やま建築研究所

私が感じたこと、気になった建築などを書き留めたノートです。

建築の歩き方「東大寺編第二弾 金堂(大仏殿)」です。

2009年10月02日 02時02分22秒 | 建築の歩き方

仕事が忙しくしばらくサボっておりましたが、復活です!

建築の歩き方、奈良「東大寺編第二弾 金堂(大仏殿)」です。
2006年8月15日に行ってきました。

前編の「南大門」をくぐると、正面に金堂が見えてきます。



金堂とは寺院の中心となる建物で、本尊である仏像を安置してある仏堂の名称です。
ここ東大寺の金堂は、「奈良の大仏」として有名な仏様をおさめていることから、「大仏殿」と呼ばれ、この呼び方が一般的になっています。

「東大寺=大仏殿」と、私は長い間勘違いしていましたが、大仏殿とは建物の名称のことで、東大寺とはこの辺り一帯の建物と敷地、いわゆる「伽藍」の総称です。



南大門から中門そして大仏殿が一直線上に並ぶ伽藍配置。

      中門から見返した南大門

何を目的に進むのか、一番大切なものは何なのか。
歩を進めるごとに大きくなる大仏殿。
答えは軸線の終着点にありました。

          金堂(大仏殿)

間口(正面から見た姿)は57.01m。
奥行は50.48m。
高さは48.74m。

いわずと知れた世界最大の木造建築
現存するのは三代目。1709年、江戸時代に建てられたもの。
この大きさでも初代、二代目の大仏殿にくらべると小さく、間口が2/3に縮小されているそうです。

東大寺の歴史はさかのぼる事およそ1300年前、聖武天皇によって創建されました。
当時は今より大きなサイズの大仏殿に加えて、東西両サイドに高さ約100mの七重の塔が二基建っていたそうです。
高さ100m、というと28階建ての高層ビルとほぼ同じ高さ。
現存する木造の塔で一番高いのは京都の東寺の五重塔で高さは54.8m、建築時期は江戸時代初期。

    東寺の五重塔

東寺の五重塔も間近でみるとかなり高いですが、これより遥か昔に、遥かに高い木造の塔が建てられていたとは、当時の技術力の高さに驚きとミステリーを感じます。
しかし今に残るは基礎の礎石のみ。当時を知る手がかりはこれだけです。

大仏殿に近づくにつれ、視界をさえぎるほどの巨大さに圧倒されます。
外観のデザインで特徴的なのが構造材の目立たせ加減
垂直方向に伸びる、水平方向に走る、そして大きな屋根を支えている組物


これらを現しにすることにより、大きさの割にどっしりとした安定感がでています。


真ん中の唐破風は、単調になりがちな立面に変化を与えるためにつけられたものでしょう。
社寺建築の他、城建築にもよく使われている和風なボキャブラリーです。


大仏殿の建築時期は江戸時代、まだまだ自然の多かった今から300年前の昔。
とはいえ、ここ近畿地方は有史以来、1000年以上日本の都があり続けた場所。
公共事業による工事が繰り返され、古代から近代にかけて大量の木材を消費してきた土地でもあります。
先代と同じ規模で建てるには、使用する柱の直径は1.2m、高さは30mを越える柱が必要です。
ところが、巨大建築に使える太さと長さをあわせ持った樹齢の高い木は、近畿地方ではほとんど切り尽くされていました。
そのため、木材を張り合わせて1本の太い柱を作る方法が導入されました。

その方法とは
①直径1mほどの柱を芯とする。
②その芯の周りに、扇型に反った木を貼り合わせる。
③鉄の輪をはめて固定させる。
④さらに釘を打ち付けて補強し、一本の柱とする。
大仏殿の柱は全てこの方法で木を寄せ集めて造る「集成材」で作られています。




今日、住宅のみならず体育館などの大空間でも使われている集成材は接着剤をつけて圧縮して1本にしたもの。
完全に一体化されて、バラバラになることはないと言われる、現在の技術が生み出した新木材です。
しかし大仏殿の柱は現在の集成材に比べるとつぎはぎだらけ。

           大仏殿の柱

こんなんで大丈夫!?
と思うなかれ。これでも約300年の間、約11万枚の瓦が載った約3000トンの屋根を支えてきたのですから。

    「大仏池」越しに大仏殿を撮る

外は真夏のカンカン照り。30度超は確実かといった日。
陽射しから逃れるように堂内に入りました。
ひんやりとした空気が、ほてった体を冷ましてくれます。
クーラーのような人工的な涼しさとは違った、心地よい涼しさです。

遠目に見ると威風堂々、バランスのとれた外観も、軒下から見上げると・・・
なんだか骨がむき出しになっているようで見栄えはよくないですね。


     正面の唐破風の下から撮影

正面には高さ約15mの大仏像が鎮座。




さらに大仏を守るべく睨みをきかす四天王。

 四天王の一尊 多聞天

辺りに林立する柱、そして柱と柱をつなぐ貫。これらが縦横に組合わさり、大空間を支えています。

        集成材の柱が林立


      柱と貫で支えられた空間

前回紹介した「南大門」と同じく大仏様(だいぶつよう)という様式。
鎌倉時代に生まれた工法が江戸時代に引き継がれています。

昨今、自然素材の建材がブームですが、こちらはもちろんオール自然素材
無垢材の柱と梁、全面木貼りの壁、そして自然石(たぶん御影石?)の床。
外の蒸し暑さでびちょびちょだった体もいつの間にやら汗もひき、さらっとしてきました。
湿度も、温度もほどよくいい感じでリラックスできます。
精神の落ち着きや安らぎというのは、こんな環境でこそ生まれてくるのではないかと実感しました。

自然素材の作り出す快適空間、歴史的建造物で体感してみて下さい。


    



奈良県「東大寺編第一弾 南大門」です。

2009年07月16日 02時17分25秒 | 建築の歩き方

長いことサボっていました・・・。
オレ流建築の歩き方。
今回は奈良県奈良市の「東大寺 南大門」です。

大阪の実家に帰った時などにちょこちょこ行ってますが、写真は2006年8月15日に撮ったものです。

東大寺とはこの辺り一帯に建っている寺院群を指しますが、すぐに思い浮かぶのは、世界最大の建築物にして国宝の大仏さまを納めている「金堂」ではないでしょうか。
「金堂」とは、いわずと知れた通称「大仏殿」のこと。


          大仏殿(金堂)

教科書でもお馴染み、修学旅行や遠足で行かれた方も多いと思います。

でも東大寺は大仏さまや金堂だけではありません。
日本の歴史と至宝の数々がここにあります。

そのため何度かに分けてリポートします、東大寺特集
今回は東大寺の顔でもある「南大門」をお伝えします。

近鉄奈良駅下車、辺りはすでに奈良公園です。
そこかしこをかっ歩する鹿の群れ。


そんな鹿と戯れつつ、フンを踏まないよう気をつけて進んでいくと東大寺伽藍の入口、国宝「南大門」へ突き当たります。


         東大寺 南大門

見上げるほど大きなこの建築物は鎌倉時代 1199年の建造


          東大寺 南大門

工事の総責任者である東大寺勧進職を拝命したのは、仏教の僧であり建築技術者でもあった重源(ちょうげん)

        重源

設計、施工はもちろん、職人集め、資金集めまで全てを請負います。

ここは地震国ニッポン。
今まで大きな地震が来るたびに建物は大被害を受けていました。
そんな国に大きな建造物を建てるにはどうするべきか。
ただ柱を太くするだけでは効果は薄い。
地震は縦に揺れるだけでなく、横にも揺れる。
今までの建物構造に問題があるのは、過去の大地震から証明済み。
そこで中国帰りの重源考えた。
横揺れ時、建物にかかる水平力にどうやって抵抗させるか
考えた末の結果が、貫(ぬき)で柱と柱をつなぐ方法



これにより柱と柱の間が一つの面となり、横揺れ時の水平方向の力を面として支える事ができる。
この様式は「大仏様」という地震に強い新工法となり、以後の日本建築までも支えていくことになります。

800年の時を経た南大門、近くで見ると柱は割れてずたぼろです。


         南大門を支える柱

無垢材の場合、乾燥による割れは当たり前。
強度的には問題ないと言われてますが、ここまで割れていると、大丈夫かと心配になってきますが新築以来数百年、台風、地震、戦と天災人災に見舞われたことも数知れず。
幾多の困難を乗り越えて、今に残るのは丈夫な証拠。
乾燥による割れはあまり気にしなくてもいいのかもしれません。

見上げると平和な時代の今、心なしかさっぱりとした表情です。
時代を超えて残る。そこに建築のすごさを感じてしまいました。


       南大門(大仏殿方向から)


この南大門、すごいのは建築だけではありません。
門の中、両サイドからは日本最高の仏師と誉れ高い「運慶」総指揮のもと作られた国宝「金剛力士像」がにらみをきかしています。
通称「仁王像」ともいわれ、寺を守る守護神です。
左右の二体はそれぞれ表情とポージングが異なります。

向かって右が吽形(うんぎょう)といって口を閉じた像。

   吽形(うんぎょう)

向かって左が阿形(あぎょう)といって口を開いた像。

    阿形(あぎょう)

高さはどちらも8.4m。最新の解体調査の結果、運慶を筆頭とする仏師達はこの木像をわずか二ヶ月で完成させたとの事です。
おそらく昼夜を問わない突貫工事。
過労の怒りが像に乗り移ったのか!?それともチームの心が一つとなったことがなし得た業なのか。
怒り、強さ、正義を一言で表したような容姿。
筋骨隆々、今にも動き出すような躍動感と迫り来る迫力。
そばに立つと圧倒されます。

  
  夜の吽形(うんぎょう)      夜の阿形(あぎょう)

                
ここ東大寺だけでなく日本全国津々浦々、由緒ある寺に鎮座する金剛力士や四天王といった仏教の神々たち。
日本人の手で作られた木彫りの像は西洋のブロンズ像、石像に勝るとも劣らず芸術的で迫力もあります。

そんな芸術作品、寺にしまっておくのはもったいない!
日本でもこの伝統作品のレプリカを、ヨーロッパの街のように公園や建物にオブジェとして添えるのもいいかもしれないと思いました。


   サンタンジェロ城の天使像 in ローマ



   ナヴォーナ広場の噴水 in ローマ

どうでしょう?

    背景は地元の西荻窪駅北口です

次回は「東大寺 大仏殿」です。


  





建築の歩き方、松本市編「馬場家住宅」です。

2009年05月07日 02時06分41秒 | 建築の歩き方

平成20年12月16日に訪れた長野県松本市編
松本城、旧開智学校といずれも時代を代表する建築物のある松本市。
最後は信州の民家の代表「馬場家住宅」です。

当日は馬場家、松本城、開智学校の順にまわったのですが、紹介するのは最後になってしまいました。
市の中心からバスでおよそ30分ほど揺られて到着、松本市の郊外にあります。
バス停からしばらく歩くと絵のような風景です。



手前には一面の畑、目下に松本市街が広がり、背後には日本アルプス。
そして村の鎮守の神様。


      林の中に神社があります

初めて見る風景ですが、どこか懐かしさを感じさせられます。


馬場家の広大な敷地は築地塀に囲まれています。
まるで大名屋敷のような構えです。


           馬場家表門

表門を入ると正面に主屋。
ここ長野県の民家に多い「本棟造り」といわれる様式で、屋根の頂点にある「雀おどし」と言われる棟飾りが特徴です。


        屋根の頂点の雀おどし

屋根の形は切妻、三角形の形をした屋根です。
間口 9間(約16.38m)にかかる切妻は、街中では見ることができないほどのダイナミックさ。
屋根を区切る水平の下屋庇が安定感を与えています。


             主屋

主屋は1851年の完成、その他の建物群も江戸時代末期に作られました。
馬場家はこの地域を田畑に開墾した豪農。
そのせいもあり、敷地も広大。中には蔵や馬屋だけでなく茶室まであります。


         敷地の中にある蔵

おもに生活の場となっていたのが主屋。
間取りは農家のプロトタイプである田の字プラン
各部屋は襖で区切られていますが、取り外すとパーティー、冠婚葬祭なんでもこいのオープンスペース。


     部屋が田の字に配されています



     各部屋は襖で仕切られています

たまに訪れていた藩主の殿様ご一行様を迎えるにも、十分な広さがありそうです。


開け放った戸から、風が抜けていきます。
でもこの日は真冬。冷たい風に体が震えます。


          風通しは抜群

徒然草第五十五段、「家のつくりやうは、夏を旨とすべし」。
七百年前の兼好法師の言葉のごとく、夏向きの家ですな。

といっても座敷や縁側は日光による陽だまりの心地よさがあります。


          座敷の陽だまり


           縁側の陽だまり

対照的なのが部屋の天窓からの光。同じ太陽の光なのにこちらはライトのような人工的光線のよう。


              天窓

自然に入ってくる光と人為的に取り入れた光。
同じ光でも印象は全く違いました。

玄関でもある土間の横には日本伝統のダイニングスペース、囲炉裏があります。
古き良き時代の家族のだんらん風景が目に浮かんできます。


            囲炉裏

今まで何軒か民家を見てきましたが、どこの民家も人が集まってくることを想定して、人数や目的に合わせて柔軟に対応できるしつらえにしてあることに共通点があると気付かされました。
空間を細かく壁で区切ることで家族の場所や個人の場所、用途を明確に区別させる今の家とは対照的です。

時代と共に変化する住み方。
進化しているのか、退廃しているのかはわかりませんが、昔の民家にはどこか安堵感を感じます。

高級な仕上げ材で覆われ、ムードのある照明や明るい吹き抜けがあり、ハイテクノロジーな仕様設備。
そんな全てがそろった勤務先の住宅展示場で過ごす毎日は確かに快適、便利(仕事を除いて・・・)、ではありますが、四季の移り変わりを感じ、太陽の動きに合わせて活動するという、人間の生活の原点を忘れているような気がします。

たまには原点に戻るつもりで、昔ながらの民家を訪れてみるのもいいかもしれません。


             民家

東京近辺なら川崎市の「日本民家園」がおすすめです。


    


建築の歩き方は引続き松本市 「旧開智学校」です。

2009年03月09日 01時58分44秒 | 建築の歩き方

今日のオレ流建築の歩き方。
前回に引き続き長野県松本市編。同日2008年12月16日夕方のことです。

松本城の北、およそ徒歩10分くらい離れた位置に建つ「旧開智学校」
松本城天守閣からも良く見えます。

        松本城天守閣より

もともとは市内の中心部を流れる女鳥羽川(めとばがわ)沿いに建っていましたが河川改修工事のため、昭和30年代に移築されてきました。

松本城が安土桃山時代を代表する城郭建築なら、こちらは明治時代を代表する学校建築です。

          開智学校正面

明治9年竣工。日本は西洋の文化を取り入れて急速に近代化へと突き進んでいた頃。
未来を担う子供達の学び舎としてもっともふさわしい形とは?
開智学校の設計者であり大工棟梁でもあった立石清重、アイデアを探しに東京まで出てます。  

      立石清重

練りに練って出てきた答えは、洋風と和風を混ぜた擬洋風建築

      正面

縦長の窓に観音開きの雨戸、角の隅石、そして一階と二階の間の水平線「コーニス」。

           外観説明

一見すると欧州生まれのルネサンス様式ですが、でも所々に日本様式が入っています。
玄関上の唐破風、漆喰塗りの外壁、桟瓦葺きの屋根。
これらは日本の伝統様式です。


            外観説明

「ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。」と言われた時代。
ここ松本にも響いてきた文明開化の音。
でも西洋一色に染まるのではなく、日本の文化の音色も程よく取り入れているところ棟梁 立石清重のこだわりが感じられます。

中に入ると白い壁に白い天井。まっすぐ伸びた廊下は無機質過ぎて学校という感じがしません。なんだか病院といったほうが合うような気がします。

            校内廊下

校舎の中央付近にまわり階段がありますが、現在の建築基準法では認められそうもないかなりの急勾配。上から見下ろすと崖のようです。
上り下りしてみたかったのですが通行禁止との事。
まあ、危ないですからね。
  
   回り階段一階から               回り階段二階から

中のデザインもまた和と洋の共演。悪く言うと継ぎはぎのような気もしますが・・・。
洋風を特に意識させるのは照明器具のデザインと二階の講堂にはまる小さなステンドグラスです。

        天井の照明(一階)


            二階講堂

かなり唐突にでてきますが、扉の竜の透かし彫りは芸術品の如く立派です。
和を意識してのことでしょうか。

        扉の龍の透かし彫り 

開智学校は当時としては最先端のデザインでありながら、環境に対しても易しいエコ建築でもあります。
というのも使っている材料はリサイクル品。
柱は廃寺となった近くの寺院のケヤキの古材を転用しています。

       古材利用の説明書きです

「地球環境を守りたい」。
現在のようなスローガンがあったかどうかはわかりませんが、この学校の工事費の約7割は松本市民の寄付により賄われたもの。
無駄にはできないといった必然性から、今につながるエコ建築の先走りとなったのかもしれませんね。
この後、松本城入口前のそば屋で、今日二回目のそばを食べて帰りました。
そばは信州にかぎる!?

    








建築の歩き方、今回は「国宝 松本城」です。

2009年02月12日 02時06分22秒 | 建築の歩き方

オレ流建築の歩き方。今回は国宝「松本城」です。
2008年12月16日に行ってきました。

日本には国宝指定の城郭が4箇所あります。
兵庫県姫路市の姫路城、滋賀県彦根市の彦根城、愛知県犬山市の犬山城、そして長野県松本市にある松本城です。


そのうち姫路城、彦根城は「オレ流建築の歩き方」でも取り上げてます。
ご参考に
姫路城の巻 http://blog.goo.ne.jp/ko-yama/e/61b2064e2bfb8759f178609d8c721871
彦根城の巻 http://blog.goo.ne.jp/ko-yama/e/b76ff947def4419c11954c7d495d8e0e

さてこの日はいい天気。空には雲ひとつありません。
澄んだ青空は冬の特権。素人写真ですがいいショットが撮れそうです。
ここ信州はそばや野沢菜だけでなく、空気がきれいな為、精密機械の産地でもあります。

       遠くの山は日本アルプス

でも寒い!さすが雪国の12月。雪が無いだけましですね。

そんな青空の下、城へと向かいました。
外堀を渡るとすぐに黒光りする大きな建物が見えてきます。

         国宝 松本城

これが国宝「松本城」。
遠目から見ると大きな甲冑、いや軍艦のオブジェか!?
そんな戦いのため要塞といったイメージです。
とは言っても背後に日本アルプスの山々が連なる風景を借景に画的にもカメラ写りもいいレイアウトです。

ここでちと建築豆知識!!
城は建つ場所により山城、平山城、平城に分けられます。

山城・・・標高の高い山の上に建てられた城。
例えば大阪の千早赤坂村にある千早城。歴史も古いものが多く、今に残る遺跡はどこも石積しか残ってません。

平山城・・・平野の中にある小さな山や丘の上にたつ城。
例えば姫路城や彦根城、犬山城など。

平城・・・平地に建つ城。
例えば大阪城、江戸城など。

守備に優れた山城は国盗合戦さなかの戦国時代はならまだしも、世の中が安定してくると不便この上ない。
守りより利便性。近世になるにしたがって平城が増えてきます。
平野に城を中心とした街を作って国を豊かにする。城下町はそんな考えから発展してきました。

ここ松本城は典型的な平城です。
築城は1593年頃、城主 石川数正・康長親子によって築かれました。
時は安土・桃山時代。秀吉が天下を統一したとはいえ、まだ戦乱のきな臭さがさめやらぬ時期。
戦国真盛りの世は過ぎても、いざという時の守りのため、二重三重の堀をめぐらしています。
一番外側の「惣堀」はすでに埋められていますが「外堀」と「中堀」は当時のまま。
立派な石垣と水をたたえた堀が城の品格を保っています。

     手前が外堀、奥が内堀

城と言えば白。ダジャレじゃありませんがそんな先入感をもっていました。
城の中では日本で一番有名といっても過言ではない国宝「姫路城」。
白く優雅な形から付けられた呼び名は「白鷺城」
対して黒く戦闘的な松本城は「烏城」(烏とはカラスのこと)と呼ばれています。

      烏城           白鷺城

とは言っても全身黒と言うわけではありません。
どの階も下部は板張りにうるし塗り、そして上部は漆喰と上下に色分けされたツートンカラー。
モノトーン調の外観は現代にも通じるスタイリッシュなデザインです。
   
 黒の部分は漆塗、白の部分は漆喰

一番高く、一番最初に建てられたのが天守閣。高さは29.4m。

           天守閣

その後、向かって左の乾小天守、向かって右の辰巳附櫓、さらに右の月見櫓といった順番に増築され、現在のL字型の配置になりました。

この平面形状、「複合連結式天守群」とも言われています。

            正面

「建築は周囲の環境により引き立つ」
逆に言えば何か比較するものがなければ物足りなく映ってしまう、というのは私の持論です。
その目線で見みると付き従うように並ぶ小天守、櫓群が天守閣の威厳と大きさの引き立て役でもあり、どっしりとした安定感を出す脇役でもあると感じました。

東側にある月見櫓。他のいかつい表情の建物と違ってこじゃれたカラフルな容姿です。
赤い欄干がアクセント。江戸時代に入ってしばらく後、一番最後に増築されたのは要塞ではなく宴会や接待のための遊びの間。
さぞかし眺めがよさそうです。

            月見櫓

入場料大人600円。
薄暗い城内。在来工法ならではの柱が林立しています。

       乾小天守 一階部分

材料はツガ、モミ、アスヒ(別名アスナロ、ヒバ)。
角柱、丸柱が混在。2、3本メジャーで測ってみましたが、柱はすべて太さ30cm以上はありそうです。
外から見ると五階建。でも実際は六階建ての五層六階の天守閣。
登っていくと各階ごとにそれぞれ特徴が違います。
簡単にまとめると・・・

一階は構造上なのか防御上なのかわかりませんが窓が少ないため暗く、ところどころに空けられた狭間(鉄砲や矢を射るための窓)からの光が幻想的に感じられます。

           狭間

斜めになった壁は石落。ここから石を落として石垣を登ってくる敵を防ぎます。

  石落(中)          石落(外)

二階
に登ると雰囲気はがらっと変わり、横長の窓が多く割と明るい空間です。

          二階の横長窓

三階は外からはわからない秘密の階。
戦の時、武士が隠れるための場所でした。
窓も少なくかなり暗いです。

            三階

四階は戦時、城主の居場所となる部屋。
天井も高く、窓も多く柱も檜。
殿様仕様です。

             四階

五階は作戦会議の間。
ここでは千鳥破風の裏側を見ることができます。


最上階である六階はまさに展望台。
天井は迫力ある木組み。四方が窓の明るい部屋。

          最上階 六階

本来の目的は城攻めされた場合、敵の様子を見るための物見櫓ですが、平時は松本城下町、遠くは日本アルプスを眺めることが出来る特等席。
京都の南禅寺じゃありませんが、「絶景かな、絶景かな」。

         六階からの眺め

下ると赤い欄干が特徴の月見櫓に行き当たります。
三方向が吹き抜きで見晴らし、風通しも抜群。でも真冬の今、抜群過ぎてかなり寒かったです。
夏の月見にはこの上ない環境でしょうな。

            月見櫓


    月見櫓 ベランダが赤いのが特徴

戦うことを第一に考えて造られたとは言っても城は一国の象徴、見栄もあります。
デザインにもかなり気を使ったことでしょう。
しかも背景にそびえるアルプス山脈。
ぐるっとひと回りしましたが、どこから撮っても画になります。

          南東側から


          北西側から


           東側から

最強の木造建築。
建築好き、写真好き、旅好き、野沢菜好き、信州そば好き。
どれか一つでも当てはまる人は是非行ってみて下さい。

        闇に染まる松本城