LIFE IS GOOD! うろうろ人生旅日記

20代はいろんな国を歩き30代はサラリーマン。40で早期退職に手を挙げた。現在訪問69か国+1。只今バンコクで生活中。

タキシラへ

1998年01月21日 | パキスタン・インド日記
1月21日 (水) ラーワルピンディー (POPULAR INN)

11時前何もする事が無い私はそれまでそれほど行きたいと思っていなかったタキシラに行く事を発作的に決定し、バス停を探しに南に歩き出す。人づてにバス停を探し出し、出発。タキシラまでのバス代(8rs)はバス停を探していた時聞いた親父がたまたま隣に座り、何とおごってくれた。バスをおろされた所はまだまだ博物館からかなり離れていたので、スズキ(と呼ばれる乗合の車)に乗って近くまで行き歩いた。

客は私ひとり、博物館(4rs)の展示品はまあ、何と言うか、こんなもんだろ、という程度。仏像のアタマばかりが並んでいた。小部屋に行くと係員が寄ってきて「写真を撮れ、撮れ」とささやいてきたが、いざ撮ったら「金を出せ」と言い出すのは目に見えていたので無視した。カイロ考古学博物館でやられた経験あり。10分ほどで外に出て割と近いシルカップの遺跡くらいは歩いていけるかと思い歩き出すと待ち構えていた親父が馬車をひいて追いかけてきた。後ろには荷台には日本に4年間いたという片言の日本語を喋る親父が乗っていた。200rsの言い値をまだ高いな、と思いながらも120rsにして4カ所まわる事にした。

馬使いの親父がくれた親父のくれたオレンジをかじりながらジョーリアンへ。あと小さいのを2つ見た後シルカップを見学。頭の中は「ドナドナ」とゴダイゴの「ガンダーラ」がずっと流れていた。この間ずっと日本語を喋る親父が一緒についてきていた。すこしうっとうしいのだが、遺跡にもっとうっとうしいガイドなどがいると逆に相手してくれたりしていて「ガイドには金を出すな」とか味方してくれてるようなのでまあそれなりにこちらも笑顔で対応した。

馬車に引かれながら何人もの住民とすれ違い、挨拶を交わす。みんな笑顔で返してくれる。旅をしていて本当嬉しく思うのはこういう時だ。心が温かく満たされていく。4時ごろ見終わり帰る事にし親父と一緒にピンディーに戻ってきた。寒い中「仕事帰りの車に乗せてもらおう」と言い出し、巻いていた布を長い間取らされて(奴曰く、破れたズボンはモスリム社会では良くない。外人が布を体に巻いていると中でナイフとかを持っている危ないイメージとのこと)立つ破目になった。

最初の1台だけただで乗せてもらえたものの、大きな通りに出てからはバス。しかし宿までのバス代を出してくれた。この親父最後まで何物か分からなかった。ただ単に人がいいのか、(日本人大好き、日本女性と結婚したいとかぬかしてた。いい加減にしろ)裏があるのか、(明日も会おう、何時に宿に戻ってくるんだとしつこく聞いていた)とにかく暇で寂しいのか、(独身で無職)5:50pm宿の隣でチャイを飲んでサヨナラした。

6時半、よくよく考えてみると今日1日オレンジ1個しか口にしていない。とにかく今日はうまいものを食べたいとドミの3人で熱く協議した結果、なんとイスラマの偽デニーズ(DENY‘S)まで行く事に。

バスを乗り継ぎ(この時1人あたり3円をぼろうとした兄ちゃんに切れた北村君、奴を平手打ちにしていた)3キロ以上歩いてレストランへ。ここは私が19日に見つけた所だ。日本語、写真付メニューを手にした瞬間3人は興奮した。散々悩みぬいた挙げ句牛丼を注文。出てくるまでの時間のなんと長く感じた事か。おー、神様、待望の牛丼登場!なんでトマトがのってんの?気を取り直し、他人にトマトは譲渡し肉を口に運ぶ。え?なにこれ?甘く味付けされた牛肉、マサラのきいた米、何でこんなもの入ってんの?の梅干し2個。食えない事はなかったが、これで135rsは高すぎる。まあとにかく久々の肉だし、お腹もいっぱいになったのでピンディーに戻ることにする。また夜道を2,3キロ歩いてゼロポイントまで行き乗合バスにぎゅうぎゅう詰めになりながら11時頃宿到着。疲れた大ディナーであった。この部屋は工事の埃もあってか、非常に汚い。荷物が埃まみれだ。夜はいつもの夜だった。

ラジャバザールへ

1998年01月20日 | パキスタン・インド日記
1月20日 (火) ラーワルピンディー (POPOLAR INN)

うるさい工事の音の中10時起床。あまりも嬉しいほとばしるホットシャワーを浴びた後は気合の洗濯。12時、歩いてラジャバザールへ。ごったがえすほどの人出ではあったが売っているものはたいした物が無く、ギルギット行きのバス停を探し出しそこにいた親父に聞いたところ毎日午後4時発、330rsだといわれた。どうも高いような気がする。1時間少々でそそくさと帰ってきた。

昼食はパン2個(1個2rs)、シュークリーム(6rs)、ポテチ(10rs)、水(13rs)、洗濯物が翻る屋上で食べた。何もやる事が無いのでMall Rdの新市街へ歩いていく。やたら排気ガスや埃で空気の汚れているマリーロードを南下する事20分。Mall Rdに着き郵便局でアエログラム1枚(14rs)切手3セット(11rs x3)購入。しかしどこにも絵葉書を売っていない。バザールもこれまた何も見るものはなくまずいサモサを食べながら宿に戻ってきた。歩き方でうまいと書かれていたユニークベーカリーのパン(30rsもした)を買ってきて部屋で食べたがまずかった。どう食べたらこれをうまいと感じる事が出来るのか説明してくれ!

乾いてない洗濯物を取り込み本当にやる事が無かったので夕方ちょっと眠り夕食は昨日と全く同じ物を食べた。夜はプロ野球談義に花が咲いた。そしてとんだ。デリーで買った南京錠のキーをなくしてしまいチェーンは重いだけの無用の長物とかしてしまった。あと財布の奥から1万円発見!

イスラマバードへ

1998年01月19日 | パキスタン・インド日記
1月19日 (月) ラーワルピンディー (POPULAR INN)


国境のイミグレのインド税関の野郎呪うことにする。所持金計算するとどうしても20ドル足りない。今考えるとほんの少しでも金から目を離したのは間違いだった。ただでさえ良く思ってないインドが最悪に嫌いになってきた。話しによるとこれはよくある話しでイスラマバードの日本大使館にも注意するようにと張り紙がしてあるとのこと。あーむかつく。本当にむかつく。あいつらあの世に葬ってやりたい。あほインド人どもよ。消滅しろ。

朝7時半にセットしておいたアラームの時間は実は間違っていて6時半だった。8時半に焦って出かけようとした時はまだ7時半だったのだ。あほらしい。同部屋の3人で大使館の方へ。1人はビザ延長の為イミグレへ、もう1人はパスポート更新で日本大使館、私はインド大使館。外はパキ人でいっぱいで一体どうすればいいのかと、途方に暮れそうになっていた所に係員が顔を出したので、伝家の赤いパスポートを見せた所すぐに入ることが出来た。会いも変わらず仕事はとろいのなんので、ムカツクやら、悲しいやら。また木曜日に金もってこいとの事。

タクシー(30rs)でイスラマのAMEXへ。結局そこでは両替できず紹介されたBANK OF AMERICAに行き並んだがここでもだめ。今度はCITY BANKに行けと言われるが面倒くさくなって近くの両替屋に行く。銀行よりいいレートで代えてくれた。(US$70-3150rs)

何か食べようとレストラン探しついでにイスラマを歩く。しかしラマダン中でどこも開いておらず小さな店でアイスとクッキー、ベーカリーでピザパン、春巻きを買い皆の見ている前で堂々と食った。歩きつかれたので乗合バスでゼロポイントまで行きバスを2回乗り換えて宿に戻ってきた。最後のバスは金を払わず降りてしまった。

パキ人はインド人と明らかに違う。折りたい所を告げると英語が通じなくても周りの人々が助けてくれようとする。昨日のカシミールの人もいい人だったし、パキ人は本当いい人が多い。イスラマはなにもない近代的でつまらない街であった。というわけで、インドビザが取れるまでピンディーで過ごす事にした。

夕食はこの辺りに宿を取る旅行者に有名らしいシンジャンフード何とかと言う食堂でラグメン(40rs)というものを食べた。同室の中根さんも北村君もうまいうまいと平らげていたが、私にとっては、ま、こんなもんだろ、というぐらいのものであった。くどいようだが今日は完璧にインド人が嫌いになった1日であった。

パキスタン入国

1998年01月18日 | パキスタン・インド日記
1月18日 (日) INDIA-PAKISTAN
アムリトサル-ラホール-ラーワルピンディ (POPULAR INN)

3人のインド人はそれなりにいい人たちだった。そのうちの1人、チェントはなんと帽子をくれた。リーボッくのニセモノだが、インド人からただでものをもらうなんて信じられない。お礼に本当の住所を教えた。極々稀にいい人もいるんだな。デリーで買ったセーターは大正解。足の指先を除いて暖かく無事に列車の夜を過ごす事が出来た。

8時05分着のはずが9時15分着。9時30分に国境越えの列車に乗るつもりだったが聞いてみると今日はないとのこと。じゃあどうしようかと考え、構内でうろうろしているとたまたまいた2人のスロバキア人がバスでも行けるというのですぐリキシャ(5rs)に乗ってバス乗り場までいった。そこですぐ国境の町アターリーまで行くバス(8rs)を見つける事が出来た。ここのポテチ(12rs)をかったところの親父の愛想はとても良かった。

何でもないことだが初めての街での小さな笑顔はとても心をほっとさせてくれる。アターリーに着くと小学校の生徒らしい女の子から寄付10rsを求められた。「たった10rs」みたいな言い方をするので「たった、じゃないよ」と言って断った。

さてさてここから国境まで3キロ、リキシャマンに囲まれてもビクともしない私はバナナを買い、優雅にたばこをふかす。少年2人のリキシャマンを指名。乗り込む前に考え直し、先生の所に行き喜んで10rs出させてもらった。そしてボーダーへ(5rs)。

インドルピーは持ち出し不可であるのでレートが悪いと分かっていても両替屋で代えるしかなかった。どうせインドへまた戻ってくるので400rsほど隠し持つことにしてあとは代えた(250rs→263rs)。入り口のパスポートチェックを終えてパキ側へ歩いているとポーターの1人が「待て、こっちへ来い」としつこいので、こっちもいい加減アタマに来て「WHAT!」と怒鳴り返すと奴はイミグレの人間で素通りしようとしていた私を必死に止めていたのであった。すっかり恐縮しながら出国の手続き、この次のカスタムがクセモノであった。

持っている金を申請しろと言うので告げると、今度は金を出してみせろと言う。オフィスの中に旅人は私1人だし、相手は2人。「とられる!」と直感的に思った。盗まれないよう金を直視するが、もう1人の馬鹿が急に「今1rs日本円でいくらだ?」などとやたら話し掛け気をそらそうとする。ほんの一瞬目をそらした時があった。やられたかも、と思った。とことんこいつらは腐っている。役人までこの調子だ。最後にテープ1本くれと言われたがもちろん断った。割り切れない気持ちで1キロ歩いてパキスタン入国。イミグレ全く問題なし。門を出た所の店でラマダン中の皆の前で申し訳ないと思いつつもコーラをのみタバコをふかす。

国境という見えない線を1歩超えるとそこには違う空気が流れていることを感じることがある。言葉では表せない何かが違うのだ。今回はそれをとても強く感じた。彼らはテレビのホッケーの試合に夢中だった。パキ人に悪い人はいないと店の主人が行っていた。捨てようと思っていた地球の歩き方インド92,93年版を50rsとタバコ1箱と交換。

バンを2回乗り継いでラホールへ。泊まろうとも考えたが明日は月曜日、とにかくインドビザ取得が第一なのでこのままイスラマバードへ向かうことにしバス停へ。午後3時発だと言っていたのに3時40分まで暑い車内で待たされた。隣にはカラチで学生をしているカシミールの男が座ってきた。彼はとてもいい奴だった。途中寄った休憩所で夕飯をおごってくれたりもした。インド人には出来ない芸当だ。それにバスは結局イスラマに行かずピンディで降りることになるのだが(110rs)宿を紹介してくれただけでなく、そこまでのタクシー代も払ってくれたのである。 パキはホモが多いと、聞かされていたので、奴もそのせんかも、と勘ぐった自分が情けない。まあ自分の身は自分で守るしかないのでしょうがないのだが。

宿は従業員が不在でここまで連れてきてくれた人は他の宿へと去っていった。ドミトリーには他の日本人が2人(北村君、中根さん-アフガニスタンから下りてきた)いた。彼らによるとイスラマで泊まる人は殆どなく、ここピンディーでとるのが普通との事。夜遅くチェックインしてくれた従業員の親父がハシシを持って部屋に来た。あとハンガリー男、フランス女のカップルも。

コンノートプレイス

1998年01月17日 | パキスタン・インド日記
1月17日 デリー (夜行列車)

朝、宿近くのレストランで朝食(チョコハニーパンケーキ17rs)。
シャワーを浴び午後1時チェックアウト。昼はデリー初日に行った店でVegチョプシー、食べ終わった頃ギターおじさんまたまた登場。パキ、ラホールが今ヤバイ、とおどしをかけられる。

おじさんとさよならしてデリー最後の日はコンノートプレイスのまだ行ってない東半分を散策、そこには何とピザハットがあった。身なりのいい連中でごった返していて、店内もなんとも上流階級然としていた。高そうな気配が感じられたので素通り。次はWINPY登場。一度店の中に入ったものの高かったので外へ出た。しかし「マトンのハンバーガー」なんてなかなか食べる機会が無いと言う意見でWINPYへ。それでも注文したのはスパイシーチキンバーガー&チーズコンボ(65rs)であった。ここの客層も少数の金持ち風の奴等ばかりで、そこらへんのインド人とは明らかに雰囲気が違っていた。隣に座ってきたネパールに住んでいる北欧ファミリーの子供はとても可愛かった。折り紙をあげると喜んでいた。コンノート東側はオシャレな店がいくつかあり金のある連中にはいいショッピングエリアなのだろう。WINPYではがき2通書いて郵便局経由でメインバザールへ戻った。

明日からパキスタンだが、何の情報も持ってないので「地球の歩き方パキ編」を買うことにし、何度か行っている古本屋に行き値段交渉。ここのがめつい懲りない親父は最初450rsとぬかした。昨日まで3,4冊あったのが今夜は1冊しか残ってなかったこともあり少々焦ったばっかりに、何と350rsも出して買うことに。「そりゃーボリだよ、ボリ!」といわれてしまう額である。

HARE-RAMA前のレストランでチャイを飲み時間をつぶす。7時過ぎ預けてあった荷物を預かり屋まで取りに行った(5rs)。預ける際、NoMoney,NoCamera,NoWalkmanと書かされなくなっていても文句が言えないようになっている。たとえ、店番の親父がとったとしてもだ。

3人でメインバザールをうろつきながらニューデリー駅へ向かう。メインバザールを出た所で朝倉さんが「じゃ俺はこの辺で」と言い出した。私より遅い列車の石田君は出発するまで当然一緒にいてくれるものだと思っていたはずだが、その友達がいの無さにびっくりしていたようだったし、私もそう思った。ホモだの、ケチだの、言い過ぎたからか?根はいい人なのだが。ともかく1月7日から一緒だった朝倉さんにさよならした。駅での石田君との最後の晩餐は辛いターリーであった。

午後8時ごろ、7番プラットフォームに行くともう列車が入っていた。荷物をベッドに置き、バザールでつい先ほど買った太いチェーンで縛り付け車外に出てバナナを買い、コーヒーを飲んで1月9日から仲良くなった石田君ともさよなら。奴とは2週間後カルカッタのサルベーションアーミーで再会する予定だ。

久々に一人。しかし周りのインド人は放って置いてくれない。3人組みのボンベイから来ている奴等の相手をさせられる。いい奴のようだがインド人だけは信用してはならない。住所を書くようにいわれて以前住んでいた尼崎の住所を書いた。すまん。

ラールキラー

1998年01月16日 | パキスタン・インド日記
1月16日 (金) デリー (HARE RAMA GUEST HOUSE)

最悪の夜だった。喉の気管がふさがっている感じで激痛がはしる。イスラエリのバカどもは一晩中うるさかった。9時半ベッドから起きて薬を飲もうとしたがどれが風邪の薬か分からないのでそれらしいのを選んでとりあえず4粒放り込んだ。インドの病院、行くべきか?

11時オートリクシャーに乗ってパキスタン大使館へ(30rs)。11:15着。昨日12時にこいと言われていたのだが早く着いてしまったので、係官の機嫌を損なわないよう「ナマステー」と笑顔で迫りすかさずパスポートをもらった。バスでコンノートまで戻り写真をP/UP、糸屑が写し込まれていていい出来ではない。

鉄道のタイムテーブル(20rs)を買ってメインバザールへ。バナナ(8rs)を栄養の為と、パキスタンの寒さ対策にセーター(100rs)を買った。すごく込んでいると言われているニューデリー駅の2階の外人専用オフィスへ行ったがガラガラだった。朝発はスリーパーが無いと言われたので夜9時5分発に変更。ここに行く前、大使館の帰りにノーザントレインリザベーションセンターを覗いてみたが、バッグにカメラがあるからと追い出された。

3人でリクシャーに乗りラールキラー(デリー城)へ。途中登り坂がありさすがのリキシャマンも重過ぎたようで自転車から下りて押したりして苦しそうな姿に少し心が痛んだ。(チップや廊下と思った)が25rs渡してさっさとバイバイした。さてラールキラーであるが外観はともかく内側は店があるほか特筆すべきものは無し。歩き疲れただけ。

ラールキラーから重い足を引きずって20分、ジャマーマスジッド(モスク)へ。付近はすごい人出でこじきも沢山迎えてくれた。内部はこれまた特筆すべきもの無し。

オールドデリーの繁華街を歩く。今、モスリムはラマダン中で太陽が沈むのを待つ人が食い物屋の前で座って待っていた。それはお預けを食らっている犬のようであった。リクシャはちょっとむごいのでオートリクシャーで宿まで戻ってきた。夕食の後実家に電話すると送ってもらっているはずのフィルムがまだ着いていないとのこと。心配になって田場さんに電話すると水曜日にゆうパックで送ってくれたとのこと。さんざん金を使わないようにケチっているつもりでも国際電話をかけて大金払わされるとけちけちしていることがアホらしくなってくる。

薬とりあえず3回飲んだが、それが風邪薬なのかどうかもわからず効いている様子も無い。また恐ろしい眠れない夜になるのか、今夜も。

新カメラ調達

1998年01月15日 | パキスタン・インド日記
1月15日 (木) デリー (HARE RAMA GUEST HOUSE)

夜中喉が痛く(気管が狭くなっている感じ、飲み込むと痛い)何度か目が覚め苦しかった。7時過ぎ、8時にセットしておいてもらったはずのアラームが鳴り目を覚ます。喉があまりにも痛いので保険を使って病院に行こうと冊子を読むがデリーに該当の病院が無く少し憤りを感じる。ここはインドの首都だぞ。ちなみにインド国内の病院は1つたりとも紹介されていなかった。インドからの場合、最寄りの電話先はパリらしくて本当にあほらしい。使えない保険だ(東京海上)。

8時30分、1人宿を出てメインバザールを抜けた所でオートリクシャーを捕まえた。「日本大使館を知ってるか?」とちゃんと聞いて乗ったのにもかかわらず、やっぱりヤツは知らなかったようだ。途中でリクシャ仲間に聞いたりしていた。まぁまだ聞こうとする態度を見せるだけでも素晴らしいとしておこう。どうにか大使館が並ぶ通りまで行ったものの、奴はきょろきょろしだし結局アメリカ大使館の前でおろされた(30rs)。大使館のガードマンに聞きながらどうにか09:35日本大使館に到着。

初めての日本大使館、日本人は他に誰もいなくてインド人が5,6人いた。エンバシーレターをもらう際「パキスタンに入る前に1度御家族に電話しておいて下さい。」と窓口の女性に言われた時は少し複雑であった。スーダン、ユーゴ大使館を過ぎパキスタン大使館へ。インド人は沢山いたが、スペイン人1人、パスポートを忘れてきた日本人のおっさん。スペイン人は日本人のVISA代金がタダだと聞いて仏頂面で1100rs払っていた。ぼやくスペイン人と一緒に目茶苦茶に込んでいるローカルバスに乗りコンノートで下りた(3rs)。

アメックスバンクに行くと両替は違う所でと言われ向かっていく途中で1時に待ち合わせていた2人と約束前に会いAMEXへ。列に並んだものの、アメリカ人っぽいジジババなどがカウンターに割り込んだりして後ろのインド人が怒っていた。20分待って20000円両替し(5950rs)、昨日、今日の午前中と下見をしていたカメラ屋へ。散々下見に時間を費やし結局ペンタックス4800rsを買った。カメラを落としたばっかりに17000円もの出費は本当に痛い。

コンノートの青空カフェでチョウメンを食べ、朝倉さんがフィルム現像をしている間にアイス(20rs)を食べ、メインバザールに戻ってきた。昼あまりに喉が痛いのでで薬を買おうと、薬局の親父に話したらトローチを出してきた。ないよりマシだと思ったのでかってなめているが一向に良くなっている感じはない。スィッチを入れて少し待って、ホットシャワー。ごしごし洗った。ネパールで買ったロレアルシャンプーはどうもべとべと感が残って良くない。

午後7時前、宿を出てゴールデンカフェと言う所でハカチョウメン(30rs)、中華丼味のヌードルでまあまあの味。アグラーであったギター引きのおじさんにばったり会い、泊まっている宿の隣のホテルの屋上へチャイ(6rs)を飲みに行く。同じ経営の宿らしくメニューも味も一緒だった。おじさんが恐ろしいことを口にした。「パキスタンでテロが起きていることを今日の新聞で読んだと言ってた人がいた」とのこと。これからパキに行くというのに何とタイミングの良いネタを持ってくるもんだ。でも明日にはビザが取れるしインド滞在も出来ないので行くしかない。本屋に地球の歩き方インド92年版を売ろうとしたが古すぎて買ってもらえず。

デリーへ

1998年01月14日 | パキスタン・インド日記
1月14日 (水) アグラー-デリー (HARE RAMA GUEST HOUSE)

6時過ぎ起床。
3人とも荷物をまとめて7時半、宿(1泊60rs)からオートリクシャーに乗りアグラカント駅に15分後に到着。切符を買って8時20分発を待つことにした。どうせインドのことだから今回は何時間待たされるのか、結構本数で照るからバラナシのようなことはないだろうな、まぁチャイでも飲みながらと思っていたら乗ろうと思っていた列車の1つ前の便が到着。急いで乗り込む。3人で「こんなに嬉しいことはない」と言いながら2等の席に座り込む。あるインド人が僕の席を譲ってくれたのには驚いた。初めての2等シート。周りが結構静かなので落ち着いて乗れた。車内は寒く布を2枚巻いていた。

12:10pm定刻でニューデリーに到着。1番早い列車は2時間弱でつくと言うから約2倍かかって着いた。デリーは首都だけあってみせ、町も整備され華やかでこっちの心も軽くうきうきしてくる。

メインバザールで宿探し。デリーは宿代が高いとも知らず3人で5,6件見てまわり1時間かかってようやく決めた。そのうちの1つにアグラーであった2人の女性の名前が宿のノートにあるのを見つけびっくりした。昼飯においしくないEggVegFriedRice(25rsこればっかり)、モモ(20rs)を久々に食べた。歩いてコンノートプレイスへカメラを買おうと地下のパリカバザールへ。首都とはいえここはインド、こんな近代的な街があるとは思わなかった。人は教養がありそうな人が沢山いたし(一目で分かる、バカも多い)、大きなビルもあった。

で、カメラは値段にあういいものが無く少しいいものは8000rs以上もして躊躇してしまった。今日本では絶対売ってないおもちゃのようなカメラがほとんどでヤシカのカメラが多かった。コンノートの中心の青空カフェでチャイを飲む。上流階級風の家族連れ、デートしている若者、明らかに他の街より洗練された雰囲気があった。

夜食用にアップル1キロ買い込んで宿に戻り、1階には行っている旅行会社で今後について考えてみた。ビザは19日までなのでもう日数が無い。

選択肢は1)バンコクへ飛ぶ。しかし1番安いアエロフロート(7050rs)は水曜のみ。2)シンガポールへ飛ぶ(9700rs)3)パキスタンへ行く。VISA必要。陸路越境。4)カルカッタへすぐ列車で向かいそこから飛ぶ。または陸路でバングラデシュに入る。どれも一長一短で迷っている。ただし日数が短くなればなるほど選択の幅が無くなるので明日には決定しないと本当にまずい。宿の屋上のレストランで夕食。お腹すいていないのに食べ過ぎてお腹が痛い。ここのウェイターは英語が流暢でナイスなじじいであった。さぁ本当どうしよう。カトマンズで6ヶ月ビザとればよかった。

両替T/CUS$40-1556rs

アグラフォート

1998年01月13日 | パキスタン・インド日記
1月13日 (火) アグラー (HOTEL RAJ)

今日はいい天気。宿の屋上からはっきりタージマハルが見える。3人で歩いてすぐのタージ(15rs)へ。確かに美しいがただそれだけという感じ。ダイアナもすわったことがある「ダイアナシート」にはたくさんの観光客が。いろいろなポーズをつけた写真を撮っているインド人は滑稽であった。しかしさすがに観光地、下級インド人の姿はなく、上流っぽいのが綺麗な服装で来ていた。一目見れば育ちが違うのがすぐ分かる。水と油のように全く何もかも違う、全くわかりやすい。

タージの内部にも入ってみたが、これといって何も感想は無し。偉大なる過去の遺産の説明を偉大じゃない現代のインド人がして金をせこせこ稼ごうとするその姿の方が心に残った。

タージをでてからバス(2rs)に乗りアグラフォートの近くへ。城の前で辛いカレーの昼飯(24rs)。アグラフォート(15rs)からは河をはさんで遠くにタージが見え、なかなかの景色であった、が城自体はたいした物ではなかった。その後カント駅へ行き明日のデリー行きのチケットを買おうとしたら、必要ない、明日買えと言われた。

また馬車に揺られて(白い馬20rs)宿に戻ってきた。屋上でタージを見ながらエアログラムを書く。夕食を食べに出る際、女性2人(京都、大阪)、昨日会った自転車青年も誘って6人で出かけた。KingCrownRestaurantで久々においしいフライドライス(25rs)を食べた。あまりにもおいしかったのでもう一杯(20rs)。なかなか話しのかみ合わない6人であった。特に30歳の大阪女性がおとなしかった。恐ろしく若く見えたけど。そのあと皆で宿のレストランでチャイなどを。夜11時半、停電。カメラが壊れているので、今日1日フィルム1本分朝倉さんのカメラを借りて撮った。で、その朝倉さんはバングラッシー飲んでとっとと寝てた。

タージマハル

1998年01月12日 | パキスタン・インド日記
1月12日 (月) アグラー (HOTEL RAJ)

今朝7:30amわくわくしながら屋上に上がってタージマハルと御対面。「なんだこんなもんか」と言うのが正直な感想。少し曇っていて、また南門が邪魔して良く見えなかった。

寝袋から出たのは10時。アグラーの夜は暖かく結構ぐっすり眠れた。洗濯。宿から50m離れたところで遅い朝食。スピナッチカレーを注文し、でてきてびっくり。緑のカレーだった。でっかいナン2枚で食べた(28rs)。

宿の屋上に上がると隣の家の屋上でバドミントンしているのが見えたのでお邪魔して相手をしてやった。女の子はシャイな国民性なのだろう。いざ行ってみると、はにかんでばっかりであった。ギターの弾ける石田、朝倉両名は次々に曲を披露していた。その隣の家からもお誘いがあり、迷路のような道を通りお伺いしたら女のこの父親らしき人にやたらにらまれたので1度2階に上がった後すごすごと退散してきた。石田君がまだギターを弾いている。楽器が出来るのは本当に羨ましい。

夕食はまたジョニーの店でEggVegマカロニ(25rs)。その後やどのレストランでバナナパンケーキ(20rs)、チャイ(4rs)。ポルトガルから自転車でここまできた日本人(佐々木君)にあった。今日はお昼に少しだけ雨が降った。昨日満月だと書いたが、本当は今日が満月。あと、今日月曜日タージマハルは休館日。