王子のきつね on Line

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「なんだかなぁ」改め、「新選組!」ってどう?

2004年10月31日 11時38分06秒 | Weblog
 天気がよくなくて、自転車に乗れません。今は降ってないけど。。。ホントは、荒川(朝霞水門)~黒目川~野火止用水~玉川上水駅の地図をつくる予定だったんだけど、調べに行けません。(泣)

 「石神井川に沿って」(荒川~玉川上水/玉川上水~荒川)、「玉川上水に沿って」(境橋~多摩川睦橋/多摩川睦橋~境橋)、「石神井川~神田川/神田川~石神井川」を「自転車地図」にまとめました。



 歴史的に見ると、あまり積極的な価値がないけれど(無意味とか、無価値っていう言葉はどぎついからw)、なんか人気のある人、集団てありますよね。新選組とか、義経とか(今年と来年の大河だなw)。で、新選組について書いちゃおうと思っています。

 今日の大河は「決戦、油小路」というタイトルで、新選組による伊東甲子太郎暗殺と、御陵衛士の殺戮をやるみたいです。で、NHKの「あらすじ」を見てみると、こんなことが載ってました。

 かつて勇(香取慎吾)の下で新選組参謀を勤めた伊東甲子太郎(谷原章介)。新選組と袂を分ち、自ら御陵衛士を率いる伊東は、尊攘派志士たちの会合に参加する。席上、持論を披露しようとする伊東だが、“元新選組”であることを嫌う公家の岩倉(中村有志)から屈辱的な扱いを受ける。そんな伊東に薩摩の大久保(保村大和)は、「岩倉の信用を勝ち取るために、近藤勇を斬れ」と迫る。
 伊東は策を弄して勇の暗殺を企てるが、間者として御陵衛士に加わっていた斎藤(オダギリジョー)の通報で企ては新選組の知るところとなる。伊東は、平助(中村勘太郎)を使者として新選組へ送り、勇と二人で会いたいと申し入れる。二人きりの場で油断した勇を殺害するつもりでいた伊東だったが、勇を殺しても自分の立場は何も変わらないと気づかされ、和解して帰っていく。
 しかし、話し合いによって決着したことを知らない大石鍬次郎(根本慎太郎)らの襲撃によって伊東は命を落す。言い訳の出来ない状況で伊東が落命したことを知った歳三(山本耕史)は御陵衛士と雌雄を決する覚悟を決めるが、試衛館以来の仲間である平助だけは助けるようにと指示を出す。
 新選組は伊東の遺体を引き取りに現れた御陵衛士を七条油小路の辻で待ち伏せる。両者の激しい斬り合いの中、永倉(山口智充)たちは何とかして平助を逃そうとするが…。


 松浦玲・著『新選組』(岩波書店、2003年)によると、伊東は、徳川慶喜の大政奉還を受け、「公卿政権論」を建白しました。これは、大政奉還後、政権を武門の合議に任せるのではなく、朝廷が直接掌握するという内容でした。その際、五畿内を朝廷の直轄領として経済的・軍事的基盤とし、大名に富国強兵を号令するというものです。
 実現可能かどうかはともかく、薩長による王政復古とも、慶喜による大君政権とも異なる「第三の道」を伊東は構想していたわけです。
 伊東は、こうした構想を掲げるにあたって新選組を利用したため、近藤勇らに憎まれ、暗殺されてしまいます。坂本竜馬暗殺の3日後の慶応3(1867)年11月18日、近藤は伊東を愛人宅に招き、酒を飲ませて酔わせたうえ、帰り道で隊士に暗殺させます。卑怯ですね。w
 さらに、伊東の遺体を油小路に曝し、引き取りに来た御陵衛士を襲撃して殺戮しました。藤堂平助もこのとき殺されます。卑怯×2ですね。w

 新選組も最初は「尽忠報国」っていうイデオロギーをもった思想集団でした。「尽忠報国」はほとんど「尊皇攘夷」と同じ意味です。ところが、四国連合艦隊による下関砲撃と薩英戦争の結果、攘夷は不可能ということがわかってきました。
 ここで、薩長や坂本、伊東らは「大開国論」(欧米列強との貿易をとおして国力を強化し、列強に対抗できる国家になる)という路線に変わるのですが、新選組にはそういう方向性が現れませんでした。どっちかというと、尽忠は将軍に忠義をつくすこと、報国は幕府に報いること、に後退してしまったわけです。
 山南敬介が脱走して切腹したあたりで、その傾向が明確になり、法度を破ったら、とにかく切腹というふうになってしまったのです。思想がなくなったんで、法度で縛るしかない、というわけです。
 鳥羽伏見の戦い以前、約200人の隊士のうち、戦闘で死んだのは10人もいないのに、法度を破って切腹したのが30人もいたというのも異常です。ひどいのは、慶応元(1865)年6月21日の施山多喜人の切腹。土方が江戸から連れてきた新入りで、膨れ上がった組織を引き締めるため、見せしめで処刑されたようです。

 しかし、伊東の暗殺と御陵衛士の殺戮は、のちのち近藤に祟ることになります。鳥羽伏見の戦いの直前、近藤は馬に乗っているところを、御陵衛士の残党に銃で撃たれ、負傷。戦いを指揮できませんでした。さらに流山で「官軍」に拘束されとき、「大久保大和」と名乗っていた近藤は、やはり御陵衛士の残党に見抜かれ、板橋で処刑されてしまいます。

 あと、甲陽鎮撫隊の後、永倉新八と原田佐之助が、会津で「官軍」と闘うプランを近藤に伝えたとき、近藤に「家臣のくせに勝手なことをするな」と言われ、激怒して決別する、という話があります。永倉や原田は「同志」だと思っていたのに、近藤は「家来」だと思っていた、という話です。

 こんな新選組をこの先どう「美化」していくのか、三谷幸喜さんの腕前拝見というところですね。w

オペラ・ブーフ「天国と地獄(地獄のオルフェ)」

2004年10月31日 02時02分22秒 | 音楽
 妹の石井真弓がオペラ・ブーフ「天国と地獄」に「世論」役で出演するので、ここで宣伝させてもらいます。



オペラ・ブーフ「天国と地獄(地獄のオルフェ)」

【日時】11月20日(土) 18:30開演(18:00開場)

【場所】なかのZEROホール 大ホール

【チケット】S席:10,000円/A席:8,000円/B席:5,000円

くわしくは下のチラシをご覧ください(クリックすると大きくなります)。
 

チケットは、11月05日の段階で
  S席: 1枚
  A席:16枚
  B席: 7枚
が残っています。出演者割引で1割引になります。
購入したい方はつぎの携帯メールアドレスにメールください。
よろしくお願いします。

いたずらが多いんで削除



石井真弓 プロフィール

東邦音楽大学声楽専攻科修了。
二期会会員。東京オペラ・プロデュース会員。
 1990年 第60回読売新人演奏会に出演。
 1992年 ルーマニア、クライヨヴァで政府主催の演奏会に出演。
 1994-97年 イタリア各地で OFFICINA MUSICALE 主催の演奏会に出演。
 1998年 サンタ・マルゲリータ・リグレ(イタリア)で『マダム・バタフライ』にスズキ役で出演。
 1902年 文化庁後援『うたよみざる』にお初役で出演。
 2003年 台北市(台湾)で政府主催城市舞台新装記念公演『日本歌曲演唱会』に出演。NPOみんなのオペラ改訂版『蝶々さん』にスズキ役で出演。
 2004年 東京都芸術際『隅田川』出演。

祖母の命日

2004年10月26日 21時39分22秒 | Weblog
 今日は、父方の祖母の命日である。2000年10月26日の深夜、祖母は意識を失い、救急車で運ばれ、翌27日に医者が死を確認した。だから正式の命日は27日になっている。意識を失ったなんて書くと、急死したと思われるが、祖母は1970年代の末に脳梗塞で倒れ、そのあとずっと半身不随でいた。伯母が介護をし、90歳をすぎていた。

 この日はヘンなことが続いた。この日、仕事が休みだったので、当時登山にこっていたので、奥多摩の長沢背嶺を歩こうと思っていた。ところが、青梅で電車が何かの事故で停まってしまい、奥多摩駅から出るバスに間に合わない。そこで、急遽、青梅丘陵ハイキングコースを歩くことにした。午前中に歩き終えてしまい、つづいて高水三山(高水山・岩茸石山・惣岳山)に登った。途中、惣岳山頂の神社で、登山靴の紐を結んで歩こうとしたとき、それが解けてしまった。結んだばかりなのに、ヘンだなぁと思いつつ、御岳駅に降りた。まだ時間があったので、御岳渓谷で時間をつぶし、家に帰った。そして、翌日の仕事の準備が終ったところで、電話があり、祖母が意識を失ったというのである。
 まあ、偶然の一致と言ったら、そのとおりなんだろうけどね。

 この祖母が好きだったのが、なんと砂糖をかけたトマト! もともと歯が丈夫じゃなかったんで、抜けてしまい、総入れ歯だった。父親もその体質が遺伝し、歯槽膿漏で歯が抜けた。私も、歯槽膿漏っぽいので、歯医者にかよっている。
 祖母は信じられないくらいの天然パーマだった。髪の毛をふだんはネットで覆っていたが、それを解くと「ウルトラQ」に出てくるガラモンのようになった(顔も似ていたw)。父親も天然パーマで、私も下の妹もそうである。
 祖父は、とっても器用な人で会社で重宝がられ、その結果、とんでもない高給取りであった。しかし、祖父が稼いだ金はほとんど祖母がつかってしまい、お金も財産もほとんど残らなかった。
 そのうえ、わがままでいいかげんだったが、なぜか子どもたち(伯母、父、2人の叔父、叔母)からは愛されていた。私の母親は生真面目な性格だったので、祖母とは馬が合わず、結局、別居してしまった。

 そんな祖母に捧げる歌


「ため息なんて、おつきじゃないよ」 それがあなたの 口癖だった
泣き虫を 責められて 物置に 閉じ込められて
あなたを 恐れていた 7歳

酒と祭りと 喧嘩大好き 絵に描いたような 江戸っ子だった
宵越しの 金もたず 計画を 立てぬ買い物
あなたに はらはらした 10歳

子供らが 喜ぶという 理由だけで 料理には やたら砂糖を 注ぎ込んでた
甘いカレー 甘いオムレツ

知性教養 理屈を嫌い 好きと嫌いの 感情まかせ
理不尽な 正義感 身びいきな 溺愛綴る
あなたを 恥と見てた 15歳

商売が好き 芸事が好き 人間が好き 賑わいが好き
大勢に 慕われて 振舞は 見事身勝手
あなたを 見直してた 20歳

母として 理想的かは 知らないけど 懸命に 愛のしるしを 注ぎ込んでた
甘いカレー 甘いオムレツ

甘くなければ カレーじゃないし 甘くなければ オムレツじゃない
そう思う 僕たちは 紛れなく あなたの息子
あなたを 失ってた 25歳

「ため息なんて おつきじゃないよ」 それがあなたの 口癖だった
自分らしい 人生を 思うまま 主役で通した
あなたを 愛しんでると 言える歳

何かしら 疲れ感じて 肩落とすとき 心には ため息つかない 母の声
甘いカレー 甘いオムレツ

子供らが 喜ぶという 理由だけで 料理には やたら砂糖を 注ぎ込んでた
甘いカレー 甘いオムレツ


(小椋佳「甘いオムレツ」)


ガラモン(祖母じゃないぞw)

「四谷雑談」~「四谷怪談」の実録小説

2004年10月26日 20時27分00秒 | 心霊
 「東海道四谷怪談」は四世・鶴屋南北によって書かれ、1824年に上演された歌舞伎の演目である。しかし、その題材として「四谷雑談(よつやぞうたん)」という実録小説が存在する。もちろん、内容はちがっているが、ここでは「四谷雑談」が収録された『日本怪談集・江戸編』(高田衛・編)と『お岩と伊右衛門~「四谷怪談」の深層』(高田衛・著)を参考にして、その概要を説明する。

●お岩と伊右衛門の結婚
 四谷左門町に住む御手先組同心・田宮又左衛門は、律儀な人で頭からもよく思われていたが、目を病んで勤務困難となり、お岩という成人した娘がいたので、聟をとって隠居しようとした。4~5年、適当な人を探したが、お岩の性質が悪いせいか、誰ひとりとして聟入りを承知する者がいなかった。お岩は、21歳で疱瘡をわずらい、顔がひきつり、髪はそそけだって白くなり、腰は屈曲し、目はつぶれてたえず涙がにじみ、声は狼のごとく、その姿かたちは醜く不快感を与えるひどいものとなった。
 又左衛門は、娘を心配しながら、51歳で死去した。跡目を継ぐ男子がいないので、あらためて聟探しをしたが、誰ひとり来てもよいという者はおらず、組のなかでは、出家して尼になるか、他家に奉公に出して別に適当な人に田宮家の跡目を継いでもらうしかない、という者もいた。お岩は猛烈に反発し、聟をとって跡目を継ぐべき自分を外に出して、他人に跡をゆずるとは何事か、と目を血走らせて激昂し、口もきかず、そっぽを向く始末であった。
 組の者たちは、下谷金彩に住む「小股潜りの又市」という嘘つきの名人に人探しを頼んだ。又市は、摂州浪人で31歳の美男・伊右衛門という、大工・建築の術にすぐれていた男を、お岩の姿を見せず、嘘八百をならべて、強引に聟入りさせた。挙式後にお岩の顔姿を見て、伊右衛門は愕然なったが、もう遅かった。田宮家は伊右衛門を跡目にしたのである。

●お岩と伊右衛門の離婚
 上司の与力に伊東喜兵衛という「放逸無慙」な五十男がいた。財力があり、家作を趣味としており、伊右衛門はしだいに伊東家に入りびたるようになった。喜兵衛は妻をもたず、18歳のお梅、20歳のお花という二人の妾をもっていた。二人とも容貌にすぐれていたが、伊右衛門はお花に惹かれていった。お花も伊右衛門に惹かれていたが、伊東は酒宴のとき、酔いつぶれたふりをして、互いに惹かれながら、何もできないでいる二人の挙動を、じっと窺っていた。
 そのうちお花が妊娠した。伊東喜兵衛は、養子をとっており、白髪の自分が妾腹で子を生ませては外聞が悪いと、懐胎したお花を誰かに押しつけようと考え、その相手に伊右衛門を選んだ。伊右衛門は断ったが、お花への未練は見え見えであった。伊東はお岩と離別する悪計を授け、お岩へのいや気とお花への色気から伊右衛門はその悪計にのる。

 伊右衛門は、突然酒色に耽り、家財を叩き売って娼婦を買い、諌めるお岩に殴る、蹴る、縛って吊るすなど暴行を加え、お岩の衣類まで博奕のかたにする。お岩は、虐待に耐えられず、困惑し、歎き悲しむ。伊東喜兵衛は、相談にのるふりをして、伊右衛門の素行のため田宮家は断絶するだろうと脅した。そして、「伊右衛門の道楽はもはや止まないから、今すぐ離別したほうがよい。どこかで物縫い奉公などしているうちに、良縁を見つけてあげよう。そうすればあなたの身も立つ」と説き、お岩は喜兵衛の言葉を信じ、家を出て三番町あたりの旗本屋敷に奉公した。

●伊右衛門とお花の結婚、お岩の失踪
 伊東はお花を伊右衛門と結婚させた。組の者は、伊右衛門とお花の挙式に不信感を持ち、割りきれない気持であったが、秋山長右衛門は謝礼めあてに媒酌を引き受けた。二人の婚礼のとき、数度にわたって「赤い小蛇」が出るなど怪異があった。しかし、腹の子も無事に生れ、女の子でお染と名づけられた。

 きざみタバコを行商する茂助という商人が、三番町を行商中に、お岩の奉公先に行きあたった。茂助は、伊右衛門の遊蕩や道楽は伊東の謀りごとで、お岩を離別させるためだった。伊右衛門は秋山の媒酌でお花と結婚、仲よく暮らしている、と話してしまった。
 お岩は、顔色をかえ、目は逆ずり、歯がみして怒った。伊右衛門も伊東も秋山も、寄ってたかって自分をおとし入れたのか、そのままでおくものか、と身もだえして大声で泣きわめいた。周囲のなだめや抑えもきかず、夜叉のような、鬼女のような表情で、人々を蹴ちらして飛び出し、行方不明になってしまった。その後も行方を探したが、30年間、行方不明のままとなった。

●お菊、鉄之助の死
 伊右衛門とお花は、美男美女夫婦であったが、子供も四人できた。長女・お染(14歳、伊東喜兵衛の子)、長男・権八郎(13歳)、次男・鉄之助(11歳)、次女・お菊(3歳)である。ある年の7月18日、家族が夕涼みをしていると、庭先の木陰から女が現れ、伊右衛門をうらめしげに見ながら通りすぎた。それは伊右衛門の目にだけ見えて、他の家族の目には見えなかった。お岩であった。伊右衛門は気にもしなかったが、人もいないのに戸を叩く音がしたり、「伊右衛門、長くはあるまじ」という声が聞えたりした。鉄砲を所持していた伊右衛門は、幻視幻聴をしりぞけるため、空砲を撃った。しかし、その音に寝ていたお菊がひきつけを起こし、手当したが、8月15日に死んでしまった。

 次に死んだのは、次男・鉄之助であった。お菊の三回忌の法事の日、法要が終ったあとの宴席に、鉄之助が走ってきて、裏庭にお菊がいた、という。そんな馬鹿なことがあるはずもない。もう一度見にいった鉄之助が、帰ってきて、おそろしいと泣きわめいた。大人が見にいったが、誰もいない。しかし、鉄之助は、震えながら泣きわめき、お菊はここへ来ているという。秋山長右衛門が、鏡で座を映してみたが、何も映らなかった。鉄之助が泣くので、守り札を天井にまで貼りつけたが、効果はなかった。鉄之助は、うなされつづけ、高熱を発して寝こみ、医師が手当をしたが、何の病か判断ができなかった。日蓮宗の僧侶を呼んで、祈祷をしたが、効果もなく、8月18日に死んでしまった。このあと、秋山長右衛門の娘が食あたりで死んだ。

●権八郎、お花の死、伊東家の断絶
 5年後に長男・権八郎と妻・お花が死んだ。お花が悪寒に襲われ、床についた。権八郎はこのため、4月8日に増上寺の涅槃会に参詣したが、夜に発病して、うわごとを言って苦しみつづけた。そのまま寝こみ、5月9日に死去した。19歳であった。お花も40日後の6月27日に死去した。43歳で妊娠中であった。この間、後述する「多田三十郎事件」に連座し、伊東喜兵衛(隠居して土快と名乗る)の養子・喜兵衛が処刑され、伊東家は断絶した。
 伊右衛門は、近所の人のすすめで、悪霊祓いをした。失踪したお岩は、その生死さえ不明だったので、その霊を呼びだし、死んでいれば霊をとむらって、タタリをまぬがれようとした。赤坂の不動院、明王院の山伏たち8人が、祭壇を作って不動明王像を逆さまに立て、10歳の少女に幣を持たせて真中に座らせて霊媒とした。少女にお岩の霊が憑依し、ことばを語りはじめた。それによると、田宮家の重なる不幸は、伊右衛門と伊東、秋山を怨む、お岩の霊のしわざだった。お岩の霊は、伊右衛門が必死でのべることばには耳をかたむけず、タタリつづける意志を明らかにした。伊右衛門はふるえあがった。伊右衛門は、にわかに信心深くなり、寺参りを欠かさなくなる。

●伊右衛門、お染の死、田宮家・秋山家の断絶
 伊右衛門は、長女・お染に婿を迎えて、田宮家の後継者を定めた。ある日、嵐で破れた屋根を直すため、屋根にのぼり、足を踏みはずして腰を打った。大事にはいたらなかったが、耳の脇に怪我をし、その傷が膿みだした。傷口にネズミがきてしゃぶりはじめた。ネズミは伊右衛門を少しずつかじってゆくが、たいして痛みもなく、かえって気持ちがよかったので、食い破られていることに気がつかなかった。ネズミは昼も夜もやって来て伊右衛門を食う。追っても追ってもまた集まり、ネコを飼っても効果はなく、伊右衛門はどんどん衰弱していった。お染とその婿・源五右衛門に見まもられながら、ネズミよけの長持のなかで、ネズミに埋れながら死んだ。お岩は子年の生れであったという。秋山長右衛門の妻も病死した。
 お染もまた病魔におかされ、25歳で死んでしまう。源五右衛門が田宮家を継いだが、田宮家は化物屋敷という評判がたっていた。源五右衛門はまもなく乱心し、俸禄を召し上げられて田宮家は断絶した。
 秋山長右衛門は、養子・小三郎をとって跡を継がせ、実子・庄兵衛に田宮家の跡目を継がせた。しかし、庄兵衛と長右衛門はあいついで病死し、小三郎も死に、秋山家は断絶した。伊東土快は、伊東家断絶後、知人の同心屋敷の間借り人になっていたが、ある年の12月28日に死んで冷たくなっているのを発見された。

●多田三十郎事件
 多田三十郎事件は、「徳川実記」など江戸幕府の正史に記録された事件であり、「四谷雑談」との関係でひじょうに興味深い事件である。
 元禄7(1694)年4月16日、700石の旗本・多田三十郎は、同じく旗本・兼松又右衛門と吉原に遊び、与力2名が同行した。多田は、遊興のさなかに外出し、気田喜八郎という下級武士と喧嘩になった。多田は斬殺され、気田は逃亡した。同行していた兼松は、多田殺害の知らせを受け、事件に巻きこまれたくないと現場から逃げ去った。与力2人も事件を聞いて狼狽し、多田の死体を放置したまま吉原を離れた。
 妓楼・茶屋・供の者から、兼松・与力らの関連がわかり、彼らは翌17日に逮捕された。また、与力らの口から多田を斬殺・逃走した気田の名もわかり、捜索が始まった。19日ごろ、気田が捕らえられ、事情が判明した。旗本でありながら多田は、御法度の遊里での連泊がばれ、無名の武士と喧嘩して斬り殺されるという醜態をさらした。兼松は、現場にいながら犯人を捜索して討ちはたすべきだったのに、自己保身のため逃亡した。同伴の与力も同じである。
 21日、多田三十郎の父・伝四郎正清は御納戸役組頭を免職、閉門が命ぜられた。三十郎死骸は、親の引き取りを許さず、浅草の刑場で(死骸を)打首にした。27日、兼松又右衛門も同じ刑場で斬罪となった。同日、犯人・気田喜八郎と与力2名が小伝馬町牢屋敷にて処刑された。多田、兼松、与力らの上司に、遠慮、謹慎等の処分があった。この与力2人のうち、1人が隠居して土快と名乗った伊東喜兵衛の養子・喜兵衛であった。

○参考
高田衛・編『日本怪談集・江戸編』(河出文庫、1992年)
高田衛・著『お岩と伊右衛門~「四谷怪談」の深層』(洋泉社、2002年)

葛飾北斎筆の「近世怪談霜夜星(しもよのほし)」の挿絵を利用。

「累ヶ淵」補論~羽生村事件の概要~

2004年10月26日 01時12分58秒 | 心霊
 心霊スポットで紹介した「累ヶ淵」の怪談のもととなった羽生村事件を伝えたのは、元禄3(1690)年に出版された『死霊解脱物語聞書』である。ここでは、高田衛・著『新編・江戸の悪霊祓い師(エクソシスト)』(ちくま学芸文庫、1994)の「第1部 霊媒伝承」を用い、事件の概要を説明する。


 寛文12(1672)年1月4日、下総国岡田郡羽生村(茨城県水海道市羽生町)の百姓・与右衛門の娘・菊が病になった。菊は、数え年で14歳、前年8月に母を亡くし、12月に同村の金五郎を入り婿として迎えていた。23日になると、菊は、昏倒して泡を噴き、涙を流して泣き叫んだ。
 突然、菊は与右衛門を睨みつけ、「私はお前に鬼怒川で惨殺された累(かさね)である」と叫んだ。さらに、与右衛門の後妻6人をとりころし、害虫を発生させ不作にさせていた、と言った。驚いた与右衛門は同村の法蔵寺に逃げ込み、金五郎は実家に逃げ帰ってしまった。

 この夜、「二十三夜待ち」で一か所に集まっていた隣家の男たちが、この騒ぎを聞きつけ、累の霊と対決させるため、与右衛門を寺から連れ戻した。累の霊は、26年前の正保4(1647)年8月11日、与右衛門が、畑仕事の帰りに重い苅豆の荷を負わせ、鬼怒川に突き落として惨殺した、と訴えた。与右衛門は否定したが、法恩寺村の清右衛門が見ていたはずだ、とまで言われると、ついに累殺しを自白した。
 累は、「めっかち、てっかち、ちんば」の([左の]目、腕、足に障害がある)醜い女で、そのうえ性格も悪かった。しかし、親の残した田畑と家屋をもち、与右衛門はそれが目あてで婿入りしたのだった。累は羽生村にとっても厄介者であり、その殺害は村人にも黙認されていた。

 村人が与右衛門に剃髪出家させたが、菊への累の憑依は26日にまでおよんだ。名主・三郎左衛門と年寄・庄右衛門の2人が村をあげての念仏興行で累の菩提を弔うことを約束し、ようやく累の霊は去っていった。
 しかし、2月26日、ふたたび菊に累の死霊がとり憑き、まだ成仏できないので、石仏を建立してくれと要求した。名主が水海道の町で如意輪像を購入することを約束した。
 翌27日は彼岸の入りで、村人たちが、累の霊から自分たちの先祖があの世でどうなっているかを聴こうと、与右衛門の家に集まった。ところが、累の霊は、聴かれた人すべてが地獄に落ちている、といい、彼らの現世での悪事をつぎつぎと暴露した。このため、村人はパニックに陥ってしまう。あわてた名主が強引に念仏興行を行い、累の霊は翌28日に去っていった。
 3月10日、三度、菊に累の霊がとり憑いた。今度は、名主・年寄もあきれて相手にせず、与右衛門と金五郎も、菊を放置して、野山の稼ぎに出かけてしまった。菊は、家の中でただひとり、七転八倒していた。

 これを哀れんだ、飯沼弘経寺(ぐぎょうじ)の寺男・権兵衛が、学僧だった祐天(ゆうてん)上人に菊の救済をもとめた。祐天は、最初、事態の困難さゆえにためらったが、捨ててはおけず、与右衛門の家に向かった。
 祐天は、「阿弥陀経」三巻を6人の僧と唱えたが、なんの変化もなかった。つづいて、「四誓の偈文」を三遍、「心経」を三度唱えたが、ダメだった。最後に「超世別願の称名」を1時間唱えたが、まったく効果がなかった。
 祐天は、外に飛び出すと、天空の阿弥陀如来に向かって、「もし仏がいるのなら、その現証をあらわせ、そうでなければ仏教を捨て、外道の法を学んで仏教を滅ぼすぞ」とまで叫んだ。そのとき、祐天に、これまで菊に経を聴かせてきたが、そうでなく菊に念仏を唱えさせてはどうか、との考えがうかんだ。
 祐天は、菊に念仏を唱えさせようとしたが、累の霊がそれを拒んだ。祐天は、さては累ではなく狐狸(こり)がとり憑いているのだな、と脅しつけ、菊の髪をわしづかみにして、念仏を唱えさせる。その結果、累の霊は菊から離れていった。

 ところが、4月19日、またもや菊に死霊がとり憑いた。祐天が与右衛門の家に着くと、菊は、体を屈曲させながら、逆さに宙に浮いていた。体を熱く灼熱させながら、目玉も抜け出ていた。
 祐天が菊に「おまえは何者だ」と訪ねると、「す」としか聞き分けられなかった。名主が「『すけ』という『わっぱし』であると言っております」と言い、「『わっぱし』とはこのあたりでは6つ7つの男の子のことです」と答えた。
 祐天が事情のわかる者を探させたところ、八右衛門という老人が事情を知っていた。累の父親の与右衛門(夫とは別人)が累の母を嫁にしたとき、連れ子がいた。それが助であった。しかし、助は累と同じ「めっかち、てっかち、ちんば」であったため、母親にうとまれ、61年前に「かてつみ(糧飯[かてめし]にいれる野草を摘むこと)に行った松原の土手からさかさまに鬼怒川に投げ込まれ」殺されたのだった。
 若者たちは「このわっぱしは霊山寺淵に住みついた河童なのではないか。雨が降ると松原の土手にあがり、苦しそうに体をくねらせ、泣き叫んでいた」とつぶやいた。その助が、累の成仏したのをうらやましく思い、菊にとり憑いたのだった。
 祐天が、戒名を書くと、5~6歳の子どもの霊が現れ、戒名にすがりついた。祐天が称名を唱えると、助は光り輝き成仏していった。

玉川上水に沿って

2004年10月24日 15時20分37秒 | Weblog
 「玉川上水に沿って」ができました。ああ、疲れた。。。_| ̄|○←

 玉川上水に沿って走るのは、とても気持ちがいいです。とくにダートのところは。。。あと、水の流れる音がいい。癒されますよ。マジで。。。

 そういえば、玉川上水のベンチで昼食をとっていたら、通りがかりの女性高齢者集団が「あら、こんなにドングリが落ちてるわ」「誰か持って行って、クマさんに食べさせてあげたら」って話してました。
 名案ですが、誰がやるの? アンタたちやらないの?って問いたい、問いつめたい、小一時間。。。(以下略)

玉川上水を走る。

2004年10月23日 23時07分11秒 | 自転車
 今日は某サイトの管理人におだてられて、玉川上水の自転車地図をつくるため、自転車で多摩川の睦橋まで行ってしまいました。←おだてには弱いんで。。。
 朝10時前に自宅を出て、王子から石神井川をさかのぼり、東伏見から千川上水をさかのぼり、そして玉川上水の境橋に着きました。
 ここに来て、地図は持ってきたのに、筆記用具を忘れてしまい、境橋のドンキホーテで買いました。このドンキは中に入ったのははじめてですが、外から入れるトイレがあるのね。トイレ情報、ひとつ追加と。。。
 ここからがたいへん。とにかく信号とかを確認しながら、走らなけりゃならないんで。さらに玉川上水にも右岸と左岸とあります。両方走らないと。。。その成果は後でうpします。w
 西武国分寺線の踏切(鷹の台駅付近)から、西部拝島線の玉川上水駅まで、左岸側の長~いダートを走りました。3年前にも走ったのに、そのこと忘れてました。とっても(゜∀゜)イイ!ダートです。創価高校&中学の生徒とその父兄、朝鮮大学校の学生が歩いていたんで、「すいません」とか言いながら走りました。今日ほど、学会員と在日に頭を下げたことはないぜ。w
 拝島駅から多摩川自転車道、さらに秋川自転車道までの道もチェックしたんで、たいへんでした。


●2004年10月23日(土) 石神井川~玉川上水

 自宅[9:42]―王子駅[9:50]▼石神井川━豊島園[10:28]━武蔵関公園[11:00]―[11:13]境橋(ドンキホーテ)[11:34]▼玉川上水━[12:35]玉川上水駅(買物)[12:40]━[12:45]干手橋(昼食)[12:57]━拝島駅[13:35]―睦橋[13:45]

 睦橋[14:00]―拝島駅[14:15]▼玉川上水━玉川上水駅[14:40]━境橋[15:25]―[15:26]関前(休息)[15:36]―武蔵関公園[15:50]▼石神井川━豊島園[16:25]━王子駅[17:10]―自宅[17:17]

 ☆GPS
  走行距離:91.2km
  走行時間:6:40:32
  平均速度:13.7km/h


ここをクリックすと、地図が開きます。


 で、帰ってきたら、地震。。。ものすごく揺れました。余震も怖かった。新潟の中越地方、かなり被害が出てるようです。

江戸時代初期、関東地方の河川改修(その1)

2004年10月22日 21時11分32秒 | Weblog
 今回の台風23号で、さいわい関東では、他の地域と比べて、大きな被害が出ていない。しかし、はたして安全なのであろうか? 今回は、江戸時代初期の関東地方の河川改修をとおして、われわれが自然をどのように改造し、その反動がどのように現れたかを考えてみたい。

 江戸時代以前、関東の姿は現在とは大きく異なっていた。たとえば利根川は、北から南に向かって流れ、荒川や入間川と合流し、現在の隅田川を通って江戸湾(東京湾)へ流れ込んでいた。このため、江戸は度重なる水害に見舞われ、新田開発も思うように進まなかった。
 徳川家康は、1604年、家臣で土木技術に明るい、関東郡代・伊奈忠治に、利根川の流れを東に転じて、銚子から太平洋に流れ込む流路とするよう命じた。こうして利根川の東遷と呼ばれる大工事がはじまった。これによって、利根川は浅間川~新川通り~赤堀川をへて常陸川へ至り、銚子河口より太平洋へ流れ込むこととなった。
 これとともに、荒川なども大きく流れを変えられた。それはつぎのとおりである。

 ① 1594年 家康の子、松平忠吉は、川俣の下流で2つに分かれていた利根川の流れの一方(会ノ川)を締め切り、浅間川筋を本線とした。
 ② 1621年 伊奈忠治は、栗橋に「新川通り」と呼ばれる新河道を開削し、太日川(ふとひがわ)と合流させた。しかし、洪水時に太日川の水量が急増するので、栗橋から関宿まで新たに赤堀川を開削し、利根川の流れの一部を下流の常陸川に流れるようにした。
 ③ 1629年 伊奈忠治は、荒川を熊谷市久下で締め切り、新河道を開削して和田吉野川と合流させ、水量の分散をはかった。以後、久下より下流の川は元荒川と呼ばれる。
 ④ 1641年 伊奈忠治は、小島正重とともに、関宿から野田に至る水路の開削に着手した。この川は「江戸川」と呼ばれる。
 ⑤ 1654年 忠治の子、伊奈忠克は赤堀川を幅49m深さ9mに掘り広げ、鬼怒川との合流点まで浚渫して、ほぼ現在の利根川の流路とした。

江戸時代初期、関東地方の河川改修(その2)

2004年10月22日 21時10分46秒 | Weblog
 利根川・荒川の改修期間は約60年を要する大事業で、この結果、治水によって村や町は守られ、水利環境の整備により、流域には新たな水田が広がっていった。
 さらに、それまで牛馬による陸上輸送がメインであった物資の輸送は、少ない労働力で大量の物資を運ぶことのできる水運に変わっていった。水運発達によって、各地に河岸(かし)と呼ばれる船着き場がつくられ、地方と都市とを結ぶ流通経路が安定的に確保された。
 各地域は経済的・文化的に潤い、地方の生活基盤も安定した。その結果、江戸は、物資や人の集中するところとなり、情報が集積され、都市としての規模が大きくなった。江戸時代約260年の基礎は、利根川・荒川の改修によってつくられた、と言っても過言ではない。

江戸時代初期、関東地方の河川改修(その3)

2004年10月22日 21時10分03秒 | Weblog
 1947(昭和22)年9月、カスリーン台風による洪水で、熊谷市久下で荒川の堤防が決壊した。同時に大利根町の新川通で利根川の堤防も決壊し、濁流は、元荒川と古利根川に沿って流れ、中川に沿って東京までいたった。それはまさに改修以前の利根川の流路であった。死者・行方不明者は2000人に達し、浸水面積は6万ヘクタールにもおよんだ。
 きつねの母親の話によると、大利根町の被災地を視察した昭和天皇に地元の婆さんがつばを飛ばしながら被害を訴えていたそうである。
 現在、熊谷市久下には「決潰の跡」と書かれた石碑が建てられている。利根川の決壊跡にはカスリーン公園がつくられた。以前、足利市の渡良瀬川でもカスリーン台風の犠牲者の慰霊碑を見たことがある。
 自然を改造することで人間は豊な生活を確保してきた。そのことは否定できない事実である。しかし、その反動がどのような形で現れるか、いまいちど確認する必要があるのではないだろうか。

心霊スポット紹介はじめました。w

2004年10月21日 16時21分33秒 | 心霊
 わたしがはじめて幽霊らしきものを見たのは2001年10月のことです。13日(土)の午後7時30分ころ、自転車をしまおうと、自宅の玄関を開けて外を見たら、隣家との間に真っ黒な影が見えました。それは人の頭よりやや小さな髪の毛みたいなもので、地面から120~30cmくらいのところに浮いていました。「なんだろう」と思っていると、隣家との間に入って行ったのです。
 自宅と隣家の間には1mくらい間が空いているので、人が入らないように扉がついています。その扉は外開きなので、開いているとわかるのですが、まちがいなく閉まっていました。
 確認しようと、扉のノブを掴んで開けてみると、何もいませんでしたが、突風のような冷たい風が体にあたるのを感じ、左手がしびれて震えだしました。

 2日前の11日(木)に栃木県の足利市に行き、森高千里の「渡良瀬橋」に出てくる八雲神社の裏手にある足利公園を訪ねました。ここは、古墳群であり、八雲神社自体が3号墳という古墳を背に建てられています。
 そこで気になったのが、写真の墓です。古墳よりは新しいのですが、かなり古いものです。この墓とあの真っ黒な影のようなものとの関係は不明ですが、不思議な体験でした。

 実はこれ以前にも不思議な体験はあったのですが、夢なのか現実なのか区別ができないものでした。意識があるときの体験ははじめてでした。

K公園(1/2)

2004年10月21日 15時43分28秒 | 心霊スポット
 東京都K区にある区立K公園に通じる長さ50m幅4mほどの道路の両側に建つ家々で、1974年3月から翌75年5月までにつぎつぎと7人が亡くなりました。①~⑥は亡くなった方の家、×印は慰霊碑のあるところです。
  ①74年3月17日に82歳(あるいは83歳)の老婆が老衰で死亡した。
  ②4月3日に91歳の老人が同じく老衰で死亡した。
  ③7月4日に32歳の会社員が交通事故で死亡した。
  ④12月に30歳の男性が山岳事故で、75年1月1日に76歳の老人が老衰で死亡した。
  ⑤1月4日に76歳(あるいは70歳)の老人が老衰で死亡した。
  ⑥5月22日に22歳の会社員が交通事故で死亡した(あるいは自殺した)。
 この事件は、ある本に載っており、それには①~⑥が実名で書いてあります。その本をもっている人から実名を教えてもらい、ゼンリンの住宅地図でチェックしたら、⑤を除き、すべて実在しておりました。⑤だけは、マンションになっていて、確認できませんでした。

K公園(2/2)

2004年10月21日 15時42分08秒 | 心霊スポット
 この公園は、太平洋戦争で空襲を受けたとき、臨時の埋葬場所となり、300体以上の遺体が埋められました。1951年に遺骨の大部分は無縁仏として寺に葬られましたが、1966年に掘り返したところ、箱一杯の遺骨がでてきたそうです。
 1975年に公園内に空襲の犠牲者の慰霊碑を建立してからは、異変は鎮まったそうです。慰霊記念碑には、花と水が供えられており、つぎのように記されています。

  大東亜戦争犠牲者
  慰 霊 記 念 碑
     記
  昭和二十年三月より同年八月ま
  でにK地区において空襲をう
  け亡くなられた一般住民三百数
  十名の遺体がこのK公園内に
  仮埋葬されました
  昭和二十六年他え改装されまし
  たが茲に終戦三十年をむかえ亡
  くなられた方々の霊をなぐさめ
  るため有志の人が心をあわせて
  建立したものです
   昭和五十年七月十日
       K二丁目中町会
       K中央通り親和会

正丸峠の廃墟茶屋(1/2)

2004年10月21日 15時39分28秒 | 心霊スポット
 正丸峠は、秩父と江戸を最短距離で結ぶ道で、秩父でつくられた絹を運んでいました。ここには、古い順に、旧峠、正丸峠、正丸トンネル(旧)、正丸トンネル(新)と4つの道があり、ここでいう正丸峠は2番目の峠です。

 問題の廃墟茶屋は、峠を通る道路に面して建てられ、うしろの右側は山の斜面で左側は崖でした。建物は、L字型をしていて、だいたい12畳くらいの広さだと思います。
 道路に面した側は、シャッターと雨戸で閉じられていましたが、雨戸はところどころ外れており、落書きされていました。また、崖の側は崩壊寸前で、とても危険でした。
 写真の右側に写っている石段は、展望台に登る道で、そのまま行けば旧峠まで行けます。
 石段と建物の間に通路が2つあって、右の通路には、よく見ると、雪かき用の赤いプラスチックのスコップがおいてあり、展望台の下にある神社に続いています。左の通路は建物をまわれるようになっていました。

 ある霊能者によると、建物のガス・メーターの前に何者かに殺された男性の地縛霊がいるというのです。地縛霊といっても、ふつうは少しは動きまわるんだそうですが、この霊は、ぜんぜん動かずに、誰かを恨みながら、崖を見下ろしたままなんだそうです。