現在、ライブドアとフジ・サンケイ・グループとのニッポン放送の支配をめぐる争いがつづき、マスコミにも大きくとりあげられている。
このことについては、このgooブログでも、経済アナリストの森永卓郎さんが、「ライブドア問題を考える」(2005年03月09日)と「東京地裁」で、ライブドアを批判している。
この問題は、マスコミ的関心とは別に、日本社会のあり方を考えるうえでひじょうに重要な事件だと思える。そこで、今回は、ホリエモンが何を壊そうとし、日枝フジテレビ会長・亀渕ニッポン放送社長がなにを守ろうとしているかを考えてみたい。
もちろん、そのようなことを私だけで考えられるわけもないので、『「超」整理法』(中公新書、1993年)の著者として有名な野口悠紀雄さんの『1940年体制~さらば「戦時経済」』(東洋経済新報社、1995年)を引用したい。
ただ、断っておきたいのは、私は必ずしも野口さんの考えに全面的に同意しているわけではないことである。私は大学で経済学をほんの少しだが学んだことがある。そのときの先生は、ケインジアンの伊東光晴さんと、マルクス経済学者の南克巳さんであった。どちらも市場経済=資本主義経済を信頼していなかった。その影響のため、市場経済=資本主義経済にまかせるにはとても危険だと私は考えている(この点は森卓さんと同じ)。
しかし、それ以上に、「異常」に思えるのは、フジ・サンケイ・グループの手段を選ばない姿である。彼らは、ホリエモンを批判しながら、彼以上に手段を選んでいない。そこまで、彼らを必死にさせるには何なのか? それを考えてみたいのである。
2 総力戦遂行のための一九四○年体制
現在と戦時との連続性
以上では、やや断片的に戦時体制の残存を示した。問題は、これらの「残存物」の評価である。これらは、個別的、例外的なもので、経済の実態には大きな影響はないといえるであろうか?実は、以下に示すように、これらは、決して限界的なものとはいえない。それどころか、これらは、日本経済の基本的なメカニズム─いわゆる「日本型システム」―の本質に深くかかわっている。後に述べるように、この体制こそが高度成長の中核であり、その重要性の認識なくして高度成長の秘密は解明できない。それだけではない。現在の日本経済で改革をなしとげるために大きな障害となっているのも、この体制である。戦時体制の残存という事実は、きわめて根の深い問題なのである。
戦時経済体制に向けての諸政草は、一九四○年前後に集中してなされた。この時期は日本が太平洋戦争に突入する直前であり、総力戦を戦うためにさまざまな準備が必要だったのである。そこで、この時期に形成された経済体制を、「一九四○年体制」と呼ぶことが出来よう。それらが、現在に至るまで日本経済の基本的な仕組みを形作っている。これらについて、ここで簡単にまとめておこう。
日本型企業
第一は、「日本型」の企業構造である。日本の企業は、経済学の教科書にあるような株主のための利潤追求の組織というよりは、むしろ、従業員の共同利益のための組織になっている。これは、日本の文化的・社会的な特殊性に根差すものだと説明されることが多い。しかし、戦前期においては、日本でも経営者は会社の大株主であり、企業は株主の利益追求のための組織だったのである。
それが大きく変わったのは、戦時体制下である。一九三八年に「国家総動員法」が作られ、それに基づいて、配当が制限ざれ、また株主の権利が制約されて、従業員中心の組織に作り替えられた。これによって、従業員の共同体としての企業が形成されていった。
また、終身雇用制や年功序列賃全体系も、その原型は第一次大戦後にあったが、戦時期に賃金統制が行われたことによって、全国的な制度に拡大した。
労働組合も、日本では特殊な形態をとっている。先進諸国では、一般に産業別組合が典型的な労働組合組織となっているのに対し、日本では企業別労働組合がほとんどで、産業別組合という場合も、企業別組合を単位とする連合体組織である。この原型も、戦時経済期にそれまでの労働組合が解散され、労使双方が参加して組織された企業ごとの「産業報国会」に見いだすことができる。
また、日本の製造業の大きな特徴である下請制度も、軍需産業の増産のための緊急措置として導入された。
間接金融
第二は、金融システムである。一九三○年代ごろまでの日本の金融システムは、直接金融、とりわけ株式による資金調達がかなりの比重を占めていた。このようなシステムが、戦時期に間接金融へと改革された。これは、資源を軍需産業に傾斜配分させることを目的としたものである。
また、これは、企業の形態が株主中心のものから従業員中心のものに変貌したことと裏腹の関係をなしている。配当が制限されれば、当然株価は低下し、株式市場からの資金調達が困難になるからである。
間接金融の仕組みは、現在に至るまで、日本の金融システムの重要な特質である。
官僚体制
第三は、官僚体制である。官僚制度自体は明治以来の伝統をもつが、その性格は、戦時期に大きく変貌した。
それまでは官僚が民間の経済活動に直接介入することは少なかった。しかし、一九三○年代の中頃から、多くの業界に関して「事業法」が作られ、事業活動に対する介入が強まった。さらに、第二次近衛内閣の「新経済体制」の下で、より強い統制が求められるに至り、「重要産業団体令」をもとに「統制会」と呼ばれる業界団体がつくられた。これらが、官僚による経済統制の道具となった。また、営団、金庫など、今日の公社、公庫の前身も、この時代に作られた。
これらの業界団体、営団、金庫などは、形を変えながら現在も生き残り、また、分野によってはその数を増やし、経済活動に対する官僚統制、行政指導の道具として、あるいは官僚の天下り先として、重要な役割を果たしている。
さらに見逃すことが出来ないものとして、この当時の官僚の思想面での変化がある。これは、当時、革新官僚と呼ばれた官僚群の主張に典型的に見られるもので、企業は利潤を追求するのではなく、国家目的のために生産性をあげるべきだというものである。このため、企業の所有と経営の分離、古典的な所有権概念の修正などの主張がなされた。これは、現在に至るまで、官僚の意識に大きな影響を与えている。また、彼らは、政治家や財界に対する強い不信感をもっていた。こうした考えも、戦後の官僚の思考に大きな影響を残している。
(なお、政府の政策が戦後の経済成長にどの程度の役割を果たしたかは、疑問である。とくに産業政策の効果について、本書は、いわゆる「日本株式会社」的な見解には批判的な見解をとる。政府の基本的な役割は、経済成長をリードすることではなく、衰退産業の調整や、低生産性部門に補助を与えることであった)。
財政制度
第四は、財政制度である。戦前期の日本の税体系は、地租や営業税など、伝統的な産業分野に対する外形標準的な課税を中心とするものだった。また、地方財政はかなりの自主権を持っていた。
一九四○年の税制改革で、世界ではじめて給与所得の源泉徴収制度が導入された。所得税そのものは以前からあったが、これによって給与所得の完全な捕捉が可能になった。また、法人税が導入され、直接税中心の税制が確立された。さらに、税財源が中央集中化され、それを特定補助金として地方に配るという仕組みが確立された。
税収が給与所得課税に大きく依存し、また補助金によって地方財政が国のコントロール下にあるというのは、現在にいたるまで日本財政の基本的な性格である。
土地制度
この時期の経済改革には、いま一つの側面がある。それは、経済的・社会的弱者に対する保護制度が、社会政策的な観点から導入されたことである。
農業、農村対策がその典型である。現在にいたるまで農業政策方基本となっている「食糧管理法」は、一九四二年に制定された。これは、単なる食糧管理にとどまらず、江戸時代から続いた地主と小作人の関係を大きく変え、地主の地位を大きく低下させた。これによって、戦後の農地改革の準備がなされたのである。
また、四一年には、借地・借家人の権利を強化するための「借地法・借家法」の改正が行われ、契約期間が終了した後でも契約が解除しにくくなった。この背景には、家賃統制を実効的なものにすること、とりわけ、世帯主が戦地に応集したあとに残された留守家族が、借家から追い出されるのを防ぐという目的があった。
これらの制度の運用は戦後むしろ強化され、地主の権利は著しく弱められた。それは、単に土地制度の基本を規定し、さまざまな意味で戦後の日本の土地問題に大きな影響を与えたというだけではない。より深いレベルで、戦後日本社会の基本的な性格を規定したのである。第一に、地主がいない社会、大衆社会を作った。経済成長や産業化が迷うことなく社会全体の目的とされたのは、これによるところが大きい。第二に、大多数の世帯が不動産の所有者である状況を作り出し、政治的な保守性と現状維持指向の基本的条件を作った。戦後社会の基本的な性格付けは、戦時経済体制の中で準備されていたのである。
上でも、書いたが、私は必ずしも野口さんの考えに全面的に同意しているわけではない。野口さんが批判する「1940年体制」は、世界史的に見れば「1930年体制」と言った方がよく、アメリカのニューディール政策と同じ「修正資本主義」の一種である。全面的に市場にまかせてきた経済が、1929年に発生した「世界恐慌」で崩壊し、それを建て直すために、国家が経済に干渉するようになったのである。そういう点では、歴史的必然として出現したことを認めなければならないだろう。
また、「1940年体制」以前の日本の社会もけっして住みやすい社会ではなかった。日本の戦前の農村は、地主が土地の半分を所有しており、農民の半分は小作人として地主の土地を借り、地主に高い地代を払っていた。現在の共産党につながる「講座派」は、このような農村の姿から、日本の農村はまだ封建制の中にあると考えた。そして日本の資本主義はこのような農村を基盤に発展してきたと考えた。
山田盛太郎の『日本資本主義分析』によると、日本の労働者の多くは、『女工哀史』に出てくるような農村出身の女性たち、あるいは農家の二・三男であった。彼らは都市で家庭を持たなかった(持てなかった)ので、家族の維持のため支払われる賃金を必要としなかった。そのためひどく安い賃金(山田はこれを「インド以下的低賃金」といっている)で働かすことができた。こうして日本の資本主義は、本来労働者の家族のために払わなければならない分を払わずに、蓄積することができたので、急速に発展することができた。
一方、農村はどうかというと、地主は小作人から非常に高い小作料を得ていたが、それを可能にしたのが都市から送られてくる労働者たちの送金であった。彼らはもともと安い賃金のうちからそのいくらかを実家に送金していたのである。
このようにして日本では、農村における高い小作料と、都市における安い賃金が、互いに補填し合っていた、と「講座派」は考えたのである。
1991年にソ連が崩壊した後、ロシアではツァーリズム(皇帝の支配)やロシア正教会への見直しが進んでいる。ツァーリズムやロシア正教会よりも、共産党支配のほうがよほどマシだと思っている私から言わせれば、バカじゃないかと思うのだが、どうもロシア人は、ついこの間まで自分たちを支配していた共産主義の方が、はるか昔のツァーリズムやロシア正教会より、憎いのである。
野口さんの主張には、「1940年体制」をきらうあまり、それ以前のろくでもない半封建主義的資本主義を持ちあげすぎているように思える。
それでもだ。ホリエモンに何かを期待してしまうのは、1940年代に成立して高度経済成長を支えてきたシステムが崩壊し、新しいシステムがまだできあがっていない、つまり行く方向がわからない日本社会にとって、彼が何らかの指針を与えてくれるのではないかと思ってしまうからなのである。彼の指し示す方向が「崖っぷち」かもしれないのに…。
このことについては、このgooブログでも、経済アナリストの森永卓郎さんが、「ライブドア問題を考える」(2005年03月09日)と「東京地裁」で、ライブドアを批判している。
この問題は、マスコミ的関心とは別に、日本社会のあり方を考えるうえでひじょうに重要な事件だと思える。そこで、今回は、ホリエモンが何を壊そうとし、日枝フジテレビ会長・亀渕ニッポン放送社長がなにを守ろうとしているかを考えてみたい。
もちろん、そのようなことを私だけで考えられるわけもないので、『「超」整理法』(中公新書、1993年)の著者として有名な野口悠紀雄さんの『1940年体制~さらば「戦時経済」』(東洋経済新報社、1995年)を引用したい。
ただ、断っておきたいのは、私は必ずしも野口さんの考えに全面的に同意しているわけではないことである。私は大学で経済学をほんの少しだが学んだことがある。そのときの先生は、ケインジアンの伊東光晴さんと、マルクス経済学者の南克巳さんであった。どちらも市場経済=資本主義経済を信頼していなかった。その影響のため、市場経済=資本主義経済にまかせるにはとても危険だと私は考えている(この点は森卓さんと同じ)。
しかし、それ以上に、「異常」に思えるのは、フジ・サンケイ・グループの手段を選ばない姿である。彼らは、ホリエモンを批判しながら、彼以上に手段を選んでいない。そこまで、彼らを必死にさせるには何なのか? それを考えてみたいのである。
2 総力戦遂行のための一九四○年体制
現在と戦時との連続性
以上では、やや断片的に戦時体制の残存を示した。問題は、これらの「残存物」の評価である。これらは、個別的、例外的なもので、経済の実態には大きな影響はないといえるであろうか?実は、以下に示すように、これらは、決して限界的なものとはいえない。それどころか、これらは、日本経済の基本的なメカニズム─いわゆる「日本型システム」―の本質に深くかかわっている。後に述べるように、この体制こそが高度成長の中核であり、その重要性の認識なくして高度成長の秘密は解明できない。それだけではない。現在の日本経済で改革をなしとげるために大きな障害となっているのも、この体制である。戦時体制の残存という事実は、きわめて根の深い問題なのである。
戦時経済体制に向けての諸政草は、一九四○年前後に集中してなされた。この時期は日本が太平洋戦争に突入する直前であり、総力戦を戦うためにさまざまな準備が必要だったのである。そこで、この時期に形成された経済体制を、「一九四○年体制」と呼ぶことが出来よう。それらが、現在に至るまで日本経済の基本的な仕組みを形作っている。これらについて、ここで簡単にまとめておこう。
日本型企業
第一は、「日本型」の企業構造である。日本の企業は、経済学の教科書にあるような株主のための利潤追求の組織というよりは、むしろ、従業員の共同利益のための組織になっている。これは、日本の文化的・社会的な特殊性に根差すものだと説明されることが多い。しかし、戦前期においては、日本でも経営者は会社の大株主であり、企業は株主の利益追求のための組織だったのである。
それが大きく変わったのは、戦時体制下である。一九三八年に「国家総動員法」が作られ、それに基づいて、配当が制限ざれ、また株主の権利が制約されて、従業員中心の組織に作り替えられた。これによって、従業員の共同体としての企業が形成されていった。
また、終身雇用制や年功序列賃全体系も、その原型は第一次大戦後にあったが、戦時期に賃金統制が行われたことによって、全国的な制度に拡大した。
労働組合も、日本では特殊な形態をとっている。先進諸国では、一般に産業別組合が典型的な労働組合組織となっているのに対し、日本では企業別労働組合がほとんどで、産業別組合という場合も、企業別組合を単位とする連合体組織である。この原型も、戦時経済期にそれまでの労働組合が解散され、労使双方が参加して組織された企業ごとの「産業報国会」に見いだすことができる。
また、日本の製造業の大きな特徴である下請制度も、軍需産業の増産のための緊急措置として導入された。
間接金融
第二は、金融システムである。一九三○年代ごろまでの日本の金融システムは、直接金融、とりわけ株式による資金調達がかなりの比重を占めていた。このようなシステムが、戦時期に間接金融へと改革された。これは、資源を軍需産業に傾斜配分させることを目的としたものである。
また、これは、企業の形態が株主中心のものから従業員中心のものに変貌したことと裏腹の関係をなしている。配当が制限されれば、当然株価は低下し、株式市場からの資金調達が困難になるからである。
間接金融の仕組みは、現在に至るまで、日本の金融システムの重要な特質である。
官僚体制
第三は、官僚体制である。官僚制度自体は明治以来の伝統をもつが、その性格は、戦時期に大きく変貌した。
それまでは官僚が民間の経済活動に直接介入することは少なかった。しかし、一九三○年代の中頃から、多くの業界に関して「事業法」が作られ、事業活動に対する介入が強まった。さらに、第二次近衛内閣の「新経済体制」の下で、より強い統制が求められるに至り、「重要産業団体令」をもとに「統制会」と呼ばれる業界団体がつくられた。これらが、官僚による経済統制の道具となった。また、営団、金庫など、今日の公社、公庫の前身も、この時代に作られた。
これらの業界団体、営団、金庫などは、形を変えながら現在も生き残り、また、分野によってはその数を増やし、経済活動に対する官僚統制、行政指導の道具として、あるいは官僚の天下り先として、重要な役割を果たしている。
さらに見逃すことが出来ないものとして、この当時の官僚の思想面での変化がある。これは、当時、革新官僚と呼ばれた官僚群の主張に典型的に見られるもので、企業は利潤を追求するのではなく、国家目的のために生産性をあげるべきだというものである。このため、企業の所有と経営の分離、古典的な所有権概念の修正などの主張がなされた。これは、現在に至るまで、官僚の意識に大きな影響を与えている。また、彼らは、政治家や財界に対する強い不信感をもっていた。こうした考えも、戦後の官僚の思考に大きな影響を残している。
(なお、政府の政策が戦後の経済成長にどの程度の役割を果たしたかは、疑問である。とくに産業政策の効果について、本書は、いわゆる「日本株式会社」的な見解には批判的な見解をとる。政府の基本的な役割は、経済成長をリードすることではなく、衰退産業の調整や、低生産性部門に補助を与えることであった)。
財政制度
第四は、財政制度である。戦前期の日本の税体系は、地租や営業税など、伝統的な産業分野に対する外形標準的な課税を中心とするものだった。また、地方財政はかなりの自主権を持っていた。
一九四○年の税制改革で、世界ではじめて給与所得の源泉徴収制度が導入された。所得税そのものは以前からあったが、これによって給与所得の完全な捕捉が可能になった。また、法人税が導入され、直接税中心の税制が確立された。さらに、税財源が中央集中化され、それを特定補助金として地方に配るという仕組みが確立された。
税収が給与所得課税に大きく依存し、また補助金によって地方財政が国のコントロール下にあるというのは、現在にいたるまで日本財政の基本的な性格である。
土地制度
この時期の経済改革には、いま一つの側面がある。それは、経済的・社会的弱者に対する保護制度が、社会政策的な観点から導入されたことである。
農業、農村対策がその典型である。現在にいたるまで農業政策方基本となっている「食糧管理法」は、一九四二年に制定された。これは、単なる食糧管理にとどまらず、江戸時代から続いた地主と小作人の関係を大きく変え、地主の地位を大きく低下させた。これによって、戦後の農地改革の準備がなされたのである。
また、四一年には、借地・借家人の権利を強化するための「借地法・借家法」の改正が行われ、契約期間が終了した後でも契約が解除しにくくなった。この背景には、家賃統制を実効的なものにすること、とりわけ、世帯主が戦地に応集したあとに残された留守家族が、借家から追い出されるのを防ぐという目的があった。
これらの制度の運用は戦後むしろ強化され、地主の権利は著しく弱められた。それは、単に土地制度の基本を規定し、さまざまな意味で戦後の日本の土地問題に大きな影響を与えたというだけではない。より深いレベルで、戦後日本社会の基本的な性格を規定したのである。第一に、地主がいない社会、大衆社会を作った。経済成長や産業化が迷うことなく社会全体の目的とされたのは、これによるところが大きい。第二に、大多数の世帯が不動産の所有者である状況を作り出し、政治的な保守性と現状維持指向の基本的条件を作った。戦後社会の基本的な性格付けは、戦時経済体制の中で準備されていたのである。
野口悠紀雄、前掲書、6~12ページ。
上でも、書いたが、私は必ずしも野口さんの考えに全面的に同意しているわけではない。野口さんが批判する「1940年体制」は、世界史的に見れば「1930年体制」と言った方がよく、アメリカのニューディール政策と同じ「修正資本主義」の一種である。全面的に市場にまかせてきた経済が、1929年に発生した「世界恐慌」で崩壊し、それを建て直すために、国家が経済に干渉するようになったのである。そういう点では、歴史的必然として出現したことを認めなければならないだろう。
また、「1940年体制」以前の日本の社会もけっして住みやすい社会ではなかった。日本の戦前の農村は、地主が土地の半分を所有しており、農民の半分は小作人として地主の土地を借り、地主に高い地代を払っていた。現在の共産党につながる「講座派」は、このような農村の姿から、日本の農村はまだ封建制の中にあると考えた。そして日本の資本主義はこのような農村を基盤に発展してきたと考えた。
山田盛太郎の『日本資本主義分析』によると、日本の労働者の多くは、『女工哀史』に出てくるような農村出身の女性たち、あるいは農家の二・三男であった。彼らは都市で家庭を持たなかった(持てなかった)ので、家族の維持のため支払われる賃金を必要としなかった。そのためひどく安い賃金(山田はこれを「インド以下的低賃金」といっている)で働かすことができた。こうして日本の資本主義は、本来労働者の家族のために払わなければならない分を払わずに、蓄積することができたので、急速に発展することができた。
一方、農村はどうかというと、地主は小作人から非常に高い小作料を得ていたが、それを可能にしたのが都市から送られてくる労働者たちの送金であった。彼らはもともと安い賃金のうちからそのいくらかを実家に送金していたのである。
このようにして日本では、農村における高い小作料と、都市における安い賃金が、互いに補填し合っていた、と「講座派」は考えたのである。
1991年にソ連が崩壊した後、ロシアではツァーリズム(皇帝の支配)やロシア正教会への見直しが進んでいる。ツァーリズムやロシア正教会よりも、共産党支配のほうがよほどマシだと思っている私から言わせれば、バカじゃないかと思うのだが、どうもロシア人は、ついこの間まで自分たちを支配していた共産主義の方が、はるか昔のツァーリズムやロシア正教会より、憎いのである。
野口さんの主張には、「1940年体制」をきらうあまり、それ以前のろくでもない半封建主義的資本主義を持ちあげすぎているように思える。
それでもだ。ホリエモンに何かを期待してしまうのは、1940年代に成立して高度経済成長を支えてきたシステムが崩壊し、新しいシステムがまだできあがっていない、つまり行く方向がわからない日本社会にとって、彼が何らかの指針を与えてくれるのではないかと思ってしまうからなのである。彼の指し示す方向が「崖っぷち」かもしれないのに…。
北のあの人は現人神の様に振舞ってる様に見えるのは...
東アジア以外では、宗教=倫理ですから、無神論者は倫理観がないとみなされます。ヨーロッパで無神論者だというと、共産主義者か?と聞かれるそうです。
>北のあの人は現人神の様に振舞ってる様に見えるのは...
あの国は、はたして共産主義なのか???
むかし冗談で「金氏朝鮮」って言ってましたが。。。
旭に訊け