ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

「年に区切りがある」のはなぜなのか。

2019年01月02日 15時19分44秒 | ひまつぶし
私たちが日常使っている暦を「グレゴリオ暦」と言います。一年を365日としています。
一年を12等分してそれの区切りを「月(ツキ)」と名づけています。
等分された12月目が過ぎると、また新たな「月」から繰り返すのです。この新たな「月の組み合わせ」が始まることを、「年が改まる」とか「新年を迎える」とか言っております。

時間の経過と言う観点から考えると、12月31日と1月1日とには格別な意味のある「区切り」は必要ないように思われます。時間には厳密な意味では「区切り」はなく無限の連続性があるのみです。(時間には「始まりがある」と考える理論物理学の考えはここでは、考慮しません。)

24時間を一日とし、365日を一年としたのは便利な仕組みとして先人が考え出した人為的な区分けなのです。
この人為的な区切りはおそらくは人間が「太陽が昇りそして沈むこと」の観察から生まれたものでしょう。また、季節の概念は次のように生れたと考えられます。
人類の祖先が採取に頼り食料の確保をしていた時分に、一定の時間の経過とともに木の実が生る時がやってくることを発見します。これが「季節」の発見です。
ある種の木はある時期になると実をつけるのです。別の木はまた別の時期に実を着けます。このようにして人類の祖先は樹木の種類ごとに実がつく時期が異なっていることを知ります。人類の祖先は自分たちが必要とする木の実が実る時期を知り、それを求めて移動の生活をしていたと考えられます。
このようにして暦は発明されたのでしょう。
こうして「1日の区切り」や「季節の区切り」に基づいて暦が作られていったと考えられます。

さて、今我々が使っている暦とは一年区切りの暦ですが、それとはまったく異なる「暦」がありました。

それは「マヤ暦」です。マヤ暦は一年などと言う短期の区切りではなく、長い時間を捉える「長期暦」と言うものです。
マヤ暦での「時間の経過の捉え方」は次のようなものです。
以下はWikipediaからの引用です。

『長期暦は、1日であるキン、20キンの「月」であるウィナル、18ウィナルの「年」であるトゥン、更に20トゥンを1カトゥンとし20カトゥンを1バクトゥンとする単位で構成される。

名称      日数 備考

バクトゥン 144000 約394年
カトゥン 7200 約19.7年
トゥン     360 約1年
ウィナル 20
キン 1

バクトゥンより大きな単位も存在し、20バクトゥンを1ピクトゥン、20ピクトゥンを1カラブトゥン、20カラブトゥンを1キンチルトゥン、20キンチルトゥンを1アラウトゥンとた。1アラウトゥンは約6308万年に相当する。』

この暦法は神話上の最初の日からの日数をも意味している、とされています。

マヤ暦によれば「年は繰り返さない」のです。時間はただ累積されてゆくのです。
現代人の我々からすれば、不思議な「時間の捉え方」ですね。
とてつもない長いスパンで時間の経過の捉え方をしていた人々がいたものですね。

時間の連続性という観点からすれば、「長期暦」はその本質に近く、生活の便利さに役立つと言う観点からすれば、「グレゴリオ暦」は実生活に親和性があるといえるでしょう。

新しくなったカレンダーを眺めていて、こんなことを考えてみたのでした。
  

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