LIFE IS GOOD! うろうろ人生旅日記

20代はいろんな国を歩き30代はサラリーマン。40で早期退職に手を挙げた。現在訪問69か国+1。只今バンコクで生活中。

パキスタン入国

1998年01月18日 | パキスタン・インド日記
1月18日 (日) INDIA-PAKISTAN
アムリトサル-ラホール-ラーワルピンディ (POPULAR INN)

3人のインド人はそれなりにいい人たちだった。そのうちの1人、チェントはなんと帽子をくれた。リーボッくのニセモノだが、インド人からただでものをもらうなんて信じられない。お礼に本当の住所を教えた。極々稀にいい人もいるんだな。デリーで買ったセーターは大正解。足の指先を除いて暖かく無事に列車の夜を過ごす事が出来た。

8時05分着のはずが9時15分着。9時30分に国境越えの列車に乗るつもりだったが聞いてみると今日はないとのこと。じゃあどうしようかと考え、構内でうろうろしているとたまたまいた2人のスロバキア人がバスでも行けるというのですぐリキシャ(5rs)に乗ってバス乗り場までいった。そこですぐ国境の町アターリーまで行くバス(8rs)を見つける事が出来た。ここのポテチ(12rs)をかったところの親父の愛想はとても良かった。

何でもないことだが初めての街での小さな笑顔はとても心をほっとさせてくれる。アターリーに着くと小学校の生徒らしい女の子から寄付10rsを求められた。「たった10rs」みたいな言い方をするので「たった、じゃないよ」と言って断った。

さてさてここから国境まで3キロ、リキシャマンに囲まれてもビクともしない私はバナナを買い、優雅にたばこをふかす。少年2人のリキシャマンを指名。乗り込む前に考え直し、先生の所に行き喜んで10rs出させてもらった。そしてボーダーへ(5rs)。

インドルピーは持ち出し不可であるのでレートが悪いと分かっていても両替屋で代えるしかなかった。どうせインドへまた戻ってくるので400rsほど隠し持つことにしてあとは代えた(250rs→263rs)。入り口のパスポートチェックを終えてパキ側へ歩いているとポーターの1人が「待て、こっちへ来い」としつこいので、こっちもいい加減アタマに来て「WHAT!」と怒鳴り返すと奴はイミグレの人間で素通りしようとしていた私を必死に止めていたのであった。すっかり恐縮しながら出国の手続き、この次のカスタムがクセモノであった。

持っている金を申請しろと言うので告げると、今度は金を出してみせろと言う。オフィスの中に旅人は私1人だし、相手は2人。「とられる!」と直感的に思った。盗まれないよう金を直視するが、もう1人の馬鹿が急に「今1rs日本円でいくらだ?」などとやたら話し掛け気をそらそうとする。ほんの一瞬目をそらした時があった。やられたかも、と思った。とことんこいつらは腐っている。役人までこの調子だ。最後にテープ1本くれと言われたがもちろん断った。割り切れない気持ちで1キロ歩いてパキスタン入国。イミグレ全く問題なし。門を出た所の店でラマダン中の皆の前で申し訳ないと思いつつもコーラをのみタバコをふかす。

国境という見えない線を1歩超えるとそこには違う空気が流れていることを感じることがある。言葉では表せない何かが違うのだ。今回はそれをとても強く感じた。彼らはテレビのホッケーの試合に夢中だった。パキ人に悪い人はいないと店の主人が行っていた。捨てようと思っていた地球の歩き方インド92,93年版を50rsとタバコ1箱と交換。

バンを2回乗り継いでラホールへ。泊まろうとも考えたが明日は月曜日、とにかくインドビザ取得が第一なのでこのままイスラマバードへ向かうことにしバス停へ。午後3時発だと言っていたのに3時40分まで暑い車内で待たされた。隣にはカラチで学生をしているカシミールの男が座ってきた。彼はとてもいい奴だった。途中寄った休憩所で夕飯をおごってくれたりもした。インド人には出来ない芸当だ。それにバスは結局イスラマに行かずピンディで降りることになるのだが(110rs)宿を紹介してくれただけでなく、そこまでのタクシー代も払ってくれたのである。 パキはホモが多いと、聞かされていたので、奴もそのせんかも、と勘ぐった自分が情けない。まあ自分の身は自分で守るしかないのでしょうがないのだが。

宿は従業員が不在でここまで連れてきてくれた人は他の宿へと去っていった。ドミトリーには他の日本人が2人(北村君、中根さん-アフガニスタンから下りてきた)いた。彼らによるとイスラマで泊まる人は殆どなく、ここピンディーでとるのが普通との事。夜遅くチェックインしてくれた従業員の親父がハシシを持って部屋に来た。あとハンガリー男、フランス女のカップルも。

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