★2023年7月2日(日曜日)
久しぶりに登山に出かけることにした。その山は「天下分け目の戦い」として歴史に名を刻む「天王山」。高さ約270メートルで、”登山”などというと笑われるかもしれない。しかし、今の私にとってかなりハードな登山なのです。
天王山の戦い(山崎の戦い)は天正10年6月13日とされる。これは旧暦です。新暦に直すといつだろうか?。調べても適格な情報が見つからなかったが、Wikipediaに「天正10年6月13日(1582年7月2日)」と記されていた。7月2日だともうすぐだ。念のために地元の大山崎町歴史資料館に電話してみた。7月2日は新暦でもユリウス暦で、現在使われているグレゴリオ暦はそれから10日ほどズレる、と説明されました。じゃ12日だ、と決めるがこの時期、梅雨時で曇りや雨が多く、天気予報も良くない。悩んでいると、前後の悪天候に挟まれた状態で、7月2日だけが晴となっている。これは出かけるよりしかない。いざ天王山へ!(登山中に見た4枚目の陶板絵図に「新暦では7月12日」と書かれていました)
下山後、体力に余力があったら、古戦場石碑、明智光秀の本陣跡、勝龍寺城へ向かいます。
大山崎の地は京都と大阪の境に位置し、空中写真を見ればわかるように、天王山と男山に挟まれた狭い地域となっている。ここに桂川・宇治川・木津川が流れ込み、合流して淀川となって大阪湾に流れ込む。そのため、古来水運・陸運の要地となっていたと同時に軍事上の要衝として歴史上重要な役割を果たしてきた。「天下分け目の戦い」と言われる「山崎の戦い」があり、幕末の鳥羽・伏見の戦いでは、幕府方として大山崎に布陣していた津藩・藤堂軍が、いきなり対岸の男山方面に布陣する幕府軍を砲撃した。薩長側に寝返ったのです。これで幕府軍は総崩れとなり戦いの趨勢が決まり、薩長を中心とした明治維新が実現した。
大山崎町歴史資料館
阪急・大山崎駅のホームから天王山を眺める。この駅と天王山との間にJR山崎駅があります。山は高さ約270メートル、お散歩に丁度良い位の高さ。西側の山腹を、摂津国(現在の大阪府)と山城国(現在の京都府)の国境がよぎり、天王山は京都府に属します。古くは「山崎山」と呼ばれていたようですが、山頂近くに牛頭天王を祀る天神八王子社があったので室町時代の頃より「天王山」と呼ばれるようになった。
阪急・大山崎駅。この道路はかって「西国街道」と呼ばれ、西国と京を結ぶ歴史ある街道で、秀吉も「中国大返し」で軍馬を走らせた道です。
京都 - 西宮間は「山崎街道」とも呼ばれている。
駅から100mほど手前(東側)に大山崎町歴史資料館が、200mほど向こう側(西側)へ行けば離宮八幡宮があります。
大山崎ふるさとセンターの建物。一階は広々とした休憩コーナー、二階が歴史資料館(入館料200円)となっている。歴史資料館は全て撮影禁止です。妙喜庵の茶室・待庵(国宝)の複製が展示されていたが、撮影できず残念でした。その他、私が望んでいた情報もパンフも無かったが、ボランティアのおじさんが寄ってきて色々話をしてくださったのが有益だった。
月曜休館 tel: 075-952-6288(総合案内)
離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)
駅から西へ数分歩けば離宮八幡宮の東門です。写真のように西国街道が門の前で左に湾曲している。これは江戸幕府三代将軍・徳川家光の時、境内が南側に拡張されたためです。
離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)の創建は「社伝によると、貞観元年(859年)、清和天皇は神託により国家鎮護のために宇佐八幡宮から八幡神を勧請し、平安京の守護神として奉安しようと考えた。そして大安寺の僧行教が豊前国に使わされ、八幡神とともに山崎の津(当時の淀川水運の拠点港)に戻ってくると、同年8月23日に行教は神降山に霊光を見、その麓にある西国街道に面している当地に行くと岩の間から清水が湧いているのを見た。帰京後に清和天皇にその出来事を奏上したところ、勅命によりその地(現在当宮がある地)に社が建立され、「石清水八幡宮」と名付けられた、という。しかし、翌貞観2年(860年)2月9日にその社から淀川の対岸にある男山に向かって一筋の光が放たれると、4月3日には男山に八幡神を遷宮させて新たに「石清水八幡宮」を建立した。だが、最初に八幡神が降り立ったのは山崎であるとして残された当地の社に再び八幡神を勧請して「石清水八幡宮」を存続させた、という。」(Wikipediaより)
境内に入ると石鳥居、その先に中門(国登録有形文化財)が建つ。
Wikipediaによると「当社は修理の要請を幕府に行う際、社名である「石清水八幡宮」と「源家の宗廟」という立場を強調していたが、遂に男山の石清水八幡宮と「石清水八幡宮」の社号を巡っての争いが起きて当社は敗北し、元禄10年(1697年)9月18日の裁許状で「石清水八幡宮」の名称の使用を禁止された。以降、当社は離宮八幡宮を正式の名称とした。」
かつてこの地に嵯峨天皇の「河陽(かや)離宮」があったことによる。公式サイトに「「河陽宮」の名前の由来は、淀の大河の北、即ち陽に当たる処にあったことから「河陽」の宮と称せられました。山崎の津(港)は古来より淀川流域における一要津として重んぜられていました。奈良朝より平安朝にかけて天皇が遊猟する風習が盛んになり、天皇はその遊猟地である交野、栗前、水生野、大原野、葛野、山階野等に行幸される度にその要路である山崎の駅に泊られました。弘仁4年(813)、嵯峨天皇が交野に行幸された際、山崎駅を行宮に定められ、後に山崎行宮が「河陽宮」と称せられるようになりました」とあります。
中門前の右側に「河陽宮故址」の碑が建つ。中門前左右の石灯篭には「石清水八幡宮」と刻まれ、裏面に「元禄」の文字が見える。改名する前に造られた石灯篭でしょうか。
中門右前に碑「本邦製油発祥地」と「油祖像」(ゆそぞう)が建つ。黄色の円形標識は「全国油脂販売店標識」で、昭和32年に制定された全国油脂販売業者共通の店頭標識です。
「貞観年間(859- 877)に当宮の神官が「長木」という搾油器を発明し荏胡麻(えごま)油の製油を始めました。当初は神社仏閣の燈明用油として奉納されていたが、この製法はやがて全国に広まると、朝廷より「油祖」の名を賜ります。鎌倉時代に油座の制度ができると離宮八幡宮は座の会所となり、全国の荏胡麻油の販売権を独占し、諸国の油商人は離宮八幡宮の許状無しには油を扱うことはできませんでした。また山崎は幕府から自治権を認められ自治都市として独自の発展を遂げました。「室町幕府三代将軍・足利義満は円明寺から水無瀬川の間を当宮神人の在所であることから「守護(役人)不入地」とし、大山崎の自治を認めました。以来、明治維新までの長きにわたって、離宮八幡宮の神領として特別に自治を認められる地域でありました」(境内の説明版より)
山崎の油商人は関所通行料免除などの特権も与えられ、「山崎長者」として大いに栄えた。ところが戦国時代になって織田信長などがとった楽市・楽座の政策で、油座の持っていた特権は無くなってしまう。さらに菜種油が主流となっていき、荏胡麻油生産は衰退していった。
「荏胡麻(えごま)」とは、シソ科の一年草で、「え」「しろじそ」「じゅうねん」とも呼ばれている。その種子は35~40%の油を含んでおり、これを搾りとったのが荏胡麻油。
拝殿と、その奥の本殿(国登録有形文化財)。本殿に応神天皇、左殿に酒解大神(別称大山祇神)、右殿に比売三神が祀られている。
社殿は、江戸幕府第3代将軍徳川家光による「寛永の造営」によって再建された。境内も拡張され、「西の日光」と呼ばれるほどの壮大な社殿を構えていたという。ところが幕末の元治元年(1864年)「禁門の変(蛤御門の変)」の時、離宮八幡宮は長州藩の屯所となったので、会津藩や新撰組などの幕府軍の攻撃を受け、多くの民家とともに離宮八幡宮は惣門(南門)と東門を残してほとんど焼失してしまう。明治時代になると、神仏分離によって神宮寺が廃寺となり、境内の西側が大阪府に割譲された。明治9年(1876)には東海道本線の敷設のため、境内の北側を収公され、境内はさらに縮小してしまう。そうしたなか、明治12年(1879)に大阪油商山崎講と地元の崇敬者の寄進により社殿が再建された。さらに昭和4年(1929)、東海道本線の複々線化の工事に合わせ、かつて拝殿が建てられていた場所に移して本殿、幣殿、拝殿を繋げる様式に改築され現在に至る。
本殿内の両脇には、各メーカーの油の一斗缶が沢山奉納されています。
境内西側に十数個の巨石が並んでいる。これはかって存在した多宝塔の礎石だそうです。その奥に見えるのが「菅原道真腰掛け石」。延喜元年(901)右大臣菅原道真(845-903)が大宰府に左遷される道中、西国街道脇にあったこの石に腰を下ろし休息したと伝わる。
妙喜庵(みょうきあん)・登山口
離宮八幡宮のすぐ北側にJR山崎駅がある。その駅前広場の一角に妙喜庵(みょうきあん)がある。外観は民家風なので、案内板が無かったら気づかないでしまう。この中に国宝の茶室「待庵(たいあん)」がある。「待庵」は千利休が唯一残した茶室であるといわれる。
妙喜庵内部を見学するには、希望日の1ヶ月前までに往復はがきで予約が必要。
JR山崎駅から線路沿いに100mほど歩けば踏切です。京都ー大阪間なので頻繁に列車が通り、タイミング悪ければかなり待たされることもある。踏切を渡れば「天王山登り口」の標識が建つが、山への登山口というより、お寺の参道といった雰囲気です。
陶板絵図「秀吉の道」(全6枚)
天王山山頂までの途中途中に、「本能寺の変」から「山崎の合戦」までの経緯を時系列に並べた陶板絵図「秀吉の道」が6枚設置されています。解説文は堺屋太一さん、陶板絵は日本画家・岩井弘さんによる。ここに頂上までの全6枚を一括取り上げ、全文を掲載しておきます。前もって「山崎の戦い(天王山の戦い)」の概要を知っておくと、大山崎の町と天王山を歩くのに大いに役立ちます。
なお「天王山の戦い」とも云われるが、これは正確ではないようです。天王山が戦いの場になったのではなく、また天王山の争奪戦があったわけでもない。戦闘の場所は天王山の東山麓の湿地帯だった。そこから「山崎の戦い(山崎合戦)」と呼ぶのが正しいようです。
1枚目は、分岐点からアサヒビール山崎山荘美術館に向かう道に入り200mほど進んだ所に設置されている。屏風画は本能寺の変直前の、各武将たちの勢力図が描かれています。(これだけは下山時に撮ったもの)
「本能寺の変 「鬼」信長を討った「人」光秀
天正十年(一五八二年)、織田信長の天下統一は、まさに成らんとしていた。その信長が、旧暦六月二日(新暦では七月一日)未明、京都本能寺で家臣の明智光秀に襲われ殺害された。史上に名高い「本能寺の変」である。三十一年前、十八歳で尾張(愛知県西部)の小さな大名の地位を継いだ織田信長は、銭で傭う兵を設け、誰でも商いのできる楽市楽座を進め、自分一人の判断で政治を行うようにした。兵農分離、貨幣経済、独裁政治の三つを柱とする新しい仕組みである。古くからの習慣や身分を大切に思う人々は、これに反対、信長の敵になった。だが、信長は挫けず、新しい仕組みの利点を活かして鉄砲や築城の技術を取り入れて強力な軍隊をつくり上げた。このため、天正十年初夏には、織田信長の領地が天下の半分を占めるまでになっていた。天下統一を急ぐ信長は、有能な人材を抜擢して各方面の大将とし、その下に大小の大名を付ける組織をつくった。北陸は柴田勝家、関東は滝川一益、中国は羽柴(豊臣)秀吉、新しくはじめる四国攻めには丹羽長秀、といった具合だ。図は「本能寺の変」直前の織田信長とその相手方を描いたものである。
そんな中で、明智光秀だけは持ち場がない。手柄を立てたい光秀は、不満だった。古い伝統や人脈を尊ぶ常識的な「人」光秀には、合理性に徹した改革を進める信長が「鬼」のような独裁者に見えた。天正十年五月、中国攻め総大将の羽柴秀吉は、備中(岡山県)高松城を攻めた。毛利方も高松城を助けようと総力を挙げて出陣してきた。それを知った織田信長は、自ら出陣すべく安土から京都に入り、僅かな供廻りだけを連れて本能寺に宿泊した。一方、信長出陣の先駆けを命じられた明知光秀は、丹波亀山(京都府)で一万六千人の軍勢を揃え、中国に向かうと称して出発したが、途中で方向を変えて本能寺を急襲、あっという間に織田信長を討ち取った。世界の歴史にも珍しい劇的な事件である。」
2枚目は「青木葉谷展望台」にあります。
「秀吉の中国大返し 勝負を決めた判断と行動
天正十年六月二日(新暦一五八二年七月一日)未明、明智光秀は京都本能寺に織田信長を襲撃、近くの二条城に居た長男の信忠と共に討ち果たした。その頃、織田家の有力武将は、遠く離れたそれぞれの持場で強力な敵と相対していた。羽柴(豊臣)秀吉は、はるか西の備中(岡山県)にいた。秀吉は雑用人として織田信長に仕えて以来二十数年、機転と勇気で様々な手柄をたてて出世。五年前に強敵毛利家と戦う中国攻めの総大将に任じられてからは、才気とねばりで大きな戦果を挙げた。天正十年五月、秀吉は、いよいよ毛利家に止めを刺すべく山陽の要衝、備中高松城を攻め、水攻めの奇策によって陥落寸前にまで追い詰めた。毛利方も高松城を見殺しにできず、全力を挙げて救援にきた。それを知った信長は、自ら出陣、一気に毛利勢を撃滅することにした。秀吉は、主君信長の天下統一が間もなく完成すると信じていた。
ところが、六月三日の夜、その信長が京都本能寺において明智光秀に殺害されたことを知らされた。光秀の使者が闇夜で道を誤り、毛利方に届ける書状を持って秀吉の陣に迷い込んだのだ。秀吉は主君の死を悼んで大声を上げて泣いた。だが、すぐ次には直ちに上方に駆け戻り明智光秀と天下を賭けて戦うことを決断、夜明けまでに毛利方との和睦を成り立たせた。翌五日を和睦の儀式や兵糧の撤収に費やした秀吉は、六月六日、中国街道を駆けぬけ、二日後には約七十キロ東の姫路城に戻った。世にいう「秀吉の中国大返し」である。季節は梅雨時、雨が降り続いて行軍は難渋したが、秀吉軍は姫路で軍備の点検に一日を費やしただけで東に進み、六月十日には早くも摂津の尼崎に到着した。羽柴秀吉が瞬時にして下した的確な判断と迅速な行動、それによって天下争覇の勝負は決した、といえるだろう。」
3枚目と4枚目は旗立松展望台のところに並べて設置されている。
「頼みの諸将来らず 明智光秀の誤算
本能寺で織田信長を討ち取った明智光秀は、織田家の諸将はみな、遠くで強敵相手に対陣しているので、すぐには動けまいと見て、その間に畿内を制圧するつもりでいた。ところが、羽柴(豊臣)秀吉が毛利と和睦、十日目の六月十日(新暦七月九日)には尼崎まで来たと聞いて驚き、近江(滋賀県)から京都に戻り、翌十一日には洞ガ峠に登った。大和郡山城主の筒井順慶の来援を促すためだ。明智光秀は、恐ろしい「鬼」の信長さえ討ち果たせば、古い伝統を尊ぶ武将や寺院が立ち上がり、自分を支援してくれると思い込んでいた。だが、そうはならず、あてにしていた組下大名たちも離れていった。親類の細川藤孝や筒井順慶も来なかった。光秀の思いとは逆に、大胆な改革で経済と技術を発展させた織田信長は、豪商から庶民にまでに人気があった。このため「主君の仇討ち」を旗印とした羽柴秀吉の方に多くの将兵が集まった。
六月十二日、空しく洞ガ峠を降りた明智光秀は、一万六千人の直属軍を天王山の東側に扇形に布陣させた。当時は淀川の川幅が広く、天王山との間はごく狭い。兵力に劣る明智方は、ここを出て来る羽柴方の部隊を各個撃破する作戦だった。同じ日、羽柴秀吉は摂津の富田に到着、花隈城主の池田恒興、光秀の組下だった茨木城主の中川清秀や高槻城主の高山右近らも参陣した。四国攻めのために和泉にいた信長の三男の信孝や丹羽長秀も加わった。総勢三万数千人、明智勢の二倍以上だ。
翌十三日、羽柴方の先手の中川清秀と高山右近が天王山と淀川の間を越えて東側に陣を敷き、秀吉の弟の羽柴(豊臣)秀長もこれに続いた。明智方はじっとしていられない。申ノ刻(この季節なら午後四時半頃)、天下分け目の決戦ははじまった。この日、空は雨雲に覆われて暗く、地は長雨を吸って黒かったという。本図は、決戦直前の両軍の北側から見下ろした構図。画面右側に羽柴方が、左側に明智方である。」
「天下分け目の天王山 勝負は川沿いで決まった
「天王山」といえば「天下分け目の大決戦」の代名詞となっている。しかし、実際の合戦は、天王山の東側の湿地帯で行われ、勝負を決したのは淀川沿いの戦いであった。天正十年六月十三日(新暦では一五八二年七月十二日)申ノ刻(午後四時半頃)、天王山の東側に展開した明智勢が、羽柴(豊臣)秀吉方の先手、中川清秀、高山右近、羽柴秀長らの諸隊に攻めかかった。天王山と淀川の間の狭い道を出て来る羽柴方を各個撃破する作戦である。だが、戦いは明智光秀の思い通りには進まなかった。天王山の東側には油座で知られる山崎の町があり、その東側には広い沼地が広がっていた。この地形が双方の行動を制約、斎藤利三、並河掃部、松田太郎左衛門らの精鋭を連ねた明智方の猛攻でも、羽柴方の先手を崩すことができなかった(画面右下)。
その間に、淀川沿いでは羽柴方の池田恒興、加藤光泰、木村隼人らの諸隊が進攻、円明寺川の東側にも上陸した。川沿いの明智方は手薄で、ここを守る伊勢与三郎、御牧三左衛門、諏訪飛騨守らはたちまち苦戦に陥った(画面上方)。羽柴秀吉が本陣の大部隊と共に天王山の東に出たのは、合戦がはじまって半刻(約一時間)ほど経った頃だ。この図はその直後の戦場を、北から南向きに描いている。画面左側の水色桔梗の幔幕に囲われた光秀の本陣では、後退する味方の様子に不安な気分が現れている。右側の秀吉の本陣では勝利の確信が拡がり、貝を吹く足軽まで自信と勇気に溢れている。画面右上では、参陣の遅れた丹羽長秀が山崎の木戸を通り過ぎようとしている。天下分け目の決戦は、日暮れた後に終わった。破れた明智光秀は勝龍寺城(画面左側)に逃げ込んだ。その頃、秀吉は天王山に登って戦場を見下ろしたかも知れない。闇に包まれた戦場跡には、負傷者を援ける松明が無数に揺れ動いていたことであろう。」
(ここに新暦では7月12日と書かれている)
5枚目は酒解神社の三社宮横にあります。絵は、竹薮で光秀にむかって竹槍を突き出す落ち武者狩りを描く。
「明智光秀の最期 古い常識人の敗北
天下分け目の合戦は、一刻半(約三時間)ほどで終わった。明智勢は総崩れとなり、総大将の明智光秀は勝龍寺城に逃げ込んだ。だが、ここは小さな平城、到底、羽柴(豊臣)秀吉の大軍を支えることはできない。明智光秀は、夜が更けるのを待って少数の近臣と共に勝龍寺城を脱け出し、近江坂本城を目指して落ち延びようとした。坂本城は明智家の本拠で光秀の妻子もいた。しかし、山科小栗栖にさしかかった時、竹薮から突き出された竹槍に刺されて重傷を負い、その場で自刃して果てた。当時は、普通の村人でも落ち武者狩りに出ることが珍しくなかった。光秀を刺したのも、そんな落ち武者狩りの一人だった。享年五十五歳、当時としては初老というべき年齢である。
これより十五年前、足利義昭の使者として織田信長と相まみえた明智光秀は、詩歌にも礼法にも詳しい博識を買われて織田家の禄を食むことになった。それからの出世は早く、僅か四年で坂本城主になり、やがて丹波一国を領地に加えて織田家屈指の有力武将にのし上がった。織田信長と将軍になった足利義昭とが不和になった際には、いち早く信長方に加担、細川藤孝らの幕臣を口説いて信長方に転向させた功績が信長に高く評価されたのだ。だが、光秀は、信長の改革の過激さに反発を感じ出した。古い常識にこだわる知識人の弱さ、というものだろう。
一方、山崎の合戦で勝利した羽柴秀吉は、時を移さず明智光秀の領地を占領、丹羽長秀や池田興恒ら織田家の重臣たちを配下に加え、「次の天下人」への道を駆け登る。この間、織田家の他の重臣たちは容易に動けなかった。みな前面には強敵がいたし、背後では土一揆が蜂起した。信長の死と共に、織田領全体に混乱が生じていたのだ。世はいまだに乱世、将も民も、野心と危険の間で生きていたのである。」
最後は山頂の本丸跡にあります。絵には秀吉と大阪城、茶の大家の千利休が描かれている。
「秀吉の「天下への道」はここからはじまった
山崎の合戦で明智光秀を破った羽柴(豊臣)秀吉には、織田信長に代わる「次の天下人」との期待が集まり、織田家の家臣の大多数も、秀吉の命令に服するようになった。これに対して柴田勝家は、滝川一益らと組んで信長の三男の神戸信孝を担ぎ、秀吉の天下取りを阻もうとした。しかし、丹羽長秀や池田恒興らと結んで次男の北畠信雄を取り込んだ秀吉の優位は揺るがず、翌天正十一年(一五八三年)四月の賤ケ岳(滋賀県)の合戦は、秀吉の圧勝に終わった。柴田勝家らに勝利した秀吉は、天下統一の象徴として、大坂の地に巨城を築いた。天正十一年に着工したこの城は、天下の政治を行う天下城、つまり首都機能の所在地だった。秀吉は城の縄張りを黒田官兵衛孝高に、襖絵を狩野永徳一門に、接遇演出は茶頭の千宗易(利休)に委ねた。信長は美意識の面でも独裁者だったが、秀吉は専門家の意見を尊重した。
秀吉は、過激な改革を目指した信長とは異なり、有力大名には元からの領地を残しつつ自分の政権に編入する方針を採り、毛利輝元や上杉景勝らとも和睦して天下統一を急いだ。信長が絶対王制を目指したのに対して、秀吉は中央集権と地方分権を組み合わせた封建社会を築こうとしたのである。やがて朝廷から豊臣と姓を頂いた秀吉は、関白、太政大臣になり、天正十八年(一五九〇年)の小田原の役によって天下統一を完成する。秀吉は、政治的に天下を支配しただけではなく、経済の面でも大坂を中心とした物資と金銭の流通を把握した。文化の面でも茶道や囲碁将棋などに全国的な家元制度を芽生えさせた。これらは徳川幕府に引き継がれ、日本独特の「型の文化」を創り出すことになる。秀吉のきらびやかな天下。――それはこの天王山の東側で行われた合戦からはじまったのである。」
宝積寺は(ほうしゃくじ)
登山口から少し入ると、右に入る道が見える。右に入れば、1枚目の陶板絵図、アサヒビール大山崎山荘美術館前を通り、宝積寺の先で合流する。美術館に寄る予定はないので直進します。下山時に右のコースに入り、陶板絵図を撮るつもり。
この道は宝積寺への参道なのでしょうか?。登山道にしては、広くてよく整備されている。
やがて右側に仁王門(京都府登録有形文化財)が現れる。阿形、吽形二体の木造金剛力士立像が出迎えてくれます。
★歴史
寺伝では神亀元年(724)、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝える。しばらくして本尊・大黒天神を天竺(インド)から招いて祀ったという。行基(ぎょうき、668-749)は奈良時代の僧で諸国を巡り、民衆教化や造寺、池堤設置、架橋などの社会事業を行い、行基菩薩と称された。東大寺の大仏造営にも関わった人。平安時代の寺史はあまり明らかでないが、長徳年間(995~99)、寂照が衰退していた当寺を中興し、室町初期には八幡宮油座からの寄進も多くあり寺運は大いに盛り上がった。さらに嘉慶3年(1389)には定額寺にも列し、多くの子院をもつに至る。
天正10年(1582)、羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いでは宝積寺に秀吉の本陣が置かれた。戦いの後、秀吉は天王山にあった城跡を大改築して山崎城を築城し、宝積寺をも城内に取り込んだ。このため城は「宝寺城」とも呼ばれた。宝積寺は別名「宝寺」とも呼ばれていたからです。しかし大坂城が完成すると、秀吉は本拠をそちらに移し山崎城は廃城となる。
幕末の元治元年(1864年)には禁門の変で尊皇攘夷派の陣地が置かれたために幕府軍の攻撃で戦禍を蒙り境内が荒廃した
仁王門をくぐると、左手に鐘楼「待宵の鐘」が、右手に三重塔(国指定重要文化財、総高約20m)が見えてくる。三重塔には「豊臣秀吉 一夜之塔」の札が立つ。秀吉が山崎の合戦で亡くなった人を弔うため一夜で建立したと伝わっている。ただWikipediaには「慶長9年(1604年)建立。本瓦葺、総円柱、大日如来坐像が祀られている。豊臣秀吉が一夜で建てたという伝説があるが、この時代秀吉はすでに故人である。」と書かれているのだが・・・。
三重塔の脇に「殉国十七士墓」と刻まれた石碑が建っている。現在、真木和泉を中心とした尊皇攘夷派の十七士の墓は天王山山頂近くにあるのだが、当初はこの三重塔前に埋葬された。ところが参拝者が多く香華が絶えなかったという。そこで幕府は近くの竹藪にうち捨てるように埋め直した。4年後、時代は大きく転回します。幕府を倒した明治新政府は、山頂近くに手厚く葬り直し、ここ三重塔横に石碑を建てたのです。
階段を登ると、正面に本堂が、右手に閻魔堂がたたずむ。本堂の内陣には本尊の木造十一面観世音菩薩立像(重要文化財、像高160.9cm)が祀られている。「当寺は、木津川・宇治川・桂川の三川合流を望む天王山中腹にあり、延暦三年洪水にて橋が流出したとき、一人の翁が現れ水上を歩くと神通自在の下、見事橋が復元されました。一条の光明と共に当寺厨子内に至られました。以来、当寺の本尊十一面観世音菩薩が翁に化身されて、橋を掛けられたとの評判がたち、橋架観音と呼ばれるようになりました。」(公式サイトより)
閻魔堂には閻魔王坐像(重要文化財)とその眷属像が配置され、地獄の法廷が再現されているそうです。閻魔堂拝観は有料(400円)です。
本堂前に柵で囲われた「出世石」が置かれている。山崎の戦いの時、秀吉がこの石に腰を下ろして采配を振るったという。奥に見える九重石塔は、鎌倉時代に建立された聖武天皇の供養塔です。
本堂左横にあるお堂の扁額には「小槌宮」とある。聖武天皇は即位前、夢に出現した龍神に「打出」と「小槌」を授かり、それへ祈願すると天皇に即位できた。宝積寺が建立されると打出と小槌を奉納し、大黒天神を印度より招き祀ったという。打出の小槌は、七福神の一神とされる福の神大黒天が所持している宝物で、振れば出世、福徳、財徳を授けてくれると言われています。ここから宝積寺は別名「宝寺」「大黒天宝寺」とも呼ばれ、また秀吉が山頂に築いた山崎城は「宝寺城」とも称された。お堂正面上部の庇の下に、宝船が彫刻されています。
青木葉谷(あおきばだに)展望台
宝積寺本堂の右手奥に天王山山頂への案内があります。傍に、ご自由にお使いください、と竹の杖が置かれている。こんなの必要ないだろうと強がったが、後で後悔した。片手だけでも杖の支えがあれば、少しは楽だったのですが。この杖は、宝寺口(ここ)、小倉神社口、観音寺口のどれかに返せばよいようです。
ここから本格的な山登りが始まります。傾斜はそれほどきつくないのだが、でこぼこ道に石がごろごろ、久しぶりの山登りなので体に堪えます。丸太で階段状に整地されているのだが、これを踏み越えて登るのはかえって辛く感じた。
登山道に沿って一本のレールが敷かれている。上へ用材、機材を運ぶものかと思ったが、後で調べるとタケノコ搬出用のレールでした。大山崎町はタケノコの産地として知られるようです。
この近辺、竹林が多く見られる。散策マップには「竹林のこみち」というスポットも載っています。京都南部は竹の名産地として有名のようだ。以前、天王山の向かいにある男山石清水八幡宮に初詣したとき、境内にエジソンの大きな顕彰碑が設置されていたので驚いたものです。1879年に炭素白熱電球を発明したエジソンは、さらに長時間輝き続ける材料を世界中から探し続けたという。紙や糸、植物の繊維など数々の材料からフィラメントを作り電球の試作を試行錯誤しながら繰り返した。その結果、たどり着いたのが京都南部の真竹だったそうです。
ようやく「青木葉谷(あおきばだに)展望広場」にたどり着きました。この広場には2枚目の陶板絵図「秀吉の中国大返し~勝負を決めた判断と行動~」が設置されている。
ここは六合目付近にあたるようで、休憩するのにちょうど良い。これくらいで休憩する必要などないと、先へ進む人もいるが。
桂川、宇治川、木津川が合流し淀川となって大阪平野を流れてゆく様子が一望できる。やや曇っているので大阪市内までははっきり確認できないが、天気が良ければ、あべのハルカスや大阪城まで見えるそうです。
旗立松展望台(はたたてまつてんぼうだい)
青木葉谷展望台を出て、また山登りです。かなり疲れてきました。
酒解神社の鳥居が見えてきました。旗立松(はたたてまつ)展望台に到着です。鳥居手前に「山崎合戦之地」の石碑が建ち、戦いの概要が説明されている。しかし実際の戦闘の地は山裾の湿地帯で、天王山そのものは戦いの場にはなっていません。
鳥居と石碑との間に「旗立松」があります。合戦の時、秀吉がここの松の上に千成瓢箪の旗印を掲げ、山麓を進軍する秀吉軍を鼓舞したと伝えられている。その旗立の松はどれだろう?。
傍の説明版は「この逸話は、同時代史料に残っておらず、伝承の域を出ません」とそっけない。
鳥居右手に、展望のための台場が組まれ、青木葉谷展望台とは別の方向の景観になる。秀吉軍と光秀軍が対峙した古戦場の地が一望できるが、高速道路が縦横に走り、新幹線、工場群などでかっての様相を想像することさえできません。
桂川(写真右側で見えない)西側。かって湿地帯で、小泉川(画面下部を左右に流れているが、写真では樹木で隠れ見えない)を挟んで両軍がにらみ合ったという。現在は全く様相が変わってしまっている。画面中央に名神大山崎ICTが入り組み、上下に通るのが名神高速道路、中央を左右に通るのが京都縦貫自動車道。「山崎合戦古戦場」の石碑が建つ天王山夢ほたる公園は写真左下で、樹木で隠れ見えない。
鳥居の奥に、3枚目と4枚目の陶板絵図が並んで設置されている。左側には休憩所が設けられ、大きな写真が掲示されています。桂川、宇治川、木津川の三つの川が合流するのがよく分かり、対岸の石清水八幡宮のある男山も良く見えている。ところが現在樹木が生い茂り、写真の景観は全く見えません。何故見えなくしたのでしょうか?。向かいの男山と肖像権でケンカでもしたのでしょうか?。天王山は三川合流点がウリのはずなのですが・・・。
十七烈士の墓
旗立松展望台で一休みした後、また山登りです。かなり足が重くなってきて、なぜか17年ほど前の富士山登山が思い出されてきました。3歩登って3分休憩、の繰り返しだった。その時よりも体重は増え、年の数も増えてきた。山はこれが最後だろうな・・・。
分岐道の標識が建っている。左の階段を登ると十七烈士の墓を通り、天王山山頂への近道らしい。この真下には、名神高速の天王山トンネルが通っています。
27段の階段を登ると広場で、奥に十七烈士の墓地が、左が休憩所となっている。
幕末の京都、長州藩を中心とした尊皇攘夷運動が激化する。手を焼いた幕府、朝廷の公武合体派は会津や薩摩の藩兵を使い、長州藩とそれにつながる公家を京都から追放する(文久3年(1863)の八月十八日の政変)。
翌年、長州藩は天皇に直訴し失地回復をはかろうと京都に出兵します。元治元年(1864)7月19日、御所の蛤御門で会津藩兵と激突する。これが「蛤御門の変(禁門の変)」です。薩摩藩兵の加勢によって長州藩は総崩れになり退却を余儀なくされます。国元へ撤退する長州軍の最後尾を務める真木和泉以下17名は、追撃する新選組と戦った。「真木は最後まで付き従った十六名と天王山中で郡山藩兵、新選組と一戦を交えた後、山中の小屋で火薬に火を放って爆死を遂げたと言う」(現地説明版より)
17名の「遺体は宝積寺三重塔前の地に埋められたが、遠近よりの参拝者が多く、香華常に絶えず、之を見た幕府方は、その屍を竹林中に移埋した。」(休憩所の説明版より)
4年後、時代は大きく転回します。幕府は倒され、長州藩、薩摩藩を中心とした明治新政府が成立する。賊徒、朝敵と呼ばれた17名は一転、維新の功労者、殉国烈士となり、贈正四位となった。打ち捨てるように埋められた竹藪から、天王山山頂近くの現在地に手厚く改葬され、立派な墓が建てられた。毎年10月21日には十七烈士のご子孫、地元有志らにより慰霊祭が行われています。
中心の墓碑には「烈士墓表」と刻まれ、その下に殉死した17名の姓名が刻まれています。裏には「明治元年戊辰九月建」とある。この墓碑を囲むように三方に17名の墓が並ぶ。真木和泉の墓は裏側の列の真ん中に立っている。
十七烈士の出身藩をみると長州藩士は一人もおらず、土佐藩、久留米藩、筑前藩、肥後藩、宇都宮藩となっている。リーダーの真木和泉(1813-1864)は久留米藩水天宮の神官だった。早くから江戸、水戸に遊学し尊王攘夷運動に共鳴すると、脱藩し長州藩に身を寄せていたのです。他の烈士も自藩を去り長州藩に共鳴し加勢していた者たちです。最後に、世話になった長州藩の退却を助け、自ら命を断っていった。
酒解神社(さかとけじんじゃ)
十七烈士の墓から酒解神社にかけては平坦な道が続く。歩いていると左手に酒解神社の末社・三社宮が見えてくる。祭神は、天照大神・月讀大神・蛭子神と書かれている。三社宮の横に5枚目の陶板絵図が設置されています。
登山道を跨ぐように酒解神社の社殿が現れる。階段上の左右に一間高くらいの石柱が建つが、これは鳥居の残滓でしょうか?。
奈良時代には既にあったと伝わり、大山崎周辺で最古の神社とされているが、その歴史はよく分からないのでWikipediaの説明をそのまま載せておきます。
「創建の由緒は不詳であるが、養老元年(717年)建立の棟札があることから奈良時代の創建とみられている。旧名を山埼杜といい、現在の離宮八幡宮の地に祀られていた。平安時代の延喜式神名帳には「山城国乙訓郡 自玉手祭来酒解神社 元名山埼杜」と記載され、官幣名神大社に列し、月次、新嘗の幣帛に預ると記されている。
その後、自玉手祭來酒解神社の祭祀は途絶え、明治時代まで所在がわからなくなっていた。現在の自玉手祭来酒解神社は、天王山の頂上近くに中世ごろよりあった天神八王子神(牛頭天王)を祀る「山崎天王社」であった。天王山は元は山崎山と呼んでいたが、当社にちなんで天王山と呼ばれるようになった。明治10年6月、山崎天王社が式内・自玉手祭来酒解神社であるとされ、自玉手祭来酒解神社に改称した。現在の祭神・大山祇神はそのときに定められたものである。」
登山道に覆いかぶさるのは拝殿らしい。正面が本殿です。拝殿内部を見ていると、人が住み手入れをしている様子がなく、見捨てられた神社のように感じられる。
拝殿に比べ、本殿は銅板葺き屋根のかなりしっかりした構えをしている。欄間や蟇股の彫刻も立派で、国の登録有形文化財に指定されています。旧本殿は文化10年(1813)に火災で焼失したため、文政3年(1820)に再建された。大山祇神を主祭神とし、素盞嗚尊を相殿に祀っている。素盞嗚尊は、旧天神八王子社の祭神・牛頭天王と同一とされる。「天王山」の名の由来となった神様です。
なお正式名称は「自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)」。
社殿前の左側、一段高くなった所に国の重要文化財に指定されている神輿庫が建つ。フェンスで囲われ近づけない。
「一般によく用いられる三角形の木を積み上げた校倉形式ではなく、厚さ約14cmの厚板を積み上げた板倉形式で建立されている。この板倉形式の遺構は非常に少なく、重文に指定されているものでは、奈良市内の春日大社にあるものが唯一であるが、それは江戸時代のもので新しく、現存する板倉としては当庫が最も古く非常に貴重な建造物である」(傍の説明板より)
鎌倉時代中期の建立で、文化10年(1813)の火災でも難を逃れた。庫内には室町時代以前作という神輿2基が納められています。
天王山山頂(山崎城跡)
酒解神社の拝殿をくぐり抜けて、また山道を登ります。丸太の階段、ゴロ石などあるが、中腹辺りに比べそれほどきつくありません。頂上が近いと思うと元気が出てきます。
分岐道です。標識に従い天王山山頂へは左へ登る。右の道は「小倉神社・柳谷方面」となっています。
荒れた道を少し登ると、ようやく山頂の広場に到着。ちょうど昼過ぎ、数組のハイカーがいて食事中でした。
天王山は、西国、大阪と京都を結ぶ交通の要所を見下ろす戦略上の重要な場所。そのため古来より、山上一帯には度々砦や小規模な城が築かれてきた。ここに本格的な城を築いたのは秀吉です。天正10年(1582)6月、光秀との戦いに勝利し、清州会議をへて織田信長の後継者となる。しかし信長の筆頭家老だった柴田勝家が反対の動きをします。それに対抗するため天王山に「山崎城」を築き、備えた。城域は山麓まで広がり宝積寺まで取り込まれ、宝積寺の別名「宝寺」から「宝寺城」とも呼ばれた。
天正11年(1583)4月、「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を破り確実に天下を取ると、天下人に相応しい本格的な城郭「大阪城」を築き、本拠地とした。そうなるとここ山崎城は不要となり、天正12年(1584)に廃城となり取り壊されました。
説明版に載っていた山崎城跡の図面。山頂の広場は、図面の「主郭」にあたる。虎口bを経て虎口aから山頂広場へ入ってきたようだ。
広場の北側は一段盛り上がり、石垣に使われたような石が転がっています。ここは天守台の築かれていた場所で、「天王山山頂 標高二七0・四メートル」の標識が建っている。「天下分け目の 天王山」と書かれた旗が一本だけ風にはためいている。
天守台跡から眺めた広場の南側。広場は樹木に囲まれ視界が遮られ見晴らしはできない。ただ一ケ所、この南側だけは木立の間から遠くが見通せるようですが、実際にはそれほどの眺望ではありません。。
一本の季節外れの紅葉の木が殺風景なこの広場に風趣をそえています。
天守前の広場から、さらに西側へ一段降りるとそこも広場になっている。西の丸でもあったのでしょうか。この広場の南方に、山崎城の井戸跡が柵で囲われ残されています。説明版に「本来は地上部に木製の井桁が組まれ、水を汲み上げるための釣瓶もあったと思われますが、城の廃城とともに失われたと考えられます。完成当時の深さは不明ですが、三十年程前(1980)には五メートル程度の深さでした。山頂に掘られた井戸であることから地下水が湧き出るとは考えられず、雨水を溜めて利用していたのではないかと思われます」とある。
西の広場からさらに西側の斜面を降りてみると、わずかな石垣の残骸と土塁らしき形状が見られます。この石垣を見る限り、本格的な城というより、急ごしらえな城郭だったように感じる。
その他、土塁、空堀、食い違い虎口、石垣などの残滓が残っているかもしれないが、急斜面で道もなく探すのは容易ではありません。
12時半、下山します。登山口から2時間ほど経過。ゆっくり、のんびり、こんなものでしょう。
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