天気がよくなくて、自転車に乗れません。今は降ってないけど。。。ホントは、荒川(朝霞水門)~黒目川~野火止用水~玉川上水駅の地図をつくる予定だったんだけど、調べに行けません。(泣)
「石神井川に沿って」(荒川~玉川上水/玉川上水~荒川)、「玉川上水に沿って」(境橋~多摩川睦橋/多摩川睦橋~境橋)、「石神井川~神田川/神田川~石神井川」を「自転車地図」にまとめました。
歴史的に見ると、あまり積極的な価値がないけれど(無意味とか、無価値っていう言葉はどぎついからw)、なんか人気のある人、集団てありますよね。新選組とか、義経とか(今年と来年の大河だなw)。で、新選組について書いちゃおうと思っています。
今日の大河は「決戦、油小路」というタイトルで、新選組による伊東甲子太郎暗殺と、御陵衛士の殺戮をやるみたいです。で、NHKの「あらすじ」を見てみると、こんなことが載ってました。
松浦玲・著『新選組』(岩波書店、2003年)によると、伊東は、徳川慶喜の大政奉還を受け、「公卿政権論」を建白しました。これは、大政奉還後、政権を武門の合議に任せるのではなく、朝廷が直接掌握するという内容でした。その際、五畿内を朝廷の直轄領として経済的・軍事的基盤とし、大名に富国強兵を号令するというものです。
実現可能かどうかはともかく、薩長による王政復古とも、慶喜による大君政権とも異なる「第三の道」を伊東は構想していたわけです。
伊東は、こうした構想を掲げるにあたって新選組を利用したため、近藤勇らに憎まれ、暗殺されてしまいます。坂本竜馬暗殺の3日後の慶応3(1867)年11月18日、近藤は伊東を愛人宅に招き、酒を飲ませて酔わせたうえ、帰り道で隊士に暗殺させます。卑怯ですね。w
さらに、伊東の遺体を油小路に曝し、引き取りに来た御陵衛士を襲撃して殺戮しました。藤堂平助もこのとき殺されます。卑怯×2ですね。w
新選組も最初は「尽忠報国」っていうイデオロギーをもった思想集団でした。「尽忠報国」はほとんど「尊皇攘夷」と同じ意味です。ところが、四国連合艦隊による下関砲撃と薩英戦争の結果、攘夷は不可能ということがわかってきました。
ここで、薩長や坂本、伊東らは「大開国論」(欧米列強との貿易をとおして国力を強化し、列強に対抗できる国家になる)という路線に変わるのですが、新選組にはそういう方向性が現れませんでした。どっちかというと、尽忠は将軍に忠義をつくすこと、報国は幕府に報いること、に後退してしまったわけです。
山南敬介が脱走して切腹したあたりで、その傾向が明確になり、法度を破ったら、とにかく切腹というふうになってしまったのです。思想がなくなったんで、法度で縛るしかない、というわけです。
鳥羽伏見の戦い以前、約200人の隊士のうち、戦闘で死んだのは10人もいないのに、法度を破って切腹したのが30人もいたというのも異常です。ひどいのは、慶応元(1865)年6月21日の施山多喜人の切腹。土方が江戸から連れてきた新入りで、膨れ上がった組織を引き締めるため、見せしめで処刑されたようです。
しかし、伊東の暗殺と御陵衛士の殺戮は、のちのち近藤に祟ることになります。鳥羽伏見の戦いの直前、近藤は馬に乗っているところを、御陵衛士の残党に銃で撃たれ、負傷。戦いを指揮できませんでした。さらに流山で「官軍」に拘束されとき、「大久保大和」と名乗っていた近藤は、やはり御陵衛士の残党に見抜かれ、板橋で処刑されてしまいます。
あと、甲陽鎮撫隊の後、永倉新八と原田佐之助が、会津で「官軍」と闘うプランを近藤に伝えたとき、近藤に「家臣のくせに勝手なことをするな」と言われ、激怒して決別する、という話があります。永倉や原田は「同志」だと思っていたのに、近藤は「家来」だと思っていた、という話です。
こんな新選組をこの先どう「美化」していくのか、三谷幸喜さんの腕前拝見というところですね。w
「石神井川に沿って」(荒川~玉川上水/玉川上水~荒川)、「玉川上水に沿って」(境橋~多摩川睦橋/多摩川睦橋~境橋)、「石神井川~神田川/神田川~石神井川」を「自転車地図」にまとめました。
歴史的に見ると、あまり積極的な価値がないけれど(無意味とか、無価値っていう言葉はどぎついからw)、なんか人気のある人、集団てありますよね。新選組とか、義経とか(今年と来年の大河だなw)。で、新選組について書いちゃおうと思っています。
今日の大河は「決戦、油小路」というタイトルで、新選組による伊東甲子太郎暗殺と、御陵衛士の殺戮をやるみたいです。で、NHKの「あらすじ」を見てみると、こんなことが載ってました。
かつて勇(香取慎吾)の下で新選組参謀を勤めた伊東甲子太郎(谷原章介)。新選組と袂を分ち、自ら御陵衛士を率いる伊東は、尊攘派志士たちの会合に参加する。席上、持論を披露しようとする伊東だが、“元新選組”であることを嫌う公家の岩倉(中村有志)から屈辱的な扱いを受ける。そんな伊東に薩摩の大久保(保村大和)は、「岩倉の信用を勝ち取るために、近藤勇を斬れ」と迫る。
伊東は策を弄して勇の暗殺を企てるが、間者として御陵衛士に加わっていた斎藤(オダギリジョー)の通報で企ては新選組の知るところとなる。伊東は、平助(中村勘太郎)を使者として新選組へ送り、勇と二人で会いたいと申し入れる。二人きりの場で油断した勇を殺害するつもりでいた伊東だったが、勇を殺しても自分の立場は何も変わらないと気づかされ、和解して帰っていく。
しかし、話し合いによって決着したことを知らない大石鍬次郎(根本慎太郎)らの襲撃によって伊東は命を落す。言い訳の出来ない状況で伊東が落命したことを知った歳三(山本耕史)は御陵衛士と雌雄を決する覚悟を決めるが、試衛館以来の仲間である平助だけは助けるようにと指示を出す。
新選組は伊東の遺体を引き取りに現れた御陵衛士を七条油小路の辻で待ち伏せる。両者の激しい斬り合いの中、永倉(山口智充)たちは何とかして平助を逃そうとするが…。
松浦玲・著『新選組』(岩波書店、2003年)によると、伊東は、徳川慶喜の大政奉還を受け、「公卿政権論」を建白しました。これは、大政奉還後、政権を武門の合議に任せるのではなく、朝廷が直接掌握するという内容でした。その際、五畿内を朝廷の直轄領として経済的・軍事的基盤とし、大名に富国強兵を号令するというものです。
実現可能かどうかはともかく、薩長による王政復古とも、慶喜による大君政権とも異なる「第三の道」を伊東は構想していたわけです。
伊東は、こうした構想を掲げるにあたって新選組を利用したため、近藤勇らに憎まれ、暗殺されてしまいます。坂本竜馬暗殺の3日後の慶応3(1867)年11月18日、近藤は伊東を愛人宅に招き、酒を飲ませて酔わせたうえ、帰り道で隊士に暗殺させます。卑怯ですね。w
さらに、伊東の遺体を油小路に曝し、引き取りに来た御陵衛士を襲撃して殺戮しました。藤堂平助もこのとき殺されます。卑怯×2ですね。w
新選組も最初は「尽忠報国」っていうイデオロギーをもった思想集団でした。「尽忠報国」はほとんど「尊皇攘夷」と同じ意味です。ところが、四国連合艦隊による下関砲撃と薩英戦争の結果、攘夷は不可能ということがわかってきました。
ここで、薩長や坂本、伊東らは「大開国論」(欧米列強との貿易をとおして国力を強化し、列強に対抗できる国家になる)という路線に変わるのですが、新選組にはそういう方向性が現れませんでした。どっちかというと、尽忠は将軍に忠義をつくすこと、報国は幕府に報いること、に後退してしまったわけです。
山南敬介が脱走して切腹したあたりで、その傾向が明確になり、法度を破ったら、とにかく切腹というふうになってしまったのです。思想がなくなったんで、法度で縛るしかない、というわけです。
鳥羽伏見の戦い以前、約200人の隊士のうち、戦闘で死んだのは10人もいないのに、法度を破って切腹したのが30人もいたというのも異常です。ひどいのは、慶応元(1865)年6月21日の施山多喜人の切腹。土方が江戸から連れてきた新入りで、膨れ上がった組織を引き締めるため、見せしめで処刑されたようです。
しかし、伊東の暗殺と御陵衛士の殺戮は、のちのち近藤に祟ることになります。鳥羽伏見の戦いの直前、近藤は馬に乗っているところを、御陵衛士の残党に銃で撃たれ、負傷。戦いを指揮できませんでした。さらに流山で「官軍」に拘束されとき、「大久保大和」と名乗っていた近藤は、やはり御陵衛士の残党に見抜かれ、板橋で処刑されてしまいます。
あと、甲陽鎮撫隊の後、永倉新八と原田佐之助が、会津で「官軍」と闘うプランを近藤に伝えたとき、近藤に「家臣のくせに勝手なことをするな」と言われ、激怒して決別する、という話があります。永倉や原田は「同志」だと思っていたのに、近藤は「家来」だと思っていた、という話です。
こんな新選組をこの先どう「美化」していくのか、三谷幸喜さんの腕前拝見というところですね。w