ、追い出す側も、私が去ることについて、清々しい思いをしてるんだろうな、と思うと、腹立たしい。

自分が去ることについて、寂しいとか、悲しいとか思ってくれる人は誰もいない。つらいことである。

前年、Bさんとは口もきかない間柄になってしまったが、お別れの日は、独りで悲しい思いはしていた。

自分には、そういう人はいない。

不徳と無能。

自分を呪うしかない。

学校を出ると、4月から、就職先の静岡の御殿場へ。

関西から出たくない一心で、大学受験を関西の学校に絞って臨んだが、結局、仕事は、東に行くことになった。

まっさらで再出発するには、ちょうどいいかな。

会社の人事の人から、薬剤師の試験を受けるように強く言われていたので、残り少ない勉強時間ながら、忙しかった。感傷に浸る暇なし。


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ちまちました人にならないために 6

2022-06-15 21:30:04 | ひとりごと
M1

希望に燃えて合成の部屋に来て1年になった。

院試験も頑張ってしのいで、同じ部屋で継続できることになった。

希望の光は乏しいが、まだ、努力する姿勢はなえていなかった。

4月の第1週のどこかで、4回生が入ってくる。

みんな、1年前の自分と同じく、希望に燃えて入ってくるはず。

その中にBさんもいる。

4回生が入ってくる日の前の日の晩。考えた。

以前から知っている間柄だからといって、なれなれしく接するようなことはよくないと思った。Bさんがやりにくくなる。研究室の1年は、楽しく充実したものでないといけない掛け替えのない1年になる。

そう考えたので、なるべく、厚かましい態度は取らないことに決めた。他に女子は3名いたので、それぞれにフラットに接することに決めた。

Bさんが来てくれたことは、本当は飛び上がりたくなるほど嬉しかったが、そういうのはなるべく隠すことにした。

同じ研究室で過ごせた喜び、本当は喜んでたけど、あまり話もできなかったお詫び、院試験の勉強の発憤材料にBさんの存在を利用したことのお詫び、卒業する頃合いに、諸々伝えないといけないかな、、などと構想しつつ、自分の気持ちを抑えた。

新4回生が入ってきたが、自分ひとりだけ頼りない先輩ではある。

ずっとグループ内で立場が悪かった。

負けないように気合いを入れつつ、学校には行っていたが、期待されていないことと戦う日々だった。つらかった。自分の存在ってなんなんだろう?

真面目には通っていた。

そんな自分を見せるのは、やっぱりかっこ悪かったので、4回生、特に、Bさんには、素っ気なく振る舞うようになっていった。

途中から、1研から2研に席替えになった。

よそ者、お荷物が来た、みたいな目が辛かった。

2研は、1学年上のTさん、4回生のS君と、Bさんと、新入りの私の4人。

院試のときに期待していたのと、ちょっと違うけど、昨年望んでいた配置。年内までは、なんとかこなしていた。

年末になる。

年が明けたら、4回生とM2は、それぞれ、卒業発表があるので忙しくなる。M1の私たちは、ゆとりがあるが、その代わり、就職の動きもある。

年始は、年中行事で、年賀状をみなに出す。

研究室における年賀状は、任意ではない。漏れのないかたちで、出さないといけないもの。狭いムラ社会。

仲の良い円満な人には、当然、やりとりはあるもの。

肝腎なのは、あまり仲のよくない人にも、気を使って特に細心の注意を払わないといけない。学生同士のはなしではない。T先生や、jやK先生のほか、ドクターの方にはそれがあてはまる。私の場合、グループ内の関係が最悪だったので、そちらも特に気をつけなくではいけなかった。

同学年や、1つ上の学年、1つ下の学年の人とは、気楽にやりとりできるだろうか。当然、Bさんからも年賀状もらう気でいた。むしろ、楽しみにしてた。

年があける。

実家から豊中の下宿に帰って、届いた年賀状をチェック。

先生どもや、教室の学生仲間からはちゃんと来てたのを確認。ただし、Bさんからだけ、なかった。

事故でもあったのかな、と心配したが、年末のギリギリまで学校に行ってたし、会ってたし、話も多少はしてたと思う。正月に年賀状に着くように、と逆算すると、事故はない。

手渡しでも悪くはないかな、とのんびりしたこと考えてたが、何事もなく年始の日は終了。同じ2研の仲間なのに。

みんなに出してないとしたら、ちょっと、非常識ちゃうかな、、と心配してたが、なにもそういう感じもなかったので、出してないのは、自分だけなんだろうか、、

家に帰ると、毎日、郵便を確認したが、届いてない。

もう自分にはないものと思うことにした。無礼なことされて心外だった。

ところが、1月の中旬も過ぎようか、という時期に届いた。

もう年賀状とは言えない時期だった。

年賀状のはがきではなくて普通のはがきだった。

だから結局は年賀状ではない

文言は、その後、一旦、無理矢理に忘れるようにしたが、これを書いてる時点の数年前、このときから、20年以上経過したときに、突然に思い出した。

その中には、

  私はちまちました人は好きではないので近藤さんを見ているとほっとします。いつまでも気が優しくて力持ちな人でいてください。遅くなり申し訳ありませんでした。

とあった。

一字一句思い出した.。昔の一時期までは頭の中に記憶してた。アホだなぁなどと思う。

記載の内容については嬉しい部分はあった。

ただ、「遅くなり申し訳ありませんでした」のほうがどうしても気になった。

意図的に、こんな遅い時期に出したんやな。

自分は他の人とは、1段も2段も下の扱いをしても許される、という意思表示なんだろうか、と。

謝ったくらいで、必ず許さないといけないのかな。

相当、いらいらするものではあったが、不問にした。怒ったところで仕方ないし。

ただ、このときからBさんに対する見る目は、だいぶ変わってしまった、、とは言える。

そこから数日後、さらに追い打ちをかけるような事が起こる。

深夜には至らない、22時まわったくらい。

遅くまでいる人、数名

先生方や4回生は大体帰っている。

のんびりした時間帯。

翌日の実験の器具、薬品を揃えるために1研に出向いていた。

なんかのタイミングで雑談に入ったのだと思う。詳しくは忘れてしまった。

その中で、同級のWから突然言われた。

「みっちゃん、Bから年賀状もらってないやろ?」

いきなりそう言われた。

私からそんなこと他の人に言わないので、Bさんが言ったんだろう。

「もらってない」、と答えると、さらに、

「もらえてないの、みっちゃんだけやで。」

言われた瞬間、気が遠くなった。悟られてはないと思うが。。

Bさんは、なぜ、そんなことを他の人に言ったのか。どういう意図があるのか。

と、戸惑った感じでいると、ちょっと離れたところから、M2のEさんが、

Bには、K(同級)が一番大事なんや、みっちゃんは、一番下なんや、、みたいなことを馬鹿笑いで言ってくる。

自分には、これ以上ない罵声に聞こえた。

何故かお祭り騒ぎみたいになった。Eさんには同じことを何度も繰り返して言われた。

なにが楽しかったのか、WとEさん。

なにか悪いやつを成敗したったみたいになってるけど、成敗された人間は目の前にいる。笑う場合ではない。

たかが、年賀状の話だったが、これ以上ない、ひどい屈辱感のあることになった。

どうやって、その場を切り抜けたのか覚えてない。

帰宅の後、布団のうえで、3時過ぎまで、ひたすら、枕を強く殴っていた。3時ころになって急に我に返った。自分は何をしてるんだろう。ほかのことは記憶にない。ただ、悔しかった。枕には悪いことをした。馬鹿だなあぁ

次の日から、Bさんとは、さらにまともに向き合えなくなった。

同じ2研に席があったので、相当につらかった。

以降、Bさんが卒業で去るまでの2月、3月の間、Bさんと話した記憶はない。多少はあったかもしれないが、後になって忘れようと努力した結果だと思う。自分も器用なことができるもんだ。

3月中頃 恒例の追いコンがあった。千里中央の居酒屋

当然、Bさんとは遠く離れた席にいた。

宴も終わり、店から出て、若干の時間たむろ状態

暇なんで、というところでトイレに行った。

みなが居るところに戻るところの角のところでBさんと出会い頭に顔を合わせた。

ちょっと焦った。。なんか悪かったな、と反省。

みんなタクシーに乗り合わせて学校に戻るが、私は、Bさんと乗り合わせになるとつらい。その可能性もあるので、ちょっと歩いてひとりでモノレールで山田まで

そこから歩いて校舎に戻る。

学生仲間は、みな、既にいた。これから二次会のカラオケに行く体制になっている。

私は参加する気がなかったので、適当なタイミングで帰ることにした。

M2の先輩方とのお別れでもあるので、Bさんのことがなければ、私も参加したかった。

私が研究室に居た時点でBさんはなぜか居なかったが、会わずに済むので、むしろ好都合かな、と。

ネームプレート不在にひっくり返して、さあ、帰ろうとして歩き出す。

角のところで、また、Bさんと出会い頭に向き合うかたちになった。

1秒くらいだったけど、Bさんの顔が見えた。もう、これで顔見るの最後やろし、、との思いがあったから。

そのまま階段を下りていった。振り返れなかった。振り返っても、Bさんは私のことを目線で追ってないだろう、もうそこには居ないだろうと思っていたので。それを確認するのが怖かった。

4回生は、3月以降は、薬剤師の試験のために、来なくなる。

4回生とM2の人が研究室を去る日にも私も居合わせたが、私のところだけ、素通りしていったかな、Bさん。

3月末は、私の東京で就職試験があり、そのまま、薬学会の発表がある。

東大

同学年の3人とEさんと私の合わせて5人の行動。それなりの気晴らしにはなった。

学会になると、いつも留守番役のK先生も今回は学会にいる。

帰りは、学生のみんなで、青春18切符で在来線乗り継いで帰宅した。

なにが青春やねん!言いたい気持ちながら、ここも気晴らしにはなった。

こうして暗転のM1を終えた。

Bさんがいたころ、悪態のひとつでもつくこともできたけど、それをすると、人気者だった、Bさんの人物評価は下がるかもしれない。

そう思ったので、なにも言わずに我慢した。

今から考えると、手紙の一つでも書いておけばよかったかな。その発想はその時点ではなかった。
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ちまちました人にならないために 5

2022-06-15 21:25:20 | ひとりごと
4回生

最終学年から研究室に所属することになる。

6つくらいあったと思うが、有機化学の部屋を希望した。

5階にある部屋は、結構、深夜までやるらしい。希望者が多かった。女子の希望者も多かったので、遠慮しておいた。

3階の部屋の一方は、一番深夜まで研究してるらしいし、教授が優秀すぎるので、パス。別の方は、ここも人気なので、競争に入るのを止めにした。

4階の部屋は、なぜか一人も希望者いなかったので、悠々とそこを希望した。最初の時点では自分のみ。後に、別の部屋の希望から抽選で漏れた人たちと併せて、6人、男は私と、Kと、Wと、Kの4名。女子は、MさんとTさん。

4月の初日から希望に燃えていたが、あんまりそういうのは表に出さないようにしてた。

なぜか、研究室に向かうのに自転車をこいで学舎に向かっている光景を覚えている。

行く途中で、同じく自転車のKに抜かれたな。

初日から歓迎の花見に出かけたり、自分の実験のプラッテを整理したり。。

自分の場所は決められていた。当時助教授jの隣り。

今は違う呼び方してると思うが、当時の助教授は教授の次の地位。

仮の場所とは聞いていたが、結局、みな、同じ場所に固定されたので、ほぼ、決まっていたのだろう。

同部屋の男子は全員、院進学希望4名。余所の大学から研究生としてKさんがいる。後に就職に難を示した女子のTさんも進学希望になって、競争者6名。

定員4なので、予定外に激戦区になった。

自分は、成績悪いほうなので、上の人からすると、漏れる人員にカウントされていたのではないか。自分でも、厳しいんじゃないかと思ってた。

教授のT大先生に個別の教授室で面談した覚えがある。

皆聞かれること。ドクターにあがる気はあるか。

私は、力があるようなら上がってみたい、と答えた。

T先生には、鼻で笑われた。明らかに馬鹿にしている。

その時は、若かったので、見返してやろう、と気力もあった。

ただ、その日から、博士に進学する、とは、二度と言わなくなった。また、二度と聞かれなくなった。悔しい思いはそこから。

この日のことは一生忘れない。

研究室生活が始まったが、自分だけ待遇はひどいものだというのは、自ずと気づく。

自分はなにをしても習得速度は相当に遅いが、追いつくと、負けないので、それまで辛抱かな。。などと心に決めた。そう思わないと負けそうになるし。

なにかの啓蒙の雑誌かと思うが、毎朝、負けるな、とか頑張れとか、呪文のようにつぶやいてから行動するようになった。

負けん気というか、気性の強さは密かに誰にも負けてないと思う。

グループは結局予想の通り、助教授jの下になった。

グループの長の助教授のjと最悪レベルの相性の悪さ

3年間も我慢した自分の耐久力も褒めるべきだろう。

ある事ない事で、説教されるのならまだしも、言った覚えのまったくないことで説教される。プラスの意味で言ったことが、マイナスの意味で取られて、また、説教。最初のころは、多少の反論、反発もしたが、火に油を注ぐみたいに、怒りに拍車がかかる状況になるので、途中から諦めた。気持ちの上では、最悪。最悪。最悪。

修士試験は9月。負けるわけにはいかないな~とは思うものの、ファイトする材料が少し足りない。いずれ、ここに居る人を実力的に追い抜いてやろう、負け惜しみ的にそんなことと思ってはいたものの自分に負けそうだった。

ただ、こんなところ、さっさと出る、くらいの機転があったほうが、別の運が開けていたかもしれない。それはそれで、逃げた負い目はどこかに出てたかもしれない。

4月あたまには希望に燃えていたが、希望はすぐに消失してしまった。

院進学どころか、3月まで自分の気力が持つのかな。。のレベル。

院試験は意地でも通りたい。別の部屋ではなく、今ここに居る部屋。そこまで固執する理由はないのだが、、

他のメンバーと同じく、実験はやらされるのだが、その意図等の説明はまったくなかった。j、Gがひそひそ話しをしてる程度。こちらには何も言ってくれない。毎日これやれと、だけ。毎日つらかった。

耳学問、耳学問とうるさかったj、都合のいい耳学問ではある。

自分にも何か希望的なものが必要だった時期

3年生も春から、同じ学舎に通うようになったので、下の学年の人とも顔を合わす頻度も増えた。

同じ教室の講義で会うと、なぜだか、Bさんがよく話しかけに来てくれる。

うれしかったし、救われたような気になる。4階に帰ると楽しくない時間を過ごさないといけない。

いつも笑顔で楽しそうな声で話しかけてくれる。

研究室では、つらかったけど、来年、Bさんがこの部屋を選んでくれて、自分も院の試験に成功したら、毎日、会えるかな~、などと頭によぎるようになった。

モチベーションとしてよくなかったのかもしれないが、Bさんと同じ研究室で過ごしている光景を頭に描くようにしてから、院試の勉強に励むようになった。

気合いの入り方は、だいぶ違うものになったと思う。

教室員のみんなで教室旅行のあと、院試休みをもらえる。7月過ぎから8月いっぱいまで。

なんとか頑張れたと思う。励みの材料に頭の中にいつもBさんがいるようになった。

9月頭に院試験 

試験の結果は、校舎前に名前貼り出されるが、前日に、一人ずつ教授室に呼ばれて、合否を告げられる。

最初に呼ばれた人ほど、教授にとって優先順位が高いんだと思う。

1~3番目まで、通ってたので、4番目に呼ばれなければ、別の部屋に行くんだろう、、と覚悟していた。

4番目に呼ばれたのは、自分ではなかった。

終わったな。と覚悟していたが、最後に呼ばれた自分は通っていた。

思い出すと、教授は複雑な苦い顔してたが。。

次の日の昼過ぎ、合格発表の貼り出しがあった。

結果は分かっていたが、みんなで見に行った。

あとの2人も別の部屋に進学ということで、そんなに気まずい、というものでもなかった、、とは思う。

まばらに眺めている数人の中に、Bさんと、その同じ高校出身で、これも同じくアメフトのマネージャーしていた、Kさんもいた。

これ以上ないような満面の笑みで、おめでとうございます、と言ってくれて、嬉しかった。救われたような気がした。

この日のことは忘れない。

ありがとう、と言いたいところだったが、何のことか分からないだろう、と思ったので、我慢しておいた。顔くらいは笑っていたと思うが、気持ち悪い顔してたかもしれない。

日々、報われなさを感じつつ、精一杯努力するほか道はないな、と観念しつつ、なんとか過ごしていた。

6分の1くらいの確率ではあるが、Bさんが来てくれるかもしれないし。しかし、アメフトのマネージャーをしつつ、となると、超多忙な有機系の部屋選択する可能性は低いかもしれない。

3月頭の卒業発表までなんとかこなした。

グループ内では一向に連携は取れてないし、定期的に、なんかよく分からない説教されてたと思う。

部屋内でボーリングに誘ってくれたり、ソフトボールやったり、カラオケとか行ったりで、気を紛らわすこともできた。

年度の終わりくらいに、次の学年のどの人がどの教室を希望しているのか、の情報が伝わってきた。

合成の部屋の希望者6名 男2名 女4名

女の子4人が入ってきそうなことに、皆、浮き足だっていたような気がする。

自分は、なにより、その中にBさんが入っていることに、非常に嬉しい気持ちになっていた。

そんなこんなで、3月の卒業発表も無事に終え、うまく発表できたとは思ってないが、とにかく終わった。

薬学生なので、4月頭に薬剤師の試験がある。

準備はまったくできていなかったが、せっかくなので受けてみることにした。阪大はいつも、合格率が最下位近辺なので、なるべく受けるな、との通達があったが、試験のために休みがもらえるので、受けた。

薬剤師の試験 電話帳なみ厚さの問題集。私学の人は、これを4年かけてやるんだが、国立は、なにもしてくれない。

問題集の最初の3分の1くらいは、なんとかなるが、最後のほうは勘のみ

最後の科目はさっぱり分からなかったので、30分もしない間に、試験場を退出した。

試験のあとは、いよいよ修士1年が始まる。自分の人生の中で、一番つらい1年になるが、この時点では、院試験のときに励みにしていたことが実現する、、はずのところなので、希望にあふれていたものではあった。

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ちまちました人にならないために 4

2022-06-15 21:15:38 | ひとりごと
3回生

3回生から学部のある吹田の講義が中心になる。

というかちゃんと単位を取ってれば、吹田のみで済む。

自分は週1で豊中に行かねばならなかった。

平日の午後は実験になった。

同学年内の交流がなかったので、ボッチ感がある。

虐められてたわけではないが、どこか寂しい。

土日は、基本的には暇。単発で梅田のバイト紹介場みたいなのがあるので、ホテルのシャンデリア洗浄とか、地下鉄駅の掃除とか、行ってた。

それは、2回生の秋からやっている。

3回生の途中からは、東大阪の叔父さんが経営してる、鉄工所にバイトに行くことになった。

安定した小遣いができて、幸せだったな。

夏休みに、東北に一人旅に出た。遠野で折り返す予定が、同宿の何歳か年上の人に、強く北海道行きを勧められて、北上してしまった。

富良野のラベンダー畑の駐輪場にバイクがずらっと並んでいるのを見て、自分もこれに加わりたいと思うようになる。

自宅してすぐに二輪の免許を取得するために、自動車学校に通う。

秋から冬くらいに250の中古バイク買った。満たされないことの多かった私の心を埋めてくれるバイク人生はここから。

3年の夏休み前だったか、単位を取れなかったものについて講義に出る。下の学年の学生もいるので、若干、かっこ悪い。

慣れれば、まあ、ええか、となるが。

自分のすぐ後ろから、元気で活発にしゃべる女の子がいた。この時点では、声だけで、顔は見てない。

なんかの機会に後ろを見たところ、アメフトのマネージャーをやってる1人のBさんだった。

こんな性格の人やったかな?こういう人やったんだな!と一人で、疑問と納得を同時に思う変な感覚。

その後、講義室を出たところでそのBさんに呼び止められる。

しきりに自分が出たあとのアメフト部のことを言ってくれる。その後の部のことは気にはなってたので、ありがたかった。不本意のうちに離れてしまっていたのを気にかけてくれてるのかな、と気遣いにうれしくなっていた。怪我する予感がしたから辞めた、とは口がさけても言えない。そんなに愛想よく振る舞うことはできていなかったと思うが。

ひとしきり話してくれた後、チケット購入してほしい旨のことを言われたので、お礼のつもりで、買った。それが狙いやったんかな、とそこで合点がいったが。

その後も、2回目受講の講義も多かったので、たびたび、下の学年の学生とは会うことになり、ときどき、Bさんと顔を合わせたり、ときどき、声をかけてくれるので、うれしく楽しい思いをすることも多くなった。

学生時代の中、その後の人生の中でも一番平穏な時間だった3回生の1年。

なんとか単位も足りて、4回生の進級することができた。

4回生以降は、自分にとって苦難の時期が始まる。この3回生のときに、もっと準備しておけば、よかったのかな、と今になって思っているところ。
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