夢枕獏さんがNHKの「知るを楽しむ」に出ていたらしい(再放送)。
▼この人この世界 夢枕獏の奇想家列伝
第3回「安倍晴明その一 『呪』(しゅ)の力」で、名も呪のひとつである、と語っていた。これは、彼の書いた小説にも、岡野玲子さんのマンガにも、出てくる話である。マンガが行方不明なので、人さまのブログでその部分を紹介する。w
この「呪はものを縛るものであり、名前はものの根本的な在り様を縛るものである」という考え方はある意味、現代言語学にも通じるものがある。
▼この人この世界 夢枕獏の奇想家列伝
第3回「安倍晴明その一 『呪』(しゅ)の力」で、名も呪のひとつである、と語っていた。これは、彼の書いた小説にも、岡野玲子さんのマンガにも、出てくる話である。マンガが行方不明なので、人さまのブログでその部分を紹介する。w
「呪とは名ではないか。」
「目に見えぬものさえ名という呪で縛ることができる。」
「たとえばここに、人の形に似た石があるとするな。
それはつまり、人という呪をかけられた石だ。」
「石の霊が、人の霊性をわずかながら帯びることになる。」
「皆がこの石を拝むことになれば、
その石に、さらに強い呪をかけてしまうことになる。
帯びる霊性も強くなる。」
▼陰陽師
『陰陽師』なる映画がヒットして、まだ、ブームは去っていない。舞台は平安時代。平たく言うと呪術を行う陰陽師(おんみょうじ)である安倍清明ママ(あべのせいめい)の活躍を描いた物語である。映画のヒットを知って、夢枕獏原作のコミック全12巻を読んでみることにした。第1巻で清明ママは、呪(しゅ)と呼ばれる呪い・まじないの一番短いものが、名前であると説明する。彼によると、呪はものを縛るものであり、名前はものの根本的な在り様を縛るものであると言う。個人の名前も、山も海も草も木も、人が「そのようにあれ」との願いをもってその存在に名前をつけたということであろう。
事実、庭の藤の木は「みつむし」と彼が名づけたが故に、彼を想い始め、彼が旅から帰るまで花を散らせずにいる。そして、彼の友、源博雅(みなもとのひろまさ)は羅城門の鬼に自らの名を名乗ってしまったが故に、鬼の「動くな、博雅」の声に金縛りにあう。その時、居合せた清明ママはなぜ金縛りにあわずに済んだか。何かの高等な呪術を使った訳ではない。その鬼に偽名を名乗り、名を呼ばれても金縛りに合わないようにたぶらかしただけである。「命名」と言う言葉が「命」を含むが如く、名前はそれを付けた者の願いが付けられた者の人生や存在を縛る形であり、その「命」たる名前をむやみに人に教えるものではない。大変勉強になる考え方である。
▼増刊第5号:功名の対価
この「呪はものを縛るものであり、名前はものの根本的な在り様を縛るものである」という考え方はある意味、現代言語学にも通じるものがある。
…言語の恣意性ということからは、次のような重要な観点をわたしたちにもたらす。それはつまり、言葉というものは、すでに客観的に存在する事物の秩序に、わたしたちが記号によって名前をつけていったものではなく、むしろ、事物の秩序とは、人間が言葉によって編み上げたものにほかならない、という見方である。
丸山圭三郎は、この見方こそソシュール言語学のもっとも重要な核心であり、これによってそれまでの言語学(言葉は客観的な事物の秩序に名前=記号を与えたものだとする「言語名称観[ノマンクラチュール]」)の見方が、根本的にひっくり返されることになったこと、さらにそれだけでなく、この見方は、ヨーロッパの哲学や認識論を通底していた「実在論」の発想を打ち砕き、「関係論」という新しいパラダイムを導き入れる重要な転回点になったことを指摘している。
(中略)
[ソシュール言語学の最も重要な核心]は、わたしたちは知らず知らずのうちに言葉というものを、事物の客観的な秩序を正しく写すための道具だと考えているが、じつはその認識の道具としての言葉が非常に謎めいた性格を持っているということに着目させた点である。
さしあたり明らかになったのは、まず客観的な事物の秩序(実在の秩序)があり、それを言葉が呼び当てるのでなく、むしろ人間の言語行為が、いわば網の目のように絶えずこの秩序を作り上げており、しかもまだ絶えずそれを編み変えていくのだということである。この見方は、すでにすこし触れたように、人間は事物の「実在」に対して言葉を介してむきあっているのではなく、むしろ言葉は、人間が事物に対して取っている実践的な「関係」を表現しているのだという新しい観点を導くことになったのである。
▼ソシュール言語学の概要