王子のきつね on Line

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渡良瀬橋から撮った写真

2005年07月24日 21時42分15秒 | 
気づいたんだけど、この2枚、同じ場所から撮った写真でした。


よく見てみると、山の形や川の流れている位置なんかが、まったく同じです。今日はこんなことばかりしているな。w

唐沢山城址~栃木県安蘇郡田沼町~

2005年06月01日 19時17分00秒 | 
唐沢山城址に行ったのは、2000年6月1日と2001年9月20日です。最初に行ったときは、一眼レフのオートフォーカス機能を停止したまま、撮影してしまい、写真がピンボケになってしまいました。おまけに、突然の雷雨に襲われ(山上の雷雨はめちゃくちゃ怖い)、1時間以上、雨宿りするはめになりました。2度目のときは、デジカメの電池がなくなり、どこにも電池が売っていなかったので、写真が2枚しか撮れませんでした。(泣)

 唐沢山城は、栃木県安蘇郡田沼町にある山城で、藤原秀郷の子孫・佐野氏の居城でした。佐野盛綱は、古河公方足利政氏に仕え、この城を東国一の山城にしました。佐野氏は、古河公方、のちに上杉謙信に仕え、1559年には北条氏政が率いる3万5000の兵に包囲されましたが、落城しませんでした。その後、謙信と不和になり、1576年には上杉勢に包囲されましたが、やはり落城しませんでした。1577年、再び北条氏に包囲されましたが、こんども落城しませんでした。1582年、北条氏は、当主の戦死に乗じて、ようやく唐沢山城を手に入れました。佐野氏は、豊臣秀吉に仕え、1590年の小田原攻めに加わり、城をとりもどしました。関ヶ原合戦後の1602年、徳川氏の命令で佐野氏は居城を佐野城(栃木県佐野市)に移し、唐沢山城は廃城となりました。

「唐沢山城縄張図」(クリックすると地図が開きます)

唐沢山遠景

(2001年9月20日撮影)

枡形(ますがた)

(2001年9月20日撮影)

天狗岩

(2000年6月1日撮影)

太鼓岩

三重の太鼓櫓が建てられていたといわれる。
(2000年6月1日撮影)

鏡岩

敵兵がまぶしくて攻められなかったという伝説がある。
(2000年6月1日撮影)

豊島氏関連の遺跡~東京都北区~

2005年04月12日 20時06分00秒 | 
東京都北区の豊島氏関連の場所を紹介します。
 豊島氏は、桓武平氏秩父氏の一族で、源氏にしたがって「前九年・後三年の役」に参加し、源頼朝の旗上げにも加わりました。鎌倉時代は御家人として幕府に使え、南北朝時代は「平一揆」の一員として東国で活躍しました。15世紀に太田道灌によって滅ぼされるまで、豊島郡(東京23区北西部)に勢力を維持していました。


清光寺
 真言宗豊山派の寺で、源頼朝の旗上げに加わった豊島清元の居館跡とされるところである。「清光」は清元を誤記したもの、あるいは清元の法名であったと考えられている。この場所が入間川(現在は隅田川)にあまりに近いため、「開発領主」の居館としてはふさわしくないとみなされてきた。しかし、社会史などの研究によって、水運や交通にかかわる武士団が存在することが明らかになったため、豊島氏がこの場所に居館を置いてもおかしくない、と現在では考えられている。

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本堂

(2005年4月10日撮影)


観音堂

かつては紀州神社のとなりにあった。
山門の左側に移築されたが、現在は存在しない。(1978年撮影)


豊島清光坐像

峰岸純夫、小林一岳、黒田基樹・著
『豊島氏とその時代~東京の中世を考える』
(新人物往来社、1998年)より



紀州明神社
 旧豊島村の鎮守。元亨年間(1321-23)に豊島氏が紀伊名草郡五十太祁の神社を勧請した。

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紀州明神社

(2005年4月10日撮影)



平塚神社
 平塚城址と考えられている。元永年間(1118-20)に豊島近義が館跡に源義家の甲冑を埋め、影像を祀ったとされる。豊島清元の弟に平塚入道がおり、その館跡とも考えられる。

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平塚神社

(2005年4月10日撮影)


甲冑塚

豊島近義が源義家の甲冑埋めたとされる塚。
2本並んだ柱の間の石碑だけど、わかるかな?(2005年4月10日撮影)


蝉坂

太田道灌がこの坂から平塚城を攻めたため、こう呼ばれるようになった。
(2005年4月10日撮影)



福性寺
 真言宗豊山派の寺で、梶原塚がある。
 高校生のとき、武藤与四郎・著『北区誌』(新人物往来社、1975年)に、「豊島清光(ただしくは清元)の長子・清康が乗馬練習中に荒川(ただしくは入間川)に落ち溺死したのを、清光が悲しんで建立した塔が北区堀船の福性寺にある」とあったのでここを尋ねた。ところが、住職に「あの本には困っている」と言われ、北区の「としょかんだより」をもらった。それによると、ここはかつて太田三楽斎資正の子・梶原源太政景の所領で、その関連で梶原塚があるとのことだった。この一件で、本に書いてあることがすべて正しいのではないことを実感した。
 ちなみに、梶原源太政景は、父とともに上杉謙信に仕えて北条氏と戦い、のちに佐竹氏に仕え、最後は結城秀康に仕えた武将である。『寄生獣』で有名なマンガ家・岩明均の『雪の峠・剣の舞』(講談社、2001年)の「雪の峠」に出てきた主人公よりカコイイじいさんと言えばわかるかな?

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梶原塚

(2005年4月10日撮影)



西ヶ原一里塚
 豊島氏とはぜんぜん関係ないが、日光御成道の2つ目の一里塚(1つ目は本郷追分)。日光御成道は、将軍の日光東照宮への社参の専用道路で、本郷追分―岩淵宿―川口宿―鳩ヶ谷宿―大門宿―岩槻宿と進み、幸手宿で日光街道と合流した。

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西ヶ原一里塚

(2005年4月10日撮影)

足立姫伝説~東京都足立区~

2005年04月11日 23時59分59秒 | 
東京の足立区には、「足立姫」の伝説があり、その墓もあります。ここでは、その伝説と、ゆかりの場所を紹介します。

 聖武天皇の時代、武蔵国足立郡に足立長者がいました。足立長者は、多くの富を持ち、風雅にも通じていましたが、子供ができませんでした。長者は妻とともに、子を授かりたいと、熊野権現に参詣しました。すると、夢に熊野権現が現れ、願いをかなえようと言いいました。喜んだ長者が足立の館に戻ると、妻が身ごもり、女の子が生まれました。その子は「足立姫」と名づけられ、大事に育てられました。
 姫が十七歳になったとき、隣の豊島郡の豊島左衛門清光が、姫を自分の妻にしたいと申し出ました。姫は、両家が反目することを悲しみ、やむなく嫁ぎました。ところが、清光の母が姫に辛くあたったので、姫は心楽しまぬ日々を送っていました。ようやく里帰りの許しが出て、姫は五人の侍女と里帰りしました。沼田川のほとりに来たとき、姫は突然入水してしまい、侍女たちもつぎつぎと入水しました。侍女たちの遺骸は見つかりましたが、姫の遺骸は見つかりませんでした。
 長者は、娘と侍女たちの霊を弔うため、回国修行の旅に出ました。長者が熊野本宮に参って祈りを捧げると、「私が子どもを授けたのは、そなたを仏の道に導くためであった。今後は新たに仏像をつくり、広く衆生を済度せよ。そなたに仏像のため光明木を与えよう。近いうちに行基という行脚僧が、そなたの家に立ち寄る。その僧に請うて六体の阿弥陀仏を刻んでもらうが良い」とお告げがありました。長者は、夢から覚めると、山中を探し、霊木を見つけました。長者は、切らせて姓名を書き記し、故郷へ流れ着けと願い、川に流しました。
 長者が故郷に帰ると、霊木は沼田の入り江に流れ着いていました。長者が行基を待っていると、行基が現れました。長者は行基にこれまでのいきさつを話すと、行基も自分の夢と一致すると、七日七夜の行で阿弥陀如来を念じると、阿弥陀仏が姿を現わしました。行基は合掌して、一夜のうちに一本の木から六体の阿弥陀仏を刻み上げました。長者は、六ヶ所に寺を建立し、六体の阿弥陀仏を安置しました。六ヶ寺の名称は、西福寺(北区豊島)、延命寺(荒川区小台にあった。現在は足立区江北の恵明寺)、無量寺(北区西ヶ原)、与楽寺(北区田端)、常楽院(台東区下谷。現在は調布市つつじが丘)、常光寺(江東区亀戸)と名づけられました。


性翁寺
 浄土宗の寺で、神亀3(726)年、行基が庵を開いたのがはじまりで、足立荘司宮城宰相が開基、明応元(1492)年には正誉龍呑上人を開山となったという。慶安元(1648)年には徳川家光から10石の地を寺領として与えられた。本尊の阿弥陀如来像は、平安時代のもので東京都指定文化財であり、足立姫と侍女の死を悼んだ父の足立荘司のために行基が霊木から六体の阿弥陀仏を刻み、さらに余った木からつくられたという伝説を持ち、「木余り如来」と呼ばれ、江戸時代から庶民の参詣が絶えなかった。

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足立姫の墓

(2005年4月10日撮影)



恵明寺
 真言宗の寺で、江戸六阿弥陀二番の札所として古くは小台の延命寺にあった。明治9(1877)年の合併の際、移された。この寺に伝わる六阿弥陀縁起、足立姫の伝説は広く知られており、人々の信仰を集めていた。境内には赤子を抱く子育て地蔵の座像が安置されており、その他に享保の百萬遍講中の塔や、文化6(1810)年武州足立郡沼田村と刻まれた宝きょう印塔もある。

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恵明寺

(2005年4月10日撮影)



宮城氷川神社
 豊島氏の一族・宮城氏の館の跡とされている。

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宮城氷川神社

(2005年4月10日撮影)



舩方神社
 ふるくは十二社といった。六阿弥陀仏の話では5人の侍女とあるが、十二天塚の縁起では、足立郡の庄司宮城宰相の娘・足立姫の12人の侍女が姫の後を追って入水したとなっている。

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舩方神社

(2001年7月1日撮影)


十二天塚

(2001年7月1日撮影)





 足立区の「足立姫」の伝説に対して、北区にはつぎのような伝説があります。登場人物を入れ替えただけの同じ構造の話です。王子町・編『王子町誌』(歴史図書社、1979年復刻)によりました。

 聖武天皇の時代、武蔵国豊島郡に庄司左衛門清光がいました。清光は、武勇に優れていましたが、熊野権現を深く信仰していました。すると、夢に熊野権現が現れ、自分をこの地に勧請しろと言いました。清光は、熊野権現を勧請し、王子権現としました。清光には子供がいなかったので、子を授かりたいと王子権現に参詣しました。すると、妻が身ごもり、女の子が生まれました。
 姫が15歳になったとき、隣の足立郡の沼田治部少輔が、姫を自分の妻にしたいと申し出ました。ところが、婚儀の儀式に欠いたことがあったので、沼田一族にあざけられてしまいました。これを恥じた姫は沼田川に入水してしまい、侍女5人も後を追いました。
 清光は、娘と侍女たちの霊を弔うため、回国修行の旅に出ました。清光が熊野に参って祈りを捧げると、「娘と侍女たちの霊を弔うため、新たに仏像をつくれ。そのため光明木を与えよう」とお告げがありました。清光が見ると、光明木が海に浮かんでいました。
 清光が故郷に帰ると、光明木が沼田川の淵に流れ着いていました。そのころ、行基は遊行の旅をしていましたが、光明木の話を聞き、訪ねてきました。行基はその木から六阿弥陀仏を刻み、清光に授けました。清光は、六ヶ所に寺を建立し、六体の阿弥陀仏を安置しました。

石神井城址・三宝寺池・三宝寺・氷川神社。(おまけ豊島園)

2005年04月09日 16時44分44秒 | 
 東京都練馬区の石神井公園にある石神井城址と三宝寺池、その南部にある三宝寺と氷川神社の写真です。いずれも、中世に東京都23区の北西部を支配した豊島氏に関係する場所です。


石神井城址
 石神井城址は、武蔵国豊島郡(東京都23区の北西部)を支配し、1477(文明9)年の「長尾春景の乱」で太田道灌に滅ぼされた、豊島氏の城趾です。石神井公園内の三宝寺池の南に位置し、主郭の土塁と空堀が残されています。

石神井城址図

北側に三宝寺池がある。


主郭

西側(氷川神社側)から見た主郭の土塁。(2005年4月8日撮影)


主郭の空堀

北側から見た主郭の空堀。(2005年4月8日撮影)


石神井城址の碑

石神井城址の北側(三宝寺池側)にある。(2001年6月14日撮影)



三宝寺
 不動明王を本尊とする真言宗智山派の寺で、1394(応永元)年に権大僧都幸尊が開山したと伝えられる。石神井城落城後、東方約500mから現在の地に移った。


(2001年6月14日撮影)



氷川神社
 応永年間(1394-1428)に豊島氏が、武蔵一ノ宮の分霊を奉斎して、石神井城内に創建したと伝えられる。石神井城落城後は、石神井郷(上石神井、下石神井、谷原、田中、関の5か村)の総鎮守として崇敬された。


(2001年6月14日撮影)


石灯籠

1699(元禄12)年、豊島氏の子孫である豊島泰盈(やすみつ)・泰音(やすたか)によって奉納された。(2001年6月14日撮影)



道場寺
 豊島氏の菩提寺であり、本堂には等身大の聖観世音菩薩と薬師如来が祀られている。三宝寺の東隣に位置し、豊島氏の墓がある。

豊島氏の墓

(1978年撮影)



三宝寺池
 三宝寺池は、石神井城址の北にある湧水池で、石神井川の水源地のひとつである。石神井城落城の際、金の鞍の馬に乗った豊島泰経(ただしくは勘解由左右衛門尉)が入水し、娘の照姫も後を追って入水したという伝説がある(実際には豊島勘解由左右衛門尉は小机城に逃亡した)。

三宝寺池

石神井城址のすぐ北側から西を見た。(2005年4月8日撮影)


三宝寺池

池の北側から南を見た。(2005年4月8日撮影)


殿塚

三宝寺池の北側にある塚で、豊島泰経を祭ったとされる。(2005年4月8日撮影)


姫塚

殿塚の西にある塚で、泰経の娘・照姫を祭ったとされる。(2005年4月8日撮影)


厳島神社

池の南側にあり、広島の厳島神社から分霊した。(2005年4月8日撮影)


水神社

厳島神社の東にある。(2005年4月8日撮影)


かも

(2005年4月8日撮影)


テディベア?

トイプードルでした。車椅子の男性が連れていた。(2005年4月8日撮影)


巨大ねこ

子どもに触られて迷惑だな~ぉ。(2005年4月8日撮影)



練馬城址(豊島園)~おまけ~
 堤義明会長が逮捕されて話題になった西武グループが経営する豊島園(社長は実弟だった)は、豊島氏の城のひとつであった練馬城址につくられた。

練馬城址地図

石神井川の南側にある舌状大地の先端につくられた方形の城だった。


豊島園南側の坂

上の地図の東側の谷。西側の谷はあまり深くない。(2005年4月8日撮影)

六義園にしだれ桜を見に行きました。

2005年04月06日 19時59分03秒 | 
 六義園(りくぎえん)は、1702(元禄15)年に完成した回遊式庭園で、東京都文京区本駒込にあります。5代将軍・徳川綱吉に仕えた柳沢吉保が、和歌(古今集序)にちなむ名所を盛込んだ別邸を造らせ、園名を六義園、邸館を六義館と命名しました。綱吉や生母・桂昌院が訪問し、園遊の宴が持たれました。1953(昭和28)年に国の特別名勝に指定されました。
 昨夜、妹が、六義園でしだれ桜のライトアップをしているから、行きたいと言い出しました。ネットで調べたら、4月3日に終わっていたので、今日、行ってみました。平日なのに人、人、人で入るまでに15分くらい待たされました。

 ・ここをクリックすると今日もらった六義園の案内図が開きます。

内庭大門

管理所で300円払って入り、左に行くと、この門があります。


しだれ桜

内庭大門を入るとすぐ、しだれ桜があります。
これがライトアップされていました。
他の桜はまだまだで、この桜だけ満開でした。


宜春亭

しだれ桜の南にあります。
料金を払うと、集会施設として利用できます。


宜春亭の裏にある石灯籠


心泉亭

宜春亭の南にあります。
ここも、料金を払うと、集会施設として利用できます。


蓬莱島

よく見ると、カメがいっぱいいます。


コブシ

花が満開だったのは、しだれ桜とこのコブシだけでした。


水分石

六義園のいちばん南にあります。


滝見茶屋近くから見た千鳥橋


吹上茶屋

池のすぐ近くにある茶屋です。


吹上茶屋前のソメイヨシノの下に咲くすみれ

ソメイヨシノはぜんぜん咲いていませんでした。


つつじ茶屋

明治時代につつじの古材をつかって建てられました。


藤浪橋

池に浮かぶ島にこれで渡ります。


藤代峠から見た中の島

六義園でいちばん高い場所から中の島方面を見ました。


田鶴橋前の石灯籠

中の島に渡る橋の前にあります。
中の島へは渡れません。

「王子のきつね」の王子ってこんなとこ~東京都北区王子~

2004年12月18日 01時55分14秒 | 
 今回は地元の北区王子を紹介します。地元の紹介なら、「旅」のカテゴリはヘンではないかと言われそうです。じつは、「王子のきつね」を名乗っていますが、住んでいるのは隣街です。だから、15~20分くらい歩かないと、王子には行けません。w


装束榎神社


 この辺り一帯は昔は一面の田畑で、とても寂しい場所でした。その中に榎があり、装束榎と呼ばれていました。大晦日になると関東一円のキツネが榎のもとに集まり装束を整え、近くの王子稲荷神社へ初詣をしたという伝説があり、安藤広重の浮世絵(いちばん最初の写真)にも描かれています。そのときの狐火の数で、翌年の作物の豊凶がわかったとも。
ここをクリックすると、地図が開きます。

きつねの仲間がお出迎え


 

御神木の榎



王子稲荷


 関東稲荷総社の格式を持ち、江戸時代より庶民に親しまれてきました。大晦日、稲荷の使いであるキツネが、近くの榎の下で身なりを整え、この神社に初詣をするという言い伝えがあります。
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門から石段までは、いなり保育園の庭になっている。石段を登ると、拝殿がある。

御石様

願いごとを念じつつ持つ意思の軽重により御神慮が伺えるというのだが。。。

キツネの穴

オイラの家。w 古墳だという説もある。


名主の滝公園


 名主の滝は、王子村の名主畑野家が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培して、一般に人々が利用できる避暑のための施設としたことにはじまるもので、名称もそれに由来しています。この時期はさだかではありませんが、嘉永3(1850)年の安藤広重による「絵本江戸土産」に描かれた「女滝男滝」が名主の滝にあたると思われますので、それ以前のことと考えられます。
 明治の中頃、畑野家から貿易商である垣内徳三郎の所有となり、氏は好んでいた塩原(栃木県)の景に模して庭石を入れ、楓を植え、渓流をつくり、奥深い谷のある趣のある庭園として一般の利用に供しました。
 現在は区立公園となっています。
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①門


②池


③滝


④もみじ


⑤女滝


⑥滝


⑦独鈷の滝


⑧男滝



王子神社


 王子神社は中世に熊野信仰の拠点となった神社です。王子村は古くは岸村といいましたが、紀州熊野三所若一王子が勧請され、王子村と改められました。非常に高い格式を持つ神社で、最盛期には飛鳥山も支配地としていました。
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醸造試験所跡地公園


 醸造試験所は、1904(明治37)年、古くからの技術に頼っていた当時の酒造方法を改良発展させるため、東京都北区滝野川に設置されました。1959(昭和34)年に国税庁の直属研究機関となり、酒類の醸造技術を科学的に研究してきました。1995(平成7)年に東広島市に移転し、跡地公園と東京事務所が残されました。2001(平成13)年に独立行政法人・酒類総合研究所となりました。

ここをクリックすると、地図が開きます。
●独立行政法人・酒類総合研究所のサイトはここ

独立行政法人・酒類総合研究所 東京事務所



レンガ造りの建物

谷中村遺跡~栃木県下都賀郡藤岡町~

2004年12月06日 20時55分41秒 | 
 渡良瀬遊水地は、栃木・茨城・埼玉・群馬の4県にわたる広大な遊水地です。ここにある渡良瀬第一貯水池(谷中湖)の北側に残されているのが、谷中村遺跡です。この村は、足尾鉱毒事件で、消滅した村です。
 渡良瀬川の対岸に母の実家があり、子どものころ、土手から見える広大な「すげ原」の向こうに何があるか、ずっと疑問に思っていました。ここが足尾鉱毒事件で消滅した谷中村であることを知ったのは中学生のころ、そして、足尾銅山に行ったのは大学3年生のとき、しかし、ここに実際に行ったのは2001年11月1日のことでした。
足尾銅山鉱毒事件
 足尾銅山からたれ流された鉱毒が渡良瀬川沿岸の農地等を汚染した事件。田中正造を指導者とする被害農民は政府に鉱業の停止を求めて東京への大挙「押出し」(請願運動)を図るなど、強力な反対運動を展開した。日本の「公害の原点」と称される。社会問題化したのは産業資本の生成発展期にあたる1890年頃から1907年頃までの間で、政府による鉱毒問題の治水問題への転換、谷中村の強制破壊によって歴史的には抹殺された。だが被害はその後も続き、今なお足尾には禿山、下流には広大な遊水池を残している。
『岩波 日本史辞典 CD-ROM版』(2000年)より


谷中村役場跡周辺図


「遺跡谷中村」の説明


谷中村役場跡


役場近くにあった家の屋敷稲荷


すげ原をつらぬく未舗装路


すげ(菅)

 渡良瀬川の対岸では「かや」と呼んで、屋根を葺いていた。

延命橋跡

 川はなく、欄干のみ再建。

雷電神社跡


「雷電神社」の説明


看板に残された洪水の水位
 

延命院跡


「延命院」の説明


延命院に残された墓







 誰かが手向けた菊の花と、風に揺れる秋桜(コスモス)。



すげ原と木立

 聴こえるのは、すげを揺らす風の音だけ。

足尾銅山~栃木県上都賀郡足尾町~

「世界に伸びる足尾精錬」

1985年3月撮影

禿山になった松木渓谷

 「日本のグランドキャニオン」とかいうキャッチフレーズで観光地化しようとしていた。上から石がごろごろ落ちてくる。1985年3月撮影

金山城址~群馬県・太田市~

2004年12月05日 14時12分12秒 | 
 群馬県の太田市に金山城という中世の山城がありました。関東の城というと、土塁で固められた「土の城」が多いわけなんですが、ここは石塁で固められていました。近年、発掘が進み、それと同時に石塁と建物が再建されています。2000年6月1日と2001年10月4日の2回ここに行ってきました(写真は2001年に撮ったもの)。


●金山城周辺の地図はここをクリックすると開きます。


大光院
 慶長18(1613)年、徳川家康が、始祖・新田義重を弔うために建立した関東十八壇林の寺であり、子育て呑龍様としても有名です。

呑龍上人御廟




新田義重の墓





金龍寺
 新田義貞の子孫を名乗る横瀬貞氏が、応永24(1417)年に建立した、曹洞宗の寺です。横瀬(由良)氏は、下克上で新田(岩松)氏を倒し、金山城の城主となりました。しかし、天正12(1584)年に小田原北条氏によって城を奪われ、桐生に移りました。天正18(1590)年、北条氏滅亡後、豊臣秀吉によって由良国繁が牛久城主になったため、金龍寺も牛久に移りました。その後、慶長年間(1596~1615)に館林城主・榊原氏が再興しました。

由良氏の墓(左)

 左から、不明(1553年)、不明、鳥山繁雄(1570年)、横瀬泰繁室(1574年)、由良成繁(1578年)、由良国経(1520年)、横瀬業繁(1501年)。( )内は没年。

由良氏の墓(右)

 左から、長尾憲長(1550年)、横瀬国繁(1488年)、横瀬泰繁(1545年)。( )内は没年。

新田義貞の墓

 新田義貞は、1338(建武5/延元3)年閏7月に越前国藤島(福井市)の灯明寺畷(なわて)で戦死したので、ここに遺体はない。


金山城
 金山城に関する詳しい説明は群馬県太田市のサイトのここにあります。

●西城図


食い違いの虎口

 右手前の木が生えている土塁跡と、左手奥の土塁跡が食い違いになっていて、敵の浸入を防いだ。


●実城図


西矢倉壕跡


●馬場下通路図


馬場下通路1

 土橋から見た馬場下通路を見る。

馬場下通路2

 木橋から土橋を振り返る。

馬場下通路3

 木橋から馬場曲輪に登る。

●物見台図


物見台

 馬場曲輪の西端にある物見台。

●馬場曲輪図


馬場曲輪


馬場曲輪の小屋


●大手虎口図

 攻め込んできた敵はT字路で殲滅される。

月の池

 大手虎口の手前にある。

大手虎口


大手虎口の南側と南曲輪

 いちばん上の段が南曲輪。小屋のある段とその下の段は大手虎口の南側。各段から下にいる敵兵に鉄砲の弾や矢が降りそそぐ仕組み。

かまど

 小屋にあったかまど。

日の池1

 御台所曲輪から撮った。

日の池2

 三ノ丸から撮った。

巨木

 御台所曲輪から実城(本丸)に登る途中にある。

新田神社

 実城(本丸)にある新田神社。新田義貞を祀る。

鑁阿(ばんな)寺・足利学校~栃木県・足利市(2/2)~

2004年12月04日 01時25分47秒 | 
 2002年4月4日に足利に行ったとき、渡良瀬橋、八雲神社、織姫神社を見たあと、鑁阿(ばんな)寺と足利学校に行きました。これはそのときの写真です。(最初の写真は鑁阿寺の山門)


●足利の地図はここをクリックすると開きます。


鑁阿寺
 鑁阿寺は、栃木県足利市にある真言宗の寺院です。1196(建久7)年、足利義兼(法名鑁阿)が、伊豆走湯山の理真を招いて、開きました。供僧制度を整え、足利氏の氏寺として、尊氏以降は将軍家・鎌倉公方家の保護を得て栄えました。所蔵の鑁阿寺文書(重文)は鎌倉・室町期東国の政治・宗教史研究に価値が高いとされています。寺域内に国史跡の足利氏宅跡があります。


鑁阿寺の案内板


本堂

 
大銀杏

 
多宝塔

 
経堂

 
中御堂

 
御霊屋

 
大酉堂

 
校倉

 
蛭子堂


蛭子堂の隣


東門


逆さ藤天満宮
 
鑁阿寺の裏にあります。


足利学校
 足利学校は、栃木県足利市にあった中世の学塾です。足利氏の菩提寺である鑁阿寺に隣接して設置されました。永享年間(15世紀前半)、上杉憲実は円覚寺の住僧快元(?‐1469)を庠主(しょうしゅ=校長)として招き、学校の蔵書として宋版の経学書などを寄進しました。戦国期にはとくに兵占の易筮伝授によって知られ、後北条氏の保護を受けました。また、田代三喜・曲直瀬道三らの医家も輩出しました。江戸幕府もまた学校に保護を与え、禅僧が代々の庠主となりました。明治以降廃され、足利学校遺蹟図書館を設置、孔子廟を中心とする国史跡となりました。江戸時代の学校が復元されています。


入口


前から見ると


後ろ側

「渡良瀬橋」の旅~栃木県・足利市(1/2)~

2004年12月03日 20時26分04秒 | 
 「渡良瀬橋ってどこにあるのかね?」母親がラジオから流れる歌を聴きながら尋ねたのが、今から10年くらい前だろうか。母親が生まれたところは栃木県のいちばん南。もう少し南にいくと、茨城県の古河市だ。渡良瀬川が流れている。わたしも、夏・冬・春の休みには母の実家に行って、渡良瀬川を見ていた。この川の名前をつけた橋がどこにあるのか?それは、とくに気になることではなく、すぐに忘れてしまった。
 群馬県の太田市に行ったことがある。ここにある金山城という山城の城跡を見に行ったのだ。そのとき、足利市駅を出た東武線の窓から「渡良瀬橋」と書かれた信号が目に入った。「ああ、ここにあったのか」と思った。でも、それだけだった。2000年の6月だった。
 なんとなく、足利市に行ったのは2001年の9月だった。入場料400円を払って足利学校を見学し、ばん阿寺を見た。このとき、渡良瀬橋を見に行ったか、記憶が定かでない。このあとインターネットで調べて歌詞を知ったのか、行く前に調べたのか。先に調べたのなら絶対行っているし、あとで調べたのなら行ってないはずである。

「渡良瀬橋」
作詞:森高千里/作曲:斉藤英夫/編曲:斉藤英夫

渡良瀬橋で見る夕日を あなたはとても好きだったわ
きれいなとこで育ったね ここに住みたいと言った
電車にゆられこの街まで あなたは会いに来てくれたわ
私は今もあの頃を 忘れられず生きてます

今でも 八雲神社へお参りすると あなたのこと祈るわ
願い事一つ吐うなら あの頃に戻りたい

床屋の角にポツンとある 公衆電話おぼえてますか
きのう思わずかけたくて なんども受話器とったの

この間 渡良瀬川の河原に降りて ずっと流れ見てたわ
北風がとても冷たくて 風邪をひいちゃいました

誰のせいでもない あなたがこの街で
暮らせないことわかってたの
なんども悩んだわ だけど私ここを
離れて暮らすこと出来ない

あなたが好きだと言ったこの街並みが
今日も暮れてゆきます
広い空と遠くの山々 二人で歩いた街
夕日がきれいな街


 いい歌じゃないか。わたしはこのときまで森高千里に関心はなかった。森高千里よりも先に宅八郎の森高人形を知ったくらいだ。すぐにCDを買う。それから年に何回か行くようになった。KULILINさんのART STUDIO M cottageの「渡良瀬橋の掲示板」に書き込みをするようになったのも、このころである。なんか、「及川奈央☆プラネット」とまったく同じパターンだな。w


●足利の地図はここをクリックすると開きます。



右岸から見た渡良瀬橋(2001年10月11日)


左岸から見た渡良瀬橋(2001年11月8日)


織姫神社から見た渡良瀬橋(2002年4月4日)
橋とマンションの間に女浅間神社、背後に男浅間神社が見える。


八雲神社(2002年4月4日)
改装中でブルーシートがかけられていた。


足利公園(2002年4月4日)
八雲神社の裏手の丘で、古墳群がある。写真は日露戦争の碑。


足利公園から見た金山城址(2002年4月4日)
太田市の北にある。渡良瀬橋から見る夕日はここに落ちる。


織姫神社(2002年4月4日)
足利は群馬県の桐生と並んで織物の街である。


右岸から見た中橋(2001年10月11日)


織姫神社から見た緑橋(2002年4月4日)


渡良瀬橋から見た夕日(2001年10月11日)

    あなたが好きだと言ったこの街並みが
    今日も暮れてゆきます
    広い空と遠くの山々 二人で歩いた街
    夕日がきれいな街