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ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

「幻想」は何から生ずるのか?

2018年01月31日 11時51分32秒 | ひまつぶし
先日の「仮装通貨」問題について、「欲望と幻想」に触れました。

その記事を見た人から「幻想」はおかしいのではないか、もっと正確に言えば「妄想」と言うべきではないか、との指摘を受けました。
確かに「仮装通貨問題」に関して言えば、「これを買っておけば、必ずもうかる」という思いは指摘通りには「妄想」には違いないのです。
しかし、わたくしが言いたかったのは、そうした「妄想」を含めて、人はなぜそのような思念にとらわれて行くのか?を考えてみたかったのです。

今、手元ににかなり古い書籍があります。
この本です。「共同幻想論」という書籍です。



この本の著者は吉本隆明という人です。
吉本バナナと言う小説家の父親でもあります。
この本の初版は昭和43年であり、わたくしが所有しているのは昭和44年の11版のものです。

この書籍の内容を詳述するのが、このブログの本義ではないので、それについては触れませんが、一言で言えば「ヒトが持つ<個的思念>が家族、民族、国家や宗教などの、<共同性を帯びる思念ー規範とか法と呼ばれるもの>になってゆくプロセスとその構造」を考察したものです。

この本の内容はそれらの「ヒトの思念の活動」の多くの分野にわたり、考察されています。
書かれている内容の正否はともかくとして、ヒトの思惟活動の多くの分野についての全体像を理解するには、示唆に富むことが多いと思っております。

さて、話は変わりますがわたくしには昨年の7月に生まれた孫がおります。其の幼児には3人の姉がおり、そして両親とともに家族を構成しています。
4~5日もその孫を見ない事があり、その後に孫の顔を見に行くと明らかに不思議そうな表情をとることがあります。
日常的に接していない人に対する「恐れ」を本能的に感じているとしか思えないのです。
しばらくいると思い出したかのように、普通の態度に戻るのですが、そのことは何を意味しているのでしょうか。
ヒトが自己と他者を区別することを、「自然の本能」として持っているのではないかと想像できます。
幼児はその後において、家族内でのヒトとの関係や保育園で他人と接触するようになると、それらの人々と関係を結ぶことを通して、「人間関係」を学習してゆくのだと思われます。

ここで、話を「仮装通貨問題」における「欲望と幻想」に戻ります。
わたくしはその時の話題として、この度の「仮装通貨問題」の根源には「欲望が持つ幻想性」にあるのではないかと述べました。

歴史的に見ても、ヒトの生存の最低条件である「食料の調達」に多く労力を費やさなくても良くなると、次には「富の蓄積」のための活動にいそしむようになっていったのです。
ここでイソップ物語にある「アリとキリギリス」の逸話を思い出してみましょう。
ヒトには「アリとしての性格とキリギリスとしての性格の両面性」が備わっていると、その逸話から学ぶことが出来ます。

「富の蓄積」を目指す事はヒトが持っていた自然的な本能のように思われますが、それは実は違っていると私には思えます。
「蓄積された富」を他者に顕示したい「欲望」がそれをさせているからと思われるのです。

それは、人が「社会(共同体と言っても良い)」を形造るようになってから持つようになった「個的な幻想が、複数のヒトの間での共同の幻想」に変容していった結果と思われるのです。
言葉を変えれば「ヒトから良く思われたい」という願望と所有欲が、それを支えているように思われるのです。

「ヒトが欲しがるから、自分も欲しくなる」事を制御しようと考える「倫理観」を全ての人々が持つには至っていない、と思われるのです。
これから先も、これらの問題は果てしなく起こるでしょう。ヒトが「富の蓄積」の欲望にとらわれているうちは。

















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