■ ■■■■■ ■ 日刊 こならの森 ■ ■■■■■ ■

* * * *  *  * * * *
東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森202号

2008-07-16 | 201号~220号
       ■こならの森202号■2005.2発行
表紙 「 道路元標」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森3月号■

インフォメーション…………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 「安蘇郡近隣 道路標識」…6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

■■■■■■■■■■■■■■■


【本文抜粋記事】

最初で最後「安佐」の原点企画
安蘇郡近郊の道路元標をめぐる

 気軽に進めた割には、一番やっかいな企画になった企画ともいえる今回の企画。(よくわからん、気になる木みたい)
 最初に取材した葛生町のものが順調だったがために、後がいけなかった。この辺が、「元標」のもつ『元』という言霊的意味合いが強く関係するのかもしれない。
 何はともあれ、安佐地区に現存している元標は4つあるらしい。少し前に何かと話題になった、佐野町(元佐野市)のものはみなさんもお目にかかったことがあるでしょう。現在の田村耕一記念館前にあるし、市役所へ向かう道と旧50号線が交わるメインストリートですから。
 ともかく安佐の核となる2地点をゲット、気をよくして、よせばいいのに館林市まで触手を伸ばすことに………なにせ東武佐野線沿線のタウン誌ですから~~(残念)。
 葛生町、佐野町、館林、どれもやはり区画整理や道路拡張にともない、厄介ともとれる元標には目もくれなかったようです。実際に、『保存』はされているようですが、どこも手厚く『保護』されているようで、現状を維持するところまではいっていないようにみえました。次に館林市の路線的によく分からない122号線を進み、やっとのことで出会った、元標にはある意味感動しました。というより、ここであろうと予測した地点に存在していたからです。
 でも場所的にいうと、歩道橋の下でまったく、その意味性や価値観など忘れ去られたものであるようでした。ちょっと、つまずいて倒されても(現実には不可能ですが)その後には何もないでしょう(再建されない)。
 しかし、ここで一番興味を引かれたのは、歩道橋の下に忘れ去られている存在にもかかわらず、その前は小学校であるからです。
なぜかという、安佐でも(なつかしいですね、この文字が使えるのは今しかありません、今ここでこの文字を使えるのは、今年限りです)小学校前という過去の記述はありますが、実際に学校の前にあるという元標は(安佐地区では)、現存していませんでした。編集室から100メートルもしないところに実際には、その(まぼろし)の元標が記述によりば実際に存在していました。私も、未だに探し求めてはいますが………。
 ともかく、この場所に当初から存在していたのではないかと想像します。もちろんその後の取材で、それがあやしいものだと思われるようになるのですが、取材した時点ではそこまでは確認してはおりませんでした。
 その後はスムーズに進むはずでした。ある晴れた日の午後に、田沼町方面へ取材に向かいました。二転三転して、現在は「オカリナの里」に移築されているという、「野上村」元標を取材するべく車を走らせます。ところがつるべ落としの冬、あるいは出発するのが遅かったのか、到着する時点ではもう夕暮れとなってしまいました。なにはともあれ、写真には納めました。一部ストロボを使ったので、まったくこれは夜景ですね。本来なら、この後に氷室まで取材に向かう予定だったのですがとても無理、その時点では「氷室」の取材はあきらめて他のものだけで構成をしようと思ったほどです。それでもよかったと思ったので、このまま取材を続け、編集に入りました。いつも発行が遅れ気味なので今号は順調にと思ったほどです。ところが、たまたま葛生方面へいく予定があり、そのついでにと、再度「氷室」への取材をここみました。とはいっても、時間はありません。実際には本来の約束の場所に到着するのがギリギリというくらい切羽詰まった予定となってしまいました。それなのに、予定していた「氷室」の元標は、見あたりませんでした。
 このときは時間がなかったのだからしかたがない、………とでも書けば、こならの森の読者は私の努力を納得してくれるだろう………。
 そのまま、文章化していれば良かったのに、再度取材のチャンスが訪れました。今度は時間はたくさんありました。日が暮れないうちに取材ができれば大丈夫な時間帯です。そのためか、余裕であたりの風景などを撮り、目的の場所に到着。前回は、時間もなかったので、「その先」まで行かなかったのだ。そう本当に思って来ていましたから、確信を得ています。ところが、その先にいくら行けども何もありませんでした。ここからが問題なのですが、おもいあまって秋山学寮まで来てしまいましたが、目的の元標には巡り会えません。また、元きた地点まで戻り、はたまた道をさかのぼっていって、道ばたのおじさんに不審がられる始末です。
 それでも、みつかりません。これで足かけ3度。涙が出ました。

 ここまでやったのだから、読者も納得してくれるだろう、このまま書こうと心に決めたそのとき、ある会合でみなさんおなじみの郷土史家、京谷博次さんと会う機会を得ました。そうそうに質問をするとあっさり、移動しているとの返事、今までの私の苦労はいったい何だったのだろうという反面、最初から聞いておけば良かったとの反省しきり。そこで、再度気を入れ直して取材に向かいました。木浦原にまで移動しているとは、まったく思いもよらない結論でした。

 でも、またここに落とし穴が………

ざぜん草の宿営地まで

カーブを曲がるとそこは一面の銀世界、さらにつづく、なんだが埋蔵金探検の頃の思い出がよみがえります。あのときは、怖いもの知らずでのんきにさらに進んで、急な上り坂の凍結路面の途中で車が自然にバックしてしまう羽目に………、なんとも恐ろしい思い出であることか………
 さすがにそこまでは進まなかったが、やはりおかしいここまで奥地ではないはずだと、Uターンする。実際には、さらに奥だった………となり、またしても再取材となる危険性が無かったわけではないが、このときばかりはその方が良いとさえ思えるほどでした。
 しかしながら、木浦原地区の最初の民家まで降りてくると不思議なことに、そこに元標がふっうと現れました。まるで予期しているかのようでした。あたりは本当に閑散としています。まことに冷たそうな清流が音を立てている。それ以外何もないといってもいいくらい。木浦原地区というのは、地区とはいって人家のないキャンプ場、という思い違いをどうやらしていたようです。というのも、そのまえ、木浦原の少し手前で人家が途絶えてしまい、急な道が続いて林道になり、とても人家のある場所まで道があるとは思えないからです。陸の孤島とでもいうのだろうか。
 でもそこでは、縁側で髪の毛を切っている人影が見え、まったく屈託のない日常が私たちとは違った次元で淡々と流れているような気がしました。桃源郷なのだろうか、否………
それは私には計り知れないことです。

 本来、ここで取材は終了であるはずでしたが、さらに峠を越えて、田沼方面(野上村道路元標)まで抜けようと考えました。先ほどの、凍結雪道路面という教訓は生かされていないようだった………
 野上村の道路元標は、バス停のそばに最近まで転がっていたということです。あわてて、昔の写真を探してくるが、ちょっとしたアングルの違いで、元標は写っていなかった、残念。
 前に来た、オカリナの里まで戻ってきた。写真を撮り直します。やっとのことで、全ての取材を終え帰路へと………。

 今までのものは、存在が確認されているものを取材したものですが、これ以外にもまだまだ現存している元標が数多くあるはずです。
 「郡道との分岐点、分合点」など暗号?かともとれる記述があり、宝探しのような模様です。宝を隠した地図を読み解いているようでもあります。詳しい資料がありませんので、現在のどのみちなのか分かりません。
 大正時代の生活などは想像できませんが、その時に生まれた人(元標が設置されたときに同じ空気を吸った人)も現存しているわけですので、そう古いというわけではないようです。町の長老に話を聞けば、設置当時の場所や遍歴などが分かるかもしれません。

 それにしても、終えてみると安佐一週です。最後の最後、合併前に全土をよくみておけといわれているように思ってなりません。そんな思い深い企画となりました。それにつけ、まだまだこの新・佐野市は奥が深いようでなりません。安佐という名前は無くなりますが、これからも興味の尽きない場所になることでしょう。こならの森も気が抜けない日々となります。

■今回取材した道路元標
葛生町道路元標
氷室村道路元標(水木地区)
野上村 道路元標(高ヶ谷地区)
多々良村道路元標
(国道122号高根沢歩道橋下)
館林町道路元標(本町二丁目交差点)

参考資料

●道路元標とは?
 道路元標は大正時代の「道路法施行令」によって、全国全ての市町村の当時の道路の中心となる地点に1基ずつ設置され、国道・県道などの路線を決める際には、元標を起終点とすることが定められていた。同法令により規格が決められている。
 昨年11月1日の全国の市町村数は2,942だが、大正11年当時は12,315の市町村があり同じ数の道路元標が建てられていた。 現在調査を行っているところもあるが、その全体数は把握されていない。もしかしたら、街角に古くからおかれている石がそうかもしれない。


安蘇郡にかってあった場所(■は今回取材したもの)

■佐野町 安蘇郡役所前 (府県道宇都宮前橋線)
   
 旗川村 大字並木地内役場前 (府県道宇都宮前橋線)
   
 植野村 大字植野地内小学校前 (郡道佐野植野線)
   
 界 村 大字馬門地内 郡道佐野界線ノ終点(町大道トノ丁字路)
   
 堀米町 大字堀米地内小学校前 (府県道宇都宮前橋線)
   
 犬伏町 米山前丁字路 (府県道宇都宮前橋線)
   
 赤見村 郡道佐野赤見線ト赤見富田停車場線トノ分合点

 田沼町 大字田沼地内 府県道佐野田沼線ト田沼葛生線トノ分合点

 常盤村 大字仙波地内役場前 (府県道葛生粟野線)
   
■氷室村 大字水木地内 郡道佐野氷室線ト役場ニ通スル町村道トノ交叉点
   
■野上村 大字高ヶ谷地内役場前 (郡道佐野野上線)
   
 三好村 役場前三好橋下 (郡道佐野野上線)
   
 新合村 大字閑馬地内役場前 (府県道彦間田沼線)
   
■葛生町 大字葛生地内 府県道田沼葛生線ト葛生粟野線トノ分岐点
   
 飛駒村 府県道彦間田沼線ト彦間桐生線トノ分岐点 
 

■■■■■■■■■■■■■■■