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檄文!

2005年12月02日 16時22分22秒 | 登山
2ch「登山キャンプ板」の某スレで見つけた檄文!w
>>125テラワロス

124 名前:底名無し沼さん[sage] 投稿日:2005/12/02(金) 12:14:09
諸君 私は登山が好きだ
諸君 私は登山が好きだ
諸君 私は登山が大好きだ

バーベキューが好きだ
キャンプが好きだ
川遊びが好きだ
飯盒炊爨が好きだ
山登りが好きだ
ロッククライミングが好きだ
ビバークが好きだ
トレイルランニングが好きだ
雪山が好きだ

平原で 山道で
谷間で 尾根で
雪渓で ガレ場で
山頂で 大釜で
悪沢で 岩場で

この地上で行われるありとあらゆる団体登山が大好きだ


125 名前:底名無し沼さん[sage] 投稿日:2005/12/02(金) 12:14:54
ジジババの団体が山小屋をふさぐのが好きだ
空中高くまわり道もない一般登山者のスケジュールが
台無しになった時など心がおどる

ジジババの操る無理難題の嵐が小屋番を困惑させるのが好きだ
精根尽き果てて逃げ出すアルバイトを散々こきおろした時など
胸がすくような気持ちだった

足並みを揃えたジジババの縦隊が登山道を占領するのが好きだ
恐慌状態の新顔が既にバテバテの連れ合いを
何度も何度も急かしている様など感動すら覚える

遭難者をヘリコプターで吊るし上げていく様などはもうたまらない
泣き叫んでいたジジババ達が私のヘリから降りた途端に金切り声を上げて
救助費用を押し付けあうのも最高だ

哀れな一般ハイカーが無理な日程で健気にも日帰り登山しているのを
コーヒー片手に眺める時など絶頂すら覚える

不意の雪崩に滅茶苦茶にされるのが好きだ
必死に守るはずだった仲間が蹂躙され埋められて死んでいく様は
とてもとても悲しいものだ

連日の悪天に打ちのめされて敗退するのが好きだ
登頂もできずに芋虫の様に元来た道を引き返すのは屈辱の極みだ


126 名前:底名無し沼さん[sage] 投稿日:2005/12/02(金) 12:16:17
諸君 私は登山を 地獄の様な登山を望んでいる
諸君 私と趣味を同じくする団体戦友諸君
君達は一体何を望んでいる?

更なる登山を望むか?
情け容赦のない糞の様な登山を望むか?
鉄風雷火の限りを尽くし三千世界の鴉を殺す嵐の様な登山を望むか?

『登山! 登山! 登山!』

よろしい ならば登山だ


127 名前:底名無し沼さん[sage] 投稿日:2005/12/02(金) 12:16:40
我々は渾身の力をこめて今まさに振り降ろさんとする握り拳だ
だがこの暗い闇の底で半世紀もの間堪え続けてきた我々にただの登山ではもはや足りない!!

百名山を!!
一心不乱の百名山を!!

我らはわずかに一個大隊 千人に満たぬジジババに過ぎない
だが諸君は一騎当千の古強者だと私は信仰している
ならば我らは諸君と私で総力100万と1人の迷惑団体となる

我々を忘却の彼方へと追いやり眠りこけている連中を叩き起こそう
髪の毛をつかんで引きずり降ろし眼を開けさせ思い出させよう
連中に冒険の味を思い出させてやる
連中に我々の山靴の音を思い出させてやる

天と地のはざまには奴らの哲学では思いもよらない事があることを思い出させてやる
一千人の百名山ハンターの団体様で日本を燃やし尽くしてやる

「百名山ジジババ団体様指揮官より全旅行会社へ」
目標乗鞍スカイライン到着!!

第二次深田久弥作戦 状況を開始せよ
征くぞ 諸君


128 名前:底名無し沼さん[sage] 投稿日:2005/12/02(金) 13:39:37
趣旨を3行にまとめてくれたら読んであげる
コメント (4)

鱒ますとび飛ますとびの滝

2005年11月27日 00時53分13秒 | 登山
人の生死にかかわる問題なんで笑っちゃイカンのだろうが…

  沼田署の調べによると、女性は吹割渓谷遊歩道から同滝の岩場に入り、滝をのぞき込んでいたところ、誤って転落したらしい。女性は同滝から二百㍍下流の「鱒ますとび飛ますとびの滝」の滝つぼに落ちてから、行方がわからなくなったという。

足滑らせ女性転落 沼田吹割の滝(上毛新聞 2005年11月26日)

明らかにタイプミスだよなぁ。
コメント (2)

富士山頂から滑落したチェコ人学生、遺体で発見

2005年11月25日 20時53分36秒 | 登山
富士山の山頂付近からチェコ人学生が滑落する事故が起きていた。

富士山で外国人学生滑落 御殿場署に救助求める
  21日午後1時15分ごろ、富士山山頂付近で、チェコの男子学生2人が下山中、1人(25)が滑落した。残った1人が須走口五合目まで下りて、山小屋から御殿場署に救助を求めた。
  県警ヘリが出動したが日没のため、22日午前5時から山岳救助隊4人による捜索活動を行う。同署によると、学生2人は21日午前1時ごろ河口湖口を出発して正午ごろ富士山頂に到着。午後1時ごろに下山を開始したという。

静岡新聞(2005/11/21)

その遺体が発見されたのだが…

チェコ人学生の遺体発見 富士山で滑落
  県警御殿場署は23日、富士山の山頂付近で滑落し行方不明になっていたチェコ国籍の大学生(25)の遺体を同日朝、標高約2400メートルの本五合目付近で発見、収容したと発表した。
  大学生は21日に同国籍の友人と山梨県側から山頂に登り、静岡県側に下山する途中だった。

静岡新聞(2005/11/23)

頂上から5合目までって、高低差が1300mもあるよ。さらに…

富士山で滑落のチェコ人、遺体で発見 /静岡
  今月21日に富士山で遭難し行方不明になったチェコ国籍の男子学生(25)が23日、遺体で見つかった。死因は凍死。学生は山頂付近の登山道から21日午後1時過ぎに滑落し、死亡推定時刻は滑落から約7時間後。遺体は標高2400メートル付近で発見され、遺体のそばに足跡があったことから、滑落後に自力で歩いてきたとみられる。(御殿場署)

毎日新聞 2005年11月24日

死因が凍死で、滑落しても死ななかったとは…。
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宮地山・用沢川で転落事故

2005年11月22日 16時32分13秒 | 登山
宮地山(1112.1m)で72歳の男性が用沢川の河川敷に10m転落して死亡したらしい。

大月・登山の男性が遭難、死亡/山梨(毎日新聞 2005年11月21日)

昭文社の『山と高原地図』(大菩薩連嶺)によると、宮地山への登山道は難路なので、経験者じゃないと無理だと思われ。この人、宮地山からショウジ峠まで行き、ショウジ坂を下って用沢川沿いの小路を歩いている途中で事故にあったようだ。上記の地図には、「宮地山・セーメーバン山周辺は晩秋-早春を中心に歩かれるが、道標も皆無に近く経験者向」とのこと。

推定したルートと断面図




急坂で転落したんじゃないみたい。カワイソス。
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たった1人の捜索にヘリ44機とは…。~旭岳遭難事故~

2005年11月16日 14時15分00秒 | 登山
2chの「登山キャンプ板」で自衛隊を叩いている香具師がいたので、なぜだか調べたら、こんなことがあったらしい。

2005年10月 旭岳遭難事故
のんびり歩く大雪山

第5旅団は8日間で延べ166人、車両23台、ヘリ18機を投入。旭岳の捜索を担当する第2師団は同じ期間で、延べ222人、車両28両、ヘリ26機だった。結果、自衛隊だけで延べ388人を投入、ヘリ44機、車両51台という異例の大捜索となった。

って、民間人だったら、こんな大捜索してもらえないぞ。

第2師団と第5旅団を統括する北部方面総監部(札幌市)広報室は、第5旅団は陸曹長を識別できるので、今回現場に行った。遭難したのが民間人であっても、その人の特徴を知っている自衛官がいれば、自衛官を増援に出すことはある」と話している。

オイオイ、街中での人探しじゃないんだぞ! なんだ、このワケのわからんイイワケは…。


ぜんぜん関係ないけど、筑波山で大学教授が行方不明になったらしい。先生、山をなめちゃダメですよ。

大学教授、筑波山で行方不明に ガマの油取材途中(asahi.com)
コメント (2)

奥多摩の忌み地・忌み山の話

2005年11月10日 13時48分16秒 | 登山
2chの「民俗学・神話学板」のこのスレに、奥多摩の「忌み地・忌み山の話」が載っていた。

【忌み地・忌み山の話】

4 :ブクタブクオ:03/08/31 10:49
【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ―
・倉戸(クラド)
  奥多摩第2駐車場から仰ぎ見る倉戸山。その裾に当たる現在のバス停付近は、かつて悪い事がある場所として近在に知られた祟り山である。昔、何者かが炭焼き窯の中で死んでいた。その霊を祀るために碑を立てたが、誰が作業をしても怪我をしたり、火を出したりと非常に不首尾な事が起こる。今もってジメジメした寂しい北面の山側で、もとは個人持ちの山で幾人もの手を渡り歩いたが、最後に埼玉県入間の医師が所有した後に都が買い上げ、公園管理団体のもとに置かれている。

56 :【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ―:03/08/24 00:46
【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ―
・御霊の尾根(ミタマノオネ)
  海澤の東側の山続き、大岳山から北へ抜けた大楢峠から城山の間にある。山の形がイハイに似てるので位牌山とか御霊山とか呼び、非常に悪い処だという。この山に自害沢(ジガイサワ)と呼ぶ沢があり、その昔日本武尊が従者を十人連れてここまで来たが、何かの理由で従者たちが自害してしまった。又は、自害したのは旅の六部とも平家の落人ともいう。その祟りでか、この自害沢に入って作業(山仕事)をした者は、山の中で必ず死ぬ。それでここに入って死んだ者が出た家から位牌が出るから位牌指(イハイザス)とも呼ぶ。以前、ここに従者十人の位牌が飾ってあったという。所有者が指(タカザス)と名を変えたが、誰も買い手がないので都に売却し、今では奥多摩記念林の一部になっている。

12 :天之御名無主 :03/08/31 20:02
57 :【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ― :03/08/24 01:00
・天蓋山(テンガイヤマ)
  海沢の北にある600余米の高さの山で、山頂近くは誰も入らないので雑木が茂っている。昔の野辺送りに棺の上にかざす「天蓋」そっくりの形をしている。タツガイトとも呼ぶ人もいる。この山は買う者、売る者、木を切る者に悪い事があるという。上坂の人が買う算段をしていた時、三つになる子供が囲炉裏で火傷し、経過が悪くて亡くなってしまった。天蓋山には庚申が祀られているが、この庚申様が火傷させたのだという。

13 :天之御名無主 :03/08/31 20:03
58 :【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ― :03/08/24 01:15
・病ヶ沢(ヤマイガサワ)
  日原、川苔谷の支流、逆川の奥にある。周囲はかなり広い手付かずの山林で、昔、ここに宿っていた法師が命を捨てた所だとも、落人が逃げてきて首を斬られた所だともいう。ここで一山買ってのべつに仕事をすると必ず病気に罹ったり死人を出すという。眼患に罹り、「銭ばかり掛かる」と言う人もいた。町が買い上げ町有林になり、名前も(病まぬヶ沢)にしたが、誰も山仕事に行かぬという。

14 :天之御名無主 :03/08/31 20:04
59 :【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ― :03/08/24 01:31
・骨窯(コツガマ)
  病ヶ沢(ヤマイガサワ)の川向こうにある所で、そこで炭を焼くと死ぬというので誰も木を切りに行かない。太い楢がツクツクと生えていて陰気な所だという。他にもカワナの屋敷地、または屋敷谷戸(ヤシキド)ともいう皿の割れた物が出る場所もあり、理由は分からないが悪いところなので小屋掛けをしたり、作場をきる事はしないという。カワナの屋敷地に小屋を掛けたら、天狗に小屋ぐるみ揺すられたので以後は行かないという人もいる。

15 :天之御名無主 :03/08/31 20:04
60 :【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ― :03/08/24 01:38
・食わない作り(クワナイヅクリ)
  日原川沿いの大澤部落の山の上にあり、ここでいくら耕作しても食えずに死ぬという。以前、ここに金剛寺という寺があったという。個人持ちの山だが短期間に何人もの持ち主が変わっている。

16 :天之御名無主 :03/08/31 20:05
61 :【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ― :03/08/24 01:49
・位牌山(イハイヤマ)
  大澤地区と同じ日原川沿いの寺地地区にある。裏手の峰畑では塔婆山(トウバヤマ)とも呼ばれ、位牌の形だ、塔婆の形だと言ったりしている。昔、炭焼き小屋に法印様が泊ったが、貧困に喘ぐ炭焼きが金欲しさに殺してしまった。あるいは栗拾いが法印をヨキ(斧)で殺したともいうが、兎に角それ以来祟る山になったという。大体買主に祟るが入る者にも良くない事があり、九人でそれぞれ炭を焼いたらどの窯もみな火が消えたという。

17 :天之御名無主 :03/08/31 20:05
64 :【祟り山】― 東京都奥多摩町氷川から小河内ダム周囲 ― :03/08/25 03:04
・位牌平(イハイデーロ)
  青梅街道を奥多摩駅からダムに向かった先、境地区にある。元は子安平(コヤスデーロ)と呼んだが、何か良くない事がありそう呼ぶようになった。祟り山で作場を作ったりするのを嫌う。この付近では入ったり炭を焼くのを忌む場所は他にも多く、それらを皆、地獄谷戸(ヂゴクト)と呼び、誰かが仕事で怪我か死亡した場所であり、人名を冠して誰々ヂゴクと呼ぶ。

18 :天之御名無主 :03/08/31 20:06
66 :【祟り山】― 東京都奥多摩町氷川から小河内ダム周囲 ― :03/08/25 03:37
・生首(ナマクビ)
  六ッ石山へ向かう途中の集落、水根にある祟り山。昔からその山を買うと身体から首が離れるような事になる(いわゆる斬罪、獄門首になる)といわれ、誰も買いたがらない。新梨尾、出野萱の両方も祟り山だと言う。

19 :天之御名無主 :03/08/31 20:07
67 :【祟り山】― 東京都奥多摩町氷川から小河内ダム周囲 ― :03/08/25 04:09
・位牌窪(イヘークボ)
  御前山の北西を下るミズクボ沢がダムに流れ込む辺りをいう。昔、伊平という炭焼きが窯に火を入れていたが、山崩れで窯と一緒に樹の下敷きになって死んだ。それ以来ここで木を伐ると怪我をしたり、呼んだりするので気味悪がって山仕事をするのを嫌うという。湖岸道路に面しており、今では林業作業車やブルドーザーが唸りを上げて稼働している。

5 :【祟り山】― 奥多摩町氷川から小河内ダム周囲 ―:03/08/31 13:21
・居合澤(イヤイザワ)
  倉戸山の奥手の祟りある山で、永い間に木の葉が深く積もってブクブクとしている陰気な沢である。戦前まで此の沢で材木の太いやつ程もある蛇を見た者がいた。また、頭が尾羽の方にも付いている山鳥が住んでいるといい、炭焼きは入ったりするのさえ嫌がった。ここは元の地主が祟ると言われ、ある一家が買ったところお祖母さんがランプを灯すのに失敗し、体に火が付いて亡くなり続いて孫も火傷で死んだという。人の手を渡り続け、都の所有になる前には薪炭組合の所有になっていた。

20 :【祟り山】― 奥多摩町氷川より小河内ダム周囲 ―:03/08/31 20:29
・北蓑戸(キタミノト)
  奥多摩周遊道路のダム側ゲートを過ぎて数キロ行くと交差点があり、山の「ふるさと村」に向かう道がある。ここよりふるさと村へ数百メートル進むと一本目の橋がある。「北蓑橋」・・・。この辺りは昔、糠指(ヌカザス)といい、北蓑橋の下を流れる谷を着タ蓑戸(キタミノト)と呼んだ。昔、ある夏の雨の降っている日、ある人がここで炭を焼いていたが、眠り込んでしまい、着ていた蓑に火が付いて焼け死んでしまった。それで「着タ蓑」と云う名前が付いた。ずっと昔の事で、それ以来この山に入ったり、所有者になると必ず不幸があるといわれた。蓑を焼いて死んだ人の次の持ち主は火傷で死に、南集落(現在矢久亭のあるところ)のある人はここで狸に化かされ、裸足で歩き回りながら死んだりしたという。埼○銀行某支店の頭取が持っていたときは子供が次々に死亡し、支店の経営も上手くいかず財産が1/10になってしまった。また、ここで働かせていた林業労働者が崩落で6人死亡する事故も起き、とうとう困り果て塔婆を建てて捨て値で売却した。以後も人手を転々とし、最後に鳩和木材株式会社から都に買い取られ、今では何も知らないレジャー客を呼び寄せている。

28 :【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ―:03/09/02 04:21
・新発意(シンボチ)
  北蓑橋の先、「山のふるさと村」のある辺りは岫沢(クキサワ)と呼ぶ地区である。実は此の場所も、以前は新発意(シンボチ)と呼ばれる祟り山であった。新発意(シンボチ)というのは浄土真宗などでいう若年の遊行僧で、それが何かの理由でここまで来て死んだ場所でといわれている。雨の降る時は出てきたという話が残っており、シンボチ小僧がいるなどと言われていた。またここで作場を切った人が猪を追うための小屋を掛けていたが、その猪に当たって死んでしまった事もあるという。南地区(矢久亭や深山荘のある場所)の人が持っていたが、その家には馬鹿(精薄)・気狂い・目ッカチ(片目)の子が生まれたり、首を振る婆さんが出た。それでもまだ持っていたら遂に破産してしまったと、此の付近の老人はどこでも知っている。

29 :【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ―:03/09/02 05:14
・児沢(コサワ)
  「山のふるさと村」のレストハウスの直ぐ先にある沢で、昔は良いワサビが採れる田があった辺りだ。他の所では絶対に見られないアヤメが咲いているので、誰かを葬って植えたのだろうという。今までに山仕事で二人程死んでいるほか、炭を焼くと必ず不幸があるといい、ある人は両親と妻の三人をいち時に亡くしたという。

30 :【祟り山】― 東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲 ―:03/09/02 05:47
・種ヶ岩(タネガイワ)
  都民の森として整備された三頭山のどこかにある岩で、この岩の横の窯で炭を焼くと、火の中に頭を割られた男がじっと睨んでいる。昔長野から山梨まで種売りに来た男が、残りを桧原で捌こうとここまで来たところ日が暮れ、炭焼き窯の側の岩で野宿をしていた。早朝に炭焼きがやって来て、売上金欲しさに殺して窯で焼いたのだといわれ、ここでは炭を焼かない。

近くを通った場所もある。ガタガタ((((((゜д゜))))))ブルブル
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天祖山で道に迷った人たち

2005年11月09日 16時08分39秒 | 登山
オイラの経験を2chにカキコしたところ、いろいろな情報が寄せられました。やっぱり天祖山で迷った人は多いみたいです。そして、日付に注意してください。みんな今ごろでしょ。原因も、枯葉で登山道が埋められ、紅葉でテープを見失う―ほぼ同じですね。

初めてのビバーク、熊 in 奥多摩 天祖山(99年11月6日)
失敗山日記 by 山へ行っちゃあいけない男(登山不適格者?)

★天祖山[1723.2m]★(2004年11月13日)東京都西多摩郡奥多摩町
晴れ女 活動日記
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奥多摩・天祖山で滑落事故

2005年11月08日 13時53分32秒 | 登山
NHKのラジオ・ニュースで聴いたのだが、11/7(月)、奥多摩にある天祖山付近(麓から3km)で私立女子大生(21歳)が70m滑落して死亡した。4人グループで植生調査のため入山し、男子学生(20歳)も滑落したが救出された。
  カシミールで調べると、八丁橋~天祖山頂は3.13kmなので、山頂手前あたりだと思われる。
  2000年11月9日に登ったが、かなり登りがきつい山だった。そのくせ、山頂の神社周辺では眺望が望めなかった。自らの意志で登山道から離れたのか、迷ったのかは、不明だが、この季節だと、登山道を示す赤いテープを紅葉で見失ったのかもしれない。実際、オイラは下りで見失って迷い、予定していたバスに乗り遅れてしまった。

登山再現ログ(2000年11月)《2000年11月9日(木) 天祖山》

今回の事故は載ってないけど、けっこう事故が起きている。

奥多摩消防署管内山岳事故発生状況
奥多摩消防署

    平成14年8月1日18時頃 石尾根 60代男性 登山道で転倒

    ▼氷川地区周辺の山岳事故発生状況

これって、オイラが見つけて、警察に知らせた人じゃん。

登山再現ログ(2002年6~8月)《2002年8月1日(木) 鷹ノ巣山・石尾根》
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八甲田山死の彷徨

2005年01月18日 02時26分29秒 | 登山
 前回の『空と山のあいだ~岩木山遭難・大館鳳鳴高生の五日間』に続いて、新田次郎・著『八甲田山死の彷徨』(新潮文庫、1978年[単行本は新潮社より1971年に刊行])を読みました。この小説は、1902(明治35)年1月、陸軍の青森第5連隊の雪中行軍隊210人が、雪中行軍中に遭難し、199人が死亡、11人が生存した事件をあつかった小説です。題名が「八甲田山…」なので、山で遭難したようなイメージがありますが、山ではなく雪原での遭難です。それから、小説なので、すべて事実というわけでもありません。

映画の「八甲田山」
 映画「八甲田山」(製作:橋本プロ・東宝映像・シナノ企画、配給:東宝、1977年)にもなりました。私は、小説よりも先に、こっちを見ました。あと、TVドラマもあったんですね。「風雪『雪の進軍』八甲田山の悲劇」(NHK総合テレビ、1965年放送)と、「八甲田山」(TBSテレビ、1978年6回連続ドラマとして放送)です。NHKのドラマは新田次郎の小説よりも古いです。ただし、どっちも見てません。。。
 新田次郎の『八甲田山死の彷徨』は、歩兵第5連隊・編『歩兵第5連隊 遭難始末』(1902年)と、陸上自衛隊第5普通科連隊『陸奥の吹雪』(1965年)をもとに書かれました(あと、小笠原孤酒・著『吹雪の惨劇』(1970年)という本もあります)。小説なんで、実在の人物とは名前もちがっています(実名[小説での名]…映画での配役)。
  弘前第31連隊・第1大隊・第2中隊長:福島泰蔵[徳島]大尉…高倉健
  青森第5連隊・第2大隊・第5中隊長:神成文吉[神田]大尉…北大路欣也
  同・第2大隊長:山口[山田]少佐…三国連太郎
  同・第2大隊本部:倉石一[倉田]大尉…加山雄三
 映画の印象をひとことでいうと、高倉健(・∀・)カコイイ!(加山雄三も) 北大路欣也(ToT)カワイソ! 三国連太郎(`Д´)氏ね!です。小説でも山口[山田]大佐が悪人にされてますが、実際はぜんぜんちがうみたいです。三国連太郎さんっていうと、最近は「釣りバカ日誌」のスーさんですが、むかしは小沢栄太郎さんとならぶ悪役でした。逆ギレしたように「神田! 神田はどこだ! 神田大尉!」ってわめき散らしているのを見ると、思わず殺したくなります。w

雪中行軍の背景と計画
 日露戦争(1904~05年)をひかえ、弘前の第8師団は、ロシア艦隊の津軽海峡封鎖と艦砲射撃による鉄道爆破を想定し、冬季の八甲田山系の縦断が可能か否かを考えていました。そして、青森の歩兵第5連隊と弘前の歩兵第31連隊が別々に雪中行軍を計画しました(小説と映画では競争させる形になっています)。
 31連隊では、第1大隊第2中隊長・福島泰蔵大尉が指揮官となり、ほかに将校2名、見習士官7名、見習医官2名、下士官19名、看護手2名、兵卒4名の計37人に、地元新聞社の東奥日報の従軍記者1名を加え、合計38人でした。経路は、弘前~小国~切明~銀山~(十和田湖南岸)~宇樽部~中里~三本木(十和田市)~増沢~田代~田茂木野~青森~浪岡~弘前で、約210kmです。先導は案内人にまかせ、荷を少なくするため、民泊を予定していました。
 5連隊は、第2大隊第5中隊長・神成文吉大尉を指揮官としましたが、はじめは第7中隊長・原田清治大尉が指揮官でした。しかし、夫人出産のため、急遽交替したのです(小説にも映画にも出てこない話)。編成は、将校9名、軍医1名、見習士官2名、特務曹長4名、下士卒194名に、臨時移動大隊本部16名を加え、合計210名でした。経路は青森~田茂木野~田代~増沢~三本木でした。

弘前第31連隊の雪中行軍(地図はここをクリック)
 31連隊は、1902(明治35)年1月20日に弘前を出発、唐竹を経て小国に泊まりました。翌21日は切明、22日は銀山、23日は宇樽部まで行軍しました。第5連隊が遭難したのはこの夜でした。
 翌24日は、吹雪の中、犬哭峠を越えて中里まで行軍するのですが、山本ハル[滝口さわ](…秋吉久美子)が案内人でした。中里に無事到着したとき、映画だと「案内人殿に頭…右!」っていう感動的なシーンがあるんですが、小説だとこうなります。
 雪道を下って行くと、下から、戸来付の在郷軍人五名が軍服姿で出迎えに来た。そこからは歩くだけだった。下に部落が見えると、徳島大尉は、さわ女に案内料科として五十銭玉一個を与えて、
「案内人は最後尾につけ」
 と大きな声で怒鳴った。
「もう用はねえってわけかね」
 さわ女が言った一言は、それを聞いていた隊員たちの心を打った。隊員たちは心の中で彼女にすまないと思った。

 31連隊が中里に泊まった25日未明、旭川で氷点下41.0℃が観測されました。日本の最低気温の記録です。その日は三本木まで行軍しました。26日に増沢着、27日、熊ノ沢の案内人7名を連れて田代に出発しました。
 28日、田代を出発した31連隊は、鳴沢付近で雪中に立ててある小銃2挺と2名の遺体を発見しました。青森市の灯りが見えると、福島大尉は、案内人に汽車賃として2円(小説では50銭!)ずつ渡し、過去2日間のことは口外してはならないと言って、案内人を置き去りにして田茂木野に向かって行きました。
 映画の福島[徳島]大尉は、案内人が軍の取調べにあわないように配慮した、というニュアンスで描かれていますが、小説では、上記のさわ女の件といい、冷徹な人物として描かれています。そして、この冷徹さがこの雪中行軍を成功させたというわけです。
 尾崎秀樹は、新田の『孤高の人』(新潮文庫、1973年)の「解説」で、新潮社刊の〈新田次郎山岳小説シリーズ〉の帯にある新田の言葉を紹介しています。
「なぜ山が好きになったのか私には分らない。山がそこにあるから、などという簡単なものではない。私が信濃の山深いところに育って、そして今は故郷を離れているという郷愁が私を山に牽(ひ)きつけたのかもしれない。しかし、これは私なりのこじつけで、私のように山国の生れでない人で、私より以上に山を愛する人がいるのだから、山が好きだということは、もっと人間の本質的なものなのかもしれない。私は山が好きだから山の小説を書く。山好きな男女には本能的な共感を持ち、彼等との交際の中に、他の社会で見られない新鮮なものを見つけ出そうとする。のびのびとしたように見えていて、実は非情なほどきびしい山仲間の世界の中の真実が私には魅力なのである」

新田は「非情なほどきびしい山仲間の世界の中の真実」が好きなのです。

青森第5連隊の雪中行軍
 1月23日、5連隊雪中行軍隊は営舎を出発しました。2列縦隊のカンジキ隊を先頭に、中隊を5小隊に分け、後に食料・燃料・炊事道具をソリ5台に分けた行李輸送隊、最後尾に臨時移動大隊本部がつきました。
 田茂木野を通過すると、老人が近寄って、行軍をやめるように言いました。昔からこの日は荒れるというのです。しかし、大隊本部の将校たちは老人に罵声をあびせました。老人はどうしても行くのなら案内人を出そうと言いますが、案内人などいらんと追い返してしまいました。小説と映画では山口[山田]少佐がひとりで怒鳴ってました。

 田茂木野を過ぎると、急勾配となり、積雪も増えてきました。後の行李隊が遅れはじめました。正午前、小峠で行李隊を待っても着かないので、昼食をとりました。天候が悪化し、寒気が激しくなり、空も荒れてきました。携行してきた握り飯が凍結していました。1時間半遅れで行李隊が到着しましたが、汗で濡れた身体が冷え、外套の裾は凍っていました。気温は-11℃でした。
 私は、-5℃の七ツ石山山頂で、コンビニのオニギリを食べたことがあります。さすがに凍結はしていませんでしたが、手袋したままじゃ食べられない(というか食べるのがイヤな)ので、はずしたら、寒いというより、痛かったです。(泣)
 軍医が神成大尉に、悪天候での行軍はムリで、凍傷患者が続出する、と帰営を進言しました。大尉も賛同しましたが、軍の威信を気にして、山口少佐に指示を仰ぎました。全将校が集まって会議を開きましたが、将校は軍医に賛同したものの、見習士官が進軍を唱えました。これに下士官が加わったので、行軍となってしまいました。小説では、ここでも悪役は山口[山田]少佐です。下士官に押されて、進軍を命じてしまいます。

 正午、行軍が再開しましたが、吹雪で真っ白な雪の原っぱとなってしまいました。大峠では猛吹雪で目印が何も見えなくなり、行李隊はますます遅れていきました。大滝平、賽の河原では積雪は腰を越えていました。
 本格的な雪山は体験していませんが、丹沢の塔ノ岳から丹沢山まで、膝くらいの雪を往復したことがあります。ラッセルしてくれる人なんていませんから、ひじょうにくたびれました。腰までなんて、どんなにたいへんなのでしょうか。
 午後4時ごろ、馬立場に到着しました。田代までは約3Kmですが、行李隊が2Kmも遅れていました。神成大尉は、第2・第3小隊を行李隊の応援に向かわせ、15名の先行隊を田代に行かせました。ここでの積雪は胸~肩くらいの深さだったそうです。
 鳴沢でソリを放棄し、燃料と食料は行李隊員が背負うことになりました。先行隊は、猛吹雪と豪雪のため、行軍隊の最後尾に戻って来てしまいました。山口少佐は、中尉と見習士官3名に斥候を命じましたが、進路は発見できませんでした。
 夜8時、田代まで1.5kmの地点で雪濠を掘って露営することになりました。このとき、まず各小隊の雪濠を掘り、大隊本部の雪濠は最後になりました。しかも、将校が8割がたつくったそうです。下士卒の中から凍傷患者を出さないようにとの山口少佐の配慮だったのですが、小説や映画にはぜんぜん出てきませんね。

彷徨(地図はここをクリック)
 1月24日の深夜1時、ようやく食事が配られたが、底が土までとどかない雪濠だったため、熱で雪が解けてしまい満足に米が炊けません。半煮えの粥を口にしただけでした。山口少佐は、凍傷患者が出ることを恐れ、予定を繰り上げて帰営することにしました。午前2時半、雪壕を出たときの気温は-24℃でした。
 雪中行軍隊は、馬立場を目指しましたが、悪天候で進路を誤り、鳴沢の渓谷に入ってしまいました。がけをよじ登りましたが、転落する兵が続出しました。しかし、暴風と豪雪のため、このことに気づかない者が多かったようです。
 大隊本部付きの佐藤[進藤]特務曹長が、山口少佐に田代への道を知っていると言い出し、少佐は特務曹長に案内を命じました。行軍隊は、再び田代に向かいましたが、周囲を絶壁に挟まれた駒込川の本流の深い谷に迷い込んでしまいました。転落者を出しながら、ようやく高地に着いたとき、第4小隊長・水野中尉が凍死しました。
 午後5時すぎ、小規模なくぼ地で露営したが、疲労と凍傷で兵がつぎつぎと倒れていきました。犠牲者は40名にのぼりました。

 1月25日、吹雪はつづき、隊員は過労と空腹でつぎつぎと倒れていきます。山口少佐は自分では歩けなくなり、先頭で指揮をとったのは神成大尉と大隊本部の倉石大尉でした。磁石が凍って使えなくなったため、地図だけで馬立場を目指しました。しかし、隊はブナ林に行き当たってしまいました。ここで神成大尉が「天は我々を見放した!」と叫び、絶望した兵たちが、またバタバタと倒れていきました。
 倉石大尉が田茂木野に2隊に分けて斥候を出しました。兵士たちは幻覚を見るようになりました。斥候が戻り、隊は田茂木野に向けて出発しましたが、馬立場の北にある中ノ森で露営しました。燃料がないため、死んだ兵士の背嚢を焼いて暖をとりました。このときには半数が犠牲になっていました。

 1月26日、隊員は70名に激減し、猛吹雪の中、山口少佐は人事不省となり、神成・倉石両大尉が先頭となり、下士卒がそのあとに続きました。隊を2手に分け、倉石大尉・山口少佐・伊藤中尉ら数十名は駒込川沿いに下っていきましたが、渓谷に入り込んでしまいました。神成大尉は、田茂木野に向けて前進し、後藤[江藤]伍長に住民を雇って連隊へ連絡するよう依頼せよ!命じました。
 雪中行軍隊の遭難を知った5連隊は、三神少尉が率いる捜索隊を編成していた。

 1月27日、午前10時ごろ、捜索隊が大滝平で氷の塊と化した後藤伍長を発見しました。彼は、仮死状態のまま立っており、目は見開いたままでした。三神少尉と軍医が伍長の蘇生をはかり、彼から神成大尉が近くにいることを知り、周囲を探しました。
 11時ごろ、神成大尉が発見されました。しかし、全身が凍っていたため注射器の針が折れてしまい、死亡してしまいます。小説では舌を噛み切って自殺したことになっています。映画では、死体収容後にもかかわらず、福島[徳島]大尉が死体を見たことになっています。
 捜索隊から後藤伍長発見と雪中行軍隊全滅の知らせが5連隊にもたらされました。31連隊にも知らせがとどき、第8師団をあげての捜索がはじまりました。

生と死
 山口少佐・倉石大尉らは9人になっていましたが、1月31日に捜索隊に発見されました。同日、鳴沢付近の炭焼き小屋で2人が、2月2日に大崩沢で4人、田代元湯で1人が発見されました。
 17人が救助されましたが、6人が死亡し、生存者は11人になりました。山口少佐も死亡したのですが、その死については自殺説があります。小説も映画も拳銃で自決したことになっていますが、凍傷の指で拳銃の引き金が引けるのか疑問視されています。
 生存者は、准士官以上が3人(16人中)、下士官が3人(38人中)、兵卒が5人(156人中)と、位階が高いほうが生存率は高いです。これは下士卒が上官を守ったという面が大きいのですが、同時に装備が異なっていました。下士卒は綿製品しか持っていませんでしたが、将校はウール製品を着用していました。とくに、倉石大尉は、ウールの手袋とゴム長靴を持っており、これが彼を最後まで支えていました。下士卒の中で生存できたのは、山間部出身の者たちで、炭焼きなどで冬山を経験していた者たちでした。しかし、ほとんどが凍傷を負っていて、手足を切断しなければなりませんでした。
 死亡者には祭祀料が支給されましたが、山口少佐の75円に対して兵卒は5円で、上に厚く、下に低いものでした。一時金は、少佐1500円に対して兵卒150円と、その差はすこし縮まりました。雪中行軍での死亡者は、戦没者と同じく、靖国神社に祀られることになりました。
 生き残って軍務に復帰できた雪中行軍隊員(准士官以上)も、2年後の日露戦争で死傷しました。黒溝台の戦いで、倉石大尉は戦死、伊藤格明中尉と長谷川貞三曹長は戦傷を負いました。雪中行軍を成功させた31連隊も同じで、福島大尉が戦死、隊員の半数が死傷しました。


 こういう話って書いているとだんだん暗くなってしまいます。前回の『空と山のあいだ』もそうです。しかし、山に登る人は、こういうことを忘れてはいけないのです。アウシュヴィッツの墓碑銘につぎのような言葉が刻まれているそうです。
「過去を忘れたものが、再びそれを繰り返す」
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岩木山遭難・大館鳳鳴高生の五日間

2005年01月15日 17時24分44秒 | 登山
 田澤拓也・著『空と山のあいだ~岩木山遭難・大館鳳鳴高生の五日間』(角川文庫、2003年)を読みました(単行本は、TBSブリタニカから1999年に刊行)。2001年にNHKがドラマ化したので、それを見た方もいるかと思います。わたしは再放送をビデオにとって見ました。
 東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年1月、津軽富士と呼ばれる青森県の岩木山(標高1625m)で大館鳳鳴高校山岳部員5人の遭難事故が発生しました。うち1人が4日ぶりに奇跡的に生還したものの、4人は死亡しました。この本は、その5日間を追ったノンフィクションで、第8回開高健賞を受賞した作品です。
 ここでは、この作品で描かれた岩木山での遭難の概要をまとめ、彼らの行動をカシミール3Dで図像化してみました。ただし、彼らの正確なルートは不明のため(とくに遭難後は)、推測によるものです。


遭難
 5人の山岳部員は、リーダーの石田隆司以下、金沢吉郎、畠山勉、乳井孝司、村井秀芳で、他に5人の遭難を知らせることになる三ッ倉省一郎がいました。6人は大館駅で1月4日午前6時に集まる予定でしたが、乳井が遅れたため、登山口の百沢の岩木山神社前に着いたのは正午でした。3時間遅れの出発で、その日は姥石の営林署の避難小屋に泊まりました。翌5日、午前9時から登りはじめ、昼前に焼止りヒュッテに到着しました。この日まで天気は晴天でした。
 翌6日、三ッ倉を残し、午前8時40分に5人が岩木山頂を目指し出発しました。このとき、小雪が舞い、頂上は黒雲に覆われていました。午前10時に種蒔苗代に到着、単独で登っていた社会人の今努に追いつきました。今は、このあと吹雪で5人を見失い、登頂をあきらめて下山しました。その際、百沢に降りるはずが、風に流され、東に3km離れた葛原に下山していました。
 5人は午後2時を過ぎても、焼止りに戻って来ませんでした。ヒュッテで人の声がしたので、三ッ倉が行ってみると、弘前高校の生徒4人が来ていました。その夜、三ッ倉は一睡もできず、翌7日朝、弘高生4人と三ッ倉は頂上を目指しましたが、三ッ倉の疲労が激しいので、百沢に降りて警察に連絡することにしました。
 午前11時ごろ、食堂を経営する藤田忠志は下山してきた三ッ倉から事情を聞き、弘前署大浦派出所に連絡しました。弘前署は、派出所から連絡を受け、救助隊の編成をはじめましたが、冬山捜索の装備などありませんでした。岩木山は、端麗な容姿から「女性的な山」とされ、遭難とは無縁だと思われていたのです。

百沢から岩木山頂までのルート


上記ルートの距離と標高


山頂のメモ
 弘前署は、岩木山神社近くの消防屯所に遭難対策本部を設置しましたが、二重遭難を恐れて捜索は翌日と決定しました。藤田と東奥日報・弘前支社の記者・花田忠一は、営林署員をリーダーとする捜索隊第1班とともに、焼止りまで登りました。藤田は半纏とゴム長靴という軽装備でした。花田は、遭難した高校生のベースキャンプの写真を撮り、そのまま下山しました。
 弘前大学山岳部の桂修二をリーダーとする4人が百沢から焼止りに登ってきました。彼らは、遭難した高校生がどこまで到達してどこで消息を断ったのかを調べるため、山頂を目指し、藤田がこれに同行しました。彼らは、8日午前0時に出発し、種蒔苗代を目指しましたが、風に流され、主峰直下の耳成岩の下で午前3時にビバークしました。午前6時に一行は再び山頂を目指し、山頂の石室でノートに「1月6日、大館鳳鳴高校山岳部員(11時10分着、天気ふぶき)石田、村井、乳井、畠山、金沢(三ッ倉)」と書かれているメモを見つけました。
 弘前大学一行は、このページを破り、同じ文面をノートに写すと、破ったページを持って下山しました。途中、登ってきた大館山岳会員で中学教師の畠山陽一ら4人に会いました。畠山は、この季節、岩木山では、例年なら北西の風が吹いており、それに押されるように降りれば百沢に下山できるが、今年は山を巻くように風が吹いているので、それに押されて高校生たちは沢に入ってしまったのではないか、と考えていました。彼は、石田と金沢の教師でもあり、2人の体力と登山技術ではおそらく絶望であろう、とも考えていました。
 地元山岳関係者たちは、山頂に人をあげ、食料と燃料の補給を受けながら、捜索したいと思っていました。悪天候のため高校生たちはそう遠くへは行けないはずでした。しかし、対策本部は、そうした意見に耳を貸さず、ただただ百沢方面でのみ、3日間でのべ500人を超える大捜索を行いました。しかし、何の手がかりもつかめませんでした。

足跡を追え
 岩木山をはさんで百沢の反対側、鰺ヶ沢の岩木山岳会の米谷茂夫と神昭二は、応援のため、8日朝、百沢に着きました。しかし、捜索隊が大勢いたので、午後3時に百沢を出発し、焼止りで一泊、9日未明、種蒔苗代を経て、鰺ヶ沢側に下山しました。
 この夜、鰺ヶ沢警察署の次長・成田勝俊は不思議な夢を見ました。岩木山から長平に流れる大鳴沢のてっぺんに3人の男の影が見えました。3人は、「寒くて寒くて…」「私たちはここにいる。早く町の人たちに知らせて欲しい」と言うのです。成田は翌日も同じ夢を見ました。成田が「君たちは3人だろ?他の2人はどこにいるんだ?」と尋ねると、「いや、3でも5になるんだ」と答えました。
 米谷と神は、西法寺森から大鳴沢沿いの長平ルートを左手にそれ、追子森を経て第二松代に下山する予定でした。2人は、西法寺森と追子森の中間で、第二松代から登ってきた捜索隊と合流しました。この捜索隊にいた長平の消防団員13人は、直接長平に下りるため、鍋森山付近の石神神社を通過するとき、奇妙な足跡を見つけました。しかし、暗くなっていたので、捜索を断念し、長平に下山しました。
 消防団員たちは、足跡が気になり、鰺ヶ沢警察署に連絡しました。鰺ヶ沢警察署の三上善丈係長と消防団員ら10人は、翌10日午前9時、足跡の捜索に向かいました。彼らが大鳴沢沿いに足跡を追跡し、長平まで1.5kmの地点に来ると、不意に「おーい」という声を聞きました。遭難した5人の1人村井を発見したのです。村井は病院に運ばれ、治療を受けました。そして、村井の口から遭難の詳細がわかったのです。

生還
 村井たち5人は、岩木山頂に到達したものの、下山ルートを見失い、迷ってしまいました。村井と乳井は頂上に戻ることを主張しましたが、畠山と金沢が下山を主張し、リーダーの石田は下山を選びました。6日午後5時ごろ暗くなってしまい、吹雪の中でビバークしました。彼らは、ツェルトを1枚しか持っておらず、磁石を風に吹き飛ばされてしまい、冬山で焚火をする方法も知りませんでした。
 翌7日朝も吹雪でした。11時ごろ石田がおかしくなり、村井が肩を貸して降りていきました。7日の夜、吹雪を避けるため、岩陰でビバークしました。このとき、石田と金沢はかなり衰弱していました。夜中、乳井は、もう里近くまで来ているはずだから、自分が助けを呼びに行く、と村井に言いました。村井がうとうとしているあいだに、乳井は装備をすべて置いて出発していました。
 8日朝6時、村井が気づくと、石田と金沢は意識を失っていました。両目を開けたまま、ピクリとも動きませんでした。村井と畠山は、2人を並べて寝かせ、スキーのストックに赤い布をつけて目印として立て、下山しました。昼になると、こんどは畠山が動けなくなりました。村井は、自分のヤッケと食料を畠山に渡し、トランジスタ・ラジオのイヤホンを耳につけてやって、乳井を追いました。
 村井は、乳井の足跡を追っていきましたが、暗くなったのでビバークしました。9日朝、村井はまた乳井の足跡を追いました。乳井はまったく休むこともなく歩き続けているようでした。村井は途中神社を見つけましたが、神社に放火して助けを求めることなどまったく考えられなくなっていました。
 10日の午後になって、村井は、ビバークする場所を探しているとき、人の声がしたので、「おーい」と声を出したのでした。

遺体発見
 村井が発見された10日の午後1時ごろ、捜索に加わっていた藤田は、主峰と巌鬼山の鞍部でビバーク跡を見つけました。そこは、7日夜、藤井たちがビバークした耳成岩から200mしか離れていませんでした。
 11日午前7時半、長平から150人の捜索隊が大鳴沢を登っていきました。鰺ヶ沢営林署の白戸新一は、長平から3km離れた標高780m地点で、雪に埋もれた畠山の遺体を見つけました。畠山の遺体から5m離れたところに村井のヤッケが落ちていました。村井は畠山と別れたところから自力で5m移動していたのです。
 青森県庁職員で青森山岳会員の中野轍自郎は、岩木山岳会、青森山岳会など18人で捜索隊を結成し、12日朝5時、長平を出発しました。午前9時半、畠山発見地点から1km登った標高1050m地点で、赤い布のついたストックの先を発見、掘ると石田と金沢の遺体が出てきました。石田は、下級生の金沢をかばうように、抱きかかえた姿で埋まっており、その手にはマッチと小枝が握られていました。石田は、村井と畠山が去った後、最後の力をふりしぼって火をつけようとしたのでしょうか?
 12日に石田と金沢が見つかった後も、乳井は見つかりませんでした。13日は大雨になり、翌14日の正午で捜索は打ち切りと決定しました。この日は乳井の出身地比内町の消防団も捜索に加わりました。11時半、鳴沢川の左岸で足跡が見つかり、打ち切りの2分前、乳井の遺体が発見されました。

高校生たちの遭難後の行動(推測)

黄色の×は頂上から、6日夜のビバーク地点、標高1050m地点(石田・金沢の遺体)、標高780m地点(畠山の遺体)。

上記の距離と標高



 遭難者の1人乳井の母・一子はつぎのように語っています。
「これくらいの山で遭難して、などとは思いません。私はあの岩木山という山が大好きで、一時は毎朝起きたら岩木山が見えるところに家を建てて暮らしたい一と思ったこともあるほどですよ。息子を奪られた山だとか、迷って死んだ山だなどとは、ちっとも思いません。やっぱり津軽の人たちが毎日"今日はいい天気だな"などと言って見上げている山なんだもの。本当にいい山ですよね」

 ただ1人の生存者・村井は、岩木山での遭難の原因を、夏と冬では山は全く様相を一変させるのを知らなかったことだ、と語りました。
「岩木山は本当に私たちにとってはホームグラウンドだったのに…。考えを甘く持ってはいけません。毎年山で亡くなる人がたくさんいるのに、また次から次へと人々は山にいく。もちろん山の魅力もあるが、誰もが自分だけはそういうことにはならないと思っているからなんですね。でも、何かひとつ歯車が狂うと遭難は起こってしまうものなんですよ」

 この話はつぎのような言葉で締めくくられています。
 村井もまた三ッ倉同様、もう遭難当時の夢を見ることもない。けれども毎年一月になって四人の仲間の命日がちかづいてくると、あの若木山での数日間を思いだす。
「目を閉じると彼らは一六、七歳で止まったまま。それから全然動かないのです」
 あの世にいって彼らと会ったら、きっと昔のままだと思う。唯一の生還者は、そう言った。そして自らの体験した山の物語を静かに語り終えた。
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