国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

200字作文「見る」

2020-04-24 16:51:27 | 国語

あの200字作文である。詳しいことは言いますまい。

ただ、自由度が減っている頃の200字作文なので、逆に最近の小論文の練習に良いかもと思い、ちょっと公開。

問題があった場合は削除します。

 

 

 

 次の文章を読んで、傍線部ア・イ・ウのいずれかを選び、それについての解釈、意見を一六〇字以上二〇〇字以内で記せ(句読点も一字として数える)。なお、解答用紙の指定欄に選んだ傍線部の記号を記入せよ。

  注意一 この文章全体についての理解にもとづいて記述すること。単なる個人的な体験の記述を求めているのではない。

  注意二 採点に際しては、表記についても考慮する。

 

 見るためには対象と自分との間に距離をおかなければならない。これは明白な事実である。

 しかし、見るという行為が、対象との間の物理的距離を心理的にゼロにする場合がある。他者のまなざしが私に向けられ、そのまなざしを私がとらえたときがそれだ。

 私がある人の目を美しいと思ったり、目の表情に注意したりすることができるのは、その人が私に向けられ、そのまなざしを向けているまさにそのときではない。私が彼にまなざしを向け、彼が私にまなざしを向けていないとき、私は距離をおいて、彼の目を知覚することができる。ところがア彼が私にまなざしを向けたその刹那に、彼のまなざしは彼の眼をおおいかくしてしまう。彼の眼と私の眼との間の距離が消え失せ、文字通り二つの眼がかち合うのだ。その刹那には私は彼の眼を知覚することができない。ただまざまざとまなざしを意識するばかりである。この瞬間、他者は私にとって、ことばのラディカルな意味において、現前するのであり、サルトルの表現を借りるならば、そのとき私は「他者と一対になった存在」となる。サルトルはこれを「いわば双生児的出現」と呼んでいる。

 見られているということは「まなざしを向けられている」ということだ。誰かにまなざしを向けられているということは、とりもなおさず、私が何かしら彼の価値対象となっているということだ。そのときの私の反応は、まず羞恥か自負であろうが、他者のまなざしは即座に私の内部に組み込まれ、私が私自身に向けるまなざしと同化するかあるいは少なくとも共存する。イ手っ取り早くいえば、見られていると意識すると同時に私は否応なしに自分を見てしまう。他者は私を映す鏡として現前するのである。

 私を見ている他者の価値評価を受け入れるにせよ否定するにせよ、ひたとまなざしを向けられたその刹那には、私は全く無防備で傷つきやすい存在でしかありえない。私は自分が現にそれを生きつつあるところの、流動的な内受容性の現場をとりおさえられ、一瞬周章狼狽し、あるいは少なくともたじろがざるをえない。相手のまなざしに耐えるために、私の流動的な存在の表面には大急ぎで透明なかさぶたのようなものができあがる。私が彼の評価を評価できるようになるのは、そのかさぶたが張った後である。そしてウ相手の評価を評価するためには、彼のまなざしが私のかさぶたの密度に応じた屈折率で私の内部に侵入し、私が私自身に向けるまなざしと共存しなくてはならない。そのときはじめて、私は「他者にとって見える私」と「私にとって見える私」との相違もしくは合致を認めることができる。

 

 

 

 

 

【解答例】(生徒の解答を一部修正)

 

人はまなざしが交差した瞬間に眼を見ることができず、心理的な距離がゼロになると作者は言う。喫茶店で相席時に向かい合わないように座るために斜め前に位置することが多いのも、そのためであろう。つまり、未知の人間と距離をゼロにする可能性をなくそうとしているのだ。私はそれを良いことだと思う。なぜなら、人との出会いは距離がゼロから始まるのではなく、ゼロを目指す方がわかりやすいからだ。

 

 

他者から見られていると意識した時、実は自分は他者の価値評価の対象となっているのであり、その結果として、自分は評価されている自分を意識せざるをえなくなると作者は言っている。そうだとすると、現在問題となっている「ひきこもり」になっている人々は他者と交流したくないからということだけが理由ではないのだ。自分自身を知りたくないからという理由もあるのだろう。

 

 

他者が自分の価値評価をするというのは、傷つけられることであり、その傷をカバーするものを作ったあとに他者の評価を評価できるようになると作者は言う。しかし、その場合、自己が下す評価は、他者の評価を正しく評価していると言えるだろうか。カバー越しの間接的な評価しかできないであろう。本当の自分の評価はむしろ自分が傷ついてもかまわないから、積極的、かつ、直接的に相手に向き合うことで手に入るのだ。

 

 

 


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