ガエゆだR。

~ガチとエンジョイとの狭間で未来の夢を抱くブログ・REBOOT。~

慈シキココロ

2021-11-08 01:29:49 | アニメ・特撮
[警告:本記事は「鬼滅の刃」原作漫画のネタバレを大部分に含みます]
[「ネタバレを回避したい」という方はブラウザバックをお願いします]
[ネタバレを許容できる方のみ、スクロールして本文をお読みください]








































どうも、Klowですおはようございます。

上記の警告文、お読みになられた皆様に向けてお話しますが、今回の記事の趣旨は、

「自分は鬼滅の刃を如何なる物語であるという風に見ているか」
そして
炭治郎とは本当に『生得的狂気に侵された』、簡単に言えば『サイコ野郎』なのか?」

というお話です。前提としてガチ精神科医の斎藤環先生が執筆なされた、鬼滅を心理学的に読み解く此方の記事を読んで頂けると話がスッと入って来ると思います。
出来たら此方の記事を読むのを止めて、まず此方からお読みください。もしくは当記事を読んでから読んでください。長いけどね。
で、今回はその記事に対するド素人のアンサーみたいなニュアンスを含む記事になりますので、
私の記事もクソ長くなると思います。時間の有るお暇な方のみお付き合いください。

結論から申し上げると、俺は鬼滅の物語を

人は老いて死ぬものだが、ある人の思いは、兄弟は勿論友人・知人・後輩と言った、
その人が影響を与えた人たちが繋げて行き、実を結ぶという『人間讃歌』が根底に流れるバトル漫画」


と解釈していますし、炭治郎については

「『生得的狂気に侵された男サイコやろうか』と聞かれればNO。断じてNO


だと思っています。では、そう言う結論に至った話をつらつらとお話して行きましょう。

まず「人間讃歌」とは、ワニ先生こと吾峠呼世晴先生がルーツとするジョジョの奇妙な冒険に登場する造語です。
作者である荒木飛呂彦先生が「思い付きで書いた」(意訳)と仰られているので、明確な意味は読者に委ねられているのですが、
本記事での人間讃歌とは、

『人の弱さ』を認めた上で、進む勇気を振り絞る事は素晴らしい事を伝える讃歌」

と定義しましょう。そして自分は「吾峠先生はこの定義の通りに解釈されてるんだろうな」という仮説のもと話を進めます。

で、こっからが本題。
アニメ/映画無限列車(原作8巻頃)、猗窩座との戦いの中、炎柱こと煉獄杏寿郎さんは、このような台詞を猗窩座に向かって発します。

「老いる事も 死ぬことも 人間と言う生き物の美しさ
老いるからこそ 死ぬからこそ 堪らなく愛おしく 尊いのだ


はい。お分かり頂けたでしょうか、このたった数行に込められた、吾峠先生なりの「人間讃歌」を。
そういう吾峠先生の「人は何時か死ぬが、それが人の美しさであり、尊いもの」という「人間讃歌」に基いたかのような台詞は
その後も度々発され、本編を読み進めると、多くの隊士は…柱の皆さんや、隊士でない御館様こと産屋敷耀哉も含めて、

「喩え自分が倒れようと、自分の遺志を継いだ者が、思いを果たしてくれる

とか、

「例え自分が倒れても、仲間達には生きていて欲しい

とか、そういう願いを込めた台詞や手紙の文章を言ったり、書き残したりしているところなどが、少しずつ描写されてきます。
かの蟲柱・胡蝶しのぶさんも、姉である花柱・胡蝶カナエさんが殺されたその日から、「自決覚悟で仇を討つ」と決意し、
自分のたった37kgしかない体の全てに藤の毒を飲み、その体全てに毒を浸透させ、自分自身が「致死量の700倍の毒」へと変化して行きます
カナエ姉さんこそなんとか食われなかったものの、普段は「女食い」の鬼である、仇の童磨自らをわざと食わせる為に。
(童磨は「人を生み育てられる女は、男より蓄えられる栄養が高い」という理由で女を襲い、食べている鬼でした)

恐らくですが、しのぶさんはカナエ姉さんが殺され、カナエ姉さんが拾った栗花落カナヲちゃんが鬼殺隊士になった時から、
「止めはカナヲに刺して貰おう」と思っていたのでしょう。故、しのぶさんはそんな無茶苦茶な事が出来たし、
なんならカナエ姉さんが居ない世界で生きていける自信は無いとすら思っていたのかもしれません。そこまで深い描写こそありませんが、
童磨との戦いの中で、彼女は「ずっと怒って」いて、「やらなきゃいけない事がある」とも独白するシーンがありました。

なので、先程「読んでくれ」と言った記事の中では、柱の皆さんもサイコパスの集団であるという旨が書かれていましたが、
自分は彼らを「優し過ぎるが故に、自己犠牲に走ってしまった人たち」という風に解釈しています。尤も、自分がサイコパスというワードに
忌避感を覚えているというのもあるんですが、本来サイコパスという言葉には、「人としての思い遣りが著しく欠如する人間」という意味合いが含まれておりまして。
柱の皆さんが本当にサイコパスなら、全員が極めて自己中心的に活動し、喩え誰が死のうが素っ気ない態度を取ったし、それぞれが「惡鬼滅殺」の使命を帯びて
活動する事も無かったんじゃねーかな
、とも思ってます。加えて、鬼滅の物語では「炭治郎以外の人間は、わざと第一印象が悪くなるように描いている」と言う風に
聞いた事もありますので、柱合裁判のくだりを取り上げてサイコパス共と評するには聊かナンセンス過ぎるという風に自分は思ってしまいましたね。
ド派手に断じてしまうと、キャラクターの表面しか見てないんじゃね?っていう。だって煉獄さんが無限列車の戦いで命を落とした時も、あの素っ気ない風な冨岡さん

「そうか

という一言に、悔しさや哀しさが詰まっている風に見えるんですよね。冨岡さんは無口で口下手なだけで、仲間思いな人ですから
(そのせいで鬼殺隊見聞録弐巻に掲載されている「柱相関言行録」では軒並み「もっと喋った方がいい」と評されています)
延々と語るとさらに長くなってしまうのでこの辺で切り上げますが、他にも23巻で炭治郎が鬼になってしまい、人戻しの薬を打ち込まれた後の描写など、
様々な部分で鬼滅の物語とは

人間讃歌が根底にあるバトル漫画」

である、という風に解釈したんですよね。「『トラウマ的な責任と倫理』の問題を生み出し続ける物語」という後ろ暗いものではなく。

そして、一番語りたかった「炭治郎はサイコ野郎か、その答えは断じてNO」というお話なのですが。
根拠として、鬼滅の物語を読み解く上で、俺はとっても大事にしている前提条件があります。それは、

「炭治郎は、基本的に禰豆子ちゃんを元に戻す為、常にいっぱいいっぱいで戦ってる」

という点です。
全集中の呼吸を必死で覚えたのも、最終選別を生き抜いて鬼殺隊士になったのも、鬼を倒し続けたのも、その全てが禰豆子ちゃんの為なのです。
あの日、無惨様にほぼ全員殺された中、唯一生き残った身内である、禰豆子ちゃんを人に戻すために。
だから鼓屋敷に行く前の道中で出会った善逸の事を覚えてなかった上に

「お前みたいな奴は知人に存在しない 知らん!!」

なんてズバッと言い切ってしまったし、いち早く入山していち早く下山した伊之助の事なんか、
鼓屋敷の中で出会っても、あの声聞き覚えがあるな~なんて思い出す事も無く、そもそも記憶の端にもありませんでした。
(ゲームヒノカミ血風譚では、藤襲山の山中で伊之助の声を聞くシーンがありますが、それも忘れてしまったのでしょう)

更に、自分の前提を更に裏付けるシーンは、これから遊郭編としてアニメ化されるはずの9巻のお話の中にもあります。
伊之助がさらりと

「俺達の階級"庚"だぞ もう上がってる 下から四番目」

と言い、最終選別の舞台だった藤襲山で加工されたという「藤花彫り」なる、自らの階級を拳に示す入れ墨を浮き上がらせます。
これは「階級を示せ」と手に力を込めながら言うと、拳に階級が浮かび上がり、鬼殺隊士としての階級を一目で分かるようにするものなのですが、
あれ、藤襲山で手ぇこちょこちょされたろ?と伊之助が聞くと

「こちょこちょされた覚えはあるけど疲れてたし… こういう事って知らなかった…」

と、こちょこちょされた記憶こそ在れど、藤花彫りをされたとは思っていなかったと打ち明けます。なので、そんな基礎知識すら頭に入らない程
疲れていて、且つ「あの時はいっぱいいっぱいだった」というのが分かるシーンになってる訳です。

加えて、炭治郎は「俺は長男だから」と唱えながらなんでも我慢できてしまうのも、禰豆子ちゃんを元に戻すために、
自分が倒れてなんかなるもんかという、よくよく考えれば「禰豆子ちゃんの為」という行動原理が見えて来るんじゃないかな~と思います。
更に、記事では「人の気持ちを想像する力が無い」的な事を言われてますが、そこは元々の性格なんだろうなぁと思う所こそ在りますが、
どっかしらに「禰豆子ちゃんの事を気にしてるから」だと思うと合点が行きますし、そんな常に禰豆子ちゃんの事を第一に考えて動く炭治郎に対して、

「まともな『心理』などある筈もない」

なんて断じてしまうのは流石に可愛そうなのではないかと考えてしまう訳です。
勿論、俺が竈門炭治郎という少年を最大限甘く見積もって解釈していると言ってしまえばそれまでですが、俺の中での炭治郎とは、

「禰豆子ちゃんの事を第一に考え、時にいっぱいいっぱいになりそうな中で、
父・炭十郎の遺した『自分が苦しい時でも人を慈しむ事ができる、しなやかで強い人間になれ』という言葉を胸に、
自分の出来る範囲で人に優しく接していた少年なんだろうな」


という認識が有る為、「謎めいた空虚な中心」でも「まともじゃないガキ」(魘夢談)でもないと思ってるんですね。
尤も夢の中で何度も自決できる胆力があるのは、確かにマトモじゃないかもれませんけど………

以上が、自分が結論までに至った根拠でした。
久し振りに面白い記事を読ませて貰ったんですが、聊か共感しかねると思い、一ファンの目線から俺はこう見てるんだぜ、というのを
Twitterでやるとひたっすら長くなりそうだからブログに書こうと考え、この記事が出来上がった次第です。

俺個人的には「ガチの学者先生が読む鬼滅の刃」というお話を他にも読んで、いやそれはこうじゃね?っていうのがやりたいので、
他の方の参戦を心待ちにしておきたいと思いつつ、お終いとさせて頂くことにして。


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