王子のきつね on Line

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氷川神社、中山神社、氷川女体神社

2005年08月24日 18時45分00秒 | 心霊スポット
2005年8月21日(日)、さいたま市大宮区高鼻町の氷川神社、同市見沼区中川の中山神社、同市緑区宮本の氷川女体神社に行ってきました。

  これらの3社はかつて、見沼に面して、氷川神社が男体宮、氷川女体神社が女体宮、中山神社が簸王子宮の関係にあり、みごとに並んでいます。氷川神社と氷川女体神社はで囲み、中山神社は×とラインはで記しました。間隔は、氷川神社~中山神社間が約3.7km、中山神社~氷川女体神社間が3.0kmです。標高も、氷川神社11m、中山神社9m、氷川女体神社10mとほぼ同じです。そして、は真北から時計回りに300度の角度にあります。
ここをクリックすると地図が開きます。


氷川女体神社
  祭神は奇稻田姫命(くしなだひめのみこと)で、三穗津姫命(みほつひめのみこと)と大己貴命(おおなむちのみこと、=大国主命)が配祀されています。
  氷川女体神社の東に見沼氷川公園がありますが、その北辺に磐船祭祭祀遺跡があります。見沼と深い関係にあり、14世紀から行われていたという祭礼の「御船祭」は見沼で行われていました。しかし、享保12年(1727)に見沼が干拓され、代わって出島で「磐船祭」が行われるようになったのです。
  この磐船祭祭祀遺跡と氷川女体神社をむすんだ線も、真北から時計回りに約300度の角度にあります。ほかの2社はちがっていたのですが、ここの参道は上記のライン上に存在します。

氷川女体神社の前から磐船祭祭祀遺跡への通路


磐船祭祭祀遺跡(地図)

4本の木にしめなわが張ってあります。

氷川女体神社

見沼代用水西縁から少し登ったところに神社があります。

氷川女体神社・本殿(地図)

とても静かな境内に本殿があります。



中山神社
  中山神社は、かつては「中氷川神社」と呼ばれていましたが、1907(明治40)年に中川神社に改めました。祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、稻田姫命、大己貴命です。毎年12月8日に、焚き終わった炭火の上を素足で渡り、無病息災と火難がないように祈願する鎮火祭が行われていましたが、近年は中断されています。

中山神社

ここも、周囲が樹木で囲まれていて、とても静かな場所です。

中山神社・本殿(地図)


鎮火祭碑



氷川神社
  氷川神社は、武蔵国一宮であり、祭神は須佐之男命、稻田姫命、大己貴命と出雲系で、武蔵国造が祭ってきました。
  旧中山道に一之鳥居があり、約2kmの参道を進むと、二之鳥居、三之鳥居があります。三之鳥居をくぐり、神橋をわたると、楼門がありますが、現在は工事中で板で囲まれて見ることができません。
  その楼門をくぐると、中央に舞殿があり、4本のケヤキ(?)の巨木がありました(避雷針の代わり)。北側に拝殿があり、その奥に本殿があります(写真は拝殿と本殿)。静寂につつまれたところでしたが、お参りする人はあまりに多いので、拝殿と本殿の写真は前回のものです。

一之鳥居(地図)


二之鳥居(地図)


三之鳥居(地図)


神橋(地図)


舞殿(地図)


拝殿と本殿(地図)

靖国神社~ここは心霊スポットではない。霊が入れないから~

2005年08月13日 16時30分25秒 | 心霊スポット
いきなり最初からヘンなこと言いますが、ここは心霊スポットなんかじゃありません。だって、霊がまったく入れないんだもの…。8月15日が近づくと、いろいろ取りざたされるのが靖国神社です。ここには、2001年8月6日に行ってきました。ちょうど小泉首相の公式参拝で問題になっていた時期だったんで、いちどは行ってみたいところでした。いろんな意味でスゴイところでした。このときは、いろいろ頼りになる妹も連れて行きました。

靖国神社案内図


  九段下の駅で降りたときから、けっこうヤバイ雰囲気でした。やっぱり時期が時期だけにイパ~イ集まっているようです。何がって? もちろん霊ですよ。霊…。方向オンチの妹が「あっちでしょ!」って神社の方向がわかっちゃったりして…。

  まずはこのデカイ鳥居。「♪大きいことは(゜∀゜)イイ!ことだ」。おおむかしのCMを思い出してしまいました。

第一鳥居


デカ!


  さらに、大村益次郎。コイツもデカ! この人、日本陸軍の創設者であり、司馬遼太郎の小説『花神』の主人公です。こーゆーあつかいは、本人には不本意なのではないかと思われるのですが…。

大村益次郎

逆光だ!


  この大村益次郎のあたりが超ヤバいポイントです。やっぱり時期が時期だったんで、来るわ来るわ。えっ、何がって、霊ですよ。霊…。千鳥ヶ淵から内堀通りに沿って、わんさかやってきます。はっきり言って気持ち悪くなりました。妹がじゃなくて、当時、霊感のなかった私が…。

  さて、道路を挟んで、向こう側に第二鳥居と神門が見えますが、その両脇に燈籠が2つあります。

第二鳥居と神門


燈籠
 


  旧陸軍と旧海軍がつくった燈籠なんですけど、戊辰戦争あたりから日中戦争までの青銅製のレリーフがはめ込まれています。

おおっ! 『のらくろ』にも出ていた爆弾三勇士


「杉野~! 杉野はいずこ!」の軍神・広瀬中佐


日本海海戦での東郷平八郎元帥


  さて、第二鳥居に「下乗」と書かれているのですが、ここが問題です。ここに強烈な結界が張ってあります。このポイントをすぎると、異常なまでに清浄な空間が広がります。未成仏霊どころか、霊なんてぜんぜんいない空間。ヤブ蚊もいないんですよ。マジで…。
  ちなみに、さきほどまで、わんさかいた霊の方々は、ここには入ってこられず、まわりをぐるぐるまわっております。救いを求めてきたのに、拒否される場所。ここっていったい何なんでしょう?

  第二鳥居をくぐり、神門を通って、第三鳥居をくぐると、本殿があります。

神門


第三鳥居


本殿


  つぎなる場所はここです。軍馬、軍鳩、軍犬の慰霊塔です。ここは、天皇の命令で死んだ生きとしいけるものが祭られる場所であって、たとえ戦争で死んだとしても、民間人は祭られません。そのちがいを思い知らされる場所です。

軍馬の慰霊塔


軍用鳩の慰霊塔


軍用犬の慰霊塔


  さらに、さまざまな兵器が陳列されています。遊就館には入らなかったけど、見てくればよかったと、ちょっと後悔しています。

青銅百五十封度(ポンド)陸用加農砲

たぶん「キャノン砲」と呼ぶんでしょう。

砲弾

いちばんデカイのが戦艦大和の砲弾

八九式十五糎(センチ)加農


九六式十五糎(センチ)榴弾砲


陸軍八八式七・五糎(センチ)野戦高射砲


海軍三年式八糎(センチ)高角砲


人間魚雷・回天四型の胴体


東部ニューギニアの戦場で回収された遺品

飯ごう、水筒、軍刀(左)、ヘルメット(中央)、背嚢(右)


  本殿の裏側もぐるっと見てきましたが、とてもキレイな場所でした。本殿には、おそらく神と呼ばれる者がいるのですが、それ以外なにもいない。とってもとってもキレイな場所でした。第二鳥居の外側とエライちがいです。
  ここは英霊を祭る場所ってことになっていますが、ホントは何が祭られているんでしょうか? なぞは深まるばかりです。


  靖国神社のサイトは下のとおり。

靖国神社

赤水門(岩淵水門)

2005年01月25日 20時34分21秒 | 心霊スポット
 昨日、フジTVの「ほんとうにあった怖い話」を見てたら、「やるせなす」の中村豪さんが出てました。
 彼が歩いていると、白い着物を着た女の人(=霊)が地面を掘ろうとしながら「く…」とつぶやいていたそうです。見ると、裸足だったので、「ああ、くつね」と言ったら、女と目があったそうです。逃げるように立ち去ったら、むこうからキレイな女の人が歩いてきました。中村さんが見ていると、その女が突然「くしだよ!」って言って消えたそうです。(怖)

 彼は、霊が見えるタレントとして、むかし日テレで日曜日の午後に放送していた「とりあえずイイ感じ。」で、大泉の母といっしょに心霊スポットを旅する企画に出てました。じつは、岩淵水門を心霊スポットとして有名にしたのはこの中村さんなのです。
 岩淵水門は、1924(大正13)年に完成し、1982(昭和57)年につくり直されました。その際、古い水門は歴史的建造物として残されました。古いほうを「赤水門」、新しいほうを「青水門」と呼んでいます(写真は2001年6月に撮りました)。

赤水門(前)と青水門(後)

手前が荒川河川敷道路。

位置図

左が赤水門で、右が青水門。

青水門(上流から見た)


赤水門(上流から見た)


赤水門(下流から見た)

島になっているところに「ものすごく強い女の霊がいる」と大泉の母が言ってました。

 で、島に行くと、こんなものがあります。

青野 正「月を射る」

1996(平成8)年度 荒川リバーアートコンテスト特賞受賞作品。
背後の高層ビルは、エルザタワー55(右)とライオンズスクエア(左)。

「草刈の碑」

「農は国の大本、草刈堆肥は土を作る農業の根本」とあります。

 幽霊が見える妹も「ここにいるとは思えないんだけど…」って言ってました。ただ、「こういう場所って、昼と夜とじゃぜんぜんちがうからね」とも言ってました。
 じつは、赤水門の下流側って水が淀んでるんです。雨が降って荒川が増水したりすると、ここに魚の死骸が多数浮いているんです。そういうところって。。。

お岩さんの墓と於岩稲荷

2004年11月14日 00時09分45秒 | 心霊スポット
 今朝、パソコンをつけてみたら、マウスの調子がおかしい。右ボタンがぜんぜん効かない。壊れたらしい。マウスを買いに行かねばならない。年賀状の印刷もしなけりゃなぁ。そうだ、インクジェットプリンタのインクも買いに行こう。池袋のビックカメラで買うんだけど、ついでに西巣鴨の妙行寺のお岩さんの墓を見に行こう。あ~、どうせなら、四谷にある於岩稲荷(田宮神社と陽運寺)も見てこよう。で、行ってきました。w


妙行寺のお岩さんの墓

妙行寺周辺の地図


 妙行寺は、東京都北区西巣鴨4丁目にある日蓮宗のお寺で、お岩さんの墓があるので有名である。明治42(1909)年に四谷から移転してきた。お岩さんの墓のほかに、「魚河岸供養塔」、「うなぎ供養塔」、赤穂浪士で有名な浅野氏の墓などがある。

お岩さんの墓1


 中央がお岩さんの墓。右手側に於岩稲荷を勧請した山浦氏の墓、左手側に田宮神社の神職を務める田宮氏の墓がならぶ。

お岩さんの墓2


 「妙念日正大姉」がお岩さんの戒名。


於岩稲荷

於岩稲荷周辺の地図


 東京都新宿区左門町にある於岩稲荷。田宮神社と陽運寺(地図には「於岩稲荷霊堂」とある)は「於岩稲荷」の本家争いをしている。青い囲みの「四谷3」の上にある「12」のあたりに「水かけお岩地蔵尊」(お岩水かけ観音)がある。

水かけお岩地蔵尊(お岩水かけ観音)


 新宿御苑方面から歩いてきてたまたま見つけた。共産党の運動員が前でビラを配っていたので、どいてもらって撮影した。

田宮神社1


 お岩さんの子孫の田宮氏が神職を務めるという田宮神社。

田宮神社2


 じつは、田宮神社は、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」や江戸幕府の公文書である「於岩稲荷来由書上」を認めてない。このことについてはいずれ書くことにする。

陽運寺


 田宮神社と「於岩稲荷」の本家争いをしている陽運寺。なかには、稲荷2社と「お岩様由縁の井戸」、「於岩稲荷水かけ福寿菩薩」がある。

K公園(1/2)

2004年10月21日 15時43分28秒 | 心霊スポット
 東京都K区にある区立K公園に通じる長さ50m幅4mほどの道路の両側に建つ家々で、1974年3月から翌75年5月までにつぎつぎと7人が亡くなりました。①~⑥は亡くなった方の家、×印は慰霊碑のあるところです。
  ①74年3月17日に82歳(あるいは83歳)の老婆が老衰で死亡した。
  ②4月3日に91歳の老人が同じく老衰で死亡した。
  ③7月4日に32歳の会社員が交通事故で死亡した。
  ④12月に30歳の男性が山岳事故で、75年1月1日に76歳の老人が老衰で死亡した。
  ⑤1月4日に76歳(あるいは70歳)の老人が老衰で死亡した。
  ⑥5月22日に22歳の会社員が交通事故で死亡した(あるいは自殺した)。
 この事件は、ある本に載っており、それには①~⑥が実名で書いてあります。その本をもっている人から実名を教えてもらい、ゼンリンの住宅地図でチェックしたら、⑤を除き、すべて実在しておりました。⑤だけは、マンションになっていて、確認できませんでした。

K公園(2/2)

2004年10月21日 15時42分08秒 | 心霊スポット
 この公園は、太平洋戦争で空襲を受けたとき、臨時の埋葬場所となり、300体以上の遺体が埋められました。1951年に遺骨の大部分は無縁仏として寺に葬られましたが、1966年に掘り返したところ、箱一杯の遺骨がでてきたそうです。
 1975年に公園内に空襲の犠牲者の慰霊碑を建立してからは、異変は鎮まったそうです。慰霊記念碑には、花と水が供えられており、つぎのように記されています。

  大東亜戦争犠牲者
  慰 霊 記 念 碑
     記
  昭和二十年三月より同年八月ま
  でにK地区において空襲をう
  け亡くなられた一般住民三百数
  十名の遺体がこのK公園内に
  仮埋葬されました
  昭和二十六年他え改装されまし
  たが茲に終戦三十年をむかえ亡
  くなられた方々の霊をなぐさめ
  るため有志の人が心をあわせて
  建立したものです
   昭和五十年七月十日
       K二丁目中町会
       K中央通り親和会

正丸峠の廃墟茶屋(1/2)

2004年10月21日 15時39分28秒 | 心霊スポット
 正丸峠は、秩父と江戸を最短距離で結ぶ道で、秩父でつくられた絹を運んでいました。ここには、古い順に、旧峠、正丸峠、正丸トンネル(旧)、正丸トンネル(新)と4つの道があり、ここでいう正丸峠は2番目の峠です。

 問題の廃墟茶屋は、峠を通る道路に面して建てられ、うしろの右側は山の斜面で左側は崖でした。建物は、L字型をしていて、だいたい12畳くらいの広さだと思います。
 道路に面した側は、シャッターと雨戸で閉じられていましたが、雨戸はところどころ外れており、落書きされていました。また、崖の側は崩壊寸前で、とても危険でした。
 写真の右側に写っている石段は、展望台に登る道で、そのまま行けば旧峠まで行けます。
 石段と建物の間に通路が2つあって、右の通路には、よく見ると、雪かき用の赤いプラスチックのスコップがおいてあり、展望台の下にある神社に続いています。左の通路は建物をまわれるようになっていました。

 ある霊能者によると、建物のガス・メーターの前に何者かに殺された男性の地縛霊がいるというのです。地縛霊といっても、ふつうは少しは動きまわるんだそうですが、この霊は、ぜんぜん動かずに、誰かを恨みながら、崖を見下ろしたままなんだそうです。

正丸峠の廃墟茶屋(2/2)

2004年10月21日 15時38分37秒 | 心霊スポット
 地縛霊のいる場所、つまりガス・メーターはどこなんだろうと、建物のコーナーをまわった瞬間。
「いっ…いててて…、いてえ!」
 いきなり頭痛に襲われました。なんとそこがガス・メーターの前だったのです。電気メーター、七輪、バケツなどもありました。2本の斜めの鉄は壊れた階段。その向こうにトイレがあり、その下は崖です。
 このあと、伊豆ヶ岳に登ったんですが、頭痛が頂上につくまで続きました。

八王子城址(1/3)

2004年10月21日 15時36分17秒 | 心霊スポット
 最近は、吹上トンネルにその地位を奪われてしまいましたが、かつて東京近郊最強の心霊スポットといえば、八王子城址でした。
 八王子城址は、東京都八王子市の西部にあり、小田原城に本拠をおいた北条氏の3代目・氏康の次男・氏照が築いた城です。天正18(1590)年6月23日、豊臣秀吉の軍勢に攻められました。城主の氏照は小田原におり、わずかな手勢が守っていました。そのため、わずか1日で落城し、小田原開城後、氏照も秀吉の命令で切腹しました。

全体図
 (1)八王子城址入り口/(2)曳き橋/(3)御主殿の滝
 (4)供養塔/(5)八王子神社/(6)井戸

八王子城址(2/3)

2004年10月21日 15時35分16秒 | 心霊スポット
(1)入り口

(2)曳き橋
 この曳き橋は、1989~91年、八王子市の整備計画で、御主殿の石垣、虎口(こぐち、城の出入口)などとともに、再現されました。

(3)御主殿の滝
 落城の際、城内の女性がここに身を投げて死んだ、と言われています。でも、この滝、小さすぎて、どうすれば死ねるのか、わかりません。ただし、ここでよく霊が目撃されるのも事実なんですが。。。
 きつねが最初にここに来たのが、2000年6月22日、雨が降りそうな日でした。実は、不思議な体験をするのですが、それはつぎの「供養塔」でお話しましょう。

(4)供養塔
 落城の際、死んだ女性の霊を慰めるための供養塔なのですが、滝はこの供養塔の左側にあります。
 不思議な体験とは、この供養塔を境に、左側(滝側)に行くと、お線香のような、モノが焦げたような、臭いがするのです。右側ではしません。煙は拡散性が高いので(蚊取り線香はこれを利用した)、数秒で臭ってくるはずなのです。10分以上いたのですが、やはり左側にいかないと、臭わないのです。マジで怖くなりました。。。

八王子城址(3/3)

2004年10月21日 15時34分24秒 | 心霊スポット
(5)八王子神社
 御主殿は山ろくですが、山の上に本丸など「要害地区」があります。そこに建てられた八王子神社です。

(6)井戸
 この井戸の水は冷たくてとてもおいしいです。ここには何回か行ったのですが、一度、この水をペットボトルに入れて家に持ち帰りました。家族にも好評でした。

鈴ヶ森刑場遺跡(1/3)

2004年10月21日 15時09分40秒 | 心霊スポット
 今回の心霊スポット・鈴ヶ森刑場遺跡は品川区南大井の大経寺内にあります。寛政11(1799)年の大井村「村方明細書上」の写しによると、慶安4(1651)年に解説された御仕置場で、東海道に面していました。ここで処刑された者のうち、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒などは演劇などでよく知られています。
 ここはそうとうヤバイところで、きつねはMTBで来たんですが(このあと、多摩川を拝島まで、それから秋川を遡って武蔵五日市まで行き、帰りは玉川上水、石神井川をとおって帰ったんですがw)、GPSとデジカメが突然動かなくなりました。電池を入れたばかりなのにおかしいと思いつつ、処刑場から500mくらい離れたら直りました。不思議です。

(1)鈴ヶ森刑場遺跡
 刑場の規模は、元禄8(1695)年に実施された検地では、間口40間(74m)、奥行9間(16.2m)であったといいます。奥のお寺には見えない建物が大経寺です。

(2)ひげ題目
 歌舞伎の舞台でおなじみらしい。元禄6(1693)年、池上本門寺日(にちぎ)の記した題目供養碑で、処刑者の供養のために建てられたものである。

鈴ヶ森刑場遺跡(2/3)

2004年10月21日 15時08分17秒 | 心霊スポット
(3)首洗の井
 斬首した首を洗った井戸。

(4)磔台
>丸橋忠弥を初め罪人がこの台の上で処刑された
>真中の穴に丈余の角柱が立てられその上部に縛りつけて刺殺したのである
と、鈴ヶ森史跡保存会の説明です。

(5)火炙台
>八百屋お七を初め火炙の処刑者は皆この石上で生きたまヽ焼き殺された
>真中の穴に鉄柱を立て足下に薪をつき縛りつけて処刑されたのである
と、鈴ヶ森史跡保存会の説明です。
 補足すると、海風にあおられて、処刑者は煙で気絶できず、最期は発狂してしまいました。

鈴ヶ森刑場遺跡(3/3)

2004年10月21日 15時07分25秒 | 心霊スポット
(6)馬頭観音
 ここは東海道に面しているので、馬を供養する馬頭観音もおかれています。
 処刑場は、東海道の鈴ヶ森、中山道の板橋(近藤勇が処刑された)、日光街道の小塚原のように、街道に面しておかれています。これは処刑者の霊に江戸の町を守らせるという呪術的意味もありました。深い恨みをいだいた霊魂に思いっきり悪い気を放たせ、街道をとおって入ってくる悪い気の邪魔をさせるという、毒をもって毒を制する呪術的手法です。人柱をつかって水害を防ぐやり方や、大坂城の徳川時代の天守閣の鬼門封じに、山里曲輪で自刃した豊臣秀頼や淀殿の霊を利用したやり方と同じ手法です。

(7)大震火災殃死者供養塔
 1923年の関東大震災での犠牲者を供養する供養塔です。

累ヶ淵(1/3)

2004年10月21日 15時04分53秒 | 心霊スポット
 今回の心霊スポットは「東海道四谷怪談」、「番町皿屋敷」とならぶ日本三大怪談のひとつ「真景累ヶ淵」の舞台である茨城県水海道市羽生町の累ヶ淵です。

 羽生村(茨城県水海道市羽生町)の百姓・与右衛門(よえもん)の後妻すぎは、夫との不仲を怖れ、左目、左腕、左脚に障害をもって生まれた醜い助(すけ)という連れ子(男子)を、鬼怒川で殺して捨ててしまいます。その後、与右衛門とすぎの間に累(るい)という女子が生まれましたが、行方不明になった助に生き写しであったため、「かさね」と呼ばれました。
 累は、父母の死後、旅に病むよそ者・谷五郎(やごろう)を助け、二代目与右衛門として婿に迎えました。しかし、その醜さゆえにうとまれ、与右衛門に鬼怒川で殺されてしまいます。
 その後、与右衛門は、後妻を迎えますが、死別・不縁が続きます。ようやく「きく」という娘が生まれますが、その母も死んでしまいます。
 きくが婿を迎えると、累の死霊が、きくにとり憑き、きくを苦しめ、与右衛門の非道を訴えました。そのころ、近くの飯沼弘経寺(ぐぎょうじ)に祐天(ゆうてん)上人がいて、その法力で累を成仏させます。しかし、こんどは助の死霊がとりついたので、再び法力で助も成仏させました。

 親が子を殺し、夫が妻を殺す、この陰惨な物語は、江戸時代初期の1612~72年の60年間にわたって繰り広げられた実話に基づいています。
 詳しく知りたい方は、高田衛/著『新編・江戸の悪霊払い師』(ちくま学芸文庫、1994年)をご覧ください。

(1)累ヶ淵

(2)累一族の墓
 法蔵寺は、「羽生山往生院法蔵寺」(はにゅうさんおうじょういんほうぞうじ)といい、文禄年間(1592-95)開基の浄土宗の寺です。ここには、累、助、きく、与右衛門の墓があります。

(3)きく、累、助の墓
 左から、きく、累、助の墓
 ある霊能者によると、小さい光の玉がヒュンヒュン行ったり来たりしていて、助の霊なんだそうです。また、累の霊は、とても話し好きで、怪談でいわれているような醜い顔ではないそうです…目は悪いようなのですが。それより驚いたのは、累は、累ヶ淵で殺されたのではなく、家の中で夫婦喧嘩のはずみで死んでしまったのだそうです。さらに、祐天上人を呼んで、わざわざお祓いするような怨霊でもないそうです。

(4)与右衛門の墓
 中央の丸い墓石が与右衛門の墓