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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森212号

2008-07-26 | 201号~220号
       ■こならの森212号■2005.12発行
表紙 「 大谷石」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森1月号■

としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「大谷石ファンタジー」………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

1500年の装飾ロマン
大谷石ファ ンタジー

■なぜ大谷石なの
 大谷石なんてあたりまえ、今さら見るところなんてあるの? そんな感想が今まで支配してきたのだろう、国道293号線はいくどと無く通っているのに、あの日より一度たりとも大谷町へ足を踏み入れることは無かった。
 一番のきっかけはなんだったろうか。歴史的町並みの本を見たこともあるのだろう。その前に西根地区の紹介が新聞に載っていて、それから興味が膨らんでいった。

■大谷石ファンタジー
 大谷石というなんとも普遍的な命題をあたえられて、少し躊躇している。なぜかと言えば、小学生の遠足がまさにここ大谷観音だったからである。もう、記憶はほとんどない。大谷観音だけがイメージとして残っているだけだ。その印象があまりにも大きいがゆえに、それだけの(しかない)場所とばかり思ってきた。ところが、昨今、状況が変わってきた。
 実のところ、大谷石の需要は激減しているという新聞記事をみて、驚いている。実際に大谷町に行ってみると、たしかにもったいないとも思えるほどの大谷石が放置?されたまま、朽ちるのを待っているのではないかと、思えてしまうほどであった。
 大谷石は普遍的な建材で、当たり前のように使われるものであると思っていたが、近年斜陽産業に転落している。しかし、これ程普及するにはただひとりの設計家の選択があったと知ってびっくりした。それによって町の産業形態や鉄道網までも変化していったのである。そればかりではなく、その後の建築設計に至っても、普遍的な様式を確立していくこととなった。何を隠そう旧帝国ホテル(1923年竣工)の設計者「フランク・ロイド・ライト」である。

■大谷石秘話
フランクロイドライトより千年以上前に、大谷石を装飾にもちいた人たちがいた。
 というよりも、ライトは少年時代から、マヤやインカ建築に憧れを持っていたという。そこで使われている装飾材も、そういうかどうかはわからないが大谷石かそれに似た凝灰岩の一種であろう。
 ライトについてはたくさんの神話が残されている。大谷石でも運命的な出会いと神聖化されている。だが、当初は、大谷地区とは別な凝灰岩で帝国ホテルを計画設計していたが、いかんせん埋蔵量が少なく、やむなく大谷石に落ち着いたという秘話もある。

■日本において最初に大谷石が建築?に用いられた例

 切石積横穴式石室に巨大な凝灰岩の一枚岩を使用している。金属製の機具で切断しているということだが、直線を出すのはある程度の技術が必要だ。逆にいうと、それだけ加工性が良いので選ばれたともいえる。思川流域の古墳、車塚古墳・兜塚古墳・愛宕塚古墳・丸塚古墳などに多く見られるという。

■城山村公会堂 
1926年建立、(大正15年) 旧城山村の村会議事堂などとして使われた。全面にある四本の柱に施されている幾何学的装飾はまさしくライトの影響を受けている。設計者はわからないが、旧栃木県教育会館にみられる4本の柱状装飾から推測すると宇都宮工業学校長の安美賀に近い人物か?

■渡辺家
宇都宮から大谷観音へ向かう道を少し行くと右側に風格ある石蔵が出現する。
趣のある左側の蔵は1907年、右側は1912年建立。もちろんライト以前の建築だから、「ライト式」はかけらもない。

■西中丸公民館
 大谷へいく道すがらの裏道で通りすがった公民館。歴史的とか、幾何学的装飾とかそんなものは何もない公民館だが、こんな所にも大谷石がいかされていることに驚く。

■聖ヨハネ教会 宇都宮市桜町
1933年完成(松が峰教会の1年後)。鐘は天明鋳物製。
 大谷石の色使いが秀逸だ。ランダムに配置しているようだが、全体が最初に見えていなければこうはいかないだろう。
 普通なら、ぶち抜きにして、ステンドグラスをはめ込むはずの場所を、あえて大谷石の陰影で処理している点も素晴らしい。「わびさび」の世界をそうすることによっていとも容易く表現できている。安藤忠雄の「光の教会」にも通じる日本的なマイナスの美が表れていると思える。足すことよりも、引くことによってこそその真価が表明されるのだという、考え方は西洋人にはあまり理解されない事なのかもしれない。旧礼拝堂は1912年完成。ライトが帝国ホテルの設計に着手した年でもある。

■グッケンハイム美術館
 まさかこれが、フランクロイドライトの作品だったとはというのが、私の感想である。実際に見て触れることが出来た建築物はこれだけかもしれない。この卓越した発想性、しかしながら、傾斜した非常に緩やかな螺旋階段はある意味居心地が悪く、平衡感覚の備わった人間にとっては、違和感があるかもしれない。
 フランクロイドライトは1959年4月9日に亡くなっている。私が産まれたのは、1959年の1月だから、少なくても3ヶ月は同じ時代を生きた、つまり同じ空気を吸った人と言っていい。

■耐震性はあるのか
 あるところでは、大谷石の免震性まで謳っているところさえある。それは、帝国ホテルが関東大震災にも耐え抜いたからという、神話から来ているのだと思うが、ちょっと違うのではないか。
 最近話題の構造計算問題に絡んで少し調べてみることにした。すると、恐ろしいことが分かってきた。建築設計には詳しくないのでなんともいえないし、そのことを深く追求する余裕もありませんが、酷くずさんで無謀とも思える設計だったということ。当時は現在のような耐震設計もなく「正解」がなかったのだからしかたがないということだが、「ヘドロに浮く耐震構造」など、存在しないという。
 それに、関東大震災では、数多くの建築物が倒壊したと思ってきた。事実、教科書などで紹介されている写真は焼け野原化した写真だ。がれきの中にいくつかの建物が残っているというもの。しかし、実際には帝国ホテルがあった地区の半数の重要建築物は全く無傷だったという。帝国ホテルはどうだったのか、実は、無傷どころか、かろうじて倒壊を免れた程度だったそうだ。
 芦屋にあってやはり大谷石を多用した同時代の迎賓館も、阪神大震災で損傷を受けている。その他にも、箱根の別荘などは、関東大震災で倒壊しているほど。

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