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クリステヴァの『セメイオチケ』が届いた。

2005年11月30日 14時41分00秒 | 
クリステヴァの『セメイオチケ』が届いた。

  ジュリア・クリステヴァ・著『記号の解体学 セメイオチケ1』(原田邦夫・訳、せりか書房、1983年)
  ジュリア・クリステヴァ・著『記号の生成論 セメイオチケ2』(中沢新一ほか・訳、せりか書房、1984年)

 


あと、これは前からあったんだけど、エーリッヒ・ノイマンの本。

  エーリッヒ・ノイマン・著『意識の起源史』(林道義・訳、紀伊國屋書店、上巻1984年・下巻1985年)

 

近年、反フェミニズムの怪気炎をあげている林道義氏だが、じつは問題提起の枠組みはフェミニストのクリステヴァと同じだったりする。w
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クリステヴァの本とあゆの歌は相性が(゜∀゜)イイ!w

2005年11月27日 22時36分10秒 | 
2週間前に図書館で借りた3冊なのですが…

西川直子・著『クリステヴァ~ポリロゴス』

(講談社、1999年)

飯田隆・著『ウィトゲンシュタイン~言語の限界』

(講談社、1997年)

W.イェンゼン/S.フロイト・著『グラディーヴァ/妄想と夢』

(種村季弘・訳、作品社、1996年)

結局、ちゃんと読んだのはいちばん上の本だけだった。

クリステヴァの本ですが、現在もっているのはこの2冊。

ジュリア・クリステヴァ・著
『詩的言語の革命~第1部 理論的前提』

(原田邦夫・訳、勁草書房、1991年)

ジュリア・クリステヴァ・著『恐怖の権力~〈アブジェクシオン〉試論』

(枝川昌雄・訳、法政大学出版局、1984年)

あと、この2冊は必要かも…。

  ジュリア・クリステヴァ・著『セメイオチケ1 記号の解体学』(原田邦夫・訳、せりか書房、1983年)
  ジュリア・クリステヴァ・著『セメイオチケ2 記号の生成論』(中沢新一ほか・訳、せりか書房、1984年)

不思議なのは、浜崎あゆみの"monochrome"、"HANABI"、"HANABI~episode II~"、"Memorial address"などの歌詞を考えるのに、下の本が役に立ちそうなんですよ。

  ジュリア・クリステヴァ・著『黒い太陽~憂鬱とメランコリー』(西川直子・訳、せりか書房、1994年)

この本、うつ病を記号論と精神分析から論じた本らしいんだけど、論じているのは、うつ病じゃなくてPTSDじゃないかと思うんだよね。なんで、クリステヴァの本とあゆの歌って相性が(゜∀゜)イイ!んでしょうかね?
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最初の小説からしてすでにパクリ!w

2005年11月13日 23時00分22秒 | 
西川直子・著『クリステヴァ~ポリロゴス』(講談社、1999年)のなかにこんなことが書いてあった。

  クリステヴァによれば、『ジャン・ド・サントレ』は、複数の書物を潜在させた書物であり、そこには、先行する、あるいは、同時的な、さまざまなテクストが併存しているという。この書物のうちに潜んでいるさまざまな書物とは、たとえば、ソクラテスやカトー、セネカやルカヌス、福音書や聖パウロ、聖ベルナルドスや聖アウグスチヌス……といった古代・中世の幾多の書物であり、さらには、武勲詩や宮廷風恋愛詩、カーニヴァルの仮面劇の言述……等々である。これらのものが引用もしくは想起として『ジャン・ド・サントレ』のなかに流入し、たがいに排除し合わない様々な関係をつくりながら、『ジャン・ド・サントレ』のテクストを形成しているのであるという。このときテクストは、外にある別のテクストとの、先行する異質の文学資料との、絶えざる対話となり、すでに過ぎた時間(歴史)や社会の組み入れとなっている。テクストは複数のテクストの交差のうえに成り立っている。間テクスト性がこのような事態をつくり出しながら、『ジャン・ド・サントレ』のテクストを織りなしていることを、クリステヴァは明らかにしたのだった。
前掲書、40~41ページ

  ここに出てくる『ジャン・ド・サントレ』は、1456年にアントワーヌ・ド・ラ・サルによって書かれた、フランスにおける最初の小説のひとつであった。クリステヴァは、この小説を研究して論文を書き、のちに『テクストとしての小説』(谷口勇訳、国文社、1985年)として出版している。
  オイオイ、だったら、最初の小説からしてすでにパクリだったってことになるよな。w
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東京都北区立図書館で本を借りる。

2005年11月13日 21時33分51秒 | 
ちょっと、読みたい本があるので、北区立図書館にあるかどうか調べてみました。

東京都北区立図書館ホームページ

あった!

というわけで、図書館に行ってみました。といっても、ウチのそばにある北区立中央図書館ではなく、遠い滝野川西図書館まで…。ここにしかないんだもん。

北区立図書館は、大学生くらいまでは利用していましたが、そのあとずっと利用してませんでした。本を借りるには、利用カードをつくらなければならないので、その旨、係りの人に言って、つくってもらいました。その際、身分証明書が必要になります。

できた。これで、本が10冊、CDが5枚まで、2週間借りられます。

北区立図書館利用カード(表/裏)
 
馬場のぼるさんの絵がかわいいでつ。w


で、借りたのが、この3冊。

西川直子・著『クリステヴァ~ポリロゴス』

(講談社、1999年)

飯田隆・著『ウィトゲンシュタイン~言語の限界』

(講談社、1997年)

W.イェンゼン/S.フロイト・著『グラディーヴァ/妄想と夢』

(種村季弘・訳、作品社、1996年)


いちばん上の本が読みたかった本。あとの2冊もたまたま近くの棚にあったんで、借りました。

いちばん上の本はなかなか手にはいりません。この前も神田神保町の三省堂でさがしたけれど、ありませんでした。orz
  松岡正剛氏によると、

クリステヴァ評伝にあたるものとしては西川直子の『クリステヴァ』(講談社)がいい。男によるクリステヴァ論は、ぼくを含めてあまり信用しないほうがいい。

    ▼ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力』
    ▽松岡正剛の千夜千冊

のだそうです。w

2番目の本は、下記のサイトによると、

バランスが取れていて、最初に読む入門書として良いでしょう。講談社から出ているシリーズものの一つで、手に入りやすいはずです。

    ▼ウィトゲンシュタインに関する参考書籍
    ▽ミックのページ

とのこと。

最後の本は、レリーフに描かれた“あゆみ”ちゃんに会いに、ポンペイまで行ってしまうキ○ガイ考古学者の話です。オイラみたいだ!w “あゆみ”ちゃんは、たぶん漢字で書くと、“歩”ちゃんではなく、“歩美”ちゃんでしょう。(爆)



ここまでは、今日借りた本ですが、つぎの本は10月~11月はじめに買ってしまったものです。

黒崎宏・著『「語り得ぬもの」に向かって~ウィトゲンシュタイン的アプローチ』

(勁草書房、1991年)

ジュリア・クリステヴァ・著『恐怖の権力~〈アブジェクシオン〉試論』

(枝川昌雄・訳、法政大学出版局、1984年)

谷徹・著『これが現象学だ』

(講談社現代新書、2002年)


いちばん上の本は三省堂で買った本。つぎの本は池袋東武の7階で買った本。どーでも(゜∀゜)イイ!けど、東武の7階、つまらん本ばかりになってたよ!(泣) 最後の本はSH(旧・まんだら浩)さんのオススメです。w

    ▼現象学の視野
    ▽美しさの中を歩め--Spirit, Soul & Body
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イリイチ『オルターナティヴズ~制度改革の提唱』

2005年08月05日 00時02分00秒 | 
祝祭への呼びかけ


  私、および私の知る人、知らない人を含めた多くの人たちは、このようにあなたに呼びかける。

  われわれが結束すれば、人類一人残らずに、生きる喜びを味わうのに必要な食料、衣料、雨露をしのぐ場を提供できる力をもつことを祝おう。

  人類のもつ力を使って、われわれ一人一人の人間性、尊厳、喜びを生み出すために、何をなすべきかを、われわれとともに見つけよう。

  真の感情を表現するあなた個人の能力を、責任をもって自覚し、そうした感情の表現を通じでわれわれの結集をはかろう。

  われわれにできることは、これらの変化を実際に生きることである。われわれは人間性に到達する道を頭で考え出すことなど、できはしない。われわれの一人一人が、またわれわれがともに生き、働いているグループのすべてが、われわれとして作り出したいと願う新しい時代のモデルとならなければならない。そして、生まれてくるであろう多くのモデルは、われわれの一人一人に、その中でならわれわれが自分の潜在的にもつ力を祝うことができるような―またもっと人間的な世界へ至る道を発見できるような―環境を提供するものでなければならない。
  われわれは、この世界を過度に恵まれたものと恵まれないものとに分割している、時代遅れの社会的、経済的システムを打破するよう挑戦を受けている。われわれのすべてが、政治指導者であるか抗議活動家であるかを問わず、実業家であるか労働者であるかを問わず、また教授であるか学生であるかを問わず、共通の罪悪を分かち持っている。われわれは、どうすればわれわれの理想、われわれの社会構造に、必要な変化を起こしうるかを見出すことに失敗した。したがって、われわれの一人一人が、自らの非効率性と責任ある自覚の欠如を通して、全世界にわたる苦しみを引き起こす原因となっている。
  われわれのすべてが、あるものは肉体的に、あるものは精神的に、またあるものは情緒的に欠陥をもっている。したがってわれわれは、協調して新しい世界を作るよう努めねばならない。破壊、憎悪、怒りのために残された時間などない。われわれは希望と喜びと祝祭の気持をもって建設に当たらねばならない。新しい豊富の時代を、自ら選んだワークと、自らの心の鼓動に従う自由とをもって迎えようではないか。いったん衣食住の必要が満たされた場合、自己完成を求め、あるいは詩や演劇に没入することも、人間にとって基本的なことであり、われわれは、われわれ自身の形成に貢献すると同時に、社会にとっても意味のあるいろいろな活動分野を選べるのだということを認めようではないか。
  しかしわれわれはまた、われわれの自己完成へのはずみが、古めかしい、産業化時代の構造によってひどく妨げられていることをも認めざるを得ない。現在のわれわれは、人間のもつ力の絶えざる増大のインパクトによって束縛され、駆りたてられている。現在の諸システムは、われわれが技術的に可能などんな兵器体系をも発展させ、受け入れるよう強制する。また生産を増大し、コストを引き下げるような機械、施設、資材、供給面でのどのような改良をも発展させ、受け入れるよう強制する。さらには広告や消費者誘惑術を発展させ、受け入れるよう強制する。
  市民は自分の運命を自分で管理しているのだとか、いろいろな決定を形成する基盤は道義性であるとか、テクノロジーは人を駆りたてる力ではなく、人の召使いであるとかいったことを市民に納得させるには、いまや情報を歪めることが必要である。大衆に充分な情報を与えるという理想は、強制された行動こそ、現実には望ましい行動なのだと大衆を説得する努力に席を譲った。
  これらのますます複雑化する理由づけに際しての誤算や、それに伴うスキャンダルの結果、民間、公職を問わず政策決定者の誠実さに対する不安がますます増大しつつある。したがって、国家指導者、行政官、経営者、会社役員、労組幹部、教授、学生、両親といった役割を果たす人たちへの攻撃は、いかにも魅惑的に思える。しかしこうした個人に対する攻撃は、しばしばわれわれの直面する危機の真の性質をぼかしがちだ。それは何かといえば、人間が自分自身の破壊を激化させることに同意するよう強制する現在の諸システムの悪魔的性質である。
  われわれはこれらの非人間化するシステムから逃れることができる。前進への道筋を見出すのは、一見したところあらゆる決定権を握っているかに見えるこの産業化時代の力や構造に反発し、その強制を受け入れようとしない人たちであろう。われわれの自由と力は、われわれが未来への責任を引き受ける意志があるかどうかによって決まってくる。
  事実、未来はすでに現在のなかにふみこんできている。われわれはすべて、いろいろな時制の中に生きている。ある人の現在は、別の人の過去であり、もう一人の人の未来である。われわれは、未来が存在すること、そしてわれわれの一人一人が、もしその意志さえあれば、未来を呼びこんで過去のバランスを立て直すことができるのだということを知り、かつそのことを外部にも示しつつ生きるよう要請されているのである。
  将来われわれは強制力や権威―階層序列的位置の基盤に立って、行動を要求できる力―の使用に終止符を打たなければなるまい。もしこの新しい時代の性質を一句で要約するとすれば、それは特権と専横の終焉ということになるだろう。
  われわれは、われわれの抱える問題をパワー・バランスの移動によって、あるいはもっと効率的な官僚主義的機関を創設する努力によって、解決しようとするような企ては捨てねばならない。
  われわれはあなたに、人間の成熟をめざすレースに参加するよう、未来を作り出すためにわれわれとともに働くよう呼びかける。われわれは、人間の冒険はまさに始まりつつあるところだと信じている。人類はこれまで、労苦に忙殺されていたため、自らの持つ革新的、創造的な力の形成を阻害されていたのだ、と。いまやわれわれは、望むだけ人間的になる自由をもつ。
  他の人たちとの関係の心なごませる表現において、また自分自身の性質や必要をもっとしっかり認める面において、みんなが力を合わせてゆくことを通してのわれわれの人間性の視察は、明らかに現存するさまざまな価値、システムとの大がかりな対決を引き起こすことになろう。人それぞれの、また人と人との関係それぞれの尊厳性の増大は、当然現存する諸システムへの挑戦とならざるを得ない。
  この呼びかけは、未来を生きようという呼びかけである。心楽しく力を合わせつつ、今日のわれわれの生活を、明日の未来の原型になしうる力があるのだという自覚を、ともに祝おうではないか。
イバン・イリイチ著『オルターナティブズ~制度改革の提唱』
(尾崎浩・訳、新評論、1985年)より
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伊藤理佐『おいピータン!!』~これが「黒柳徹子の“うなぎのぼり”」だ!~

2005年07月18日 22時41分43秒 | 
これが「浜崎あゆみ『徹子の部屋』に登場」で紹介した「黒柳徹子の“うなぎのぼり”」が掲載されている伊藤理佐『おいピータン!!』5(講談社、2003年)です。





「浜崎あゆみ『徹子の部屋』に登場」
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フアン・ルルフォ『燃える平原』『ペドロ・パラモ』

2005年06月10日 19時20分00秒 | 
20世紀後半、世界の文学がダメポになるなか、ラテンアメリカ文学は独自の光を放っていた。ノーベル賞をもらったパブロ・ネルーダとガルシア・マルケス以外にも、プイグ、バルガス・リョサ、ドノソなど、多くの作家が活躍している(た)。
 その中でもオイラのオススメは、ファン・ルルフォ(1918-86)である。メキシコのハリスコ州に生まれたルルフォは、クリステーロ反乱(1926-29)で家族が全滅し、孤児院で暮らし、成人してからはサラリーマンとして暮らした。彼が残した作品はつぎの2つだけである。

フアン・ルルフォ著『燃える平原』

(杉山晃・訳、書肆 風の薔薇、1990年)

フアン・ルルフォ著『ペドロ・パラモ』

(杉山晃、増田義郎・訳、岩波文庫、1992年)


 しかし、この2つだけで、ガルシア・マルケスとならび称されるラテンアメリカ文学の代表者となった。しかし、その後もサラリーマンとして平凡に暮らした。他にも作品は書いていたのだが、ほとんど捨ててしまったのだ。

 『燃える平原』はつぎの17編の短編からなる。
おれたちのもらった土地/コマドレス坂/おれたちは貧しいんだ/追われる男/明け方に/タルパ/マカリオ/燃える平原/殺さねえでくれ/ルビーナ/置いてきぼりにされた夜/北の渡し/覚えてねえか/犬の声は聞こえんか/大地震の日/マティルデ・アルカンヘルの息子/アナクレト・モローネス

 「おれたちのもらった土地」は、4人の男が喉を渇かせ、疲れ切って、乾ききった土地を歩いている。革命政府の農地改革で土地をもらったが、とても作物なんて育てられないような乾燥した土地だった。「おれたちは貧しいんだ」は、娘2人が男に体を任せるアバズレになってしまった男が、末娘だけはまっとうな結婚をさせたいと、持参金がわりに牛を買ったが、その牛が洪水で流されてしまう。

 『ペドロ・パラモ』は、70の断片からなり、1つの断片がつぎの断片に続いているときもあるし、まったく別の断片に飛んでしまうこともある。
 フアン・プレシアドが母の遺言で父親のペドロ・パラモに会いにコマラの街に行くところからはじまる。コマラの街は死者だけが住み、しかし、死者たちは生前と同じように暮らしている。フアン・プレシアドは、その街で死に、墓に埋められる。しかし、すでに埋葬されていたドロテアと会話を続けるのだ。
 ペドロ・パラモは、父親を殺され、財産を失いそうになる。しかし、悪知恵で窮地をしのぎ、邪魔な奴を殺して、のしあがっていく。女もとっかえひっかえで多くの子どもをつくる。コマラの街は、ペドロの支配の下、破滅への道を歩んでゆく。
 ペドロが生涯にわたって愛し続けたスサナ・サン・フアンは、夫の死によって、父親のもとに戻ってくる。しかし、スサナはこの父親と近親相姦の関係にある。ペドロが父親を殺し、スサナを手に入れたとき、スサナはすでに狂人となっていた。スサナが死んだとき、弔いの鐘を祝祭のはじまりの合図と思った街の人々によって、祝祭がはじめられる。ペドロは街を破滅させることを誓う。
 メキシコ革命(1910-20)の混乱のなか、ペドロは泥酔した息子のひとりアブンディオによって殺される。そして、つづいて起きたクリステーロ反乱(1926-29)によって、街の人々は死に絶え、コマラは幽霊だけが住む街になっていく。
 この話には「救い」がない。あるのは「絶望」だけだ。しかし、ときおり挿入される断片、それはペドロのモノローグなのだが、そこでは幼いペドロとスサナとの思い出が語られる。
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岩明均『奇生獣』~この物語には、恐怖と、怒りと、愛がある―。

2005年06月08日 19時26分00秒 | 
「この物語には、恐怖と、怒りと、愛がある―。」岩明均『奇生獣』(講談社、全10巻、1990-94年)はそんなマンガである。

 社会学者の大澤真幸は、現代社会においての異質な他者との共存を考えるうえで、このマンガは大きなヒントを与えてくれると、つぎのように評している。
 この点で、われわれに創造的なイメージを提供してくれるのが、岩明均のマンガ『寄生獣』である。これは、あるとき突然地球上に現れた寄生獣をめぐる物語である。寄生獣は人間の身体に侵入し、首から上を食べてしまい、身体の他の部分を残したまま首を、したがって中枢神経を占拠してしまう(寄生獣自身が、非常に高い知能をもっている)。この寄生獣は、異常な可塑性を備えており、ほとんど自由自在に姿や硬度を変えることができ、ときには鋭利な刃物と化す。が、通常の状態においては、寄生獣は元の人間の顔を完全に復元して、そのまま首を占拠しているため、外見からは元の人間と区別がつけられない。問題は、寄生獣が人間を食って生きている、ということである。したがって、寄生獣とは、想像しうる最も危険な他者の象徴である。このマンガの主人公シンイチも、寄生獣に寄生されている。が、彼だけは、ある偶然から、寄生獣は右手に寄生している[右手に寄生したから“ミギー”]。したがって、一つの身体の上に、二つの中枢神経(人格)が共存しているのである。
 物語の序盤は、この寄生獣と人間との対決が主題となる。たとえば、寄生獣がそこかしこにいることに気がついた人間たちは、策を労して寄生獣を駆除しようとする。だがやがてシンイチの心境は徐々に変化して、最後には、寄生獣と共存することを選択する(そのとき寄生獣は主人公の身体に完全に溶け込んでしまう)。マンガは、シンイチのこの心の成長過程を説得的に描きだす。またマンガは、そもそも、由来の知れないこの寄生獣たちが、実は、人間の社会が自ら産みだした他者性であることをも示唆している。われわれに求められているのは、このマンガが示唆するような極限の寛容である。たとえば、シンイチは、最愛の母を奇生獣に食われているのである。それでもなお、彼は、共存を選んだのだ。
大澤真幸・著『虚構の時代の果て~オウムと世界最終戦争』
(ちくま新書、1996年)


 つぎの話もそのひとつだ。シンイチの高校に赴任してきた教師・田宮良子も奇生獣だった。しかし、彼女は、ほかの奇生獣よりもはるかに探究心をもった存在だった。彼女は他の奇生獣との間に「子ども」(奇生獣が寄生した人間同士の子ども=人間)をつくる。しかし、そのことが学校に知られ、教師をやめさせられる。さらに、そのことを知ってやってきた母親に正体を知られてしまう。彼女は、母親を殺し、シンイチの前から姿を消す。
 シンイチの両親は旅行先で、奇生獣に襲われ、父親は重傷を負い、母親は殺され、寄生獣に体を乗っ取られてしまう。シンイチの前に現れた母親(奇生獣)をシンイチは殺すことができず、シンイチは致命傷を受けてしまう。ミギーは、シンイチとシンイチに寄生している自分を助けるため、シンイチの体のなかに入り、傷を治す。しかし、そのとき、ミギーの細胞がシンイチの体の中に散ってしまう。シンイチは、常人を超える力を得るが、かわりに涙を失ってしまう。
 シンイチの恋人・里美は、そんなシンイチに違和感を感じる。隣の高校に通う「不良」の加奈は、シンイチにしだいに惹かれていく。彼女は、シンイチ(というよりシンイチに寄生する奇生獣)を感じる能力があった。加奈は、シンイチだと思って寄生獣に遭遇し、致命傷を負ってシンイチの腕のなかで息をひきとる。
 シンイチの隣街の市長・広川は、人間であるにもかかわらず、奇生獣たちを集め、奇生獣と人間との共存を企んでいた。そして、その奇生獣の中に、田村玲子と名を変えた田宮良子がいた。田村玲子は、探偵・森倉をつかい、シンイチの情勢を探らせるが、森倉はシンイチの正体を知ってしまう。シンイチは森倉を捕らえ、森倉を雇っている田村こそ、奇生獣であり、この件に首を突っ込むと、命がないことを告げる。
 しかし、森倉は田村たちを調べはじめる。その結果、逆に家族を寄生獣に殺されてしまう。玲子は、仲間の奇生獣から人間に敵対的でない危険な分子とみなされて襲われるが、逆に仲間を殺してしまう。復讐のため、森倉は玲子の子どもを誘拐し、公園に玲子を呼び出す。玲子は、森倉を殺し、子どもを取り戻すが、森倉を探す警官隊に包囲され、銃撃される。彼女は、逃げれば逃げられたのに、子どもを守って銃撃を受けつづける。そこにシンイチが現れる。



















コメント

クリステヴァはやっぱりむずかしいなぁ。(涙)

2005年06月02日 21時45分00秒 | 
まだ、この本がよくわからないので…

ジュリア・クリステヴァ・著
『詩的言語の革命~第1部 理論的前提』

(原田邦夫・訳、勁草書房、1991年)


これらの本を読んでいます。

立川健二、山田広昭・著『現代言語論~ソシュール、フロイト、ウィトゲンシュタイン』

(新曜社、1990年)

土居健郎・著『精神分析』

(講談社学術文庫、1988年)

小平修平、竹田青嗣、他・著『わかりたいあなたのための 現代思想・入門』

(宝島社、1990年)


『現代言語論』は、簡単ではありますが、クリステヴァについての解説があります。『精神分析』は、有名な『「甘え」の構造』の著者によるフロイト解説です。さいごの『現代思想・入門』は、フッサールの現象学について調べるためです。
コメント

言語学の本を買いました。

2005年05月27日 22時27分28秒 | 
さて、この本を買ってみたのですが…とってもむずかしい。

ジュリア・クリステヴァ・著
『詩的言語の革命~第1部 理論的前提』

(原田邦夫・訳、勁草書房、1991年)


現象学と言語学の学術語がわからんのです。そこで…

風間喜代三、上野善道、松村一登、町田健・著『言語学 [第2版]』

(東京大学出版会、2004年)


こいつを買いました。現象学のほうはいい本が見つからなかった。とりあえず、言語学の勉強です。(涙)

 考えてみたら、大学院時代に哲学や言語学をやっていた友だちが何人かいました。彼らからもっといろいろ聴いておけば…と嘆いています。
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親切な贈りもの

2005年04月28日 21時05分00秒 | 
本日、妹に書籍小包が届きました。中を開けてみると、つぎのような手紙が…。

拝啓
 いかがお過ごしでしょうか。突然のお手紙で、大変失礼致します。私は都立××高等学校同窓生の○○○○○と申します。私は都立××高等学校卒業後、現在、△△県で高等学校の教員(国語)をさせて頂きながら、皆様に何かのお役に立てて頂ければと思い、全く個人的にではございますが、献本をさせて頂いております。私が仕事の関係等で頻繁に本を買っています、お茶の水三省堂本店(日本最大の書店の一つです。)で、特に人気の出た本をいつも選んで、母校への小さな恩返しのつもりでプレゼントさせて頂いております。
 この本は、三省堂本店で非常に売れたのですが、他の多くの日本最大級の書店(旭屋書店本店、池袋店、銀座店、紀伊国屋書店新宿本店、丸善日本橋店、八重洲ブックセンター本店)でも、同じようにとても売れたそうです。
 また、東映がこの本を映画化し、全国で大ヒットしてロングランになりました。私も見に行ったのですが、とても面白くて、感動的でした。
 目次をご覧になって、興味をお持ちになった所だけでも、お読み頂き、何かの参考にして頂ければ幸いです。
 また、時々、お心遣いをして下さる方がいらっしゃいますが、どうかお気になさらないで下さい。後になって料金を請求するようなことも絶対にありませんので、ご心配なさらないで下さい。
 それではこれで失礼致します。健康にお過ごしください。心よりお祈り申し上げます。
敬具

 親切な人っているんだなと思いつつ、どんな本なのか見てみました。
































大川隆法



キタ――(゜∀゜)――!!




なんて親切な贈りものなんだろう。


後になって料金を請求するようなことも



絶対にありません


ってホントだよね。親切な人w
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あゆを守れ、ヒッキーをぶっとばせ!~トラパな宮台批判w~

2005年04月24日 17時43分33秒 | 
浜崎あゆみ理解のため、最近、トランスパーソナル心理学(以下、「トラパ」と略)関係の本を読んでます。それでわかったこと。あゆタソをトラパで理解するのはまちがいで、あゆタソ=トラパであったこと。

諸富祥彦・著
『トランスパーソナル心理学入門~人生のメッセージを聴く』

講談社現代新書、1999年

 トラパの理論と実践が紹介されています。理論面は、ケン・ウィルバーなどの紹介で、(神秘体験をしたことのある)オイラにはリアリティがなかったです(この点では、パラトラパ雅=中村雅彦・著『呪いの研究』[トランスビュー、2003年]のほうがおもしろいです)。
 でも、実践面は、著者自身が7年間も自殺寸前に追い込まれるなど苦悩体験があるので、とてもおもしろいです(体験自体はひとつも書いてない)。というか、この部分はあゆタソを理解するための必読書です。トラパの(だけじゃないけど)セラピーがいろいろ紹介されていますが、あゆタソの歌詞そのものです。くわしくは別記事で紹介します。

ケン・ウィルバー・著
『万物の理論~ビジネス・政治・科学からスピリチュアリティまで』

岡野守也・訳、トランスビュー、2002年

 トラパの理論家の著作。ほかに『進化の構造』『万物の歴史』などの著作がある。神田神保町の三省堂では、心理学のところではなく、「ニューエイジ」(=オカルト含む)のところにおいてありました。このあつかいは、トラパの人たちには不本意なのではないかと思われます。

諸富祥彦・編著、トランスパーソナルな仲間たち・著
『〈宮台真司〉をぶっとばせ!~"終わらない日常"批判』

コスモス・ライブラリー、1999年

 トラパの存在を知ったのはこの本です。トラパによる宮台批判の書です。でも、あんまり読んでないです。




 諸富タソの敵=宮台真司タソの本も持ってます。

宮台真司、石原英樹、大塚明子・著
『サブカルチャー神話解体~少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在』

パルコ出版、1993年

 統計をつかって、1960~90年代はじめまでの若者文化を具体的に解いていきます。宮台タソの我田引水的な分析が(゜∀゜)イイ!

宮台真司・著『制服少女たちの選択』

講談社、1994年

 上記の本から理論的な部分を取り出したのが、この本です。ブルセラ学者と揶揄された宮台タソの論理が光ります。あいかわらず、我田引水ですが、けっこうあたっているのが怖い。w

宮台真司・著
『終わりなき日常を生きろ~オウム完全克服マニュアル』

筑摩書房、1995年

 援交女子高生はオウムには逝かないという論理です。ひと言で言うと、マジメに自己実現をめざすのはよくないという「まったり革命」理論です。


 1999年、突然、宮台理論は180゜回転し、マジメに自己実現をめざす自意識系の香具師が援交するという理論になりました。それとともにヒッキー(宇多田ヒカル)をもちあげました。おそらく1年後だったら、宮台タソの仮想的はあゆタソだったでしょう。その後、宇多田ヒカルvs浜崎あゆみという本も出たそうですが、私は読んでないのでなんともいえません。おそらく、諸富vs宮台のような闘い(じっさいには諸富タソの一方的な攻撃なんだけど)になっているんでしょう。w あゆファンの一部にはヒッキーが「まったり」しているのがキライな人もいるんで、けっこう普遍的な争いなのかも。w
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養老先生にもあった「バカの壁」

2005年04月17日 17時07分48秒 | 
390万部も売れている養老孟司さんの『バカの壁』(新潮新書、2003年)ですが、じつはマチガイがあります。



 それは、76ページのソシュール言語学の説明です。

 ソシュールによると「言葉が意味しているもの」(シニフィアン)と、「言葉に意味されるもの」(シニフィエ)、という風にそれぞれが説明されています。この表現はわかったようなかわらないような物言いです。実際、ソシュールは難解だとされています。
 が、これまでの説明の流れでいえば、「意味しているもの」は頭の中のリンゴで、「意味されるもの」は本当に机の上にあるリンゴだと考えればよい。ソシュールも、やはり言葉の二つの側面に注意したのだ、と考えられます。


 「言葉が意味しているもの」(シニフィアン)は、頭の中のリンゴではなく、"Ringo"という音声であり、「言葉に意味されるもの」(シニフィエ)は、本当に机の上にあるリンゴではなく、机の上にあろうとも、頭の中にあろうとも、とにかくリンゴという意味です。
 くわしくはこちらをお読みください。
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甲野善紀さんの古武術~とにかくスゲエ~

2005年04月17日 16時43分28秒 | 
甲野善紀さんの本を2冊買いました。

『古武術で蘇えるカラダ』

宝島社文庫、2004年


『古の武術を知れば動きが変わる、カラダが変わる』

MCプレス、2004年


 あとの方の本にはDVDがついていて、NHK人間講座「古の武術に学ぶ」で放送された甲野さんの技が収録されています。

一本歯の高下駄をはく。


片足でも転ばない。


 一本歯の高下駄は、身体にかかる負荷が各部に散り、腰痛、膝痛のリハビリに有効だそうです。じつは発声にも有効で、妹が友人に試してみたところ、できなかったことができるようになりました。

自分より重い相手を…


持ち上げる。


とにかく、すごいです。
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