ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

多数決と少数者の立場

2018年03月16日 19時36分56秒 | 独り言
世間で何かを決めなければならない時に、評決を取ることがあります。
全員一致の意見の同意が得られない時に、それでは多数決で決めましょうなどという事があるかと思います。
それは何も政治の分野に限らず、町内会などの小規模な組織でも普通に起こり得ることです。

賛成意見の多い方を採用するというのが多数決の原理と私たちは思い、それが「民主主義」だと思っていますが、はたしてそれが民主的なのでしょうか。

私たちが「民衆主義」と言ってるのには、実は二つの意味が含まれていると思われます。
一つは「制度としての民主主義」であり、もう一つは生活一般に通底する「姿勢としての民主主義」です。

今の日本社会の政治制度は「立憲民主主義」と呼ばれる制度です。
国を統治する基底が憲法により保障されている政治制度です。
この制度では国の主権が国民にある事が宣言されているです。

この政治制度上の仕組みが、社会の隅々まで貫かれているのかは、実は別の問題です。
今、仮に次のような人を仮定してみましょう。
国民の権利である選挙権に従い、必ず投票には行くような人でも、地区の集まりや会社の中ではワンマンにふるまう人だっているかも知れません。
選挙の時には必ず投票に行くので、あの人は民主的な人だと言えるのでしょうか?

制度上では民主的姿勢を取りながら、地域社会や会社組織の中ではワンマンな人だって考えられるわけです。

今の日本社会では少数者の存在とその人たちの生活上の姿勢が多数者と同等に扱われているとは言えない事が多いのではないでしょうか。

このように見てくると、多い事や大きい事の方に「正義」があるだろうという考えは、何の根拠もない事が解るかと思います。
日中、一所懸命働いて夜にビールを飲みながら自宅のテレビでプロ野球の観戦をしたり、お笑い番組を見て腹を抱える人がいる一方、個人的な興味の為に夜遅くまで勉強をしている人だっているかも知れません。
テレビでプロ野球の観戦をする人の数の方が、机にかじりついて勉強する人の数より多いだろうけれども、その数の大小によって、それらの個人の行う事の価値の大小は決めることは出来ないはずです。

夜中までスナックでカラオケに興じる人より、夜中に小説を書いてやろうと思う人の数は多分、少ないと思いますが、そうかといってどっちが高い価値を持っているのかは、どんな尺度を使っても計量は出来ない事です。

少数者や少数意見が存在する事を認め、そのどちらにも同じ価値がある事を認めるのが民主的という事と思います。
民主主義は多数者と少数者が等価であることを認めなければ、成り立たないものだと思います。
人数の多いさによって、区別をすることや価値の高低を決めてはならないのです。

ここで不思議に思う事があります。
世の中では数の少ないものに多くの対価を支払う事が数多く見られます。
金やダイヤモンドの価格が高いのはその希少性のためであることはみんなが知っている事です。

ですから、社会の中での少数者や少数意見の方が希少性は高いはずなのに、そうはなってはいません。
ダイヤモンドや金の希少性を高く評価するのなら、少数者や少数意見の方に希少的価値の高さを認めても良さそうと思ったりもします。
物質の持つ希少性と社会の中での少数性はどうやら違っているようですね。





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