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赤穂浪士の墓が大阪市内にあったんだなー!

2009-12-16 14:56:43 | まち歩き

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先日の12月8日、谷町筋の近くでセミナーに出席する前に時間が余ったので近くを散策していたら「義士の寺」というのに出会ったんです。

大阪のお寺の密集地、相撲の谷町(タニマチ)でお馴染みの谷町筋に面して六万体町の法務局の横にある大阪にある浅野家菩提寺の吉祥寺です。

吉祥寺は道元禅師を開祖とする曹洞宗(禅宗)の寺で寛永7年(1630年)創建と伝えられている。 

吉祥寺は浅野家の大阪の祈願所であり赤穂藩主浅野長矩侯(あさのながのりこう)は
参勤交代(さんきんこうたい)の途中必ず立ち寄って寺の護持(ごじ)に気をくばった。 

当時の住職縦鎌(じゅうけん)和尚(おしょう)は赤穂の出身だったんですね。

 

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そうだ12月14日は赤穂浪士討ち入りの日でしたね!


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そういえば以前に毎年12月14日にはこのお寺で義士際が行われてるというニュースをTVで見たことを思い出したナー。

赤穂四十六義士の墓が 東京の泉岳寺(せんがくじ )にあることは 衆知の事実ですね、 どうして 大阪にもあるのか 疑問に思われても 無理はないんです。 それには あまり 知られていない事実があったということです。

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(墓の中央の五輪塔は浅野内匠頭長矩候の墓。その右隣に大石内蔵助の墓、左側が大石主税の墓がある。更にその周囲を44士の戎名と行年を刻んだ玉垣が取り囲んでいます。)


いろんな資料を読んだところ、元禄15年(1702年)12月14日、吉良邸を襲撃し本懐をとげた赤穂四十七士のうち
四十六士は幕府の評定待ちの間,有力数藩の屋敷にわかれてお預けとなったがしかし,一人だけ 泉岳寺へ行く途中いなくなった者がいる,それが寺坂吉右衛門である。

寺坂吉右衛門は吉良邸討ち入りの直前に逃げて参加しなかったという説がある。 

しかし大石内蔵助の命令により大事決行の後姿を消したという説が有力だそうです。まるでドラマですね!

寺坂吉右衛門は吉良邸突入の際は大石内蔵助を大将とし小野寺十内秀和を副将とする表門組24名の中で伝令を勤めた。 

見事 本懐をとげた後泉岳寺に向かう一行から離れるよう大石内蔵助から命じられ彼には重要な任務が~ 広島の浅野本家にお預けになっている内匠頭長矩(たくみのかみながのり)の弟浅野大学長広(あさのだいがくながひろ)、内蔵助の奥方瑶泉院(ようせんいん)、その他の義士の遺族に討ち入りの仔細を伝え遺族の生活の相談にのることだったんです。

元禄15年(1702)12月14日の吉良邸討ち入りの翌元禄16年(1703)年
大石内蔵助良雄を含む46名は切腹する。寺坂は1年後の元禄17年に大目付に自首するも今で言う平社員の足軽(あしがる)という軽俳故か切腹を免れたらしいんです、その後寺坂吉右衛門は仏門に入り諸国の義士の遺族を訪ねたらしい。

ある日吉右衛門は浅野家の大阪の祈願寺である吉祥寺(きっしょうじ)を訪れ46義士の遺髪遺爪に銀10両をそえ義士の冥福を祈り石碑を建ててくれるよう吉祥寺の住職に依頼した。吉祥時の義士の墓は江戸赤穂の墓よりも先がけて創建されたんです。 

江戸の泉岳寺では 義士崇拝は幕政に対する批判と法の秩序を乱す原因になりかねないので幕府は目を光らせ法要もままならなったからなんです。

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大阪なら幕府に気兼ねなしに仏事法要ができると考えたに違いない。
これはおそらく大石内蔵助の遺言であったと思われるとあります。 

泉岳寺に行く前に姿をくらました者がどうして四十六士の遺品遺髪を持っていたかを考えれば寺坂吉右衛門が逃げて姿をくらましたのではないことは明白ですね!

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赤穂浪士の多くは出身地は赤穂ではない。
赤穂浅野家断絶後は遺族は全国に散らばるのは目に見えていた。
浅野家は広島の浅野家の分家であったが少数の家来を引き連れ赤穂にきた。

多くは内匠頭長短(たくみのかみながのり)の祖父の長直(ながなお)が採用した者であるが出身地は全国にまたがっていた中途採用の武士が多かったんです、  

赤穂義士はすべて赤穂生まれで代々浅野家の恩顧を受けたので主君に恩義を感じ忠義をまっとうしたと思われるかも知れないですがそれはまちがった先入観で譜代の家来は少なく中途採用で浅野家の家臣となったものが多かった。

当時浪人の再就職は極めて難しかったが不可能ではなく現在の大企業のように家臣の出身地は全国にまたがっていた。 
代々浅野家の家来の家柄でなかった者が家来にとり取りたてられればより主君の恩義を感じ主君に恩義を感じるということもあると思われる。

「武士は二君に仕えず」とよく言いますが二君どころか赤穂浪士の中でただ一人
生きながらえた寺坂吉右衛門は亡くなるまでに三君に仕えましたとさ!

最後に仕えたのは山内主膳豊清家で30年仕えたとあります。
『武士は渡り者』という言葉さえあったらしい!

今日と変わらず、当時からリストラ、再雇用が多かったんですねー!

その後南麻布の曹渓寺に身を寄せこの寺で1747年 83才で亡くなりこの寺にある寺坂吉右衛門の墓が彼の本当の墓だと信じられてれている。

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それにしても四十七士の石彫像は良くできてるなー。
平成14年に再作彫とありますが、そうなんです、昭和20年3月の太平洋戦争での大阪大空襲で全焼するまではこの像は当初は木彫で飾られていたんです、それに遺髪、遺爪、遺物もことごとく消失とありますが実物を見たかったなー、残念!







しかし四十七義士の墓だけは消失を免れ300年を越えて現在もこの吉祥寺にあるんですねー!

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義士祭りは戦争を境にして一時途絶えていたが、昭和28年、講和条約締結の年に
「青少年の心に火を灯す運動」の一環として大阪義士会が結成され復興した。

12月14日午前9時より奉納琵琶や墓前法要、奉納剣道試合、山伏の護摩焚き等が
行われ、お昼から子どもたちの可愛い四十七義士時代行列が寺を出発する。
また当日は名物「討入そば」の接待もあるらしい。

でもあの赤穂浪士伝説の大きな切れ端が大阪市内にも多分にあったとは感慨深いものがありますねー!

よーし~来年こそは参加してみるか?

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